いまさらですが、『Samourai』の話。

 四の五の言わずにスカッと泣いて、「格好良かったー」と劇場をあとに出来る、『Samourai』。
 トドロキ様の雪組で育ったわたしは、このテの話への耐性が強く、ツボも心得ております。
 名作だとはまったく思わないが、ヅカファンなら1回観てみて、と言える作品だった。

 でも、やっぱりモニョる(笑)。
 なんでこんなことになってるんだと、谷せんせに膝立ちでにじり寄りたい(笑)。

 構成の悪さは、なんとかならんのか。

 『Samourai』が散漫かつもたっとした印象になっているのは、谷せんせの構成力のなさにあると思う。
 脇目振りすぎ、落ち着きなさ過ぎ。
 「書きたいこと・書くべきこと」がばらばら。あれもこれもと目移りして、結局自爆。
 テーマを絞ろうよ。

 原作は知りません。
 だから、原作がこうだから仕方なかった、てのはよくわからない。あくまでも、わたしが観た、ドラマシティの舞台の上にあるだけのもので、判断。

 この作品で書きたいのはナニ?
 「巴里の侍」でしょ?
 正名@キムが、パリでパリ市民として戦ったことでしょう? その心意気や、武士道精神に萌えていたわけでしょ?
 だったら、何故それを中心に書かない?

 別枠であるオープニングの連獅子、フィナーレナンバー等は除いた、ストーリー部分の話ね。

 プロットを立てるときに、パリでの話をまず真ん中に置く。
 で、大好きな皆殺しをクライマックスに据えて、それがもっとも盛り上がるように、その他のエピソードを配置し、全体を整理する。

 そうするとさ、まず完璧に、息子嫁・光子のタカラジェンヌ話は、存在しないよ?
 加えて、少年剣士だった日本時代もほとんどナシになる。
 これでかなり時間ができるから、その分正名とマリー@みみちゃんの恋バナを入れたり、正名たちが戦争の末にナニを求めていたのか、それで結局パリの侍がどうなったのかを、書くことができたと思うんだ。

 話が散漫になり、肝心の「で、正名はパリで、戦いで、なにがしたかったの? どうなったの?」が、まったく書けてない。すっげー尻切れトンボ。

 『Samourai』のラストシーンは、市民兵たちは皆殺しになり、何故か都合良く生き延びた兵士でもなんでもないマリーと、武闘派筆頭だった正名のふたりきり。
 彼らの戦い……つーか、正名が先頭切って吹っ掛けたケンカはなんの収束もないまま、ふたりが「命ありがとう」と歌って、幕。
 せめて、このあとパリがどうなったのかぐらいは書いてくれないと、正名が元凶になっちゃうよ?
 降伏していたら助かったのに、よそ者の日本人がキレイゴトを並べ立てて、パリ市民を無駄死にさせたってことに……。

 確かに、史実的に華々しい結果にはならず、まとめにくい、オチをつけにくいんだとは思うけどさー。
 だからといって、ぶった切りはないよ……。どこの『愛と死のアラビア』……。

 まず、百害あって一利なしの、前田光子の話をなくす。
 百歩譲って少年剣士時代の話はあってもいいが、最低限、光子@ゆめみさんの話はなくすべきだ。
 正名の「偉業」とやらを、ありがたく演説してくださっているけど、「巴里の侍」である正名には、不要どころか、害悪になっている。

 何故なら、正名がどれだけキレイゴトをパリで熱弁しようと、観客は知っているんだ。「んなこと言ってあーた、パリもマリーも捨てて、日本へ帰るんでしょ? そこで別の女と結婚して出世して、ぬくぬく暮らして天寿を全うするんでしょ?」
 正名に煽動されて、次々死んでいく仲間たち。嘆く正名。
 だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
 命を危険にさらす正名。
 だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
 生き残ったマリーと手を取り、涙ながらに「命ありがとう」を熱唱する正名。
 だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。

 ……谷せんせ。
 史実がどうあれ、舞台上でわざわざ解説しなければ、それは「なかったこと」になるんだよ。だってこれはフィクションであり、エンタメだから。歴史の教科書じゃないから。
 わざわざ「主人公にとって、パリは青春のアルバムの1ページに過ぎず、ホームグラウンドはあくまでも日本だったんだけどね!」と解説打つ必要が、どこにあったんだ?

 冒頭から、「巴里の侍」否定。

 いくら台詞で「巴里の侍だったのです!」(ジャジャーン!!)とやっても、無意味。
 そこで説明しているその人たちが、すでに否定してるんだよ。

 侍の精神はパリ時代限定のものではない、ずっと持続していたから、あの冒頭シーンはあれでいいんだ、というなら、パリ時代のあとも全部津々浦々全部書いて、冒頭につなげなよ。
 つながっていないから、パリ時代がぶった切りで終わるから、「巴里の侍否定」になるんだよ。

 で。
 なんで谷せんせがわざわざ、こんなアタマ悪い「余談」を冒頭に持ってきたか。
 それはただ、前田光子が、タカラジェンヌだったってだけだよね?
 タカラヅカと関連性がある、という、それだけだよね?
 テレビに知っている場所が映るとうれしい「あ、オレあそこ行ったことある!」って心理につながる、他人にとっては「だから?」てなことだけ、だよね?

 プロットが散漫になっている根っこには、このどーしよーもない心理があると思うの。


 続く。

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