「巴里の侍」否定物語・その1。@Samourai
2012年2月29日 タカラヅカ いまさらですが、『Samourai』の話。
四の五の言わずにスカッと泣いて、「格好良かったー」と劇場をあとに出来る、『Samourai』。
トドロキ様の雪組で育ったわたしは、このテの話への耐性が強く、ツボも心得ております。
名作だとはまったく思わないが、ヅカファンなら1回観てみて、と言える作品だった。
でも、やっぱりモニョる(笑)。
なんでこんなことになってるんだと、谷せんせに膝立ちでにじり寄りたい(笑)。
構成の悪さは、なんとかならんのか。
『Samourai』が散漫かつもたっとした印象になっているのは、谷せんせの構成力のなさにあると思う。
脇目振りすぎ、落ち着きなさ過ぎ。
「書きたいこと・書くべきこと」がばらばら。あれもこれもと目移りして、結局自爆。
テーマを絞ろうよ。
原作は知りません。
だから、原作がこうだから仕方なかった、てのはよくわからない。あくまでも、わたしが観た、ドラマシティの舞台の上にあるだけのもので、判断。
この作品で書きたいのはナニ?
「巴里の侍」でしょ?
正名@キムが、パリでパリ市民として戦ったことでしょう? その心意気や、武士道精神に萌えていたわけでしょ?
だったら、何故それを中心に書かない?
別枠であるオープニングの連獅子、フィナーレナンバー等は除いた、ストーリー部分の話ね。
プロットを立てるときに、パリでの話をまず真ん中に置く。
で、大好きな皆殺しをクライマックスに据えて、それがもっとも盛り上がるように、その他のエピソードを配置し、全体を整理する。
そうするとさ、まず完璧に、息子嫁・光子のタカラジェンヌ話は、存在しないよ?
加えて、少年剣士だった日本時代もほとんどナシになる。
これでかなり時間ができるから、その分正名とマリー@みみちゃんの恋バナを入れたり、正名たちが戦争の末にナニを求めていたのか、それで結局パリの侍がどうなったのかを、書くことができたと思うんだ。
話が散漫になり、肝心の「で、正名はパリで、戦いで、なにがしたかったの? どうなったの?」が、まったく書けてない。すっげー尻切れトンボ。
『Samourai』のラストシーンは、市民兵たちは皆殺しになり、何故か都合良く生き延びた兵士でもなんでもないマリーと、武闘派筆頭だった正名のふたりきり。
彼らの戦い……つーか、正名が先頭切って吹っ掛けたケンカはなんの収束もないまま、ふたりが「命ありがとう」と歌って、幕。
せめて、このあとパリがどうなったのかぐらいは書いてくれないと、正名が元凶になっちゃうよ?
降伏していたら助かったのに、よそ者の日本人がキレイゴトを並べ立てて、パリ市民を無駄死にさせたってことに……。
確かに、史実的に華々しい結果にはならず、まとめにくい、オチをつけにくいんだとは思うけどさー。
だからといって、ぶった切りはないよ……。どこの『愛と死のアラビア』……。
まず、百害あって一利なしの、前田光子の話をなくす。
百歩譲って少年剣士時代の話はあってもいいが、最低限、光子@ゆめみさんの話はなくすべきだ。
正名の「偉業」とやらを、ありがたく演説してくださっているけど、「巴里の侍」である正名には、不要どころか、害悪になっている。
何故なら、正名がどれだけキレイゴトをパリで熱弁しようと、観客は知っているんだ。「んなこと言ってあーた、パリもマリーも捨てて、日本へ帰るんでしょ? そこで別の女と結婚して出世して、ぬくぬく暮らして天寿を全うするんでしょ?」
正名に煽動されて、次々死んでいく仲間たち。嘆く正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
命を危険にさらす正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
生き残ったマリーと手を取り、涙ながらに「命ありがとう」を熱唱する正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
……谷せんせ。
史実がどうあれ、舞台上でわざわざ解説しなければ、それは「なかったこと」になるんだよ。だってこれはフィクションであり、エンタメだから。歴史の教科書じゃないから。
わざわざ「主人公にとって、パリは青春のアルバムの1ページに過ぎず、ホームグラウンドはあくまでも日本だったんだけどね!」と解説打つ必要が、どこにあったんだ?
冒頭から、「巴里の侍」否定。
いくら台詞で「巴里の侍だったのです!」(ジャジャーン!!)とやっても、無意味。
そこで説明しているその人たちが、すでに否定してるんだよ。
侍の精神はパリ時代限定のものではない、ずっと持続していたから、あの冒頭シーンはあれでいいんだ、というなら、パリ時代のあとも全部津々浦々全部書いて、冒頭につなげなよ。
つながっていないから、パリ時代がぶった切りで終わるから、「巴里の侍否定」になるんだよ。
で。
なんで谷せんせがわざわざ、こんなアタマ悪い「余談」を冒頭に持ってきたか。
それはただ、前田光子が、タカラジェンヌだったってだけだよね?
タカラヅカと関連性がある、という、それだけだよね?
テレビに知っている場所が映るとうれしい「あ、オレあそこ行ったことある!」って心理につながる、他人にとっては「だから?」てなことだけ、だよね?
プロットが散漫になっている根っこには、このどーしよーもない心理があると思うの。
続く。
四の五の言わずにスカッと泣いて、「格好良かったー」と劇場をあとに出来る、『Samourai』。
トドロキ様の雪組で育ったわたしは、このテの話への耐性が強く、ツボも心得ております。
名作だとはまったく思わないが、ヅカファンなら1回観てみて、と言える作品だった。
でも、やっぱりモニョる(笑)。
なんでこんなことになってるんだと、谷せんせに膝立ちでにじり寄りたい(笑)。
構成の悪さは、なんとかならんのか。
『Samourai』が散漫かつもたっとした印象になっているのは、谷せんせの構成力のなさにあると思う。
脇目振りすぎ、落ち着きなさ過ぎ。
「書きたいこと・書くべきこと」がばらばら。あれもこれもと目移りして、結局自爆。
テーマを絞ろうよ。
原作は知りません。
だから、原作がこうだから仕方なかった、てのはよくわからない。あくまでも、わたしが観た、ドラマシティの舞台の上にあるだけのもので、判断。
この作品で書きたいのはナニ?
「巴里の侍」でしょ?
正名@キムが、パリでパリ市民として戦ったことでしょう? その心意気や、武士道精神に萌えていたわけでしょ?
だったら、何故それを中心に書かない?
別枠であるオープニングの連獅子、フィナーレナンバー等は除いた、ストーリー部分の話ね。
プロットを立てるときに、パリでの話をまず真ん中に置く。
で、大好きな皆殺しをクライマックスに据えて、それがもっとも盛り上がるように、その他のエピソードを配置し、全体を整理する。
そうするとさ、まず完璧に、息子嫁・光子のタカラジェンヌ話は、存在しないよ?
加えて、少年剣士だった日本時代もほとんどナシになる。
これでかなり時間ができるから、その分正名とマリー@みみちゃんの恋バナを入れたり、正名たちが戦争の末にナニを求めていたのか、それで結局パリの侍がどうなったのかを、書くことができたと思うんだ。
話が散漫になり、肝心の「で、正名はパリで、戦いで、なにがしたかったの? どうなったの?」が、まったく書けてない。すっげー尻切れトンボ。
『Samourai』のラストシーンは、市民兵たちは皆殺しになり、何故か都合良く生き延びた兵士でもなんでもないマリーと、武闘派筆頭だった正名のふたりきり。
彼らの戦い……つーか、正名が先頭切って吹っ掛けたケンカはなんの収束もないまま、ふたりが「命ありがとう」と歌って、幕。
せめて、このあとパリがどうなったのかぐらいは書いてくれないと、正名が元凶になっちゃうよ?
降伏していたら助かったのに、よそ者の日本人がキレイゴトを並べ立てて、パリ市民を無駄死にさせたってことに……。
確かに、史実的に華々しい結果にはならず、まとめにくい、オチをつけにくいんだとは思うけどさー。
だからといって、ぶった切りはないよ……。どこの『愛と死のアラビア』……。
まず、百害あって一利なしの、前田光子の話をなくす。
百歩譲って少年剣士時代の話はあってもいいが、最低限、光子@ゆめみさんの話はなくすべきだ。
正名の「偉業」とやらを、ありがたく演説してくださっているけど、「巴里の侍」である正名には、不要どころか、害悪になっている。
何故なら、正名がどれだけキレイゴトをパリで熱弁しようと、観客は知っているんだ。「んなこと言ってあーた、パリもマリーも捨てて、日本へ帰るんでしょ? そこで別の女と結婚して出世して、ぬくぬく暮らして天寿を全うするんでしょ?」
正名に煽動されて、次々死んでいく仲間たち。嘆く正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
命を危険にさらす正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
生き残ったマリーと手を取り、涙ながらに「命ありがとう」を熱唱する正名。
だけど、「正名は死なないんだよね。だってこのあとパリもマリーも捨てて(以下略)」。
……谷せんせ。
史実がどうあれ、舞台上でわざわざ解説しなければ、それは「なかったこと」になるんだよ。だってこれはフィクションであり、エンタメだから。歴史の教科書じゃないから。
わざわざ「主人公にとって、パリは青春のアルバムの1ページに過ぎず、ホームグラウンドはあくまでも日本だったんだけどね!」と解説打つ必要が、どこにあったんだ?
冒頭から、「巴里の侍」否定。
いくら台詞で「巴里の侍だったのです!」(ジャジャーン!!)とやっても、無意味。
そこで説明しているその人たちが、すでに否定してるんだよ。
侍の精神はパリ時代限定のものではない、ずっと持続していたから、あの冒頭シーンはあれでいいんだ、というなら、パリ時代のあとも全部津々浦々全部書いて、冒頭につなげなよ。
つながっていないから、パリ時代がぶった切りで終わるから、「巴里の侍否定」になるんだよ。
で。
なんで谷せんせがわざわざ、こんなアタマ悪い「余談」を冒頭に持ってきたか。
それはただ、前田光子が、タカラジェンヌだったってだけだよね?
タカラヅカと関連性がある、という、それだけだよね?
テレビに知っている場所が映るとうれしい「あ、オレあそこ行ったことある!」って心理につながる、他人にとっては「だから?」てなことだけ、だよね?
プロットが散漫になっている根っこには、このどーしよーもない心理があると思うの。
続く。