単なる思い込み、わたしが勝手にそう思っている、というだけの話です。

 キムシン作品について。

 キムシン作品に一貫している「名もなき民衆」への怒りと疑問。
 「個」であることを放棄し、「群」として暴走する人々。

 最近のキムシン作品は、この「名もなき民衆」よりも、さらに一歩踏み込んだところに関心が移っている気がする。

 匿名の人々が無責任なのも愚かなのも当然のこと、もう責めても仕方ないよ、ってキモチになったのかは知らない。
 そーゆー気楽な人々ではなく、きちんとした「個」を持つ人について描くことに興味が大きくなっている、気がする。
 根っこにあるのは同じだと思うけれど。

 キムシン作品を紐解く上でのキーワード、キムシンがもっとも「許せない罪」だと思っているのはナニか。
 裏切りでも殺人でも自殺でもない。

 わたしは「見殺し」だと思っている。

 彼の作品で、もっとも醜く愚かなものとされる「名もなき民衆」が、毎回必ず行うこと。
 彼らは「名前」のある者を安全な「みんな」の中に隠れて攻撃する。私は悪くない、だってみんながやっているんだもの。
 彼らは自ら手を下さない。そんな「悪いこと」はしない。やっているのは「みんな」で、実行犯という「個人」はいない。
 誰も手を下さず、手を汚さず、名前のある「個人」が苦しみ、破滅していくのを眺めている。
 見殺しにする。

 見殺しは、法律で裁けない。
 助けられた「かも」しれないというだけで、それをしなかった人を罪に問えない。
 だから安心して、見殺しにする。
 法で裁けないのだから、罪ではない。
 安全、安心。
 破滅していく個人を眺めていてよし。愉しんでもいいし、同情する自分に酔うのもいい。
 好きにすればいい、責任を取らなくていいのだから、自由なスタンスで見殺しにすればいい。

 近年のキムシン作品は、この「名もなき民衆」の罪に言及しなくなったなあ、と。
 彼らにはもう、とりたててナニも言う気はなくなったのか。
 そこから進んで、「個人」の話になっている。

 見殺しは法で裁けない、ではナニによって裁かれるのか。
 っていったらそりゃ、己れ自身、ですよ。
 良心とか矜持とか。その人個人が持つモノですよ。
 「みんな」から手を離し、「個人」に関心が移ったなあ、と。

 「みんな」は勝手にズルしてればいいんですよ。
 みんながそうだからって、「自分」がどうするかは、自分で決める。
 みんながズルするからって、「ずるい!」とは叫ばなくなった。そんなことしたって、「みんな」は変わらないもの。
 それよりも、自分がどうするかを考えよう。

 聖人にも神様にもなれない自分は、せめて、見殺しだけはしない。

 「みんな」のせいにしない。
 自分で考え、自分でする。自分のしたことの、責任を負う。それが「名前がある」ということ。
 「名もなき民衆」ではなく、「主人公」ということ。

 『誰がために鐘は鳴る』を観たときに、着目した。
 この作品の主人公は「見殺し」をする男だった。
 傷ついた友を見捨て、自分だけ生き延びた。
 それが必要なことだった、戦場では当然のことだった。
 ここまでなら、彼は「名もなき民衆」だ。戦士として仕方なかった、戦争だから仕方なかった、で逃げることが出来る。
 でも彼は「主人公」だ。名前のある男だ。
 彼は、自分が仲間を見殺しにしたことを受け止め、責任を負っている。
 だから、同じ局面になったときに、今度は彼が「見殺しにされる立場」になる。自分がしたのと同じシチュエーションで死ぬことになる。自らの、意志で。
 彼は仲間を見殺しにしたのではない。自ら、手を下したんだ。手を汚したんだ。そしてそれは、自分もまた同じように殺されることを納得して、覚悟して、すべてを背負った上でのことだった。

 キーワードは「見殺し」。
 再演作だからキムシンの意志がどこまで反映されているか知らないけど、わたしは観ていてとても納得した。
 この作品を、よりによってキムシンが演出していること。

 責任を取ること。
 それが「名もなき民衆」にならない方法。
 「名もなき民衆」に絶望し、責めたてていた者が示せる方法。お前らとは違うんだ、と。


 そして今回。
 『ドン・カルロス』

 初日を観劇し、わたしが勝手にキーワードだと思っている言葉、「見殺し」を、フェリペ二世@まっつが口にしたときに、胸が騒いだ。
 フェリペ二世の描き方に偏りを感じていた。『ドン・カルロス』という物語なら、こうまでフェリペ二世をクローズアップせず、他のところを書き込んでもいいんじゃないかと思って見ていた。
 そこへ、キーワード。

 で、帰宅してからプロクラムを読むと、キムシンがえらくフェリペ二世について語っている。彼との出会い(笑)ゆえに、この物語がスタートした、みたいな。
 それでさらに、納得した。
 そういうことなのかと。

 キムシン的キーワードを担うのが、フェリペ二世なんだ。

 そしてフェリペ二世は、「名もなき民衆」ではない。彼は「名前」がある。
 彼は見殺しにはしない。
 堂々と、自分の過ちを認める。

 「これは取り返しのつく恥だ」……認め、改める。受け止めることで、前へ進む意志を示す。
 だから彼は「名前」があり、「主人公」のひとりたり得るんだ。

 ……しかし。
 ほんとのところ、この作品はフェリペ二世にキーワードを託すべきではなかったと思うんだ。
 タカラヅカには番手制度があるから、そうやってフェリペ二世に思い入れがあり、きちんと描きたいと思うなら、フェリペ二世を2番手にやらせて欲しい。
 そしてもっと突っ込んで、キーワード関連を描いて欲しかった。
 いや、まっつのフェリペ二世好きだから、彼で観られてうれしいんだけど。


 キーワードを担うのは、ポーザ侯爵@ちぎであるべきなんだよー。

 物語全編の「主人公」カルロス@キムは、最初から最後まで「名前」を背負い、責任を負って生きる人間だ。それゆえに彼は孤独である。王子としての責任をわきまえているから、たったひとつの愛すら口に出来ない。
 「みんな」で「ネーデルラント救済」に酔う友人たちを諫め、「個人で行動する」=責任を負う、ことを主張し、実際にそうするように。
 カルロスは最初から、ブレなく「主人公」だ。

 ポーザ侯爵は、そんなカルロスの対として描かれる。
 仲間を煽ったり、手っ取り早く権力のあるカルロスを利用しようとする。
 だがカルロスに拒絶されてはじめて、「自分で立ち上がるしかない」と覚悟を決める。自分が汚れることを、受け入れる。
 異端審問で最後までだんまりを決め込めば、彼は「名もなき民衆」だった。
 しかし彼は最後の最後で立ち上がっている。カルロスを見殺しにはせず、責任を負うつもりだったのだろう。

 カルロスとポーザ侯爵を、もっと深く突き詰めて欲しかった。
 ここにこそ、キムシンのキーワードが生きると思うから。

 キムシンがフェリペ二世を好き過ぎるのが、いかんかったんやろうなあ(笑)。なにしろ彼(16世紀の人)と「会った」みたいだからなあ(笑)。


 なんにせよ、キムシンの書く物語が好きです。

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