組替え発表の動揺おさまらないまま、夜行バスに乗って東京へ。
 目指すは花組新人公演『落陽のパレルモ』、目当ては扇めぐむ。

 はい。
 やっぱわたし、すでに星担ではなかったのでしょう。
 はじめて、星組新公あきらめました。

 ずっと観てたのにな。星組下級生にだって、愛着ありまくるんだけど。てゆーかぶっちゃけあかしの役付が良かったら、星新公を取っていた。
 ウメがオスカルとか。紅ゆずるがどーんと役ついてるとか。最近気になって仕方ない一輝慎くんとあかしが、アンドレとかフェルゼンとか、ベルナールでもジェローデルでもいいや、とにかく専科系以外の役がついているとか。
 もしくは、れおん以外が主役なら、星新公を取っていた。

 代わり映えのしない配役で、しかも演目が『ベルばら』の星新公と、ニコラ@扇めぐむを天秤に掛けて、めぐむを取ってしまいましたよ……うおー、花新公でなくめぐむ個人なのか。

 
 そもそもは、花組ムラ公演の千秋楽。
 『落陽のパレルモ』のオープニングで、かっこよく軍服で踊るらんとむ氏を見ながら「めぐむぢゃない!」ことにショックを受けた。
 や、わかってる。
 わかってるんだ。
 これは本公演で、ニコラはとむの役だ。
 そして、らんとむ氏は文句なしでかっこいい。アツくてハートフルで昭和的でいなせでめっちゃ男前だ。

 それを理解していて、なお。

 わたしは無意識に、めぐむを求めていた。

 めぐむのニコラが好きなの……。
 ニコラに会いたいのー。

 もちろん、わたしの隣で「東宝行こうよー、行こうよー、めぐむめぐむめぐむ〜〜」と呪いのように繰り替えし続け、洗脳したnanakoさんの影響もあったと思うが(笑)。

 
 めぐむのニコラが何故好きか。

 そりゃあもともと、ニコラはかっこいー役だ。
 軍服もあるし、派手な戦闘シーンはあるし、主人公の旧友だし、かわいい妹といちゃつくシーンはあるし、お姫様とヒューマンなふれあいのあるシーンはあるし、最期はドラマティックに悲劇だし。
 こんなかっこいい役なんだから、誰がやったってある程度はかっこよくなるだろう。らんとむという偉大なお手本があるわけだし。

 めぐむはその恵まれた体格で、なんとも豪快な男ぶりを示している。あたしゃ『La Esperanza』新公も観てるんだけどな、あのときのぴっちぴちの18歳役@めぐむはそりゃーひどい出来だった、あれから格段の進歩だよなあ。
 めぐむの持っているアツくるしいキャラクタと、ニコラの熱血漢ぶりがうまく噛み合っているの。
 あーもー、かっこいー。

 いやその。
 外見の男臭さによるかっこよさだけじゃなくてね。

 わたしがめぐむニコラを好きないちばんの理由は、その「余裕のなさ」にあると思う。

 たとえば、らんとむニコラは、「人質を絶対に殺せない」と思うの。
 無力に泣きじゃくるマチルダ@彩音を前にして、らんとむニコラはなんとも悲しい顔をする。か弱い少女を誘拐して、怖がらせて傷つけているのだという現実に苦しんでいる。こんなことは、彼の本意じゃない。それでも、こうすることしかできない自分を責めている。
 ……いいヤツだ、ニコラ。大好きだぞ。マチルダとニコラの間に恋愛めいた感情が芽生えるのもわかる。だってめちゃくちゃいい男なんだもの、ニコラ。
 兵士に取り囲まれ、ニコラたちはマチルダを盾にするけれど。
 ニコラは絶対、マチルダを殺すことは出来ないと思う。たとえ妹のルチア@一花を目の前で殺されたとしても、その報復にマチルダを傷つけることはない。
 ニコラはそんな男じゃない。
 していいことと悪いこと、「人として、絶対に越えてはならないライン」があることを知っている。そして、意志の力でソレを守れる男だ。

 そーゆー男だから、らんとむニコラは大好き。
 でも、それとはちがって、めぐむニコラは。

 殺すよね? マチルダのこと。

 もちろん、卑怯なことはしない、非道なことはしない。誇りを持ち、「人として、絶対に越えてはならないライン」を守ろうとしている。
 そうする心づもりは十分にある。

 しかし、人としての、男としての器がそれほど大きくないから。
 余裕がないから。
 追いつめられたら、最終手段を執るだろう。

 目の前でルチアを殺されでもしたら。
 めぐむニコラは、マチルダを殺すだろう。反射的に。それ以上なにも考えず、ただ報復として。

 らんとむはいい男だよ。
 彼の「男」としての度量の広さ、「人間」のとしてのやさしさや正しさが、ものすげー魅力的。
 それに比べ、めぐむは「人間」が小さい。
 過激な行動に走る学生革命家のようだ。若く、浅慮で短絡的。のーみそまで筋肉。善良でないわけじゃない、まちがっているわけでもない、ただ器が小さいの。
 だからマチルダとの関係も、らんとむのときほどどきどきしないし(相手役の問題もあるが)、誘拐事件自体の作品中でのドラマ度が本公よりも低いの。

 そこがいいの。

 めぐむの、器の小ささ。
 追いつめられたらなにをするかわからない、キレる可能性。
 どんなに善良であっても、ちりちりとした危機感を持たせるあやうさ。暗さ。

 それが、めーーっちゃ好み!!

 めぐむがいい。かっこいいよう。
 あのギリギリ感がたまらない。余裕のなさ、破滅が見えている薄っぺらさ、自爆上等!な自暴感……わーん、かっこいー。

 欠けた人が好みですから。
 めぐむニコラの欠け方が好きなの。らんとむニコラはいい男過ぎて、好きだけどもう一歩踏み込めない。

 
 ニコラが小物だから、主役のヴィットリオの男ぶりが上がっているしね。
 カラダはでかいが小物なニコラと、カラダはちっこいが男前なヴィットリオが激しく言い争うとことか、いいよなあ。
 ニコラが背中丸めてるのがまた、萌えなのよね(笑)。小さなヴィットリオのために、心持ち目線を下げて会話しているのよ、ニコラってば。

 ムラに引き続いて東宝でも新公を観るのは月組の『飛鳥夕映え』以来。
 みんな2回目だから、ムラほど切羽詰まってない。
 観ているわたしも、「主役カップルに愛があると、こんな話になるんだ」という感動はムラで味わってしまったあとだから、それほど大きな感動はなかった。
 むしろ、至らなさの方が目に付くなー(笑)。

 いいんだ。
 わたしはニコラを見に来たんだから。
 かっこいーめぐむが見られれば、それでいいの。


 日付無視して書いてるんで、今さらだが。

 この1月16日、ヅカファン界が震撼した。
 全組に渡る組替え発表だ。

 その是非についても、劇団についても、ここで言及する気はない。仲間うちではいろいろ話しているけど、それはここで書くようなことでもないさ。

 ただ今回のことで、ごく個人的にわかったことがあるんだ。

 わたしの贔屓組がどこかということ。

 ええ。
 ヘコみましたのよ、ウチの組から3人もいなくなることに。

 ……ウチの組? ウチの組って?

 2002-12-26の日記に書いてある。「昨日の人事異動により、わたしとCANちゃんは星組を応援することに決定。」と。
 ケロちゃんの異動に伴い、わたしの贔屓組は星組になった。ワタルくんファンのCANちゃんが星組ファンになるのと同じく。
 「ウチの組」とはすなわち星組のことだった。
 ウチの組のトップスターと言えばワタさんのことだったし、スケジュールもローテーションも星組中心に回っていた。

 なのに。
 今のわたしは、星組を中心に考えていない。

 何故? いつから?

 
 えーと。

 最近とみに痛いまっつファンとして認知されているわたしだけど、ちょーっと待った。わたし、まっつのことは昔から好きだったよ? この過去日記あさってみても、ずっと好きだって書いてあるよ?
 2004-05-29の『NAKED CITY』ですでに「まっつファン」と書いているし、2004-01-20の『天使の季節』新公でもそう書いてる。2003-06-17『野風の笛』新公でも、まっつについて語っている。
 もともと好きだったんだってば。それはたしか。

 でも、そのころと今は、確実にチガウ。

「まっつファンになったの最近だから、昔のことはよく知らないの」
 とゆーのが、正直なとこだ。

 最近って?

 
 ターニングポイントは、『マラケシュ・紅の墓標』だ。

 しかも、博多が決め手。
 『マラケシュ』の美しく哀しい世界に魅せられて、憑かれたよーに大阪と博多を往復した。
 あそこから、すべてが変わったのだと思う。

 自分しか愛せないリュドヴィークの満ち足りた哀しい微笑みに魅了され、それと同時にクリフォードの儚げな可憐さに夢中になった。

 『マラケシュ』がなければ、わたしはあんなにも花組公演に通わなかった。
 繰り返し観ることによって組子の顔をおぼえ、名前をおぼえた。愛着を持つようになった。

 つまりは、オギーだ。

 もともとわたしのツボにハマるオギーワールド、その画面、音楽、テーマ、ストーリー、ふつーに「オギー新作」ってだけでも十分吸引力がある。
 そのうえ、あて書きのオギーが、その生徒のイメージに合うものを書いた。オギーの世界観の中で生徒たちは、残酷なまでに持ち味をさらけ出すことになった。

 もともと好きだった人たちの、さらに「わたし好み(=オギー的)」な部分を、目の当たりにしたわけだ。

 だからこそ、これまで以上に寿美礼ちゃんにハマったし、あすかちゃん他もさらに大好きになった。
 そして。

 まっつにハマった。

 
 いくらオギーでも、中心にいるのが好きな人でなくてはここまで傾倒しなかった。現にわたし、『バビロン』はぜんぜんダメだもん。主な出演者に苦手な人が多くて、どーしてもたのしめなかった。
 もともと好き、のうえにオギーが来ると、破壊力絶大なんだ。

 
 そして今。
 いつも全組観るし、人よりも作品でリピートを決めるので、贔屓組を意識して決める必要はとくにないまま過ごしていた。
 それに、全組に好きな人いるしさー。どの組もたのしく観てるしさー。
 贔屓組なんて、関係なかったよ。

 ……この発表までは。

 ウチの組から、3人もいなくなるの?!
 てゆーか専科ってナニ、専科って!!

 他のどこより、問題にしているのは「ウチの組」。

 そうか。
 ウチの組なんだ……。

 
 そしてもちろん、組云々よりも。

 まっつの隣からそのかがいなくなることが、かなしい。
 よりよってわたし、組替え発表の2時間ほど前に、某金融関係のIDとパスワード、「mattsu」と「sonoka」にして登録してるし。コンビへの愛を込めて。……しくしくしく。

 
 目指せオスカル役替わりコンプリート……ってことで、予定外に腰を上げた。星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』2回目。

 早めにムラに着いていたのに、チケットも買わず、ミスドでだらだらしていた。関東人のお友だち、kineさんとジュンタンがミスドにいたからだ。そう、kineさんてば、今年から関東人なのよー。わたしを残して、行ってしまったの……ほろほろ。(kineさんがいなくなっちゃって、さみしい緑野へのなぐさめの言葉、募集中・笑)
 他のみんなはチケ持ってて、持ってないのはわたしだけだったのに、つい、一緒になってそこで喋ってしまった。どうせ立ち見以外買う気がなかったので、まあいいか、と。

 作品が過去作品に比べてマシ(ひょっとしたら最高峰?)になっているとはいえ、所詮『ベルばら』だ。複数回の鑑賞に耐えうるよーなもんぢゃない。
 目当てはひたすら役替わり、オスカルのみ。

 ふたりめのオスカル役者は、雪組御曹司、かわいいおでこのかしちゃんだ!!
 

 えー、カシカルの感想。

 でかっ。

 長っ。

 デコっ。


 …………すみません。
 でかかったです、カシカル。トウドレと絡むともう。でけー女だなヲイ、って感じ。
 そして今まで特に感じたことがなかったんだけど、顔が長かったです。オサとか水にはいつも感じてたんだけど、かしちゃんに対してそんなことがここまで目に付くとは。
 男としてはふつーの長さでも、女としてはやっぱ、不自然に長いんでしょうな、彼の顔は。
 そいでもって、これはもう定番ですが。
 デコが広いっすね(笑)。

 カシカルは端正なイメージでした。
 教科書通りのような四角四面さ。
 雪組育ちの彼は、おそらく「植田歌舞伎」をそつなくこなす訓練ができているのでしょう。「ベルばら」であり「オスカル」であるという、たぶん500年前くらいからあった「型」を、空気のようにまとって演技しておりました。ん? 5000年前のまちがいだっけ? 植田芝居の古さって、それくらいだったよね?(笑顔)

 かっしーって、相当クラシカルな人なんだなー。

 組を出ると、その持ち味がよくわかる。
 以前星組に特出し、スーツ芝居をしたときは特にナニも感じなかった。かっしーいい人オーラ出まくりー。かっしー薄ーい(いや、髪の毛のことぢゃなくて!)。
 次に月組に特出し、日本物芝居に出たときに、その力が存分に発揮された。えええ、かっしーなのにかっこいい。かっしーなのにアタマよさそう。びっくり。
 そして今回、2度目の星組、ただし植田芝居。
 時代も空気も関係ない、5000年前から頑なに守られ続けたみょーちくりんな世界観と演技。独特の節回し、ありえない日本語。常識を捨て、「型」のみを追及させられる芝居。
 かっしーは、ふつうに、ハマッている。
 スーツ物だと薄いのになー……そうか、コスプレ歌舞伎ならついていけるのか。

 ついこの間の『DAYTIME HUSTLER』で、「現代」を無理に演じて自爆していたように、かしちゃんは「昭和」の似合う人だったのだわ……。あ、ごめん、もっと美しい言い回しがかっしーには相応しいわよね、「クラシカル」……そう、かっしーは「クラシカル」なのよ。

 時間の止まった感のある「タカラヅカ」という世界において、それはたしかに武器だと思う。
 現代的な人は『ベルサイユのばら』に合わないんだもの。
 かしちゃんは正しきタカラヅカのスターだわ。

 カシカルは正当ど真ん中の「正しい昭和時代のオスカル」だと思う。
 男尊女卑思想が自然に浸透している感じ。男の後ろを三歩下がって歩くような。女の子が一生懸命背伸びをして、男に張り合おうとして、でもぜんぜん足りていなくて、男たちが「くすっ」と笑っているような。
 植爺的には、とても「正しい」んだと思うよ。タカラヅカの『ベルばら』という作品に相応しいオスカルだ。

 だから。
 アンドレ@トウコの包容力が上がっている。

 カシカルが「強がっているけど、ほんとはぜんぜん強くなんかない女の子」であるだけに、そんな彼女の欠点や強がりを見越した上で見守っているトウドレがよりオトコマエになっていた。

 コムカルが「ひとりで生きていけますが、なにか?」てな男らしいオスカルだったからさー。
 トウドレの立場がなくて、印象が薄くて「アンドレの出番これだけ? ひどーい」とか思ったんだけど。
 カシカル相手だったら、ちゃんと存在意義が見えるし、印象も強いわ。

 やーん、トウドレかっこいー(笑)。
 うさんくさーい(誉め言葉)。
 でも小さーい(禁句?)。

 でかいけどヲトメなカシカルがなよっとしてみせるのを、小さなトウドレが「はっはっはっ」とドーンと受け止めているのが、バランス悪いけどバランスいい。(日本語変)
 

 さて、かしちゃんが植田歌舞伎をそつなくこなせる、という基本スキルを持ち得た上で。

 カシカルの本領発揮は、クライマックスのバスティーユだ。

 慟哭芝居、スイッチオン。

 かしちゃんは、おしゃれにナチュラルにかっこつけるのは苦手だけど、クラシカルに泥臭く地に足を着けて感情を発動させるのは得意なのね。

 アンドレを失い、私怨バリバリでバスティーユを攻撃するオスカル。
 その姿が。

 すっげー、かっこいい。

 こ、こんなにかっこよくていいの? かしげなのに?!(失礼)
 月組特出の鎌足を見たときと同じ狼狽。動揺。

 クラシカルに「型」芝居ができる、その上で爆発する暗い感情に、「美」を描ける人なんだわ。

 ……なんかほんとに、「雪組」だ。この人、正しく雪組御曹司だよ。雪組のDNAを持った人だ。
 地に足着けて泥臭くて。古典的に正しく「芝居」をする人。
 そりゃそーゆー芸風、人気はイマイチかもしんないけどさ、地味だしイマ風ぢゃないし。でもでも、好きな人は絶対好きだって!

 
 ラストのおたのしみ、「小雨降る径」では、他のなにより、かしちゃんの、あまりに潔すぎる髪型に度肝を抜かれて、よくおぼえていません。

 デコ全開。

 かっしー……。
 何故、セクシードレスの女役で、セクシーなデュエットダンスで、デコ全開
 一筋の乱れもないオールバックの、金髪ロングストレート。

 カオ、長い……。

 なにしろ人の数倍の面積を誇るデコを剥き出しにしているわけだから。その分カオの長さも伸びているわけで。
 すごい不自然な美女……。

 が、がんばれワタさん。君のオトコマエ度に、包容力にかかっているのだすべて。

 ラストシーンは、ドルチェ・ヴィータではありませんでした。かしちゃんはワタさんを振り返って「にやり」とはしなかった。
 ワタさんと同じくポーズを決めたまま、最後に笑って見せたけど。(ワタさんは無表情)
 でも、ドルチェ・ヴィータじゃない。あれは振付ではなく、コム姫オリジナルか。……溜息。


 さてと。
 いいかげん、出演者の話でもするか。星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』ね。

 とりあえずわたしは、オスカル役替わりコンプリートを目指しています。
 コムカルを見、かしカルを見、現在のとこきりカルまでは見ました。あと、水カルとゆひカルのチケットはすでに持っている。
 全部、立ち見とB席だけどな(笑)。
 『ベルばら』に金を使う気になれなくてなー。イベントとしていっちょかみしてるだけなので、A席以上の席種は、売っていても買う気になれなかった。
 (と言いつつ、雪組チケットはSとAしか買ってなかったりする……だって水×コムは前で見たいんだもん。オサ様もちゃんと見たいんだもん。水×コムは最前列GET済み・笑)
 

 最初に見たのは、華麗なる雪組トップスター、コム姫演じるオスカル。

 マンガ絵の中から登場した瞬間から、虜です、虜。

 美しい。

 わかっていたことだけど、なんなのこの美しさは。
 男装の麗人オスカル、という記号をこれ以上なく表す存在。
 フェルゼン@ワタさんとの映りもいい。

 うっをー、きっれーえやなああ。と、ぼーっと見ていたら。

 姿を裏切る、野太い男声。

 うっわー……なんつー男らしさ……(笑)。
 なんかさばさばと男らしいです、コムカル。必要以上に女女していない。
 やっぱアレだな。外見で勝っている自信があるから、必要以上に「女」を作らなくて良いんだな。
 さすがだコム姫。
 なんて男前なの。

 そしてコム姫のコム姫らしさ。ものすげー低温。

 クールなの。オスカルなのに(笑)。
 無機質で、硬質で。体温を持たない、美しい宝石。

 オスカルとしての型をなぞらえてはあるんだけど、ほんとにただなぞっているだけのようで。
 不思議な味のあるオスカルになってる。

 おかげで、アンドレが大変。

 コムカルってば男らしくてクールだから。
 アンドレ@トウコは手が出せない。
 ひとりでも立っていられるオトコマエに、手をさしのべても意味薄いもんなあ。

 全ツのとき、しいドレとよカルがラヴラヴいちゃいちゃの「こいつぅ」「いやぁん」「あはは」「うふふ」だった追いかけっこシーンが、温度低いです。そのうえ、乾燥してます。

 ふつーに男同士に見える……。えーと。
 しいドレととよカルも、『ベルばら』的にはまちがってたけど、アレはアレで愉快だったんだが。このトウドレとコムカルは、どう受け止めればいいのか。

 コムちゃんは中性的な持ち味を売りとするフェアリータイプの男役だ。
 小柄だし華奢だし、同じく小柄なトウコを相手役として、いちばん映りがいいのはコムちゃんだと勝手に思いこんでいた。
 ところが。
 実際見てみると、そんなことはない。

 コムカル、男前すぎ(笑)。

 アンタ、アンドレいなくても平気だろ(笑)、ってくらい、ふつーにかっこいいぞっ。
 外見はあんなに中性的に美しいのにな……声も性格も、超男前。

 トウドレはあまりに、分が悪すぎた。
 貫禄のあるコムカルに、振り回される印象が強い。
 実際、初見のときはアンドレの出番少なすぎ! トウコをもっと見せろ〜〜! と思ったもんだった。オスカルにまで大して必要とされていない役じゃ、そりゃ出番の印象薄いわ……。

 ふだんが乾いた冷たさに満ちているコムカルだから、自室の椅子に坐るときのカマっぽさが際立った。ふつーに男に見えていたのに、いきなりシナを作られてもなあ。引くよなあ(笑)。
 恋に目がくらんでいるトウドレは、引かなかったみたいだが。

 がんばれトウドレ! コムカルに負けるな!
 ……負けているまま、終わってしまったよーな気がする……。

 コム姫、おそるべし!!

 
 オスカルの出番は早々に終わってしまうが、最後にどかんと一発おたのしみがある。
 フェルゼンとオスカルのデュエットダンス「小雨降る径」だ。
 華やかなスパンコールつきの青い衣装で踊る、男と女。
 ワタさんは言うまでもなくかっこいい。余裕の包容力。
 対するコム姫は。

 ……美しい……。

 わたしが見たときは、ボリュームのあるブロンドにターバン姿だった。鎖骨丸見え、深いV字カットの胸元。太股までのスリットが入った大胆なドレス。
 ドレスをひるがえし、美女は長い脚をさらして踊る。
 その生命力。
 野生。

 獣がいる。
 本能のままに獲物に襲いかかる獣。おそろしいからこそ、美しい獣。
 しなやかに、大胆に。
 己れの意志以外のなにものも認めず、受け入れず。

 ダンスの最後、野生の美女は、獲物である男を手に入れた。
 男に後ろから抱きつきながら、すがりつきながら、勝利者は女なのだ。
 陶然と虚空を見つめる男と、同じ方向を向きながら。
 中央のセリが沈んでいくその最後の瞬間に、女は男の方を向き、ニヤリと笑う。
 魔の美貌で。

 ドルチェ・ヴィータだ。

 ワタさんを海の底に引きずり込んだ美しい女の姿の、魔物。
 黒いドレス、紅いくちびるの、温度を持たない美女。
 ドルチェ・ヴィータがいる……!!

 うろたえた。
 思いもしないところで、思いもしないものを見せられて。

 どきどきどきどき。
 あれは、ドルチェ・ヴィータだよ、どうしよう!
 わたしの愛した魔女が、あんなところにいるよう。

 
 『ベルばら』に絶望していたわたしが、「オスカル、フルコンプするか」と覚悟を決める最後の決め手となったのは、まちがいなくこのコム姫ゆえだ。
 ワタルくんとのこのデュエットダンスが、そりゃーもー、よかったのだ。
 このシーンだけで、『ベルばら』を観る価値があるってなもんで。

 他のオスカル役者の、「小雨降る」を見たい。
 誰もがドルチェ・ヴィータなのか? それともあれは、コム姫だけなのか? それをたしかめずには、いられない。

 kineさんと一緒に観る約束だったコムカル、nanakoさん、Be-Puちゃんと一緒に観る約束の水カル、千秋楽のゆひカル。わたしが前もって持っていたチケットはこの3枚だけだった。
 それを、「あと2回、たとえひとりででもムラまで行って、かしカルときりカルを観ることにするか」と思わせてくれたのは、コム姫ゆえだよ。
 ……まあ、所詮『ベルばら』なんで、1回ずつしか観る気にはなれないにしろ。

 コム姫万歳。


 わたしは植爺の『ベルばら』が嫌い。
 植田紳爾が演出をしている限り、もう二度と再演がないことを切望しているひとりだ。

 しかし……。

 イベントとしての『ベルサイユのばら』の力は、認めている。

 あの辺境の地、タカラヅカ村が華やいでいるのがわかるんだ。
 いつもは閑古鳥が鳴いている平日昼間の、この人の流れ。
 みんなみんな、たのしそうだ。
 祭りにでかける皆の衆、って感じだ。
 ディープなヅカファンでなく、一般のお客が多いのだろう。劇場のあちこちで光るカメラのフラッシュ。ロビーにある等身大フェルゼンの前で、うれしそーに記念撮影をする年輩のグループ。
 変身写真館の前の人だかり。売店の行列。

 ああ、祭りだ。
 ここはハレの場だ。
 日常を捨て、晴れ着を着て集う異空間だ。

 ひとびとがたのしそーにしている空間は、好きだ。愛しい。
 好意だとか愛だとかやさしさだとか、そーゆープラスの空気に満ちた場所が好きだ。
 たのしいたのしいたのしい、そんな笑顔の満ちる空間が好きだ。

 こんなふうに、ひとを集め、たのしませることができるなら『ベルばら』も悪くない。
 ふだんタカラヅカなんか見ない人たちが、『ベルばら』だから、とわけもわからず駆けつける。祭りだから、と駆けつける。
 いいよな、それって。
 単純でシンプルで、とてもいい。

 みんなみんな、たのしいといいね。しあわせだといいね。
 大好きなモノが、増えるといいね。

 ストーリーもキャラの見分けもつかなくても、華やかな画面だけに感心して、「タカラヅカだわーっ」と驚くだけでもいい。
 仲間たちや団体でやってきて、その場限りたのしんで、すぐに忘れてしまってもいい。

 何年、何十年たってから、「『ベルばら』、見たよ。あれはすごかった」とか罪なく話してくれよ。
 そのとき一緒だった人のことや、今よりも確実に若かった自分を思い出して幸福になってくれ。子どものころ行った遊園地や、青春時代のはじめてのデートや、小さな子どもたちを連れて家族で出かけたピクニックなんかの記憶と同じように、愛しいものにしてくれ。
 祭りだから。社会現象と呼ばれ、誰もが名前ぐらいは知っているものだから。
 記憶の見出しにしてくれ。内容なんか、おぼえてなくていいから。

 植爺の『ベルばら』は嫌い。でも、その力や意義はわかる。
 『ベルばら』だから、求められていることも。タカラヅカなんか興味のない人たちを、決して安くない金額を払って劇場へ呼び寄せる力があることも。
 これだけ名の通ったモノを作り上げた功績は認める。

 でも。
 だからこそ。

 もう植爺である必要はないだろ。『ベルサイユのばら』でさえあれば、客は入るんだから。

 全編一から作り直そうよ。新しくなったって、一般客にはわかんないよ。派手な輪っかのドレスがいっぱい出てくりゃいいんだから。そしてヅカファンは、新しくなったらみんなこぞって劇場にやってくるよ。
 一般客も、ヅカファンもよろこぶよ。

 お金が欲しいときは、『ベルサイユのばら』。
 それなら、別の演出家に新しい『ベルサイユのばら』を作らせようよ。
 植爺の時代遅れ駄作を再演しつづけるより、お金が儲かることはまちがいないって!!


 マリー・アントワネットは、ステファンという人形を持っている。大切にしている。
 彼女は14歳。……14歳にしては言動が7歳くらいだが、まあ植爺だから仕方ない。

 精神年齢が低い設定でもかまわない。
 不思議なのは、どうして「ステファン」人形なのかということだ。

 おもちゃ売場に行って、女児向けの人形コーナーを見てみてほしい。
 たしかに女の子はお人形が好きだ。女児向けのお人形はたくさん売っている。
 だが。

 人形のほとんどは、女の子だ。

 男の子の人形はほんのわずかだ。女の子の人形の種類に対し、何パーセントあるだろうか。

 少女にとって、お人形は自己を投影したモノだ。
 もうひとりの自分として、お人形を愛する。
 自我が確立し、またその関心が自分以外に向くようになれば、自然と「お人形」を卒業する。

 男の子の姿の人形は、あくまでも「女の子の人形のボーイフレンド」として存在している。男の子単体ではない。付属物だ。お人形のドレスや靴と同じ扱い。
 だって幼い少女の関心は「自分自身」であり、異性にはない。

 なのに何故、アントワネットは「男の子の人形」を持っているのか。
 
 しかも、自分で作ったのだという。
 男の子の人形を作る、幼い少女、って……なんか、こわいんですけど。
 何故わざわざ男の子を作る?

 お人形のたのしみは、着せ替えできるということにもある。
 お人形売場を見てくれ。リカちゃんだのジェニーちゃんだののお洋服が山ほど売っている。ドレスや着物、有名デザイナーの実在の服と同じもの、ユニフォームだとか下着まで取りそろえられている。
 一方、男の子の服は、人形以上に少ない。男の子人形には、着せ替えをするたのしみが少ないからだ。

 アントワネットはお嫁入りに関し、きれいなドレスを着ることができてうれしいとよろこんでいる。つまり彼女もふつーの女の子の感覚を持っているわけだ。
 きれいなドレスがうれしい。……それなら、お人形にも、きれいな服を着せるだろう。着せ替えてたのしむだろう。自分がしてうれしいことなら、大切なお人形にもしてあげるだろうから。

 だが、ステファン人形では、それもない。
 男の子には、ドレスは着せてあげられない。

 服を着替えさせ、髪をとかし、話しかけたり抱きしめたりする。
 少女が女の子の人形にそれをするのは微笑ましいが、男の子の人形だと違和感がある。

 男の子を、裸にして着替えさせるんだ。
 男の子に話しかけ、抱きしめるんだ。
 それは異性として? 
 でも14歳のアントワネットは、結婚の意味もわからない無邪気な少女として描かれている。精神年齢7歳くらい、てな描かれ方をしていながら、実は異性に興味津々で、男の子の人形を疑似恋人として愛でていたというつもりか? それ、キモいんですけど。
 ほんとうに、幼児としてのお人形遊びが好きな無邪気な少女、とするならば、やはり男の人形はおかしい。自己の投影なら、同性の人形であるはずだからだ。
 それともアントワネットは、実は男性の心を持っていたのか? 性同一性障害?
 

 わけわかんない。
 最初に『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』を見たときから、ステファン人形は謎だった。
 ええっとあれは、平成元年だったかな。

「わたくしがお人形だったのです」
 という台詞をアントワネットに言わせたいためだけなんだろうけど、それならばなおさら、人形は女でなければならない。
 何故男なんだ?

 ……たぶん植爺は、なにも考えていないんだろう。

 自分が欲しい、かわいがりたい人形は異性の人形だからと、なにも考えずにアントワネットにも異性の人形を与えたか。
 それとも、「女はみんな男好き」という意識で、アントワネットがかわいがるのは男の人形であるべきと思ったのか。

 ほんとーに、「女」を蔑視してるんだろーな。ほんのちょっとでも「女」という生き物に興味を持って眺めてみればわかるようなことでさえ、無知をあからさまにしている。

 
 とまあ、その存在すら謎なんだけどな、ステファン人形。
 このわけのわからない人形の説明が、やたらと多すぎる。

 前述の「おおまかな物語の流れ」で(S−*)という印をつけた。
 14歳のアントワネットがまず話し(Sー1)、次に現在のアントワネットがメルシー伯爵と話し(S−2)、これだけで観客はもうおなかいっぱい状態なのに、さらにまた、メルシー伯爵とフェルゼンで同じことを繰り返す(S−3)。たった1時間強のうちに、同じ話が3回。
 次に2幕になって、落ちぶれたアントワネットが子どもたちに人形の解説(S−4)、そして最後の牢獄でメルシー伯爵からステファン返却(S−5)。こちらもフィナーレをのぞいたたかだか1時間弱の間に、2回。

 くどいっ!!

 どう考えても、(S−3)はいらんやろ。最初の2回だけなら許容範囲だが、この3回目で致命的になる。
 てゆーか、メルシー伯爵のお説教シーン自体、いらないんだけどな。

 もちろん、小道具としての「人形」は悪くない。
 14歳のアントワネットの幼さを表現し、死を間際にした38歳のアントワネットの「わたくしがお人形だったのです」と言わせるために使うアイディアはいい。
 だが、こうまで何度も何度も解説されると、作者のバカさの方が強調されるよー。自分でぶちこわしにしてるんだよなー。

 そんなところも、ハズすことなく植爺クオリティ。


 オスカルは、女でありながら、男として育てられた。
 それは、オスカル本人の意志ではなかった。父が強制的にそうしただけのことで、彼女が選んだわけではない。

 幼いうちは、なんの疑問もなかった。
 性別など関係なく、与えられた世界でのみ生きる。囲いの中にいることに、気づきもせず。

 次に、悩み出す。
 女でありながら男として生きることへの疑問と葛藤。

 父もまた、自分の行いを後悔するようになった。自分の勝手な思いで、娘の人生を曲げてしまったことに気づいた。
 だから彼は、オスカルに「ふつーの女に戻ってもイイ」と告げる。

 父の強制はなくなった。
 オスカルは、自分の意志で生き方を決めることが出来る。

 そしてついに、彼女は答えを得る。

 苦悩と慟哭のなかで。
 それでも、言うんだ。

「父上、感謝いたします」と。

 父の身勝手で、ふつーなら悩まなくていいことにさんざん悩み、苦しんできたというのに。
 その苦しみすべてを、彼女は肯定するんだ。

「感謝いたします。このような人生をあたえてくださったことを。
 女でありながらこれほどにも広い世界を……人間として生きる道を……ぬめぬめとした人間のおろかしさの中でもがき生きることを」

 人間として、汚れながら生きること。

 それを彼女は、肯定するんだ。
 感謝するんだ。

 なにも知らずにきれいなままでいることよりも、より広く世界を知り、汚れ、苦しむことを、毅然と選ぶんだ。

 
 女でありながら、男として育てられた。
 ……このことに対するオスカルの意識の変化は、そのまま「貴族」にもあてはまる。

 幼いうちは、なんの疑問もなかった。
 身分など関係なく、与えられた世界でのみ生きる。囲いの中にいることに、気づきもせず。

 次に、悩み出す。
 貧しい平民の存在を知りながら、貴族として安穏と暮らすことへの疑問と葛藤。時代の流れの瞠目。

 父との確執が終結することによって、オスカルは自分の人生を自分で選ぶ覚悟を持つ。

 そしてついに、彼女は答えを得る。

 苦悩と慟哭のなかで。
 それでも、言うんだ。

「たとえなにがおころうとも、父上はわたくしを卑怯者にはお育てにならなかったとお信じくださってよろしゅうございます」

 貴族だとか軍人だとかという、狭い括りの中の話ではなくて。
 誠実さを語る。

 人間としての。

 
 だからこそ彼女は、王家を裏切り自分を培ってきたすべてを裏切り、革命に身を投じる。

 男だから女だからではなくて。
 貴族だから平民だからではなくて。

 ひとりの、人間として。

 
 そして彼女は、死の間際に言うんだ。

「神の愛にむくいる術ももたないほど小さい存在ではあるけれど……自己の真実のみにしたがい、一瞬たりとも悔いなくあたえられた生をいきた。人間としてそれ以上のよろこびがあるだろうか。
 愛し……憎み……泣き……ああ、人間が長い間くりかえしてきた生の営みをわたしも……」

 愛。憎しみ。涙。
 美しいだけじゃない、苦しさや醜さもすべて認め、受け入れ、愛した。

 ぬめぬめとした人間のおろかしさの中で、もがき生きること。

 それを肯定し、それでも人間を愛し、おろかな人間のひとりとしてその生をまっとうすること。

 そのことに、微笑んで死んでいけること。

 それが、オスカル・フランソワだ。

 
 目の前でアンドレが撃たれ、取り乱すことも、アンドレを助けたい一心で戦場を離れることも。……指揮官としては失格だけど、そうせずにはいられない愚かしさを自覚しながら。
 かっこわるい、みっともない、等身大の「人間」としての、オスカル。
 それらをすべて肯定して、彼女は最期に微笑む。

 自由、平等、友愛。この崇高なる理想の、永遠に人類のかたき礎たらんことを。
 フランス万歳。

 
 彼女の生き様は、現代のわたしたちとなんら変わることはない。

 好きで女に生まれたわけでもないし、今の親と今の名前、今の経済状況、このカオで生まれたわけでもない。
 子どものころは、なんの疑問もなく生きていた。
 でもだんだん考えるようになる。
 わたしってナニ?
 なんのために生まれてきたの? なんのために生きてるの?
 世の中ってキタナイ。人間なんてバカばっかりだ。
 絶望しながら、のたうちながら。
 それは誰だって同じこと。
 自分が選んだわけじゃないところから、人生はスタートするんだ。

 そのうえで、どう生きる?

 オスカルはべつに、特別じゃない。
 彼女が直面する問題は、現在のわたしたちもが抱える問題。

 親の期待、決められた進路。
 自分の能力と適正への迷い。
 恋愛と仕事。
 親友と同じ相手を愛してしまう。三角関係。

 わたしだって、オスカルかもしれない。
 女性である必要はない。男性だって、あてはまるだろう。
 あなただって。

 そんな、普遍的な「ぬめぬめとした人間のおろかしさの中で、もがき生きる」ことで。
 オスカルはあざやかに光を放つ。

 誠実に、信念を貫いて。

 
 わたしだって、オスカルかもしれないのに。
 わたしができなくて落ち込んでいることを、意志を持って成し遂げてくれる彼女に、拍手を。祝福を。

 男装の麗人だから、女なのに軍隊にいるから、そんなことは、オスカルの魅力の表面を彩るひとつにしかすぎない。
 ジェンダーにとらわれるな。

 オスカルの魅力は、人間としての魅力だ。

 
 
 植爺には、どーしてそれがわからないんだろう。


 わたしは植田紳爾に絶望しているので、多くは求めていない。
 どんなに壊れていても、まちがっていても、「植爺だから」とあきらめている。
 星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』がどれほど壊れていようと、それは最初からわかっていたことだ。どうあがいたところで、根本から壊れているものが正しくなるはずもない。

 そーゆー絶望を基本とした上で。

 今回の『ベルばら』は、意外にいい感じだ。

 3日分の欄をかけて「おおまかな物語の流れ」を書いたのも、文句だけでなく「よくなっているところ」を書きたかったからだ。
 最悪だった「平成フェルゼン編」や「2001」より、はるかにマシ。
 毎回毎回、再演されるたびにひどくなっていく壊れ方に開いた口がふさがらなかったのに、はじめて、よい方向に改訂されていたので、おどろいたよ。
 落ちる一方だと思っていたのに。これ以上底はない、と思っていてもさらに深い絶望の淵があって、そのたびおどろいていたのに。
 まさか、浮上することがあるなんて。

 大筋ではなく、細かい部分の修繕(壊れた部分を拾い、直しているから、修繕だろコレは)なので、植爺の仕業だとは思えない。他の演出家の力じゃないかと思う。
 やっぱ谷せんせかな、あのみみっちい変更の仕方は。『JAZZYな妖精たち』の変更を観た直後なので、一層実感する。
 
 修繕、という言葉から、『ベルばら』を「服」に喩えてみる。
 もともと製図が狂っているから、どんなにほころびを繕ったところで、両袖の長さがチガウとかボタンが留まらないとかの問題はあるけれど。
 でも、少なくとも「服」になってるよ! 変だけど、いちおー着ることはできるよ!
 今までの植爺『ベルばら』は、服ですらなかったからな。植爺ひとりが「服」だと悦に入っていただけで。まさに裸の王様で。

 誰の功績かは知らないが、ほんと、よかったよ、今回の『ベルばら』。GJ!

 全ツを観て絶望した人、こわがらないで観てみて。アレよりはるかにマシだから。

 
 とはいえ。
 最初に述べた通り、駄作で絶望作品であることは変わらないんだけどな(笑)。

 不満はいろいろあるし、不満しかないよーな気もするが(笑)、そのなかで現時点いちばん気になること。

 それが、植爺の持つ女性蔑視だ。

 「オスカル」というキャラクタの本質を理解していないこと。

 何故「オスカル」はこうまで女性の心をとらえたか。
 それは、彼女が男装しているからではない。
 もちろん「男装の麗人」であることが、魅力のひとつではある。でもそれは、どんなにおいしいお菓子も汚いパッケージだとおいしそうに見えないのと同じ。本質を彩るための装飾のひとつにすぎないんだ。
 オスカルが男装の麗人であろうと、彼女の「人間性」に魅力がなければ、ここまで支持されることはなかったんだ。

 オスカルが「男装」し、「男社会」で生きていること。
 それは「女性人権問題」「女性解放問題」などとはまったく別のことだ。

 オスカルは、その生き様で表している。
 「人間」として、生きることを。

 だが、植爺にはソレがわかっていない。
 オスカルとはすなわち、フェミニズムのことだと思っている。
 だからふたことめには、「女だって」と主張する。

 「おおまかな物語の流れ」でわたしが(カンチガイ発言)と注意書きした部分がそうだ。

・「女のくせに男の格好をしているから、そーゆーことを平気で言えるよーになるんだ」(カンチガイ発言1)

・フェルゼンに罵られたオスカル、いじいじ。「私だって女だ」(カンチガイ発言2)

・オスカルは現在のフランス情勢に危機感を持っている。でもって、ブイエ将軍と対立している。
・またしても「女だから」つー話になる。(カンチガイ発言3)

・ブイエ将軍と、裏切り者オスカル。最後の対立。「女にだって意見を述べる権利はある!!」(カンチガイ発言4)

 植爺脚本では、ひたすら「女」「女」と連呼する。
 「女が軍服を着てなにが悪い」「女のくせに」「女だって」と。

 だが、オスカルが言っているのは、「女だけの限定項目」ではないんだ。

 「女のくせに男の格好をしているから」愛がわからない、という理屈はおかしい。軍服を着て軍隊にいるから、愛がわからない? じゃあ世の軍人はすべて愛がわからないのか?
 女が男の格好をする、男を真似ている、だから愛がわからない、というなら、世の男たちもまた愛がわからないということだな。だってソレを真似ているわけだから。
 愛に対する考え方は、人間性の問題であり、服装や職業とは関係ない。
 「女だから」「男だから」は関係ない。「人間だから」愛を語るんだ。
 こんな偏狭な理屈で友人を罵る植爺フェルゼンは、最悪な人物だ。

 それに対し、「私だって女だ」と返す植爺オスカルも最悪。
 女だから、愛がわかるんじゃないってば。
 人間だから、わかるんだ。

 ブイエ将軍とオスカルは、たびたび「女だから」という言い合いをする。
 差別や暴力を当然のものと考えるブイエ将軍に、オスカルは異を唱える。それを植爺はすべて「女だから」と片付ける。
 そしてオスカルは「女が意見を述べてなにが悪い」と返す。
 ……チガウから。
 話題の焦点は、「女」じゃなく、「まちがったことを、まちがっていると指摘している」ことなんだってば。

1「赤信号を無視して、なにが悪い。ワシはえらいんだ」
2「ブイエ将軍、それはちがいます。ルールは守らなければなりません」
3「なんだと、女のくせに生意気な」
4「女にだって意見を述べる権利はある!」

 だから、赤信号の話はどこにいったのよ?
 男だ女だと言う以前の話でしょう。

4「性別は関係ありません。人間である以上、人間社会のルールを守る義務があると言っているのです」

 わたしが(カンチガイ発言)とした部分はすべて、植爺が「女だから」と連呼している部分だ。
 彼が「女」「女」とこれみよがしに言っていることは全部、性別など関係ない、人間だからと言い換えるべき部分なんだ。

 「人間だから」という表現をするべき部分を全部、「女だから」とするところに、植田紳爾の女性蔑視が現れている。

 「女の人権を持ち上げる台詞を吐かせればいいんだろ? 男社会で生きるオスカルがかっこいいんだろ? 女をバカにする男をやりこめればいいんだろ?」
 ……そう薄ら笑いして書いていそうだ。

 オスカルは、「女の人権」のために男の格好をして、男社会で生きているわけじゃない。
 彼女は「ひとりの人間」として、精一杯に自分の人生を生きているんだ。
 その真摯な生き方が、彼女の魅力であり、人気なんだ。

 それは、今も昔も変わらない。
 男だ女だという以前の話。

 真摯に誠実に、逃げずに一途に、ときに悩みつまずきながら、それでも困難と闘い信念を貫く。……物語のヒーローに共通した魅力じゃないか。
 植爺には、「所詮女」というフィルターがあるから、理解できないのだろうけど。

 
 星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』、第2部の続き。
 記憶だけで書いているので、順不同、台詞はてきとー。

 フェルゼンがフランスに向かって旅立ったころ、当のアントワネットは、パリでホームドラマをしていた。

・ルイ16世は、アントワネットよりひとつ年上です。
・ルイ16世はアンドレと同い年、アントワネットはオスカルと同い年です。
でも、植爺版『ベルばら』では、どーみてもルイ16世はじーさんですね。
・夫と子どもたちと、アントワネットは「ふつーのしあわせ」を手に入れてほっこりしています。
・ちなみに、長女のマリー・テレーズはそのころすでに中学生くらいの年齢になってるんですが……植爺版だと、のーみそは5歳ぐらいでしたね。まあいいけど。
・子どもたちと、ステファン人形の話。(S−4)
・そこへ、ルイ16世に革命政府からの呼び出しが! 史実云々は置いておいて、この場合は「二度と会えない別れ」だと見ていいでしょー。
・そのうえ、子どもたちまでもがアントワネットから引き離される。
 →初エピソード。過去の『ベルばら』にはない。
・「子どもを返して」と取り乱すアントワネットに、公安委員たちはビンタ一発。ええっ、殴るんですか?!
・殴る必要はどこにもない。原作にも同じシーンはあるが、殴ったりしていない。植爺が大好きな、男から女への、一方的な暴力ですな。
・なにもかもなくし、泣き崩れるアントワネット。

 つーことで、物語はまたフェルゼンパートへ。

「国境近くの村」と「行け行けフェルゼン」が変じゃない!!
 →今までは、キ*ガイ宮廷を大仰に飛び出したフェルゼン、さぞ大活躍をするんだろう! と思わせておいて、次の「国境近くの村」で「なにもかも終わったあとで、なにしに来たのこの人?」と平和な村人たちに笑われる、ギャグ落ちシーンがあったのよね。
・フェルゼンが、よーやくフランス国境近くに辿り着いたときには、時すでに遅し、ルイ16世は処刑されたあとだった。
 →スウェーデン国王の許しを得てやってきたわけじゃないから、遅くてもそれほどかっこわるくないよねえ?
・現実を知ったフェルゼンは、ひとり馬車を駆り爆走するのだった。待ってました、「行け行けフェルゼン」!
 →やっぱコレがないとねっ(笑)。全ツはなかった。

 ところで、あの人たちはどーしてます?
 あの人たちですよ、死の天使ロザリーと、その夫ベルナール。

・ベルナールは現革命に絶望し、国王一家を救いたいと思うようになっていた。
・ジェローデルを動かし、フェルゼンに協力を要請したのもベルナールだろう。(そのへんのことは、kineさんのSSを読むのがオススメ・はぁと)
・つまり、たとえアントワネットひとりだけであろうと、助けたいと思っていたんだ、ベルナールは。フェルゼンは本気で救出するつもりでアントワネットに会いに来たんだからな。

・しかしっ。彼のかたわらには、死の天使ロザリーがいた!!

・「人には、相応しい死に方っていうのがあるのよ。王妃様は王妃らしく死ぬ覚悟なの。あの微笑みを曇らせないで。ふふふ」

・またオマエか。オマエなのか(笑)。オスカルを死に導いただけでなく、アントワネットもか!
・ベルナールやフェルゼンが王妃救出のために、ものごっつい苦労をしていたのを横目で見ながら、「計画なんて失敗しておしまい〜、王妃様は王妃様の意志で死ぬのよ。それがいちばん、あの方に相応しいの。ふふふ」とやっていたのか?
・確率の殺人? 危険を減らしたり助けたりしないことで、結果的に相手を死に至らしめるのね? すごいやロザリー!!
・オスカルかアントワネット、どちらか片方ならまだアリだったと思うが、両方に対して「妥協して生きるよりは名誉の死を」と主張するのは、ロザリーというキャラがダークになっている(笑)。もちろん、一貫してはいるけど……原作からはかけ離れすぎていてびっくりだ。

 そんな死の天使が、天使のカオしてアントワネットの世話をしている牢獄。

・厭世観に充ちた死刑囚アントワネットのもとへ、まずはメルシー伯爵登場。ステファン人形の説明。(S−5)
・次に真打ち、フェルゼン到着。しかしもう、アントワネットは脱獄して生き延びようとは思っていない。
子どもを残して自分だけ逃げられない、という台詞の説得力。
 →公安委員に子どもたちをつれて行かれるくだりがあるために、この理由が正しく機能している。
・アントワネット、断頭台へ。フェルゼン絶叫。

 −−−完−−−

・……なんだが、とーとつに下半身を剥き出しにした軍服コスプレ娘たちが、笑顔で大階段を降りてくる。
・フィナーレ開始。
・つか、いつ見てもびっくりするよな、この唐突さ(笑)。

 
 で、ラストに書くのもなんかもしれんが。
 この「おおまかな物語の流れ」の表記について。

【通常の書き方】
・アンドレ、出番少ないよね?
【よい意味の変更点】=アンダーライン+太字
てゆーか、少なすぎだろ。
【過去作品の解説】=矢印
 →フィナーレもさみしいぞ。
【後述予定ポイント】=( )に数字
 (ワタトウ見たいよーっ・1)
 (ワタトウ見たいよーっ・2)

 まあ、こんな感じっす。

 
 つーことで、「おおまかな物語の流れ」をざーっと書いたので、次は後述予定ポイントを語りつつ、作品について言いたいことを少々。
 
          ☆ 
 

 ぜんぜん関係ないけど。

 わたしが原作を読んだのは、小学生低学年のときだった。
 人一倍アホウな子どもだったので、いろいろと物知らずだった。

 2巻のタイトル、「栄光の座によいしれて」の意味がわからなかった。
 漢字があれば、まだ理解できたと思う。「酔う」という漢字はすでにふつーに読めたから。それくらいの字、マンガの中にふつーに出てくるから。

 ただ、「よいしれて」とひらがなで書かれてしまうと、お手上げだった。
 どーゆー意味なのかわからない。

 2巻は、ルイ16世が国王に即位し、アントワネットが王妃となって贅沢三昧する巻だ。
 漢字で書かれているから、「栄光の座」というのもわかる。「王様になったから、栄光の座なんだ」ということもわかった。

 じゃあこの、「よいしれて」ってなんだろう?

 実際に声に出して発音してみれば、わかったかもしれないけど。目で眺めるだけだったから、ひらがなの並びはなんの意味も持たなかった。

 だもんで、アホウな低学年は、自分なりに解釈をした。

「栄光の座に、『よしっ!』と気合いを入れて入ることだ!!」

 …………そう。
 わたしは、「よいしれて」ではなく、「よしいれて」と読んでいたのですよ。ひらがなばっかだから、深く考えず。

 「栄光の座によしいれて」……そりゃ、いくら考えても意味わからんわ……。

 
 ついでに。
 9巻のタイトル、「いたましき王妃の最後」もね、「いたましき」がわからなくてね。漢字で書いてくれればわかったんだけどね。どーもひらがなに弱いガキだったもんでね。

 「いさましき王妃」って読んでたよ……。

 アントワネット、かっくいー。(棒読み)


 星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』、第2部でございます。
 記憶だけで書いているので、順不同、台詞はてきとー。

 
・もちろん「今日も散るのか薔薇ひとつ♪」からスタート。
なんか祭りをしている。しみったれたフェルゼン家のシーンだが、幕開きなので派手に作り直してある。
フェルゼンは、フランスを追放されていない。
 →全ツでは「追放された」「追放された」と恨み節全開だった。自分から「愛のために身を引いた」はずなのに、実は追い出されていた、という、フェルゼンをかっこわるくなさけなくするためのエピソードだった。
「貴族として」「貴族なら」「貴族だろう」という、意味のない連呼がマシになっていた。
 →全ツは「貴族」「貴族」といちいち台詞にひとこと付け加えてあり、「貴族祭り」状態だった。
・隠棲生活を送っているフェルゼンのもとへ、ジェローデルがやってくる。彼はフェルゼンに、「国王一家救出」の助力を頼みに来たのだ。
・革命だと? 国王一家がパリに幽閉だと? オスカルはなにをやってたんだ!

・「オスカルは、死にました!」

フェルゼン、オスカルの死を聞いてボケをかまさない。
 →全ツでは、「可哀想に。どんなに苦しかったろう。まだ若いのに」てなことを言ったんだ、このバカ男は。オスカルが王家を裏切って革命に荷担して死んだっつーのに、それは全部スルーして「痛かったろうなあ。かわいそー」てなことを言う。

・はい、ここで、ジェローデルの回想入りまーす。

 かかか回想? ジェロつんの?
 ちょっと待て。ここからはじまるのは……。

・そうです。「今宵一夜」がはじまっちゃいます!!
・見てたのか、ジェローデル?! 回想しちゃうくらい鮮明に、克明に、脳裏に刻みつけたのか?!!
・てゆーか、オスカルとアンドレも嫌だろ。ラブシーンを他人に語られたら。
・オスカル隊長、突然女らしくなってます。てゆーか、カマッぽくなってます。ジェローデルの願望が入っているのかもしれません。
・「巨大な歴史の歯車の前では……云々」あれ? その台詞、ついさっきも聞いたぞ? アンドレが同じこと言ってなかったっけ?
 →全ツでは「今宵一夜」がなかったので、「巨大な歴史の…」台詞を無理矢理別シーンでアンドレが言っていた。今回は「今宵一夜」があるのに、全ツのシーンも台詞もそのままだった……削れよ……。

死の天使、ロザリー登場。
・ベルナールはオスカルの身を案じ、パリへ来させてはいけないと言う。しかしロザリーは。
・「オスカル様は、オスカル様の意志で死ぬのよ。それがいちばん、あの方に相応しいの。だから、止めちゃだめよ。ふふふ」

・さあ、そーしてついに運命の日。軍隊が民衆に牙をむいた! オスカル率いる衛兵隊はどうする?!
オスカルが、優柔不断ではない。
 →過去の『ベルばら』の多くでは、オスカルはこの重大な場面で無能さを顕わにする。指揮官でありながら、部下たちの前で「どーすればいいのかわかんなーい」と立ちつくすのだ。そして、「このまま民衆を見殺しにするのか!」などと周囲から説教されてはじめて、決断する。説教されたから、仕方なく民衆の味方をするの。偽善者め。
・オスカルは即断即決、迷いはない。自由、平等、友愛! 名もなき祖国の英雄になろう!!
・ブイエ将軍と、裏切り者オスカル。最後の対立。「女にだって意見を述べる権利はある!!」(カンチガイ発言4)
ジェローデルが、暴力をふるわない。
 →過去の『ベルばら』の多くでは、ここでジェローデルがやってきて「正気か?!」と問答無用でオスカルを張り倒す。ジェローデルがオスカルという人間をカケラも理解していないこと、女に平気で暴力をふるう最低男だということを決定づけるエピソード。
・とっても見通しのいい橋の上で、アンドレは銃弾に倒れる。まあな、あんなとこにいたらそりゃ狙われるわな……。目も見えてるのにな……。
・「ダーリンが殺された!! 許さない!!」……私怨に燃えるオスカルは、「復讐だ、バスティーユを攻撃しろ!!」と叫ぶ。
・えーと。アンドレの死を悼む気持ちと、革命の戦闘を一緒にしたらいかんでしょうに……。バスティーユを狙う理由も、「われらの力を見せつける」なんて理由じゃあかんでしょうに……。
・公私混同台詞を吐いたあと、「シトワイヤン、行こうーーっ!!」で、バスティーユ攻撃へ。
・私怨台詞を吐かなければいいのにねえ。私怨がきっかけでバスティーユを攻撃したくせに、オスカルの最期の台詞は「フランス万歳」。
・宙に浮かんだ謎のバスティーユ。白旗は、B席からじゃ見えません(笑)。

 「バスティーユが落ちたぞぉーー!」の混乱の中、どさくさにまぎれてジェローデルがせり上がってきている。
 そうそう、コレ全部回想だってば。

・回想シーンがあまりに長かったため、フェルゼンは自分の台詞を忘れてしまったらしい。回想に入る前に言った台詞をもう一度言う。……忘れていたのはたぶん、植爺だろうけど。
「王妃を助けることが、オスカルの意志」であることを、ジェローデルが解説する。
 →全ツでは、「オスカルは王妃様を裏切って死んだ。王妃様を助けるのはオスカルの意志」という、わけのわからない話をしていた。そしてその間、フェルゼンは「かわいそうに」しか言わない。
・オスカルは真に「フランスのために」行動した。民衆に味方することになっても、それがフランスのため、ひいては王家のためにもなると信じて。アントワネットを裏切りたかったわけじゃないんだよ。……植爺はたぶん、理解して脚本書いてないけど。観客が理解してるから、まだ救いはあるか。
・「おねえさま」を連呼しておねえさまを説得、どーして「姉上」と呼んじゃいかんのかなあ、30男がさあ……疑問を置き去りに、フェルゼンはジェローデルと共にフランスを目指す。

 あ、あれ?

・「行け行けフェルゼン!」がない?!
 →通常ならこのあと恐怖の「スウェーデン宮廷」、そして抱腹絶倒の「行け行けフェルゼン」になるんだけど。あ、順番チガウか。「行け行け」は「国境近く」のあとだ。
・にしても、「スウェーデン宮廷」はもう、「フランス宮廷」でやっちゃったしな!
 →国王役の俳優も同じ。台詞も演技も同じ。掲げるテーマも、ロジックも同じ。だけどストーリー上の意味は正反対という、この世の物語ではありえないことをやったわけだ。

 さあてそのころ、アントワネットは?

・あれ? そーいえば「マリー・アントワネットは、フランスの女王なのですから〜〜!」がなかったぞ?
・フランス王家のみなさんは、すでにベルサイユをあとにし、パリでホームドラマをやっていた……。

 続く〜〜。


 星組『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』のおおまかな物語の流れ。
 プログラム買ってないんで、記憶のみで書く。だもんで、場面の順番など気にしないよーに。
 

・もちろん、「ごらんなさい♪」からスタート。
・マンガ絵から、アントワネット、オスカル、フェルゼン登場。

・オーストリア宮廷。「14歳祭り」開催。無駄に意味なく繰り返される説明台詞。ステファン人形登場。(S−1)
・アントワネットの嫁入り。ガラスの馬車登場。こまったもんだ。

・現在のベルサイユ。現在のアントワネットとメルシー伯爵の説明台詞がエンドレス。ステファン人形の説明。(S−2)

 てなことがあったうえで。
 まずはフェルゼンとアントワネットのふたりの関係について。

・フェルゼンとアントワネットのデートは小舟の上。恋人同士の会話は、恨み辛みを並べることに終始。……こええ。
・「不倫はやめろ。愛しているなら、相手のために身を引け」という至極真っ当なオスカルの言葉にフェルゼン反発。
・「女のくせに男の格好をしているから、そーゆーことを平気で言えるよーになるんだ」(カンチガイ発言1・後述予定)
・フェルゼンに罵られたオスカル、いじいじ。「私だって女だ」(カンチガイ発言2)
・メルシー伯爵がフェルゼン邸に侵入。アンリエッタの寝室に現れるヴィットリオのように、窓から情熱的に! やーん、フェルゼン逃げて逃げて〜!!
・フェルゼン、メルシー伯爵相手に逆ギレしていたそうだが、記憶にない。起きていたkineさん曰く、今まで通りだったらしい。ステファン人形の説明。(S−3)
・「愛の三叉路〜♪」と、自分だけが得する道を思案して歌う。……このへんからは目が覚めたので、記憶がある。

 つーことで、悩んだフェルゼンは。

軍服コスプレでアントワネットに別れを告げる。
アントワネット、逆ギレしない。
 →全ツ版ではオスカルに対して根拠のない難癖をつけて罵っていた。
・別れを決意したフェルゼンを誉めるオスカル。そのくだりで、どーゆーわけかオスカルの気持ちに気づくフェルゼン。自己正当化の言い訳を並べる。うざ。

 一方、オスカルとその周辺の物語は。

・オスカルは現在のフランス情勢に危機感を持っている。でもって、ブイエ将軍と対立している。
・またしても「女だから」つー話になる。(カンチガイ発言3)
・対立が表面化して口論になったところへ、ジャルジェ将軍登場。オスカルに張り手一発。辻褄の合わないつぎはぎ台詞。
・政治批判と女性人権論がごっちゃになっているキモチワルイ会話が続く。書いた人、相当アタマ悪いですね。

・国家を憂うオスカルと、「はっはっはっ」と笑うアンドレ、石につまづいて、あとは追いかけっこへ。
 →あ、あれ? 全ツでは天下無敵のバカップルだったのに? 同じシーンがそのままあるのに、バカップルになってない??

フェルゼンが、アンドレに説教しない。
 →全ツだの他のフェルゼン編であった、意味のないシーン。無責任不倫30過ぎ留学生が、自分の阿呆さは棚上げして他人にえらそーに説教たれる。余計なお世話極まれり。フェルゼンのバカさを強調するエピソードであり、こんなあさはかな説教くらってその気になるアンドレの情けなさを印象づけることになるエピソード。

かわりに、ジェローデルとアンドレのシーンがある。同じ女性を愛した男ふたりが、男として軍人として誠心誠意生きることを誓う。

・悶絶夫人、失神夫人が金切り声を上げる。まず、最初に1回。
・ええっ、まだ登場するの? しかもまた、リセットされたかのよーに悶絶失神やって、ざーますソングまで歌っちゃうの?! ……長いよ。

 でもって、王様関連の話は。

・ルイ16世(ちなみに、アンドレと同い年。まだぴっちぴちの青年)の趣味は、狩猟と錠前作り。錠前作りだ。なのに、「もう少しでこの錠前が開けられそうなんだ♪」と小箱を持って登場。錠前開けが趣味の王様ってナニ? 鍵を使わずに錠前を開けるのが趣味……そんなのが趣味……。(ゴトッ。ショックで錠前を落とす)
・ついでに、夜の散歩も趣味。のーみそが子犬ほどのお小姓を連れて。玄宗並みの愚痴を長々とこぼしつづける。愚痴も少しなら可哀想だが、語り過ぎられるとうざいだけであるという見本。てゆーか長すぎだ、このシーン。

・スウェーデン宮廷シーンがない。
 →全ツ、フェルゼン編の定番だった、キ*ガイ場面。一国の王が「他国の王妃をさらってこい。なーに、愛があればなにをしたっていいんだ。正義だ。ワシが許す!」と送り出す話。いやソレ、犯罪だから! 戦争になるから!

かわりに、フランス宮廷シーンになっている。
・テーマは「真実の愛とはなにか?」。青年の主張はフェルゼンくん、解説はルイ16世、プロバンス伯爵、ジャルジェ将軍でお送りします。
・「愛する人のために、身を引こうと思います!」「愛する人のために身を引く?! それは何故だ!」「真実の愛だからです!!」「おおっ!!」(どよどよどよ!!)
 ……アンタら、アホばっかですか。
 「ぼくの好きな食べ物は、たこ焼きです!」「たこ焼き?! それは何故だ!」「ほんとーに好きな食べ物だからです!」「おおっ!!」……こんなロジックを真面目にする人たちとは、お近づきになりたくないっす……。アタマ悪すぎ。
それでも、フェルゼンがさまざまな愛を語ることで、主役としての正しい仕事をしている。
 →全ツや他のフェルゼン編でただの無神経自己中男としてしか描かれなかったフェルゼンがはじめて他人の気持ちもわかるという具体的な描かれ方をしている。
すべての主要人物の立場をまとめ、それらを踏まえた上で「愛ゆえに身を引く」という正しいことを、堂々と行う。これこそ主役。これこそヒーロー。
・まあ、その「正しいこと」にたどりつくまで、ほんの10数年ほどかかって、オスカルに説教されて逆ギレして彼女を傷つけたり、メルシー伯爵に説教されて逆ギレして「愛の三叉路〜♪」と歌ったりいろいろしちゃったけどね。えへっ。
・真実の愛を胸に退場していくフェルゼンは、すげー、かっこいい。

 ここで、1幕が終わる。
 休憩休憩。


 印刷技術の進歩、万歳!

 これほど、「技術」の革新をよろこんだことがあったろうか。はじめてDVDレコーダを使ったときのような感動。最近で言うなら、買い直したDVDレコーダのW録画機能に震えるほど感動した(笑)、あのときのよーな思いだ。
 ありがとう技術者の人たち!

 と、幕開きから盛大によろこんだ。

 今回の星組『ベルサイユのばらーフェルゼンとマリー・アントワネット編ー』のことだ。

 つーのも、今回のプロローグは、「軽く3m×3mはあるだろーマンガの顔がぱかっと開いて、そこから役者が登場」という、最悪なパターンだったのね。演技で役を表現するとかじゃなく、マンガ絵まんま使ったプライドのカケラもないアレ。

 このパターンを最初に観たときは、ショックだったなあ。
 なにがショックって。

 デッサンの狂い方が。

 ありえねーだろ。
 目の位置が変、鼻が変、口の位置はさらに変。……ふくわらい? 目隠ししてパーツを並べた? そうよね、そうでなきゃありえないわよね?
 マンガ雑誌の「お便りコーナー」に載っている、「アタシ、マンガ描くの得意なの!」な中学生レベルの絵。
 あまりに下手すぎる絵に、原作ファンとして顎が落ちた。

 その汚すぎる絵から、アントワネットが、オスカルが、フェルゼンが出てくる絶望感。
 お笑いじゃないんだからさ……シリアスで、悲劇なんだからさ……なんとか、もう少し……。

 宝塚の舞台美術スタッフの技術の低さを思い知った瞬間(笑)。
 そりゃ、わかるよ。数cmの小さな絵を同じサイズで写すのだって、手で模写する以上崩れるものだって。それをあの大きさにまで「手で」写すわけだから、マンガ絵を描いたことのない「素人」(舞台美術のプロでも、マンガ絵は素人だろ)にはあれが精一杯だったんだろう。
 わたしの絶望は、そこじゃない。
 少女マンガっちゅーのは独特の世界と計算式で成り立っている。もとの池田理代子の絵だって、「人体骨格的に正しい」絵ではない。だが、一定のルールと感性でデフォルメすることによってあのお目々きらきらの絵が成立しているんだ。
 もしも「正しく」少女マンガを読める人があのグタグタに崩れたふくわらい絵を見たら、「おかしい。崩れてる」とわかるはずだ。考えるまでもなく。そして、そんなふーに「ふくわらい? もしくはピカソ?」ってくらい抽象的になってしまった絵を、金を取って何万人に見せるなんて、ふつーの神経をしていたらできない。
 そこにあるのは、ただの「下手くそな絵」だ。プロの仕事ではなく、原作のルールを理解せずに描かれた「子どもの落書き」だ。
 何故、プロの舞台関係者たちが、そんなひどいものを平気で商売に使うのか?

 あのひどい絵を冒頭で見せられて、絶望したのはそこだ。
「この崩れた絵を平気で人目にさらすってことは、プロとしてのプライドを持たない人たちが、この舞台を作っているのではないか?」
 ……という危惧を通り越し、
「この崩れた絵を平気で人目にさらすってことは、崩れていることに、気づいてないのではないか?」
 だったのよ。

 前述の通り、原作の絵だって人体骨格的に正しいわけじゃない。それのみを正として見た場合、十分「崩れた、下手な絵」に見える。
 少女マンガを理解できない人から見たら、原作のオスカルもアントワネットも、「子どもの落書き」ぐらい下手くそなまちがった絵なのよ。ルールに従ってデフォルメされているのに、そのルールを先天的に理解できない人から見たら、「ふくわらい?」くらい崩れた絵なの。
 そーゆー人からみたら、原作の絵も、この舞台上のグダグダに崩れた絵も、どっちもどっち、どうせ崩れた変な絵でしかないってこと。

 常識ではあり得ないくらい、崩れた絵が恥ずかしげもなく舞台で使われているこの現実は。
 この絵が「崩れている」ことに気づかない人たちが、この舞台を作っている、ということ。
 それはすなわち、

 『ベルサイユのばら』を根本的に基本的に先天的に、理解できない人たちが、この舞台を作ったのではないか。

 という絶望感だった。

 そしてそれは、真実だった。
 作・演出をする植田紳爾という人物は、最初から最後までついに『ベルサイユのばら』を理解できないままの人だった。

 そう。
 オープニングで、「これをオスカルと言ったら、オスカルへの冒涜だろ」という崩れた絵を使って平気であるということに象徴されたように。

 
 てなことがあったから。

 あれから何年? 何十年?
 印刷技術は進歩し、マンガの小さな絵を、人間が手で大きく描き写す必要がなくなった。
 原版をデジタル処理することによって、いくらでも、どんな加工でもできる時代になった。
 もう映画館だって、似てない巨大な似顔絵看板を飾る必要はなくなった。宣伝用ポスター写真を拡大して看板にすればよい時代になった。
 タカラヅカも、「素敵な絵ね」と言って、ヴィットリオ@オサとアンリエッタ@ふーちゃんの畳数枚サイズの写真を飾ることができるよーになった。

 印刷技術の進歩、万歳!

 これでもう、『ベルばら』のプロローグですでに絶望することもなくなった。
 そこにあるのは、原作のイラストをまんま拡大したものだ。見慣れた絵だ。
 植爺作品のひどさに、いずれ絶望するにしたって、幕が開くなり絶望、ということだけは回避された。
 そこまで強く思わなくても、崩れたひどい絵を見て観客が失笑することはなくなった。……もちろん、マンガ絵を使うという演出のダサさに失笑がもれることがあったとしてもだ。

 
 時の流れを感じたよ。
 たかが、プロローグのマンガ絵1枚にね。

 そして、そうやって印刷技術が変わって時代が変わったのに、それでも変わらない植爺のセンスと存在。
 それに、感心し、改めて失笑した。

 
 とゆー前振りではじめましょう、星組『ベルばら』の話。


 黒柳徹子は、どんどん株を下げている……。

 わたしの中でね。

 『愛・地球博』のサル池イベントのナレーションで、最悪にウザいうるさい金属音で棒読みをし、大いに株を下げた。
 たのむよ、プロを使ってくれよ。アナウンサーでも声優でもない人が、声だけで解説をしたり、演技をするなんて無理なんだからさ。

 そこへもって、『花の道 夢の道 永遠の道』の「声の出演」だ。

 『花の道』はバカ高い料金を取る言い訳に、チャリティーを謳っている。便利な言葉だ、チャリティー。チケ代の何割を寄付したのか秘密だから、割高だったチケ代が正しい価格設定だったのかは永遠の謎として歴史に刻まれる。
 ま、ユニセフに寄付、つーことで、親善大使だかの黒柳徹子氏にご出演……いただくはずが、来てもらえなかったんだってさ。
 それで、「声だけ」出演。録音されたメッセージを聞くことになった。

 この録音メッセージがまた、ひどかった。

 長いんだわ。
 喋る喋る。
 それも、空気読めない系の喋り。
 要点を簡潔にまとめられず、本能のままにだらだら喋る。
 しかも、噛みまくり、てにをは間違い、言い直しなど、耳障りに尽きる。

 生ならいいのよ。
 要点ズレてても、てにをは変でも、噛んでもまちがっても、実際にそこにいて、その場で喋っているならそれもアリだ。
 しかしコレ、録音なのよ?
 なんで文章まとめないの? まちがった言葉を平気で使うの? 言い間違いをそのままにしておくの?
 これが書籍なら、執筆依頼をされて、下書きのまま渡したようなもんだよ? 手書きで、まちがったところにバツ印つけて、横に小さく書き直してあったり、誤字脱字だらけ、それをそのまま書籍として印刷してあるよーな。そんな感じだよ。
 プロとして、それはどうなの?

 ありがたがって拝聴しなければならないよーなメッセージではなかったよ、ほんとに。

 本人に出演してももらえず、こんな「下書き」みたいなメッセージだけもらって、歌劇団、ナメられてるなあ、と、とほほな気持ちになった。

 
 それでなくても、この『花の道』イベントは、構成がひどく、「客をたのしませること」は考えていなかった。
 出演者が1シーン登場し、劇場の熱が少し上がったかな、というときに、わざわざ「小林大先生様のありがたいお言葉」を朗読し、水を差す。
 そうやって凍りついた劇場を、次の出演者が1シーン登場することによって少し温度を上げ、また「大先生のありがたいお言葉」で冷却する。
 その繰り返しだからなあ。
 司会者がうまければまだマシだったんだが、これまたひどい出来でなあ……。声は美しいし、情感もこもっていて、そーゆーところはよかったんだけど。なにしろ、噛みまくりでなあ……。あと、原稿が日本語変なところもあって(2回とも同じまちがいをしていたから、原稿自体がまちがってるんだろ)、耳障りなんだよなあ。
 

 第2部のOG編がよかったのは、そんなものすげーブリザード吹き荒れるよーなマイナス何度の世界でも、彼らが独自の熱で場を盛り上げる術を持っていたためだ。

 現役生たちは、そこまでの芸を極めていない。
 なのでどーしても、この構成では本来の力を発揮できない。

 サムいイベントだったよ(笑)。
 タカラヅカと出演者を愛していなければ、見ていられないよーな世界だった(笑)。

 
 さて、最後の最後、現在スケジュールが空いている生徒全員で「大先生様を讃える歌」を歌う。
 や、歌詞は聴いてないんでよくわかんない。タイトルが「花の道讃歌」だから、そーゆー意味だったんじゃないかと。

 オケ席の奥にある大階段に、袴姿で全員集合。
 歌なんか聴いてる場合じゃないって。誰がどこにいるのか、探しているだけで終わってしまう(笑)。

 前もってkineさんに教えてもらっていたので、わたしは見事に一発でまっつを見つけた。
 オペラをひょいとのぞいたその1回目に、まっつがちゃんと視界の真ん中にいたのよ。

 まっつは、素顔化粧でした。

 ショーに出演していた人は舞台化粧、それ以外は素顔化粧。圧倒的に素顔が多いのに……まっつの両隣は、よりによって舞台化粧さんだった。

 まっつ……視覚効果でさらに薄いよ……。

 第1部の音校生のよーに、ものすげー神妙なカオで歌ってましたよ。

 
 すげーなー、と思ったのがみわっち。
 この人最近、戦闘意欲にあふれているよねええ。
 こんなしどころのないショーでも、ガンガン自分を売りにかかってるし、最後の大階段合唱でも、譜面をほとんど見ずににこにこ微笑みながら歌ってるのよ。客席に目線配ってるのよ。
 他の人たち、みんなうつむいて譜面とにらめっこしてるのにねえ。

 ともちの後ろが七帆だったことに、人知れずウケる。(あれ? 十輝だったっけ? 記憶が薄れて自信がなくなったぞ? とにかく、でかくて薄い素顔の人・笑)
 やっぱアレですか、ともちの後ろが小柄な娘役さんだったりしたら、隠れてしまって見えないからですか。
 わたしも先日の『1万人の第九』でアリーナ席だったんだけどさー、ふつーに歌ってたら、後ろの人から「あなたがでかすぎて、前が見えません。右側に寄ってもらえますか」てなことをお願いされたもんなあ。ひな壇だったのに……段差より、わたしのカラダの方がでかかったですか、そうですか。
 ともちだって、娘役さんとの身長差、段差よりも大きいよねえ。なんかリアルにうなずいてしまったわ。

 そのかとまっつは、いつも対の位置。ふたり同時に見られないのがつらい。
 そのか、リアル男子だ……かっこいー……。

 脳を鍛えるパズルでもやっている気分。
 「**はどこだ」と、ひとりずつ時間内にさがしていくの。
 あんまり真剣にやっていると、目眩がしてくる。カオカオカオ。ふつーのカオの間に、ふっと濃い舞台化粧。うおっ。
 オペラグラスの視界が、肌色で埋まってる。

 
 にしても、大変だったねみんな。
 大階段の1段って、20数センチ、足の大きさくらいしかないんだよね?
 そこにあの人数でぎっしり整列したまま、ずいぶんな時間直立不動で待たされていたわけでしょ? ひとりふらついただけで、大惨事になりかねない状態で。
 そりゃみんな、カオがこわばっているわけだ。上の方の下級生とか、ひたすら気の毒だったよ。さぞつらく、こわかったろう。
 無事に終わって良かった。

 
 なにはどうあれ、ナマで観たからたのしめた。
 やっぱライヴであることってのは、大きい。
 しかしやっぱ、商業演劇集団として、こんな身内マンセー舞台を「興行」としてやる歌劇団には疑問が残る。
 ほんと変なとこだ、タカラヅカって。

 
 でもって、最後に私信。

 木ノ実さん、『花の道』チケ、ありがとうございました。
 こんな、よろこんでるんだが、クサしてるんだかわかんない感想になってしまってすみません。

 でもってぜひ今度、まっつ語りしましょー!!
 まっつ語りに飢えてますからわたし!
 まっつまっつまっつ。


  わたしが『花の道 夢の道 永遠の道』を観ようと思った理由のひとつは、まちがいなく春野寿美礼だ。オサちゃんの歌を聴きたい、つー気持ちがあった。
 それからなんといっても、まっつ。全員出席イベントだから、ろくに出番なんかないだろーけど、メイン歌手様の後ろでぞろぞろ踊っている中にはいるだろ。2階席からまっつを探して眺めるべ。

 ……まさか、両方裏切られるとわっ。

 寿美礼ちゃん休演は、仕方ない。残念だけど前もって知らされていたので、しょんぼりあきらめた。
 まあいいや、まっつは出るんだから……と、自分をなぐさめていたのに。
 現役のショー出演者は、各組4番手まで(W含む)。それ以外は全員、ラストの合唱のみ。
 えーと。まっつは何番手だ? オサ、ゆみこ、まとぶ、らんとむ、みわっち…………わあぁぁああんっ。

 ステージ上にオケ席が作られていたのが、すべての悪因。
 2階席からは大階段が見えず、ステージが狭いからバックダンサーもいない。今までもステージ上にオケ席が作られていたことはあったが、そのときは大階段をずっと出したままにはしていなかった。
 小林大先生様が、「オーケストラの指揮をしたい」という夢を持っていらっしゃったことと、全員出席で小林大先生様の偉業を讃える、というふたつの目的を果たすために、客のことなんかどーでもよくなった模様。……2階席からは舞台切れるんだよ……。S席いちまんえんもするのに……。(定価出している人は怒っていいのでわ? するとわたしには、怒る権利がなくなってしまうが……

 
 まっつの出番がないことにヘコみつつも、第3部本編開始。

 立樹遥氏がみょーにオイシイのは、気のせいですか?

 たった60分で各組4番手までぞろぞろ出演するわけだから、出番なんかほとんどない。
 最初に全員が順番に登場したのをのぞけば、トップ(ワタル、コム)が2回、2番手(トウコ、かしげ、水、タニ)が1回ずつ登場、あと2人口以上の扱いの登場は、ゆみことまとぶ、キムとれおん。
 トップ−2番手−2.5番手−3番手が彼らなのね。
 そして、それ以外の人たちが大勢でわいわい出るときに、何故かいつも、しいちゃんがセンターにいる。
 上記の人たちが真ん中にいるのはわかるが、それ以外で真ん中固定がしいちゃん、つーのは……びっくりだ(笑)。学年順ってのは、すごいなあ。また、「その他大勢」扱いなので、なまじなスターより出番が多い。銀橋まで渡っちゃうしなっ。

 理由が微妙でも、しいちゃんが真ん中でわらっているのでうれしい。
 ついでに、ともちが男前。
 ともちがウメちゃんと組んでてねー。なによあのビジュアルカップル。すげー長身の美男美女ががしがし踊ってるのよー。きゃー。ウメが小さい〜〜可憐〜〜ありえね〜〜(笑)。
 スターオーラびしばしのキムと、余裕ナッシングのれおんコンビとか。……同じように小さいころから抜擢受けて、この差はなんなのかしら。キムのあーゆーとこ好きだなー。

 タニちゃんとあすかちゃんのカップルも、すごかった。
 2番手としては唯一単独ではなく、銀橋もなかったタニちゃん。「シトラスの風」を歌いながら大階段を降りて来るんだが……。

 大和悠河、大暴れ。

 ものすっげータニちゃん。あまりにタニらしくて、爆笑。
 歌がものすごいのよ。だけどひたすら前向いて、堂々とかっとばしまくるの。
 伴奏もデュエットしているあすかも陰コーラスも、一切無視!!
 潔いまでに、自分の音程で歌っていた。

 あすかちゃんが必死にタニに合わせようとしているのが、これまたツボ。
 振り返らないタニの横顔をちらちら見ながら、一生懸命声を調節しているの。
 あすかちゃん、いい子だなあ……でも、さすがの君も、あの破壊力をフォローすることはできなかったね(笑)。

 花組のW2.5番手……ゆみことまとぶ。
 このふたりの「並びの悪さ」はなんなんだろう。
 ふたりひと組で場を回しても、華やがないのね。そして、ふたりでハモッてみても、響かないのね。
 変だなあ、まとぶはあんなに華やかな人なのに。変だなあ、ゆみこはあんなに歌のうまい人なのに。

 まとぶの華を打ち消す、ゆみこの地味オーラ、恐るべし!!

 ゆみこと組むと、まとぶが地味になる!! すげーやゆみこ!(ゆみこ大好き・笑)
 そして、まとぶと組むと、ゆみこの歌がそれほど深くなくなるのね。声や歌い方の相性の問題かしら。オサ様相手だと、あんなに響き合うのにね。

 らんとむの偉大さを知る。
 ここにとむ氏が入れば、ぱっと華やかになるんだよね。
 ゆみこととむでもいいし、まとぶととむでもいい。
 とにかくらんとむがいると、場がぱっと華やかになるんだ。
 ついでに、とむ氏の持つ「昭和オーラ」も解放されるので、まとぶの持つ現代的なスマートさは相殺されてしまうと思うけど(笑)。

 その、我らがとむ氏はといえば、なんだかあんまりな使われ方をしていた。
 同期並べで4人口。とむ、すずみん、壮、あひ。
 キムとれおんが2人口のうえに、ゆみこ・まとぶと一緒に銀橋まで渡ってしまうことを思うと、貧乏くじっぽいよなー。

 見終わったあとに、「しいちゃん、不思議においしかったよなー。ゆみことまとぶもいっぱい出てた。キムれおんすげー。……あれ? らんとむたち出てたっけ?」という印象になってしまった。

 それでも、すずみんは笑顔が素敵。この人のぱあっと明るい笑顔好き。
 らんとむは、裏切らずにらんとむ。ふふふ。
 壮くん、やっぱ髪型変(笑)。あひくん……薄い……。

 トップ娘役3人は、華やかでかわいかったっす。
 そーいや、1部の小林大先生へのお花贈呈は、午前がまーちゃん、午後がとなみちゃんだったなー。そっちもかわいかったー。

 ところで、ワタさんとコムちゃんがふたり並んで大階段を降りてきたときは、笑えたなー。
 縮尺まちがってます!って感じで。
 コムちゃんがそのままワタさんの中に入りそう(笑)。マトリョーシカみたいに。黒燕尾ワタさんをぱかっと開けると、中にコムちゃんが収まってるの。

 でもって、この男ふたり、「愛あればこそ」を歌うんだが。
 これってさ、男女のデュエット曲でしょ? 期待したのに。
 生髪の男の姿のまま、手を取り合って歌うところを。
 なのに、ふたりともただ並んで真正面を向いて歌うだけで、見つめ合いさえしなかったよ……しょぼん。劇団、ほんとにわかってないなー。
 歌うワタさんのところに、コム姫が登場した最初のとこだけかよ、ふたりが正面向いてなかったの。

 それに、コム姫とワタルくんなら、姿がオトコマエなのはワタルくんだけど、声がオトコマエなのはコムちゃんでしょ?
 このふたりで、コム姫女性パート、ワタさん男性パート、てのはなかなか愉快でした。
 コム姫、あんなに可憐な姿なのに、歌い出すとオトコマエだからなー。
 あんなに野太い声の「我が名はオスカル」はぢめて聴いたよ(笑)。

 続く〜〜。


 小林公平様の偉業を讃える会『花の道 夢の道 永遠の道』の、第2部OG編の話の続き。
  

 鳳蘭があまりにコテコテだったので。

 次に登場するずんちゃんで、場が冷えてしまった(笑)。
 ずんちゃんは相変わらず薄いよなー(笑)。宙組の正しきトップスター。薄く白く美しく。
 技術的にはたぶん、いちばん秀でているんだと思うよ。余力を残しまくった、「想定範囲」のなかのみで間違いなく端正に歌いきる。冷静に、淡々と。いちばん若く、だからこそ美しく。
 なのに、いちばん魅力が薄かった。ずんちゃんはただの「女性ボーカリスト」であり、「タカラヅカOG」ではなかったし、「男役」でもなかった。端正に「女性歌手」としてそこにいた。他の舞台なら、それでよかったんだろうね。

 でもここ、タカラヅカだから(笑)。

 他の3人は、「タカラヅカOG」として、「男役」として舞台に立っていたのね。だからとてつもなく濃かった。ヅカの曲だけでなく、彼女たちの「今」の歌を「女性舞台人」として歌う姿にも、明確な意志と意義があった。

 高音は出ません、でもそのぶんハートで歌いきります歌唱のいっちゃんの「星から降る金」は、その語りかけるよーな歌声にマジ泣きした。
 続く麻実れい様の「ためまくり」で自由自在大暴れな「愛の賛歌」や、どすこい深紅のドレスに着替えた大御所のこれまた洒落になんねー「スポットライトを浴びて舞台で死にたい」とゆー心意気をガシガシ歌う「歌いつづけて」。
 「歌」としての技術だとか素質だとかでいうなら、ずんちゃんがいちばんで、あとは順に下がっていっているだろーに、けれんみというか表現力というか、魅力や他者に訴えかける「力」はずんちゃんがいちばん下で、あとは順に上がっていくんだなー。
 すごいなー。技術だけじゃないんだ、歌って。舞台って。

 鳳蘭のすごさを見せつけられた舞台。
 鳳蘭、麻実れい、一路真輝ときて、姿月あさとの浮きっぷりがちと気の毒なほどだった。ずんちゃんだけ、なにもかもちがうんだもん。

 ま、それはともかく。
 麻実れい様よ。

 女になってからもこの人、ものすげー愉快だった。
 ツレちゃんが「みんなよっといでっ、祭りだよ!!」とゆー感じの押し出しの良さで魅力を発散するなら、ターコさんは「麻実れいの世界」にうっとりと入り込むの。うっわー。別のオーラ出てるよー。長い髪をひとつにまとめてアップにし、ドレスを着てなお、男ではないし、女でもない。何人とかゆーんじゃなく、不思議な、麻実れいという生き物なのよ。別個の生物なの。

 『花の道』を通していちばんたのしかったのは、麻実れいの宇宙人ぶりだった。
 ああ、かっこいー、麻実れい様。この人に口説かれたらあたし、絶対墜ちる。あの長い髪を肩に落として、あのセクスィヴォイスで「こあら、これからアタシの部屋に来ない?」とか言われたら、めろめろりんでふにゃふにゃついていくなあ……。(女言葉で口説かれたいっ。女言葉使ってても、性別不明の美しい生き物よ、あれはっ)

 あー、おもしろかった。『はばたけ黄金の翼よ』のビデオでも発掘して、見直してみよーかなー(笑)。

 
 第1部を観て、「帰ろうかな……」とドン引きしていたのが、この第2部で来て良かった! な気持ちに。

 ここで休憩があったわけなんだけど、そのときにロビーで落ち合ったサトリちゃんも、OG編をめちゃくちゃたのしんでいた模様。
「歌聴いて号泣しちゃったんですけど、マジやべえ」
 とかゆって現れるし(笑)。

 わたしも泣いたよー。油断してたから、相当効いたぞ、一路真輝おそるべし。

 そしてなにより、麻実れい様で盛り上がる。

 同志サトリよ!! まさかこんなところに、麻実れい様のすばらしさで手を取り合える仲間がいようとわっ。共に彼女の現役時代を知らないのに。

 わたしたちは午前午後とも2階席だったんだが、午後公演は「1階で観よう」と誓う。
 席チケット捨てて、立ち見にもぐりこもう。わたしもサトリちゃんもでかいので、人の頭越しでも十分見える。立ち見の人たちがちゃんと自分の場所を確保したあとで、後方にまざろう。
 てゆーか第1部いらないし。
 2部から劇場に入ればいいよな。暗転のときにでも。

 オケ席がステージ上にあり、大階段がその後ろだったので、ものすごーく深い位置になっていたの。
 だもんで2階からは見切れてしまって、大階段が全部見えないのよ。
 ひどい話よねえ。通常より高いチケ代取っておきながら、舞台が全部見えない席があるんだから。

 んで、わたしたちの「1階で観よう」の直接的な原動力は。

 大階段に登場する麻実れい様を、最初から見よう!

 ……でした。
 2階席からじゃ、大階段の上見えないもーん! 麻実れい様のために、立ち見するわよお。

 
 実際わたしとサトリちゃんは、午後公演の開演時間にはまだ、某店で昼ごはん食べてました(笑)。

 そんな人たちが、わたしたちの他にもいたよーで。
 開演しているのに、劇場内ロビーで歓談している人がいたり、トイレに人がいたり。まあなあ、素人指揮のひでー演奏何度も聴かされてもな……。

 小林大先生様の指揮で、音校生たちが合唱をはじめるころにこっそりと立ち見席に混ざる。……立ち見の人たち、少なかったっす……。みんな手すりにもたれていて、壁際は空いていた。
 おかげで悠々観劇。

 目的の麻実れい様も堪能できた(笑)。
 サトリちゃんは「ターコ様目線位置」に立ってしまったらしく、麻実れい様から目線がばしばしとんできて、悶絶してました。うらやますぃー。

 
 とにかく、全編通していちばんたのしかったのが、第2部のOG編。

 この濃ゆい濃ゆい2部を観たあとでは、現役生たちによる第3部が、とても薄く淡泊に見えてしまいましたことよ。


 麻実れい、うさんくせーっ!!(笑)

 『花の道 夢の道 永遠の道』でいちばんウケたのは、他でもないターコさんだ。
 いやあ、おもしろかった。大爆笑。
 こんなにおもしろい人だとは知らなかった。

 登場からして、ハンパではなかった。

 第2部はOGコンサート。
 まずずんちゃんが出て、その歌唱力で空気を変える。
 第1部が小林公平氏による素人指揮と実力がかなりアレな宝塚歌劇団オーケストラの演奏という、「帰ろうかな……」「まちがえたかな。あたし、ここにいていいのかな」と観客をドン引きさせる演目であっただけに。
 おまけに、書いてある原稿を読み上げるだけなのに、3行に1回は噛む、素人丸出しの司会者がさらに「大丈夫なのか、この公演」という不安感をあおり、すばらしいわけでもなんでもない素人文章である小林氏のエッセイを褒め称えながらだらだら読み上げるという構成に絶望感が募っていただけに。
 それらの空気を、ずんちゃんが払拭してくれた。
 『エクスカリバー』の主題歌を朗々と歌い上げたずんちゃんに、返された拍手の温度がちがった。音がちがった。
 ああ、観客の心がひとつになっている。
 第1部の拍手は、こんな音じゃなかったもの。わたしは午前午後と2回続けてこの公演を観たんだが、2回ともここの拍手の盛り上がり方が同じだったので「みんな同じ気持ちなんだわ」と安心した。
 ずんちゃんが出てくるまでのこの公演、かなりやばかったよねええ?(笑)

 ずんちゃんが歌い、ドン引きしていた観客がほっと息をついた。
 次に登場したいっちゃんで、よーやく「ミュージカルスターのコンサートを観に来たんだ」ということに気づく。
 たぶん、歌唱力ではずんちゃんの方が上だろう。でも、表現力で勝っているのがいっちゃんかな。過分にハートフルで、少々暑苦しい歌声(笑)。
 持ち歌の「愛と死の輪舞」をトートになりきって歌い、わざわざ衣装を替えて、スカーレットの「明日になれば」を歌う。
 
 わたしは、そのいっちゃんが銀橋で力強く絶唱しているときに、ライトのあたっていない本舞台に気を取られていた。
 次のスターが、銀橋でスタンバッているんだわ。

 その、姿が。

 ごめんいっちゃん。
 歌っているあなたより、真っ暗な銀橋で黄昏て立っている麻実れい様に釘付けでした。

 なんなのあれ。
 おもしろすぎだ。

 ただ、立っているだけなんだけど。
 片方の肩をあげ、うつむき、入っちゃってるの。
 そこに、なんかいる。
 立っている。
 なんか、とんでもない生き物が立っている。

 いっちゃんが拍手と共に去り、銀橋にライトがあたった!
 暗闇で黄昏ていた男が、その光にふっと顔を上げる!
 シニカルに、セクスィに口元だけで笑い、男は歌い出す。「君はマグノリアの花の如く」、レット・バトラーだ。
 丈の長いジャケットに、細身のブラックジーンズ。年齢不詳の色男はお貴族さまのよーな裾巻き毛のロングヘアを無造作に背中に流し、自意識過剰の巻き舌とハスキィヴォイスでねっとりと歌い上げる。
 その声、歌い方、仕草、表情、立ち居振る舞いのひとつひとつ、そのすべてが。
 胡散臭ぇ。
 も、どっから見ても完璧に、胡散臭いのよっ!!(笑)

 色男の名は、麻実れい。
 年齢不詳、性別不明。
 あれはなんですか。人類ですか。
 別の宇宙から来た人ですか。

 司会の檀ちゃんとのサムいトークのあと(檀ちゃんは誰を相手にしても自爆していた)、麻実れい様は『はばたけ黄金の翼よ』から2曲つづけて披露する。
 ねっとりこってりストーカー風ラヴソング「君を愛す」。まさにお貴族様な立ち居振る舞いで、美形オーラをばしばし出して陶酔したまま銀橋を渡る。
 すげえ。すげえよ麻実れい。そのトップテンションはなにごと? 恍惚としてらっしゃいますが。
 そーやって銀橋中央まで来た彼は、わたしたちに背中を向けた。曲調ががらりと変わる。突然、ノリノリです。麻実れい様はくるりと振り向いて、すばらしい勢いで腰をお振りになり、「いえいっ」な調子で「はばたけ黄金の翼よ」を歌いはじめる。
 わわわ。
 さらに進化系ですか! あわてて手拍子を入れる観客。麻実れい様はさらにキレよくキザりまくり、恍惚の極地で歌を終えられたのでした。

 爆笑。
 声を出せないので、口を押さえてじたばたしちゃった。

 素敵。
 すばらしすぎるよ、麻実れい。
 こんな人だったの? ビデオでしか見たことない人だったんだけど。ビデオでだけど、「めちゃくちゃかっこいい!」と思っていた人だったんだけど。『ハムレット』観に行ったけど、こんな人だとはわかんなかったよ。ストレートプレイだったから?
 ヅカの舞台でナマで見るのは2回目、1回目は『ノバ・ボサ・ノバ!』の前夜祭で、しいちゃんに、「将来トップになる」とかなんとか言っていたことしかおぼえてねえ(笑)。

 こんなにすばらしいキャラクタだったとは。

 麻実れい様と入れ違いで大階段に登場したのは、言わずとした大御所、鳳蘭。キラキラ付き黒燕尾でこれまたトップテンション。「ハッ」とか「ウッ」とかゆーノリで「セ・マニフィーク」熱唱。腰振り振り。
 こちらは、濃い。派手。
 いいも悪いもなく、場を盛り上げてしまう。
 こってこての「タカラヅカ」。吉本に通じる脂ぎった空気感。

 ああ、「時代」の差だな。と思った。
 これは「現代」ではない。大昔、こんな時代がたしかにあったんだろう。タカラヅカは時代錯誤に「現代」とは別のところにある文化だけど、それでも時は流れているんだ。鳳蘭は、たしかに「過去」の人だ。

 でも、この人のすごさは、「過去の人」であるにも関わらず、現代を「自分の時代」に引き寄せてしまうことだ。自分が遅れている、終わっている、なんて認めない。自分のいるところこそを「今」にする力。

 すげえなあ。
 ときめくことはないが、素直にその「力」に敬服。一生この人はこのままなんだろう。かっこいいよそりゃ。

 おもしろかったんだよ、鳳蘭。
 関西のおばちゃんそのもののトークがではなく、キャラクタそのものが。
 その濃くくどく、攻撃的で露悪的で時代錯誤な芸風を含め。

 いやあ、こってこて。おもしろー。

 わたしはそれでも現代人だから、この昭和中期のまま時が止まった人に惚れ込むことはないし、タカラヅカがこの人の時代まで戻ってしまったら嫌だけど、たまにこうして「過去のタカラヅカ」を味わうのもいいかもしれない。と、はじめて思った。
 たまになら、すげーおもしろい。
 タイムマシン感覚。
 昭和中期の日本がそこに。

 続く〜。


 2006年元旦。
 今年の運勢にめいっぱい不安をおぼえる年のはじめ。その、おみくじがね……ちょっとね……。

 CSの目玉月組『エリザベート』ではなく、『Crossroad』のビデオ見てます。
 正塚作品ではコレがいちばん好き。もう何回見たかわからないくらい、飽きもせずにビデオ見てる。同一首位(笑)で『二人だけの戦場』かな。……どっちも、たかちゃんがものすげー好きでな……。

 『Crossroad』でいちばん好きな台詞は、

 たかちゃんが樹里ちゃんに、

「お前を愛してる!!」


 って叫ぶやつだわ。1幕の終わり、波止場のシーンね。

 いいよなあ……たか×樹里……樹里×たかでもいいけど(役名で言いましょう。誤解を受けます)。

 1年の最初だから、好きな男の子に会いましょう。
 ヅカ作品のなかでいちばん、『Crossroad』のアルフォンソ@たかこが好き。
 一途で不器用な男の子。とびきりやさしくて、でもぶっきらぼうで。
 心の正しい男の子。その正しさが、ときにひとを傷つけて。自分も傷ついて。
 若くて、その若さゆえにある意味残酷で。正しいからこそ、ある意味残酷で。
 傷だらけで。あちこちぶつからずには、生きてゆけなくて。
 それでもなお、心正しく生きることを誇りにする男の子。

 たかちゃんは、「男の中の少年性」を演じるとものすげー輝くよね。
 その繊細さが切ないほどに。

 登場人物全員好き。

 デュシャン@樹里ちゃんのずるさと弱さ。
 てゆーか樹里ちゃん、うますぎ。脇役たちが学芸会なのに、それをひとりで引っ張ってる(笑)。
 ひどい男なのに魅力的で、どーしよーもない。大好き。

 ヘレナ@あすかちゃんの、歪みと弱さ。そして、その恋。
 遠野あすかという女優の原点であるだろうこの役を、生で見られたことがよろこび。自慢(笑)。すげー新人が出たもんだと舌を巻いたよ。
 ヘレナの孤独な叫びが、台詞にない部分の闇が、ものごっつー好みだ。彼女の言動のひとつひとつがわかる。わかりすぎる。こうするしか、なかったんだよね……。
 心は悲鳴を上げているのに、強がり続けている孤独な女の子。その歪みごと好き。大好き。

 
 これからもずっと、ことあるごとにこの作品のビデオを繰り返し見るんだろうな。

 大好きであることが、うれしい。


 今年のヅカおさめは、水くんとゆーひくんで。

 つーことで、2005年の大晦日は宝塚ホテルで行われる『「ベルサイユのばら」2006カウントダウンスペシャル』に参加して来ました。

 スカステの催しに応募するのははじめてだったんだが、するっと当たったのは応募者が少なかったのだろうと推察。
 とゆーのも、ペアで当たったはいいが「誰を誘おう」と考えたときの選択肢の少なさに途方に暮れたもの。

 大晦日の夜、たった1時間のイベントに、この世の果てにも近い田舎タカラヅカ村に、行くことの出来る、行く気力のある、スカステ加入者。

 大晦日の夜、たった1時間のイベント、つーのがなあ。
 家庭のある人はまず無理だろうし、独り者でも大晦日は忙しいだろうし、元旦も予定があって然るべきだし。第一そこまでして参加したいイベントかどうか、相当微妙だよなあ。
 そりゃわたしは、水くんとゆーひくんのためならぜんぜん平気だけど。ふつーの人は、そうじゃないよなあ。
 アツい水ファンはいるけど、そーゆー人に限ってスカステ未加入だから誘えないし。

 おそるおそる誘ったnanakoさん、快諾してくれてありがとー。
 一緒に行くことが出来て、とてもうれしかったっす。

 
 その微妙イベント、『ベルばらカウントダウン』。

 ほんとーに、微妙だった(笑)。

 スカステで生中継されていたけれど、生中継の意味はあまりなかったんじゃないかと思う。
 なんでかっつーと、「生」の部分が少なすぎたから。
 半分ぐらい、あらかじめ用意してあったビデオレターだったの。
 ビデオレターも少しならいいけど、えんえんえんえん続くとうんざり。ありがたみもなにもねえ。

 次の不満はなんといっても、謎の構成だな。

 ゆーひくんを隔離する意味がわかりません。

 出演者は、ゆーひ、水、まーちゃん、壮くん。
 この並びでいちばん興味を引くのは、雪組の面子に混ざっている大空祐飛、でしょう?
 それまでのイベントや番組ではなかったこと。雑誌でも番組でも、人気のある企画でしょ、意外な顔ぶれでトーク、てのは。

 組替え経験のない箱入り息子が、よそ様でどんな顔を見せるのか。それをたのしみにしていたのに。

 ゆうひくんだけ、隔離。
 舞台から消えてしまい、残った雪組の3人だけで「座談会」。
 ゆーひはそのあとで「別格」とゆー感じで登場、司会者のおねーさんと「対談」。

 そんなの、今までも、そしてこれからも、いくらでも見られる光景。
 このイベントだけの「特別」感はどこにもなかった。

 3人1組の水くんたちより、あとからたったひとりで登場するゆーひくんがあまりにも「スター」で、「このイベントだけで見たら、トップスター大空祐飛と、その他の出演者、って感じだな」だし。
 学年に考慮しているにしては、やりすぎだし。トップ娘役と2番手男役より扱いをよくしなきゃいけないほど上級生なのか?
 なに考えてこんな構成になってるんだ??

 ゆうひくんに気を遣いすぎているのが、不思議。

 
 企画も進行もかなり素人臭くて、来年以降も続けるならキモ据えて再考求む!だが。
 それはさておき、出演者の話。

 まーちゃん、かわいー!!

 妖精です。マジ妖精ですよこの人。
 なんなのこのかわいらしさ。
 清楚で可憐。笑顔が癒し系。そして、ナチュラルに電波発信。

 あちこち言動変だし、数が数えられないとかあっても、そんなのぜんぜんかまわないっ。かわいいからすべてOK!
 カウントダウン(数を逆に数える)ができなくて、事前に練習する人なんて、彼女だけでしょう。
 このまーちゃんを見られただけでも、行った甲斐があった。

 そして、ゆーひくん、素敵。

 かっこいい。きれい。きらきら。フリルブラウスをあたりまえに着こなしちゃって。
 なんかものすげーオーラ発してたんですが。この人、こんなだったったっけ?
 あまりにもふつーに「スター」として存在しているのが、かえって不思議。
 発言もなんとなく力強くて。前向きで。
 ……わたしの知っていたゆーひくんと、微妙にチガウんですが。

 まーちゃんとゆうひくんの並びが、夢のように美しかったです。
 ふつーに男女カップルに見えるのね。
 しかも、かなりの身長差。
 それがゆーひくんのかっこよさ(このあまい美形のにーちゃん、モデルさん?)と、まーちゃんの可憐さ(芸能人だよね、お人形さんみたい♪)を、引き立て合うの。
 また、4人並んでいるとき、ゆうひくんは隣のまーちゃんとばかり話すので、反対側の隣の水くんとの間は微妙に空いていて。壮くんと、水くん、ゆーひ&まー、という並びに見えた。

 水くんは、表情豊か。

 ゆうひくんがあまり表情大きくないぶん、ひとりで百面相。口でけえ。アゴすげえ。てゆーか、素顔だとかなり、その、ファニーフェイス。フリルブラウスがアゴに届いているよーな……アゴがフリルに届いているのか……。
 雪組トリオのリーダーとして、会話を引っ張り、自覚を持ち、なんかすっげーがんばっていた。いやその、がんばっているのが見え見えで、かわいい(笑)。話し出すとき、手がグーになるの。うわ、拳握ってるよ、カオはにこやかなのに、ほんとはすっげーがんばってるんだ、と。
 ……真面目な人だよなあ。しみじみ。

 わたしは素顔の水くん見るの、たぶんはじめてだと思うけど、触りたがりですか、この人?

 なにかっちゃー大きくリアクションして、隣のゆーひくんに触りたそーにして、でもゆーひくんがそれにすぐ応えてくれなくて(彼は水よりまーちゃんの方に反応しがちなので)、空振っているのが愉快だったんですが。

 水くんとゆーひくんのテンポが合っていなかった、というのがいちばん大きいのかもしれんが。
 ボケとツッコミになるには、まだまだ時間が必要というか。水くん、空回り気味でいいなあ。うっとり。

 壮くんは、サラリーマン。

 いちばん美形なはずなのに……どーしてこう、美しさよりおっさんくささが目に付くんだろう(笑)。
 せっかくハンサムなのに、どっかイケてない感じの漂うリーマン青年のやうだ。会話は愉快なんだけど。イイ味だ(笑)。

 
 大好きな出演者を生で眺めて、歌を聴いて(しかし『愛あればこそ』を3回聴かされるって、どうなのよ)新年を迎えることが出来て、幸福な年の境でした。
 

 でもって、会場にいたみんな、人の話は聞こうよ。

「『あけましておめでとうございます』の『す』で、クラッカーを鳴らしてください」
 って、再三言われてたじゃん。
 カウントダウンの「3・2・1、ゼロ!」でクラッカー鳴らしちゃってさー。

 わたしはちゃんと、「あけましておめでとうございます」の「す」で鳴らしたわよ。ふふ。
 隣のnanakoさんも、「ゼロ」で力一杯鳴らしてるし(笑)。落ち着いて行動しなきゃだわ。ふふ。

 こーやってわたし、落ち着いた1年を過ごすのよ。


「この手帳、ぜひ大劇場で落として欲しい」

 と、友人たちから言われる。

 2005-10-16の日記にある、タカラヅカスケジュール帳のことですよ。
 表紙がまっつ、裏表紙がそのか。

「それで、放送されるの。『表紙がまっつ、裏表紙がそのかの手帳を落とされたお客様……』って」

 放送されないわよっ。劇場が落とし物程度でいちいち放送するわけないでしょう。
 落とした客が自分でカウンターに「落とし物届いてないですか?」って聞きに行くのよ。

「じゃあ緑野さんが自分で行くんだ。
『手帳、届いてませんか』
『どのような手帳でしょう?』
『表紙がまっつ、裏表紙がそのかの手帳なんですけど……』
 自分で言うわけだ」

 ややややめてよーっ!!
 それこそ羞恥プレイじゃないのよーっ。
 落とすもんかっ。死んでも落とさないぞっ。

「でも、あたしが拾った人なら、自分で落とし主に連絡するかな。だって、こんな手帳拾ったら、ぜひ持ち主に会ってみたいと思うもん」

 そこであがる同意の声。
 なによソレ。この手帳はキャトレで売っていた公式グッズよ。表紙に舞台写真を入れることだってキャトレが認めていた使い方よ。
 わたしは常識の範囲内で生きているだけよ。ひとさまの興味を引くはずがないわ。
 それとも、まっつとそのかの写真がいけないというの?

「この中身見たら、絶対カオ見てみたいと思うって」

 中身。
 キャトレで売っていた、スケジュールシールはほんの小さなものなのに380円もした。あれっぽっちのシールじゃぜんぜん足りない。わたしの1年の観劇スケジュールをフォローするためには、少なくとも10枚は買わなきゃ。
 10枚っつーと、3800円? じ、冗談じゃないわ。あんなシールごときに3800円も出せない。あれくらい、自分で作れるじゃない。

 つーことで、作った。
 スケジュールシール、自分で。

 初日新公千秋楽、友会入力発売日、そして自分の観劇日。組カラー別にシールを作り現在わかっているだけの日程を貼り込み、『ベルばら』は全役替わり日程まで1日ずつシールで貼り分けた。
 シール制作は試行錯誤、もっとも便利な大きさやレイアウトにこだわり、そのあとなによりも、1枚ずつ手帳に貼り込んでいく作業が大変で、全部で半日かかった。

 やりだしたら、無我夢中でね。無心の境地で制作した手帳なんだけど。

 たしかに、その……なんかものすげー、タカラヅカ大好き、タカラヅカが人生のすべて! って感じの手帳になってるわね……。

「こんな手帳拾ったら、いったいどんな人が持ち主なのか、見てみたいと思うよ。あんまり、すごいから」

 …………。

 落とさない。
 落とさないからねっ。
 そんな恥ずかしいことになってたまるかぁーっ。

 そんなに恥ずかしい手帳になっていること、そんな恥ずかしい人生になっていること、自覚してなかったよ。

 ただ、表紙がまっつだから(舞台写真を堂々と入れていることね)恥ずかしいのかと思っていた。

 あー、でもでも。
 まっつといえばさあ。

 今のわたしの待ち受け画像、まっつなの!!

 柚さんいつもありがとう。
 もらったまっつ画像を加工して、待ち受けにしちゃったわ。
 素顔のふつーにきれーなおねーさんのまっつではなくて、投げチュー@おしょーずのまっつ!!
 なんかもう、このまっつの恥ずかしさが群を抜いていてねえ。転げ回りたいよーな恥ずかしさなの!!
 大きな画像の方は、日々何度となく眺めては、にまにましてる。やっぱ美貌のトド様やめて、まっつを壁紙にしようかなあ……。

 まっつの投げチュー写真が自慢で自慢で。
 会う人にもれなく携帯待ち受けを見せては自慢してる。この恥ずかしさがたまらないのよお。まっつは恥ずかしいのがいいよねえ。
 みんなもれなく笑ってくれるし。

 ……はっ。
 恥ずかしいのはまっつでなくわたしの行動か。生き方か。

 
 年末だからか、いろんな人たちが「2005年の観劇回数」を報告し合っている。
 みんなすごいわねえ、と笑って聞いていたのだけど。

「緑野さんは何回ですか?」

 と最初に聞かれたのが、自宅で電話で話しているときだったのよね。んで、気軽に、そのときそばに置いてあった「チケットの半券の束」を手にとって、数えだした。
 ヅカだけ、今年の分だけをてきとーに突っ込んである束よ。マメな性格ではないので、これで全部じゃない。財布や手帳、いろんな鞄に半券はまだ入れっぱなしになっている。プログラムに挟み込んでいたりもする。
 全部じゃないのに……数えても数えても、まだ厚みがある。
 あれえ?

 ……半券だけで判断して。

 2005年。わたしは、3日に1度はヅカを観劇していたようです。

 そんな人生って……っ!!
 まちがってる。
 まちがってるよママン!!

 ご贔屓不在なのよ? 今年は落ち着こう、って、年初にあちこちで宣言していたのよ?
 なのになんで、こんなバカみたいな回数観てるの?
 それも、地元関西だけじゃないのよ? 東京だの博多だの名古屋だの……交通費その他モロモロを考えると目眩がする。

 お、落ち着こう。来年こそは、観劇回数を減らそう。

 目指せ、2ケタ!!

 2006年の観劇回数は、99回以下を目指します。
 まっつ手帳を握りしめつつ、誓うのだった。


犬とかっぱ。
 待ち合わせは、ドラマシティ入口前、午後12時。(わかる人にだけ意味がわかる、場所と時間)

 チェリさん、nanakoさん、ハイディさんと忘年会しました。
 ごはん食べて、ただひたすら喋りたおす。

 ヅカのこと、猫のこと、話題さまざま。
 たかちゃんのこと、人事のこと、コーザノストラのこと、『マラケシュ』のこと、ゆみこのこと、まっつのこと。話題さまざま。

 解散後、わたしとnanakoさんはふたりでお買い物。
 DVDメディアを買いたいとゆーnanakoさんについて、ヨドバシカメラへ。

 わたしはもう、つい先日50枚ばかりメディアを買い込んでいたので、今のところは買わなくてもいい。
 でもさ、その「つい先日」、くやしい思いをしたの。

 VictorのDVD-RWメディアにだけ、「ニッパーグッズ」がついていたのよ。

 わたしはパナユーザーなので、RWは使えない。たとえ使えたとしても、使ってないだろーとは思うけど。
 なんにせよ、わたしが買えないものにだけ、「ニッパーグッズ」がついていたのよ!!

 どーしてRWだけ?
 VictorもRAMは出してるのに、RAMにはついてないの?!
 もしついてたら、いらなくてもRAM買うのに!!(基本的にわたし、Rしか必要としてません)

 ニッパーとはなにか?

 Victorの商標の、「蓄音機をのぞき込んでいる犬」のことです。
 蓄音機から「亡き主人の声」が聞こえ、それで小首をかしげるよーにしてのぞきこんでいる、泣かせる犬のことですよ。

 そのニッパーくんが。

 わたしと友人たちの間では、まっつ認定されているのです!

 や、だってなんか、似てるし!!

 あの、儚げな可憐な様子が。
 こまったよーな、ものがなしい様子が。

 やーん、Victorのまっつグッズ欲し〜〜!!(ちがいます)

 わたしの買えないものにだけ、まっつグッズ(ちがいます)がついている……と嘆いていたっつーのに。

 nanakoさんとやってきたら、するっと解決。
 nanakoさんは、RWユーザーだった。

「欲しいんですか? じゃ、私が買いますから、まっつは緑野さんにあげますよ」

 「まっつは緑野さんにあげる」

 ……すげー響きだなあ。しあわせだなあ。

 VictorのRW10枚パックに、まっつグッズ(ちがいます)がひとつついている。
 色は3種類あった。オレンジとグリーンとブルー。
 nanakoさんは2パック買うと言うから、「2種類、好きな色を選んでください」と言ってくれる。

 どうしよう。
 オレンジとグリーンとブルー。
 どの色がまっつにふさわしい?

 悩んだあげく、オレンジとブルーにした。
 いちばん派手で似合わない色と、地味でさみしい色(笑)。

 ありがとう、nanakoさん。
 さっそくまっつを携帯につけて持ち歩くわ!!

 
 そーやって、ほくほくしていたら。

 今度はパナのRAMに、かっぱシールが貼ってあるのを発見した。

「あああっ、かっぱだー!!」

 かっぱマニアのnanakoさん、声を上げる。
 世界中のかっぱグッズを集めることをライフワークとしているnanaたんなのに。
 かっぱシールは、nanaたんの使えない、パナ製品のポイントシールなのよー。
 nanakoさんのDVDレコーダは、パナ製メディアは使えないし、スカステ録画がメインである以上、Rは意味ないし。

 RWを使えないわたしの愛するまっつがRWについていて、RAMを使えないnanakoさんの愛するゆみ……いやその、かっぱたんがRAM仕様メーカーであるパナ製品についているなんて。

 人生って、皮肉よね。


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