凰稀かなめが、壮一帆に似てきた件について。

 大変です。
 大変ですよ。

 ちょっと目を離した隙に、かなめくんが壮くん化してました。

 トランティニアン@かなめくんが、まんま壮くんに見えた。ついでに、ショーのカウボーイも、まんま壮くんに見えた。

 なんてこと。
 みんなが危惧していたとーりになっているのか、雪組の怪。

「雪組の路線男役ってさ、みーんなハマコかかしげになるんだよねえ」

 と、言っていた通りになっちゃうんですかい?

 濃くなるとハマコ。薄くなるとかしげ。
 そーゆー成長しかしないのか。

 濃い男役は必要ですが、ハマコになっちゃうとソレ、チガウから! ソレぢゃ別格キャラだから!
 白い王子様は必要ですが、かっしーになっちゃうと色気皆無の人畜無害「お友だちでいましょうね」だの「いい人なんだけど……ゴニョゴニョ」キャラになっちゃうから!
 乙女の恋愛対象にならないから!!(わたしはハマコもかしげも大好きです)

 壮くんは花にいたときは別のキャラだったのに、雪に来てからはどんどん薄くなり、かっしー化を遂げている。今じゃ立派に「かしげ分類」キャラクタだ。
 「ハマコ分類」は言わずとしれた、キムとオヅキな。コマちゃんもこっちだ。
 かなめくんは、かっしー分類になりそーでならないあたりで、ぎりぎり踏みとどまっていたのに。

 なんてこったい。
 すっかりカシゲ属ソウ科オウキカナメになってしまったか……ッ!

 残念ですよ。
 それはとてつもなく、もったいないですよ。

 貴城けいは、貴城けいひとりで十分だし、壮一帆は壮一帆ひとりで十分です。

 みんなひとりずつ、魅力的な人たち。
 別に同じ役をしているわけではないのに、まぬけ刑事を演じるかなめくんに、壮くんが透けて見えてしまうのはいかがなものか。

 つっても、壮くんとちがってかなめくんはすげーおどおどして見えるしなー。

 壮くんはいろいろナルシー入ってて、そこが彼のかわいーとこなんだが。

 かなめくん、照れてるだろ。スタァな自分に。

 
 芝居は、主要人物をキャリアのある人たちが演じていたので、「全ツだから」ということがあまり気にならなかった。
 だがショーは、場面ごとに別物、そして若手絶賛発売中。

 テストプレイ中、って感じに見えた。

 習作、とか、お試し、とか。

 商品として発売する前のパイロット版って感じ。
 これをもとにして、もっとクオリティをあげて商品にする。
 つまり、今はまだ「金を取って販売できる状態ではない」という。

 コマ、せしる、蓮城と、みーんな「修行中」って札がアタマからでかでかと貼られていた。
 うわー、本番で練習してるよー。
 という、ちょっといたたまれないよーな恥ずかしさ。

 「研修中」と書かれた名札の若い子が、もたもたとお仕着せのセールストークを口にし、常連客が苦笑しているよーな。
 そーゆー感じ。

 
 それが、悪いと言ってるわけじゃない。
 むしろ誇らしい。

 こうやって、全ツで「研修」させる雪組に、未来への可能性を感じる。
 コマだのせしるだのに、場面ひとつ支える力はない。まだ。
 そんなことはわかっている。
 ないからこそキャリアを積ませて、力をつけさせるんだ。
 見込みがあるからこそ、チャンスを与えるんだ。
 このダメダメな「ショーの新公」をナマで観られたことを、いつか誇りにする日が来るだろう。
 彼らが、立派なスターになった暁に。

 
 うん。
 コマくん以下はいいんだ。

 問題は、かなめくんが、彼らと同じ「研修中」の新入社員みたいだったこと。

 あ、あれえ??
 かなめくんって、新公主演しちゃったはずだよねえ?
 他の若手くんたちよりずっと、経験豊富なはずだよねえ?

 なのになんで、他の若手くんたちと同じくらい、ダメダメなの?

 入社2年目の子が、入ったばかりの新入社員と一緒に研修してるよ……?

 
 まともな子なんだろうなあ、かなめくん。
 ふつーに抜擢されて、ふつーにいい位置にいたときは、あんなにふつーにのびのびと演じていたのに。
 さらに抜擢され、真ん中に立たされるなり、萎縮しちゃって。
 新公2番手のころは余裕が見えたのに、主役になると自爆して。
 完璧なスター路線が確約されたよーな扱いを受けると、とほほオーラ放出して、かしげや壮くんに激似してきて。
 まともないい子なんだろうなあ。キザるのに照れが見えちゃってさ。自分が真ん中の空間、持てあましちゃってさ。
 一般人の感覚だよね。自己陶酔するの恥ずかしい。自惚れるの恥ずかしい。謙虚であるべし。

 でもかなめくん、一般人じゃないから。
 一般人の感覚持って舞台立ってもしょーがないから。
 自己陶酔して、自惚れて、男役を極めてくれい。

 かっしーにも壮くんにもならずに。

 とびきりの、「凰稀かなめ」でいて欲しい。


 とまあ、レイ@水目当てで旅立ち、実際水しぇんにめろめろしていたわけなんですが。

 それでいてなお。

 ミレイユ@まーちゃんに、骨抜きになって帰りました。

 梅田で観たときは、レイとシルバのラヴストーリーにしか見えなかったんだが。
 なんだよ、シルバとミレイユのラヴストーリーじゃん、コレ!!

 まことに潔く、レイが舞台にいる間はレイしか見てなかったんですが。
 幸か不幸か、レイとミレイユはあまり出番が重ならなくてね。
 レイがいるときはレイを、それ以外はキムとハマコ(同列ですか。てゆーか役名ぢゃないのか)を、そしてさらにそれ以外は、ミレイユを見ていたのですよ。

 人生でいちばん、コムちゃんを見なかった公演だな。

 わたしのコム好き人生において、もっともコムちゃんを見なかった公演。見なかった作品。
 最初からとにかく、一度も見てない気がする……ゲフンゲフン。
 ほらその、再演だから、ストーリーわかってるし。
 主人公を中心に展開するミステリだけど、主人公は「視点」だからべつに、見なくても大丈夫な作りになっている。
 3D画面のアドベンチャーみたいなもん。主人公=プレイヤー視点で進むから、プレイヤーキャラクタは画面にいなくてもいいの。いても、いつも後ろ姿。彼が向く方向に画面も動き、彼が見たものがそのままコントローラを握っているプレイヤーが見ているものになる。
 シルバ@コム姫は「視点」。彼自身は画面にいなくても問題はない。
 そんな感じだったのだわ。

 だから、彼の周囲がとてもよく見えた。

 主人公が視点となっているアドベンチャーゲームでは、大体主人公の性格は希薄だ。
 プレイヤー自身が感情移入しやすいようになっている。
 ニュートラルでクセのない「いれもの」であること。それが、主人公に必要なんだ。

 シルバはとても、いい仕事をしていた。
 クールで希薄で美しい。
 プレイヤーキャラとしての条件を全クリア。
 プレイヤーであり、彼の物語をロールプレイングする「わたし」は、とてもなめらかに「シルバ」という男とシンクロすることができた。

 女たちにちやほやされながら、それをクールに振り払う。おおっ、オレってかっこいーぞ。
 男前で年上、男として尊敬できる相棒が、愛情ダダ漏れの目でオレを見ている。レベルの高い同性を惚れさせるオレってかっこいー。
 記憶喪失で苦悩なんかしちゃうぞ。おおっ、オレってかっこいー。
 悪を討つ殺し屋だってよ。オレってかっこいー。
 優秀な外科医で美しい妻と娘がいた? おおっ、セレブじゃんエリートじゃん、オレってかっこいー。

 なにもかもが、プレイヤーにとってオイシイ。とても気分良く「シルバ」の人生を追体験。
 彼の苦悩はわたしの苦悩、てなふーに。

 シルバがなにを考えているかは、考える必要もなかった。ストーリーがとてもわかりやすく親切に、彼の心情を教えてくれるからだ。
 こう行動するということは、こう考えている。出来事がこう展開し、このキャラがこう動くから、こう考えている。

 シルバを見る必要はない。
 シルバ自身となり、シルバの目に映っている人を見ていればいい。

 コムちゃん自身の演技力は、わたしにはよくわからない。そちらが秀でている人だという認識は、わたしにはない。
 ただ、彼がセンシティヴなキャラクタを演じるときにのみ、そのへんの演技巧者たちが足元にも及ばない「魅力」を放つ人だと思っている。

 シルバは、視点だった。
 それはコム姫がシルバと正しくシンクロしていたからだろう。
 わたしは安心してシルバになり、彼の目で世界を見、人を見、彼として生きることができた。

 シルバとしてあの暗くやるせない世界に立つことは、せつない恍惚感があった。

 だからこそ。

 シルバに対するレイの愛情に反応したし、シルバと対峙するミレイユに惹かれた。

 
 初見のときは、レイとシルバのラヴストーリーだと思った。
 レイの、シルバへの愛情の温度、そして欲望の温度が皮膚を焦がす感覚があったからだ。
 彼と話しているときに、ちりちりと感じていた。
 直接皮膚を焦がす感覚だから、なにより先に反応した。

 そして今回。
 シルバとして生き、ミレイユを見つめることで、シルバの物語としての「相手役」が誰かを悟った。

 たしかにレイはシルバを愛しているし、欲してもいる。それは強い衝動であり、ある種の粘度をも伴っている。
 でも、シルバはその愛に応えていない。向けられた愛を受け入れているだけだ。

 では、シルバ自身の愛は?

 彼が見つめているのは、ミレイユだ。
 共に荒野を歩くことを、認めた相手。

 初見のときに、客席降りが見られなかったことも大きいんだよな。
 ラストの客席から登場するシルバとミレイユ。このふたりに、撃ち抜かれた。

 暗い客席の、狭い通路を歩くふたり。
 前を歩くシルバと、そのあとを歩くミレイユ。

 そこには甘さなどなく。
 張りつめた、しんと悲しい清涼さがあって。

 たくさんの人が固唾をのんで見守るなかを、歩く男と女。
 こんなにたくさんの人間がいる「無人」の荒野を歩いているんだ。
 世界に、たったふたりきり。
 同じ罪を抱いて。
 地上最後の、男と女。
 どれだけ他に人間がいても、関係ない。彼らの荒廃に届くものはいない。
 座席に観客たちがどれほどいても、通路を歩く彼らに声もかけられないのと同じに。彼らだけが別世界の住人であると、ライトに浮かび上がるのと同じに。

 その凄絶な孤独と、美しさ。

 
 甘さがない、恋愛という逃げ道のない男と女が、それでも共に生きることの痛さに、涙が出た。

 男はいいんだ、男は。
 かっこいーオレは、そーゆー生き方するの平気だ。つーかそれでこそ、オレってかっこいー。

 問題は、オレを見つめている女だ。オレと共に堕ちた女だ。

 ミレイユの美しさが、空気を席巻する。
 彼女の絶望が、孤独が。
 それでもなお、凛とのびた背筋が。

 傷つきながら、汚れながら、それでも自分の脚と意志で、シルバのあとを歩いてくる強さが。

 彼女が、愛しくて。

 ずっと重なり合うことなく歩いていたふたりが、最後にそっと近づくのが好き。ミレイユが、シルバに寄り添うラストシーンが好き。

 うわああぁん、ミレイユ好きだ〜〜!!

 まーちゃんの演じる女性は何故、こうまで透明に澄んで美しいのか。
 水のようなひとだ。(水くんぢゃなくてなっ)
 やさしく、美しく、だけど冷たくもあり、あたたかくも熱くもあり、自在にカタチを変え、相手の器に合わせてよりそい、そのくせ岩を砕き大地を流すほどの力を秘めている。
 でしゃばらず、場を壊さず、場を満たす包容力を見せる。

 ミレイユの美しさに、感動した。
 彼女の生き方の清冽さに、感動したんだ。

 シルバがわたしの視点だから。わたしはシルバだから。

 罪と孤独の荒野で。

 振り返ると、彼女がいた。

 救いだ。彼女が。彼女の存在が。
 彼女の罪が。彼女のかなしみが。
 わたしを救う。

 シルバとミレイユの、究極のラヴストーリー。

 ミレイユ、好きだ〜〜。


 四日市まで公演を追いかけたのは、もちろん水くんのためだ。

 レイ@水に会いたかった。

 なんかもー、ひさびさのときめき。ひさびさの恋。
 わたしは攻キャラスキーなので、好きな人がかっこいー攻キャラをやってくれてると、ものごっつーときめくのよ。
 (まっつさんは、ヘタレな攻キャラをやってくれると、悶絶モノでときめきます)

 レイさえ見られればいい。オペラピン取り上等。それだけの想いで出掛け、実際水くんが出てきたときはもれなく水くんしか見なくて、作品全体も他のキャラも一切無視して至福のときを味わった。

 あああ、水夏希かっこいー。溜息。

 ここ1年くらい、とほほな水しぇんばかり見ていたせいか、忘れていたんですよ。
 水くんがこんなにかっこいいこと。
 そしてわたしが、水くんをこんなに大好きだということ。

 わたし、ご贔屓の出演する公演は抽選に当たらない、という悲しいジンクスを持っていまして。

 ケロがいたときは、例外なく、ケロのいる公演ははずれつづけていました。
 当選確率3分の1だった『血と砂』三番街発売日に、友人拝み倒して動員して、6人で臨んで全員はずれたんですよ。ありえない。
 確率計算にはまってないじゃん!! ありえないじゃん!!

 魂を悪魔に売り渡してもッッと切望した『ドルチェ・ヴィータ!』のときとかも、友会も一般も1枚も手に入れられず地に伏して泣いたし。

 ケロがいる限り月組チケ運は皆無、ケロが星組に異動したのちは、星組運が皆無になりました。
 で、ケロさえいなけりゃ、月組運も星組運も廻ってくるのよね。檀ちゃん東宝楽も自力で取れたし、さえちゃんエリザなんか、三番街で8番引いて、日付も席も選び放題だったし。

 それと同じことが、水くんにも言えた。

 水くんがいた宙組は、カケラもチケ運がなかった。
 当たらない。とにかくもー、カケラも手に入らない。
 宙組は人気だから仕方ない。そう思っていたのだけど。

 友会で東宝チケが大当たりしたことがあった。
 超良席だの千秋楽だの新公だの。どーんと気前よく当たった。

 『白昼の稲妻』だった。

 水くん、出てないじゃん!!

 ありがたく、トウコ姫のランブルーズを観劇しましたけども。いそいそと千秋楽観に上京しましたけども。
 ……そうか、宙組本公演でも東宝でも、水くんさえ出ていなければ当たるんだ……手に入るんだ……遠い目。

 それまでわたしは、雪組がいちばん当たる人だった。
 雪組だけはとくに苦労しなくても手に入ったし、他組チケと交換する余裕すらあった。

 だがしかし。
 水くんが雪にやってくるなり、雪組運が壊滅した。

 宙組が0列センターとかサヨナラショー付き千秋楽とか当たってるのに、雪組が平日さえはずれるってどういうこと?!

 いや、もうねえ、あまりにあからさまなんで、脱力するばかりですよ。

 好きな人の出演作品は、チケ運皆無。
 これが、わたしの背負ったカルマなんだわ。

 ケロと水くんの公演は、手に入らない。
 もう、あきらめていたよ。

 当然、『銀の狼』のチケットも手に入らなかった。
 でもそのときにはすでに、わたしは達観していた。

 どーせ水くんの公演は手に入らないのよ。
 神様がわたしに、「水夏希を見るな」と言っているのよ。

 あれほど何年も当たっていた雪組が、ぴたりと当たらなくなったことへのショックと、『霧ミラ』『ワンダーランド』の水夏希の扱いと作品のヘボさに絶望し、雪組は立ち見かB席で1回観るだけでいいや。そのぶん他の組を観よう。
 と、思っていたの。

 だから『銀の狼』梅芸も、発売日に初日初回B席1枚だけ取って、あとは無視した。
 需要があるかどうかわからないから、複数枚取る気にもならなかった。良席を取る努力もしなかった。
 いいよ、だって雪組だし。1回観ればいいの。ライヴにこだわるから観るだけなの。

 そんな、はてしないローテンションだった。

 
 後悔。

 嵐のよーな後悔ッッ!!

 
 うわあああぁぁん。
 『銀狼』、ものすげーいいよう。
 コム姫美しい、まーちゃんかっこいー、キム萌え、ハマコ素敵。まちかノリノリ〜。

 そしてそして。

 水夏希、復活。

 わたしのなかで、水くんが復活した。

 なんでわたし、忘れていたの?
 わたし、水くん好きだったんじゃん!!

 好きだって認めるまでに何年もかかって、よーやく「好き(赤面)」と言えるよーになった何年か越しのダーリンなのにっ。

 やほひ小説書きたいくらい好きじゃない、彼のこと!(そーゆー尺度はやめなさい)

 
 梅芸で初日に1回観ただけ。
 あとは、サバキ待ちしたけど取れなかった。

 もう観られないんだ、とわかると、いつまでも引きずった。
 会う人会う人に、「『銀の狼』観たいー」とぐちぐちつぶやいた。

 レイが好き。
 会いたい。

 たった一度の逢瀬だったから、美しい思い出だけが胸に広がり瞼に残り、せつない慕情がつのるばかり。

 めそめそめそ。

 ごめんよ、水くん。
 次からは、がんばる。
 君の出ている公演は、全力を挙げてチケ取りするよ。こんな後悔はもうしたくない。

 追いかけて四日市。
 公演2週間前をきっていても、なお売れ残っている1階席。てゆーか、当日も後ろと2階はガラガラ。
 これなら、発売日に真面目に動いていれば、いくらでも良席が手に入ったんぢゃあ……? ううう、後悔先に立たず。

 いろいろ葛藤はあったものの。

 会えてよかった、レイ@水くん。

 てゆーか、会いたかった。

 しばらく忘れていたこのときめき。この昂揚。
 

 愛している人が好き。

 他人を愛して、それを隠さない人が好き。

 まぶしい光そのものというより、少し翳った人が好き。
 真ん中よりも、ちょっと横に立つ人が好き。
 毒を持っている人が好き。弱さを持っている人が好き。

 
 シルバ@コム姫にベタ惚れで、それを隠しきれずに瞳から指先からアゴからありとあらゆる細胞から、エロと愛がダダ漏れ中のレイ@水くんに、めろめろです。

 ハァハァ。

 せつない恋を堪え忍んでいる色男に、とことん恋してしまいました。

 わたし、両想いより片想いが好物なんですよ!!

 ヴィットリオ・Fくん@落陽のパレルモが、あんなにあんなに素敵で愛がダダ漏れでわたしのツボを直撃しているのに、ここまでとろけられなかったのって、きっと彼が愛に恵まれた両想い男だったからだわ。
 あのキャラで片想いに悶えていたら、わたし絶対ハマってたー。
 

 『銀狼』が素敵なのは、全編に漂うこのやるせない悲しみ。

 レイとシルバはプラトニック希望だったが、ライン越えしちゃってても仕方ないか、とか、思いました(笑)。
 抱いても抱かれても、きっと気持ちが溶け合うことはないんだろう。きっときっと、レイはせつないままだ。
 それを思うと、たまりません。思い切り痛い救いのない恋愛小説とか読みたいです、この男たちで。

 てゆーかもう、水しぇん……大好き……。ほろほろ。

 

 日付が2週間ほどズレてますが。
 去る11月22日、四日市とやらに行ってきました。

 雪組全国ツアー『銀の狼』を追いかけて。

 あれは、お花様が退団発表した日でした。
 「昭和」感漂う定食屋(客はおっさんばかり)で、ひとつの時代の落陽にしみじみしていたkineさん、nanakoさん、わたしの3人。
 なんかとんとん拍子に決まってしまいましたのよ。

「nanakoさん、マジで四日市行く?」
「緑野さんが行くなら行く」
「あたしも、nanakoさん行くなら行く」

 なんかあたしら毎週会ってないか? と苦笑しつつも話は決まる。
 いざ、四日市へ。

 何故に四日市?

 大阪から日帰り可能で、唯一チケットがまだ手に入るところ。

 平日だからさー。
 1階席もふつーに残ってるのよ。

 kineさんもパクちゃんもデイジーちゃんも、みーんな翌日の津へ行くという。
 そっちへまざろうかな、とは思っていた。
 わたしは寂しがり屋さん(笑)なので、誰かと一緒でないと遠出したくないのー。
 でも津はもう、チケット3階席しか残ってなかったもん。そんなの、梅芸でもう観たわ。次に観るなら1階で観たいの〜〜。

 ひとりででも、四日市へ行くべきかな。
 でもさみしいなー。
 と思っているところへ、心強い同志出現。

 行こう、nanakoさん! いざ四日市へ!!

 で、四日市って、どこ?(首傾げ)

「さあ?」

 話は決まったが、ふたりとも基本知識がない。

 四日市、って、どこっすか?
 聞いたことはある地名だが。

「なんとかなるよ」
「なるよねー」
「まず全ツのチケット押さえよう」
「それからだよねー」

 交通機関もわかってねーのに、まずチケットか。いいのかソレで。

 その翌日には、まずチケット押さえて。
 1階に28列もある、巨大な客席。後方席だが、サブセン中寄りがふつーに買えてしまう。えーっと、上演2週間前切ってるよねえ……?
 なんなの、このチケ事情の温度差。
 梅芸では、サバキもろくに出やしなかったのよ。チケ難だったのよ。おかげで追いかけるハメに。
 いやいや、ありがたいよ四日市。1階席だよ四日市。

 で、どこにあるのよ四日市。

「えーと、近鉄沿線みたいね」

 nanakoさんが調べてくれた、という段階でわたしは思考ストップ。
 誰かがやってくれたら、自分ではなにもしない(ダメ人間)。

 でも、なんか知ってるよーな気がする四日市。
 どっかで見たような気がする四日市。

 近鉄沿線? 特急に乗る? なんばから、片道3500円超え?

 えーと。
 特急ってソレ、アーバンライナー?
 アーバンライナーならわたし、今年よく使ったよ。中日王家に通ったし、愛・地球博に通ったし。どこの金券屋で買えばいちばん安く手に入るかも知ってるわ。

 中日王家に通った日々。ひとりで乗ったアーバンライナー。
 愛・地球博に通った日々。みんなで乗ったアーバンライナー。
 たしか、途中にあったような、四日市。
 見たことあったような、四日市。

 わたしの記憶が正しければ、わたしの記憶にある四日市が四日市ならば、正規料金より安く切符が買えるはず。

 なにしろ腰が重いもので。
 電車の切符を用意できたのは、前々日でしたよ四日市。

 ギリギリになって、梅田の金券屋を闊歩しました。交通費を安く押さえるために。

 ええ、四日市ってのはあの四日市ですよ。
 なんばから近鉄特急アーバンライナーに乗って、名古屋に行く際通り過ぎる駅ですよ。

 アーバンライナーは2種類あるから、四日市に停まる方を選ぶのよ。
 まかせて、わたしこの沿線だけは慣れてるから! 中日へ行く道順だけはわかってるから!
 あと、博多駅から博多座まで歩いていく道順(遠いぞ)とかも、わかってたりするけどさ。博多座から福岡キャトレへの道順とか。博多座周辺の、早朝から使えるトイレ情報とか。
 そんな、偏った知識だけはいろいろあるから!!

 そーやって、nanakoさんとふたり、いざ四日市!!

 見渡せば、車両ほとんど全部出張リーマンたちだ、安心して偏った話題ができるぞっヅカ話花盛りっ(ムーンライト九州の中でもそうだったよ、この人たち)。

 ぺちゃくちゃやっていると。

 これまた、どっかで見たよーな地名が車両内の案内画面に映る。次の停車駅名。

 

 シンプルすぎるこの地名。

「津? 明日kineさんたちが行く、津?」
「ほんとだー、津もこの沿線なんだー」

 この沿線だけは慣れてるから! と言ったその口で、なにもわかっていないことがバレバレな言葉が出る。

 明日の全ツ地だと思うと親近感わくよ、津。
 てか、明日、わたしもここへ来ていたらどーしよー。
 そんなことはないと思うが。思うけど、ひょっとしたら、と考えてしまったよ、津。

「四日市って、津より遠かったんだー」

「知らなかった」
「津、通り過ぎたよー」

 追いかけて四日市。
 どこにあるんだ四日市。
 思ったよりぜんぜん遠いぞ四日市。

 到着だ四日市。
 劇場はどこだ四日市。
 地方都市らしく、視界はクリア、道路広いぞ四日市。

 道に迷う、ことはない。
 ひとめでわかる、同族は。
 あっちこっちに、女たちの群れ。
 地図を開いてあーだこーだ。

 あーアレ、そうだよ絶対。
 ついて歩けば、勝手に劇場に着くよ。

 ……着いた。

 当日券のチェックと、サバキのチェック。
 昼公演の分しか持ってないの。夜公演は、全部観てたら今日中に帰れない。遠いよ四日市。
 でも夜公演だって観るつもりだぞ。
 『銀の狼』さえ観られればいいんだ、『ワンダーランド』は捨てても惜しくない。

 うわー……。
 当日券、余りまくりー。

 この物価の差が憎い。
 梅田では、梅田ではねっ、ほんとにチケ難だったのよっ。

 昼公演は、サバキもけっこー出てました。
 でも、サバいてるのと同じよーな席が、ふつーに当日券で売ってるからなあ。
 1階席は後方、2階席は半分くらい? ふつーに売ってますよ、窓口。

 夜公演はサバキ不毛地帯。出ない。
 待ってる人もほとんどいない。そりゃそうか。みんなチケット握りしめて会社から直行する時間だわな。サバキにかける時間はないスケジュール。

 結局夜は、開演10分前に正規窓口で購入。
 「当日券お買い求めの方には、ポスタープレゼント」とか言ってなかった? わたしら、もらわなかったけど。(『銀の狼』のポスターなら欲しかったなー)

 途中退場前提だから、通路際確保だ四日市。
 それでも余裕で1階席だ四日市。
 てか、後ろも横も誰もいねえ。のびのび観劇、これはこれでたのしいぞ。

 のびのびしすぎた後方端席のおばさま方、どーやらずーっとお茶の間感覚でお喋りしていたらしいが(nanakoさん談)、水しぇんとまーちゃんに夢中だったわたしにはぜんぜん聞こえてなかったぞ、こーふくだぞ。

 やっぱり遠いぞ四日市。
 ハマコの歌声を最後に席を立ったぞ、中腰で走り抜けたぞ。
 やっぱり最後まで観たかったぞ四日市。

 
「もう、二度と来ることないよね」
「……次の全ツでも、追いかける事態になってない限り」
「…………」
「…………」

 笑えないぞ、四日市。


 着の身着のまま、母に拉致されて半日。
 ちょっとそこまで、と携帯だけ持って外出していたわたしを、予定がつぶれてヒマしていた母が捕獲した。

『今どこにいるの? お昼一緒にしない?』

 というメールに、「財布持ってないけど、いい?」と返したら、『いい』と返事。んじゃ駅前のユニクロで待ち合わせ、ということで。

 母と飲茶して、そのままふたりで梅田へ出て映画。ママが「『ハリー・ポッター』見たい」って言うから。
 重ねて言うけどわたし、マジで手ぶらよ? 携帯1個ポケットに入れただけよ? 「ちょっとそこまで」外出してただけだもん。
 まあ、おごりなら映画でも食事でもつきあうわよ。あー、買い物もですか、はいはい。つきあいましょう。

 そーやっているときに。

 舞い込んでくる、友人たちからのメール。

 
 まちかめぐる、退団。

 
 …………嘘。

 
 じわじわと、じわじわと浸食してくるショック。

 
 なんでだよ、辞める必要ないじゃんよ?!

 わかんないよ。
 まちかの旬は、これからじゃん。
 アイドルや美形やお子ちゃまばっかじゃ舞台は成り立たないんだよ。リアルな「役者」が必要なのに。

 いや、その。
 まちか退団にショックを受けている自分も、十分ショックなんですが。
 その、けっこーマジで痛手受けてます。
 あとからあとから、「クる」。第一報を受けたときより、ママに連れ回されて夜になって帰宅して、こーやってパソに向かっている今の方が、ショックだ。

 そりゃ、まちかなら外でもやっていけるだろーけど。でもでも、外でもいいなら、ヅカでいいじゃん。辞めるなんて嫌だ〜〜っっ。

 ありえない。
 まちかがいなくなるなんて。

 いじいじいじいじ。

 半年後には、もういないの?
 舞台で、まちかを見てしまう(微妙な表現)日々は終わってしまうの?
 某花屋さんで、誰よりも先にまちかのポストカードや、カレンダーを見つける(そんなことしてたのか。してたんですよ)日々も、終わってしまうの?

 
 なにしろ、「ちょっとそこまで」を着の身着のまま捕獲されて、夜まで連れ回されていたわけだから。

 ……帰宅したら、コム姫主演『凱旋門』の放送、終わってた……。

 初回録画、失敗してたんだよ〜〜、2回目も録画できないとはっ。
 夜まで帰宅できないなんて、夢にも思わず家を出たんだもん。予約なんかしてなかったよ……あうう。
 まちか、死の鳥役だったんだよね……わたし、死の鳥×絵画マニアでパロ書いたんだよね……本役キャスティングだけど。まちかがよりによって死の鳥役で、いろいろ複雑だったわ……ううう。

 ラストチャンスに懸けるしかない。無事録画できますように。


 明日が『1万人の第九』本番なんで、今さら部屋のBGMは第九です。
 CD買ったまま、封も切ってなかったんだよなあ……。

 
 本日、ずいぶんな頻度である単語で検索来てます。
 そしてそれらはもれなく今年の4月14日の日記にヒットしているよーです。

 そうか……公式に名前が出ると、こんなふーに突然検索くるもんなのか。
 純矢ちとせくんの、性転換について。
 彼−−今日付で彼女、か−−について、性転換以前になにかしら書いてあるトコは少ないよーで。うちのよーな辺境にも検索が来てしまう次第です。

 彼……改め彼女を好きで眺めてきた者として、ちょっくら混乱しています。

 ちとせくんは、小柄でかわいい子なので、外見だけでいうなら娘役になるのはそれほど違和感はありません。
 今までも、女の子役をよくやらされていたし。

 外見じゃないんだ、問題は。

 あの芸風で、女になってどうするんだ?!

 て、ことです。

 ちとせくんの芸風。
 ひとことで言うなら、ハマコ系です。

 濃い。クドい。やりすぎ。

 ……この芸風で、女になるのか。
 目指すのはどこだ? ゆら姐さんとかももさりとか?
 女としてやりすぎ系のアツさ爆発するならいっそ、森央ねーさまなきあとのお色気系か?

 困惑しています。
 ちとせくんはどこへ行くんだろう。

 ……すんません、かわいいふつーの娘役、つーのが今のところ想像ついてません。
 外見はかわいいんだ、外見は。ひょっとしたらかわいー女の子になるのかも。プリンセスちゃんになるのかもしれないぢゃないかっ。
 アタマを切り替えろわたし!!


 最近、ほんとに短い文章書けなくなってきてるなあ。
 ひとつの公演で、何日語るやら。

 新人公演『落陽のパレルモ』語り、最終回。

 新公らしい新公、なんだと思う。
 うまいと思ったのは、老け役の人たちのみ。
 ドンブイユ公爵@紫峰七海、ディ・カヴァーレ公爵@嶺輝あやと、エルヴィラ@桜一花。
 とくに、一花ちゃんはよかった。ラストの彼女の台詞で、どーっと泣けた。自他を含めて厳しく接する人が、それでもなお吐露する真実の気持ち。強い人だからこそ、彼女の示す愛情は胸に迫るね。

 主要キャラたちはとくにうまいとは思わない。でも、椅子から落ちるほど下手でもなかった。
 ハートがあった。瑞々しさがあった。だからそれでいい。

 ヴィットリオ@みつるは、その華を見せつけてくれた。
 『野風の笛』新公で目を飛び出させてくれた歌が脳裏に焼き付いているだけに、格段の進歩。だって、いきなりアカペラだったもんなあ、『野風』。ありゃものすごかったよ……。

 そして、ビジュアルの美しさ。
 今回の新公を観劇後に、みんなが口を揃えて股間のマントの話をするのが、愉快だった。
 みんな、オサ様のそんなとこが気になってたんだね……いや、わたしもそうだったから、大いにウケたけど。
 本役、オサ様が風を受けて登場するシーン。かっこよく岩の上に立ち、マントをはためかせる……のだが。
 マントは無情にも、オサの足の間からも、はためく。
 寿美礼サマの弱点のひとつである足の短さを、これでもかっ!と強調して。
 それが新公ではねえ、気にならなかったのよー(笑)。立ち方の問題もあるのかな?あんまし股間からマントが出てなかったわ。
 あの風は景子せんせのこだわりらしいけど……やめようよ、アレ。あぶないし、オサの体型の欠点を浮き彫りにするし、いいことないから。

 みつるはとにかく、美しい。目を引く。きらきらしてる。
 ただわたしにはいろんな意味で小粒に見えちゃったんだけど。小柄なのも気になった。
 あの軍服がよくないのかな。華美すぎて、首が埋まって小柄に見えちゃうのかも。景子たんのこだわりは、いろんなとこで役者にマイナスになってるかもなー。
 小柄に見えたせいもあるのかなあ。キム君にやたら似て見えたぞ。わたし好みの口元をしているから、余計か?(わたしゃキムの口元がいちばん好き)
 アンリエッタ@彩音ちゃんとふたりして、「なによりも華!」「華美すぎる衣装を美貌で着こなします!」「技術は問うな!」の3本立て。
 うまいとは特に思わないけど、新公だからぜんぜんOK。
 「華」と「美貌」は可能性を示してくれる。技術はこれから身につければいいけど、「華」は持って生まれるもんだからな。
 演技ではなく計算ではなく、役に同調して「心」で演じきったのも、1回限りの新公ならアリ。
 ……ただ彩音ちゃんは、持ち味にない役が来たときどーなるのか、考えるとちょっとこわい(笑)。

 ジュディッタ@きほちゃんのまとまり方が気になる。
 きほちゃんはうまい子だと思う。技術面では新公メンバーで群を抜いてる。安心して見ていられる数少ない人。
 だけどこの、つまらなさはなんだろう。
 手堅く、小さく。失敗しようのない硬さ。面白味のなさ。
 なにがいけないんだ?
 きれいだし、スタイル抜群だし、歌唱力抜群だし、演技も出来る人なのに。
 なんだか、精彩に欠けるんだよな。いつも。
 彼女が活き活きして見えたのって、わたしがおぼえている限りでは『天使の季節』新公と、『くらわんか』だわ(今、手が自然に『まわらんか』と打っていた……ぶるぶる)。
 コメディだとはじけられるけど、それ以外は美しくやろうとか思い込んじゃって、失敗しないだけの小さな人になっちゃうのかしら。
 思いっきりはじけた、殻を破ったきほちゃんが見たい。初主演の『天使の季節』新公で、アドリブとばすために前もって仕掛けをしたりする度胸のある子なんだから。

 にしても、ヴィットリオ・F@まぁくんとジュディッタ@きほちゃんが並んでいると、少女マンガまんまのスタイルだよなあ。
 まぁくんナチュラルに8等身以上(脚長ぇ!!)だし、きほちゃんもそれに準じているし。

 フェリーチタ@七星きらちゃんが、こわかったっす。愛ゆえに精神を病んだ美しい女性。かなしく美しい歌声が、狂気を強く感じさせて。

 ロドリーゴ@りせは相変わらず(笑)、ニコラ@めぐむは超かっこいー。
 うおー、ニコラ@めぐむがもう一度見たい〜〜。わたし、いちばんめぐむを見ていたと思う。かっこいいんだよ、とにかく。
 もう一度『パレルモ』新公を観たいと思う理由は、なんといってもめぐむだわ……。

 さて、主要人物はいいんだけど、それ以外はやっぱひどかったぞっと(笑)。
 ああ、新公だなあ……女の子のままの「男役」たちがごろごろ。無理して気取った女の子声がいっぱい。お尻の丸いぷくぷくちゃんがいっぱい。
 成長を望む。

 
 ところで。

 わたし、大門くんを見るたびに「誰か」を思い出すと思ってたの。
 誰かに似てるというか、連想するというか。
 今回よーやくわかった。
 すずみんだ。
 顔立ちかなあ。お化粧かな。表情が似ているのかもしれない。
 ずーっと引っかかってたのよ。誰に似てるんだろう。誰を思い出して、胸のあたりがもやもやしてるんだろう。と、気になっていたの。
 そーか、すずみんか。
 仲間内に言ってみたけど、誰からも同意は得られず。……いいんだ、わたしだけは納得したから。

 よーするに、今回の新公でいちばん顔が好みなのは大門くんだったりするんだ、わたし。
 (いちばんときめいたのは、めぐむにだけどなっ)


 劇団のすることはよくわからない。
 どーしてこの子がろくに役つかないの? なんでこの子を抜擢するの? と、謎ばかりだ。

 まあ、劇団の人事権を持つえらい人とわたしとは、舞台人に対する好みがまったくチガウんだろーな。

 なんにせよ、その謎のひとつが、花組の望月理世だ。

 気がついたら抜擢され、何年も何年も大事にされていた掌中のタマ。

 たしかに、かわいい。
 やたらと目立つ顔で、一度目に付いたら最後、どこにいてもわかる。

 最初の抜擢は「顔」だけが理由だとしても納得できた。

 しかし。
 あまりにも、へたっぴだった。
 すべてにおいて。

 そのうち成長するだろう。なにしろ抜擢だ。学年や実力に見合わない役を与え、鍛える。メディアにも露出させ、人気アップを図る。

 そーやって何年経ったんだっけ?

 見事なまでに、成長してませんなっ(笑)。

 人気はあるんですか? わたしはよく存じないのですが。
 露出に相応しい人気はあるのかしら。
 投資に見合う回収はできているのかしら。

 わたしにはわかりません。
 劇団の考えることは。

 ただ、今回もまた新人公演を見ながら、「りせ、相変わらずへなちょこだなあ(笑)」と、まったり見守っておりました。

 
 と、ここまでひでーこと書いてますが。
 わたしの文章構成パターンにお気づきの方には、見抜かれていると思いますけど。

 そんなりせを、好きだと言うために書いてるんですよ。

 正直わたしゃ、りせをへなちょこだと思ってる。これだけ機会を与えてもらっていて、どーしてそこまでダメダメなのか物申したい舞台人だ。
 技術だけで言うなら、ほんとにつらいところにいる。

 でも、学校の成績の話をしているわけじゃないから。テストでいい点を取ることでも、100mのタイムを競っているわけでもないから。

 不思議だよな、舞台人って。
 技術だけではその価値も魅力も語れないんだもの。

 なにしろりせは技術がないので、持ち味にないキャラを与えられたときは最悪。演技できないし、そもそもその役に見えないし。動いて喋って、あちゃーとなるし。

 でもなあ、持ち味に合う役をやったときは、みょーに光るんだよなあ。噛むほどに味が出るんだよなあ。

 『La Esperanza』新公は最悪だったな。なんでこの子がこの役でここにいるのか、理解に苦しんだ。
 そのくせ、『マラケシュ』新公はたのしかった。おおっ、なんかハマってるぞ!と。

 そして今回。

 新人公演『落陽のパレルモ』りせは、素敵だった。

 恋敵ロドリーゴ役。
 運命的に愛し合うヴィットリオとアンリエッタの仲を裂こうとする邪魔者。
 自分が貴族であるということにだけしがみついた、うすっぺらな男。

 なにしろ本公と新公は別物だからねえ。美しくせつないまっとーなラヴストーリーだからねえ。
 本公の男前なロドリーゴではなく、新公では、愛し合う恋人同士に横恋慕するバカ男役なのよねー。
 ロドリーゴ@りせがうすっぺらであればあるほど、キャラが正しく立ち、物語に深みが出た。悪役はこーでなくっちゃ!みたいな。

 観劇後に、

「りせで『タイタニック』の恋敵役が見たいねえ」

 という話が出てしまうくらい、うすっぺらな憎まれ役がハマっていたのよ。

 りせは基本的に「演技」はできないから、持ち味にハマるかどうかなんだよね。
 りせのできる役っていうと、「かわいい男の子」「無邪気な男の子」「頼りない男の子」。これなら演技しなくてもOK。「無垢で無知」というのも、持ち味。
 『エリザベート』の少年ルドルフ、『野風の笛』新公の秀頼なんかは、持ち味全開でたのしかった。幼くて無知で善良、とゆーのがいいのだ。かわいそう感を盛り上げてくれて。
 その他にあった、持ち味にない役たちでは、作品を見事にぶっ壊してくれたけど。

 いいかげん学年もあがって、「いつまでもかわいこちゃんや少年役専業じゃつらいよなあ」と思っていたときに、『マラケシュ』新公。
 狂気のギュンター。
 あれえ? なんかすごくいい感じなんですけどっ?
 本役のらんとむギュンギュンに疑問を持っていただけに、りせギュンのコワレ方に惹かれたというか(笑)。
 や、もちろんとむ氏の方が技術は上なんですけどね。すべてにおいて。ただ、彼の持ち味と役が最後まで噛み合わなかったとゆーか。
 リセギュンは技術なんか相変わらずなにもないんだけど、持ち味だけで持っていったというか。

 こわい系の役者なんだ、りせ。

 彼の持ち味である、「無垢と無知」。それは、角度を変えるだけでダークなものになるんだ。

 子どもの無邪気な笑い声が、昼間の小学校のグラウンドから響いていたら、微笑ましいでしょう?
 でも、その同じ笑い声が、猟奇殺人があったという廃屋で深夜に響いてきたら? まったく同じ声でも、こわいでしょう?
 無邪気で幼い声であればあるほど、こわいでしょう?

 ギュンターの狂気と、ロドリーゴの悪。
 りせの持つ、「無垢と無知であるがゆえの歪み」が解放されるんだ。

 ……某組の某85期が理解できずにいるのに、同じくらいなにもできないりせを好きでいられるのは、彼が「毒」を持っているからだろう。
 かわいこちゃんなのに、天使のように笑うのに、悪役顔。どこか不安定に歪んだ顔。

 『パレルモ』新公のロドリーゴがよくってさあ!!
 アンリエッタ@彩音に求婚してるけど、彼女がどんな人なのかはまったくわかってないのね。
 自分の狭く浅い視野でしかなにも見られないし、考えられない男なの。
 のーみそが足りてないし苦労もしたことないから、場違いな発言をしたりする。マチルダ誘拐事件を「貴族への嫌がらせだ」と言って、大人に言下に否定されてみたりな(笑)。
 本質なんかなにひとつ見えないし、理解も出来ないから、結局いつも誰にも顧みられず問題の外側でズレたことをがなりたてている。
 アンリエッタに相手にされず、銀橋で歌っちゃうときも、「うわ、バカだこいつ。なにもわかってねえ」感に充ち満ちてる。
 でも本人はなにも気づいてない。変だとも思わないから、つらくもない。正しいのは常に自分で、まちがっているのは自分以外のすべてだから、人生はいつも彼にやさしい。
 胸を張って背筋を伸ばして。
 彼はいつだって正しいのだから。彼だけが正しいのだから。彼に従わない人認めない人は、「愚かでかわいそうな者」だから。
 彼はいつでも、幸福だ。

 ……萌え。
 ロドリーゴ最高。

 あの小物感がたまりません。

 うすっぺらぺらな小物のくせに、自分は大物だと信じて疑わないカンチガイ男。
 最後に身を引くときも、自分を「かっこいい」と酔っていそうなとこが実にイイ。常にカンチガイ・テイスト。

 ロドリーゴが「わかりやすい、安い悪役」に成り下がった分、主人公ヴィットリオ@みつるの「かっこよさ」が際立つもん。
 キャラ立て最高、正しいですよ。

 りせのこーゆー持ち味、好きだわ。
 なんともわたし好み。

 いつまでも「かわいこちゃん」ではいられないからこそ、「悪役」のできる男になってほしいわ。
 いや、ふつーの悪役はすべるのわかってるから、「安い悪役」ね。

 『キャンディ・キャンディ』のニール役とか、ハマるだろーなー。うっとり。


 わたしはもともと、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだと思う。

 本公演を見ている分には、ゆみこちゃんが演じているから好きなんだと思っていた。
 ゆみこちゃんのハートフルでちとウエットな芸風が、わたしにはとても心地よいの。彼の温度が、わたしの好みに合っているのね。
 繊細な人が好き。実力のある人が好き。真面目な人が好き。
 地味だったり優等生だったりと、マイナス面にもなってしまうよーな堅実さも好き。

 愛している人が好き。

 他人を愛して、それを隠さない人が好き。

 まぶしい光そのものというより、少し翳った人が好き。
 真ん中よりも、ちょっと横に立つ人が好き。
 毒を持っている人が好き。弱さを持っている人が好き。

 ゆみこちゃんの演じる役が好き。
 わたしの好みを、いつも見事に突いてくるから。

 しかし。

 花組新人公演『落陽のパレルモ』を見て知った。

 わたしは、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだ。

 ゆみこでなくても。

 ヴィットリオ・Fくんは、作者のミスでちと痛いキャラになっている。
 脚本として目に見える部分だけを演じたら、下手をするとものすげーバカで現実が見えていないガキンチョになる。
 女の子を妊娠させて、その後始末を親に頼みに来た考えなしのボンボン、ぐらいには最悪に見える可能性だってある。
 好きな女の子にかっこつけることや、「好きだから結婚!」とまくしたてることぐらい、誰だってできるんだって。それって、自分が気持ちいいから言ってるだけで、現実にはなんにもわかってないでしょ、てなふーな。

 持ち味が「無神経系」の人が演じたら、最低最悪キャラになるかも。
 持ち味が「白痴系」の人が演じたら、ものすげーぶっとんだキャラになるかも。

 そんな危険なキャラクタ。
 それをハートフルに品良く演じていたゆみこってすげえ。と、思ってたんだけど。

 なるほど、わたし、両刃の剣だからこそ、コワレ気味だからこそ、ヴィットリオ・Fくん好きみたい(笑)。

 んでもって。
 まぁくん演じる新公ヴィットリオ・F、いろいろやばくなかった?(笑)

 歌がやばかったことは、言及すまい。
 幕開きに登場していきなり芝居をする、狂言回しの意味もあるキャラクタは相当プレッシャーだったんだろう。
 キャリアのない子には、登場するだけでそこに「別空間」を作る作業は難しいだろう。
 最初のうちは緊張が伝わってきて、手に汗握った。

 なんというか、今回まぁくん、演技してた?
 リュドヴィークという「大人」「影のある人物」を演じた前回は、つたないながらも必死に「作って」いたのが見えた。演技しようとがんばっているのが見えた。
 しかし今回は。

 えーと。
 あのヴィットリオ・Fって、まぁくんまんまなんじゃあ?

 もちろんわたしは、朝夏まなと氏がどんな人なのかは知りませんが。
 今まで見た中で、いちばんまぁくんまんまに思えたのね。

 なんつーかね。
 あまりに、幼くて。

 貴族のおぼっちゃまというより、ひたすら「幼く」見えた。
 育ちがいいから世間知らずなんじゃなく、たんにまだコドモだからなにもわかっていないというか。
 どこか自信なさげにそこに立ち、ときおり余裕ぶって見せたりするのがまた、さらに足元のおぼつかなさを表しているというか。

 相手役のジュディッタ@きほちゃんが余裕のヒロイン芝居をしているだけに、「姐さん女房? つか、いくつ離れてるんだ?」って感じが強かったというか。
 この女に、この男じゃ役者不足もいいとこだ、ってゆーか。

 おいおい、このたよりないにーちゃんは、手探りで台詞言いながらこれからどうするつもりなんだ?
 と、はらはらと見守っていたんだ。

 たどたどしい緊張が解けて、物語が動き出すのは後半になってから。

 前回の新公でも感じたけど、まぁくんはほんとに技術は足りてないんだよね。
 それでも前回、ぐわっと芝居の空気が動いた瞬間があった。
 リュドヴィークとイヴェットの「恋」のシーン。向かい合って歌い出すふたりに、場の温度が変わるのがわかった。

 技術でやっているわけじゃない。
 ほんとーに「心」が動いて、それを放出することで空気を動かしているんだな。

 舞台の上で、たくさんの人に見守られながら、「心」を放出できるのは「役者」という才能だろう。
 ふつーならできん。そんな恥ずかしいこと。
 そこに技術をのせてはじめて、「演技」というのかもしれんが。
 最低限「心」がなければ意味がない、とわたしは思う。

 まぁくんは技術が足りていないから、ほんとーの意味で場を動かしてはいないし、温度を変えているわけでもないだろう。彼と波長が合うか、彼を注視していなきゃわからん程度だとは思う。
 心の放出と技術で場をかっさらっていくのはホレ、最近ではトウコがやってのけていたね、『龍星』で。あのレベルに程遠いことは前提として。

 それでもわたし、まぁくんの「心」が放出される瞬間、好きだな。

 まぁくんヴィットリオ・Fは、演技しているのかまぁくんの地まんまなのか、ひどくおさなくて、たよりなかった。
 そのたよりなーいお子様が、ひどく傷ついた目をしたときがあった。

 ヴィットリオ・Fを愛するがゆえに、黙って館を出て行こうとしたジュディッタ。
 そのことを知ったヴィットリオ・Fは、とても傷つく。

 泣き出しそうな、子どもの顔。
 何故叱られるのかわからない、小さな男の子の顔。
 あたたかい母の胸の中から、冷たい水底に叩き落とされ、恐怖より痛みより、事態を理解できなくて呆然としている幼児の顔。

 それは、Fがあまりに幼い、大人になりきれていないたよりなーい少年だったからこそ、より際立っていて。

 見ていて、痛かった。
 うわ、痛っ。
 Fくんが、どれほど傷ついたのかが伝わってきて。

 彼は子どもだ。
 子どもだからこそ、大人以上に傷ついたんだ。

 裏切られたと思った? 理不尽だと思った? 彼女が自分のためにしたことだとわかっていても、それでも彼女に捨てられかけたこと、絶望した?

 子どもだから。

 そんな幼い痛みに貫かれた顔で呆然と彼女を見つめ。
 次に彼は、笑った。

「ひどいな、黙って出て行こうとするなんて」

 本役のゆみこちゃんでも、ものすごーく好きなシーンなんだけど。
 新公のヴィットリオ・Fはあまりに子どもなので、やさしさからこう言っているのはわかるけれど、包容力に欠ける分ただただ痛々しくて。

 うわ、この子可哀想だ。
 そう思った。
 泣きたいときに泣けずに、笑っている。
 泣くよりも、先に彼女を抱きしめたいんだ。失いたくないんだ。

 技術云々より、「心」を感じて、泣けた。

 
 とまあ。
 ヴィットリオ・Fってば、演じる人のキャラクタによっていろいろ変わって、しかもその変わり方がかなりわたし好みなのかもしれないと思ったの。

 たとえば、りせで見てみたいなー、とか思う。
 きっとまた別な痛みに充ちたキャラクタになったろう。

 今なら、扇めぐむでも見てみたいや(笑)。前向きで骨太なキャラクタになったかな。

 いやその、新公学年に限らず、まっつでも、見てみたいですが。「お寝坊さん」で悶え死にそーだが……。


 1週間分ほど観劇日記を溜め込んでいる(『DAYTIME HUSTLER』とか『銀の狼』とか『落陽のパレルモ』とか)んだが、先に今日観てきたものの感想をさらっと書いておこう。

 花組新人公演『落陽のパレルモ』。とりあえず、大きな感想はふたつ。

 ひとつめは。

 見終わったあと、わたしとnanakoさんはふたりして言った。

「あんなこと言ってごめん!!」

 日本語になっていない。
 「あんな」ってのは、なんだ?
 「誰に」「なにを」言ったんだ?

 なのにわたしたちは、顔を見るなりふたりしてそう言った。

 心はひとつだ。
 わたしには、nanakoさんがなにを言ってるのかがわかった。nanakoさんにもわたしの言いたいことがわかったはずだ。

「かっこよかったよねええ?」
「すっごい、かっこよかったっ」


 だから、なんの話?

 答えは、オサコンのときの、わたしたちの会話。

「出演者でふたりだけ名前のわからない人がいるんだけど、どっちがどっちかわかる?」
 と、kineさんに聞かれたんだ。場所は梅芸ロビー、オサコン初日。

 わたしとnanakoさんは、意気揚々と答えた。

「ぶ○いくな方が、扇め○む」

 kineさんは首を傾げた。

「どっちもべつにぶ○いくじゃないけど。丸い方? 四角い方?」
「だから、ぶ○いくな方だってば」
「そんなんじゃわからないってば」
「どーしてわからないの? 一目瞭然でしょ、ぶ○いくなのがめ○むだってば!」

 …………そんな、ひどい会話をしていました。

 そのあと、合流したデイジーちゃんにも同じ会話。
 デイジーちゃんも、「ぶ○いくな方」という説明では、誰のことを言っているのかわからないって。ジェンヌさんはみんなきれいじゃん、と。
 もちろんわかってる。ジェンヌはみんなきれい。でもそのなかで、比較的に、という意味でそう評しているの。
 わたしとnanakoさんは、あうんの呼吸で通じ合ってるのに! わたしたちの話は、他の人には通じないの?
 め○むって、ぶ○いくだよね? そりゃ、ジェンヌさんだからきれいだと思うけど。その、舞台での化粧顔はかなりアレで目立ってるよね?

 そんな会話をしたことさえ、もうすっかり忘れていたのに。

 あれから2ヶ月。

 わたしとnanakoさんはまた、あうんの呼吸で同じ台詞を喋ってました。

「扇め○む、めちゃくちゃかっこよかったっっ!!」

 ぶ○いくだと言うたくせに!! 言うたことさえ、今までとくに思い出しもしなかったくせに!

 新公を見終わるなり、主語も指示語もなにもないまま、懺悔タイム。

「あんなこと言ってごめんっ」

 て、コレだけで、お互いなんのこと言ってるのか通じるってどうよ。

「こんなにかっこいいなんて!」
「最初の軍服とかさー、すごかったよねー」

 わたしとnanakoさん、男の趣味似てるから……。大抵、「イイ!」と思うモノが同じだから。
 今回、ふたりして「め○む、かっこいい!!」と目からウロコ。

 そして、男の趣味が正反対のkineさんは、「だから言ったのに……」となまあたたかい目。

 検索がこわいので今回は伏せ字で語るけど、マジよかったの、め○む!!
 ごめんよ、あたしがバカだった。思えばずっと、目について目についてしょーがない人だったのよ。雪組のまちかと同じくらい、いつも目で追ってしまう人だったのよ。
 いつも見ていた、というのは、こーなる前振りだったのよね。実は好み範囲に入ってくる可能性があったからこそ、いつも目で追っていたということなんだわ。
 帰ってすぐに「おとめ」確認しちゃったわよ。研4で中卒だと? つーとまだ21? わわわ、わかい。でもオサコンで、「いちばん老けてる」ってことで、最下手に並ばされてたよね? えええ、オサ様、こんな若者より若ぶってたの?!
 す、すいません、今ちょっと混乱してます。
 め○む、かっこいー。あの大人っぽさはなに? みつるより大人に見えたんだけど。あのガタイがいいのー。ひざまづいておじょーさまのぞきこんでるとことか、きゅんって感じのかっこよさなんですけど。
 最後の舞踏会シーン、絶対アルバイトしてるはずだって探しちゃったよ。実際いたよ。軍服かっけー。

 ぜえぜえ。

 ぶ○いくなんて言ってごめんよ。わたしの見る目がないだけだった。
 これからは色男としてカウントします。
 懺悔と賞賛。

 
 でもって、もひとつ新公の感想。

 演技は技術じゃない、心だっ!!

 新公初主演おめでとー、みつるくん。
 正直わたしは、彼の演技がいいのかどーかわからない。ヒロインの彩音ちゃんにしろ、いいんだか悪いんだかわからん。

 ただ。

 泣けた。

 主役カップルふたりの心が、ちゃんと互いを想い合っていることがわかった。
 ヴィットリオは、アンリエッタを愛していた。
 アンリエッタは、ヴィットリオを愛していた。
 だからこそ、生木を裂かれるような別れが、痛かった。残酷だった。

 歌はそりゃ、すごかったけどさ。
 技術で表現なんか、できるはずもなかったけど。
 逆に言えば、技術で誤魔化すことも、できなかったんだ。

 そこにあるのは、心だけで。

 心だけでヴィットリオは泣き、そこで生きていた。

 いやあ、め○むとその仲間たちの最後から、まぁくんときほちゃんの現代パート、そして幻想の2組カップルのダンスと、周囲からすすり泣き聞こえてたよ。実際泣ける。技術云々以前に。心で。
 素直にたのしんだ。
 「愛」の物語を。

 そして今回、みつるの顔って好みだと思った。
 あの受け口がね……歪んだ口元、好きなのよ……。

 主役ふたりがちゃんと愛し合っているだけで、こんなにチガウのか。
 舞台って、おそろしい。
 舞台って、おもしろい。


 ヴィットリオ@オサ様に愛がないために、盛り下がる物語『落陽のパレルモ』
 身分違いの恋に悩むというより、貴族への復讐心ゆえに、貴族の娘を騙しているよーに見える主人公はいかがなものか。
 面倒くさそーに夜這いに現れ、アタマの中で手順の確認をしているよーなラヴシーンを演じるオサ様、なんとかしてください!!

 ハーレクインでべったべたの少女マンガっぷりに大喜びはしたものの、やっぱりハマるまでは行かなかった、オサ様の演技に首を傾げ続けたこの公演。

 わたしのなかでよーやく、筋が通りました。

 主人公のヴィットリオの物語として見た場合、いちばん盛り上がるのが母の自殺シーンを背景に銀橋で熱唱するとこだよね?
 そのあと実の父が見つかり、貴族になることでアンリエッタ@ふーちゃんと結ばれるわけだけど、その「どんでん返し」シーンの中でいちばん重要なのは、「母の祈りが届いた」ってことよね? アンリエッタと結ばれることじゃないよね?

 「ヴィットリオとアンリエッタの身分違いの恋」の物語だと思うから、後味がよくないのよ。

「なんだよ、自分が貴族になったらそれでOKかい。身分差別のない世界を切望して戦ったニコラたちは犬死にかよ」
 という疑問が残り、せっかくの美しい物語が台無し。

 ドンブイユ公爵@萬ケイ様の力でハッピーエンド。主人公なにもしてないじゃん! とか、ロドリーゴ@まとぶ、簡単に身を引きすぎ、なによそのご都合主義! とかゆーマイナス点も、全部全部、わかっちゃったのわたし。

 『落陽のパレルモ』のヒロインは、アンリエッタじゃないの。

 主人公は、ヴィットリオ。
 でもヒロインはアンリエッタじゃない。
 ヒロインをまちがえて見ているから、全部歪んで見えてしまったのね。
 正しいキャラクタをヒロインだと認識して見れば、『落陽のパレルモ』は、歪んでなんかいないきれーな物語よ(にっこり)。

 ヒロインは、フェリーチタよ。

 主人公ヴィットリオの母、フェリーチタ@きほ。
 愛に生き、愛に狂い、愛に死んだ美しい女性。
 ヒロインは彼女。
 ヴィットリオは、母の望みを叶えるために生きるの。

 平民のフェリーチタは、貴族の男と愛し合った。
 だが、男のために身を引く。その男の子をひっそりと産み、たったひとりで育てる。
 男の名は明かさない。迷惑を掛けたくないから。
 心を壊すほど男を恋し、欲していながらも、決して男の名を呼ばない。男の迷惑になることをしない。
 恨みもしない。ただ、愛に殉じる。

 そんな母を見つめて育ったヴィットリオは、母を不幸にした「身分制度」と戦う。平等……「誰もが等しく愛し合う自由」のために尽力する。
 彼は貴族を憎まない。母を捨てた父を憎まない。
 だってそれは、母の本意ではない。母は貴族も父も憎んでいなかった。そんな小さなひとではなかった。
 ヴィットリオの生涯のテーマは、「母の願いを叶える」ことだ。

 だからこそ。
 ヴィットリオは、「貴族の娘」を愛した。
 母と同じように、身分の違う相手に心を動かしたんだ。
 べつに、アンリエッタである必要はなかった。大貴族の跡取り娘、という、彼が戦うべき「身分制度」の鎖の中にいる娘なら誰でもよかった。
 いろんな符号が合い、結果として彼はアンリエッタと愛し合うよーになった。

 嵐の夜の抱擁で、ヴィットリオがちっともアンリエッタを見ていないのも、そのためだ。
 彼が見ているのは、死んだ母だ。
 自分もまた、母と同じ運命に身をゆだねている……その事実、運命への厳かな気持ちと向き合っているんだ。

 「自由」「平等」への戦いがテーマだからこそ、それを求めて散るニコラのエピソードが大きく扱われている。
 虫けらのように射殺されるニコラたちと、それに対する怒りを爆発させるヴィットリオ。
 その場にアンリエッタがいても、関係ないのはそのため。

 結果的に、ヴィットリオとアンリエッタは別れることになる。
 どんなに愛し合っていても、ふたりは結ばれないのだ。母フェリーチタと同じように。

 母の祈りは、願いは、またしても叶わなかった。
 母の形見のロザリオを握りしめ、ヴィットリオは絶唱する。

 ところがどっこい。

 ドンブイユ公爵が実の父だと名乗り出た。
 身分ゆえに引き裂かれるヴィットリオとアンリエッタに、自分とフェリーチタの姿を見たのだ。
 フェリーチタの願いは、息子の生命をもって叶えられた。彼女の意志を継ぐヴィットリオを通して。

 貴族と平民。
 身分ゆえに引き離されたふたり。
 だが、時代は流れ、貴族の時代は終わりを迎えようとしている。
 平民の娘だから、とその愛を否定されたフェリーチタ。
 平民の息子でありながら、その愛を受け入れられたヴィットリオ。
 時代は動いているんだ。
 フェリーチタを愛したからこそ、ドンブイユ公爵は落陽を見つめ、その事実と向かい合う。

 愛が、歴史を動かしていく。

「母の祈りが届いた」
 とヴィットリオは言う。
 彼の望みは「母の望みを叶える」こと。
 彼は貴族を憎んでもいないし、父を憎んでもいない。母がそうであったように。
 だから、ドンブイユ公爵の提案をすんなり受け入れる。貴族社会で生きることを受け入れる。

 母の愛が、奇跡を起こしたのだから。
 「身分」という障害を越えたのだから。

 親子の名乗りのシーンと、やがて滅び行く種族であるというドンブイユ公爵の演説が、ヴィットリオとアンリエッタのハッピーエンド・シーンより重要に描かれているのは、そのため。
 ロドリーゴが「貴族」というだけで身を引くのも、テーマがアンリエッタとの恋愛にはないから。

 アンリエッタは、ただの「記号」。
 フェリーチタの願いを叶えるための。
 愛が叶ったヴィットリオはアンリエッタと踊りながらも、その瞳は腕の中の女を見つめず、自分の胸の奥に向けられている。
 自分のなかに息づいているフェリーチタを感じ続ける。見つめ続ける。

 そして。

 語り部でもあるヴィットリオの曾孫、ヴィットリオ・F@ゆみことその恋人ジュディッタ@あすかへと、「愛の奇跡」は続いていく。

 生命懸けて愛に生きたフェリーチタがいたからこそ、命はつながり、受け継がれたのだ。

 ジュディッタのおなかにも、新しい生命が宿っている。
 彼女はフェリーチタのように、愛する男のために身を引き、ひとりでその子を育てようとした。
 だが、時代は流れ、新しい力が育っている。ドンブイユ公爵とはちがい、ヴィットリオ・Fはジュディッタを見捨てない。共に時代と戦う。

 ドンブイユ公爵とフェリーチタの悲恋は、ヴィットリオ・Fとジュディッタの恋の成就へとつながるんだ。

 
 主人公はヴィットリオ。ヒロインはフェリーチタ。

 そうだとわかれば、なんの疑問も歪みもない。
 ヴィットリオはフェリーチタの心を受け継いでいるから、フェリーチタ自身でもある。ヒーローでありながらヒロイン兼務という、まことにオサ様らしい役かと。


 脚本上では愛し合っていなければならないのに、まったく愛の見えない主人公カップル。
 それがあまりに興醒めで、わたしは観劇回数を減らした。
 花組公演『落陽のパレルモ』
 オサ様もあんまりだが、ふーちゃんも大概だ。……なんとまあ、似たもの同士なんだこいつら。組むことで、互いの魅力を相殺している。
 別の役者でこの物語を見せてくれ、と切望したよ。

 これはもう相性の問題であって、主役カップル以外の物語はちゃんとたのしめる。
 アンリエッタ@ふーちゃんと対峙し、彼女を「愛しているふり」をしていないときのヴィットリオ@オサは魅力的だ。ハートのある男に見える。
 盟友ニコラ@らんとむとのシーンや、母を想って苦悩カマしているところとかは、すごくいい。
 

 ニコラのかっこよさと、マチルダ@彩音の可憐さ純粋さはまた格別。
 マチルダ誘拐事件のときの、ニコラとマチルダの空気感には、ときめいた。
 ニコラの素朴な男らしさと矜持の高さ、マチルダの美しいまでの無垢さ。
 もしニコラが殺されなければ、この男と女にはどんな未来があったろう。彼らが愛し合う未来だってあっただろうに。そしてそれは、どれほど美しくときめく物語だろう、と期待させる。
 それが理不尽に踏みにじられるからこそ、観客の心は揺れ動く。
 ニコラとマチルダに感情移入するから、彼らの「心」がわたしたちの近くにあるから。
 ニコラの死と、ネックレスを差し出すマチルダのシーンは物語のなかでもっとも盛り上がるシーンになってしまう。

 それに続く、近代パート。
 ヴィットリオたちの曾孫であるヴィットリオ・F@ゆみこと、その恋人ジュディッタ@あすか。
 ユダヤ人であるジュディッタは、ヴィットリオ・Fへの愛ゆえに、あえて身を引こうとする。
 Fとジュディッタは、最初顎が落ちるほどのラヴラヴっぷりを見せつけている。この世のすべてに祝福された、世界一しあわせなカップル。
 男は金持ちのボンボンで、芸術的才能にも恵まれ、仕事も成功している。
 女は美貌と才能を持ち、愛する男の子どもを身ごもっている。
 男の育ての親である祖母にも祝福され、これ以上ない状況。実際、Fのやにさがりっぷりはものすごい。見ているこっちが恥ずかしくなるよーないちゃつきぶり。
 でも。
 世界一幸福に見えたカップルは、じつは愛し合うことを禁じられたふたりだった。
 女が、ユダヤ人だからだ。
 ふたりが美しく、結ばれることが当然だと思えるだけに、この事実が残酷だ。
 愛し合い、信頼し合い、思いやり合うふたりが、それらすべてを許されない現実ってナニ。
 現実への理不尽さ、怒りややるせなさ、そしてせつなさが加速する。

 ヴィットリオとアンリエッタ、ヴィットリオ・Fとジュディッタ、ふたつのカップルが対比して描かれる愛の物語。

 この構造が、痛い。

 Fとジュディッタがせつないまでに愛し合っていることがわかるだけに、まったく愛のないヴィットリオとアンリエッタが悪目立ちしてしまう。

 わかった、キミがジュディを好きなのはわかった、愛してるのはわかったから少しはひかえろ、見てて恥ずかしいから!!
 と、肩を押さえたくなってしまうF青年。
 わかるよ、わかりすぎるよ、キミがFくんを愛していることは。彼の心と人生を愛おしみ、大切にしていることは。我が身を犠牲にしても、彼を守りたいと想っていることは!
 と、抱きしめてあげたくなるジュディッタ。

 たとえFくんが「金さえあればなんとでもなる」てな考えの持ち主で、おばーさまにお金を借りに来て、おばーさまのお金でピンチを乗り越えるだけの他力本願野郎だとしてもだ、そんなことはどーでもいー、と思わせるほどには、彼は愛の虜だ。
 そして、ひとりの男がそこまでめろめろになるのが頷ける、納得できるすばらしい女性が相手だ。

 ニコラとマチルダにしろ、ヴィットリオ・Fとジュディッタにしろ、出番も書き込みも決して多くない。
 なのに、このふた組のカップルの存在はきらきらと観客の胸を打つ。

 主役カップル以外の物語は、ちゃーんと面白いし、感情移入できる。
 盛り上がる。

 また、非業の最期を遂げた母への想いを引きずる主役の方のヴィットリオも、ちゃんといい仕事をしている。
 母フェリーチタ@きほちゃんと小ヴィットリオ@あうら真輝/野々すみ花(両方見た)も愛が悲しくせつなくていい。

 
 問題はほんとーに、ヴィットリオとアンリエッタなんだよなあ。
 このふたりに愛がないために、物語を盛り下げまくり、作品を落としているんだよなあ。

 真ん中の物語に吸引力がないと、部分がよくても空中分解するんだ。

 ニコラたちの決起と破滅がいちばん派手なシーンになっちゃ、ダメなんだよ。
 それは作品のバランスを崩してるんだよ。

 対比される2組のカップルのうち、解説側の曾孫カップルの方が盛り上がっちゃダメなんだよ。
 それは作品のバランスを崩してるんだよ。

 
 とまあ、こんなわけで。

 ニコラとマチルダ、ヴィットリオ・Fとジュディッタのカップルは大好きだし、彼らのシーンは大泣きしているし、ヴィットリオ単品シーン(母と少年含む)もまた泣けるのに。
 衣装も舞台も美しくて溜息ものなのに。
 これぞタカラヅカ〜〜! な、女性が大好きなハーレクインなものがてんこ盛りになっているのに。
 植田景子作品自体、大好きなのに。
 オサ様のファンで、まっつの大ファンで、あすかちゃんもかっぱたん……ぢゃねえ、ゆみこちゃんも大好きなのに。

 萎えるの。

 気持ちがしょぼんとなるの。
 純粋にたのしめないの。

 まあ、ロドリーゴ@まとぶがどんどんいい男になっているよーなので、このまま回数観ていればそのうちヴィットリオ×ロドリーゴで萌えられるよーになるかもしれないけどな。

 初日に観たときはねえ、ロドリーゴってば気の毒でしかなくてねえ。
 誰からも愛されていないあんな女に一方的に言い寄って、カケラも相手にされていないってのがもう、痛くて痛くて。
 惚れる女のクオリティで、男の度量も量れるじゃん? 大貴族の長女だっつー他にはなんの取り柄もない自己中浅はか女に「金に物を言わせたプレゼント攻撃」で言い寄っているおぼっちゃま、なんて最悪じゃん。
 星組からわざわざ組替えしてきて、なんつー阿呆男役をやってるのよまとぶ! と、かなしくなったもん。
 宙組からわざわざ組替えしてきて、女といちゃついて踊って騒いでいるだけの意味ナシ男をやっている水くんを見たときと、同じ哀しさですわ。

 でも、次に見たときはロドリーゴ、ただのバカ男じゃなくなってた。
 彼が何故その女に執着したのか、理由がわかるよーになっていたの。
 貴族である彼は、貴族であるというルールに従って生きることが矜持であるからこそ、あの女を欲したのね。

 それなら、彼がヴィットリオに惚れる未来がないとは、誰にも言い切れないよな、と(笑)。

 そこまで吹っ切れれば、この作品もたのしくなるだろう。

 でも今はまだ、じれったい萎え作品なのよ。
 それが残念でならない。


 いろいろと思うところがあって沈黙していたが、いい加減『落陽のパレルモ』について語ろうと思う。

 『落陽のパレルモ』は、こだわりとテクニックを駆使した質の高い作品だと思っている。
 だが、景子先生の前回の大劇作『シニョール ドン・ファン』と同じ詰めの甘い作品だと思う。

 『ドン・ファン』は、設定の段階で大きなミスをしている。それゆえに、すべての説得力が崩れてしまった。
 『落陽のパレルモ』もそうだ。要の部分でミスがあるので、他の部分の良さがかすんでしまう。

 もったいない。
 誰か、アドバイスしてくれる人はいなかったのか。
 板に載せる前に、「ここ変だよ」と言ってくれる人がいれば、避けられた失敗だろうに。
 そして、その失敗さえなければ、すばらしい作品になったろうに。
 惜しくてならない。
 バウではそーゆーミスをしないのに、よりによって大劇でばかりつづけてミスるってのは、どーしてなんだろー。

 ま、そのミスの話は追々するとして。

 
 植田景子作品の特徴は、

・モロに少女マンガ
・役者へのあて書きはしない


 だと思っている。

 なにしろ、デビュー作が『ICARUS』だもんなあ。当時、「トウコちゃんになんて役をやらせるのよ?!」と唖然としたもんさ……(今の受受しいトウコちゃんじゃないわよ。雪組御曹司、バリバリの生意気元気攻男だったころのトウコよ?)。

 なにしろ作風が「少女マンガ」なので、生々しいものや、真の意味で「痛い」ものは描かない。奥底にあるドロドロしたものは描かず、てゆーかそんなものは存在せず、ただひたすら美しいモノを描く。

 もちろんソレは、正しい。
 ここはタカラヅカだ。
 ことさら人間の醜さや生きる痛みを描かなくてもいい。
 「少女マンガ」を正しく描ける作家の存在は、すばらしい。

 問題は、「あて書きをしないこと」だ。
 タカラヅカは役者へ「あて書き」してこそ、消費者のニーズに叶った商品を作り出しやすい構造になっている。
 同じ駄作でも、あて書きされたものとそうでないものなら、前者の方がファンに喜ばれる。
 こだまっちがあれほど「問題ありまくり、商業作品としてやべーだろそれは作品」を作っていても、ある意味存在価値を認められているのは彼女が「あて書き」をするからだ。
 景子せんせは、「あて書き」をしないゆえに損をしてると思う。

 ただし、景子作品は「少女マンガ」だ。
 それも、べったべたの。
 べったべたの少女マンガは、「とりあえず男主人公はかっこいいし、女性読者の共感を得られる恋愛モノになっている」という特徴がある。
 つまり、強いて「あて書き」しなくても、「女性が楽しめる作品」になっているわけだ。誰が演じてもいいキャラクタであり、ストーリーなんだもの。

 そのため、「少女マンガ」「あて書きはしない」というふたつの特徴は、なんとかバランスを保って作品になっていた。

 『THE LAST PARTY』や『Le Petit Jardin』はそのいい例。
 誰が演じてもかっこいい主人公、気持ちのいい物語。

 この『落陽のパレルモ』も、そうだ。
 そうである、はずだった。

 しかし。

 今回ばかりは、「あて書きしていない」ことが致命的となった。

 『落陽のパレルモ』にある、要の部分のミスというのは、物語の収束の仕方だ。作者の意図とはちがった意味に取られてしまうであろう、誤解を受けるクライマックス。
 身分違いの恋に苦しんだ主人公が、自分の力ではなく棚ボタで幸福になってめでたしめでたし、というオチ。
 テーマの解説をするのが好きな景子せんせらしくもなく、「愛の力」によるハッピーエンドだということを「解説」せずに、「落陽を迎える人々」の解説に力を入れすぎてしまった。
 貴族と平民の恋物語がハッピーエンドを迎え、貴族の時代は終焉に向かう。これは、同じことを表現しているんだ。景子たんの言いたいことはわかる。しかし。
 「落陽」ばかり解説してちゃダメだ。大劇場という大仰さが必要な場所で上演する以上、「愛の力」もきちんと解説しなきゃ。
 すべてが終わったあとで、近代パートの主人公の曾孫カップルに「偉大な愛!」と解説させても遅い。「愛の力」で悲劇が大団円にひっくり返るクライマックスで、ちゃんと解説させなきゃ。
 ここをミスってしまったばかりに、全体の印象が落ちてしまった。

 だが。
 このミスは、致命的とまではいかなかったと思う。
 たしかに大きなミスだし、「テーマの解説好きが災いして、『落陽』ばっか解説して自爆してるよ景子たん」とじれったくなったけれど、それはまだ、フォロー可能なミスだったと思うの。
 「あて書き」さえしていれば。

 脚本で足りていない「愛の力」の解説を、演じている者が埋めれば、問題はなかったんだ。

 愛がダダ漏れになるタイプの役者が、あるいは湯気をたてるほどの熱を発するタイプの役者が、あるいは真の演技巧者が主役のヴィットリオを演じていたならば、このミスは誤魔化すことが出来た。
 脚本で「棚ボタ」に見える程度の解説しかしていないクライマックスでも、愛のバカッパワーで駆け抜ければ、誤魔化せたんだ。
 「ふたりの愛が、公爵の心を動かしたんだわ!」とか、「愛の力で奇跡が起こったんだわ!」とか、思わせることはできた。

 だがしかし。

 ヴィットリオを演じているのは、天下のナルシスト、春野寿美礼だ。
 自分がほんとーに好きな相手や、認めている相手になら、ちゃんと「愛」を演じることが出来るが、そーでないとカケラも演じられない男。
 脚本に書いてある「相手への愛」よりも、「自分への愛」が勝ってしまう男。

 愛の力で脚本のミスをフォローしなければならないのに、「愛せない男」が主役じゃダメだよ。

 景子たん……。
 「あて書きしない」のが、裏目に出たね。

 たしかにヴィットリオは、景子たんの描く主人公らしく、「誰が演じてもカッコイイ男」だけど、オサには合ってないすよ……カケラも。
 オサ様はねえ、役と相手役を選ぶ人なのよ。それがいい悪いじゃなく、そーゆー人だから、これはもう前提だから、仕方ないのよ。

 今のとこ、ヴィットリオが向かないなと思うのは、主だったジェンヌの中では、オサの他はコム姫ぐらいのもんだ。あとの人なら、誰でもハマると思うよ。
 わたるでもあさこでもたかこでも。トウコ、水、かっしー、タニ、きりやん、ゆーひ、ゆみこ、まとぶ、とむ……ええ、まっつでも、誰でも似合うよ。
 正しく「熱愛」を演じられる人なら。

 なまじ物語が「べったべたの少女マンガ」であるだけに。
 主人公たちが愛し合っていないのが、痛い。つらい。

 そして、脚本上のミスがより大きく見える。
 致命的になる。
 作品の質を下げてしまうほどの、悪印象となる。

 ……せっかく、美しい作品なのに。
 あらゆる意味で、ハイクオリティなのに。
 ひとつの欠陥が、それらの印象を覆してしまうの。

 もったいない。

 
 肝心のところでミスをしてしまう景子せんせも歯がゆいし、そもそも自分の作品を愛しすぎてこだわりすぎて「あて書き」をしないところも歯がゆい。
 相手役を愛せないオサも歯がゆい。

 
 植田景子と春野寿美礼。
 『落陽のパレルモ』は、ふたりの才能あるクリエイターの、「欠点」が如実に表れた作品だ。



 なんかだらだら書いちゃって、盛り上がらないまま時間だけ過ぎてしまった。
 日記を書かない日が続いたりするのって、リアルで忙しい場合もあるが、ネタにのりきれないで筆が進まない場合もあるんだよな……。

 まだ書いてないことも、書きかけていたこともいろいろあるが、下書きはさくっと捨てて(下書きしてるのか?!)、最後に腐女子ネタ書いて終わりにしますわ。

 ジョニー@らぎ攻希望。

 らぎくん今回、めちゃ素敵です。今まででいちばんイイ!
 あんまりきらきらしているので、一瞬誰かわからなかったほどだ(失礼な)。

 ジョニーの本命は、言わずとしれたローリーせんせ@かっしー。
 鈍くさくてイケてないローリーの、真の魅力を知るのも彼。
 ヲタク詩人のローリーを、かっこよく変身させちゃうんだぜ? いちばん似合う服がわかってるんだぜ?
 てゆーか、ジョニーよ。

 ローリーを裸に剥いて、着替えさせたのか?

 ……ハァハァすることをお許しください。
 生徒に裸にされ、カラダのサイズなんか測られちゃってる高校教師!
 や、もちろんジョニー(18歳)はローリー先生(30歳)のサイズぐらい知ってるけど、わざと測るわけですよ!(年齢はてきとーです)
 でもって、言われるがままに着せ替え人形させられちゃう教師! 欲望のままにコスプレさせる生徒!

 どさくさにまぎれ、エプロンドレス着せたり、バニーさせたりしたはずだ。したよな、ジョニー?

 で、その結果がタキシードだ。ローリーのノーブルな美しさがいちばん際立つ衣装だ。

 なんてツボを心得てるんだジョニー。

 そして、ローリーは天然だから、裸に剥かれてあちこち触られようと、ネコ耳つけられよーとしっぽつけられよーと、生耳噛まれたり指しゃぶられたりしても、絶対変だって気づかないから!
 言われるがままになってるから! 「せんせ、おとなしくしてて」って言うだけで、素直に従うから。
「必要だから」って言えば、写真撮ってもOKだから。ビデオ回されて、恥ずかしい衣装で恥ずかしいポーズ取らされても、大丈夫、ローリーなら変だと気づかないよ!!
 そんなもんか、と真面目に受け止めて、言われるがままにポーズ取ってるよきっと。

 いいなあ……天然ボケ男としたたか少年……。

 ジョニーはローリーを狙っているし、いずれモノにするつもりでいる。
 でも、「今」じゃないんだよね。
 「コドモ」である彼は、今はまだそのときではないとのんびり構えている。「コドモ」であることを、最大限利用して、「今」しかできない楽しみ方を満喫しているから。

 だから、「今」ローリーが誰と恋をして、誰と暮らしはじめても平気。
 シルヴィア? あんな女より、絶対オレの方がいいって。勝てる自信があるから、今はローリーの恋の応援をする。

 なんせジョニー、ホストクラブに出入りしている高校生、だもんなあ。
 出張ホストクラブ「DAYTIME HUSTLER」の経営者、ロレンツォ@オヅキとは個人的に親しいようだし。高校卒業後はまちがいなくそっちの道へ就職するだろーな。
 実際、売れっ子になりそう(笑)。

 ローリーが本命なんだけど、今現在のジョニーの恋人はディック@谷みずせで。
 ディック、意味もなく色っぺえ(笑)。
 不健康というか、退廃的というか。

 ローリーに改心させられる前、ジョニーはドラッグと暴力(SEX含む)に明け暮れていそうだが、ディックはドラッグと売春って感じだー。
 あのとろんとした目が……(笑)。

 愛情よりも馴れ合いでつながったふたり、って感じ。ジョニー×ディック。

 
 数年経って、ローリーがゴールドビーチに帰ってくるところから物語ははじまる。
 シルヴィアとは、とーぜん別れてるわな。うまく行くわけないじゃん、あんなふたり。
 ついでに、ローリーは詩人としてもまーったくモノになってない。とーぜんだわな。NYに行く意味なんかもともとなかったもんな。

 そのころロレンツォは無事「DAYTIME HUSTLER」を再開しており、順調に儲けている。
 No.1はジョニー。
 源氏名は「ローレンス」。そう、ローリーの名を、わざわざ名乗っていたりする(笑)。
 ロレンツォとまず再会したローリーは、自分と同じ名の男が店のNo.1だと知り、興味を持つ。……それがジョニーの狙いですから。
 飛んで火に入る夏のローリーの前に颯爽と現れ、「ローリーを尊敬しているから、名前を借りたんだ」とかなんとか、ジョニーはてきとーなことを言って単純男を喜ばせる。
 そっから先は、No.1の腕の見せどころ。20代になったジョニーは深めたキャリアと磨き抜かれたテクニックでローリーをモノにしちゃうわけだ。
 えーと、そんときローリーいくつだ? 30代半ばくらい? うむ、食べ頃ですな(笑)。

 さて、教え子とそーゆーことになっちゃったローリーは、真面目に悩む。
 教師失格だとかなんとか。
 ジョニーが昔から自分を狙っていたことなんか、もちろん知らないから。今さら深刻ぶって苦悩する。もちろん、サムいポエムなんかも書いちゃうのさ。

 悩むローリーの向かう先は、もちろん男前ロレンツォのもとだ。
 相談に乗るうちに、ロレンツォはついうっかりローリーに手を出してしまう。
 ええ、ここは「うっかり」です。ロレンツォには下心とか計算とかないから。本当にローリーを心配して……慰めるのが行き過ぎちゃったというか。
 出会い頭の事故のよーに、ついうっかり朝を迎えてしまったふたり!
 そこへ、合い鍵で入ってきたジョニー!
 三人模様の絶体絶命!!

 ずるがしこく、でも無邪気でもある若いジョニーと、クドくてちと三枚目だがやさしい大人の男ロレンツォの間で、揺れ動くローリー@ヘタレ美青年!!

 波打ち際で、3人で踊っちゃってください、ローリーのサムいポエム朗読つきで!!

 
 ああ、わくわくするわ……。
 萌えな関係です、ローリーをめぐる三角関係。

 てーか、ジョニーが黒くて若くていい男だ……。らぎくん素敵ー。いつも健康印だった彼で、こんなに萌える日が来ようとは。
 ロレンツォもオトコマエだし。オヅキかっこいー。

 かしちゃんは、いつものかしちゃんだから。
 のーみそ緩そうなところが魅力☆

 
 とまあ、罪のない萌え語りです、深く考えないでくださいませ。

 
 あー……キャロル@リサちゃん、かわいかったなー。カテコでは、リサちゃんの脚見てるうちに、幕が下りちゃったよ。かしちゃん、見そびれた……かしちゃんファンなのにー。

 と、つぶやいて終わる。


 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』でナニがすごいかって言えば。

 観客が、オヅキのことしか言わないこと。

 サバキで飛び込んだ初見のとき、わたしは作品にノリ損ね、某氏の演技に引いてしまったままのしぼんだハートで客席をあとにした。
 だから、とびきり聞き耳を立てていた。
 ねえみんな、どう思ったの、この作品?
 歩きながら、周囲の人たちのお喋りに注意していたんだ。

「まだ新公学年よね」
「そう、新公よ」
「すごかったね」
「あんな子いたの知らなかった」

 耳に入るのは、「無名だった」「新公学年の子」の話ばかり。

「とびきり濃くて」
「出てくるだけで笑っちゃう」
「あれでまだ下級生?」
「大きいわね」

 耳に入るのは、「濃くて大きな」「下級生」の話ばかり。

「えーっと、なんて言うの、あの子」
「オヅキトオマっていうらしいわよ」
「へー、オヅキトオマ」

 耳に入るのは。オヅキの話ばかり。

 早足でいろんな人の間を抜けていったんだけど。
 みんなもれなくオヅキの話をしながら歩いているのが、愉快だった。

 『さすらいの果てに』が終わったあと、観客がそろってかなめくんの話しかしてなかったときと同じだ。

 下級生ってのは、こーやってブレイクしていくんだな。

 誰だって、主演や2番手のことは知っている。彼らの名前で客を呼ぶわけだから。
 そういう意味で、主演クラスの人間が主演作品でブレイクするのはむずかしいだろう。もともと著名なわけだから。

 だが、無名の下級生は。

 主演クラスの人たちを観に来た、脇のことまで知識や興味のない人たちに強烈な印象を与えるのは、真ん中でブレイクするよりある意味たやすい。
 「無名」という強みがあるからなー。

 とはいえ、なにしろ「無名」で顔の区別もつかない興味もない状態の人たちに、「あの子誰?」と思わせるのは本人の才能であり実力だろう。
 オイシイ役をもらっても、すべる人はすべるんだから。記憶に残らない人は残らないんだから。

 『DAYTIME HUSTLER』で、波が来たと思ったのは、緒月遠麻だ。
 いいも悪いもない。強烈なんだもの。

 出張ホストクラブ「DAYTIME HUSTLER」の経営者ロレンツォ@オヅキ。
 登場からして、強烈。
 紙幣付きの派手派手羽根ショールを肩に、腰を振りながら踊り出るラテン男。
 「出張ホストクラブ」なんてうさんくさいモノを、胡散臭さ爆発に歌い踊って解説。
 この登場だけで、全部持っていった。
 おお、勝利の凱旋が見えるぞ。この場面を決めただけで、勝ったよなオヅキ。

 以来、出てくるだけで観客の視線を奪っている。ついでに、笑いも奪っている。

 2度目の観劇は、チェリさんと一緒だったのだけど。

 チェリさん、オヅキが出るたびずーっと笑ってるの。
 肩ふるわせて、声殺して。
 お芝居がよそで進んでいても、大筋に絡んでいない端にいるオヅキ見てるの。目が離せない状態らしい。
 ラストのカーテンコール挨拶時も、オヅキしか見てないし。それが横でわかるくらい、ほんとにオヅキだけだし。

 こーゆー現象を引き起こすんだわ、オヅキ……おそるべし。

 ただの「イロモノ」キャラじゃないしね、ロレンツォ。
 最初の登場は、たしかにとんでもなかった。うわー、またオヅキこっち系かよ。二枚目修行中なんじゃなかったの? またお笑いイロモノ系まっしぐら? と、危惧したが。
 ロレンツォは、イロモノでもお笑いキャラでもなかった。

 純然たる、二枚目キャラだった。

 いい男なんだ。
 高校生たちのいいアニキで、ローリーの理解者で。
 ちょいと三枚目風に笑いも取る、濃くてキザな二枚目キャラ。アニメに出てきそうな男。

 なんだよオヅキ、二枚目できるんじゃん!!
 二枚目修行中、いいよいいよ、成長してるよ!

 かっしー、壮くん、かなめくんと、ヘタレ薄味白い王子様ばかりが生息する雪組の救世主になってくれ!!(かなめくんが壮くんに似てきたよ、勘弁してくれよ、の件はまたいずれ)

 なんかもー、ひたすらオヅキがかっこよくてね。
 微妙だと思っていた素顔まで、かっこよく見えてこまるわ。
 kineさんに貸してもらった『美の旅人たち』を見て、「モデルみたーい。オヅキきれーい!」とか思っているわたしはいったい……。本放送時にちらりと見たときは「ふつーの番組に出るのは微妙すぎる顔だよな」とか失礼なこと思ってたんですけどっ?!
 ともちのときと、同じパターンだ……。過去映像までもがかっこよく見える……ど、どうしよう。

 
 波が来ている。
 劇場をあとにする人たちが、みんなみんなオヅキのことを口にしている。
 かく言うわたしも、ひとに『DAYTIME HUSTLER』の感想を聞かれたら、「オヅキがすごいの!」とまず言う。いやその、壮くんのこととかかしちゃんの脚のこととか、言いにくいことが多くて迂闊に感想言えないってのもあるけどさ……。

「きたろうがすごくよかった」
「つい目がいっちゃった」

 ざわめく声。
 最初に口にするのにちょうどいい派手さがあった、という意味なのはわかる。
 下級生でそれほど有名でない、存在くらいは知っていた、あたりのポジションだったということもわかる。
 注目しやすい要素がそろっていたことは。

 だとしても。
 ざわめきが心地いい。
 新しいスターの誕生は心浮き立つよね。
 

 オヅキしか見ていなかったチェリさんは、別れたあとにすぐ、わざわざメールを送ってきた。
 なにか忘れものでもしたのかな? なにかあったのかな? と思いつつ、メールを開けば。

件名「言い忘れました」
本文「オヅキは巨乳ですね…。」


 ……わざわざ、これだけ送ってきますか。
 爆笑しましたがな。

 ええ、彼は巨乳ですよ。
 『ドリキン』の極楽鳥とか、ものすげーボンバーでしたよ(笑)。


 250GBのHDDが、たった1ヶ月でいっぱいになってしまった件について、襟を正して考えたいところなのですが、アタマを使うのは苦手なので放置。
 kineさんにもらった「わたしに向かって手を差しのべているまっつ@いつぞやの歌劇ポート」でも見て和んでおこうと思ってます。

 しかしこのポート、最初に見たときも爆笑したんだけど(したのか)、微妙だよなあ。なに考えてこんなことになってるのか、まっつさんに質問したいです。
 わたし的には、帽子がいちばんの敗因に思えるんですが。えっ、あのポーズは敗因じゃないんですか? ポーズはいいんです、まっつさんの投げキス風ポーズはぜんぜんいいです、いろんなとこで投げキスしてこそのまっつさんですから。
 いや、なにはともあれ、帽子を取ってくれ。
 「眉毛がない」のがつらいの。わたし的に。いちばん。
 笑ってるんだかすましてるんだかわからない微妙な表情も、「キメるつもりの1秒前」にうっかりシャッター切られちゃいましたなヘタレ風味で、大変好みですとも。

 みょーな帽子のせいで眉毛がなくて、せっかくのきれーな顔がみょーなことになってますが、わたしの持ってる唯一無二の素顔まっつ写真なのでありがたくパソ前に飾ってます。
 nanakoさんにもらった、ドラム抱いてる素顔そのかポートと並べて。
 2枚とも色数の少ない写真で、自然と「対」って感じで素敵ですわ。肌色の他は白黒しか使ってないみたい(笑)。

 ただ。

 ど、どーしても、そのかの方を前にしてしまう……その、スペースの関係で、2枚を少し重ねて貼ってるんだけど、そのかが前でまっつが後ろ。
 そのか、かっこいいなあ。しみじみ。
 まっつ、微妙だなあ。しみじみ。

 
 ところでわたし、かしちゃんバウのプログラム買いました。

 バウのプログラムは値上げされてから買わないことにしてるんですが。大劇だって、値上げされてから買わなくなったもん(何年前の話だ)。
 それでも、今回のかしちゃんプログラムは買いましたよ。

 nanakoさんに、

「オサ様の、たった1枚の小さな写真のために大劇プログラムは買ったのに、かしちゃんの美しい写真のためにバウプログラムは買わないのね?」

 と、言われてしまったので。

 プログラムはどーせ読まないので、買わない人なのに、わたし。
 今回の『落陽のパレルモ』プログラムは買ってしまったのですよ。

 景子たんのこだわり、「カヴァーレ公爵家の人々」写真のために!!
 それも、ガラガラをもつ、ヒゲのオサ様(たった2cm)のためだけにっ!!

 言われてみれば、その通り。
 わたしはオサ様のあの小指の先ほどの写真のためだけに、1000円出したのだわ。
 小指の先のオサ様に1000円出せて、美しいA4サイズ写真が3枚も載っているかしちゃんプログラム600円を出せないはずがあろうか。
 「金儲け目的で値上げしました、言い訳に版型上げてカラーにしました」が記憶に新しい中身スカッスカのぺらっぺらプログラムに600円だと思うから買えないんであって、かしちゃんの写真3枚セットが600円だと思えばいいんだ!

 意識の転換。
 おかげで、バウプロ買いました。
 nanakoさんに言われなかったら、絶対買ってなかったわ……好きな作品以外はまず買わないからなー。

 
 そーいや1年経ってよーやく、ケロのカレンダーの全貌が明らかになりました。
 去年、チェリさんに頼んで買ってもらった、Myダーリンのカレンダー。受け取ってすぐに部屋に飾ったんだけど、半分くらいしか見えなかったの。
 なにしろ筒に入った状態で届いたので。丸まってたのね。
 変に力を加えて伸ばすと傷が付くかもしれないから、なにもせずにただ壁につり下げた。
 そのうちに、重力でまっすぐになるだろう、と。スタカレとか買っても、いつもそうしてる。

 ところがねえ。
 ケロカレンダーってば、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、半年経っても、まっすぐにならないの(笑)。
 ついに1年経っちゃった。
 まだ、下の方は少し曲がってる。

 表紙のケロちゃんがいちばん好きだったから、ポスター代わりに飾っていただけで、カレンダーとして使用する気はない。だから、丸まっていても平気で、時と重力にすべてをまかせていたら、1年。

 時が経るに従って、カエルのぬいぐるみを抱いたケロちゃんが、少しずつ少しずつ、見えてくる仕組み。

 それはそれで、気に入っていた。

 最後のカレンダーは、このままで。
 ずっと。

 このまま、飾っておこうと思う。
 いつか、下の方までまっすぐになるんだろう。時と重力に完敗して。

 
 …………。

 
 まっつ。
 そのか。
 どうか、辞めないでね。
 少しでも長く、わたしに夢を見させていてね。

 
 毎年買っていた、たかちゃんのパーソナル・カレンダー、来年はもう買えないんだ、ということにヘコみつつ。


 わたしは昔、詩のカルチャースクールに通ったことがある。
 友人が「ひとりじゃ嫌。一緒にやらない?」と言うので、何事も経験だ、と軽い気持ちで入学した。
 友人はもともと趣味で詩を書いている子だったからいいよ。でもわたしは詩なんてもん、書いたことも書きたいと思ったこともない。
 当然、教室に通ってもなにも書けないままでいた。
 いい加減なにか発表しないとまずいなってころになって、苦肉の策で「短編小説」を書いた。設定作ってキャラ作って、テーマと起承転結作って、1文をできるだけ短くして、言葉遊びと韻を踏むことにこだわりまくって。400字詰め原稿用紙で10枚だか。それくらいの「短い小説」をでっちあげ、そいつを「わたしの詩です」と言って発表した。
 いちおー、そんなもんでも先生は、「それも詩です」と認めてくれたけど。まあ向こうも商売だしな。
 そうか、こーゆー作り方でもいいのか、と思ったわたしは、それ以来小説を書くときと同じように「詩」を作った。
 設定と、物語を作る。これで原稿用紙100枚とか200枚の小説書けるよな、というプロット作ったうえで、それを小説ではなく「詩」にする。
 起承転結全部書く必要がないと気づいたので、その200枚の小説の、いちばん盛り上がる部分とかを抜き出して「詩」にすることをおぼえた。
 幼なじみの男女が大人になってつきあいだしたが、結局別れてそれぞれの道を歩くようになる、という物語だとしたら、その「別れ」のシーンのみを言葉やリズムにこだわりまくって「詩」にする。
 少ない言葉でふたりのバックグラウンドを匂わせ、書いていない部分の物語を想像させつつ、現在進行しているドラマを盛り上げる。
 という手法にハマり、とてもたのしく何本かの「詩」を書いた。
 でもすぐに、あきた。
 わたしは、「いちばんオイシイ場面」だけをこだわり抜いて書くことより、起承転結全部自分で表現したいんだってことを再確認したから。書くのがめんどーな設定部分や説明部分、仕掛けや伏線なども、全部全部書き込みたいんだ。
 つーことで、詩のスクールはひとりで先に辞めてしまった。

 結局、「詩」ってなんなんだろう?
 スクールに通ったけど、わたしには詩の書き方がついにわからなかったし、詩というものがなんなのかもわからなかった。

 ただ、わたしにとっては文学も芸術も「フィクション」である。「詩」を作るにしたって「物語の設定」を作ることからはじめるよーな奴だから。

 自分の青春時代の恋物語を実名(イニシャル)で詩に書いて、出版しちゃうローリーせんせとは、相容れません(笑)。

 前置きの自分語りが長くてウザいだろーけど、実は『DAYTIME HUSTLER』の話なんだ、これが。

 正直、ローレンス氏が「はつこひのおもひで♪」を借金してまで自費出版で詩集にしていることには、萎えたのだわ。
 前振りで長々語ったように、わたしには「詩」がよくわかってないし、とくに「自分を主人公にした自分大好き詩」は苦手、ということを提示した上でね。

 なにしろ舞台が「現代」でしょ。自費出版って誰にだってできるし、やり方ぐらい調べれば簡単にわかる。大正時代とかの文学青年が食うモノも食わずに芸術を追究して生きているのとはちがい、余暇の部分でいくらでも自費出版くらいできる時代なのよ。
 『DAYTIME HUSTLER』を未見のデイジーちゃんに「主人公、借金して同人誌出してるのよ」と言ったら、やっぱり爆笑されたし。kineさんもすかさず「もちろん売れなくて、見かねた生徒たちが路上で売ってるし」と解説してくれて、さらに笑いをかっていた。
 この現代、誰だって同人誌(自費出版なんだから同人誌だわな)ぐらい作れるのよ。中学生だってね。
 なのに、そんな子どもでもできることを、借金してやるってのがもう、恥ずかしさ満載。仮にも教職に就いてる大人のやることじゃない。自分の払える範囲で作ればいいのに。「装丁に凝ったから高くつく」なら、払えるよーになるまで、作るのを待てばいいのに。
 まあ、ローリーが作った本は、コミケで売っているよーな「同人誌」(数万円あれば作れる)ではなく、世のオヤジたちがよく作っている「共同出版本」だと思うので、100万円くらいはかかってるだろうけど。
 にしても、身の丈を顧みずにやることとしては、恥ずかしい部類。

 そして、書いてある内容が「はつこひのおもひで♪」。しかもその初恋の相手、死んでるらしーし。
 ものすげー自己陶酔のかほりがしないか?

 誰だって、「思い出」は美しいもんだ。
 過去の自分は美化されるもんなんだ。
 思い出ってのは、えてして自分に都合よく脳内で捏造されたり誇張されたりするもんなんだ。

 スウィート・セブンティーンの思い出。
 波打ち際をきゃっきゃっと駆けたりする、若いころの自分と恋人。
 しかも恋人は死んでしまう。
 いつまでも美しいままだ。デブでふてぶてしいおばさんになったりしないんだ。
 現実がどうあれ、思い出の中、自分のイメージの中だけで、いくらでも美しいモノを描ける。自分に都合よく。

 借金してまでそんなマスタベ本を作った、ということに、あたしゃ引いたよ。

 「借金」と「はつこひのおもひで♪」のダブルパンチが効いたのよ。
 どちらか片方ならまだよかったんだけど。
 両方だと、あまりに自己中心的で。抑制心とか理性とかに欠ける、快楽に弱い自己愛主義者って感じで。
 大切な「はつこひのおもひで♪」なら、どーしてお金が貯まるまで本を出すのを待てなかったのか。後先考えずに出してしまうくらい、軽いものなのか。そりゃそーか、ただのマスタベ本だもんな、自分が気持ちよければそれでいいんだもんな、なにも考えてないよな。
 高校移転反対のプロパガンダのためにあわてて出した、という風でもないしなー。
 ただただ、かっこわるい。

 まあ、そんなふうにかなりなまあたたかい目で、「詩人」ローレンス先生を眺めていたんだけど。

 物語が進み、ローリーが語る「暗い過去」を聞いて、萎えた心が少し復活した。

 たしかに詩集に書いてあるのは「はつこひのおもひで♪」だけど。
 脳内で都合よく変換された「美しい思い出」なんだろうけど。

 ローリーの恋人、メアリー・アンが死んだのは、詩集に書かれた高校時代ではなく、大人になってかららしい。
 美しいだけの初恋の時期を過ぎ、大人になって「生活」し、傷つけ合い、疲れ果てた末に死んだのだという。

 ただきれいなだけの過去をうっとりと書いたのではなく、汚れた末になお、過去の美しさにすがって書いたのか。

 それなら、脳内変換していてもゆるせる。
 ひたすらキレイキレイなだけの「はつこひのおもひで♪ポエム」であったとしても。

 自分も彼女も汚れた大人になってしまった、そのうえでの「過去回帰」「郷愁」ならば。

 ……絶対、ローリーのポエムほど現実は美しくなかったと思うのよ。ローリーにしろメアリー・アンにしろ。
 それでも、詩集ではひたすら美しく描かれているんだろう。
 最初はそのことに引いたけど、今ではゆるせるよ。
 美しいほど、かなしいと思えるよ。

 ただやっぱり、借金はどうかと思うけどな(笑)。


 「かっこいい」役が、かっこよく見えない。
 それはかしげのせいだろう。
 セクシーな持ち味のある人が演じれば、ローリーの持つ「暗い過去」「愛の傷」等の「設定」も活きていたと思う。

 ローレンスというキャラをぶち壊しているのは、かしげなのか……。

 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』の話。

 そこにいるのは、いつもかしちゃんで。
 いつもとちがうのはビジュアル系を意識したよーな髪型と、目をすがめる変な表情。
 あとは、ふつーにいつものいい人。ほっこりあたたかい、まぬけな善人。みんなのお友だちキャラ。
 イケメンホストに変身して、思い切りかっこつけて登場して、「ぷっ」と観客に笑われていたりする男。いやその、実際わたしの隣の席の人、かしげがバリバリキザにキメて出てきた瞬間吹き出してたし。

 「設定」と「現実」が乖離しているかなしい姿。
 かっしー、それでいいの? イケコ、それでいいの?

 わたしがこの作品にのりそこねた理由のひとつは、ソレだろう。

 
 初見のときに壮トニーに引っかかり、初見・再見と通じてかしローリーに引っかかり、再見の折りによーやくいづシルヴィアに首を傾げた。

 えーと。

 いづるん演じるヒロインのシルヴィア、微妙に演技、やばくない?

 かっしーは「いつものかっしー」なので、見慣れたものなのよ、わたしにとって。
 なのに、かしちゃんの演技があちこち浮いて見えた。空回って見えた。
 何故か。
 それを考えたの。

 かしちゃんの演技が空回って見えるときって、相手がいつも決まっていた。

 壮トニーといづシルヴィア。
 ……2番手とヒロインかよ……とほ。

 このふたり以外の人と演技しているときは、別に浮いてない。
 逆に言えば、このふたりが浮いているということだ。

 壮くんはいつも素敵に浮いている人なので、かしちゃんに限らず誰を相手にしても噛み合わせが悪いのはいつものことだから置くとして、意外だったのはいづるん。
 男役時代、いづるんの演技に対してそんな風に思ったことは一度もない。
 むしろ地味で堅実、繊細な演技をする人だと思っていた。

 なのに、どうして?

 2度目の観劇のときに、答えに辿り着いた。

 こんなに「女」に特化した女、いねえって。

 シルヴィアは、あまりに「女」だった。
 言動や立ち居振る舞いが、「男性の演じる女性」的だった。
 オカマさんが、本物の女性以上に女っぽい仕草をするような。
 ちょっとしたことが、いちいち大袈裟に「女」を意識し、「女」であることをアピールしていた。

 大劇場でドレスを着て時代物を演じる分には、べつに気にならないかもしれない。
 でもここは小さなバウホールで。
 インターネットだのメールだの、イケコが大好きなイマドキ(笑)な単語の飛び交う「現代」で。
 いづるんの演じるシルヴィアは、あまりにも大仰だった。

 かしちゃんはふつーな、わりと自然体な演技をしている。
 でもいづるんは大仰な女おんなした演技。

 ……そりゃ、噛み合わないわ……。

 そこに、やはり熱意をこめて空回りしている壮くんが加わるわけだ。

 ……すごい……すごいことになってるよ、ママン。

 
 えーと。
 繰り返すけど、演技ってのは「好み」の問題だ。共感を呼ぶ部分が人間ひとりずつチガウわけだから、ある人にとっての「演技巧者」がある人にとっては「大根役者」かもしれない。
 わたしにとって共感できない演技をする人が、大根役者だとは限らない。

 だから、わたしが今ここで書いていることなんて、わたし個人の「好み」の問題でしかなく、正解であるはずも世の評価であるはずもない。

 ただわたしには、主要人物3人の演技が、ものすげー不協和音を奏でているよーに感じられた。

 のれないわけだわ……。
 作品はふつーに、よい作品なのに。高尚ではないけど罪のない、よくある娯楽作品(誉め言葉。お約束遵守の作品は心地よい)なのに。

 
 とまあ、ここまで書いておいて。

「かしちゃんローリーに、一瞬ときめいちゃったわ」

 と言ったら、kineさんに真顔で「どこに?」と返されちゃいましたが。

「ローリーがシルヴィアのことを、はじめて『お前』って呼び捨てるところ。かしちゃんに『お前』って呼ばれたい」

 と言ったら、これまた真顔で「ほんとにファンなんだ」と返されましたが(笑)。

 だからファンだって言ってるじゃん!!
 言いたいことは山ほどあるけど、結局は好きだから仕方ないのよ(笑)。

 イケコの素敵なワンパターン「障害物越しのラヴシーン」で、鉄格子越しに愛を歌うローリーとシルヴィア。

「お前に会いたい」

 ……って、言われてえ!!
 かっしーに言われたいよーーっ!!(笑)

 
 どーにもこの公演にはのれないとわかったので、観劇は2回で打ち止め、ヘビロテする必要はナシと思ったけれど。
 『アメパイ』くらいチケットが束になって階段下で売られていたら、もう少し通っていたかもしれない。

 ローリーはたぶん、「設定」上では、「脚本」上では、「いい男」だと思う。「いい人」ではなく。
 「いい人」にしてしまったのは、かしげ。かっしーの持ち味。そんなかしちゃんに情けない思いはあるんだけど、そーゆー情けなさも好きだったりするから仕方ない。
 彼の欠点は認めた上で、それでも通うことはできる作品だよ。

 ふつーにおもしろい脚本だから。ツボを押さえた演出がしてあるから。
 そりゃまあ、まちがってるとこはあるけどさ(笑)。「懸命に若ぶってスベってるおじさん」的センスに充ちていること(それがイケコ・クオリティ)や「少女マンガ的というよりは女々しい男のドリーム」的な突っ込みどころがあって、いろいろ見ていて恥ずかしいこととか。
 そんなのは些細なことさ。
 いい作品だと思う。
 あて書きはしていないと思うので(飛鳥くみちょが悪人を演じている段階で、「イケコ、絶対あて書きしてねえ(笑)」と証明されているよな)、どこの組の誰が演じてもいい作品だ。むしろわたしは、他の人たちで観たかっ……ゲフンゲフン。

 主要3人の演技が噛み合っていなくて、主人公とヒロインの恋愛が唐突に見えて「いつどこでそんなことに?」とびっくりしちゃうのに、それでも、主演クラス俳優のファンなら複数回観るのもたのしいだろうと思える。
 という、ちゃんとした物語だ。

 チケット事情がちがえばもう少し通ったろうし、そうすれば別なたのしみ方もできただろう。
 いろんなサブキャラがごちゃごちゃ魅力的なのもイケコらしいので、そのあたりで萌えを探すこともできただろう。

 なんか壮くんの空回りっぷりが愛しいしな……。後ろから膝かっくんしてやりてえ(笑)。
 主要3人が、互いの話をぜんぜん聞かずにそれぞれ勝手に暴走しているところに、かえって萌えがある気がするの。つつきたくなる連中だ。

 たのしかったよ。


 わたしがとまどっているのは、主人公ローレンスというキャラクタ。

 雪バウ『DAYTIME HUSTLER』の話。

 相変わらず予備知識ナシで観劇した。
 知っているのはポスターのみ。

 『DAYTIME HUSTLER』のポスターは、そりゃーもー美しかった。美貌の無駄遣いばっかしているかっしーを、これでもかっと美しく撮ってくれていた。

 ものごっつー美しいかっしーと、花と銃。そして『DAYTIME HUSTLER〜愛を売る男〜』という、思わせぶりなタイトル。作者が小池修一郎だから、多大な期待はしないとしても、わくわくするよーなポスターだ。

 あー、小池氏のオリジナル作品には懐疑的です、わたし。
 近年アタマを抱えるよーな駄作ばかり見せられているので、「イケコ、終わったな」とか「オリジナルはやらなくていいから」とか思っておりましたとも。オサコンはただの奇跡かと(笑)。
 それでも植爺だの太田だの石田だのより100万倍すばらしいクリエイターであることもたしかなので、「オリジナルは恥ずかしいモノの確率が高いけど、演出力はあるからそっちに期待」していた。

 そして、チケ難(なんで? かっしーなのに?!)のなか、がんばってサバキGETし、客席に潜り込んだ1回目の観劇。
 前もって手に入れていたチケットは1枚。それも、知人の厚意で譲ってもらったもののみ。自力では全滅してたのよねえ。そのたった1回の観劇日を待ってなんかいられなかった。少しでも早く観たかったのよ。これでもかしちゃんファンですから。ものすごーくツボったらヘビロテするかもしんないじゃん。少しでも早く、この目で確かめて、今後の予定を立てなきゃ! 後ろでも隅でも、とにかくまず観るの!!

 そーしてわたしは、どーにものれないままに、客席をあとにした。

 席が悪すぎたのかな。いちばん後ろのいちばん端っこで観たりしたから、感情移入しにくかったのかな。
 次に超良席で観るから、そのときに期待だ!

 …………そしてわたしは、いろいろ考えた。
 壮くんトニーについても考えたし、いづるんシルヴィアについても考えた。
 かっしーローリーについても、考えた。

 
 ローリーが、わからない……。

 わたしは脚本から受ける「設定」と、実際に舞台を観た上で感じる「現実」とのギャップに、とまどった。

 脚本と舞台、別物過ぎ……?

 「元不良」「悲しい生い立ち」「淫らな女関係」「詩人」「自堕落」「慟哭」「絶望」……脚本から見える「設定」のパーツ。
 だけど、舞台を観れば。
 「善人」「のんき」「陽気」「人気者」「大人はわかってくれない」「無力」「生活力ナシ」「鈍くさい」「イケてない」「ヲタク?」「とにかくいい人」……こんなパーツばかりが目に付く。

 かしちゃんの醸し出す「いい人」オーラが、すべてを裏切る。

 ポスターにあった「耽美」「花と銃」のかしちゃんは、そこに存在しなかった。
 同じなのは、髪型だけ。

 その髪型も……変。

 最初にローリーが登場したとき、脚の短さに仰天したのは置いておいて、その美形さにもちゃんと感動したのよ。
 ポスターと同じ髪型だーっ、かしちゃんきれーっ、素敵ー。
 素直によろこんだ。

 しかし。
 物語が進むにつれ、首を傾げる。

 あのすだれのよーな前髪のある髪型って……かっこいい二枚目の髪型、という意味でやってるんじゃ、ない?

 だってローリーは、なにかというと目をすがめる。近眼の人が眼鏡なしでいるときのように、目を細くするんだ。
 メイクもいつもとチガウ? 切れ長の目を強調した、日本物っぽい感じ?

 なんで目をすがめるの? わたし、かっしーのくっきりした目、好きなんだけどなー。
 前髪がうっといのかしら? それであんな目つきを?
 それなら髪型変えればいいのに。
 前が見えない不便な髪型をしているなんて、変な人。って、ひょっとして役作り?

 実際ローリー青年は、人の善さだけが取り柄のイケてない男。歌い踊る高校生たちには人気だけど、大人たちには相手にされていない。

 はっ。そうか。
 あの髪型、ヲタクって設定だったんだ!!

 アキバ系とかの男ヲタクが、髪の毛ぼさぼさで目が隠れちゃってる、アレだ。
 身なりに構ってない、美容院なんか行かないのばしっぱなしの髪の毛。そーゆー意味なんだわ。
 でもここはタカラヅカだから、ソレを美しく表現したらあーゆーすだれアタマになるんだ!

 そう気づけば納得。
 なにしろ「詩集を自費出版」だ。同人誌を作ってコミケで売るヲタクと同じことをしているわけだ。
 ほんとは美形なのに、なにしろ身なりに構わないヲタクだから、大人たちからはキモがられているんだ。

 と、考えてもべつに変に思わなかったのよ……あたしは……。

 「ほんとは美形」「いい人」「善人」「ヲタク」なローリーが、イケメンホストに変身。
 あら、わかりやすいドリーミング・ストーリー。
 ぼさぼさ髪と似合わないジーンズのせいで、ダサ男と思われていたけど、なーんとこんなに美形だったのよ!! 服装変えたらあら不思議、ぼさぼさ髪もオシャレに見えるわ! という設定なのかと。

 目で見えるもの、舞台から感じられるモノだけを信じるわたしは、そうやって主人公を受け止めていたわけだ。

 だから、目で見、心で感じているものとまったく接点のない「情報」を告げられるたびに混乱した。
 すなわち、「元不良」「悲しい生い立ち」「淫らな女関係」とか、詩を書けない苛立ちから恋人にあたり、死へ追いやったことなど。

 え、えーと?
 いくら台詞で「情報」として「設定」を並べられても、ソレ、「現実」に舞台の上にはありませんがな?

 だってソレを語るローリーは、やっぱり「平和」に「いい人」で。「ひだまり」のよーな人で。
 美形だけど、どっか鈍くさくて、親しみがあって。

 「はつこひのおもひで☆」という恥ずかしいコンセプトの詩集を自費出版しちゃうよーな、ヲタクのかほりのする男で。
 どっか夢見がちで、地に足がついてなくて。
 ぬけてるけど、そこがかわいくてたまらない男で。

 「設定」として書かれている、暗い過去を持つ大人の男。才能も美貌もあるが、恋人を死に追いやったトラウマで今はくすんだ生活をしている。彼の才気あふれる真の姿は、純粋な若者たちにのみ理解されている。傷ついた鷹は爪を隠したまま、あえて冴えない三枚目的な生活をしている。……というよーな部分はどこにあるのか。

 わ、わからない。
 「設定」と「現実」の差に、ついて行けない。

 かしちゃん、いい人過ぎ。

 いつものかっしーだ……美貌を無駄遣いしてる、いつものかしげさんがいるよ……。
 影と剛が欲しいの。耽美が欲しいの。
 ポスターの大嘘つき。
 たしかに、ローリー@かしげはきれいだよ。素敵だよ。たとえ似合わないジーパン穿いてたってな。
 でも、かしちゃんが美形なのは、あたりまえだから。
 そーじゃなくて、かっしーの新しい魅力とか、ふだんやらせてもらえないよーな役を、見たかったのよ。

 あー、でも。
 「設定」には影と剛があるよな……でもそれを舞台で表現できていないとしたら……それはかしげのせいか……とほ。


 わたしは洋服屋さんで、ドレスをオーダーメイドすることにしました。
 自分で絵を描いて、「こんなふうにして欲しいの」と言いました。
 いっぱい要望を聞いてもらって、素材にも凝ってしまいました。予算オーバーです。
 先にドレスを受け取って、料金は分割で払うことにしました。
 わたしは今とってもびんぼーなので、支払いはちょっと遅れがちです。ごめんなさい、もう少し待って。でも、絶対払いますから。
 支払いが遅れがちなんだから、「早く払え!」と叱られるのは仕方ありません。わたしが「ごめんなさい」と謝りまくるのも仕方ありません。
 でも変なんです。
 お店の人は、
「あんたのデザインしたドレスは一般ウケしないよ。こんな田舎町じゃなく、もっと大きな町で作ればよかったんじゃないか? 洋服屋は慈善事業じゃないんだからな」
 と言うんです。
 えーと? わたしが着るために、わたしが注文したドレスです。なんで一般ウケが必要なの? 支払いが遅れがちなのは悪いけど、それとはチガウ話だよね?
 洋服屋さんは、お客であるわたしのために、わたしの望んだドレスを売ってくれたら、そこでお仕事は終わりよね? 洋服屋さんがドレスを作り、わたしが支払いを済ませればいいだけの話よね?
 わたしのデザインしたドレスを、他の人が「素敵ね。同じものを私も欲しいわ」と言わないからって、洋服屋さんがわたしを責めるのはお門違いよね?
 わたしは洋服屋さん専属のデザイナーじゃありません。ただのお客です。どうして、デザインのことで文句を言われるの? 繰り返すけど、遅れている支払いのことで責められるのはわかるのよ。でも、「売れないデザインのドレスだ」と言われるのは理解できない。そんなの、わたしの自由でしょう。わたしがいいと思って、わたしのお金で作ったんだから!

 と、こんな話ではじまりますが、『DAYTIME HUSTLER』の話。

 ローリーが自費出版した本の売れ行きが悪いことで、出版社の人に責められていることに首を傾げつつ。

 えーと、ローリーは彼自身のお金で本を作ったんだよね? つまり、出版社にとって彼は「お客」よね? ローリーが自分の金で作った本なんだから、売れようが売れまいが出版社は関係ないよね?
 なんで出版社の人が、ローリーの本を持って書店に営業して回ってるんだろう。本はローリーのもので、出版社のものじゃないのに。

 本が売れないと、印刷費を払えないとローリーが言ったから? それで仕方なく出版社の人が営業して回ってるの?
 えーと、そんな契約自体おかしいって。自費出版本なんか、売れるわけないんだから。
 売れる本なら、出版社が出してるよ。作者に原稿料や印税を払って。
 ローリーに自費出版をさせた、ということは、この本を、金を出して買う人間はいないという出版社の判断よね? 作者以外には価値のない本だから、作者が金を出すのよね?
 自費出版である以上、出版社の人間はその本の流通には関わらない。作者から出版料をもらっているのだから、そこで商売成立だ。本が売れようと売れまいとなにも損はしない。

 もちろん、自費出版会社の中には、流通にも表面上責任を持つものもある。
 「当社で出版すれば、書店にアナタの本が並びますよ!」と謳っている場合だ。
 何故そんなことをするか。「お客」に「当社」で「出版」してほしいからだ。他の出版社でなく、自分のところで「自費」出版してほしいから。
 「お客」というのは「本の作者」だ。お金を出すのは作者。「書店に本が並ぶ」というのは、作者へのセールスポイントだ。「当店でDVDレコーダを買うと、お好きな映画ソフトを1枚サービスしますよ」と同じ。
 つまり、「書店に置いてもらう」のを前提にしている自費出版社なら、それをするのは当然のことだ。その本が、書店で売れる売れないは関係ない。「置いてもらう」のが、自費出版時の契約だからだ。
 もしも書店に拒絶されたとしたら、それは出版社のミスだ。本の出来も作者の力量も関係ない。ローリーが責める側だよ、出版社の無能ぶりを。

 だからわからないの。
 出版社の人が、ローリーの本を営業して回っていることが。
 いや、そこまではわからんでもないが、書店に置いてもらえないことでローリーを責めるのかが。謝るならわかるけど。

 支払いが遅れているようだから、そのことでローリーが責められるのはぜんぜんかまわないんだけどね。
 「書店に置いてもらえない」のは、関係ないじゃん。書店に置いてもらえるよーな本(つまり、ふつーに売れる本)なら、作者が金を出して自費出版しないって。売れない、書店にさえ拒否される本だから、わざわざ自分が金出して作ったんだっつーの。

 なんかね、基本がまちがってるの。
 「自費出版」の。

 「田舎町の書店では、置いてもらえない」→「都会なら認められるかもしれないのに」→「ほんとうはすばらしい作品。こんなところには、理解できる人がいないだけ」
 という意味で使ったんだろうけど。
 それで、ラストの「都会へ出て詩人としてやり直す」につながるんだろうけど。

 それなら、「自費出版」と「出版社」の認識がまちがってる。

 「自費出版」には「出版社の人」なんて関係ない。出版社の人が出てくるなら、「印刷費早く払え」と督促するだけでなければおかしい。
 「こんな田舎で詩集なんか売れない」と文句を言う出版社の人が出てくるなら、自費出版ではおかしい。出版社がローリーに印税を払って出版したことにしないと。
 それにしたって、「会社」が決めた事業(詩集の出版)なんだから、作者に文句言うのはおかしいけどな。その事業を進めた会社内部の人に言うべきことだ。だからこの場合はローリーが出版社の人を騙して出版させたことにするしかないな。

 
 わたしが気になったのは、ローレンスというキャラクタと、実際にかしげが演じている姿とに、どーも乖離感があったことなんだよね。

 設定と現実が噛み合っていないというか。

 以前に語った、「不良」という設定。
 わたしにはローリーが不良には見えなかったし、女遊びし尽くしてきた男にも見えなかった。

 次に「詩人」という設定。
 専業プロ詩人、というものがイメージできずにいるわたしには、生活を顧みずに言葉の上でだけ美しいことを並べられても「現実を見られない人」と思えてしまう。

 そしてさらに、今回長々と語った、「自費出版」。
 現実にはありえない設定の出版社と客の関係。
 冒頭の「自分のデザインで自分のお金でドレスを作った」だけなのに、「こんなデザインじゃ他の人は認めないよ!」と言われて、「すみません」と謝るのは変だ。
 ローリー、騙されてる?
 その出版社、変だよ。そして、そんな変なことをされて変だと思っていないローリーはやはり、ぬけてる? と思える。

 そう。
 かっこよくないんだ、ローリー。
 いちいち、まぬけなんだ、あちこち。

 でもなんか、設定上では「いい男」になっているらしいのが、気になる。
 目に映っている姿はかっこわるいのに。

 とまどうわたし。


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