人見記念講堂ステージ上に、セシリイがいた。

 オサコン『I got music』、東京に行ってきました。
 女子大? 三軒茶屋? どこだソレは。どーやって行くんだヲイ。とか思いつつ、携帯で路線検索しつつ(前もって調べておきましょう)旅行荷物抱えて行ってきました。

 今回のオサコンは大阪東京ともチケ取り玉砕していてねぇ。まともな席での鑑賞は1回もなかったんだが、いいんだそんなことは。劇場の隅っこからめいっぱい愛を叫んでいたので(笑)。

 20日は客席に日生アーネスト組が勢揃いしてました。
 だもんで、オサちゃんアーネストネタのアドリブとばしまくり。
 遅刻の言い訳に使ったり、クラリネットでアーネストの曲を吹いたり(器用だなヲイ)。
 とどめは、2部のMCにて。

 最初は「カップを掲げて〜」と当たり障りなく歌い出しただけだったんだが(しかしコレ、異様に長々と歌ってたぞ。誰か止めてやれ)、さらに「もう1曲おぼえたのがある」ともったいつけ、周囲から「ぜひ歌って」の声援を受けて、堂々と披露したのが。

「会いたい〜〜、悪いヤツ〜〜♪」

 セシリイかよ?!

 てっきり、アーネストの持ち歌だとか、作品のキモになる曲だとかを歌うんだと思った。てかふつー、男の歌を歌うだろー。
 よりによってセシリイ?! まだ18歳の、妄想少女!!

 しかもオサちゃん、踊り出すし。

 セシリイになりきって、舞台を走り回る。
 それに従い、走り出たのはじゅりあちゃん。
 急遽アルジャノンになって、オサセシリイを後ろから持ち上げだした。

 あの飛び上がりながら歌うシーンを、再現してくれました……。

 ど、どうしてくれよう……かわいすぎるッ!!

 
 日生組は終始ノリノリで、客席からエールを送ってくれてました。拍手も歓声も、「アンコール!」の掛け声も、派手。
 わーん、たのしー。

 
 ところで、この日はドリーさんと一緒だったんだけど。

「私はこの1回しか観ないんで、ここは逃すな!という見どころを教えてください」

 とゆーので、もちろん言おうとしましたよ。そしたらドリーさん。

「まっつの投げキス以外で」

 ……固まっちゃったぢゃないですか!! 今まさに、ソレを言おうとしたのに!(笑)
 先に言われちゃうとなー。こまったなー。

 見どころ多すぎるもんよ。
 結局、ドリーさんのリクエストでそのかの見せ場の解説をしたが。

 そのかねえ、かっこいいんだよー。
 もー、もー、超男前なのー。
 踊ってるときはほんと二枚目だよね。色男だよね。
 なのに、喋るとまぬけなんだよ(笑)。天然で、つっこまれキャラで、いじられキャラで。ああもう、かわいいったら。
 あの甲高い変な声でかわいいことばっか言うの。そのギャップが堪らないの。

 
 ギブミー三兄弟は、登場するなり、笑われていた。
 うわ、笑いが起こってるよ。いいのかソレ。笑われちゃイカンやろ? スターとして!!(笑いたい気持ちはよーっくわかる)

 しかしこの三兄弟。
 えーと、年齢的には、みわっち>まっつ>そのかで合ってる?
 しかし外見年齢は微妙だよねえ。

 MCでは恒例の?「老けている順に並べ」をやっていたけど。

 めぐむくんとしゅんくん(ともに88期)が「いちばん老けている」と最下手に追いやられるのは恒例(笑)だが、その次がまっつ(84期)でその横に我らがオサ様(77期)が並び「まっつより若い!」と主張し、自分を基準に下手側が「老けている」上手側が「若者」と定義。
 そのか(84期)はもともとの立ち位置が上手側だったせいもあり、全身全霊をあげて上手側(若者側)にしがみつこうとするが、他の者たちがこれまた本気の本気で力尽くでそのかを下手側(年寄り側)に追いやろうとする。
 えーと。タカラヅカって、上下関係の厳しいところぢゃなかったっけ? 先輩をボコボコにして「老けている側」に追いやっていいの、若者たち?(笑) そのかだからだよなー。みんないい仕事っぷりだわ!

 オサ様が7期下のまっつより若ぶって中央でにこにこしていることより、そのかが若者扱いされるために下級生相手に戦っていることより。

 いちばんすごいのは、ものすごーくナチュラルに、まぁくんの隣で笑っているみわっちだと思う。

 88期にまざりますか、キミは(笑)。オサ様よりすげえぞ。
 みわっち素敵。

 
 ところで、「見どころ」である「まっつの投げキス」をデフォルトとして覚悟していたはずのドリーさん。

「投げキスするのって、まっつだけなんですか!」

 終演後に驚愕の声を上げていた。

「てっきり全員が投げキスするもんだと思ってたんです。それでまっつがサムいのかと」

 えええっ?!
 2部のメンバー紹介でのまっつの投げキス。ええ、場を凍らせる、さいこーにイケてない、浮きまくってる投げキス。

 わざわざやってるんですよ、まっつだけが!

「振付ですかね?」

 くるくる回ったり脚あげたりは振付かなと思う。踊れる子しか派手なアクションはやってないはずだし。ダンス苦手な子は、ポーズとってるだけだし。
 そのときに、どーゆー客席アピールをするかは、個人技の範疇なんぢゃあ?
 てゆーか、演出家がまっつにだけわざわざ投げキスさせてるとしたらいぢめだよ……。や、あとひとりくらい、キュートに両手で投げキスしてる子もいたと思うけど。まっつは「キザに」やってるからね……スベり方の振り幅がね……。

「わざわざやって、アレ……」

 ねええ? 見どころでしょお?

 もちろん、わたしたちのその次の台詞は、

「かわいいっ」
「まっつかわいい!!」


 でしたよ(笑)。


 宙組大劇場千秋楽に行った。
 ガイチのサヨナラショーのある公演だ。

 わたしは今回の宙組公演、芝居の『炎にくちづけを』は大好きだし、これで退団するガイチに「よかったね、やりがいのある役とすばらしい作品で」と思う。
 しかし、同時上演のショー『ネオ・ヴォヤージュ』に関しては不満しかない。

 単純に、つまらないレベルの低い作品だということが大きい。出演者云々じゃなく、作品的にね。

 それに加え、劇団への不審がぬぐいされないことが、作品への感情移入を著しく下げている。

 つまり、ガイチの扱いについてだ。

 『ネオ・ヴォヤージュ』には、ガイチが中心となるシーンがひとつもなかった。
 新専科として劇団を盛り立ててきた人が惜しくも退団する場合、劇団はそれなりの花道を用意してきた。
 彼らが出演する最後のショーでは、多少の差こそあれ、ひとつ以上の「主役」シーンがあった。
 若手を引きつれて踊るもよし、新進美形男役を女にして絡むもよし。なにかしら要となるシーンがあり、劇団もファンもその人の「男役」としての最後の魅力を堪能する。
 別れが悲しいこと、その才能と存在が惜しいこと。それを、「演出」するのが常だと思っていた。
 ……現実がどうかは知らないよ? 惜しまれているのかそうでないのか、愛されているのかちがうのかなんて、ほんとうのことはわからないのだから、どーでもいー。
 問題は、そーゆー「演出」をする大いなるアマチュア感、身内感覚のあたたかさのある劇団として、今まで売ってきたのだということ。

 それが、『ネオ・ヴォヤージュ』には欠けていた。

 「タカラヅカ」という概念を無視したよーな作りのショーだった。
 それが、わたしには落ち着きが悪かった。
 不満だった。

 それでも、「サヨナラショーがあるんだから」と納得しようとした。
 きっと、あたたかい「タカラヅカ」な世界が、サヨナラショーで見られるんだわ、と。
 樹里ちゃんのサヨナラショーも檀ちゃんのサヨナラショーも運良く見ることが出来たけど、どちらもとてもあたたかい「タカラヅカ」らしさに充ちたものだったし。
 きっと、ガイチもそうだわ。

 
 と、思っていたので。

 実際に目にしたガイチのサヨナラショーは、思っていたものとちがいすぎて、心の整理が着かなくなった。

 同じ舞台を作ってきた仲間たちと共に、その功績をたたえる演出、別れを惜しむ演出で見送られるのだと思っていた。
 ところが、舞台に立つのはほぼガイチひとりで、誰も彼に絡まなかった。着替えの間にあひともたち下級生4人が1曲歌ったのと、同時退団の若者ふたりがガイチのバックで1曲踊ったのみ。
 曲も馴染みの少ないもので、わたしがわかったのは2曲だけ。わたし、わりとガイチの舞台観てたんだけどなー。最後のコンサート以外は主演バウとか全部ナマで観てるんだけど……それでもわかんないや……。

 その昔、タカネくんのサヨナラショー以来のびっくり感だわ。や、タカネくんのサヨナラショーはあまりに短くてびっくりしたんだけど。

 
 サヨナラショーがどういったしがらみで作られるモノなのか知らないし、どーゆー舞台裏があるにせよ重要なのは客に見せる「演出」であると思っている。
 だからわたしは、最後までガイチがみんなに愛されてちやほやされているシーンがないのが、不満だった。

 ガイチ本人が「ワンマンショー」を望んだのかもしれないし、劇団が「ひとりで勝手にやれ。組子を使うことは許さん」と言ったのかもしれない。
 ほんとうのとこなんて知らないけど。

 わたしが演出できる立場なら、別のショーを作ったよ。
 たかこやお花様、同期のまりえったや下級生たちにいっぱいちやほやされて、「お別れなんてかなしいよーっ。でもずっと好きだよーっ」と思っていることが目に見えるショーにした。
 お稽古は大変だろうけど、そこはプロ根性で乗り越えてもらって。
 ああ「タカラヅカ」っていいところだなあ、と思わせる演出にしたよ。
 そうすることで、そんなあたたかい舞台の中心に立つガイチの魅力も表現できるだろうし。

 『ネオ・ヴォヤージュ』で脇役扱いだったガイチが、誰とも絡まずたったひとりでサヨナラショーをしている姿が、とても淋しかったんだ。

 わたし個人の、勝手な思いこみだけど。
 

 千秋楽のペンライトは、本体も光も緑色だった。
 そうか、白じゃなくて緑か。ガイチの色なんだ。

 心を込めてペンライトを振った。
 緑の光が劇場中に揺れていた。

 
 最後のパレード、ガイチの車はミニマムなオープンカーだった。
 ガイチは何度も何度も感謝の言葉を繰り返して去っていった。
 
   
 わたしのこのブログ、最初の公演感想はガイチの『愛・舞・魅』だったんだよ? あのころは検索避けに、正式タイトル書いてないけど。
 青い風船を抱きしめながら、ガイチの豊かな歌声を聴いた。記念品のシャープペンも大事にとってあるよ。

 ガイチの新しい旅が、しあわせなものでありますように。

 
 宙組公演『炎にくちづけを』の話のつづき。

 ストーリーが進み、立場が変わるのに、キャラクタの人格がブレない。
 これは物語の基本だが、守られている作品は少ない。ストーリーの展開に合わせて別人格になるのがよくあること、ありすぎることだからだ。

 物語は前半と後半で大きく変化する。
 前半でヒーローとして描かれていたマンリーコが、後半はとことん落ちぶれる。囚人服に白髪。自信家で強引だったのに、己の無力を嘆くのみだ。
 だが、彼の基本人格はべつにブレてないんだよね。
 彼は自分で行動する男だけれど、物語の中では「巻き込まれ型主人公」として度重なる受難に立場が変わっていく。どんどん落ちぶれていくわけだけど、卑屈になることもなく責任転嫁もしない。彼が基本として持っていた「強さ」はそのままだ。
 演じているたかちゃんの持ち味も加わって、「繊細さ」が大きく現れているだけのこと。
 処刑を前にして取り乱すことなく母を労り、愛するレオノーラの無事を祈る。「強い」ヒーローだからできること。

 そして、レオノーラ。最初恋に恋するバカ姫風に登場した彼女は、ここで生き様の集大成を見せる。
 恋に恋したわけじゃない。彼女がマンリーコを愛したのは必然だった。
 彼女の属する社会の「正義」と、彼女自身の「正義」は相容れなかった。だから彼女は、別の社会倫理を持つマンリーコを愛した。
 だから彼女は、その愛のために死を選んだ。

 そこまでの決意でレオノーラはルーナ伯爵と取引し、マンリーコを逃がそうとしたのに。
 マンリーコはレオノーラを疑った。
 彼女が自分たちの愛を売り渡したのだと。

 ここでマンリーコは、ヒーローからただの男になる。人格の変化ではなくて、基本自信家で強引だった彼の、マイナス面が発露する。
 でもそれも、無理はない。レオノーラの愛だけが、ふたりの愛だけが、絶望の底にいる彼の支えだったのだから。
 その前の場面で高らかに、金色の光をあびて愛を歌ってた直後だからこそ。
 マンリーコの怒りは正しいし、それにさらされるレオノーラの悲しみも正しい。

 レオノーラは死に、マンリーコは最後の希望だった愛すら失って、処刑の朝を迎える。

 ルーナ伯爵側の者たち、兵士や修道女・女官たちが合唱する「20年前」に、生き残ったジプシー女たちの歌が加わる。
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」

 対比されているのは、キリスト教とたちとジプシー。
 弱い者と強い者。

 弱いのはキリスト教徒たち。
 他者を受け入れる度量を持たず、刃を向けることでしか自分を守れない。

 パリアの強さを、誰もが持つことができればいい。自分とはあきらかに「チガウ」ものにも脅威を感じず、受け入れる強さ。
 互いのちがいを認め、尊重し合う強さ。

 だけどひとは、パリアにはなれなくて。

 わかりやすい強固なものにしがみついて、弱い「個」を転嫁し思い上がる。

 わたしは悪くない。わたしは悪くない。
 悪いのはわたし以外の誰か。わたし以外のなにか。

 だってわたしはひとりじゃない。みんなみんな、そう言っている。わたしはみんなのなかのひとり。だから、今言っているこの意見だって、わたしの責任じゃない。みんなと同じことを言っているだけなのだから。

 弱いものたちが、「正義」を歌う。高らかに。
 「正義」の名のもとに、「悪」を虐殺する。

 繰り返される過ち。
 何故、ひとはこんなに弱い。

 弱いことにさえ気づかず、他人を貶め、勝ち誇っていられるのか。

 キムシンテーマの大合唱。
 感情の爆発、今まで積み重ねられてきた「感情」「心の筋」を正しく発散させるシーン。
 弱い者、まちがっている者が、彼らにとっての「正しさ」で華開く。
 それを刺す「強いけれど力を持たない者」であるジプシーたちの絶唱。

 そこへ重なる、マンリーコの歌声。

 基本自信家で強引な「ヒーロー」だった彼は、過ちを犯した。たったひとつの愛を疑った。いや、そもそもまちがわない人間なんかいない。誰だって、まちがいばかりだ。
 野心に燃える若者だった彼が、思い至らなかっただけで。
 彼を打ちのめしていったひとつひとつの出来事が、彼をひとつずつ押し上げていった。

 最後の歌へと。

「許しを」……そう歌うところへと。

 自分の犯した罪、自分とわかりあえたものわかりあえないもの、すべてのものの罪に、許しを。

 物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。

 そしてこの物語はそもそも、20年前にあった凄惨な出来事の「復讐」として仕組まれたことだった。
 母親を焼き殺されたアズチューナは、復讐のために赤ん坊だったマンリーコを焼き殺そうとして、誤って自分の息子を殺してしまった。
 妄執は愛と狂気をつづら折り、わたしのたちのなかにあるはずのものが、わたしたちの手の届かないところまで行ってしまったやるせなさですべてを炎と為す。

 アズチューナはマンリーコを愛していただろう。それでも、この結末は変えられなかったのだろう。

 繰り返される過ち。
 何故、ひとはこんなに弱い。

 ひとの心の弱さと醜さが、たたみかけるこの激しく美しい物語で。

 最後に、光が差す。
 「許しを」と歌うマンリーコすら、妄執の果ての駒にすぎなかった救いのない現実の前に。

 光が差す。

 白い翼と、輝く美しさのマンリーコ。
 「ジーザスが嫌いじゃない」と他者を認めるジプシーのテーマが流れ、「あなたが生きている それだけが我が望み」と無償の愛を歌うマンリーコの恋歌が流れる。

 寛容と、愛。
 人間の持つ、持っているはずの、うつくしいものが、奏でられる。

 そして、幕が下りる。
 そーやって、この物語は終わる。

 なんというストレートな力を持った物語なのか。
 ダイレクトに五感と精神に訴えかける物語。
 キムシンの演出技術はどんどん上がっていってるよね。美しく正しい作劇。そのうえ、「うるさい作風」も健在とくれば、こりゃー目立つわ(笑)。

 わたしはこの『炎にくちづけを』が大好き。
 あるがままに心を揺さぶられ、大泣きしている。
 すげー作品に出会えたなー。初日の衝撃は忘れられないよ。こんな物語をつづれる人間になりたいと思う。や、言いたいこともいろいろあるけど(笑)。

 そしてわたし、やっぱりたかちゃん好き〜〜。
 マンリーコ素敵。恋歌のところなんか、ライトだけの問題じゃなく、輝いてるよね、彼。

 それから、お花様好き〜〜。
 レオノーラ大好き。あの美しさ、けなげさ、高貴さ。毅然と立つ姿に魂がふるえる。

 このふたりの「美しさ」が、どれほどわたしを救ってくれるか。癒してくれるか。
 出会えて良かったと、素直に思う。
 

 『炎にくちづけを』、一部の人には拒絶反応が出るだろーけど、この「力」のある物語はすばらしい。キムシンには是非、このままの芸風で突き進んで欲しい。
 来年の「ジュリアス・シーザー」が心からたのしみだ。

 
 ……キムシン作品は大好きだけど、キムシン自身とは友だちになれそうにない、つきあえそうにない、といつもしみじみ思うんだけどね(笑)。

          
 マンリーコ20歳、って、そりゃないだろ。今さらたかちゃんがハタチの役かよ?!
 というツッコミは、置いておいて。

 「20年」でなければならなかったのだと思う。

 宙組公演『炎にくちづけを』の話。

 「今から20年前」と歌い出すために、キリがよくなくてはならなかった……てことは、たしかにあるだろうけど。
 べつに、25年前でもよかったし、27年前でもよかったよ。ここの部分だけなら。

 いちばんのポイントは、クライマックスのリプライズ。

 「今から20年前」ではじまる歌は、ジプシーたちの歌声を得て発展する。

「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」

 
 2000年の時の流れ。

 どーして「2000」なのか。
 『王家に捧ぐ歌』の冒頭でテロリストたちが言う「もう3500年もこうして彷徨っている」と同じ。

 『王家』の舞台から3500年後とは、すなわち現代。21世紀初頭。

 『炎にくちづけを』で言う「2000」は「〜年後」ではなくずばり、その数字。

 2000年。つまり、現代。

 作者が訴えるのは、ソレだ。

「もう3500年もこうして彷徨っている。見ろ、なにも変わっちゃいない」
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」

 物語で描かれるのは「過ち」。
 人間の愚かさ。
 別の時代の別の人たちの物語として描かれていることは、フィクションの名を借りた「今この世界」なのだと。

 今回は宗教を手段として選んでいるけど、テーマは宗教云々ではない。
 キムシンの「叫び」は終始一貫変わってないね。どの作品も。

 そして、彼の演出技術はとんどん進化している。

 『炎にくちづけを』は、計算された美しい作品だ。
 物語の「筋」と、キャラクタの「筋」が正しく機能し、カタルシスを作る。

 お姫様と吟遊詩人の夢のよーなロマンス、という風情で幕を上げた物語が、ヒューマンドラマへ着地する。
 最初のレオノーラは、恋に恋するバカ姫のよーだ。ろくに話したこともない美男吟遊詩人にメロメロ。
 対する吟遊詩人マンリーコはこれでもかとかっこいい。豪華な衣装に薔薇の花で登場だ。わかりやすい悪役のルーナ伯爵相手に、これまたわかりやすく強い。

 マンリーコの出生の秘密を観客に提示しながら、それには触れずにまずマンリーコとレオノーラの恋愛にのみスポットをあてて物語が進む。
 マンリーコは母親と仲間に優しい、しかし野心と自信に満ちた、ちょっと強引で高慢なところもある男。基本が自信家だから、思ったことは実行する、自分で動くタイプの男だ。

 マンリーコが死んだと思ったレオノーラは修道院に入ろうとするし、そんな彼女をマンリーコは命懸けで助けに行く。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。

 次がトラブルを乗り越え、よーやく結ばれたふたりのラヴラヴシーン。
 略奪してすぐにやっちゃいますか。最初から屋外ですか。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。女扱いも慣れてるでしょー。なにしろレオノーラがまだ毛布1枚なのに、マンリーコはしっかり全部着込んでるくらいだ(笑)。脱がなかったのかオマエ。それとも、事後に自分は着込むくせに、女にはあえて着衣を禁じたか。……慣れた男ならそれもアリ(笑)。

 このシーンの無邪気なしあわせの表情、「生きている」と繰り返されるラヴソング。
 「悲劇」においての「幸福」シーンは重要だ。このシーンが美しければ美しいほど、ふたりが愛し合い、幸福であればあるほど、そのあとの悲劇が活きる。

 戦争+母親アズチューナが伯爵に捕らえられたこと、で、マンリーコはこれまた力強いヒーローソングを歌う。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。
 結ばれたばかりの恋人を置いて、戦争しに行っちゃうでしょー。

 戦火によって引き離されたふたりが再会するのは、物語が大きく転換したあと。
 この転換つーのが、物語上では書かれていない。ルーナ伯爵が歌う「3ヶ月」という歌で力技で説明しているのみ。原作ではその「3ヶ月」という歌による説明すらなく話がぽーんとすっ飛ぶそーだから、まだこの『炎にくちづけを』では説明があるだけマシらしい。
 つっても初見ではびっくりするよ。あまりにストーリー端折りすぎてて。ここをなんとかするには、時間が足りなすぎか。
 戦争の話は棚上げして、物語はあくまでもマンリーコとレオノーラの恋愛を中心に進む。

 ひたすら「ヒーロー」として描かれていたマンリーコが、敗戦後は見る影もなく落ちぶれている。
 野心に燃えていた闊達な若者は、それらを根こそぎ失い精彩を欠いている。
 が。
 性格はべつに、変化してないんだよね。
 外に向かっていた能動的・好戦的な部分がおさまっただけのこと。おそらくひどい拷問を受けただろーに口を割らなかった。「レオノーラはジプシーになって逃げた」とルーナ伯爵に告げたのも、自白ではない。ルーナ伯爵をあきらめさせる+嗤うためのものだろう。
 そーゆー「強さ」はそのまま。や、基本自信家で強引なマンリーコならそうでしょう。

 パリアたちジプシーの男たちが捕まっていたのはまた、別の話。もともとルーナ伯爵と敵対する陣営の騎士だったマンリーコと、戦争に無関係なジプシーたちが同時に「囚人」として登場するからややこしいが、もともと別の話。
 マンリーコは戦争絡みで捕らえられ、ジプシーの男たちはそんなマンリーコを助けようとしたか心配で周辺をうろついていたかで捕まったと見るべきだ。だってジプシーたちは戦争関係ないもん。
 ジプシーの女たちが別行動なのは、はじめから逃がしてあったんだろう。男たちでマンリーコを助けてくる、だから女たちは安全な場所にいろと。
 わざわざ伯爵がジプシー狩りをして、彼らのキャンプを襲って男だけ連れてきたわけじゃないだろーよ。
 捕らえられた時期がチガウから、ジプシーたちはみんな普段着のまま。囚人服ではない。
 だから彼らは誰ひとり、マンリーコを責めない。幸福に暮らしていたところを「マンリーコの仲間だな」と襲われて連れてこられたわけではないから。
 自分たちの意志で、仲間を助けに来て捕まったわけだから。
 マンリーコに「お前のせいじゃない」と言うのは、真実だ。

 ジプシーたち、とくにパリアのかっこよさは群を抜いている。
 「ジーザスが嫌いじゃない」と歌う彼は、自由と自立の象徴だ。どー見たって別人種のマンリーコを仲間として分け隔てなく愛し、自分たちを理解せず迫害する人々をも寛容に受け止める。
 暴力による「脅迫」に対し、毅然と先頭をきることで動揺する仲間たちの灯台となり、死んでいった。

 ジプシーの男たちの処刑は見せ場のひとつ。
 パリアの遺言は少々耳にうるさいが、彼の正しさと強さ、魅力がなによりも活き、だからこそそのあっけない死がより衝撃を与える。
 パリアがいちばん先で、最後が最年長のエーク。エークはパリアから「最後」を託された。
 恐怖に屈せず、信念を貫くこと。情に流され、女たちの居場所を決して吐かないこと。その信頼を受けて、白髪の老人もまた、毅然と胸を張る。

 その姿が、彼らの死を嘆く女たちの姿につながる。男たちが命懸けで守った、女たちの命とその未来。
 信頼という、目に見えない力。
 それを受けて、女たちが力強く歌うシーンの効力は絶大だ。

 続く〜〜。


 『炎にくちづけを』の話。

 わたしにとって、この物語のいちばんの「絶望」は、いちばんの「痛さ」は、無惨に殺されるジプシーでもそれを嗤いながら眺めている修道女でも火あぶりにされる主人公でもなくて。

 レオノーラが胸に宿していた、壮絶な孤独だ。

 
 終盤で、レオノーラは歌う。
 子どものころ聞いた、火あぶりになったジプシーの話を。
 彼女はその話を聞いて泣いた。殺されたジプシーに同情して。感情移入して。
 なのに、周囲の者はそうではなかった。
 彼らはみな、ジプシーが殺されることを当然としていた。そのジプシーが残酷な刑に処されたというのに、なおも怒りをおさめていなかった。
 そのときレオノーラは気づいた。
 自分が、「ひとり」であることを。

 彼女をとりまくものすべてが、彼女とはチガウ生物なのだと。

 同じ姿をした、同じ文化を持つ、同じコミュニティの人々なのに。レオノーラひとりが、異邦人。

 それは、どれほどの孤独だろう。

 自分の心が通じる人が、ひとりもいないなんて。言葉は通じるのに、心が通じないなんて。
 それも自分が、もっともおそろしい、醜いと思うことを「正義」とする人たちしかいないなんて。

 情報ツールが発達し、ひとりきりでもさまざまなことを知ることができる現代でも、自分の周り全部が真逆な感性を持っていたら生きるのキツイよ?
 たとえば、クラスメイト全員が捨てられていた子猫を生きたまま解剖して大喜びして笑っていたら、それが「あたりまえの感覚」というなかにひとりでいたら、耐えられないよ?
 血まみれの子猫を見て大喜びで笑わないと、そのクラスで居場所がなくなる、そんなコミュニティが自分の属する「すべて」だったら、どうやって生きていけばいいんだ?
 いくら、「動物虐待は悪いことだ」と「情報」として知ることができたとしても、つらい。こわい。

 ましてや、レオノーラの生きる時代は、そんな「情報」はない。
 貴族の娘であるだろー彼女には、彼女をとりまくわずかな世界が、「すべて」だ。「正しいこと」だ。
 異教徒……自分たちの側にいない、自分たちと同じ価値観を持たない者は殺して当然。それ以外の正義が「情報」として存在しない世界で。

 ひとり生きる、その孤独。

 
 わたしは、ひとりだ。
 わたしの言葉が通じるひとは、この世にひとりもいない。

 表面だけの偽りの言葉を喋り、偽りのつきあいだけをして、日々を過ごす。

 ……それでは、なんのために生きるんだろう。わたしの存在とは、いったいなんなんだろう。

 わたしの心が、想いが、誰にも届かず、誰にも理解されないなら。

 わたしなど、いないのと同じだ。

 
 そーゆー孤独。そーゆー絶望。

 
 だからこそ。
 レオノーラは、マンリーコを愛した。

 現代のような「情報」のない時代、彼女がはじめて出会った異教徒。唯一神を持たないリベラルな存在。

 ぶっちゃけ、マンリーコでなくても良かったんだと思う(笑)。
 彼女の属する常識とは別の感覚を持っている男なら。
 出会った馬上試合とやらできっと、剣の腕だの美貌だのとはべつに「育ちのちがい」を感じたんだろう。ずっと孤独だった彼女だからこそ。
 狭い彼女の世界にはじめて現れた別の世界の男、というだけのこと。

 でもレオノーラが出会ったのはマンリーコで。
 マンリーコは、それほど大した男じゃないと思う。水準以上はあるけど、レオノーラほどの人物じゃない。
 マンリーコがわたしたちから見てまともな感覚を持っているのは、彼の育ったコミュニティがそーゆー価値観のもとにあったというだけ。彼が伯爵家の次男として育っていたら、兄のルーナと同じ感覚になっていたんじゃないかと思う。

 マンリーコとパリアなら、パリアの方がいい男だし(笑)。レオノーラが先にパリアと出会っていたら、彼と恋に落ちていたかもな(笑)。

 でも、彼女が出会ったのはマンリーコだった。

 レオノーラにとって、マンリーコが「すべて」になる。

 今まで彼女は孤独だった。世界はすべて敵だった。
 エイリアンばっかの惑星で、たったひとりで生きていた少女の前に、同じ言語を話す地球人の男が現れたんだ。
 そりゃ、夢中になるって。彼が「世界」になるって。

 わたしの心が、想いが、誰にも届かず、誰にも理解されないなら。
 わたしなど、いないのと同じだ。

 ……てことだったんだから。
 マンリーコに出会ったときに、「レオノーラ」は生まれたんだ。彼女の「心」が通じる相手と出会ったことによって。

 マンリーコと愛し合い、「わたしは生きている」と歌う、瑞々しいよろこびを発するレオノーラが、また切ない。

 闇が、絶望が、そしてそれらの時間が、深く、長かったからこそ、愛を知った彼女のよろこびが命の輝きとなる。

 そしてそれが、上記のレオノーラの歌う殺されたジプシーの歌につながる。

 ずっと孤独の中にいたレオノーラ。だけどレオノーラは出会った。マンリーコに。
 もうひとりじゃない。世界は、敵ではない。心が通じるたったひとりがいるだけで、人生は意味のあるものになる。

 だから彼女は、愛のために死ぬんだ。

 彼女の愛は、「世界」だから。
 愛を知ったときに彼女は生まれたのだから。

 マンリーコは、そんなレオノーラの壮絶な孤独や凄絶な生き様を知りもしないで、「我々の愛を売ったのか」とか疑うよーなヤツだけど。
 そんな、偉人でも賢人でもない、ふつーの男でしかないけど。
 ふつーの男だから、愛したんだよね。

 自分の愚かさゆえに過ちを犯し、それを悔い、許しを請うことを知る、そしてそれゆえ他人の過ちをも許すことのできる、そーゆーふつーの感覚を持った男だからこそ。

 
 レオノーラの孤独を思う。
 そして、彼女のよろこびを。

 よかったね。

 あなたは、ひとりじゃないよ。

 異なった価値観の人間をも赦すことのできる、ふつーの感覚を持った、ふつーに弱い、ふつーにやさしい男に、出会えたのだから。
 あなたにとっての、「ふつー」に。

 許せない人々がマンリーコを、ジプシーたちを虐殺するなかで。
 許せる人がいることを、「わたしはひとりじゃない」ということを知って、人生を終わらせたレオノーラ。

 その死はやるせないけれど、理不尽だと思うけれど、彼女は幸福だった。
 彼女の人生は昇華された。

 そう思える。
 愛を歌う彼女が、まぶしいまでに美しいから。

 
 わたしにとっての最大の「泣きどころ」は、ルーナ伯爵との「取引」のあとのレオノーラの独唱から、彼女の死までだ。

 毒を飲んだ、取引はしたけれど愛は売らなかった、と言い、瀕死の身で、それでも男の手を振り払う姿。「逃げて」と。
 「必ず、追ってゆくから」と、叶うはずもない嘘を口にするいじらしさ。男のためにつく嘘の切なさ。
 

 「世界」は、レオノーラに微笑んだ。受け入れた。
 だから、よかったね。
 生まれてきて。
 永い永い孤独を、耐えてきて。

 独りじゃないよ。


 今日は、長田くん@オサの話。

 オサコン『I got music』第1部の主人公。
 とあるオーケストラのパーカッショニスト。「たくさんの人に愛される曲を作りたい」という夢を持つ、「リズム感に少々難アリ」なドジで気弱な青年。
 同じ楽団のピアニスト@彩音ちゃんに片想い。彼女にラヴソングを捧げたいのに、曲を作ることもできない。なにしろ彼女とは、まともに口をきいたこともないという、ヘタレぶり。

 そんな長田くんが演奏中の事故で「音冥界」とやらに迷い込んでしまった。
 閻魔大王ならぬ、音楽の医者たちが音楽家の資質を診察・判断するらしい。

 リーダー格の医者@まっつ、ふたりの医者@みわっち・そのか、そして医療スタッフらしいその他出演者たちが、なんやかんやと世話を焼き、長田くんはリハビリを受けることに。

 ピアニストへの恋心を自覚、語ってみたり、自信をつけさせるために指揮をやらせてみたり、「リズム感が悪い」そうなので、ドラムやタップに挑戦したり。

 そーして長田くんは、コンプレックスを克服する。

 
 この単純な、それこそ「少年ジャンプ」の読み切りラブコメ24P(短っ。31Pでさえないのか)みたいな浅い物語の中で、長田くんが、どれほど素敵な表情を見せるか。

 初日に見たときは、最初のオケでティンパニーを叩いているところから、かわいさ爆発だったのよ。得意そうっていうか、やんちゃそうっていうか。
 初日以外は、真面目な顔して叩いてたけど、それもまたかわいいし。
 ティンパニーのあとにシンバルを叩くんだが、ここではいつもものすごーくきらきらした顔してるし。

 最初から、鷲掴みなのよ。
 かわいい。この男の子、かわいいぞっ。

 彼の一挙手一投足に、笑いが起きる。
 舞台のいちばん上、いわばすみっこなのに。そこが、舞台の中心なの。

 表面的にはふつーに演奏しているだけなのに、2000人弱の人々の目線がたったひとりに集中し、そのわずかな表情の変化に反応する。
 すごい密度だ。
 そしてソレを、あったりまえに受け入れるオサちゃん。ああ、やっぱこの人すげー。

 その「注視」が前提にあってこその、事故。
 シンバルを叩いたあと、長田くんはセットから落下、救急車で運ばれてしまう。
 悲鳴と暗転、一拍おいての「ピーポーピーポー」には、場内爆笑だったもんなあ。

 暗闇の中、ちょっとビミョーな音符やら五線譜やらが現れ、これからはじまる物語がこのビミョーな路線であることを特徴付ける。

 胡散臭い医者たちにいいようにされる長田くんは、なさけなさ爆発。
 ヘタレ男。
 あのクールビューティ貴公子・春野寿美礼が、ヘタレ男よ?!
 ちょっとやりすぎ?てなかわいこぶった表情&仕草&声に、ノックアウト。
 かわいい……この男、バカでかわいい……ハァハァ。

 長田くん、は、もちろん「役」でしかない。
 嘘の人格、今このステージのみの存在。
 実際、「寿美礼サマそれは若作りしすぎでは?」てなかわいこちゃんぶり。
 なのに。

 なのに。
 嘘がない。

 なんつーんですか、ハートフルなんですよ。今までオサ様がてきとーにやってきた二枚目たちよりずっと!(すいませんすいません、オサ様ムラ有る人なんで、ときどきファン視界にすら「あー、今日は流してんなー」なんて感じられる日が……ゲフンゲフン)

 嘘くさい役なのに、嘘がない。

 長田くんとして、「活き」ている。
 そんな感じがもう、ファンとしては堪りません。
 「かわいい」役だとか、「若い」とか、そーゆーのはほんとのとこ、二の次なのよ。
 オサ様が舞台で「活き」ている、それがいちばん素敵なの。魅力的なの。

 それらがコンボ技となって、「長田くんかわいー! 寿美礼ちゃん素敵ー!」という感想になるのね。

 
 片想いのピアニストへの気持ちを歌う長田くん。
 このへんはまだ、なにも思わない。ふつーに「かわいいわねー」「いい声ねー」てなもん。

 しかし。
 長田くんは、さらにさらに変化するのだ。

 いろんな「リハビリ」のなかで、かわいい面をいろいろ披露してくれるわけだが。

 かわいいのはデフォルトとゆーことで置いておいて、スネアドラムのシーン。

 スティックを持ち、ドラムに向かう瞬間の張りつめた表情。

 そのときが、破壊的にカッコイイんですが。

 端正。
 端正だよね。
 ぴりっと整っているの。無駄なモノなんかなにひとつなくて。
 美しい、というより、正しいの。あるがままに。

 真剣そのものにドラムを叩きだし、スティックを魔法のようにあざやかに操る。
 その手の動きの美しさに、魅了される。
 かっこいい……かっこいーよー、オサ様……あたし、あの手の動きだけでも惚れそう。

 真剣勝負に叩いているくせに、ときおり「すごいっしょ?」と言いたげに顔を客席に向けるのが、ツボ。
 かわいいっ。そんなにそんなにかっこいいのに、かわいいよあーた!!

 ああ……今わたし、人生で最大級にオサ様好きかもしれない……(笑)。←笑うのか。

 
 かわいい長田くんが、かっこいい長田くんになったあと、物語は最初のシーンに戻る。

 オーケストラで、長田くんがシンバルを叩くところまで、時間が戻るの。
 彼はかわいく元気に仕事をし、休憩になる。
 楽団員たちはそれぞれ舞台を降りていくんだけど。

 ピアニストちゃんだけは、休憩時間も練習を続ける。長田くんの話にあった通りに。

 他の楽団員たちと同じよーに出て行こうとした長田くんは、足を止める。ピアニストちゃんを振り返る。

 ヘタレで、自信がなくて、自分から話しかけることもできない電車男的ポジだった、長田くん。

 その長田くんが、自分からピアニストちゃんのもとへ行く。
 なにも言わず譜面台の楽譜を取り上げる。
 手を止め、思わず長田くんを見るピアニストちゃん。
 長田くんは黙って楽譜を返し、ピアニストちゃんを見つめる。

 見つめ合う、ふたり。

 このときの長田くんが。

 めーっさ、いい男っ!!

 愛が見えるの。
 最初の方で、ピアニストちゃんへの想いを歌っているときは、べつにいつものオサちゃんなのよ。相手ナシで勝手に盛り上がるのは、春野寿美礼的にアリでしょう。
 でもでも、「相手を愛している」春野寿美礼は、レアですよ!

 ラヴいオサ様が、くすぐったくて幸福で、とてもとても素敵です……うっとり。

 ヘタレかわいこちゃんからはじまって、男前で終わる。
 長田くんというキャラは、すばらしい造形です。イケコすげー。腐っても鯛だったんだ!(失礼千万)


 ふと思いついて、ブログの背景を「モリゾー&キッコロ」カラーにしてみる。ピンクを補色に使っているのは、女の子だから(笑)。
 モリコロはいいよなあ。かわいいよなあ。

 ……つーことで、「かっぱ+花組色」ぢゃありませんよ>nanakoさん!(笑)

 わたしは未だにケロと星組のファンですから。
 枕元にはダーリンのDSポスターが貼ってありますから。

 気が多いのは昔から!
 大好きな人がいっぱい。大好きなモノがいっぱい!
 緑野は今日もしあわせです。

 
 さて、今のわたしの大好きは、なんといっても寿美礼ちゃん。

 かわいくてかわいくてたまらない長田くんと、闇の帝王トート閣下という両極端の顔をふつーに持ち合わせてしまうすばらしい方。

 
 今日はちょっくら、オサコン『I got music』第2部のトート閣下の話。

 トート閣下の最大の見せ場のひとつ、「闇が広がる」がプログラムにあることは、前もって知っていた。嫌でも耳に入るわな、この情報社会。
 相手役のルドルフがみわっちだということも、わかっていた。……正直なとこ、まっつにやってほしかったので、「そりゃそーだよなー、ふつーみわっちだよなあ」と納得しつつも、残念。だってみわっちだと、歌が……ゲフンゲフン。

 だから焦点は、「どんな衣装と演出か」だ。

 トート閣下の扮装はナイだろう。着替えとメイクをしているヒマはないはずだ。
 黒燕尾の男ふたり、てのが可能性高いかな。
 樹里ちゃんサヨナラショーの『ファントム』がそうであったように。

 つまり、「男役・春野寿美礼」のままのトート。

 白×ブルーのトート様メイクぢゃなく、さっきまでふつーに歌い踊っていたいつものオサのままで、トートの歌を歌う。

 それは、見物だ。

 
 わかっていたし、想定のウチだったにもかかわらず。

 春野寿美礼は、やってくれた。

 トートっぽい衣装だったけど、顔はもちろんそのまま。長田くんと同じ顔のままですよ。
 なのに、トートなの。

 客席から歌いながら登場するんだが、その「声」だけでぞくぞくする。ああ、トートだ。大好きだった、わたしのトート様がいる!!

 メイクの助けを借りない、ほんとーに実力勝負のトート閣下。
 「人間」の顔のままで、それでもたしかにトートなの。

 ……素敵……。(両手組んで目に星)

 
 トート閣下、ご機嫌でねー。終始ニタニタ笑ってるんだけど……その笑いがいいのなー。黒くて。
 ご機嫌にルドルフを弄んでいるんだけど、その節々にね、ああこの人、ほんとはすごい繊細なんだろなー、と思わせるあやうさがあってね……たまりません。

 初日に見たとき、ついうっかりツボってしまったのが、トート閣下の手の動き。
 クネクネ蛇的に動いて、ルドルフの手を取ったりしているんだが。

 初日、失敗してました。

 後ろからルドルフの手を握るとこ。
 クネクネ回して、手を握ろうとしたんだけど、空振り。あわててまたクネクネさせて、再チャレンジ。
 思ったところに取っ手がなくて、あわあわしている手の動きそっくり。

 結局、そこでは手を握らないまま次に進んでました。

 そーゆー振付なのか? 手を取れなくてあわあわして見えるけど、もともと取らないものなのかしら。

 と、好意的に解釈したりもしたんだが。

 それ以外の回ではちゃんと、そこでルドの手を取っていたので、やはり初日は失敗した模様。

 みわっちも、心持ち協力してあげてるよーに見えるしな(笑)。オサ様、手が長いわけじゃないから、あーゆー無理な角度で手を伸ばしても、届かないんだよ……(笑)。

 最初に失敗バージョンを見てしまったので、以来トート閣下が手をクネクネさせているとつい、釘付けになってしまう……失敗しないかと手に汗握ってしまう(笑)。

 ルドルフを弄ぶ「闇が広がる」のときに感じるのは、「狂気」。傲慢さと繊細さ。笑顔の奥の刃。それがとてつもなく魅力的。
 残念ながら、萌えはありません。わたし、かわいこちゃんな三輪さんに萌えなくて……みわっちこそ、黒い役の方が魅力的な人だよねえ? 劇団はいつまで彼に、毒にも薬にもならない美少年をやらせつづけるのかしら。もったいない。

 あ、でも、千秋楽のひざまずいてオサ様の靴ひもを結ぶみわっちは、大変眼福でございました。
 いいねいいね、三輪さん! そーゆーことをさらりとやってしまえるあたり、大物ですよ、あーた!!

 ひとりになって歌う「私が踊る時」で感じるのは、「カリスマ性」。彼を中心に、オーラが放たれているのが見える。
 世界の中心に、独りで立つ力。その孤独と恍惚。

 イケメン軍団を従えて踊るスーツ姿の「最後のダンス」では、「苦悩」。えーと、トート様がここまで弄ばれて、苦悩しちゃっていいんですか? なんか、18禁な表情してませんか?
 や、べつに、**されてるまで言いませんがね……かなりエロエロですわな、オサ様。

 
 トート以外でも、いろんな顔を見せてくれて、オサ様を拝んでしまいたくなるくらい、すばらしいコンサートです。
 ありがとうありがとう。
 こんなに素敵な時間をありがとう。

 ああ、それにしても。

 まっつのルドルフも見たかったよ……。オサ×まつで「闇が広がる」。歌声を想像するだけでも、鳥肌モノなんですが。


 自分でも、バカだなー、とは思うけど。

 もうリュドヴィークはこの世のどこにもいないんだなと思うと、泣けて仕方なかった。

 オサコン『I got music』の客席にて、歌うオサ様を見ながら。

 舞台は一期一会のモノで、消えてしまうことがわかっている芸術。
 『マラケシュ』の千秋楽の幕が下りたことで、わかっていたはずなのに、改めて、喪失感に泣いた。

 春野寿美礼はそこにいるのに、もうリュドヴィークじゃない。彼はどこにもいない。もう会えない。
 それが、こんなに痛いことだとは。

 
 ところで、春野寿美礼は、いったいどーしちゃったんだろう?

 博多からこっち、変じゃないですか、あの人。

 わたしはミーハーなので、いろんな組のいろんなイベント公演の客席に紛れ込んでいたりする。贔屓組ONLYのファンじゃなく、宝塚歌劇そのものを愛している。
 だもんで、組のカラーやムード、トップスターのタイプなど、ほぼ全組網羅で普段から身をもって感じているものがある(あくまでも、わたし個人の印象に過ぎないから、客観的なことではないけどさ)。

 わたしが花組と春野寿美礼に持っていた印象と、現在の寿美礼ちゃんはえらくちがっておるんですが。

 たとえば年末の『天の鼓』千秋楽なんか、「えっ、こんなに温度低いのにスタンディングするの??」とびっくりしたよ。
 わたしの個人的感覚で行けば、スタオベしていいような「熱」が舞台にも客席にもなかったの。
 それでもなんか淡々とファンは立ち上がり、オサちゃんもふつーにソレに応えている。
 本公演より内輪で盛り上がりやすい小さなハコで、この温度と密度。あー、この組とトップはこんな感じなんだなー。コレはコレでアリでしょう。暑苦しけりゃいいってもんでもない。

 ……だったんだけど。

 博多座楽の寿美礼ちゃんは、だった。
 なんかどっか壊れた?って感じに、テンションがメーターぶっちぎっていた。
 クールなナルシストだったはずなのに。
 テンパッちゃって、客席に向かって「好きダー!」とか叫んでました。

 その博多の、コワレたままのノリでした。
 春野寿美礼イン・コンサート『I got music』。

 寿美礼サマ、変。

 世界の中心で愛を叫ぶのはナルシストらしくてアリですが、世界に向かって愛を叫ぶのはNGですよ。そんなことしちゃうのはナルな寿美礼サマらしくありません。

 客席も、変。

 あんなに低温に見守る人たちだったのに。
 一緒になってテンション上げて、きゃーきゃー叫んでるのって、どうよ。
「アイシテルヨー!」
「アイシテルー!」
 なんて、舞台と客席で叫び合うのはどうなんですか。

 そんなの、春野寿美礼とそのファンのしていいことぢゃないでしょー。

 叫んできました、わたしも。寿美礼サマに向かって「アイシテルー!」と。

 や、だって。
 かわいいんだもん、オサ様。愛しいんだもん、寿美礼サマ。

 
 以前わたしは、ジェンヌのタイプをジャンル分けしたことがある。(http://diarynote.jp/d/22804/20050401.html参照)

 寿美礼ちゃんは、持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だった。
 名付けるなら、ナルシス系カリスマ・トップスター。彼自身は自分の内側しか見つめないけれど、それでもその魅力ゆえに周囲の目が釘付けになるタイプ。

 彼の舞台はいつも、「愛」が見えなかった。
 脚本上には「愛」が描かれているのに、彼が演じるとソレが見えない。
 自分しか愛せない人なんだなあ。良くも悪くも。

 そーゆーキャラはアリだと思う。
 魅力だと思う。
 現実に、そーゆー男にハマる女は後を絶たない。「やめなさいよ、あんな男。不幸になるだけよ」と言われるよーな男に、女は惚れちゃうわけだよ。
 
 そんな寿美礼ちゃんの個性を、残酷に突いてきたのがオギーだ。
 誰も愛せない男、リュドヴィーク。
 オギー作品では、役者の魂の色がそのまま出るよね。たとえば、「赤」という色を持った人がいる。本人が「自分は水色だ」と思っていて「水色」として演じていても、オギー作品だと「赤」にしか見えない。台詞や役が「水色」でも、ちゃんと「赤」が出る。
 オサがどんな意図で演じていたか知らないし興味もないが、リュドヴィークは「孤独」な男だった。愛したい、愛している、とあがきながらも、誰も愛することができない。誰の愛も受けることができない。それゆえに孤独な男。
 残酷なあて書き。役作り云々よりも、魂の色そのものが意味を持つという。

 リュドヴィークが魅力的だったのは、春野寿美礼が魅力的だからだ。

 オサの持つあやうさやかなしさが、いろんな角度で光を浴びて、輝いていた。

 その、リュドの魂を持つ男が。
 半年間リュドを演じていた人が。

 壊れた。

 あれほど、誰も愛せなかった、自分しか見なかった人が、周囲を見回すようになった。
 自分で瞼を閉じていたから暗闇だと思っていたのに、目を開けてみたら光があふれていた。……そんな感じ。
 はじめて、世界に光があふれていることを知った。愛があふれていること、自分に手が差しのべられていることを知った。……そんな感じ。

 博多座楽、何度も何度も、感謝の言葉を繰り返すオサちゃん。博多座スタッフや仲間たち、お客さんに。
 はじめて知りました、気づきました、てな少年のように。
 素直に。……てゆーか、かなり、幼く。つたなく。

 この人、どーしちゃったんだろう?
 世界には、自分ひとりぢゃないって、気づいちゃったの?

 オサ様、やべーよ。
 壊れている博多座楽を見て思った。

 そして、今回のコンサート。

 自分自身しか見ていなかったカリスマスターが、今、自分を取り巻く世界に視線を向けている。

 自分だけのものだった力を、外側に解放しはじめている。

 これは……これは、すごくないか?
 わたしはオサちゃんのクールなところが好きだった。自己完結しているところや、他人を見ないところが好きだった。
 でも、そんな人が「他人」に対して働きかけることを知ったら。

 閉まっていた扉が、開く。

 誰も愛せなかった人が、他人を愛し、世界を愛する。

 今まで小さくまとまっていた分、激しく、急激に、発散される。
 春野寿美礼から、オーラが見える。
 外に向かって。世界に向かって。

 持ち味「太陽」−魂「苦悩」−温度「クール」だったのが、最後の温度が「高温」になった。

 他人を巻き込まずにはいられない「高温」。働きかけずにはいられない「高温」。

 発散される力に、客席が反応する。
 あんなに低温だったファンたちが、立ち上がる。声を出す。温度を上げ、叫び出す。

 やべーよコレ。
 3年もトップやって、今さら芸風変えるか?
 変わってしまったことで脱落するファンもいるだろうよ。でも。

 愛しても愛し返してくれなかった孤独な男が、今、愛に壊れている。
 その姿は、破壊力MAXに素敵だ。

 
 リュドヴィークは、どこにもいない。
 ほんとうにもう、どこにもいないんだ。
 今のオサなら、オギーはどんな役を彼に与えるだろう?


 えー、素朴な疑問。

 まっつ氏は、自分の芸風をどう理解しているのだろう?

 かわいこぶった兄鳥が死ぬほど恥ずかしいとか、超キザッた投げキスが憤死もののスベり方だとか、満面の笑顔が泣き顔にしか見えないだとか。

 えーと、それらはみんな、確信犯なんでしょうかね?

 イロモノキャラとしての自覚はあると思う。
 彼は、いろんな場面で実にいい仕事をする。

 オサコン『I got music』大仰すぎる開演アナウンスだとか、胡散臭すぎるドクターだとか、椅子を持って登場する神経質な楽団員だとか。

 「わかって」やっているところは、すばらしいイロモノキャラだ。期待を裏切らない仕事と存在感だ。

 問題は、それ以外。
 ウケを取ろうと考えていなさそうな、シリアスなシーンだとか、かっこいいシーンだとかで。

 盛大にスベッているのは、わざとなんだろうか?

 今回のオサコンのラテン場面、衣装が似合ってないとか、せめてその帽子は勘弁とか、そもそもなんで、ここでまっつのリードからはじまるのよとか、要因はいろいろあるにしろ、思わず脳裏に「自爆」という単語が浮かぶほどに噛み合っていないのは、本人的にどうなんだろう。

 そしてなにより、キャスト紹介のとき、めいっぱいカッコつけてセンターから客席に投げキスとばすのは、どういう意図でだろう。
 マジなのかな。
 カッコいいと思って、「ふっ、これでファンを悩殺だゼ」と思ってやってるのかしら。
 それとも、「こーすりゃ笑ってもらえるよな」と、ネタとしてやってるのかしら。
 それとも、「これくらいやらなきゃダメだよな。でも恥ずかしいな」と、半端な気持ちでやって、それでさらに見ている方が気恥ずかしい出来になっているのかしら。(できないなら、べつにやらなくてもいいのに……)
 判断つかなくて、とまどってしまう。

「え? マジなんじゃないの? だってまっつ、鏡に向かって投げキスの練習とかしてそうじゃない?」

 nanakoさんには、さらりと言われてしまった。

 投げキスの練習?
 ひとりで、鏡に向かって?
 本気で?

 
 …………。

 
 見たい。

 
 激しく見たいぞ、そんなまっつ!!

 
 最高にイケてる投げキスを習得するために!
 地道に努力するまっつ!
 角度やタイミング、ウインクとのコンボ技、練習あるのみ!
 雨の日も風の日も、ひたすら練習、明日の君を作るのは今日の地道な努力なのだ!
 キス、キス、キッス!!
 そーやって、汗と涙で習得した投げチッス!
 最高にキザッて客席へ披露だ!!

 
 も、萌え……大真面目に投げちっすの練習をするまっつに萌え……地団駄踏んで転げ回りたいくらい、萌え……。ハァハァ。

 その結果が、あの気恥ずかしい投げキスかと思うと……その空回りぶりに、さらに萌え……。

 
「鏡相手ぢゃダメだよ……空回ってるのがわかんないじゃん。誰かに見てもらわないと」
「んじゃ、そのかちゃん相手に、投げキスの練習をするまっつ」

 投げキスの練習?
 そのかと向かい合って?
 本気で?

 
 …………。

 
 見たい。

 
 激しく見たいぞ、そんなまっつ!!

 
 最高にイケてる投げキスを習得するために!
 地道に努力するまっつ!
 角度やタイミング、ウインクとのコンボ技、練習あるのみ!
 雨の日も風の日も、以下略!!

 萌え。萌えだ、萌え!!

 
「ダメだよ……そのかだったら、空回りしてるのに気づかず、『すげーセクシー!』とか言いそうだよ……」
「誰かいないのかなー、キザり方の練習、見てくれる相手」

 
 いや、その。
 まっつさんにキザりまくって欲しいわけでもないんですが。
 ただ、今の彼の芸風だと、キザればキザるほどものすげーことになっていて、大変愉快で心の底から愛しいので、とどのつまりこのままでいてくれて、ぜんぜんいいんですが。

 ふつーに二枚目然として踊っていたり歌ってたりする分には、たんに地味なだけでぜんぜん問題なく二枚目だと思ってるんですがね。

 ただ、素朴な疑問なのよ。
 まっつは自分の芸風をどう思っているのか。本気でキザっているのか。
 ま、ぶっちゃけ、確信犯でも天然でも、どっちでも愛しいんですが。

 たんにわたしが、ピュアファンぢゃないってだけかなあ。
 こんなこと書いてたら、ピュアファンに怒られちゃうかなあ。

 
 ねえねえそれで、これは、イタイまっつファンの戯れ言なんだけど。

 オサコンの2番手って、実はまっつだよね?

 や、昨日今日と観て、そー思ってしあわせだったんだけどっ。他の人がどう思っているかは知らないが、「あたし」は!!

 2番手、というか、「助演者」ね。
 みわっちは「華」担当なので、「助演」じゃない。そして、「助演」よりも「オイシイ」役がそのか(いじられキャラだもんよ、そのかっち)だよねー(笑)。

 あああ、幸福ですよ、オサコン。
 寿美礼ちゃん語りはまた別欄で改めて!

 明日も梅芸行く!
 サバキがありますよーに!!


 『マラケシュ』語りの途中ですが。

 春野寿美礼イン・コンサート『I got music』初日、行ってきましたー!!

 またしてもチケットなくして、開演ぎりぎりまでばたばたしました(笑)。なくすのやめよう、自分! つーか部屋片付けようよ、自分!

 歌多めのプチミュージカルとコンサートの2本立てでした。

 たのしかったです。
 もー、きゃーきゃー♪です。

 文章にするのがめんどーなので(笑)、感想羅列。

・かわいい。オサ様がかわいすぎるッ!!
・舞台上にオーケストラ。そこへやってくるドジな楽団員の長田くん。
・ピアニスト彩音ちゃん。素敵にヒロイン。
・ティンパニーを叩くオサちゃん……ぢゃねえ、長田くんの得意げな顔がもう……もうッ。冒頭からクリティカル。かわいいのなんのって! アンタ、わたしを殺す気ですか〜きゃーーッ!!
・白衣とまっつ。
・医者をさせるととことんハマる男まっつ。
・たとえうさんくさい路線であっても、周り全部白衣でも、やっぱりまっつがいちばん医者コスプレが似合う(笑)。
・「Gim’me Love」のまっつの恥ずかしさは、憤死ものだ。
・いやその、突然ラテンな衣装で踊り出てこられましてね……みわそのはいいんだよ。問題はまつださんですよ……死ぬほど似合わないっすよ……。
・もっともまつださんは、ソコがいいんですけどね。
・オーケストラ・タップ最高。キャラ立ち過ぎだ。
・てか、そのか二枚目? かっこいいっす……。
・長田くん、若い。かわいい。ハンサム。なにやってもキュート。
・楽器イロイロ。すげー。
・オサもだけど、他のみんなもすげーよ。
・スネアドラムってゆーんですが、耳でも目でもたのしい音楽パフォーマンス。しかし、手に汗握った、見ている方も(笑)。
・ストーリーはシンプル。だからこそ、かわいくてたのしい。
・1幕のラスト、好き。どきどきする。
・がんぱれ、長田くん。


・願うこと。まっつとそのかは一緒にいてください。でないと両方見られないじゃん。うう……無理だってことはわかってるよーっ。
・まっつはオサの横にいることが多いので、捕獲しやすい。
・そのかが大変だ。端に行ったりして、すぐに視界から消える。
・他の人を見ている余裕がない。オサとまつその見てるだけで、精一杯!! わーん、くやしいよー、みんな見たいよーっ。

・プログラムのキャスト写真がすごいきれい。カメラマン、外部の人?
・てゆーか、そのかがかっこよすぎ。こんなに男前だっけ、素顔?
・まっつはふつーにきれーなおねーさん。
・このプログラム写真、別個に販売してくれ。頼む。買うよ。買っちゃうよぅ。

・寿美礼サマの歌声堪能2部。
・よーやくコンサートらしい内容。

・未涼亜希氏の投げキッス、破壊力ありすぎ。

・客席で死にそうになった……恥ずかしすぎて。
・なんであんなに、「スター」らしいことをやるとサムいんだ、まっつ。
・でもソコが好き。……わーん、好き〜〜。
・はっ。なんか、まっつのことばっか書いてる? オサ様のこと書こう!!

・なんといっても、トート閣下降臨!!
・肌色のナチュラル閣下。
・長田くんと同じ顔なのに、鬼畜美形。
・わたしは、鬼畜ナルシスト閣下が好きだ。てゆーか、寿美礼サマが好きだ。
・たったひとりで歌う、「私が踊る時」のカリスマ性。
・そうか、ひとりか。ひとりでも、いいんだ。ひとりで、いいんだ。
・その空間の張りつめた美しさ。
・「最後のダンス」、すばらしい。振付かっこいーよー、なつかしい、見たかった春野寿美礼がそこにいるよ。

・指揮者とのトークは、長すぎ。アレ、毎回やるのか……?
・オペラは圧巻。「音」が気持ちいい人だ。
・花組関連のミュージカルといえば『H2$』。
・そのかにも、予科生時代ってあったんだ……。
・あの制服着てたんだね……。似合わなかったろうなあ。
・てゆーか、オサの『H2$』、そのかは観に行ったのに、まっつは行かなかったんだ……。
・ラストソング、YOSHIKIですか……それなら持ち歌の方にしてほしかった。(カーテンコール曲があるので、ほんとのラスト1ぢゃないけど)

・オサ様、芸風変えた?
・ナル系内側ぐるぐるから、発散系になったよーな。
・それに伴い、ファンもテンション変わってるよーな。
・くしゃくしゃ笑顔でエネルギー放出する姿がかわいい。愛しい。

 わーん、春野寿美礼サマ、大好き〜〜。

・ペンライトの目つぶし攻撃だけが、つらかった。
・残像ちかちか。
・アレ、なきゃダメなの……? 目に痛いよ……?

 
 チケット持ってないけど、とりあえず明日も行きます、梅芸。
 余らせている方、どうかさばいてやってくださいませ!!


 わたしには、「これって世間の常識だよねっ。世の中の人全員そう思ってるよねっ」と信じていることが、「いやソレ、ぜんぜんチガウから! 緑野さんだけだから!!」と言われることが多々ある。
 てゆーか、最近とみに多い。

 博多座『マラケシュ・紅の墓標』千秋楽の日。
 当日券の列にいちばんに並んでいた人が、「わたしは1公演しか買わないんで、残りの1公演はあなたの分を買いましょうか? 席はどこがいいですか?」と言ってくれた。
 えええっ。いちばんに並んでいた人は、とーぜん徹夜されているわけですよ。そんなにまでして得た権利で、見ず知らずのわたしの分を買ってくれるというの? わたし、夜が明けてから並んだ人ですよ? 順番で言ったら、10番目ぐらいの人なんですよ?
 たんに、並んでいる間そのかの話で盛り上がったというだけの縁で。

 ありがたやありがたや。

 いちばんの人が買うのは、もちろん千秋楽公演。でも、楽の日の昼公演は、買わない。その昼公演購入権利を、わたしに譲ってくれたの。
 いちばんの人の権利だから、わたしは、昼公演当日席をいちばんに買う権利得たわけ。
 博多座の当日販売席は、1階後方から、2階後方、3階、そして立ち見。「最悪、立ち見でもいい。劇場に入れさえすれば」と夜行に飛び乗ってきたわたしに、信じられない幸運。

 いちばん?
 わたしが選んでいいの? いちばんに?

 迷わず、「そのかに触れる席」を選んだ。


 当日券並びの2番目はnanakoさん。彼女の狙いは昼公演。千秋楽は良席GET済み。だもんで彼女もまた、2公演買えるうちの片方の権利、今度は千秋楽を買える権利をわたしに譲ってくれた。

 いちばんの人に昼公演を、2番のnanakoさんに楽を買える権利を譲ってもらった。
 つまりわたしは、昼公演をいちばんに、千秋楽を2番目に買うことができたの。

 なんて幸運なんでしょう。
 ひとさまの厚意で緑野は生きております。ありがとうありがとう。

 実際、2番目のnanakoさんの権利で千秋楽チケットを買おうとしたら、わたしがいちばん欲しかった席が残っていた。いちばんに並んだ人は、その隣を購入したらしい。
 だもんで、昼公演も楽も、わたしはまったく同じ席を手に入れることができたのよ。

 ちなわち。
 「そのかに触れる席」を。

 
 この話を、オサコン初日にいつもの面子に話した。

「昼も楽も、当日販売席でいちばんいい席を買うことができたってわけ」

 意気揚々と、報告するわたし。
 「ええー?」「すごーい」と感心の声を上げかけた友人たち……を、遮って、nanakoさん。

「いや、べつに、いちばんいい席じゃないから!!」

 えっ?!

「当日販売席で、いちばんいい席は上手側。下手は別に、大していい席じゃないから!」

 ええっ?!
 だってだって、下手は「そのかに触れる席」だよ? いちばんいい席に決まってるじゃん!!

「ソレ、緑野さんだけだから!」


 ええーーっ?!!

 「そのかに触れる席」って、いちばんいい席なんじゃないのっ?!
 それって世間の常識じゃないの? 世の中の人全員そう思ってるんじゃないの?!

「んなわけないって」

 知らなかった……わたしの常識は、世間とチガウの?
 がーーーーん。

 
 なんか、最近とみにこんなことがある。
 「いやソレ、ぜんぜんチガウから! 緑野さんだけだから!!」って、みんなして言うの。

 『Le Petit Jardin』で「アランは受だよね?(笑顔)」って言ったときも、『シバ魂』の「レークとオーキッドで同人誌作れるわっ」と言ったときも、誰ひとりわたしについてきてくれなかったわ!
 「そんなこと誰も思わないから! 緑野さんだけだから!!」って。
 ひどいー。

 
 でも、思うのよ。
 最近わたしがどうこうというより、周囲のみんなが、最近容赦なく突っ込むようになったってことなんじゃないかしら、コレ。

 ふつー、お義理でも「そうね」とか言わないかー?
 てきとーに賛同して、お茶を濁さないかー?

 みんな、正直者……。

 てか、周囲が総ツッコミ状態になるわたしが悪いのか……?
 で、でもでも、誰だって自分を基準に考えるよね? 「わたしが考えるよーなごくありきたりなことは、世間のすべての人も考えているだろう」って思うよねえ?
 そのへんはすごく、ふつーの心理展開だよねえ?
 う。どこでまちがえるんだろう。

 
 まあ、なにはともあれ。

 博多座楽でお世話になりましたいちばん並びの方。
 ありがとうございました。
 (んなとこで礼をゆっても、届くことはないだろーが。てか、目に留められたらそれはそれで恥ずかしいが)なにしろ書いてる内容がこんなブログ……。


 『マラケシュ・紅の墓標』博多座版のヒロインって、実はレオン?

 と、言ったら、nanakoさんはものすげー勢いで、こう答えた。

「だから前から言ってるでしょーっ! レオンがリュドにものすごいラヴだって!!」

 いやいやいや、前から言われても、わたしは別にことさらレオンだけ見てたわけじゃないから! んなこと力説されてもわかんないから!

 真ん中で主人公を中心に物語が進んでいるときに、モブのレオンを凝視したりしてませんよ。
 それでレオンがどうだと言われても、わかりませんってば。
 主役中心、物語の中心を見る、わたしはごくふつーの観客です。

「リュドはそのたび別人だから、行きすぎてるときはレオンとラヴラヴで、大変だったんだから!」

 いやわたし、そんなリュド見てないし!
 レオンのことは好きみたいだけど、別に行きすぎてなかったし!

 オサ様は、そのときどきで、演技がチガウ。
 毎回別物なの。なんて罪作りな。目が離せなくなるじゃないか。
 そして、nanakoさん曰く、レオンを愛しすぎて別物語になっているときもあったとか。
 わたしが見たときは、そんなことはなかった。

 ただ、リュドがレオンをかわいがっているのはわかった。レオンのことを「冗談じゃない、あんなチンピラ」と言うときの笑顔が、リュドがどれほどレオン少年を気に入っているのかを表しているよね。

 わたしはふつーの見方しかできない人なんで、nanakoさんほどかっとばしてはいないものの。
 楽の日にはさすがに考えたよ。
「ヒロインって、実はレオン?」と。

 ヒロインは、いないよりいる方がいい。絶対。
 だから、レオンでいいよ、ヒロイン(笑)。

 
 誰かを愛しているリュドが好き。
 ほっとする。

 初日を見たとき、リュドがあまりにも誰も愛していなくて、てゆーかそもそも同じ地球に立っていなくてびっくりした。

 それが、20日後に観たときは、ちゃんと彼がいろんな人を愛していて、ほっとした。
 テンションがブチきれているときは、愛が暴走してえらいことになっていた。
 テンパッてるリュドも好きだし、淡々とあるがままに愛や人生と向き合っているリュドも好き。……どのリュドももれなく哀しいのだけど。

「後悔しているんじゃないのか。私についてアフリカまで流れてきて。後ろ暗い稼業の片棒を担いで」
「あなたに出会ってなくても、こうなってましたよ」

 コルベットととの、アンタら夫婦ですかという、この会話も好き。
 コルベットがリュドを好きなのがすごーくわかる。そしてリュドも、コルベットのことちゃんと好きだよね。
 ギュンターを刺すときの手つきでわかるけど、リュドは人を殺すのはじめてじゃないよね。きっと今まで、何人も殺してるんだろう。
 コルベットのもとで。コルベットのために。そして、生きるために。
 精神的な話じゃなくて、ほんとうにもう、彼は汚れてしまっているんだろう。
 だからこそ、コルベットとの関係は安定している。彼らは同類。きれいな場所では生きられない荒んだ獣。
 コルベットを愛しているリュドが好き。大人の男の顔で、余裕とあきらめを浮かべて、年上のパートナーを敬愛している姿が好き。

 コルベットがボスで、リュドはその片腕。そしてレオンは、ただの手下のひとり。
 コルベットはレオンなど重用していないだろうし、買ってもいないだろう。リュドが名前を出さなければ、存在すら忘れていそう。

 でも、リュドがわざわざ名前を出す。かわいがっている年少の仲間として。

 リュドはレオンを好きだから、彼を年下扱いしたり、子ども扱いしたりしない。レオンがそーゆーことに敏感なお年頃(笑)なのを知っているから。
 あくまでも、同等の男として扱う。
 リュドがレオンを軽んじれば、きっと組織でのレオンの立場はもっと下がるだろー。だって、あまりにもチンピラじゃん、レオン。なのにえらそーじゃん。リュドと格が違いすぎるのに、本人表面的には気づいてないみたいだし(無意識にはかなり気にしていそうだが)。
 すべては、リュドがレオンを愛しているためだと思うよ。

 泥の中で生きることがふつうになってしまった大人の男が、きれいなものを信じてあがいている青い少年を、快く思う。強がって威嚇する若い牡をかわいいと思う。そーゆーことだよね。
 レオンを愛しているリュドが好き。わざといぢわるぶったり突き放してみたりしながらも、根っこのところに見える素直じゃない情愛がかえって度量を感じさせる。

 リュドが、レオンとパリへ行こうとするのも、ぜんぜんアリだと思うよ。
 たとえ、待っているのが破滅だとしても。

 レオンに対するよりさらにまっすぐな感情で、ソフィアのことをかわいがっているよね。
 きれいなもの。汚れていないもの。リュドはソフィアを大切にしている。妹のように。
 ソフィアを愛しているリュドが好き。幼いこと、を、素晴らしいことだと思う。それと同時に、自分とは相容れないものだと思う。その大人である姿が、かなしくて美しい。

 いちばんエロスを感じる関係が、アマン。
 このベドウィンの無口な少女とリュドの関係が、いちばんあやうい。
 アマンはたぶん、境にいる存在。こちらとあちら、この世界とそうでないもの。少女の姿をしているから、リュドはことさらやさしい瞳をする。
 アマンを愛しているリュドが好き。この世ではない場所に惹かれる彼の透明な美しさがはかなく光る。
 アマンは蛇と対になる存在だと思う。アマンが正なら蛇が負、アマンが聖なら蛇が邪、アマンが光なら蛇が影、というように。
 でも、同じモノなの。ほんとうは。

 変わらない魂、イヴェット。リュドが汚れてしまう前に出会った苛烈な美少女。彼女はそのままの姿で、現在のリュドの前に現れた。
 リュドは「失ってしまったもの」にやさしい。レオンやソフィアがそうであるように。
 変わらないイヴは、現在のリュドが愛せる女ではない。だけど、少女のまま時を止めた不器用さが、純粋さが、痛々しい。

「大人になれない 幼いわたしの恋を捨ててきて」
 そう言って金の薔薇を差し出し泣きじゃくるイヴを見て、やさしくわらうリュドが忘れられない。
 イヴを愛しているリュドが好き。傷だらけの彼女が哀しいのに、つらいのに、それでも微笑みが浮かぶ。あまりに彼女が愛しくて、愛がそのまま笑みになる。
 それは男と女の愛ではないけれど。たしかにリュドはイヴを愛している。彼女のために、命を投げ出すほど。

 リュドヴィークがこの世を、この世界で生きる人々を愛していればいるほど、彼が愛しくてならない。
 静かに、端正に、彼は世界を愛している。

 でも、彼はこの世界でしあわせになれない。

 彼の愛は、彼が求めているものではないし、彼へ集まる愛もまた、彼が求めているものではない。

 冷たい人ではないんだよ、リュドヴィーク。
 孤独な人なの。

 彼はいつだって、愛しているのにね。

 
 千秋楽。
 誰かへ、どこかへ、突出した愛はなかった。
 だけどそこには愛があった。

 それがかなしくて愛しくて。
 こわくて痛くて、動悸が激しくなって、収まらなかった。ずっとずっと。

 ヒロインは、リュドヴィークなんだと思うよ。
 ほんとうのところはね。


 『マラケシュ・紅の墓標』博多座版のヒロインって、実はレオン?

 千秋楽の日になって、思った。

 博多座版『マラケシュ』は、決まったヒロインがいなかった。オリガ、イヴェット、ソフィア、アマンがそれぞれ同じくらいの比重でリュドを囲んでいた。
 21日に観たとき、オサ様絶好調でトバしまくり、ものすげーアツいリュドと舞台だったので、こりゃ楽日はさらにものすげーことになるのかと期待半分恐怖半分で臨んだんだが、意外にも楽は「端正な」舞台だった。
 暴走せず、ニュートラルに、丁寧な舞台。疲労が過ぎているよーにも見えたし、リュドとしての生を噛みしめているよーにも見えた。
 テンションが異常暴走していないせいもあったかもしれない。丁寧で落ち着いたリュドだったせいかもしれない。
 リュドの魂のエコーであるオリガ、リュドの過去の傷イヴ、現在の生活ソフィア、異世界との接点アマンと同じように、レオンがヒロイン線上に浮かび上がって見えた。

 
 レオンが、過去のリュドヴィークに見えた。

 
 「リュドヴィークのテーマ」という曲がある。
 この曲が、リュドと合っていない気が、ずっとしていた。

 ♪何かが在ると この手に掴む筈と
  幼い夢を見てた 夢しか持てなかった♪

 リュドヴィークは孤独な魂。
 こーゆー「若気のいたり」系の青い詩(うた)はチガウ気がするんだ。
 彼に相応しい詩じゃない。
 たとえ青い過去を振り返っているにしろ、この歌の「青さ」とは微妙に違和感がある。

 博多座のレオンを見て、「この曲は、実はレオンの曲なんじゃないか」と、感じていた。
 「少年」であるレオンが、闇雲に「何かがある。何かを掴める」と「幼い夢」を見、「怯えた心」を必死に隠し、棘だらけに張りつめて自分を守っているくせに、実は「優しさ」を探している。

 「リュドヴィークのテーマ」の歌詞の、レオンが前半部分を現在進行形で受け持ち、リュドはその前半を「思い出」として苦く眺めている後半部分を受け持っている。
 ……ように、思えたんだ。

 独立した「大人の男」(それゆえの哀しさ)に見えたムラ・東宝版のレオンとちがい、博多座レオンは「少年」だった。リュドとは明らかに立ち位置がちがった。
 少年であるレオンの「青さ」と「愚かさ」は、「リュドヴィークのテーマ」に描かれている若者の姿と重なった。

 オリガ、イヴ、ソフィア、アマンがそれぞれ同じ比重でリュドを取り巻く中に、過去のリュドヴィーク自身レオンが加わったと思った。

 そして、鳥肌が立った。

 主要な登場人物すべてが、リュドヴィークが向かう先は彼岸だと、静かに指さしていることに。

 なにもない空っぽの舞台に。
 アマンが立つ。
 彼女は、舞台の奥、彼方を指さす。
 ソフィアが立つ。
 彼方を指さす。
 イヴェットが立つ。
 彼方を指さす。
 オリガが立つ。
 彼方を指さす。
 そして、レオンが立つ。
 彼もまた、彼方を指さす。

 音はない。表情もない。
 ただ、誰もが彼方を指さす。なにもない、この世の果てを。

 そこを、リュドヴィークが歩く。
 わたしたちに背を向けて。あちら側、彼の岸へと。

 たったひとりで。

 ……そーゆーイメージ。光景が、浮かんで。

 こわかった。
 ただただ、こわかったよ。

 リュドが歌う「リュドヴィークのテーマ」が今のレオンにそのまま当てはまってしまうなら。
 レオンのキャラとしての役割は「リュドの過去の姿」だろう。

 そして、現在のリュドと現在のレオンがシンクロする瞬間が、とてつもなくこわかった。

 リュドは自分の魂のエコーであるオリガと、ひとつになろうとした。
 現実で生きることをやめ、自分の内側だけを選ぼうとした。
 その瞬間、リュドは「もうひとりの自分=クリフォード」の声を聞く。
 「オリガ」と呼ぶ声を聞くのが、リュドだけなんだよ。オリガにはこの声が聞こえていない。
 ムラ・東宝版では、ちょうどそのとき探検隊……ぢゃねえ、測量隊のひとり@りせが生還した、すなわち他隊員の死を証明するエピソードが挿入されるので、ここでクリフォードの声が聞こえるのもわかるんだ。
 死ぬ間際に、近しい者に声が聞こえるというのは、物語ではよくあること。
 でも博多座版ではそれがない。クリフォードの死を証明するエピソードは冒頭で使われてしまっている。
 なのに、クリフォードの声がする。しかも、聞こえるのは妻オリガにではなく、会ったこともないリュドに。
 リュドとクリフォードが「鏡の内と外」なんだな、とわたしは素直に考えたさ。だからリュドにだけクリフォードの声が聞こえるんだと。
 クリフォードの声を聞いたリュドはオリガを抱くのをやめて、かわりに言う。

「パリへ行こう」と。

 リュドがクリフォードの声を聞いたとき、博多座版では警察長官ジェラールが現れる。彼が指揮するのは、街にはびこる小悪党の一掃。
 長官の言葉が誰を指すかを示すように、レオンがせり上がってくる。
 恋人ファティマを抱いて。凄絶な絶望をその瞳に宿し。

 レオンは言う。

「パリへ行くんだ」

 リュドヴィークと、レオン。
 同じ空間にいるわけではないふたりが、会話をする。

 リュドにとってオリガは「顔のない女」。女の姿をしているが、リュドはオリガを見ていない。彼が視ているのは、彼女の奥にある自分自身の影。
 だからリュドが話している相手は、オリガじゃない。
 リュドが言う。

「パリへ行こう」

 レオンが答える。

「パリへ行くんだ」

 自分自身のエコーでしかない影に話しているふりをしながら。過去へ行こう、とほんとうの意味で問いかけている相手は、過去の自分自身であるレオンなんじゃないの?

 失ってしまった自分に、汚れてしまった自分が言う。過去へ行こう、と。やりなおそう、と。

 な、なんか、絶望的なんですけど。
 それまで別の物語だったはずのリュドとレオンが、時空を超えて「会話」している。シンクロしている。
 その瞬間の、こわさ。

 そしてリュドヴィークは、「リュドヴィークのテーマ」を歌う。前向きな歌詞を、とても哀しい乾いた瞳で淡々と歌う。
 歌詞が表しているものは、やはりレオンに思える。リュドヴィークでありながら、レオンを歌う。
 リュドが「君と二人で」と歌う「君」は、レオンのことじゃないの?
 だってリュドは、オリガと会話してない。彼が「パリへ行こう」と言った相手は、レオンだ。歌詞だって、そもそもはレオンの青さや愚かさを歌っている。

 リュドヴィークが、一緒にパリに行きたかった相手、すなわちヒロインは、レオンだろう?

 だからこそ、そのあとでパリを求めるレオンに対し、「パリへなんか行けるわけがないじゃないか」という台詞につながるんだ。

 リュドの魂のエコーであるオリガ、リュドの過去の傷イヴ、現在の生活ソフィア、異世界との接点アマン、そして過去のリュド自身レオン。
 リュドはレオンを選び、そしてその手を離す。レオンは死に、リュドは過去を殺す。
 過去、この世につながるものを断ち切り、薔薇を葬り、リュドは旅立っていく。

 壮絶な孤独。
 清涼な解放。

 最後のリュドヴィークの背中に、慟哭する。


 いてもたってもいられなくなり、急遽博多を目指した。
 『マラケシュ・紅の墓標』千秋楽を前にして。

 こんなに切羽詰まってからじゃ、良席なんか期待できない。
 席なんかどこでもいい、劇場にさえ入れればいい。3階の立ち見だってかまわない!

 と、思っていたけど。

 いざ、博多座前に着いてしまえば、手が届く範囲での欲望が鮮明になった。

 すなわち。

 そのか席をねらえ。

 今まで観劇した際は、ありがたいことに前方席ばかりだったので、そのかの客席降りが捕獲できなかった。
 『エンター・ザ・レビュー』では3カ所客席降りがあり、最初がコメディアン@ゆみこ、次が旅の若者@みわ・まつ・みつる(たぶん。ひとりしか見てないから記憶が不確か・笑)、そして3つめが出演者ほとんど雪崩降りする。
 その出演者ほとんどがどどーっと客席降りし、通路いっぱいひろがって歌い踊るときの、そのかを捕獲できる席が欲しかったの。
 なにしろそのか、客席降りの先頭なのよ。いちばん後ろまでどわーっと走って行っちゃうんで、前方席だとまったく見えないの。

 どーせ前方は手に入らない。
 後方なら、そのか席をねらう! そのかに触るんだっ!(鼻息)

 わたしが鼻息荒く博多座にたどりついたとき、わたしよりはるかに鼻息と脳内麻薬分泌の激しいnanakoさんが、すでに当日券の列に並んでいた。
 自分の席に荷物を置いたわたしは(博多座は当日券の列に椅子を出してくれるのだ。すばらしい劇場だ)、ずーっとnanakoさんの席の前にしゃがみこんでお喋りしていたんだけど。

 キャンセル席は特に出ず、どうやら通常の当日販売席のみらしい、と先に知り。

 わたしたちは、どの席を狙うかを話し合った。
 ええ、わたしとnanakoさんだけでなく、他の並んでいる人まで一緒になって。

 上手後方席なら、みわ・まつ・みつるが横を通る。そして、大勢客席降りのときも、誰か来るから、二度オイシイよね。
 それに比べ、下手後方席はそのかがやってくるだけで、あとは誰も通らない。

 それでも。

「下手よね!」
「そのか席だよね!!」


 みんなそのか狙い(笑)。今回はまっつよりそのか……。

 いちばんに並んだ方は、今回華やかにそのかオチなさったそーで。徹夜してまでそのか席を狙う!!

 その人と一緒になって「そのか! そのか! そのか!」と叫び続けるわたしに、nanakoさんはひとこと。

「みんな、そのかオチして……」

 えっ?!
 みんな? みんなって誰よ?

「ああ、緑野さんはもともとそのか好きだっけ」

 そうよ。もともとよ。べつに、今さらオチてないわよ。オチてないもん。

 
 たとえ、

「そのか見て泣くくらい、そのかファンなんでしょ」

 と、ドリーさんに断言されてしまったとしてもだっ。

「ケロファンからそのかファンって、わかりやすすぎ」

 とか言われてしまってもっ!!

 当日券いちばんの人に「ケロファンなんです」と言ったら、「ああ、だから今はそのかちゃんなんですねっ。似てますもんねっ」とふたつ返事で言われちゃったり、数年ぶりにヅカを観た友人が劇場前のスカステテレビを見て「ケロに似てる人ってわかった。花組の人でしょ。ニュースとかいうので流れてた」とにこにこ言ってくれたりしたとしてもっ。

 べ、べつにわたし、ことさらオチてないもん。

 そのかのことは、昔から好きだもん。このブログ、さかのぼって見てよ。昔からそのかそのか言ってるから。
 『ミケランジェロ』新公から、そのかだったもん。特別ケロに似てないときから、そのかだったもん。

 ……オチてないもん。
 い、今さら……どきどきどきどき。

 
 わたしの執念が通じたのか。

 前楽、大楽とも、無事にそのか席Get。

 1階席だ、客席降りだ、そのかだそのかだ!!
 そのかに触るんだーー!!

 
 つーことで。

 緑野こあら、はじめて桐生園加に触りました。

 前楽は、つつましくタッチするのみ。
 大楽は、ここぞとばかりに握らせていただきました。

 あ、どっちも手ね(笑)。他のとこには触ってませんよぅ。

 前楽はnanakoさんが隣だったので、ふたりで盛り上がりまくっていたし、大楽はそのかファンのいちばん並びの人が隣だったので、これまたふたりで「そのかー、そのかー」と大騒ぎしてました。名前呼んだら、ちゃんと来てくれるのよー、そのかちゃん。

 わーいわーいわーい。

 そのかのあの舞台メイクが目の前だよぅ。
 ちゃんと目が合うんだよぅ。

 舞台メイク、つーのがポイント高いんだよな、そのかの場合。(何気に失礼な言い方?)
 とろけてましたよ、ほんと。
 そのか仲間のお隣さんとふたり、そのか捕獲後にガッツポーズ。

 
 前楽もテンション高かったけれど、大楽の盛り上がり方はふつーじゃなくて。

 カーテンコールは終わらないし、寿美礼サマはぶっこわれててキャラがチガウし(笑)。「好きダー!!」とか叫んじゃう寿美礼サマってなに? すげー。
 客席も声出すし。温度チガウし。

 ノリのいいお隣さんとふたりして、わたしもきゃーきゃーやってました。

 終わらなければいいのに。

 今が永遠ならいいのに。

 ほんとうに、そう思うの。
 だから、拍手するの。手を振るの。声を出すの。

 何度も開く幕が、うれしくて。
 はかない「今」がつづくことが、うれしくて。

 目当ては『マラケシュ』だったんだけどね。『エンレビ』も大好きだったよ。
 むしろ、あのテンションの解放は、『マラケシュ』があり『エンレビ』にたどりつくゆえのものかもしれない。
 だから、なにもかもが愛しくて。

 
 ありがとう、博多座。
 あのとき、あの空間、あの時間のすべて。
 キャストもスタッフも、観客も。
 nanakoさんも、お隣さんも。
 幕間と後に半べそで「よかったね」を繰り返した、ココナッツさんも。

 いてもたってもいられない、そんな気持ちで走った自分のこころも。


 水曜日は映画の日。
 相変わらずのんきに映画館に通ってます。

 本日は「かっぱDAY」。
 や、なにしろ局地的かっぱブーム中ですから。

 かっぱ映画を続けて2本見てきました。

 『妖怪大戦争』と『サマー・タイムマシン・ブルース』。
 どっちも素敵です。
 大人のためのファンタジー(笑)映画。
 心から笑って、こころがあったかくなる物語。ゆるいところや、つっこみどころもあるにはあるが、こーゆー映画は大好き。

 『サマー・タイムマシン・ブルース』はパンフレットも買っちゃったさー。『交渉人』も『容疑者』も買わなかったのにねー。

 ま、映画の話はまた別に書くとして(このブログはもう、ヅカかヲタク話題しか書かないところだと思っているらしい)。

 
 犬と猫の話。

 わたしは本来、猫が好き。

 寿美礼ちゃんは、猫だよね。
 高貴で優雅な血統書付きの猫。豪奢な長椅子にけだるく横になっているのが似合うとゆーか。

 ゆーひくんも、猫でしょう。
 気まぐれ、自然体。しなやかでクール。あまり人にはなつかない、寄ってこられると逃げる、でも自分が許した相手だけには寄っていく、みたいな。

 水くんは猫ではなく、猫科の動物だなと思う。
 クールに見えるけどなにしろ野生なのでけっこー熱い。猫よりハードな人生。地に足をつけて、前向きにサバイバル。

 そのかは、猫科の大型獣。
 カラダはちっこいけど、種族として大型獣(笑)。ライオンとか虎とか。肉球がすっげーでっかいの(笑)。
 ライオンって顔だけみるとけっこーのんきでまぬけ。その獰猛さが表れるのは、動いているとき。それ以外はけっこーぽややんな感じ。強い、という基本スキルゆえののんきさか。

 
 猫が好き。
 基本的に。

 でも何故か。

 ふと、犬系男に惚れ込んだりする。

 …………まっつ。

 なんかもー、むしょーに愛しいんですが(笑)。

 オギーの責任でもあるぞ。
 もともとまっつ好きだったのに、『マラケシュ』のせいで拍車がかかった。

 あて書きのオギー万歳。

 うっかりイヴン×ウラジミールで大真面目にラヴストーリー考えちゃったくらい、オギーは罪作りだ。たんにソレ、そのまつがやりたいだけぢゃ……?

 わたしのヘタレ男スキーハートにジャストミート。
 だからこそ、どんなにヘタレでもわたし的には攻である博多クリフォードはさらにツボ。攻男スキーなわたしのハートにジャストミート。
 とほほな犬系男、まっつにめろめろ。

 
 しいちゃんも犬系だよなー。
 あったかーい大型犬。むぎゅーってしたい。寒い夜はあたためてほしい。

 ちなみにケロも、犬系だったと思う。
 本人が猫好きなのは、自分が犬系だからだろー(笑)。


 友人から頼まれて、はじめてのおつかいをしてへろへろになったあと。

 わたしは、タカラヅカ・サークルをのぞきにいった。
 コミケぐらいしか、ヅカの同人サークルは見あたらないもんなー。ほんとにマイナーなジャンルだ。

 そこでわたしは、すばらしーモノを見つけた。

 や、同人誌じゃなくて。

 齋藤吉正Tシャツを着ている人がいた。

 まず気がついたのは、後ろ姿。
 白いシャツの背中に、「齋藤吉正」の文字を見つけ、わたしゃ瞠目したね。

 さいとーよしまさ?
 マジっすか。

 ふらふらと魅せられるままに、その人の元へ行っておりました。

 バックプリントの文字は小さかったけど、正面のプリントはものすごかった。

 でかでかと中央に「齋藤吉正」とあり、その周囲をさいとーくんの名台詞で囲んであった。

 ええ。
 名台詞ですよ。
 『血と砂』とか『巖流』とかの正気では口にできないよーなこっ恥ずかしい台詞のオンパレード!!

 ええ、「くらり〜んフラッシュ!」までありましたよ、齋藤名台詞。

 緑野、一目惚れ。

 すばらしいです。
 なんですか、そのすばらしーセンスは。

 一目惚れしたら、そりゃ声をかけるでしょう。
 あたしゃふらふらと、そのTシャツを着たお嬢さんに話しかけてました。

 そのTシャツは、そのお嬢さんのオリジナルだそうです。お手製のアイロンプリントだそうです。
 齋藤FCの会服ってわけじゃないそうです。わざわざ今日のこの舞踏会のために作ったそうです。
 しかも、大野ファンだけど、インパクト優先で齋藤にしたとのこと。

 ハレルヤ。

 そりゃ、インパクトなら大野より齋藤でしょう!
 わたしも着たいです。
 吉正LOVEです。
 てゆーか、さいとーファンみんなでぞろりと着て歩いたら、すごいだろうなあ……ジェンヌFCの会服はよく見かけるけど、演出家、しかもさいとーかよ……いいなー、さいとーっていうだけで、なんかネタとして完成するよねー。

 その恥ずかしい台詞のチョイスぶりも、デザインのセンスの良さも素敵ですよ、お嬢さん。なにより、そんな素敵ドレスで舞踏会へやってくる心意気がすばらしいです。

 人生は一期一会。感動をありがとう、見知らぬ方。
 この出会いは、わたしの胸に深く刻み、語り継いでいきましょう。

 
 って、……ネタにしちゃったけど、まずいかしら。個人特定できちゃったりするかな。通りすがりのぜんぜん知らない人の話なんだが。
 ああしかし、ほんとうに素晴らしかったのよ……語らずにはいられないくらい。
 1ヶ月近く経ったから、まだ大丈夫かな……? 失礼な内容だったらこっそり教えてください、削除します。

 
 ところで、そのさいとーくんだけど。

「さいとーくんてさ、生で見るとふつーにかわいいそのへんのにーちゃんなのに、テレビではものすげーヲタクな人に見えるのは、なんでかなあ」

 とわたしが言うと、友人たちからは速攻返答されました。

「そりゃヲタクだからでしょ」

 みんな、容赦ない。


 いいかげん『マラケシュ』語りの最終回を書かねばならんと思いつつも、まだ別の話。

 演出が悪い・古い・悪趣味と大評判の『ベルサイユのばら』

 それならいっそ、演出家を変えて、1から作り直せばどうだ、という声をよく聞く。てゆーか、ファンのほとんどはソレを望んでいる。植爺が生きている限り無理だろうけど。

 あー、わたしねえ、見たいバージョンがあるわ。

 木村信司演出『フェルゼンとアントワネット編』!!

 フランス革命をガチで描いてもらいましょう!!
 民衆の大コーラスですよ! 対する貴族たちも大コーラスですよ!
 大衆という名の無責任な暴力野放しですよ。愚かしさ爆発ですよ。
 キムシンテーマ叫びまくり! 説教しまくり!(笑)

 その一方で、フェルゼンとアントワネットは純愛貫くんですよ。

 地下牢で抱きあっちゃったりしてね。
「あなたが生きている、それだけが我が望み」
 とか歌っちゃってね。

 キムシンの舞台はきれいだから、きっとものすげー美しい世界が見られるぞ。
 音楽ももちろん甲斐せんせの全編書き下ろしでさ。
 宮廷や貴婦人たちのドレス、軍服もさぞやセンス良く配置されることでしょー。

 ベルナール編とか黒い騎士編とかやるより、フェルゼンとアントワネット編をやった方が、よりキムシンらしいモノが書けると思う。
 大仰で華やかで、だけど群衆芝居で。説教しやすそうで(笑)。

 そしてキムシンなら絶対、アントワネットの処刑シーンで終わったりしないと思うわ。

 そのあと、フェルゼンが民衆に虐殺されるところまで、書くと思うの(笑)。

 あー、心から観たいわ。
 キムシン作の『フェルゼンとアントワネット編』。

 
 それから、植田景子演出『オスカル編』。

 女性作家ならではの、「男社会で働く自立した女性の生き様」を繊細なタッチで書いてくれることだろう。
 仕事と自分。結婚と自分。そんな、現代女性の普遍のテーマを、華やかな歴史ロマンに織り込んで、表現してくれるだろう。

 さわやかに甘く、美しい舞台美術。
 食べ物の話題も絶対に盛り込んでね。女性が好む「甘さ」は、おやぢたちには理解できない。おやぢ脳では創り得ない「少女マンガ」な世界を構築して。

 オスカルは働く女性。
 自立した女性。
 そして、社会と対峙することで、「自分自身」と出会い、向き合い、葛藤の末に生き方を自分で決めていく人間。
 植爺オスカルのなにが気持ち悪いかって言えば、オスカルがおやぢ脳で描かれた「男にとって都合のいいアタマの弱い女」であること。「男の真似をしているだけの、所詮女(男視点)という生き物」であること。
 なにしろ植爺だから、何故女性がオスカルを好きなのか、理解できないんだろう。女が男の格好をしているからきゃーきゃー言ってるだけだと思ってるんだろう。
 植爺に汚染されたオスカルではなく、原作のイメージを踏襲した、凛とした、しかし悩み多い繊細なオスカルを創り上げて欲しい。景子せんせになら、できると思う。

 最後のガラスの馬車はありえないから(笑)。そんなものなくても、愛のファンタジーは完結できる。

 景子せんせーなら、ロザリーが語り部かな。
 彼女の歌から物語がはじまって、バスティーユ陥落のあと、彼女の歌声の背景に幻のオスカルとアンドレが舞い踊って完、とか。

 
 あとは、齋藤吉正演出の『黒い騎士編』(笑)。

 義賊といえばさいとーくん。
 マザコンと言えばさいとーくん。

 ベルナールは実にさいとーくん好みだぞっ。

 ロザリー役はママン役と2役なっ。
 ママンのよーに、ベルナールを抱きしめるのよー。
「わたしがあなたを守ってあげる」
 とか言うのよー。

 ああっ、すげー観たいぞ、さいとー演出(笑)。

 
 あと、あんまし観たいわけじゃないが、ネタとしてアリだろうと思うぞ、太田哲則演出『ジェローデル編』。

 ハイソにお貴族様社会をいかにも太田なテイストで。
 斜めになった舞台に、回りくどい洒落た台詞。言葉遊びとオヤジギャグ。
 古典風刺を効かせて、もったいつけて。

 
 ……考え出すと、キリがないな。
 いくらでも出てきそう(笑)。

 ぶっちゃけ、植爺じゃなければ誰でもいいや。
 誰でも? 酒井やW中村でも……? い、いや、さすがにそれは……。(前言、あっちゅー間に撤回)


 こっそりと、萌えの話。

 宙組公演『炎にくちづけを』において。

 初日はストーリーに圧倒されて萌えどころぢゃなかった(笑)。
 が、2回目からは萌えはじめた。

 兄弟萌え。

 ルーナとマンリーコぢゃありません。
 あいつらに萌えはない。素直に女取り合っててください。

 でかいブラコン弟と、美人の兄萌え♪

 初見のときも、やたらともちんは目についていた。そして、なにやら「にーさん!」「兄さん!」とうるさいヤツだなとは思っていた。

 が。
 わたしの目は何故か、はるひくんをスルーしていてまったく目に入ってなかったのですよ! 『Le Petit Jardin』であひくんアランにときめいていたくせにー。何故わたしの目はジプシーの中で消去法でしかあひくんを見つけられないの?!
 まずともちで、次にいりすで、七帆でかちゃで和でちぎで……と、みんなを確認して、えーと、誰か忘れてないか、ああっそーだあひくんだ!
 その繰り返し。
 なんでこう、あひくんが見えないんだろう……。

 おかげで、ともちが「にーさん!」と言っている相手が誰なのか、最後までわからなかったのね。

 そして、2回目の観劇。
 この2回目っつーのがわたし初の大劇場0列センターでした。さ、最初で最後かもしれん……どきどき。水くんがいなくなるとこんな席が当たるんだよ友会(ケロがいた公演はカケラも当たらない。水しぇんも同じ)。

 どうしてですか神様。
 せっかくの0列様でわたし、ともちばっかり見てます。

 あと、タマちゃん見てる。な、何故。

 自分でも意外な目線でした。

 そうかわたし、ともち好きなんだ……でもってタマちゃん好きなんだ……し、知らなかった……。

 それにしても、宙組ってほんと、長身美形揃いですよ。
 その等身の高さにくらくらした。
 女性が演じている身長じゃないんだもん。ほんとにかっこいーにーちゃんたちなんだもん。
 冒頭の家臣団のみなさんがうぞーむぞーしているときからすでに、彼らの美しさに圧倒された。
 そして、長身青年たちにまじっている娘役さん演じる小柄青年たちがもう、「美少年!」って感じでまた美しい。
 目に楽しいったらもー!!
 幸福でした、最前列センター。もう二度とこんな席坐れないだろうけど。

 お花様の睫毛も、真下から見れちゃったしな……ふふ……ふ……。

 ただ、『炎にくちづけを』つー作品は、後方から観た方が絶対きれいだし、物語にも集中できる。真ん前では磔も最後の翼も角度が悪くてカタルシスが少ないっす。
 

 ともちばかりを見ていると、彼が演じている役(最後まで名前わかんなかった)が素敵にブラコンで、ときめきました。
 そして、彼の愛するおにーちゃんが誰なのかもわかった。
 あひくんだ!!
 わー、あひくんきれー。
 まー、ラヴラヴ? ラヴラヴねあんたたち!

 弟の方が、確実にでかい。縦にも横にも。
 が、弟はにーちゃんにぞっこん。
 でっかいしっぽをふるふる振りながら、美人のにーちゃんになついている。

 かわいい……。

 このいちゃいちゃラヴラヴ兄弟に、盛大にアテられました。
 あー、ともちとあひくんで、『ファイアーエムブレム 烈火の剣』の黒い牙兄弟やってほしー(笑)。美人の兄あひ、でかいブラコン弟ともちで。あの話も、凄絶な兄弟心中だよなー。

 あのジプシー小集団の中ではきっと、公認カップルだったんだろうなあ。
 でなきゃいい大人が(設定は若そうだな。マンリーコがハタチそこそこだもんな。弟ともちは10代だったりするんだろうか)、あんなふーにいちゃいちゃしねーよ。

 男らしく散っていった兄のあとを追う、弟の最後の台詞は「兄さん!!」。
 きっとふたりは、折り重なって死んでいったんだろうなあ。
 弟は、最後の力をふりしぼって、兄の亡骸を抱きしめたんだろうなあ、とか。

 あの衝立の向こうを想像して萌えておりました。

 いや、萌えでもないとやってられませんよ、あんな重い芝居。

 マンリーコもレオノーラも、アズチューナも大好きですけどね。
 作品自体、大好きですけどね。

 でもやっぱり、リピートはヘヴィだなぁ。現在で4回観てるけど。


 9月2日は、記念日だろうか。

 チェリさんから主語のないメールをもらっても、話通じてしまうし。
 刻み込まれた日付だからか。

 ええ、9月2日が正しいです。1日ぢゃないですよ。3日でもないです。
 2004年9月2日です。

 その9月2日に。

「星組退団者のお知らせ」
 なんてのが飛び込んでくると、心臓に悪いじゃないですか。
 ちゃんと公式HPで自分で確認して納得していたのに、時差アリで携帯にメルマガが届くと、びびる。モバタカのお知らせメール、遅いっすよ。時差のせいで2度びびったよ。

 
 あれから1年。
 どうかみんな、しあわせでありますように。


かわいいかっぱ。
 局地的にかっぱブームです。

 どう局地的かというと、わたしとnanakoさん限定っぽいので。
 なんでかっぱかは、nanakoさんのブログを見てください。(http://7ch.jugem.cc/?eid=428

 今日は映画の日なんで、レディースデーの昨日に引き続き映画館へ。
 見た映画は『ノロイ』、ホラー映画です。わりとおもしろかったけど(ツッコミどころも満載)、ちょっと注意事項。3D酔いする人には、向いてません。
 『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』動揺、素人の撮影したホームムービー風なんで、画面がずーっと揺れてる。わたしは乗り物には酔っても、画面酔いはあまりしないタチなんだが、けっこー疲れた。

 まー、映画はともかく。

 わたしは映画に行くとき必ず、ついでにガチャガチャをするのね。
 シネマフロアの隣はレストランフロアで、そこに何十台ものガチャガチャが並んでるのよ。新作も早いし、種類も豊富だし、のぞくだけでたのしい。

 でも今日はぴんと来るのがなくてさー。
 FROGSTYLEの新作も出てないし。

 そしたら、あるじゃないですか、すみっこにかっぱのキーチェーンが。

 局地的かっぱブームのわたし、普段なら見向きもしないはずなのに、ついついコインを挿入してハンドルを回してました。

 ああ、かわいいー。

 正面からも後ろからも、どの角度から見ても絶妙にかわいいぞ、こいつ。
 写真はピントが合わなくて、ちと微妙な写りだけど(所詮携帯電話のカメラですから!)、実物はすげーかわいいのよ。おなかにある黒いヤツは、がまぐちです。でかいがまぐち持ってるの。
 あ、背景の毛皮は本物です。猫の腹の上に載せて撮ったんで(笑)。

 
 カエルとアライグマをペアで携帯につける予定だったんだが、スヌーピーとかっぱにしよーかなー……。(←こらこら)


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