その昔、わたしが図書館でアルバイトしていたころ。
 書庫で『SFなんかいらない!』てな意味のタイトルの本を見つけた。
 市民図書館なのに、書庫で眠っていたということはあまり需要のない古い本なんだろう。需要のある本は開架図書に置くはずだから。
 タイトルも著者もよくおほえていない。著者はたしかタレントのようだった。わたしは知らない人だったが。

 内容はこうだった。

「世の中のSFとかいうものは全部、現代のふつうの物語に置き換えられる。わざわざSFにして大袈裟にすることはない。だからSFなんかいらない」

 たとえば、『E.T.』は、『子鹿物語』だ。
 親に内緒で子鹿を飼う話でいいじゃないか。なんで宇宙人なんだ。

 と、万事がこの調子。
 有名SF映画などを、現代文学に置き換える。

 まだ学生だった当時のわたしでさえ、この本を読んで「うわ、アタマ悪い人の本」と思ったな(笑)。

 現代の人間ドラマに置き換えられないSFなんて、存在するわけないだろ。だって、作っているのも現代の人間で、それを必要としているのも現代の人間なんだから。
 人間が理解できない、たとえば虫の世界を虫の心理と視点のみで構成した作品を、人間が理解できるか? そんなもんを必要とするか?
 たとえ虫の世界が舞台でも、そこには人間の視点が必要だ。虫の脳みそで作られた世界なんて、共感できるはずないんだから。

 じゃあどうして、SFが、あるいは虫の世界を舞台とした物語が必要なのか。

 テーマを表現するためにだ。

 母親とはぐれてしまった少年がひとり、出会いと別れを繰り返して旅をする。悪人もいれば善人もいる。ときに泣き、ときに笑う。旅を通して少年は成長していく。
 ……て話を、現代日本を舞台にやろうとすると、大変だ。
 母親とはぐれた? 母を捜している? んじゃ警察だ。捜索願は出てるかな。虐待とかの可能性は? 事件性は?
 とても、当初のテーマを描くどころじゃない。
 だから、虫の世界ということにする。みなしごハッチは母を求めて虫の世界を旅する。
 虫の世界、とか言ってもそれは、人間社会となんら変わりはない。

 テーマをより純粋に、ストーリーをよりわかりやすくおもしろく、表現するために。
 現代社会とはチガウ世界を舞台にする。
 世界を虚構にするために、それ以外の設定はリアルに細密に。ハッチの出会う虫たちがやたら人間くさいのも、SFに小難しい考証が必要なのもそのため。

 SFは必要だよ。SFに限らず、現代社会、今目に見える、手に取れるモノ「以外」を舞台とした物語は必要。

 
 まあ、冒頭の本があまりにアタマ悪いのも、今となっては「金のためかな」とは思う。
 論破するまでもない稚拙な内容であったとしても、こういう好戦的なスタンスの本には商品価値がある。要は人目を引き、本が売れればいいんだから。
 わざとアタマ悪い内容にして、売ったのかもしれない。

 
 このことを思い出すのは、宙組公演『炎にくちづけを』に対して、「キリスト教批判」という声を聞いたからだ。

 友人のクリスティーナさんと一緒に観に行ったときのこと。
 彼女は観終わってから、「クリスチャンの人は、これを観て気分悪くならないかしら」と言った。
 そりゃまあ、多少は引っかかるかもしれないけど。でもコレ別に、キリスト教のことをどうこう言いたいわけじゃないでしょう? たまたまキリスト教を扱っているだけ、テーマを表現するための媒体なだけでしょー。
 わたしは長くオペレータをやっていたけど、たとえドラマの中で悪徳オペレータが悪の限りを尽くし、主人公たちが「オペレータはひどい! 悪だ!」となじっても、ぜんぜん気にならない。だってソレは、そのドラマの中のオペレータがそういう設定で、そーゆーストーリーに必要なだけであって、わたしの仕事とはなんの関係もない。わたしはわたしで、誇りを持って仕事をするさ。
 『炎にくちづけを』のなかのキリスト教も、現在のキリスト教とチガウことは、一目瞭然だし。むしろ、虐殺されるジプシー側こそが、現在のわたしたちに馴染みのある、キリスト教の精神に近いことは観ればわかるじゃん。

 テーマを表現するために、わざと過剰な設定にしてあるだけ。

 子鹿ではなく、宇宙人だったように。

 それを、「宇宙人が出てくるなんてナンセンスだ」でくくってしまうのは、つまらない。「キリスト教批判だ」でくくってしまうのは、つまらない。
 その奥にあるモノを、たのしまなきゃ。

 
 もっとも、『子鹿物語』を『E.T.』にしたほどの変換の技巧が、今回は足りてなかったと思うけどね。
 てゆーかキムシン、うるさすぎるんだよ、テーマを叫ぶのが。

 イタイ作風だなー、もー(笑)。

 
 クリスティーナさんは、ガイチファン。
 タカラヅカからはとんと離れていたが、ガイチが退団だと聞いて数年ぶりに宝塚の地へやって来た。

「あたし、宙組観るのって『エリザベート』以来だわ」

 えー。宙『エリザ』って1999年じゃん。前世紀だよそりゃ。

「和央ようかが最後に階段降りてくるの、はじめて見た」

 たしかあなた、たかちゃん好きだったよね。ガイチの次に好きって言ってなかったっけ。なのに、トップになってから一度も見てないんだ。

「うん。まだトップでいてくれて良かった。おかげで、見られたわ」

 ……よかったね……たかちゃんが、6年もトップやっててくれて。
 他のジェンヌぢゃ、ありえないよ(笑)。

 
 前世紀からヅカを観なくなっていた人と話して、いろいろ新鮮だった。
 たとえば、次の月組公演のポスターを見て、クリスティーナさんは無邪気に、
「大空祐飛って、月組の2番手?」
 と言ってくるし。

 ええっと、ゆーひくんは、少なくとも2番手ではないよーな。てゆーか、路線かどうかもよくわかんないというか。

「どうして? あたしが観てたころも今も、ふつーにスターでしょ?」

 えーと、クリスティーナさんがヅカにハマッていたころって、ゆーひくんは新公で主役したり2番手していたころで。
 月組は天海祐希と久世星佳がいたから、下級生が抜擢されて上にいても関係ないという刷り込みがあるし。
 そこから現在にワープしたら、そりゃたしかに、ゆーひくんはパリパリの路線スターだわな。間の微妙時期をまるっと知らないわけだもんな。

「主役の次の大きさでポスター載ってて、来年の『ベルばら』はオスカルやるんでしょ? どうして路線スターじゃないの?」

 ……説明できません。
 わたしはゆーひくんがトップになろーがなかろーが、位置や立場にかかわらずずっと好きですから。

「でも、大体、どうしてまた『ベルばら』やるの? アレ、相当時代遅れよね?」

 ……説明できません。
 うわあああ。


 七十萌え。

 今さらでなんですが、新人公演『炎にくちづけを』の話。
 そろそろ検索の数も減ってきたし、需要がなくなったころにまったりと書きはじめてみる(笑)。

 本公の『炎にくちづけを』には、あまり萌えがありません。
 初見ではまったくなかった。
 2回目からは、ちと萌えた。本公は全部で5回観るんで、小さな声で萌えておく予定(笑)。

 しかし新公は、ものすげー萌えた。
 声を大にして言いたい。

 美貌の冷徹悪役伯爵と、その片腕の美丈夫萌え!!

 わっちゃー、やってくれましたよ、七帆ひかる!! なんなの、なんなのよ、その美貌はっ!!
 美しいのなんのって。
 ルーナ伯爵が出てくるたびに釘付けですよ。

 七帆くんはもともと表情に乏しいから、クールな役をやるとさらに足りなくならないかしら、なんて危惧をぶっ飛ばしてくれた。

 美しい。

 表情が乏しいとか足りないとかまで、気が回らない。
 その美貌を眺めるだけで幸福。
 なにしろクールな役ですから。無表情が映える映える。

 そして、確実な歌唱力。
 安心して観てられた。

 
 その美しすぎる伯爵の横には、ダンディヒゲの大男@十輝いりす!!

 伯爵の片腕ですよ。
 伯爵を敬愛し、絶対服従ですよ。
 伯爵の父親に仕えていた、親子ほども年の違うNo.2ですよ。

 美しすぎる七帆の命令に黙々と従う、巨大なダンディいりす!!

 なんなの、このキャスティング。この並び。

 どこのBL?! てな出来過ぎ設定なんですけどっ。

 七と十が並んでるだけで、血圧が上がったわ。

 いりすが新公主役できなかったことを、とてもとても惜しんでいる。
 たしかに歌はアレだが、なにより彼には、華と美貌がある。
 てっきり彼も一度は新公主役できると思っていたよ。トップになれるかどうかは微妙だろうけど、ここですっぱり脇にするには惜しいキャラだから。

 なのに、最後の新公も主役は取れず。
 いりすよりはるかに地味な七帆が2回も主役したのにね。タカラヅカってやっぱわかんないなー。そりゃ歌唱力は比べるまでもないけどさー。いや、わたしは七帆くん好きだから、彼が主役してくれたのはうれしいのだけど。
 ここまで完璧にいりすが路線外確定なのが、予想外だったの。

 ……とまあ、人事に対して首をかしげていたりはしたけども。

 それを置いといて。

 七十萌え。

 よくぞよくぞ、このふたりをこの役で並べてくれましたっ。
 萌えがあると、一気にたのしくなるんだよ、この重すぎる芝居も。

 ……どっちが受かは、悩むところですが……。

 
 腐女子語りはこのへんにして。

 主役マンリーコ@和くんは、納得の美しさでした。
 ただ、歌はものすごかった(笑)。最初のウチは手に汗握ったわ。でも、物語が進むと気にならなくなる。
 2500人劇場ではもったい顔だよなあ。生で観るより、オペラグラスでアップで見た方がきれいなんだもの。それって、いいことなのかどうか……。

 ヒロインのレオノーラ@まちゃみは、……あ、あれ?
 わたし、今回の配役ものすげー期待してたのね。『Le Petit Jardin』でまちゃみの美しさに感動したんで、さぞや美しいレオノーラを見られるだろうと。
 変だな……なんでだろう……あんましきれいぢゃない……。
 他は手堅く及第点だと思うんだけど。見た目のあか抜けなさはなんなんだろう。ヒロイン度が低かった。

 アズチューナ@たっちんは、お見事。ひとり桁違いの歌唱力。
 『Le Petit Jardin』のときも感じたけど、ほんとに歌が饒舌だよね。歌っているときがいちばん情感豊か。
 だからこそ、ふつーに喋っているときと、歌っているときの差に違和感がある。
 ふつーの演技部分が、歌唱力のレベルにまで達していないよーな? 喋っているときはふつーなのに、歌になるとものすごい、てのは。
 もちろん演技もふつうに新公の中ではうまいと思うから、歌がうますぎてバランス崩してるのかなー。
 ミュージカルとして、ふつうの喋りが盛り上がって歌になる、というなめらかさがなかった気がして、あちこち気になった。とにかく歌の力が前面に出過ぎていて。
 演技はこれからもっとうまくなるんだろうから、今はこれでいいんだよね。

 パリア@ちぎくんは、いい加減タニちゃんの役から卒業させてやってほしい……。持ち味がかぶるだけに、えんえんタニちゃんの役だと彼の成長を遅くさせてしまうんじゃないかと、老婆心。
 タニちゃんのコピーには見えなかった。でもなんか、印象がかぶる。新公だから、というより、キャラの方向性ゆえか。

 
 ああそしてそして、なんといっても暁郷!!

 たのしみにしてましたよ。
 なんの役やるのか、そもそも役があるのかも知らずにいたんだけどさ。

 冒頭の「20年前」の昔話のシーンで、いきなり歌い出すから、びっくりした。
 ソロのある家臣役だったのね。

 うわ、あたし、GOの歌声、はじめて聴いた。

 文化祭で聴いてるはずだが、すでに記憶にないし(笑)。

 最初の第1音だけ、やけに大きくなかった?
 声でかすぎて、マイクしぼられた?(笑)

 ふつーにうまかったよね? ね? わたしの欲目じゃないよね?

 あとは立ち位置も微妙で、大体本公とどうチガウの?ってくらい後ろにばっかいるんだけど、人数少ない分よく見える。
 濃い。誰が見ていようといまいと関係なく、めちゃくちゃ濃い演技してる(笑)。

 いーなー。

 しかしGOよ。あの髪型はいったいなんなんだ? ブロッコリー? 洗い物用のスポンジ? なんとも愉快にカチッと固めていた(笑)。

 
 新公だけど、人数少ないけど、それでもアンサンブルが負けてないのがうれしい。
 みんな歌うまいなー。きれーだなー。がんばってるなー。

 
 最後の挨拶がまた、見物だった。
 なにしろマンリーコは大がかりなセットの上で幕が下りるので。
 終わったあとすぐには挨拶ができない。
 つーことで、まちゃみを長とする研7生が幕前に並んでまずご挨拶。そののち他の生徒たちも現れ、全員で主役の和くんを迎える、ということに。
 テーマ曲の「あ〜なたが生きている〜♪」の壮大な生演奏にのって幕が開き、巨大な翼だけになった舞台に、和くんがひとり立っている。

 トップスターよりすげえ演出だよ(笑)。

 これだけでも感動してしまった。

 
 あ、最後に。

 音乃いづみ、こわすぎ(笑)。

 すばらしい修道院長でした。『ステラマリス』に続いて、またしてもこんなものすげー役……。


 ずーっと大嫌いだった、酒井澄夫。
 『浅茅が宿』も『砂漠の黒薔薇』も、そしてもちろん『花舞う長安』も許してないけど、わたしの中の「酒井嫌い度」が少し変化した。

 お願いです、酒井先生。一生、ショーだけ作っていてください。

 二度と芝居は書かないで。

 酒井せんせの芝居は、胸を張って大嫌いだと全世界に宣言できるけど、『エンター・ザ・レビュー』は好き。

 博多座で痛感した。

 そのかの猛獣使いを見られただけでも、このショーを好きだと言える。言っちゃう!

 ムラ・大劇であすかちゃんの生尻ばかりを見ていたこのシーンで、ぷりぷりの若い娘たちの生尻に、一切目がいかなかった。

 そのかだけを見ていた。

 釘付け。
 あまりに……あまりに、かっこよくて。

 美しくて。

 そのか演じる猛獣使いが凶悪なのは、そこに愛がないことだと思う。

 ムラ・東宝版での猛獣使い@樹里ちゃんと耳+半ケツ+しっぽの獣ちゃん@あすかには、愛があった。
 恋人同士がじゃれているようにも見えた。
 だから、獣ちゃんたちの衣装がセクシーすぎても、振付がヤバすぎても、「タカラヅカ」な美しさとロマンがあった。

 しかし、博多座版の猛獣使い@そのかには、愛がない。
 主に絡むのは年増獣(すまん)@としこさんなんだが、ふたりの間に愛は見えないのよ。

 だから猛獣使いは真の意味で「猛獣使い」として、獣たちを支配しているの。

 地面に転がる獣に覆い被さるとき、いったん空中で両足をそろえる、その高さと美しさ。そして。
 獣の手首と首筋に噛みつく仕草に、ぞくぞくした。
 迷わず急所を襲うか。どちらも鮮血の吹き出す箇所。

 次に立ち上がって踊りながら、口元を拭う姿。悪魔的な微笑。

 
 初日に観たとき、なんだか涙が出てね。そのかが美しすぎて、マジ泣きした。
 泣いたら視界がボヤけちゃうから、必死になって凝視していたんだけど。

 ああ……会えてよかったよ、美しいそのか。
 野性的でサディスティックで、百獣の王で。
 鞭の響きに心震える。
 こんなにすばらしいものを観ることが出来て、心からしあわせだ。

 21日の夜公演は、はじめてストレートのカツラを見た。
 うおーっ。
 黒髪ロング・ストレート。さらさらヘア。
 後ろでひとつに束ねているので、アリ@マラケシュみたいにも見える。鞭をふるうアリ……女たちを転がし、征服し、蹂躙するアリ……ハァハァ。

 束ねないで、なびかせてくれてもよかったのになー。
 踊りにくいだろうけど。

 
 と、こんなふーにそのかにめろめろだったとゆーに。

「ロケットのときが、いちばんたのしそうでしたね」

 と、隣で観劇していたkineさんに言われちゃったよ(笑)。

 ええ、ひな鳥たちのロケット。

 愛するまっつが、兄鳥をやっておるのですよ!

 わたしは、大人が演じるわざとらしい子ども、が好きじゃありません。いい大人が、「みなちゅあん、よういはいいでちゅかぁ?」的な喋りをしているのを見ると、鳥肌が立つ。
 『タカラヅカ絢爛』で大人の男たちがとんでもねー服を着せられ、幼児を演じていたのは見るに耐えなかった。
 東宝版『エンレビ』で、男らしいヘラクレス兄貴が、幼児喋りで兄鳥をやっているのも、見ていてつらかった。寒かった。

 ああ、なのに。

 まっつがわざとらしい幼児を演じているのは、ぜんぜんOKなんですよ!!

 似合ってるなんて思ってません。
 まっつの芸風に1mmたりともかすってない、持ち味と正反対の役。まっつのことを知っているなら、好意があるなら、絶対にやらせないだろう役。

 そんな役を、まっつはけなげに精一杯演じているのです。

 その姿が、萌え。

 幼児のよーな振付で、ひたすらかわいらしくぴーちくぱーちく踊るのよ?
 あの、まっつが。

 泣きそうな顔で、必死にかわいこぶってるの。

 ああもうっ、なんて痛々しいの。
 見るに耐えない、というか、見ていてむず痒くなるというか。

 似合わなさすぎて、そして、そのいちばん似合わないことをわざわざやらされているまっつが、すげーまっつらしくて笑えて笑えてしょーがない。

 文化祭で無理矢理女装させられた男子が、内心トホホなのに、懸命に笑ってシャレにしてしまおーとしているよーな、いたたまれなさというか。
 泣き顔のよーな笑顔が、素敵に不幸くさくて、さらにいぢめたくなるというか。

 ああ、まっつ大好き。
 君ほど不幸の似合う男もいない。

 
 寒いと言えば、ゆみこちゃんも大変なことになっていた。
 芝居は見事に「レオン」として息づいていたけど、ショーのコメディアンは見事に空回っていた。

 えーと、わたし、初日から楽まで全部で6回観たのかな。
 アドリブがサムくないことは、ただの一度もありませんでした。

 ここまでギャグができない人も、ある意味すごい。
 そして、ここまでできない人に、この役をやらせることも、ある意味すごい。

 やっぱ酒井せんせ、なにも考えてないのかな……。

 ゆみこちゃんは好きだし、他のシーンはすばらしかったけど、なんつってもコメディアンはなー……できないならはじめからアドリブはやめときゃいいのに、と思ってしまったよ……(笑)。

 
 ところで、娘役トップスター・スミレちゃん@オサ様のカツラはいくつあるんですか?
 ムラ・東宝では3つだけかと思ってたんだけど。
 博多に来て、さらに種類増えてますがな……。なにやってんだ、オサ様。そんなにうれしかったのか……うれしかったんだろーな。

 ムラ・東宝では紳士@ゆみことラヴラヴしまくり、目眩もののバカップルぶりを繰り広げていたスミレちゃんだが、博多ではひとりで暴走していた。紳士@みわっちじゃお気に召さないらしい。……てゆーか、目にも入ってない感じ。
 とにかくたのしそーでたのしそーで……そのオカマ美女っぷりは相当微妙なんだが、あのノリノリの笑顔に、こちらまで癒されてしまう。
 ご機嫌な寿美礼ちゃん好き。あなたはいつも笑っていて。ずっとしあわせでいて。

 顔だけでなく、魂までくしゃくしゃにしているかのよーな、ノリノリで絶唱するオサ様を見て、この人がいなくなったら、あたしはどうしたらいいんだろう。と、不意に不安になった。
 奈落へオトされたよーな、唐突な不安。

 や、だってわたし、オサ様がいちばんのご贔屓じゃないはずなのに。

 なのに、ふと、恐怖した。
 この人がいなくなったら、と。

 どうしよう。
 やだやだやだ。やだよ。
 どこにも行かないで。

 と、突然情緒不安定に。……やーねぇ。

 
 泣いたり笑ったり、大忙しだよ、博多『エンレビ』。


 気になったのは、リュドヴィークとクリフォードの相似性。

 寿美礼ちゃんとまっつが似ているのは、周知の事実。ただの現実。
 似た顔のふたりが同じ舞台に立っているからと言って、そこに意味なんかない。
 ふつうは。

 しかし、『マラケシュ・紅の墓標』博多座版においては、意味があるんではないかと考えてしまう。

 ムラ・東宝でまっつが演じていたウラジミールと、今回のクリフォードではまったく役の立ち位置がチガウからだ。(わたしは、ウラジミール役も『リュドヴィークと顔が似ている』ことに意味があると思っているけど)

 クリフォードは、「砂漠の薔薇」を通してリュドヴィークと向き合う、「光と影」「裏と表」の存在だからだ。

 鏡の内と外のような。
 どちらが実像で、どちらが鏡像なのかはわからない。

 博多座版では、それを強調する演出がされている。
 やたら長くなったプロローグで、砂漠で遭難したクリフォードがオリガへの想いをご丁寧に説明し、歌を歌ったあとセリ下がる。
 そのセリ下がりと呼応して、真反対のセリからリュドヴィークが上がってくる。
 ひとりの男が消えていき、同じ顔をした男が現れる。

 植爺お得意の「子役から本役へ変身」のシーンみたいに。
 役者はちがうけど、同一人物だとわかるでしょ的演出。

 クリフォードとリュドヴィークは別人だけど、同じテーマを担っているキャラクタとして、こーゆー演出なのかと思った。

 最後の「砂漠の薔薇」を手渡すシーンなんか。

 向かい合うふたりがあまりによく似ていて、美しいけれど不安になる。

 
 わたしは博多座のオリガを見て、「リュドヴィークの影」だと思った。
 リュドヴィークが今まで見ないふりをして封じ込めていた、真実を語るもうひとりのリュドヴィーク。
 スカーレットに対するスカーレット2のような。

 だからこそ、リュドに対するクリフォードの意味がちがってくる。

 オリガがリュドの心を反響するエコーであり、オリガを救うことができるのがクリフォードならば。

 リュドヴィークを救うことができたのは、クリフォードなんじゃないのか?

 もしも、あのパリでクリフォードが出会っていたのがオリガではなく、リュドヴィークだったら。
 クリフォードは、リュドを救おうとしただろう。
 現在、オリガを救いきれなくて砂漠を彷徨うことになっているように、リュドのことも完全に救えないとしても。
 彼はノマドではない。この世の人間、この迷い多き俗世の人間だ。悩みながら、まちがいながら、それでも自分の手で、愛する者をしあわせにしようとあがきつづける。
 旅の果てにデザートローズを見つけて帰ったように、彼はきっとリュドヴィークにも幸福を差し出すことができるだろう。

 
 リュドとクリフォードが「似ている」と、もうひとつ説明できることがある。

 夫クリフォードを愛しているのかわからない、そう言って迷う人妻オリガ。
 彼女が夫を捨て「過去の傷」に向かって進もうとしたきっかけとなる男リュドヴィークが、夫にそっくりだというのは、ものすげー重い意味が加わるだろう。

 やさしいだけの夫に似た姿の、危険な香りのする色男。
 無意識に夫に対して抱いている不安や不満を、全部解消してくれる男だ。
 そりゃ惹かれるって。

 そして最終的に、夫を選ぶ。
 夫に似た男に惹かれた、ということは、もともと夫を愛していたんだ。

 だってオリガとクリフォードは出会いが悪い。
 泣いているオリガに、クリフォードが手を差しのべた、ってそんな。
 ただの同情? とか思っちゃうじゃん。なまじクリフォードはやさしすぎる男だし。
 オリガは恋愛で手酷い失敗をして臆病になってるから、信じられない。ほんとうにこれが愛なのか。

 相愛なのに、相手の愛が信じられない。自分の愛がわからない。

 作中で、オリガは「自分の気持ちがわからない」と繰り返すが、「夫の気持ち」に関してはなにも言及してないんだよね。それって、すごい不自然。
 自分の気持ちがどうこう言って気取ってるけど、いちばんわからなくて不安だったのは夫の気持ちなんじゃないの?

 博多座版では、わざわざクリフォードがオリガに「夫婦関係への疑問」を突きつけていることだし。
 このままじゃ離婚? とも取れる文面の葉書を残して夫は生死不明。それでマラケシュ行きを決意する博多座版は、「夫婦の危機」にあわてたようにも見える。
 それってつまり、オリガはもともとクリフォードを愛していたんじゃないの?
 「相手に愛されていない」より、「自分が愛しているかどうかわからない」方が、自分が楽だから、そう思い込んで。

 オリガにとってのマラケシュの旅は、そーゆー自分のずるさや弱さを越える旅。

 夫に似た、夫よりも魅力的な男と出会い、最終的に夫にたどりつくことで、「恋愛ドラマのヒロインとして見たオリガの物語」はきれいに答えが出るよ。
 青い鳥は家にいました。彼女がほんとうに求めていたものは、彼女のそばにありました。

 過去の恋の傷のせいで、自分から誰かを愛することに臆病だった女が、夫とやり直す物語。

 生身の女オリガとして考えれば、ソレもありかと。

 
 生身の彼女がどうあれ、リュドヴィークにとってはオリガは実体のない女。顔のない女。
 だって彼ははじめから、オリガ自身にはなんの興味もない。
 リュドがオリガに興味を持つのは、パリの傷の話から。

 オリガがリュドの影であり、もうひとりのリュドヴィークなら。
 そして、そのオリガがクリフォードによって救われたなら。

 リュドヴィークも、救われていると思うんだ。

 デザートローズをクリフォードに渡すことによって。

 だからこそ、ふたりの男が向かい合うあの一瞬は、あんなにも美しいのではないかと。

 
 てゆーか。
 距離が近すぎないか? この、リュドとクリフォードの手を握り合う……ぢゃねえ、薔薇を手渡すシーン。

 このままラヴシーン突入かと思っちゃったよ。

 まっつがたよりなげに少し首を動かしてリュドを見るのがまた、ポイント。
 あっ、クリフォードじゃなくまっつって言っちゃった。いかんいかん。でも訂正しない。

 デザートローズを手にしたクリフォードは、顔が変わる。

 頼りなげではかなげで、「受」とおでこに書かれていたよーな男は、意志を持った力強い表情になる。
 そう、おでこの文字が「男」に変わるのよ(笑)。
 俺は男だ、妻にだって四の五言わせないぜ。そうやってちょっと強引に抱きしめて、「この瞬間からはじめるんだ。そうしてくれ」と言っちゃったりするんだ。
 夫のやさしすぎるところが不安で、ちょいとワルなリュドにフラつきもしたオリガは、男らしくなったクリフォードに胸きゅん、惚れ直してハッピーエンド。

 ……なんてね。


 金の薔薇、石の薔薇、そして紅い薔薇。
 薔薇にはいろいろあるけれど♪

 ギュンターが愛したのは、紅い薔薇。

 ムラ・東宝版のギュンターは知りません。
 オリガがわからなかったように、ギュンターもわからなかったので、考えないことにしてます。どーもらんとむギュンギュンには、お笑いの風が吹いていて……『エンレビ』のアレキンだっけ、昭和時代のアイドルみたいな美形キャラ、アレと同じ胡散臭さを感じてしまって、思考停止しちゃうのよ。
 らんとむくんへの好意とは、別もんですのよ。彼のギュンターがわからなかったこととは。

 だから、わたしが語るのは博多座『マラケシュ・紅の墓標』のギュンター。

 オープニングで紅い薔薇を手にし、導入歌を歌う男。

 オープニングのまがまがしさは、ものすごい。

 彼が出てきた瞬間から、世界はすでにトップテンション、深紅の街がわたしたちに両手を広げている。

 プロローグからすでにイッちゃってるギュンターは、愛しげに紅い薔薇を愛でる。

 彼は美術鑑定家。愛好家でもある。
 数年前、彼はパリですばらしい美術品に出会った。ロシア貴族ワレンコフ家の財宝、黄金の薔薇。
 人間の手で作られた、至宝。
 誰よりも美を愛するギュンターは、そのすばらしさを誰よりも理解していた。誰よりも深く魅せられていた。
 美術品を愛し、その価値を鑑定する。それがギュンターという男の基本スキル。
 だった、のに。

 その金の薔薇をめぐって、事件が起きた。

 人気女優の手に渡った金の薔薇、女優をめぐる三角関係、そして、男がひとり死んだ。

 死んだのは、ギュンターに金の薔薇の存在を教えた男。
 ギュンターをこの場に導き、勝手に舞台から降りた。

 ギュンターは美術鑑定家であり、愛好家。
 誰よりも「美」を愛し、理解する男。

 何故ならば彼自身、とても美しいから。
 「美」を愛し、「美」に愛されるに相応しい。

 その美しい彼の手が、汚れた。
 彼の目の前で死んだ男のせいで。

 血に、汚れた。

 手のひらを汚した、紅。

 そのときから、ギュンターは変わる。
 もう、美術鑑定家ではない。汚れてしまった彼は、「美」を量れない。愛せない。「美」から愛される資格がない。

 彼は薔薇を追う。

 金の薔薇を持った女優イヴェット。
「よっぽど貴女のことが好きなのね」
 と、イヴェットの付き人は言う。突き放した言葉。

 金の薔薇・イヴェット。
 チガウ。
 もう彼はそんなものを求めていない。

 彼が求めているモノは。

 
 はい。
 博多座ギュンターが求めているモノは。

 リュドヴィークだよね(笑)。

 イヴェットのことは、なんとも思ってない。
 彼女になにか執着があるなら、いつでも行動に移せたはずだ。
 金の薔薇のことも、もう口実でしかない。
 場所と持ち主がわかっているんだから、どうにでもなる。なのにしない。

 このことから、ギュンターがストーカーに身を落としてまでも求めていたモノがなにかわかるよね。

 イヴェットにくっついていれば、リュドヴィークに会えると思ってたんだ。

 もう一度、彼に会いたい。
 その想いだけで何年も。

 妄執が募り、半分この世のモノでなくなった姿で彷徨いつつ(プロローグの姿)。

 ギュンター、女キライだしなー。
 マラケシュでかわいこちゃんにコナかけられても、すげー拒絶っぷり。「汚らわしいっ!」って感じで突き放す。
 そーだよなー、君が愛してるのはリュドヴィークひとりだもんなー。女なんかケガラワシイよなー。

 あの事件で、汚されたのは「金の薔薇」じゃない。
 ギュンター自身だ。

 汚された身体。汚された心。

「僕だ。僕がヤった。いいね。僕がヤッたんだ」

 そして呪文が、彼の耳に降り注ぐ。

 −−私を汚したのは、あの男。

 彼は、薔薇を追う。

 ギュンターの愛している薔薇って、リュドヴィークのことだよね。

 汚されたんだから、責任取ってもらわなきゃ! てことで。

 イヴェットを追ってマラケシュまでやって来たギュンターは、ついにリュドヴィークを見つける。
 パリの回想シーンのあと、ギュンターはお散歩中のリュドとオリガを目撃するんだ。

 ところどころで「この世のモノではない狂言回し」だったはずのギュンターは、リュドヴィークを見つけて、「確実にこの世にいる、ただの狂人」に立ち戻る。
 リュドがギュンターを変える。

 リュドヴィークを見つけたのだから、もうイヴェットに用はない。
 ギュンターはイヴェットを追いつめ、自殺させる。彼女が持っている金の薔薇なんか、一顧だにしない。

 そして、ようやく想いを遂げるんだ。

 ギュンターを壊した、紅い血。
 彼が欲しかったのは、リュドヴィークの血。
 リュドを刺し、リュドの血に汚れた刃物で、刺し殺される。リュドヴィークの手で。

 彼の身体の中で、汚れてしまった彼の身体のなかで、ふたりの血が混ざり合う。

 究極の性交。
 混ざり合う紅い体液。

 
 う・わー。ハッピーエンドだぁあ。

 しかも、エロシーンENDですよ。
 ギュンターにとってのオーガズムはSEXではなく、リュドヴィークに貫かれる一瞬だったのだから。

 迷惑な話だけどな、リュドヴィークにとっちゃ。

 暗黒の大地に咲く紅い薔薇、ギュンター。
 君は薔薇より美しい。

 ギュンターにとっての薔薇は彼自身であり、彼を滅ぼすリュドヴィークでもあった。

 ああ、薔薇薔薇薔薇。


 前日欄からの続き。

『オリガ。この機会に僕は、僕たち夫婦について考えてみようと思う。パリで君に出会って、瞬く間に僕たちは結ばれたけれど、決してそれが君の本意ではないような気が、ずっと僕の心にわだかまって……』

 彼女に葉書を出した。
 遠い遠い異国の地から。
 答えに辿り着かない文面。投函することで、必ず答えを出さなければならなくなるのだと、自分を追い込むのが目的だった。

 あんな葉書を受け取って、彼女はどう思うだろう。混乱するだろうか。傷つくだろうか。
 それとも、僕の言葉は素通りしてしまうのだろうか。彼女の胸を。

 答えを出すために、そしてそれを彼女に伝えるために、なにがあっても生きて帰らなければならない。
 仕事で訪れた砂漠で遭難し、ベドウィンに助けられ九死に一生を得た。
 僕は、帰らなければならない。彼女の元へ。……その想いだけで、生き抜いたようなものだ。

 明日になれば人間の住む街に着く……ベドウィンたちのテントで過ごす最後の夜に、なつかしい人に会った。

 何故その人を見てなつかしいと思ったのかはわからない。

 僕を助けてくれたベドウィンの部族全員の顔を覚えていたわけじゃなかったけれど、その人に会うのはその夜がはじめてだった。
 ベルベル人のキャラバンにいながら、その人だけは白人だった。他の者と間違えるはずもない。

「どうしました、そんなに見つめて」
 その人は薄く笑った。たぶん僕より少し年上。笑いじわのある目尻。穏やかな表情。……たくさん微笑んで生きてきた人だろうか。
「すみません。なんだか、なつかしい気がして」
「ああ……そうだな。これは『なつかしい』という感情か、たしかに」
「どこかでお会いしましたか。パリで?」
 彼の話すフランス語に覚えがある気がした。
「いや。私たちが会ったとしたら、たぶん鏡の中ででしょう」
「鏡の中?」
 僕は改めて、目の前の人を見つめた。
 民族衣装のベルベル人たちとちがい、ヨーロッパ人らしくスーツを着たその人は軽く両手を広げて見せた。
 星降る砂漠で向かい合う僕たちは、たしかによく似ていた。
 まるで、鏡を挟んでいるように。

「そうか……僕自身と会っているから、なつかしいんだ」

 僕のつぶやきに、彼は「さてね」とだけ返した。
 それ以上は口を開くことなく、持っていたなにかを僕に差し出した。
 意味がわからないまま、それを受け取る。
 彼の指が僕の手に触れたとき、なにかを思い出した気がした。
 その指を、知っている気がした。冷たい肌、冷たい唇……その奥の、熱い吐息。
 僕が救うことのできなかった人。あの人。
 雨の夜、瞳を潤ませていた……誰でもいいからとぬくもりを求めていた、あの……。

 彼は背を向け、歩き出していた。
 夜の中に。
 街灯の光るパリの夜ではなく、星降る砂漠の夜に。

 ここでは、雨は降らない。
 魂を閉じこめてしまうような、あんな雨は。

「傘は……必要ない、ですね……」

 実像と鏡像、裏と表、なつかしい僕。
 瞳が潤んでいたのも、傘が必要だったのも、誰かのぬくもりが、救いが必要だったのも。
 あの人ではなく、僕自身だったのだろうか。

 僕はその背を見送り、改めて手の中のものを見た。彼が、僕に託したものを見た。

 それは、美しくも奇妙なものだった。

「砂漠に咲く、石の花」
 いつからそこにいたのか、ベドウィンの少女がひとり僕の手の中のものをのぞき込んでいた。彼女はそれだけ口にすると、テントの中に消えてしまった。一瞬だけ、意味ありげに僕を振り返って。

 薔薇のように見える、それは拳大の石だった。

 石の薔薇は、僕の手に馴染んでいた。最初からずっと、そこにあったように。

          ☆

 はなはなさーん、お約束の品、UPしました。
 21日深夜、帰宅するなり書き殴っていたSSでおま(笑)。


 雨の夜だった。
 足早に歩いていたはずの僕は、何故か立ち止まっていた。
 すれちがった見知らぬ人を、追うように振り返っていた。
 濡れた石畳は闇色の鏡。降り続く小さな雨粒が鏡をゆらし、世界は歪んで映る。
 街灯の金色の光をにじませて、その人は闇色の鏡の上を歩いていた。
 何故立ち止まってしまったのか。何故振り返ってしまったのか。−−答えはわかっている。

 すれちがったその人の瞳が、潤んでいたからだ。

 頬が濡れているのは雨粒だろうか、それとも。
 年齢は僕より少し上か。頼りなげに肩を落として去っていく後ろ姿に、思わず声をかけていた。
「あの、すみません」
 その人は振り返ってくれない。聞こえていないようだ。僕の声も、この世のなにも。
「あの」
 僕は小走りにその人に追いつき、懸命に話しかけた。
 その人が、僕を見た。身長は同じくらい。いや、僕の方が少し低いくらいかもしれない。
「すみません。傘を持っていなくて」
 僕はその人の瞳を見つめて言った。
「え?」
 僕を映した濡れた瞳が、虚をつかれたように瞬いた。
「すみません。僕も、傘を持っていないんです」
 その人はしっとりと濡れていた。髪も、頬も、着ている服も。金色に浮かび上がって見えたのは、濡れているせいだろう。
 雨の中で、傘を持たない僕たちは向かい合っていた。
「傘を持っていたら、あなたにさしあげることができたのに。口惜しいです」
 はじめて会うその人は、不思議になつかしい気がした。何故今、僕は傘を持たないのだろう。傘があれば、このなつかしい人に差し掛けてあげられるのに。
 この冷たいしずくから、世界から、守ってあげられるのに。
 何故そんなことを思うのか、そもそも何故、こんな見知らぬ人を追いかけてわけのわからないことを口走っているのか。自分でもさっぱりわからない。
 ただ、この人の潤んだ瞳を見ていると、黙って通り過ぎることができなかった。
「そうだ。せめて、これを」
 思いついて、僕は自分の上着に手をかけた。僕はきちんとスーツを着込んでいるが、その人は薄手のシャツにベストを着ただけだった。シャツは雨の重さですっかり肌に貼り付き、華奢な肩の線を顕わにしている。
 僕の服は、出入りの職人に仕立てさせた生地にも縫製にもこだわりぬいた品だ。少なくとも、その人の身につけている薄いシャツより雨に強いだろう。この服なら、傘のかわりになるだろうか。
 上着を脱ぎかけた僕に、その人は薄い笑みを見せた。
 溜息のような、寂しい笑顔だった。
 やさしく首を振るのは、上着は要らないということか。そうだよな、突然呼び止めて、おかしなことを言って。迷惑がられて当然だ。
「傘は要らない。上着も。……そんなものより」
 その人は、僕を見つめていた。静かでかなしい瞳だった。そこに映っている僕もまた、かなしい顔をしていた。
「そんなものより……抱きしめて」
 その人の瞳に、涙が盛り上がり、こぼれて落ちた。
 頬を転がり、抗いがたい力に引かれ、星粒のような光は地面に消えた。濡れた石畳に落ちて、雨とひとつになった。
 僕もまた、抗いがたい力に引かれ、動いていた。
 その人を、抱きしめていた。
 その人の涙と雨粒がひとつになるように、僕とその人も溶けてひとつになればいいと思った。

 誰でも良かったのだと思う。
 その人にとって。
 見知らぬ誰かの差し出す手を待っていただけだ。僕である必要はなかった。

 僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
 僕は、その人を守りたかった。その人を傷つけているすべてから。
 雨の日の傘のように。
 でも僕には傘がなく、不器用に抱きしめることしかできなかった。
 僕は、その人を救うことができなかった。

 その人への想いがなんだったのかはわからない。

 ただ、惹かれた。
 雨の夜にすれちがった。その人の涙を見た。追いかけて、振り向かせて、そして。

 そして、抱きしめた。
 冷たい身体を暖めたくて、濡れた服の奥を探った。肌も唇も冷たくて、そのくせその奥にある舌や吐息は熱かった。魂も熱いのだろうか。それとも、傷ゆえに熱を持っているだけか。

 僕はたぶん、傷ついたのだと思う。
 その人を救えなかった自分に。

 誰でもいいからとすがりついてきた、その絶望を癒すことのできない自分に。

 その人は去ってしまった。
 でたらめに飛び込んだ一夜限りの宿で目を覚ましたとき、すでにその人の姿は消えていた。
 名前も聞かなかった。……聞かれなかった。

「すみません。傘を持っていなくて」
 残された寝台の上で、膝を抱えてつぶやいた。
 まだ雨が降り続いていた。朝だというのに、世界は暗かった。
 僕の涙は黒い石畳ではなく、白いシーツの上に落ちた。涙はなににも混ざることなく、ただ染みとなって広がった。

 それから僕は、雨の夜になると街を彷徨うようになった。
 もう一度あの人に出会いたくて。
 今度こそ、救いたくて。

 僕が彼女に会ったのは、そんなときだ。
 彼女もまた、雨の中を泣きながら歩いていた。

 僕はあの人を救えなかった。
 それでも。いや、それだからこそ。
 同じように石畳に涙を落とす彼女を、放っておけなかった。
 どうやったら彼女を救えるのかだけを考えた。

 彼女は、僕の妻となった。
 僕たちは祝福されて結ばれた。
 今度こそ僕は、大切な人を救うことができたのだ。

 そう思っていた。

 それが僕の思い上がりではないかと気づいたのは、何年も経ってからだ。
 いや、はじめから見ないふりをしていただけかもしれない。
 彼女をあの人のように失ってしまうことがこわかった。
 己れの無力さゆえに。

 もう、顔を思い出すこともできないあの人。
 頬の涙と雨、すがりついてきた細い腕……そんな断片だけが不意に甦り、僕を息苦しくさせる。


 半端にもう少しだけ続く。


「きれいだわ」
「でしょう? だから、高く売れる。本当の値段以上にね。みんな、騙される」

 えー、これらの台詞ですが。
 リュドヴィークとオリガが話しているのは、砂漠の薔薇、デザートローズのことです。

 リュドヴィークにとって、デザートローズは売り物。そして、リュドヴィークの商売って、デザートローズを売ることだけじゃないよね? 上流階級のおばさま方のお相手も、彼の仕事のうちよね。でもって、デザートローズを売りつける相手だってたぶん、上流階級のおばさま方よね。
 つまり、デザートローズを売ることと、リュドヴィーク自身を売ることは、イコールだよね(笑)。

 ちらりとお話しした見知らぬオサファンが熱っぽく語っていた。
「リュドは、オリガにはデザートローズを売りたくないのよ。だから、オリガが欲しがっているのに、絶対に触らせないの」
 た、たしかに。手渡して、もっとよく見せてあげればいいのに、絶対渡さないなあ。

 デザートローズとは、リュド自身のこと。
 デザートローズを売るというのは、リュドを売る相手のこと。

 あー、そう考えると素敵ですね。

「きれいだわ」
「でしょう? だから、高く売れる。本当の値段以上にね。みんな、騙される」

 全部全部、リュドヴィークのこと。

「それが、わたしの商売。有り体に言えば、男娼です」

 砂漠の薔薇、リュドヴィーク。
 君は薔薇より美しい。

 
 えー、日付は千秋楽の日ですが、まだ2回目の博多遠征の話です。
 20日、21日のことね。
 順を追って書いていかないと、破綻するんだもん。
 
 
 21日にわたし、オサ様の「福岡限定四つ切り写真」を買ってしまいましたよ。

 デザートローズを手にしたリュドヴィークの写真。サインとメッセージ入り。
 ヅカファン歴長いけど、四つ切りに手を出したのははじめてだよ。やっぱ特別なんだよなあ、リュドヴィークは。デザートローズと、それについてのメッセージがなければ、たぶん買ってない。

 この写真、とても売れ行きがいいようで。
 初日に来たときは、そんなものは売っていない。初日に撮った写真だろうから、商品として販売されるのはそれよりあと。
 そしてわたしは20日ぶりに博多へやってきて、だけど来るのは2回目だから売店はのぞかない。
 おかげで、2日間連続で劇場にいたのに、そんな写真があると気づいたのは2日目になってから。
 どーしよー、買おうかな、でも四つ切りなんて高いだけでどーしろと? と迷っている数分の間に。

 売り切れた。

 わたしの目の前で、飾ってあった見本がはずされた。店員さんに聞いてみたが、見本は売れないのかな、それとも見本すら誰かが先に買ったのかな、売り切れとのこと。

 そうなると、俄然欲しくなるじゃないか。
「キャトレに行く!」
 と宣言したわたしは、昼公演と夜公演の間に、kineさんにつきあってもらって福岡キャトレを目指した。

 微妙に遠い福岡キャトレ。片道優に15分。

 せっかくたどりついたキャトレでも、目指す限定写真はなかった。
 いや、あった。
 店頭ではなく、カウンターの中に。
 店員さんが、その限定写真に住所カードをつけているところだった。

 店頭にはない、店員が住所の書かれたカードを1枚ずつ写真につけていっている、そりゃどう考えたって予約分や通販分しか在庫がないってことだ。
 わたしは血相変えて聞いたさ。
「コレが欲しいんですが、売ってもらえますか」
 指さしたオサ様限定写真には、すでに誰かの住所カードがそえられている。
 店員さんはあわてて写真の束を数え、他の店員さんに確認を取った上で「はい、お売りできます」と答えてくれた。

 マジ、数なかったんだ……。
 数えてみて、予約分しか残ってなかったら、断られてたんだ……。

 よろこんだわたしはつい、ついでにまっつとそのかの写真も買ってしまった。こっちはふつーの舞台写真サイズで、四つ切りじゃないけど。
 写真はキリがないから買わないようにしてたのに〜〜、買っちゃったよおお。

 でもいいんだっ。
 買った写真は全部秀逸だよ。
 そのかのかっこいいことったら!! えっ、ここでそのかかよ?!



 宙組新人公演の日。

 新公を観たあと、旅立ちます。
 三度、博多へ。

 
 21日を最後にするつもりだった。
 kineさんに用意してもらった超良席で観劇だったし、初日からあわせて4回も観ていればそれで納得するだろうと思っていた。

 千秋楽にはこだわらなかった。
 わたしは花担じゃないし。

 だけど。

 もうこれで『マラケシュ』とお別れなんだ。と思ったら、立てなくなるくらいの喪失感があった。

 どうしてお別れしなきゃならないんだ。
 まだ、公演はあるのに。

 わたしが『マラケシュ』を観ない理由ってなんだ?

 23日は宙組新公を観ると決まっている。生徒席だから絶対穴は開けられない。
 24日のチケットはない。興味がなかったから、nanakoさんがさばくのを手伝ったりしたくらいだ。

 でもそんなの、ただの言い訳だ。
 必要なら、ほんとうに必要なら、なんとでもするだろう。

 わたしがわたしとして生きるうえで、ほんとうに必要なら。
 得るはずだ。

 わたしには、『マラケシュ』が必要。
 だから、観に行く。

 最期まで。

 懸命に、スケジュールを考えていた。
 どうやったら、博多に行けるか。
 チケットなんか、行けばどーにでもなる。きっと。

 必要だから。

 行ってきます。

 我ながら、ものすげー強行軍。

 
 チケットを余らせている方、どうぞ劇場前でさばいてやってくださいませ。
 財布握りしめて行ってきます!!


 『マラケシュ・紅の墓標』において、オリガという女性はいちばん役目が変わったキャラクタだと思う。

 ムラのときは、「ヒロイン」だった。
 停滞した街マラケシュから、リュドヴィークを連れ出すことのできる存在。
 彼女の手を取ることで束の間夢を見ることができた……叶うはずのない夢を……とゆー、ある意味「運命の女神」。

 役割はわかった。しかし、わたしには演じているふーちゃんがその役割に届いていないように見えた。てゆーより、ちがっている、としか思えなかった。
 オリガの演技に違和感はあったが、それを激しく自覚したのは、1列目下手で観劇したときだ。

「あなたの中に、パリがあるからです。そっくり同じ、傷ついて、どうしようもなく動けなくなって……(略)」

 とゆー、オリガとリュドヴィークの語らいが目の前なんだ。あの広大な劇場で、このシーンがもっとも近い場所の席だ。

 間近で見て、わかった。
 わたし、このオリガって女、ダメだ。

 気持ち悪い。
 とゆーのが、いちばん率直な感想だった。

 女が見て、いちばん厭な女がそこにいた。
 「女」を武器にして男にしなだれかかる、あさましい女。
 対等な精神世界を築こうと、性差なく人間社会で生きようと努力する女たちの横で、なにかあるとすぐ「いや〜ん、こまっちゃったぁん♪」と男にしなだれかかる女。からだを押しつけ、男の生理を刺激することで世界を自分中心に回そうとする女。

「わたしたち、今、幻を抱きあっているんです」

 という台詞が、いちばん嫌いだった。

 抱きあってないから!!
 アンタが一方的に抱きついてるだけだから!!
 男は嫌がってるじゃないか。早くリュドヴィークから離れて! にまにま笑いながら肉体を武器にして、気持ち悪い女!

 この変に「女」を前面に出したいやらしい人妻が、ヒロイン「オリガ」というキャラクタなんだろうか。
 オリガというキャラの持つ「役割」は理解していたつもりだったけれど、現実のオリガの演技とはかけ離れて見えた。

 でもまあそれは、たんにわたしの好みの問題かもしれない。
 わたしが理解できないだけで、オリガはコレで正しいのかもしれない。

 わからないので、考えないことにした。

 
 東宝版でのオリガは、「ヒロイン」ではなくなっていた。
 びっくりした。
 ヒロインはイヴェットになっていた。
 オリガは準ヒロイン扱いで、リュドヴィークは一度も彼女を顧みなくなっていた。
 リュドの人生を支配する、「運命の女神」はイヴェットだった。

 だから、くだんのシーンもそれほど不快ではなくなった。
 リュドはパリ時代に本気でイヴェットを愛し、その傷を今も引きずっている。
 オリガは、そんな男に横恋慕する「2番目の女」でしかない。それなら「女」を武器にしていやらしくせまってもアリだ。
 というか。
 イヴェットの存在感に比べ、オリガはまったくもって影が薄くなっていたので、いやらしさも不快感もあまり感じなくなっていたんだ。

 
 そして、博多座。
 オリガは「2番目の女」ですらなくなっていた。

 おどろいた。

 オリガ、イヴェット、アマン、ソフィアがほぼ同じ扱いだった。
 リュドヴィークを愛した女たち、という括りで。

 ヒロイン不在かよ。
 すげえ。

 役替わりしたイヴェットがトーンダウンしているのは仕方ないし、アマンとソフィアは相手役が変わったりして比重が上がっていた。
 ムラから一貫して同じ役者が演じているオリガだけが、どんどん比重が下がっていく。
 これは最初から決まっていたことだったんだろうか。

 そして比重だけの問題ではなく、オリガの演技が変わっていた。

 この博多座で、わたしははじめて、オリガの声を聞いた気がする。

 ようやく、オリガと出会えた気がする。

 オリガから、メスのいやらしさがなくなっていた。
 彼女自身も空虚なものを抱えていて、それがリュドヴィークと響き合っているのだとわかった。

「あの日のパリに。もう戻らない」
『戻れない』
「パリという夢の名残に」
『だから、わたしたち、今、幻を抱きあっているんです』
「ただの、幻」
『でも、それだけでも。それだけが、わたしが欲しかったものなんです』

 オリガは、リュドヴィークの影だった。

 リュドヴィーク自身の、心の声。
 「ただの幻」とリュドが言えば、リュドの影は『でも、それだけが欲しかった』と続ける。

 リュドヴィーク自身の、彼自身が封じ込めていた、聞かないふりをしていた真実の声が、オリガの姿を借りて現実になった。

 このマラケシュで、リュドヴィークは自分自身に出会った。

 彼が強がって言うことを、影は全部ひとつひとつ、真実の言葉に直して返してくる。
「ただの、幻」
『でも、それだけでも。それだけが、わたしが欲しかったものなんです』
 それだけが。
 リュドヴィークの欲したもの。

 もちろん、オリガも傷を抱えた生身の人間なのだけど。
 リュドヴィークにとってのオリガは、現実を越えた存在だ。

 だからこそ、女の姿をした自分の影とひとつになる瞬間……キスの瞬間に、世界が変わるんだ。
 アマンの歌声が響き、ベドウィンたちが舞う。
 神が舞い降りるような、美しさ。
 なにかを越えた、現実のなにかから乖離した瞬間。

 オリガにとっても、リュドヴィークは幻であり、自分の影だったんだろう。

「たまらなく、淋しいんです。淋しくて、たまらない自分を思い出したんです」
『思い出したんではなく、ずっと、淋しかったんですよ』
「わたしが」
『あなたが』
「あなたが」
『わたしが』

 自分の真実の言葉を返す、かなしいエコー。

  
 オリガが正しくリュドの影として確立したからこそ。
 
 パリに行っては行けないんだ。

 パリへ行こう、というリュドヴィークに、「ダメだよ!」と強く思った。

 だって、オリガは幻の女だもの。生身の女ではなく、リュドの分身。リュドのエコー。
 そんな女とパリへ行くことは、まちがっている。

 たとえば、ヴァーチャルのキャラに恋しているみたいなもんだよ。
 PCの中の女の子は、望むことしか口にしない。勝手なことは考えないし、言わないし、彼が入力した通りの答えを繰り返し続ける。
 バーチャルの恋人だけを愛し、現実世界で生きることを拒否した人と同じだよ。

 パリに行けたらいいね。叶うといいね。……そんなかわいらしい展開じゃなかった。
 行っちゃダメだよ、リュドヴィーク。
 仮想現実だけを愛して、世界を閉じないで。

 だから彼が「パリへなんか、行けるわけがないじゃないか」と言ったときは、ほっとした。
 彼は心地いい「もうひとりの自分とのエデン」を捨てて、この迷い多き現実に戻ってきたんだ。

 自分で選んだんだよ。
 都合のいい自分のエコーと都合のいい世界で閉じこもるのではなく、理解できない他人と、汚れながら生きていくことの価値を。

 だから、ラストでリュドヴィークは生きていると思うの。

 ムラや東宝では、「生きてる方がなおつらいから萌え〜」って言ってたんだけど、今度はチガウ。

 自分の影と決別した限り、生きなければならないと思うの。それが、定住の地を持たずに彷徨うことであったとしても。

 『エヴァンゲリオン』のラストと似てるなー。

[…
 20日ぶりの『マラケシュ・紅の墓標』は、変化していた。
 初日のままだとは思っていない。むしろ、初日だけが特異なのだと思う。未完成というか、出たとこ勝負というか。
 だからこそわたしは、初日が好きなのだけど。「計算」や「慣れ」の出てくる前の、むきだしのモノがあるから。
 完成度で言えば中日以降に比べるべくもないけど、初日には「原点」があっておもしろい。

 初日で印象に残ったのは、オサ様の暴走ゆみこちゃんの自爆っぷりだ。

 東宝で火花を散らせるよーな演技空間を創っていたあすか。安心したよーにその身を預けていた樹里ちゃん。ふたりを失ったまま、リュドヴィークを演じるオサ様は、なんかもーどえらいことになっていた。
 誰も彼の世界にはいないのに、それでもひとりで演技しつづけていた。
 ついてこれない人のことはきっぱり置き去りにして。

 一方ゆみこは、いっぱいいっぱいだった。オサ様に置いてゆかれていることにも気づいてないんじゃないか、てな空回りぶり。努力が見える、手順が計算が、全部伝わってくる。観ているだけで手に汗握る緊張感。
 優等生ゆみこが、ここまでぼろぼろなのは、はじめて見た。

 おいおい、すげーことになってんなあ。
 と、大変興味深かった博多座版『マラケシュ』初日。

 それが今回、まったく別物になっていた。

 リュドヴィークはリラックスして呼吸しているし、レオンは純粋に別人だった。

 こうきたか、と感心したのは、レオンが少年だったこと。

 ここではないどこか、を求める少年。それは理屈ではなく、本能的なモノだ。身体の内側で暴れている飢えを満たすために、あがきつづける。
 少年だからこそ、痛い。彼の飢えが。絶望が。

 レオンが自分の世界で完結している理由も、これでわかる。彼が少年だからだ。思春期にはありがちなこと。
 もちろん少年といっても、年齢的には十分大人だろうよ。精神の話ね。
 ひとはいつか魂の中の「少年」を卒業して、大人になる。「少年」が消えてしまう人もいれば、封印する人、殺してしまう人、折り合いを付けて仲良く共に生きる人、と様々だ。
 でもなかには、自分の中の「少年」に殺されてしまう人もいる。大人になること、汚れること、賢くなること……そんなことを拒絶して、きれいなまま破滅してしまう人。
 「少年」であることは、絶望だ。
 壊れることが前提の、美しいもの。
 なくなることがわかっているなら、はじめからなければ楽なのに。
 「世界」と「少年」である自分との軋轢で崩壊する自我。
 レオンがかなしいのは、それゆえ。

 いやあ、すばらしいですよ。
 レオンの傷付いた瞳。
 自分がなにに苛立ち、なにに傷付いているかもわからない、いや、認めたくない若い獣の眼。壮絶に色っぽい眼で、手に入れ征服しつくした獲物……恋人のファティマをむさぼります。
 このレオンは大変素敵です。
 もういっぱいいっぱいでも、手順命でもない。ちゃんとレオンとしてそこに生きています。

 なにより美しいしな。

 今まででいちばん美しいゆみこちゃんがいます。
 すげー。
 やっぱゆみこって、傷ついた役をやると、美貌が輝くよなー。得難い持ち味だ。(のーてんきな役をやるとスベるという、両刃の持ち味でもあるが……)

 少年レオンに対するリュドヴィークもいい感じ。
 対等な相手ではないけれど、見下しているわけでもなく、年下の仲間としてちょっと引いた位置からかわいがっている感じ。
 カケラの愛情もなく殺伐としているより、ずっといいよ。
 かわいいもの、リュドもレオンも。

 コルベットとも打ち解けているし、初日に見た壮絶な孤独感が薄れ、リュドはそれなりに呼吸してマラケシュで生きているようだった。

 これはこれでいいんだけど。
 てゆーか、明らかに初日よりよくなってるんだけど。

 初日の悲壮感漂うオサ様も、大変美味だったので、ちょっと残念だったりもする(笑)。

 ショーではオサちゃんとゆみこちゃんがラヴラヴで、とっても気持ちいいしなー。オサゆみはいいよなー。
 コメディアンはサムくて痛々しくて、見ていても大変だけどさー(笑)。

 オサゆみといえば、個人的に「安蘭フェス」……ぢゃなくて(なんなのこのたのしそーな変換は)「アランフェス」の、あるシーンがお気に入り。
 キスシーンぢゃないよ。
 樹里ちゃんのときはしてなかったのに、ゆみこが相手だとチューするんですか、そーですか、という、あのシーンじゃなくて。

 ふたりが抱きあうときに、オサ様がゆみこの肩にすがるよーに安心したよーに、頬を載せる一瞬が、ものすごーく好きなの。
 オサ様の、心をゆるしきったよーな純粋な、けがれない表情が、せつなくてね……うっとり。

 神様、オサちゃんの横にゆみこを置いておいてください。
 あさこちゃんもちはる兄貴もいない今、ゆみこちゃんは絶対必要ですってば。
 わたしの萌え心にも、絶対必要なんですってば。

 萌え心と言えば、まっつとそのかの並びも萌えなんですけどね……。
 『REVUE2005』のまっつとそのかの宝塚デート写真なんか、ナチュラルに男女カップルにしか見えませんがな。


 HOTEL DOLLYでなんとなくスカステを見ながら、ドリーさんととりとめなく話していたときの話。

 話題は、2003年花組全国ツアー『Cocktail』のスカステ放送のこと。

 あの放送、Cutアリなんだよね。

 市販ビデオの説明に「第4場ドリーミング・ウェーブBの“Surprise Surprise”“Spider And The Fly”歌唱場面の音声は、著作権上の理由により演奏のみ収録しております(歌は収録されておりません)。あらかじめご了承下さい。」とあるから、CS放送でも同じだったんだろー。
 ふつーはテレビ放送の方が著作権ゆるかったりするのに、CSは別なのかなー。

 とはいえわたしゃ、そんなこと知らずに見た。

 つい先日の『ゴールデン・ステップス』でも見た、あのかっこいーシーン。
 脚を開き、指を鳴らして踊る紳士淑女たち。

 オサ様のドラマチック・ヴォイスに酔いしれ、さあ次よ次、『ゴールデン・ステップス』ではきりやんとゆーひだったシーン、らんとむとまっつの登場よー!!

 歌がCutされてました。

 なんてことなのーっ。
 あたしはあたしは、このシーンのためだけにこの番組録画したのにーっ。オサ様含むこの一連の曲だけを切り取って保存するつもりで、最高画質で録画していたのに。

 歌が、あたしのまっつの低音が入ってないなんてーっ。意味ないじゃないよーっ!!

 しょんぼりしてデータを消去しました。あ、ふつー画質ではすでに作品全部Rに焼いてあったんで、最高画質でデータとして保存する意味がなかったのね。

 ……とゆー話を、ドリーさんとしたのよ。

 全ツ『Cocktail』見た? あのCutひどいよねー、と。

 そしたらドリーさん、細かく説明するまでもなくわたしの言いたいことをわかってくれたよ。
 そして、あざやかな笑顔で言うのだ。

「あのCutされてるとこが、最高にまっつらしいんじゃないですか」

 と。

「まっつ生において、全ツ『Cocktail』のあのシーンは、最大の見せ場だと思うんですよ。なのに、ソレが音声Cutだなんて……まっつらしい」

 未涼亜希として生きる十数年(たぶん)の人生の中で、おそらく最大級の見せ場。かっこよさにおいて、これ以上のものはないかもしれない、楽曲と役目のすばらしさ。
 その、人生最大の見せ場が……カタチ(映像)に残らない。

 いや、残らないだけならまだしも。

 半端なカタチで残っている。

 人生最大の見せ場で、最高級にカッコつけて、口パクで踊っている。

 うわわわーんっ。
 まぬけだよ。
 まぬけすぎる姿だよ、まっつー!!

 なまじ音楽だけは収録されてるから、口パクが愉快なのね。

 らんとむはいいのよ。
 彼の蘭寿とむ人生の中では、これからいくらでもすばらしいシーンがあるだろう。
 でも、まっつは。
 まっつにとってこのシーン以上にいいシーンが、これからあるかどうか、相当微妙なんだってばーっ。

 ああ、しかし。

 笑うドリーさんと一緒に、笑いこけてしまいました……。

 だってだって。

 そんなまっつが愛しい。

 ただかっこいいだけじゃ、まっつじゃないわ。
 このものがなしい感じが、まっつなのよ。
 どっか抜けてなきゃまっつじゃないわ。

 ああ、まっつ、かわいー。

 
 それから、現在の博多座公演『エンター・ザ・レビュー』の話になった。スカステのニュース映像を見ながら。

 博多座といえば、おめでとうゆみこちゃん、単独2番手、大きな羽根!!だけど。

 そのゆみこちゃんの背負う大きな羽根が、まっつの顔にばさりと覆い被さったのよ。

 なにしろ初日だし、んなでっかい羽根背負うのゆみこちゃんはじめてだから、周囲への気配りできてないし。まっつも、そんなでかい羽根の横に立つのはじめてだから、タイミング掴めてないし。

 銀橋ノリで一列に並んだとき、ゆみこの羽根が、隣のまっつの顔をばさり。

 片手に羽根扇、片手は燕尾の端にポーズ固定、で笑っているまっつ、手でゆみこの羽根をどけたりとかできるわけもしていいわけもなく。

 そのままぷるぷるっと顔を振って、羽根を払いのけていた。

 笑顔のまま、ぷるぷるっ。
 あの泣いてんだか笑ってんだかわからない、幸薄そうな笑顔で、ぷるぷるっ。

 かっ、かわいいっ!!

 座席で、悶絶しそーになった。
 かわいい。
 かわいいぞ、まっつ!!

「ええっ、それってスカステ映ってないんですか!」

 わたしの話を聞いてドリーさんも「かわいいー!!」と大騒ぎ。
 スカステには映ってないのよー。そこがまた、まっつらしー。

 大きな2番手羽根で顔を隠されてしまうまっつ!
 それを「ぷるぷるっ」と子犬のよーな仕草で振り払うまっつ!
 それでも終始笑顔なまっつ!!

 ああ、かわいー。
 まっつまっつまっつ大好きー。

 ツッコミどころ満載、ネタ満載なそのキャラが素敵。


 わたしは、湖月わたる氏の個人的なファンじゃない。

 だけど、べーべー泣きながら思った。

 星組東宝公演千秋楽、『ソウル・オブ・シバ!』のフィナーレ、大階段の中央に立つ湖月わたる氏を見て。

 大好き、大好き、大好き。

 組子みんなが迎える舞台に、ワタさんが現れたそのときに。
 心から思ったの。

 大好き。

 
 ……ごめん、kineさん。いや、なんとなく、謝ってみる。

 
 千秋楽の公演は特別で、どう特別になるのかというと、やはりそれは観ている者次第なんだなと思う。
 わたしが勝手に思い入れるから、特別なんだ。
 他の人には他の特別があって、わたしとはチガウ。
 みんなみんな、別の想いで別のものを視る。

 東宝千秋楽までかかって、わたしは大嫌いだった『長崎しぐれ坂』での萌え方を開眼したし(笑)、ショーでの萌えも確立した(笑)。
 純粋にたのしんだ。

 今日は特別。
 とっておきの日。

 特別だから、たのしむんだ。
 かなしむんじゃなくて、とことんたのしい日にするの。

 あとから思いだして、しあわせなしあわせな記憶となるように。

 アドリブに笑ったり、いっぱい拍手したりして。

 「お布団ぽんぽん」はさすがになかったねええ。やりすぎだって、わかってたからかな。ムラ楽は映像に残らないけど、東宝楽は残るからやらないだろうとは思ってたけど。

 開眼していたわたし(笑)には、やっぱり「シャレにならねえ」事態だったと思うよ、「お布団ぽんぽん」は。

 わたし的にやって欲しかったアドリブは、芝居ラストの「愛の小舟」で。

 腕の中の伊佐次の、額にかかる髪を、卯之助にやさしく払いのけてほしかった。

 わはははは。
 これぞまさに「愛の小舟」!!

 「お布団ぽんぽん」より、ある意味シャレにならねーが、直接的でない分アリかと(笑)。

 
 檀ちゃん関係では、楽よりも前楽のアドリブの方が好きだった。

 『ソウル・オブ・シバ!』で、レークがレディ・ダイスに花を渡した。最初の、薄汚れた靴磨きの若者が、大スターに。
 物語が進み、人は流れ、変わってしまって。
 最後のデュエットダンスで、レディ・ダイスは髪に花を一輪さしていた。
 レークが贈った花。
 ふたりが出会った、最初の花を。

 別れのときに、身につけていた。

 この物語の深さはどうだろう。どんな想いがあって女は旅立ち、男は見送るのか。

 このデュエットダンスが大好きだった。
 檀ちゃんが美しいドレス姿である以上に、トレンチコートとソフト帽姿だというのが。
 檀れいというひとりの女優に相応しい姿だと思った。

 
 最後の「お祭り」である千秋楽では、レークは花を渡さない。場内大爆笑となる、明るいアドリブに変わっている。いつもレークに出し抜かれていた恵斗くんがレークに勝利し、はじめてダイスと握手するんだ。
 よかったね、恵斗くん。晴れの舞台。最後の舞台。
 ホストダンスのピルエットも、以前ほどオットットッになってなかったよね(笑)。

 
 とにかくわたしは、たのしんでいたよ。
 いっぱい笑って、ご機嫌だった。

 なのにね。

 ワタ檀デュエットダンスで泣いていたのはまあいいとして、最後の最後、大階段に立つワタさんで大泣きするとは、思ってなかった。

 ワタさんが、そして、ワタさんがトップスターとして真ん中に立つこの空間が、時間が、星組が、大好きなんだ。

 湖月わたるが好きだよ。心から。
 少なくとも、今この一瞬。(こらこら、一瞬とか言うな)

 
 檀ちゃんサヨナラショーは、ムラと一緒。
 わかっているから安心して観られた。次はあの曲。次は誰が出てどの曲。

 わかっていても、最後の曲には持って行かれるんですが。

 檀れいという女性、そして、彼女を好きだと思う、わたし自身のことをも、今、顧みられているような。
 そんな衝撃が胸に落ちてくる。

 トレンチコートの似合う、大人の女。
 美しくてかわいくて、でも一筋縄ではいかないなにかを秘めた人。

 ありがとう、檀ちゃん。
 あなたを好きでいられてうれしい。

 だって、最初から好きだったわけじゃないもの。
 月組のころは、正直辟易していたこともあった。あまりに下手で、芝居を壊されるのが不快だった。

 でも、そんな気持ちをも覆してくれた。

 好きでうれしい。
 別れがかなしいことが、こんなにうれしい。

 
 終演後のパレード、やっぱりまた、追いかけちゃった。
 檀ちゃんが袴姿で歩いていくのを、人混みの後ろから追いかけた。
 少しでも、長く見送りたくて。
 振り返れば、今回はkineさんもいる。一緒に走ってる。
 そうだ、追いかけよう。大好きなんだから。
 きちんと見送ろう。大好きなんだから。

 最後まで、オトコマエでかっこよくて、素敵な女性だった。

 
 退団者を見送ったあとも、そのままそこにいた。
 ワタさんはじめ、星組のみんなを見送るために。

 ありがとうの気持ちで。

 
 大好きはうれしい。
 そう思うたびに、しあわせになる。

 大好きが充ちている空間もまた、わたしを幸福にする。
 みんなみんな、自分ではない、自分の身内でもない誰かを好きで、そしてこうしてるんだよね。

 メールを打つのにも忙しい。
 ひとりじゃないっていいよなあ。
 このあとはHOTEL DOLLYで打ち上げだよ、集まって!

 
 パクちゃんとは残念ながら挨拶だけでお別れ、ジュンタさんは半分拉致?みたいな勢いでHOTEL DOLLYへ連行、打ち上げに参加。
 あとはいつものメンバー。

 みんなでスカステの檀ちゃんDSを見ながら乾杯!

 そうそう、最近のHOTEL DOLLYは食事付きなんですよ、みなさん! ドリーさんが、お料理作ってくれるのー。きゃー!!

 せっかくの檀ちゃんDAYなのに、何故か最後はみんなで『さすらいの果てに』(主演・壮一帆)を見て爆笑につぐ爆笑で終わってしまったし。おそるべし、『お笑いの果てに』!!
 壮くんきれいだし、歌もダンスも及第点なのになー。作品にめぐまれなくて、気の毒だ。

 帰りの電車の中で、ジュンタさんが「打ち上げに誘ってくれてありがとう」と言ってくれたけど。
 ソレ、わたしの功績じゃないっすよ。ぜんぜん。
 ドリーさんの、懐の深さゆえなの。
 彼女が「誰を呼んでもいいですよ。飛び入りでもなんでも、ちゃんと用意しておきますから」って言ってくれたから。

 お客様を「もてなす」ことができる人って、いいなと思う。
 わたしはいつも、ドリーさんの寛大さに感謝している。
 HOTEL DOLLYって、ふざけて言うけど、ほんとにほんとに、すごいことだと思ってる。
 心地よい場所だと思わせてくれる、その努力や心遣いに感動。
 今回も、とってもお世話になりました。
 ありがとう、すごくたのしかった。

「わたしの夢は、お金持ちになってムラにマンションを買って、HOTEL DOLLYムラ版を作ること!」

 と言ったら、kineさんに「たくさん夢があるんですね(笑)」と言われてしまった。
 そーよ、夢は山ほどあるわ。そのうちのひとつがソレよ。いやあ、叶いそうにない夢ばかり見てるけどさー。

 わたしも、ひとをもてなせる人になりたいの。

 大好き。を、分かち合える人に、なりたいよ。


 8月14日、星組東宝千秋楽の日。

 午後の、まさに千秋楽公演がはじまる間際に、アクシデントがあり、開演が遅れた。
 予期せぬ出来事との遭遇。それを人事を尽くし、越えていくことはすばらしい。
 ひとが、ひとを助けるために力を振り絞るという、そのシンプルな姿に感動する。

 それとは別に。

 「情報」の扱い方について考えた。

 2階B席にいたわたしには、1階でなにが起こっているのか、まったくわからなかった。

 「情報」が圧倒的に不足していた。

 アクシデントが起こった際の、群衆への対処の仕方は、大きく分けてふたつあると思う。

 混乱を防ぐために、あえて情報を制限すること。
 協力を得るために、あえて情報を公開すること。

 たとえば劇場内に不審物があり、危険だからすぐに退避しなくてはならない、とかゆー場合に、本当のことを全部発表するのはまずいだろう。
 恐怖にかられた人々が一斉に出口に向かったら、大事故になるよ。
 情報を制限して、合理的に人々を避難させる。切羽詰まってると思わない人たちがだらだらするかもしれないけど、パニック起こすよりマシ。言うことを聞かない人には個別に「はい、さっさと劇場を出て!」と言えばいいし。
 日本人は従順だから、「よくわかんないけど、出ろって言ってるよー。んじゃ出ようかー」と従ってくれるよ。「理由を教えるまで、てこでも動かないねっ!」なんて好戦的な人は、そうそういないだろう。
 まあ、手綱の取り方、制限と真実のバランスは難しいし、ケースバイケースだと思うけど。

 たとえば舞台装置に異常があり、復旧の見込みが立たないとする。
 そーゆーときは素直に「今日はこーゆー理由で開演できません。ごめんなさい」と発表するべきだろう。
 事情を説明することによって観客の理解を仰ぐ。
 理由も教えないで「今日は中止です、帰ってください」ではみんな納得しない。
 そりゃ文句は出るだろうが、事情を説明することによって「文句を言ったところで現在の事態は好転しない。補償問題はまた別の話」だと納得させることになる。クレーマーの対処は別としてね。
 下手に情報を制限せず、公開することによって理解と協力を求める。

 さて、今回のアクシデントにおいて、劇場の取った行動は。

 えー、どちらでもなかったっす。

 混乱を抑えるために情報を制限したわけでもなく、協力を得るために公開したわけでもない。

 わたしの印象では、なんにも思いつかなかったから、なにもしなかった。って感じ。

 起こった事態は、例でいうところの後者の方、「情報を公開することで、観客の協力を得る」必要があった。
 でも劇場側は、情報を公開しなかった。

 事情を説明しないまま、なにが起こっているのかわからないまま放置された客席で、わたしは考えていた。

 情報を制限しなければならない事態が起こっているのだろうか、と。

 観客に知らせてはならないことが起こっている?

 劇場から観客に向けての情報発信は、「急病人の手当のために、開演が遅れる。そのまま待っていろ」という意味のことが2回繰り返されただけだ。
 これだけの放送では、「情報があえて制限されている」としか思えなかった。

 現に、デマや妄想が瞬く間に広まった。

 情報不足のために、みんなどう行動していいか、なにを考えればいいのかわからなくなっていた。

 それでもおとなしい日本人は、不安に右往左往しながらも、言われるままに待っていたけれど。

 デマと混乱が広がる中、よーやく劇場スタッフが動いた。
 しかしこれがまた、無意味な行動だった。
 たくさんのスタッフが客席を回り、「静かにしてください」と命令だけを口にするんだ。

 いや、静かにした方がいいのはみんなわかってる。
 でもそれが何故なのか、なにが起こっているのかわからないから、ざわざわしてるんだよ。

 起こっているトラブルに対しての、原因を取り除こうとはせず、ただ命令だけを繰り返すのは、明らかに無意味。

 それでも、情報が制限されているなら仕方ないことだと思った。
 観客に知らせてはいけない事態だと管理者が判断しているなら、スタッフのこのアタマの悪い対応も、精一杯のものなのだろう。できる範囲で誠意を尽くしているのだろう、と好意的に解釈した。

 が。

 近くに来たスタッフに、聞いてみた。
「なにが起こっているんですか? 具体的に教えてください」

 情報が制限されているなら、なにも教えてはくれないだろう。それでも、あまりにも情報不足が不愉快だったのでダメ元で聞いてみた。

 すると。

 スタッフはすらすらと、教えてくれた。
 知りたかったことを、すべて。

 秘密なんじゃなかったの?!

 言っていいこと、公開していい情報なら、何故それをしない?
 情報を公開することで、群衆の協力を得られるのに、何故それをしない??

 唖然とした。

 そして、わかった。
 劇場側はものすげー混乱していて、なんにも考えられないんだ。

 「急病人の手当のために、開演が遅れる」だけの制限された情報では、40分もの空白の時間は制御しきれない。
 何故なら「劇場」は「急病人の手当」をする場所ではないからだ。
 現実にありえない状況こそ、説明がなければわからない。客席すべてから、現場が見えているわけではないのだから。
 むしろ、命令された通りに着席していた者たちこそ、ますます情報から取り残されている状況だった。

 正しく情報を知ることができたわたしと、わたしとスタッフの話を注視していた周囲の人々は納得し、「協力しよう」と落ち着いた空気が広がった。
 情報さえ正しく教えられていたら、誰もデマに右往左往なんかせずに、率先して自分にできる協力をするのに。

 
 1階のことはわからない。
 1階にいたkineさん他は、現場が見えていたし、劇場側がなんの説明もしなくても、自分で情報を得られたようだ。

 だがそれと、劇場側の不手際とは別問題だ。

 ただ「静かにしてください」と苛々と繰り返していたスタッフたちを見ても、現状認識に差があった。
 2階の観客が騒いでいるのは、開演が遅いことに文句を言っているわけでも、野次馬根性でデマを流して盛り上がっているわけでもない。
 情報がないから、それを知りたくて浮き足立っていただけだ。
 それを理解していなかったのだと思う。

 スタッフたちは、事情を知っている。
 観客は知らない。

 それを理解していなかったとしか思えない。

 知っていれば、あそこまでデマに騒いだりしないだろうに。

 知らせない不手際には思い至らず、知らないために起こっている混乱を叱るだけが、劇場の対応だった。

 「情報」をどう扱うか。
 それは、「現状」を正しく判断することがまず第一なんだなと思った。
 そしてそのうえで、操作法を判断する。

 ひとの上に立つというのは、大変なことだ。
 でも、劇場というたくさんの人が集まるところだからこそ、がんばってほしい。

 
 劇場側の不備は目についたにしろ、たくさんの人の協力で急病人の命が助かったのはすばらしいことだと思う。

 そして、幕間の「病院で快方に向かっている」という放送も。
 それに対して起こった、客席からの拍手も。

 一観客にすぎない身で、思ったこと。


 千秋楽から数えてみっつめ。
 前日の夜公演から観た。
 13日の夜は、阪急交通社貸切公演。わたしはサバキで潜り込んだ。なにしろ『長崎しぐれ坂』なので期待していない。観られればいいや。ひとに頼めばS席が手に入るとわかっていたけど、最初からB席狙い。他ならいざ知らず、『長崎』に8000円も出せないわ。立ち見でもいいくらいなのに。
 そー思って手に入れた、B席最前列。なんてすばらしいチケ運!と、我ながら惚れ惚れした(笑)。
 ……結果、その『長崎』で泣いてしまい、盛大にうろたえたんだけど。

 この貸切公演が、なんかすげーよかったのだわ。
 えらく吸引力のある舞台で。
 すごい回数通っているサトリちゃんも、「今回すごかった」とベソかき顔で言っていたから、楽を前にしての相当なハイテンション公演だったのだろー。

 司会は元雪組のリンゴさん。
 ええっ、なんかすげーなつかしい人だぞ? 突然辞めちゃった超個性派女役。このリンゴさんの司会が、ものすげーことになっていた。
 なにしろ、英真組長を「ジュンコちゃん」呼ばわりだもの。ええっ、ジュンコ、ちゃん? 我らがくみちょが、ちゃん付けですかい?!
 組長より上級生なんだもの。トドがやんちゃながきんちょのころから知っている人だもの。誰も逆らえない。

 幕間の抽選会のプレゼンテーターはとなみちゃん。そっか、となみちゃんは阪急交通社のイメージガールだ。となみちゃんが登場すると歓声が上がった。やっぱすごいよ、ただの下級生が出るのと反応がチガウ。なんか得したー、って気になるなー、ゴージャスな美少女がこうやって特別に出てきてくれると。
 ……喋りは下手だったけどな……となみちゃん……。

 はじまる前もこの幕間抽選も、リンゴさんは野放しって感じで自在に喋りまくっていた。主要出演者の「健康法」を聞いて回ったそうで、それをまくしたてていた。

 このリンゴさんのマイペースぶりは、終演後の「ご挨拶」のときにすばらしい結果となる。

 最初から、終演後にはふたりの主役、トドロキとワタルくんの挨拶が特別にある、と言っていた。たのしみにしていてくださいね、と。まあいつもの貸切公演だわな。

 わたしは貸切公演ってあまり観ないんだけど(カード持ってないから。無職ダメ人間にカードは作れない)、貸切公演のラストの「お客様からの花束贈呈」は夢だわー。一生のうちに一度当たってみたい……。舞台メイク済みのスター様と間近で向かい合ってみたいよ(笑)。
 その貸切公演ならではの、抽選で当たったお客からプレゼントを受け取るために、上から3人が舞台に現れた。すなわち、トド、ワタさん、檀ちゃんだ。
 そのうち、挨拶をするのはトドとワタさんのみ。檀ちゃんはなんの声を発することもなく、ただお辞儀するのみの役割。

 しかし。
 司会のリンゴさんは華々しく暴走中。
「檀ちゃんも最後だから、挨拶しとこー! 時間、いいよねっ?!」
 てな感じに、勝手に仕切ってしまった……。

 おかげで、檀ちゃんの挨拶が聞けてしまった……。

 明日で退団。
 今日はジェンヌである最後の夜。
 そんな我らが美神、わたしのドルチェ・ヴィータの声。

 予定外だったろうに、檀ちゃんは端的に瑞々しく現在の心境を語り、明日への意欲を口にして終わった。いつも思うことだけど、檀ちゃんのお辞儀の仕方、すごく好き。

 ここで「檀ちゃんの退団を見送る会」になってしまった舞台上。
 ワタさんはともかくとして、あの轟悠が、檀ちゃんへの言葉を述べた。
 檀ちゃん退団公演のムラ千秋楽で「でんでんむし」を歌って顰蹙を買った男が、生の声で「この公演に出られたことで、檀ちゃんを見送ることができてうれしい」とごくふつーに挨拶しましたよ。
 なんだよトドロキ、ふつーの挨拶もできんじゃん! 変なポエムや童謡を歌わなくても、自分の言葉で喋られるんじゃん。愛を口に出来るんじゃん。……涙。

 なんだか、プチ千秋楽みたいでした。
 拍手の大きくあたたかいこと。

「みなさんも、こんなに長くスターさんの挨拶を聞けてよかったですねーっ!」
 と、リンゴさんは半ばヤケのよーに叫んでいました。彼女のスタンドプレイで時間が大幅にオーバーしちゃったんだろーなー。司会者としては失格だよな。
 でも。
 ありがとう、リンゴさん。
 「ただの貸切公演」を「千秋楽イヴ」にまで持っていってくれて。
 すごくすごく、うれしかった。

 そして、否が応でも盛り上がる、お別れの気配。
 明日が千秋楽。


 前日欄からの続き。

 レークはずっと、思い込んでいる。レディ・ダイスに恋しているって。
 でもそれは、ただのあこがれなんだよ。ほんとうの恋じゃないの。

 夢一途にダンスばっかしていたレークは気づいていない。

 なにも持たない靴磨きの若者に惜しみない賞賛をくれ、夢を叶える道を示してくれた、はじめての理解者……オーキッドを愛していることに。

 レディ・ダイスとオーキッドを助けた、ということでレークはステージに立つことができるよーになる。
 そしたらあっという間に大スターさ。上昇気流に乗った若者の輝きはまぶしいさね。

 そして、手の届かないはずの大スター、レディ・ダイスがレークのもとに。
 共演するうちに、ふたりの間に愛が芽生えたのさ。

 つってもレーク、ソレ、錯覚だから。
 あこがれのスターが自分を好きだと言ってくれる、ソレに舞い上がっただけだから。
 君がほんとうに愛している人は別だから。

 レークをステージスターにしたのは、プロデューサーのオーキッド。
 彼はたしかにレークを気に入っていたけれど、レディ・ダイスを取られることは計算に入ってない。そもそも、最初にレークを見つけたのだって、姿のよい若者がダイスにのぼせあがっているのを見て、微笑ましく思ったからでしょ。自分の好きな女にあこがれてる取るに足らない男の子に、声をかけた。気まぐれで。
 それがすべてのはじまり。
 彼の気まぐれが次々に絡み合い、転がりだし、この結果に行きついた。

 嫉妬に駆られたオーキッドは、レークを殴り、二度とダンスができないようにしてしまう。
 人を雇って殴らせた、でもいいし、自分ひとりででもいい。舞台にいた黒尽くめの男たちはオーキッドの影よね。
 数で囲んでボコったにしろ、最初の一発はオーキッド自身で。オーキッドは逃げも隠れもせず、真正面から私怨を爆発させている。

 はい、ここでふたつめのポイント。

 レークは、ギャングを殴ってオーキッドを助けたような男。暴力のプロと戦って勝つよーな、ケンカ上等な凄腕にーちゃんだ。一方オーキッドはケンカなんかろくにできそうもない、華奢な小男。
 たとえオーキッドが人を雇って数で襲ったとしても、黙ってやられるよーなレークじゃない。いちばん弱いことがわかっているオーキッドを押さえてしまえばいいんだから。

 どれだけ殴られても、殴り返せないってなんで?

 ダンサー生命を断たれるほどボコボコにされても、オーキッドを殴れないなんて、そんなバカな。
 ふつー抵抗するだろ。正当防衛じゃん。

 自分よりも、自分の夢よりも、オーキッドが大切ってことだろ?

「もう踊れない」
 と泣くレークは、身体的なことだけを言ってないだろう。
 彼のダンスを認め、満面の笑顔で手を差しのべてくれた人……オーキッドに拒絶されたからだろ?

 殴り返すことができなかった。
 そして、この喪失感。
 レークははじめて気づく。
 ほんとうに欲しかったモノが、なんなのか。……誰なのかを。
 

 その後、シバ降臨でいろいろあって、結局のところレークはダイスと別れることになる。
 ダイスは凛々しくどこかへ旅立っていくようだ。男のようなソフト帽とトレンチコート。きっと彼女は彼女の道を進むんだね。胸を張って。
 そんな彼女を見送って、レークはかなしく……しかし最後にははればれとした顔をする。吹っ切った表情を見せる。

 彼女には彼女の生きる道。そして彼には彼の生きる道。

 レークが真に愛しているのは、幻の美女なんかじゃない。
 嫉妬で暴力をふるったりする弱い部分も持ち合わせている、お調子者でそのくせ情熱的な、あの小柄なプロデューサーだ。

 さあ、どうする?
 オーキッドのせいでレークは一時、ダンスの道をあきらめかけたんだぞ?
 報復? それとも恩を着せておく?

 レークの愛は歪むのか、それとも癒しの地平へ羽ばたくのか。
 レディ・ダイスの去った劇場で、オーキッドはどう出るのか。

 今、ふたりの物語がはじまる……。

 
 ……って。
 そーゆー物語でしょう、『ソウル・オブ・シバ!』って。

 アドベンチャーで選択肢によって展開が変わってもおもしろいよね。

 オーキッドを許すか、そうでないか。

 ホストをやっているときのレークなら、クールにオーキッドを責める選択もアリだよな。
 鬼畜バージョンではそのことを盾にとって、思い切りオーキッドのことをいたぶったりしてね。
 ねーっとりと言葉責めしたり、わざと屈辱的なことを言わせたりさせたり。
 オーキッドの方が年も立場も上だから、いたぶり甲斐があるわなー。

 夢を語るときのきらきら青年レークなら、あっさり許してしまって、ラヴラヴ甘やかしバージョンもアリでしょう。
 寛大なレークにオーキッドの心も溶かされ、年下のぼうやだと思って安心していたら、いつの間にか……みたいな。
 一途な年下わんこ(巨大)と、プライドの高いお姫様年上受という、定番カップリングでGO!

 ねえ、どんなもんですか?
 こーゆーの、アリでしょう?

 ワタトウだよ。ニーズのあるカップリングでしょう?

 わたしと同じ意見の人、いるよね、世界には!!


 最近のわたしには、やほひの神が憑いてらっさるのかしら。
 次々と啓示が下りましてよ。

 コミケ帰りに『ソウル・オブ・シバ!』を観て、

「わたしに相方さえいれば、レーク×オーキッドで同人誌出せるわ!!」

 と、叫んじゃいましたよ。

 文章を書くのは好きだが、それをまとめて本にするだとか、それを管理するだとか売るだとかは苦手なのよ。向いてないのよ。自分のサイトすら作れず、こーやって日記サイトでテキスト打つだけしかできないヤツだもん。
 第一、萌えを共有してきゃーきゃー盛り上がりながら作りたいもんな、同人誌って。

 星担のみなさま方、kineさん、ドリーさん、サトリちゃんの賛同はカケラもいただけませんでした。
 わたしは孤独だ。

 
 さてそのレーク×オーキッドですが。
 語りましょう、萌えどころを。

「日記で書けばいいじゃないですか。広い世界にはひとりぐらい、緑野さんと同じ感性の人もいるかもしれませんよ」(棒読み)

 と、kineさんも勧めてくれたことだしなっ。

 
 ダンシング・スターを夢見る青年、レーク。
 びんぼーだけど、ガッツと才能はありますぜ。

 彼は大スターのレディ・ダイスにあこがれている。も、めろめろ。

 劇場の裏で靴磨きをしているのは、レディ・ダイスの出待ち(笑)をしたいとゆー気持ちからだろう。「タカラヅカで働きたい! そしたら花の道でスターさんに会えるかも」のヅカファンと同じ思考回路。
 だってどう考えても、靴磨き程度じゃなんの足しにもならんもんな。

 夢を叶えるには、金が要る。
 芸事はとくに。
 レークは自分が男前でセックスアピールがあることを承知している。それくらいの神経がなきゃ、芸能人になろうなんて思わないさ。
 美貌を利用して手っ取り早く金を稼ぐならば、とーぜん水商売。
 レークくんはナンバーワン・ホストですよ、もちろん。
 自分に夢中なおばさま方から、いっぱいおこずかいいただいちゃってますよ。

 ホストのしたたかさと、一途に夢を追う純粋さ。
 それをなんの齟齬もなく持ち合わせているのが、レークの魅力。

 さて。
 しがない靴磨きをしているときに、楽屋から出てきたレディ・ダイスにどさくさまぎれで握手をしてもらった。
 舞い上がるレーク。
 そこへ、ご指名が入る。
 キザな黒タキ男が、靴を磨けと命令している。
 レークがレディ・ダイスに舞い上がっている様を見ていたからこそのご指名っぽい。
 そのうさんくさい二枚目は、プロデューサーのオーキッド。「ダイスのサインをあげようか」みたいなテキトーなことを言ってレークの純情をたのしそーに眺めている。
 レークに靴を磨かせたのも、話しかけたのも、みんなただの気まぐれっぽい。
 だけどレークは大喜び。
 得意のダンスを披露して、すっかりオーキッドに気に入られた。
 オーキッドの推薦で、ダンスのレッスンを受けられることになった。

 あくまでも、レークの執心は美女レディ・ダイス。彼女にあこがれているから、すべてははじまった。
 オーキッドのことは「親切なプロデューサー」程度でしかない。
 しかし。

 レークの働いている店に、レディ・ダイスが現れた。客として。
 どっから見てもギャング! とゆー、わかりやすいギャングのスタンにエスコートされて。

 もしもレディ・ダイスへの気持ちがほんとーに「恋」ならば、動揺するはずだ。
 でもレークは平静そのもの。レディ・ダイスが隣のテーブルにいるというのに、平気で客のおばさま方に「営業」をしてきゃーきゃー言わせている。
 ショータイムには色っぽく彼女の横で踊って見せたりもしている。

 仕事は仕事、と割り切っているのかしら。
 客であるレディ・ダイスには、一切関心を示してはいけない、それがプロ。ってこと?

 それならそれはアリだと思う。
 女にめろめろで公私混同当然、という男よりはかっこいい。

 このとき店にはもうひとり、レークの知り合いが来ていた。
 オーキッドだ。
 レークはオーキッドのテーブルには行ってないので、彼が来ていたことを知っていたかどうかはわからない。受け持ちがチガウみたいだな。レークの受け持ちは、センターの高そうなテーブル。端の安い席は新人ホストの受け持ち(笑)。

 オーキッドは、レディ・ダイスを愛していた。
 こちらは相当本気、高温っぽい。
 レディ・ダイスにギャングのパトロンがいることが許せない。この日もふたりのあとをつけてこの店にやってきた。

 ギャングのスタンが席を外した隙に、オーキッドはダイスに言い寄る。
 困惑するダイス。情熱のオーキッド。
 そこへ戻ってきたスタン。とーぜんてめえの女に言い寄る男をぶん殴るわな。

 あこがれのレディ・ダイスを前にしても、プロのホストとして表情ひとつ崩さなかった男レークが。

 オーキッドを助けるために、客に殴りかかるわけですよ。

 レークが助けたのはダイスじゃなく、オーキッド。
 ダイスには無反応。オーキッドのことは身体を張って守る。

 これって、どうよ?
 どう説明するの。愛以外にないだろ?

 文字数足りないから、続く。


 『長崎しぐれ坂』の話、つづき。

 問題は、卯之助。
 とても都合良く、彼は伊佐次の気持ちをもてあそぶんだ。
 伊佐次が「会社の犬でいいや。夢よりも安定さ」と思ったときに必ず、「男なら独立して勝負だ。サラリーマンなんかクズだね」とそそのかすんだ。
 それも、親切ぶって。

 いや、あの、ふつーに考えれば卯之助の言ってること変だし。卯之助の言う通りにしてたら、破滅するよ。
 でも卯之助って役人側の人間なんだよね。だから、伊佐次を破滅させるために誘導してるんだ。
 ……そう思えば、卯之助の言動は正しいことになるが。

 さんざん伊佐次をもてあそんだ卯之助は、何故か最後になって言うんだ。
「オマエを守りたかった」と。

 はあ?
 伊佐次を長生きさせたいなら、しちゃいけないことだけを選んでやっていた男が、なにを言う??

 卯之助さえいなければ、余計なことをしなければ、伊佐次はなんの疑問もなく平穏に暮らしていたのに。
 伊佐次が「生きよう」と思うたびに、それをひとつひとつ丁寧にひっくり返し「死ね」と誘導しているのが卯之助なのに。

 なにしろ植爺だから。
 自分がなにを書いているのか、卯之助の言動が不一致なこととかは気づいていないんだろう。
 わたしもそれはわかっている。
 植爺が人間の心を理解できないから、書けないだけのことだと知った上、壊れていることはわかった上で、さらに話しているのよ。

 卯之助は、伊佐次を愛していた。
 だから伊佐次を守りたくて、いろいろ画策していた。
 これが答えということになっている、植爺脚本。

 役人側の人間になって、捕まえるフリで逃がす、というのはわかる。そういう計算はアリだろう。
 ここで問題にしているのは、自由をあきらめて檻の中で生きるという伊佐次の決意を、いちいち卯之助が邪魔すること。
 伊佐次に死んで欲しくない、というのが植爺のとっておきのどんでん返しらしいが、役人をやっていること以外は全部逆のことしかしてないから。
 卯之助は毎日伊佐次のところへやって来て「堕落するくらいなら死を選べ」とにこにこ悪魔のささやきを繰り返していただけだ。

 卯之助の愛の告白も、もちろん逆効果だ。
 伊佐次にとって「自由」を象徴するモノはおしまだけじゃない。江戸の思い出を共有する卯之助だって、彼にとっては宝物だったんだよ。
 役人になったとはいえ、子どものころと同じよーに自分になつく卯之助をかわいがっていたのに、土下座して愛の告白ときたもんだ。
 アンドレに毒殺されかかったオスカル並に、ショックだったはずだ。
 幼なじみ、という聖域を汚され、もう昔には戻れない、帰るところはこの世のどこにもないのだということを突きつけられ。
 伊佐次は、ついに破滅への扉を開く。自分の意志で。

 卯之助が余計なことをしなければ、伊佐次は死なずにすんだのに。

 すべて、この繰り返し。
 伊佐次が生きようとし、卯之助がそれをひっくり返す。

 卯之助は、なにがしたかったんだ。
 何故彼はいつもいつも、完璧に伊佐次をもてあそび、傷つけ、追いつめたのか。
 完全犯罪だよ。
 「死なせたくない」「守る」と口では言いながら、やっていることは言質とは反対のことなんだから。

 壊れかけたバルコニーの上に殺したい人を誘導して、その人が落ちて死んでも、それは「事故」。誘導した人は罪には問われない。
 そーゆー種類の犯罪だよ、これは。

 
 だから。

 
 この物語を正しくするためには、たったひとつ台詞を付け加えればいいんだ。

 最後の、愛の小舟で。
 自ら破滅へ踏み出した伊佐次が役人に撃たれ、息絶えようとするとき。
 伊佐次を抱きしめ、小舟であてもなく海を漂う卯之助が、ひとこと言えばいいんだ。

「本当は、わかってたんだろう? 俺がこの結末を望んでいたことを」

 妥協して、大人になって生きようとした伊佐次。
 子どものまま、自由な獣のままの伊佐次を愛し、独占したかった卯之助。

 卯之助は伊佐次を殺したかった。
 殺して、自分だけのモノにしたかった。
 彼が、つまらない大人になってしまう前に。どこにでもいる、ただの人間になってしまう前に。

 伊佐次もまた、ほんとうはわかっていた。
 卯之助ののぞみ……そして、自分の本当ののぞみを。
 だから、卯之助によって殺されることを受け入れた。

 
 ねえ?
 こーすれば、ものごっつー名作になるんですけど?!

 大丈夫、頭の固いおじーさんおばーさんには、最後の台詞の意味なんかわかんないから!!
 伊佐次が死ねば「可哀想」って泣いてくれるから!

 誰にでもわかるところまででも演歌的にたのしめるし、こっから先はわかる人間にだけわかる、とゆー部分もまたディープにたのしい、オギー的な話になるから!!

 
 たったひとつの台詞で、全部の辻褄が合うんですが。
 卯之助も気持ち悪くなくなるし。筋の通った正しいキャラクタになるし。

 もちろん、そのたったひとつの台詞、まで筋を通してくれた役者の演技に拍手! ですよ。
 トドもワタさんも檀ちゃんも、ひどい脚本なのにあきらめず、あがいてあがいて別の岸にたどり着くところまでやってくれたよ。

 
 おかげで、はじめて思ったのよ。

 卯之助×伊佐次でよろしく! と。

 生理的に不快な域にあったので、この作品、このキャラクタで萌えることなんてなかったもの。
「うわー、こいつらホモだー(笑)」と笑いはしても、思考はそこでストップしてたのよね。

 ホモ萌え、カップリング萌えできるところまでたどりついたわ!!

 こっそり追記しておくと、このふたり、一度はなだれこんでると思うの。
 例の「愛の告白」シーンで。
 卯之助、襲いかかってると思う。
 卯之助の言葉にショックを受けた伊佐次の色っぽさと呆然とした感じとかねー、会話の調子が寝物語っぽいのよね。
 半分力尽くで、もう半分はショックとあきらめで、強引に抱かれてしまった伊佐次が、破滅に向かって唐人屋敷の外へ出て行くのも、わかるって。
 卯之助自身によって、聖域だった「幼なじみ」を汚されてしまったから。伊佐次には、もうなにも残っていない。おしまは去り、卯之助は裏切った。もうなにもない。

 ああ、キモいよさぶだよこいつら、と思っていた野郎ふたりだが、せつない系にまではばたきましたよ。

 長い道のりだった。しみじみ。

 
 伊佐次×らしゃ、伊佐次×さそり、さそり×らしゃ、までは当然として。

 卯之助のキャラに納得がいったために、さらに進みましたよ、世界が。

 卯之助×館岡もよろしく!

 卯之助は、伊佐次を手に入れるためには手段選ばないから。
 小うるさい熱血役人を陥れ、ヤッちゃうくらいするでしょー。
 味方にしておくと得だからね。マライヒを手なずけたバンコラン的手法で無問題。
 GO! GO! 卯之助!!

 
 あー、よーやくたのしくなったのは、東宝楽前っての、どうなのよ。

 
 らっこ@すずみんも、個人的に萌えです。
 だってこいつ、いちばんクールだよね。冷酷というか。五分刈りに袈裟姿、そして毒々しい赤い唇。
 20世紀末に流行った「伝奇小説」に出てきそうなキャラだ(笑)。


 『長崎しぐれ坂』において、卯之助がどれだけ気持ち悪いかは、以前に書いた。

 卯之助が気持ち悪く、伊佐次がムカつき、おしまはただのカンチガイ女。
 これでいったいどうしろと。

 ムラ初日はあまりの事態にメーターがブチ切れ、ラストの「愛の小舟」のシーンでは爆笑をこらえるのに必死だった。

 
 それが、東宝楽の前日、泣いてしまうところまで行ってしまった。

 ポイントは、伊佐次が主人公だと開き直って観る。ことかと。

 伊佐次だけなら、それほど破綻せずに物語が進むのね。
 卯之助を見てしまうとややこしくなるので、あくまでも伊佐次のみ。

 伊佐次は子どもでかわいい男。
 完璧だから慕われているのではなく、欠点をも愛されているのだろー。

 自室でひとり港を眺めているときの伊佐次は、キョーアクにかわいいですよ。
 あの彫刻のよーな美貌で、傷ついた少年のように爪を噛んでいるんですから。
 そりゃ李花もめろめろになるわ……。

 伊佐次だけを追い、彼に感情移入して観ると、『長崎』ってのはなかなかせつなくていい話です。
 壊れてるところやまちがっているところ、無駄な演出、悪趣味なセンス、そんなところをまるっとスルーした上でだが。

 伊佐次のキャラクタはまちがっていないところまで、筋が通ってしまった。

 たのしく陽気に現在の生活を受け入れているが、根本に飢えを感じている男。
 「自由」が伊佐次というキャラなんだろー。
 他のなにを持っていたとしても、「自由」がなければ生きていけない。
 彼は本能的で感情的。彼の魂はひたすら「自由」だから。今まで修羅場もくぐってきたが、それを生き抜いてこられたのも理論ではなく勘、すなわち本能と感情ゆえ。
 傲慢で傍迷惑な野生の獣。

 それが今は、「生きる」ために囲いの中。
 「自由」でなければ意味のない野生の獣が、安全だからと檻の中にいて、それは「生きている」ことになるんだろうか。

 だから本人も苛立っているし、周囲も今の状態が長く続かないことを察している。特に李花はいつもおびえているね。

 本能に従う生き物だから、彼の心は簡単に揺れ動く。
 「自由」に惹かれているときと。
 「囲いの中でも、とりあえず生きる」と思っているときと。
 そのときそのときで、真実なんだ。

 たぶんそれは、子どもの魂と大人の分別の戦いでもあるだろう。

 伊佐次は永遠の子どもなので、本能のみに従って生きたいと無意識に渇望している。
 子どもの魂は「囲いを出たい」「自由さえあれば、あとはどうでもいい」と訴え、大人の分別が「囲いを出たら殺される」「自由をあきらめなければ生きていけない」と訴える。
 物語の最初では、いちおー大人の分別が勝っている状態だろう。
 囲いの中で、今あるものに満足して生活している姿。

 しかし、それを許さない男がいた。

 せっかく野生の本能を抑えつけて、損得を計算できる「人間」として妥協して生きていた伊佐次を、もてあそぶ男がいるんだ。

 卯之助だ。
 いつもいつも、卯之助が伊佐次をもてあそんでいる。

 卯之助さえいなければ、伊佐次はもうしばらくは囲いの中にいただろう。いずれ耐えられなくなって飛び出していったかもしれないが、それはまた別の話だ。

 現状で満足しようとする伊佐次に、卯之助は必ず「堕落するぐらいなら死を」とそそのかす。
 伊佐次が渇望している「自由」を表す「江戸」を匂わせる女・おしまを紹介する。
 おしまに再会しなければ、伊佐次は囲いを出ようとは思わなかったのに。

 らしゃが死んだあと、酒を飲んで荒れている伊佐次に、余計なことを言うのも卯之助だ。
 らしゃを埋めてやった、と説明する卯之助の言葉や、それに泣き出してしまう芳蓮の声を聞いているときの伊佐次はとても痛々しい。らしゃの死が相当堪えている。泣き出しそうになって、それを許すまいと大声を出す。泣きたくないから、泣きそうにさせる周囲を怒鳴りつけて追い払う。……それはひどい行動だけど、彼はそういう素直じゃないキャラだ。
 素直に泣けば、「ああ、悲しんでいるのね」と周囲も同情的になるのに、あえて攻撃にまわる。同情されるぐらいなら顰蹙をかう方を選ぶ。子どもなんだね。
 そんなふうに、誰よりも泣きたいからこそ、簡単に泣く芳蓮に苛立っている伊佐次に、卯之助は容赦がない。泣きそうな伊佐次をわざとからかったあげく、そのときの伊佐次の唯一の心の拠り所だったおしまを逆手にとってもてあそぶ。

 芳蓮を怒鳴りつけるときまで、たしかにらしゃのことを思ってヘコんでいた伊佐次を、卯之助がわざわざ言葉で「女のことでうじうじしている」ことにしてしまい、弟分のさそりに愛想を尽かさせる。
 もちろん、おしまのこともあったろう。伊佐次にとっておしまは「自由」につながる存在だから。たかが色恋やスケベ心ゆえじゃない。
 さそりに悪態をつかれた伊佐次は、逆ギレする。「オマエも死ね!」と叫ぶ声は、ほとんど泣き声だ。
 らしゃの死がつらいから、ここで出る悪態が「死ね」なんだ。泣く芳蓮に怒鳴ったのと同じ、本心と反対のことを口にする。

 さそりにまで拒絶され、さらに傷ついた伊佐次に、李花はやさしい。
 単純な伊佐次はころりとほだされる。
 李花へ今までの非礼を詫び、「ずっとここにいる」と誓う。
 本心だろう。だって彼は今、とても疲れているから。欲しいのは自由。だけど、ここで今、この女のもとで生きる未来があってもいいかもしれない。
 子どもの魂を封印し、分別ある大人としての選択。

 しかしそれもまた、卯之助が許さない。
 囲いの中で平穏に生きる可能性を考え出した伊佐次に、彼にとっての「自由」であるおしまの話を持ち出す。
 せっかく李花と生きることを考えたのに。
 おしまを選んで死ね、と卯之助はそそのかすんだ。
 あ、でも、おしまが堺へ帰った話を聞いて、伊佐次が思わず飛び出して行こうとしたときにさそりの名前を出したのは、完全に口実だと思うけど(笑)。あさはかだわ。

 伊佐次はキャラクタとして、筋が通っている。
 彼の言動は、ちゃんと理解できる。
 だから彼を「主人公」だと思って観れば、ちゃんとした物語なんだよね、『長崎』。

 「自由」と「生きること」、子どもの魂と大人の分別で揺れ動く男……てのは、普遍的な物語だよね。
 会社の犬となって生きるか、破滅覚悟で独立するか、とか、いくらでもバリエーションのあるお約束の設定さ。
 伊佐次の場合、「破滅」が透けて見えるから切ないのね。

 大抵の人間は「夢」より「妥協した現実」を選ぶから。
 「夢」(伊佐次の場合は「自由」)を選んで破滅する姿は、かなしい憧れをかきたてる。

 つーことで、伊佐次中心だとクリアになった『長崎しぐれ坂』。
 だがどーしても、もうひとりの主役・卯之助が問題になってくる。

 何故に卯之助はいつも、善人面して伊佐次を追いつめ、もてあそぶのか。
 植爺は計算とか伏線とか辻褄とか知らない人だから、なんにも考えていない結果だと思う。伊佐次がこのまま唐人屋敷で平和にしあわせに暮らしておしまい、じゃダメだから、彼を外へ出すために引っかき回す必要があった。
 じゃあそれをどうする? 誰にやらせる? もうひとりの主役にやらせれば、出番が増えるから、それでいいや、程度の無意識さだろう。

 次は、卯之助の話。


緑野    『今東宝です。…長崎泣いてしまった…おろおろ』
ドリーさん 『えーっ、kineさんに絶交されるよ(笑)。少なくとも絶句されそう』

 というメールを交わした13日昼。顔文字省略。

 そして、このメールのやりとりを、共に13日阪急交通社貸切を観ていたサトリちゃんに伝える。

「……あたしも、絶交したい気分かも」

 わーん。
 みんなほんとに『長崎しぐれ坂』が大嫌いなんだ。

 もちろん、わたしも嫌いさ。
 嫌っていたさ。

 なのに。

 泣いちゃったんですよ、『長崎しぐれ坂』で。

 そのあと、「あの『長崎』のどこで泣いたんですか!」と、ドリーさんとサトリちゃんに詰め寄られましたがね(笑)。

 そして翌日合流したkineさんに、おそるおそる報告した。
 わたしとkineさんは、『長崎』大嫌いの双璧ぢゃないですか、このDiaryNoteで(なんて狭い世界・笑)。
 なのに、共に声高く「嫌い!」と叫んでいた片割れのわたしがこんなことになって、まずいかしら、どきどき、と。

 そしたらkineさん。

「ああ、わかるっていうか、それもあるかも」

 えええっ。
 ドリーさんやサトリちゃんよか、肯定的意見が返ってきたぞ。

 kineさんは、わたしの周囲の人たちの中でもとくに「思考」する人。真面目で、ものすごーくいろんなことを考える人。
 大嫌いと「感情」を明言しながらも、何故嫌いかを「論理的」に考える人。
 ふつー両者は並び立たないものなんだけど、それをしてしまう人(笑)。

 その思考過多なkineさんは、いろいろいろいろ考えた末に、今までとは別の、単純に「嫌い」では言い表せない結論にたどりついた模様。
 詳しくはkineさんのブログをどーぞ。

 
 さて、わたしはというと、かなり自分でもおどろいた。

 もともとわたしは涙腺が弱く、なにを見ても泣く人間だ。そんなわたしが泣いたからといって、大した意味なんかない。

 にしたって、『長崎』で泣くとは思わなかった。

 正直言ってわたし、『長崎』を観る気なんてなかったし。
 わたしが客席にいたのは、ひとえにショーを観るためであって、芝居はおまけだった。
 大好きな人たちががんばっている姿を見たいだけであって、ストーリーは考えないつもりだった。壊れ過ぎたモノを観るのは精神衛生上よくないから。
 コミケに参加していたせいもあり、相当寝不足で疲労していたし。
 開演前にサトリちゃんに送ったメールには「芝居は寝ちゃうかも」と正直に書いているくらいだ。

 実際、最初の舞踊会は眠かった。
 せんどーさんの歌声に癒されて、すずみんの笑顔や、モブで踊る娘さんたちの華やかさに癒されて、どんどん眠くなっていた。

 が。

 気がついたら、ちゃんと芝居を観て、泣いてたんだな。

 作品が壊れているのは、たしか。
 とくに、卯之助の壊れ方は生理的嫌悪の域だ。
 だけどそれすら、出演者たちの力技で別のモノに昇華してしまっている。

 役者って、すごい。

 kineさんとふたり、楽の昼公演の幕間に感心していた。
 あれだけ壊れた作品を、役者の力でここまで持っていくんだ。ここまで別物にしてしまうことが可能なんだ。

 作品の壊れた部分を、彼の演技でなめらかにしていた。
 ムラ初日と別人だよ、伊佐次。
 もちろんムラ初日からずっと演技は徐々に変わっていっていたけど、まさかここまで来ているとは思っていなかった。
 作品になんの期待もしていなかっただけに、油断していたところへくらった攻撃は痛烈だった。
 

「あの『長崎』のどこで泣いたんですか!」

 伊佐次の、銀橋の歌で。


 ムラ初日は、拳ツッコミ炸裂した箇所だよ。
 伊佐次の銀橋ソロ。

 かわいがっていた弟分のらしゃ@トウコが死んで、しかもその原因が自分にあるかもしんねーってときに、「あいつとあの子、そしておいら」「神田囃子が聞こえる」って、てめーのことしか考えられないのか!! と、愕然としたシーン。
 らしゃのことなんか、どーでもいいの? なつかしー自分の思い出の方が大切なんだ。らしゃの死なんか3歩で忘れて、うっとりと自分の可哀想さに酔ってるわけ。最低。

 なんでここで昔を懐かしがる主題歌なんだ。と、心底腹が立ち、またあきれかえった銀橋ソロ。

 そのうえ、次のシーンがまたひどい。

 弟分が死んだすぐあとに、いそいそと女とデートかよ。

 ちょっとまて。オマエに人間の感情はないのか。
 てゆーかこんなひどい男がどうして「いい男」として描かれてるのよ。納得できない。てか、気持ち悪い。

 と、ツッコミ炸裂だったのよ。
 平手ツッコミじゃないよ、拳だよ。殴りたくてうずうずするんだよ。

 その最悪なシーンで。

 泣かされるなんて。

 
 そこまでのシーンも、演技は変わっていた。
 伊佐次はさらに少年っぽくなり、「かわいい男」というのが強調されていた。

 その積み重ねの上で、どかんときた。
 銀橋ソロ。

 伊佐次の歌声が、あまりにも哀切に充ちていて。

 作品の流れもなにもあったもんじゃなく、ただのアタマの悪い主題歌使い回しでしかなかったシーンが、伊佐次の心の絶叫になっていた。

 「あいつとあの子、そしておいら」「神田囃子が聞こえる」……ただの主題歌、昔を懐かしむ歌に、らしゃへの気持ちをも込めている。
 らしゃの死と、それが自分のせいかもしれないということ、恋人の李花に刃物を向けられたこと、一見仲良くやっている卯之助がやっぱり敵であると宣言したこと、もう戻れないなのに行き場もない闇の中にいること……それらすべてが、べたべたド演歌の身も蓋もないダサい主題歌のなかに、こめられていたんだ。
 しかも、歌の中に「するとどうだ」なんて、これまたアタマ悪いとしか言いようのない無意味な説明台詞まで入れさせられて。
 この阿呆な説明台詞も、噂で聞いていたよーな浮き方はしてなかった。ものすごく自然で、かえって拍子抜けした。うまい。こんないらない台詞を付け加えられたのに、それでも流れを壊してない。

 歌詞なんて、関係ないんだ。
 役者の演技でここまで変わるんだ。

 ムラ初日に激怒していた「弟分が死んだ直後に女とへらへらデート」も、まったく別のシーンになっていた。

 おしま@檀ちゃんとふたり、失ってしまったものへの哀惜がにじみ出ていた。

 無邪気に子どものころの思い出を語るふたりが、せつなくて。
「帰りたい」「帰ろうよ」と、叶うはずのない約束を口にする無邪気であるはずがない大人の男と女が、かなしくて。

 泣けて仕方なかった。

 そのあとの、伊佐次との別れを決意するおしまの主題歌ソロもよかった。
 透明な歌声に、涙が出た。
 いろんなものを洗い流し削ぎ落とし、ここまで透明なモノが残るのか。美しいモノが残るのか。そんな歌声。

 役者ってすごい。
 こんな駄作を、駄作だとわからないレベルまで持って行っちゃうんだ。
 
 
 つっても、ラストの「愛の小舟」は泣けないけどね、さっぱり。

「それならわかります」
「あのラストで泣くよーな人は、HOTEL DOLLYに入れません」

 と、サトリちゃんとドリーさん談。
 なんとか絶交はまぬがれたよーだ。ほっ。


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