世界観構築で、やってはいけないこと、ってのがある。

 たとえば、『サザエさん』で、人が死ぬ。
 明るくやさしく、深く考えずハハハと笑ってたのしい気分のままで終わる『サザエさん』で、「もっと感動的にしよう」「いい話にしよう」と思ったからって、あの世界では人を殺してはいけないのだ。
 『ドラえもん』でも同じ。誰も死んではいけない。
 誰か死ねば「感動的」「いい話」を簡単プーに作れるが、世界観ゆえに「やってはいけない」のだ。

 つーことで、『オクラホマ!』でいちばん気持ち悪いのは世界観の歪みなのだわ。

 作品は『サザエさん』系なのに、強い立場の主人公とその側にいる者たちが弱い立場の人間をいじめて、しかもソレを「正義」として描いて、弱者はみじめに死ぬし、それでも強者たちは笑ってハッピーエンドだし。

 世界観がブレまくっている。
 このブレを修正すれば、少なくとも「気持ち悪い」ことにはならないんじゃないの?

 軽快な勧善懲悪ラヴコメディとするなら、姫を助けて悪を成敗する話にしなくてはならない。
 それなら、主人公が殺人を犯してもハッピーエンドになる。

 嫌われ者ジャッドを本当の悪人とする。窃盗脅迫暴行なんでもござれの大悪人。彼の暴力がこわくて、誰もなにも言えない。
 ローリーの農場の下働き、という設定のまま、男手が必要だしたしかに最低限仕事はしているからそれを理由に凄まれると首に出来ない、暴力がこわくて強く出られない、ということにすりゃーいい。
 物語冒頭から、理不尽に暴力をふるい、悪の限りを尽くすジャッドの場面を入れる。彼におびえる人々の姿も。
 ジャッドには人間性などいらん。ただの「悪」だ。ただの「障害」だ。それを倒し、乗り越えることで「物語」になるっつーだけものだ。
 強い絶対悪に立ち向かうカーリーは、ちゃんと「いい男」に見える。

 現代日本人の共有できる感覚として、いじめられていいのは「主役側」であって、主役側が敵側を「差別」して「いじめ」てはならない。
 『オクラホマ!』の気味の悪さは、それが逆転していることにある。

 強い立場の者が、その権力を使って弱い立場の者を虐げる。
 と、これだけ見れば、「主役は弱い立場の者で、権力と戦うのね」となるさね。
 ところが『オクラホマ!』の主役側はこの「強い立場の者」であり、権力を使って弱い立場の悪役ジャッドを虐げるのだわ。

 時代劇だから仕方がない。というのは、わかる。
 ナチスドイツがユダヤ人を迫害していた時代を舞台にした物語で、ナチス将校が弱いユダヤ人を虐め殺して、血統正しきドイツ人同士でハッピーエンドになってしあわせしあわせしていても、変だとは思わない。
 だが、ユダヤ人は別に悪くなく、彼に落ち度があったとしたらソレは「ユダヤ人だった」ということのみ、もともとナチスの方が強い立場だから、ユダヤ人を殺して排除することはなんの造作もない、ソレを殺してハッピーエンド、って、ソレ、物語としておもしろいか?
 障害を乗り越えなきゃ、盛り上がらないじゃん。強い者が弱い者を殺してハッピーエンドじゃ、物語としてなんにもおもしろくないよ。

 実際にナチス全盛期に作られ、同じ価値観の人々だけでたのしむ物語なら、単純でいいのだと思う。
 愛し合うナチス将校とドイツ人の美しい娘、そこに卑しい男が横恋慕してきた。そいつはユダヤ人だった。やっぱりユダヤはサイアクだな、悪を殺して、将校と娘はハッピーエンド。……その時代なら、ソレでよかったんだろう。
 だが現代に、こんな露骨な設定で物語を描いて、誰がよろこぶ? 思想的にどうとか、差別はよくない! とかゆー以前に、純粋に「物語」として盛り上がらないじゃん。
 だから、ナチスがユダヤを殺す話を描くなら、殺されるユダヤ側からの物語にしたり、殺す方と殺される方に葛藤を描いたりするわけでしょう?

 『オクラホマ!』が時代劇で、日常として「差別」が存在する時代の話だということはわかる。描かれた世界も、そしてそれを見てよろこぶ世界も、同じ感覚を持ってる時代の作品なんだろう。
 同時期の日本だって、「鬼畜米英!」っつって竹槍持っていたわけだし。そのときの日本人が共感できる物語は「強い日本人が、卑劣で弱い敵国人を殺した、正義は勝つ!」とかだったんだろうし。
 『オクラホマ!』で描かれている「強い立場の者が、権力を使って弱い立場の者を虐げ、その分不相応な弱い立場の者を成敗し、強い立場の者たちだけでハッピーエンド」というのが、「みんなが見てたのしい作品」だったんだろう。
 でも今、現代だし。
 現代の感覚では、「強い立場の者が、その権力を使って弱い立場の者を虐げ成敗してハッピーエンド」てのは、物語としておもしろくないよ。

 かといって、殺される弱い者側からの物語にしたり、殺す方と殺される方に葛藤を描いたりするわけにはいかないの。
 だってコレ、楽しさあふれるミュージカル作品だから。のーてんきなラヴコメだから。
 んな重いことをやると、のーてんきにならない。ミュージカルナンバーに合わない。

 強い者が弱い者を虐めて殺す、ことを「たっのしーい♪」と思う世界観を共有しなければ、真の意味でこの作品をたのしめないんだ。

 いくらなんでもソレじゃあんまりだから、と、いくぶんウェットな仕上がりにはなっているのだと思う、タカラヅカ版『オクラホマ!』。
 でもソレ、成功してないし。

 タカラヅカ版のジャッドはなんとなくかっこよくて影のある訳ありの男風になってるんだが、そのことが世界観の歪みの気持ち悪さに拍車を掛けている。

 最初に言ったように、勧善懲悪ラヴコメディとするなら、姫を助けて悪を成敗する話にしなくてはならない。
 悪は徹底して悪、同情の余地もなく悪にしなければならない。
 そうすることでようやく、主役側が数に任せてたったひとりを迫害することを正当化できるのだから。
 ジャッドが絶対悪にならなかったヅカ版は、虐げ殺される男と、殺す人たち(競売・裁判の一方的さから、殺すのはカーリーひとりではなく村の人々みんなだ)のどちらに感情移入すればいいのか混乱を招く。

 世界大戦終結以前のアメリカの世界観に徹底するか、あるいは現代的勧善懲悪に徹底するべきだった。
 や、思想的にどうこう以前に、たんに「物語をたのしく盛り上げるため」に。
 現代の正義とちがっていようがなんだろうが、「物語として正しい」ならあたしゃソレでいい。自分の好みとは別の問題としてな。
 ソレがハンパに曲がっていることが、とても気になる。

 現代日本では、カツオがクラスを扇動していじめをし、恋敵を自殺に追い込み、サザエが「死んだ子のためにみんでお祈りしたんだから、その子も浮かばれたわ!」と言ってまとめた話を、お茶の間で家族揃って「アハハ」と笑って見ることはできないよ。


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