『堕天使の涙』のプロットのゆがみについて。

 堕天使ルシファー@コム姫が、リリス@まーちゃんに出会って改心、というのはいいんだ。
 ぬるかろうとショボかろうと、「少女マンガ」だからソレでいい。

 問題は、「地獄の舞踏会」とジャンPが、途中から「どうでもいい」存在になってしまったことだ。

 起承転結の起を「地獄の舞踏会」とジャンPのために使ってしまったのだから、そのラインで進めなければプロットは崩壊する。
 何故ジャンPだったのか、思わせぶりな導入部分の、責任を取ってもらわないとこまる。

 ジャンPは、「植田景子作品」らしい主人公だ。
 ハンサムで才能のあるマザコン男。『ドン・ファン』も『パレルモ』も、主人公の絶対要素のひとつが「マザコン」だからな(笑)。
 通常の「あて書きしない」景子タン作品なら、ジャンPは主人公らしい主人公として存在できたのだろう。

 しかし『堕天使の涙』は、コムまーあて書き作品だ。
 ルシファー@コム、リリス@まーのキャラクタに傾倒してしまった以上、通常の「汎用キャラ」でしかないジャンPは、思い切りあおりを食っている。
 コムまーをより魅力的に描く、クライマックスの「光のパ・ドゥ・ドゥ」を効果的に描く、ことに集中するあまり、他のことがおろそかになった印象。

 主役であるルシファーとヒロインであるリリスを描く、のは、ぜんぜんいいんだけどね。
 エンタメは「キャラもの」であるべきだと思うから、このふたりのキャラクタと見せ場がきちんとであがっていれば、ソレだけで成功だと思うけれど。
 それとは別に、気になるゆがみがあるんだ。

 セバスチャン@キムのこと。

 思うんだが、セバスチャンってなんなんだろう。
 前日欄にも書いたが、「輝かしい過去を理不尽に奪われたのに、神を恨むことも人間を憎むこともなく、おだやかに寛容に生きている青年」とゆーのは、なんなんだ?
 ただの「地獄の舞踏会」要員ならば、エドモンとマルセル程度の露出でいいはずだ。稽古場のみの登場で充分、教会でのボランティアは不要だ。
 彼の設定は、リリスとかぶっている。
 このままリリスが登場しなかった場合、ルシファー様を改心させるのは、彼でも別に問題ないよね?

 セバスチャンの存在が半端過ぎ……ってゆーか、ルシファー様の心を動かす順番が、リリス→セバスチャン→ジャンPってのはチガウだろう。セバスチャンとジャンP逆だよ。

 セバスチャンを余分に描きすぎているために、バランス悪くなってるんだよなあ。
 や、個人的にセバスチャン好きなんだけど。好きなのとゆがみが気になるのは別だから。『天の鼓』で帝は大好きな萌えキャラだけど、彼への作者の偏愛が原因で物語が壊れたことを、苦く思っているのと同じで。

 本来「視点」であるはずのジャンPとの接点が薄くなったこと、彼と精神的に交流がないことで、ルシファー様の「傍観者」濃度が上がっているしね。
 わたしにはルシファーが主役にしか見えないが、彼が直接物語に関わらないことで主役に見えなくなるおそれがある。

 リリスの話と絡めて、ルシファー様はジャンPにも心を動かしてもらわないと。
 そーしないと双方外様感が煽られるし、結果としてジャンPがラストにルシファー様との別れを惜しむ発言をする意味がない。

 だってジャンP、ルシファーとリリスが「光のパ・ドゥ・ドゥ」踊ったの、知らないよね?
 ジャンPにとってルシファー様は、ただの「悪魔」か「疫病神」でしかないでしょうに。
 ジャンPが正しく「視点」であれば、わたしたち観客と同じでルシファー様を「視ている」から、彼へ愛情を持つに至っても不思議はないが、彼「視点」から降ろされてたし。

 「地獄の舞踏会」のために、地上にやってきた、と言ったルシファー様。
 「どうでもいい」が本音であるのはべつにかまわないが、物語上での決着はつけてもらわないと。

 マルセル殺人事件があったから、上演は中止になったんですかね。それによってカンパニーは解散、ジャンPはパトロンにも見放されて、しばらくは表舞台に出られそうもない、とか。
 「地獄の舞踏会」に関わった人たちはみんな不幸になり、それこそが真の「地獄の舞踏会」。……歌って踊って誤魔化していたけれど、まあ、そーゆー展開だよなあ?
 それでもジャンPはリリスと再会し、母との確執も和解(赦し)の兆しを見せ、今まで持っていたモノは全部失ったにしろ、ゼロから気持ち一新やり直せそうだ、つーんでノエルのあの清々しい表情、とかゆーことでしょうかね?

 ソレならソレで、きちんと描いてくれないと。

 セバスチャンの話はあくまでもエドモンとマルセル程度にとどめて、その空いた時間で「地獄の舞踏会」の顛末とジャンPのことを描いてくださいよ。

 つまりだな。

 ジャンPのことも、愛してやってくださいよ、ルシファー様。

 主役になんの興味も持たれていない役ってのは、いなくてもいい役なんですよ。

 「君に会うためにやってきた」ではじまって、そりゃないでしょ。

 ほんと、景子タンが腐女子でないことが悔やまれる(笑)。腐女子なら、ジャンPをここまでないがしろにはしないだろうに。

 わたしは水ファンだが、水くんの扱いが悪いからどうこうというのではない。
 たんに、物語の歪みが気になるのよー。
 物語的に正しければ、好きな役者の出番が少なかろうと、軽い扱いだろうと、んなこたぁどーでもいい。

 物語が歪んでいるために、ラストシーンが蛇足にしかならなくて、つまらない。

 圧倒的な力を持って発光する「光のパ・ドゥ・ドゥ」のシーンのあと、とってつけたよーなエピローグがある。
 このシーンの萎えっぷりを、どうすりゃいいんだろう。

 説明過多で、なんでもかんでもラストに台詞で解説してまとめるのは景子タンの悪い癖だが、このラストシーンもひでーもんだ。
 退団するコム姫の「退団する」ことで泣きを取ろうという魂胆見え見えの演出。
「忘れないよ、お前のダンス」
 というキメ台詞をクリスマスイヴにジャンP……つまりは水に言わせたいだけに作ったシーンなんだろうが、失敗してるから。

 『愛するには短すぎる』ラストのフレッドの無意味な独り言テイストの失敗だから。

 「地獄の舞踏会」もジャンPもどーでもよかったのなら、ラストでジャンPを出してべらべら喋らせなければいいんだ。
 「光のパ・ドゥ・ドゥ」のあとノエルのシーンになり、登場人物全員が行きかう中に、ジャンPも混ぜればいい。や、彼の扱いはほんと、その程度でいいよ、脇役のひとりぐらいにしかルシファー的にも物語的にも重要ぢゃないもん。

 
 完全版で観たいなあ、この作品。

 ちゃんとジャンPが「視点」としての役割を果たし、「地獄の舞踏会」の顛末が説明された話として。

 
 それにしても、芝居とショー、両方で「いなくてもかまわない」扱いの役を割り振られている2番手って……(笑)。
 それでも水くん単体ではかっこいいし、彼自身の輝きで食い下がっているから、役の比重がすげー軽いことなんか忘れていられるんだけどねっ。

 ただ、水くんってクリエイターの「創作心」をくすぐらないキャラクタなのかしら、と、ちと心配になる。
 景子タンとオギー、センシティヴ系のクリエイターふたりにそろって無視されるとなぁ。
 魂が健康で高温なのが、今回は禍したか?(笑)


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