『堕天使の涙』は、いびつな作品だ。構成的にいろいろまちがっている。
 そのひとつに、ジャン=ポール・ドレ@水とゆーキャラがある。

 退廃的で斬新なショー「地獄のルシファー」からはじまるこの物語。20世紀初頭のパリ社交界を席巻した謎のダンサーが、はじめて出会ったはずのジャンPに「私の名はルシファー、地獄から君を訪ねてやって来た」とテレパシーでコンタクトする。
 ルシファー@コムに導かれるように、ジャンPは彼の館を訊ね、ブルーローズ咲き乱れる庭で「地獄の舞踏会」という作品の振付を依頼される。

 えー、ここまでは、ルシファーの目的はジャンPであり、ジャンPを誘惑(笑)する理由は「地獄の舞踏会」という作品、つーことになる。

 ここまでならば、主役はルシファーで、視点がジャンPだ。
 謎の男ルシファーを描くために、観客目線のふつーの人間ジャンPがいる。ジャンPの困惑と酩酊は、観客の感情でもある。

 長々と時間を掛けて「主役ルシファー、視点ジャンP」を描いて起承転結の「起」の部分を上演したのだから、話はこのまま進まなきゃおかしい。

 ところがどっこい。
 ここから先はどーゆーことなのか、ジャンPでなくては創れないはずだった「地獄の舞踏会」もジャンP自身も、ルシファー的にもストーリー的にも、どーでもよくなってくる。
 ジャンPが「視点」からはずれてしまうんだ。
 観客はいきなり投げ出されてしまう。

 ジャンPは「母親に愛されなかった子ども」であり、「双子の妹を救えなかった兄」であるという、「欠損」を抱えている。彼が精神的に不安定かつ未熟なのはそのため。
 彼サイドの話は描かれているが、ブルーローズの場面以降はジャンPは「視点」ではない。サブストーリーのひとつ(イヴェット@さゆや、エドモン@壮と同列)、もしくはヒロイン・リリス@まーの生い立ち説明係になってしまっている。

 ヒロイン・リリスがジャンPの妹なのだから、ジャンP「視点」のまま進めても、なんの問題もなかったはずなのだが、何故か構成が散漫になり、横滑りしてしまっている。

 「地獄の舞踏会」を表現するために、数組の人間たちのドロドロ模様をそれぞれ同じ濃度で描く必要がある、というならば、冒頭で長々と「主役ルシファー、視点ジャンP」をやらなければないい。
 ジャンPもイヴェット、エドモンと同じ扱いにすればいいだけのことだ。

 だが、ジャンPを「視点」扱いしてしまった以上は、それを途中放棄してはいけない。

 『ドラえもん』において、「主役ドラえもん、視点のび太」は鉄板だ。なにがあってもこれは揺るがない。
 途中でどんなに魅力的なキャラクタやエピソードが出てきても、キャラの役割は変わらない。
 『堕天使の涙』の横滑りぶりを、『ドラえもん』を例にして書いてみると。
「ボクの名前はドラえもん、未来からキミを訪ねてやって来たんだ」
 目的は「地獄の舞踏会」の振付を依頼すること……ではなく、ダメ人間のび太の手助けをして彼の人生を正し、マシな未来につなげること。
 だからドラえもんとのび太の話であり、その一貫としてのび太の仲間たちとの関わりもあったのだが。
 途中で出てきたスネ夫の家庭問題の話になり、そのうちジャイ子の目指せ漫画家物語になり、ジャイアンの恋物語になり、しずかちゃんの温泉旅行の話になった。それぞれがとてもおもしろい話で、毎週たのしみに見ていられるとしても。
 あれ? そーいえばのび太はどうしてる? ここ何話かはのび太、出てなかったような?
 のび太が出ていなくても、スネ夫だのジャイアンだのしずかだのがなにかしらやっていて、ドラえもんが要所要所でポケットからひみつ道具を出せば『ドラえもん』という作品として成り立つ。
 だがそれでは、当初のプロット、「未来からやって来たドラえもんが、ダメ人間のび太を助け、マシな人間にする」という話からはずれてしまう。
 その回がスネ夫中心の話であったとしても、のび太は「視点」として物語に関与していなければならない。のび太が「ドラえもん、なんとかしてよ」と言うことではじめて、ドラえもんが「よーし!」とポケットに手を入れなければならないんだ。

 ジャンPが正しく視点として、人間とルシファーをつなぐ役目をしていれば、「世間知らずなルシファー様」が「人間ってキタナイっ!!」と逆ギレする……もとい、感情をぶつける相手として相応しい存在でいられたんだ。

 ルシファーは何度かジャンP相手に、「本音の話」をする。
 他の人間たちに対しては余裕ぶっこいて、欲望に身を投げ出す様を眺めたりチャチャ入れをしたりしているのに、ジャンPには何故か最初から正体を明かし、真情を吐露したりもする。
 それが、浮いている。

 「本音の話」をするときは、すでにジャンPは「視点」ではなく、ただのサブキャラになっている。
 そんな相手に取り乱して本音を叫んだりされると、ルシファー様の格が、さらに下がる。
 「世間知らずの甘ちゃん」ぶりが際立つというか。
 あー、なにも考えてないんだな、この人。つー感じ。

 テーマに関わる心情を吐露する相手ならば、「その他大勢」ではダメだ。
 彼でなければならない、という、プラスアルファが必須。

 ルシファーがジャンPと出会い、彼を口説くところからはじまる物語。
 ルシファーが彼を利用するつもりだったとしても、「神への疑問」「人間への疑問」という「本音」を語る相手になるのだから、ジャンPはルシファーにとってなにかしら「特別」な人間にならなくてはならない。
 そうすることでようやく、最後のノエルのシーンにつなげることができるんだ。
「忘れないよ、お前のダンス」
 という決め台詞を言わせるためには、男ふたりの間に「友情」が存在しなければならない。

 しかし。

 途中から話が横滑りし、ジャンPは「視点」でも「親友」でもなくなってしまった。

 浮気なルシファー様は、セバスチャン@キムに心惹かれる。

 輝かしい過去を理不尽に奪われたのに、神を恨むことも人間を憎むこともなく、おだやかに寛容に生きている青年、セバスチャン。
 「人間ってキタナイっ!!」と思春期の女の子みたいにピリピリしている箱入りルシファー様は、そんなセバスチャンに胸キュン。

 いやあ、リリスが登場してくれてよかったよ。

 セバスチャンに対してルシファー様の心が動いた瞬間に、リリス登場だからなあ(笑)。

 ヒロイン・リリスが特別な存在であることは言うまでもないので、今は置く。

 ルシファー様は最初「ジャンPに会いに来た」はずなのに。会いに来た理由は「地獄の舞踏会」だったのに、途中でルシファー様自身が言うのよ、
「『地獄の舞踏会』など、どうでもいい」
 と。
 えーっとソレ、ジャンPも「どうでもいい」ってことになるよね?
 ジャンPを選んだ理由も「暗い目に惹きつけられた」そうで、理由になってないよ!な、どーでもいい理由だし。

 のび太をマシな人間にするためにやってきたのに、20世紀の東京で他の人間たちと過ごしているウチに「のび太くんなんかどーでもいい」と言って、他の人に夢中になっているドラえもんだよそりゃ。
 のび太の立場は?!
 ……なのにオープニングでは第1回のときと変わらず、ドラえもんとのび太が主題歌に乗って仲良く冒険しているの。……すげー違和感。

 ルシファー様は、「暗い目」に惹かれ「人間なんてキタナイんんだからっ、キタナイことを証明して嘲笑ってやるんだからっ!」というマイナスの意識で地上に降り立った。
 が、実際に「暗い目」や「キタナイ人間」を見ているとセンシティヴなハートが痛み、「寛大さ」「やさしさ」などに心惹かれていく。
 そしてトドメが「リリス」という「光」。

 ジャンPに会うためにやってきたことなんか、いや、そーゆー言い訳をしていたことなんかすっかり忘れて、ノエルの光の中。

 かわいそうなジャンP。
 ほんとーは、準主役であり、観客の視点であったはずなのに。

 ラストで唐突に「忘れないよ、お前のダンス」とかどのクチがソレを言うんだみたいな唐突な台詞を言わされる。
 心の交流なんか、まったくなかったくせに。無視されていたくせに。
 ただ正体を知っていた、というだけ、リリスの生い立ちを解説しただけなのに。

 ひどいなあ、この扱い。
 なんだってちゃんとプロット管理しないんだろう。
 書いている途中で他のものに萌えたとしても、キャラ設定を忘却しちゃダメだよ。自分の萌えに従って書くと、物語が横滑りするよ。
 例として顕著なのが、こだまっちの『天の鼓』。虹人主役で書きはじめて、途中で帝に萌えちゃって、主役が誰だかわからなくなってめちゃくちゃになって終わった話。
 アレと同じ香りがする。やれやれ。


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