植田景子が、腐女子だったらいいのになあ。と、思う。

 どうしてそう思うかというと、景子タン、腐女子ぢゃないよなと、彼女の作品を観るたびに思うからだ。

 景子女史の作品は「少女マンガ」だ。ヲタクコミックでもなければ、BLでもない。
 古き良き少女マンガ。救いのないような痛さも、目を背けたくなるような醜さも、生々しい性活動もない、美しい世界。

 わたし世代の少女マンガを例に出すなら、『キャンディ・キャンディ』とかな。
 孤児のキャンディは差別されて苦労するけど、健気に生きてたくさんの美形にモテて、お金持ちのお嬢様になるのに、精神的にも金銭的にも自立して仕事に生き、最終的には初恋の王子様と結ばれる。
 差別だけでなく戦争とか人の死とか、暗いもの、重いものも含んでいるけれど、決して「少女マンガ」である範疇をはずれない。
 ニールやイライザという悪役も登場するけれど、彼らは「いじわる」をするだけで、それ以上はない。イライザが金で雇った男たちにキャンディがレイプされて妊娠して……とか、そーゆー展開には決してならない。
 勧善懲悪で「お母さんが、小学生の娘に読ませていい、と思う」よーな世界観と物語。

 描きたいのは現実の生々しさではなく、心地よいロマンだから。
 現代の少女マンガはもっとエグいし、セックス込みの恋愛を10代の少女があったりまえにしているけれど、「古き良き少女マンガ」はそうぢゃない。
 性愛なんかなくてイイのだ(笑)。
 子ども(少女)が理解できる世界観に、行き過ぎた醜さやいやらしさ、不健康さは不要。
 ひたすらきれいに。ロマンティックに。

 たとえば『落陽のパレルモ』では主役ふたりがベッドで暗転していたけれど、必要性がないあたり、昔の少女マンガだと思うわ。行為に至る性を含んだ恋愛は描かれていないもの(笑)。
 描きたかったのは主役たちの既成事実ではなく、ヴィットリオFくんの「おはよう、お寝坊さん」だろうしな。(あれぞ昔の少女マンガの極地!!)

 古き良き少女マンガに、歪んだモノは含まれない。
 だから、ホモ萌えもない。
 あからさまにホモである必要はないよ。腐女子が邪推してきゃーきゃー言えるような「萌え」なキャラクタだとかシーンだとか展開だとか。それがナイ。

 おしいなと思う。
 心から(笑)。

 『堕天使の涙』では、堕天使@コムが、人間@水を誘惑し、男ふたりで倒錯的に踊るシーンがあるんだが。

 ははははは。

 こんなシーンを作ってなお、腐女子になれないあたり、才能を感じます。
 ほんとに、腐女子スキル持ってないんだろーなー。こだまっちと足して2で割ってほしいくらいだ。さいとーくんとでもいいぞ(笑)。

 
 『堕天使の涙』は、堕天使ルシファーが、「何故神は人間を創ったか」「何故神が人間を愛するか」の答えを得る。……とゆーストーリー。

 まず「人間は醜い」ということが表現されるわけなんだが。

 この「醜さ」がね、ぬるいの。
 出世のために恋人捨てて金持ち男の元へ走るダンサー娘だとか、保身のため盗作をして殺人を犯す作曲家だとか。
 台詞だけで出てくるフランス革命前後の混乱期だとか、帝政ロシアの「血の日曜日」だとかの方が、ぐちゃぐちゃにエグいんですけど。
 なのに、そのほんとーにひどい出来事を「知っている」不老不死のルシファー様が、今さら「愛を金に換えるダンサー娘、フケツ!」だとか、「盗作最低! 保身殺人最低!」だとか言ってヒステリックに高笑いされても、こまるのよ。

 そんな「小学生が理解できるレベルの“わかりやすい、悪”」で、「地獄の舞踏会」と言われてもなー。

 で、その「悪」に翻弄される人間の「醜さ」に対するものとして、「愛」の存在を知ることになるのだが。

 この「愛」がね、ぬるいの。
 親から愛されず、どん底人生を生きてきた不幸の百貨店みたいな女リリス@まーちゃんが、それでも誰も恨まずすべてを受け入れて死んでいくのを見て……って、ええっ、それっぽっちのことにも何千年生きてきて、触れられずに来たの?!

 そんな「小学生が理解できるレベルの“わかりやすい、愛”」で、「光のパ・ドゥ・ドゥ」と言われてもなー。

 広げた風呂敷は大きいんだけど、やっていることは「小学生が理解できるレベル」の単純さ。

 なまじテーマが深みを期待させるものだから、「えっ、これだけなの?」と、差し出されるものの浅さに、愕然とする。

 やたら「地獄」だの「醜い」だの「神」だの連呼しておいて、実際のスケールの小ささときたら、もお……。

 そして景子タン作品らしく細部にまでこだわった、すばらしい美しさで舞台は幕を上げているわけですよ。
 なまじビジュアルが壮大で美しいだけに、そこで展開される陳腐な物語とのギャップが激しくなるわけですよ。
 何千年も生きてきたとは思えないルシファー様の世間知らずぶりは、オープニングの禍々しい美しさを見事に裏切るわけです。
 
 
 ふつーに考えればな。

 
 だが、ここで話は最初に戻る。

 植田景子作品は、「少女マンガ」である。

 だから、これでいいのだ。

 描きたいのは現実の生々しさではなく、心地よいロマンだから。
 子ども(少女)が理解できる世界観に、行き過ぎた醜さやいやらしさ、不健康さは不要。
 ひたすらきれいに。ロマンティックに。

 あそこまで差別されいじめられていたキャンディが、それでもレイプされたり嬲り殺されたりしないのは、少女マンガだから。
 そんなものは、テーマに必要ないから。

 ルシファー様が「見ろ、人間はこんなに醜い!」と嬉々として例に挙げるのが、「愛を金に換えるダンサー娘、フケツ!」だとか、「盗作最低! 保身殺人最低!」だとかなのは、正しいのだ。
 たかだか「心美しい人間の娘」ひとりに出会ったから、ころりと改心したとしても、正しいのだ。

 『堕天使の涙』は少女マンガであり、「タカラヅカ」は少女マンガを三次元で表現しうる数少ないジャンルなのだから。

 カテゴリの範疇で「悪」と「愛」を表現している以上、これでいいのだ。

 そのうえこの作品には、ただの「記号」をカタルシスに変えるふたりの主役が、ルシファーとリリスを演じている。

 ルシファー@コムとリリス@まーちゃんが、この「少女マンガ」を立体的に表現し、クライマックスのリリスの死から「光のパ・ドゥ・ドゥ」までを説得力を持ってドラマティックに見せてくれる。

 とくに、「光のパ・ドゥ・ドゥ」は圧巻。

 作品のすべての粗を覆い隠す、大いなる光。

 
 『堕天使の涙』は、気持ちのいい「少女マンガ」だ。
 大人になってしまった、だけどまだたしかに胸の中にいる「少女」のわたしが、感動して泣いている。

 ま、そして、腐女子な大人のわたしは、苦笑している。あまりに「少女マンガ」で、腐女子的な萌えがなくて(笑)。


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