はじまりの人を語る・その2。@Fallin’ Love with Yu
2008年11月6日 タカラヅカ 轟悠の、「恋愛モノ」が見たい。
「芝居」が見たい。
舞台にトドひとりではなく、「他者」のいる公演が見たい。
轟悠ディナーショー『Fallin’ Love with Yu』で、トド様はいつも通りにひとりぼっちで、そして、ひとりで十分魅力的な姿を見せてくれていた。
他者を必要としないほど作り込まれ、型にはまる必要がないほど「男役」を極めた人だからこそ、彼ひとりで完結するのではなく、他者と関係することで生じる「化学変化」を見たいと思った。
……とはいえ、「芝居」で、トドと対等に渡り合える人が、どれほどいるんだろうか。
前日欄で語った通り、ヅカには学年があり、それによって世界が違ってくる。
今、それぞれの組に「主演」として特出したって、「トド様、浮いてるね」と言われるだけで、同じ舞台に立っている意味は薄いと思う。
大劇場公演はどうあがいたって「組」のもので、特出したところで「主役」にはなれない。劇団や演出家ががんばって「トドロキ主演ですよ」とやったところで、彼が主役ではなくただの「外から来た人」なのは一目瞭然だ。
世代が違いすぎる。
そーゆー不自然なことをするのではなく、トドの持つ世界に合わせた選抜公演をやってほしいと思う。
『Kean』は、今までの中でもっともトドロキの実力を発揮できる公演だった。
あのトドを持ってしても苦戦するような、ヅカの枠を超えた作品だった。
大劇場でどーでもいい「主役」という看板だけが立派な役をやらせ、きれーな衣装で真ん中で吠えていればいいという、トドに与えられがちな今までの役とはちがい、内面を掘り下げていく役。トド自身が表に出したことがないようなモノを、どろどろと表に出す必要のある役。
トド個人でいえば、この作品を彼主演でやるのはとても意味があったわけだが……。
劇団もいちおー商売でやっているので、トドひとりの成果とか成長とかだけを糧に興行は打てない。
2番手スターとか、将来売り出したいとソロバンをはじいている若手とか、経営側の計算・大人の事情を盛り込んでしか、公演を成立させることは出来ない。
つーことで、2番手スターで将来トップ確実のれおんくんが出演することになり、若いまりもちゃんがヒロインを務め(トドといくつちがうんだろー……遠い目)、台詞言うだけでいっぱいいっぱいの真風くんが役をもらい、破壊力のあるソロをれんたが披露したりする、そーゆー公演にもなるわけだ。
Wヒロインとして、みなみちゃんが出演していたのは、せめてもの実力面補強だろうなと(笑)。
結果として、れおんもまりもちゃんもよくやっていたし、役の少ない……つまりはその少ない役を与えられた人たちは、やたらと比重が高くて大変だったりしたわけだけど、それでもトドに食らいついてがんばっていた。素直に、すげえよ、と心から拍手するよ。
それはたしかなんだけど。
トド単体で見るとやはり、相手役を務めるには足りていなかったんだ、彼らは。
キーンのひとり芝居めいていた。
こんなにおもしろい芝居なのに、トドが孤軍奮闘するばかりで、「芝居」としての総合的な調和には欠けていたと思う。
もちろんそれは、ひとりで芝居をしてしまうトドにも問題はある。
でも彼が主演で彼中心に展開する芝居なんだから、彼に合わせて、彼と同じレベルで芝居をしてくれよ、と、思ってしまうんだ。……所詮トドファンの身としては。
ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとりだ。
いつも。
それが、彼の芸風であり、魅力だということはわかっている。
だけど、それこそが、もどかしい。
トドがひとり芝居ではなく、座の一員として芝居することに心を砕いている……ように見えた公演がある。
それが、『オクラホマ!』だ。
まさかの若者役で、20歳近くトシのチガウ女の子を恋人に、いちゃいちゃラヴラヴしなければならなかったし、上級生のいない組であるゆえ、出演者たちとの世代差が大きかった。
さらに演出家は、ナニも考えていない中村B。主演がトド様だからって、トド様風の演出はしない。つか、できない。
トドは懸命に若返り、いつもの「トド様」オーラを消してカンパニーに溶け込もうとしていた。
ソレが成功していたどうかはともかく、歩み寄ろうとしているトド様はくすぐったい魅力があった。
初心に戻って芝居に取り組んでいる風が、かわいくてわくわくした。
が。
その翌年のコンサート『LAVENDER MONOLOGUE』で、トドはまた完璧な「ひとり芝居」に戻ってしまった。
ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとり。
若手中心の出演者たちの中で、トドはもちろんひとりで浮かび上がっている。ぽっかりと。
世代も時代も芸風も、ナニもかもチガウ。
ここまでチガウ人たちを同じ舞台に立たせることが不思議だ。
早い話が轟悠オンステージつーか、独り舞台。
ひとりでいる孤独より、大勢の中にいるときの孤独の方が、つらい場合がある。
子どもたちのなかにいるたったひとりの大人が、大人だから「いちばんなんでもできるんだよ」と悦に入っているよーな構成は、見ていてたのしいものではなかった。
演出家は、酒井。彼がトドを好きで、トドの実力を高く評価しているのはわかるし、それゆえの構成だともわかる。
わかるがこれは、トドのためなんだろうか? 今この一瞬、他出演者より際立って優れているトドロキを眺めて終わり、になることに、意味があるのだろうか?
トドはこれからもずっと、ヅカにいるのに?
『Kean』はそのコンサートの後だ。
トドはすっかり、いつもの孤高の人に戻ってしまっていた。
作品がトド様の手に余ったこともあり、演出家の谷がトドのひとり舞台上等の演出をしたこともあるだろう。
だが、こーゆー役者の能力ガチンコ勝負の作品ですら、ひとり芝居をする人だと見せつけることになった。
そして今年の宙組特出公演『黎明の風』『Passion 愛の旅』はイシダと酒井。
イシダはトドがどーゆー人だとか関係なく、ただ自分がやりたいことをやる。彼が描くところの男性的無神経さに満ちた主役に、たまたまトドロキの持ち味がハマる、というだけで、イシダはアテ書きはしていない。彼はジェンヌより自分自身を愛している。
反対に酒井は、トドを評価しているからこそトドのために演出をし……結果、いつものようにトドを孤立させる。トドひとりが真ん中どーん、あとはカオのない脇役、という。
誰もトドと同じ世界にいない。
『黎明…』でトドのそばに汝鳥さんが多くいてくれたことは救いだが、イシダ脚本なので主人公は結局誰とも深くは関わらないし、掘り下げられることもない。
役者として、男役として、トドロキがなりふり構わず「芝居」で共演者と火花を散らす……そーゆーものは、見られないままなんだ。
トドファンやって、もう20年も経つのに。
「他者」と関わり合うトドロキが見たい。
できることならば、「恋愛」するトドロキが見たい。
ぬるい一ファンとして、心から願う。
「芝居」が見たい。
舞台にトドひとりではなく、「他者」のいる公演が見たい。
轟悠ディナーショー『Fallin’ Love with Yu』で、トド様はいつも通りにひとりぼっちで、そして、ひとりで十分魅力的な姿を見せてくれていた。
他者を必要としないほど作り込まれ、型にはまる必要がないほど「男役」を極めた人だからこそ、彼ひとりで完結するのではなく、他者と関係することで生じる「化学変化」を見たいと思った。
……とはいえ、「芝居」で、トドと対等に渡り合える人が、どれほどいるんだろうか。
前日欄で語った通り、ヅカには学年があり、それによって世界が違ってくる。
今、それぞれの組に「主演」として特出したって、「トド様、浮いてるね」と言われるだけで、同じ舞台に立っている意味は薄いと思う。
大劇場公演はどうあがいたって「組」のもので、特出したところで「主役」にはなれない。劇団や演出家ががんばって「トドロキ主演ですよ」とやったところで、彼が主役ではなくただの「外から来た人」なのは一目瞭然だ。
世代が違いすぎる。
そーゆー不自然なことをするのではなく、トドの持つ世界に合わせた選抜公演をやってほしいと思う。
『Kean』は、今までの中でもっともトドロキの実力を発揮できる公演だった。
あのトドを持ってしても苦戦するような、ヅカの枠を超えた作品だった。
大劇場でどーでもいい「主役」という看板だけが立派な役をやらせ、きれーな衣装で真ん中で吠えていればいいという、トドに与えられがちな今までの役とはちがい、内面を掘り下げていく役。トド自身が表に出したことがないようなモノを、どろどろと表に出す必要のある役。
トド個人でいえば、この作品を彼主演でやるのはとても意味があったわけだが……。
劇団もいちおー商売でやっているので、トドひとりの成果とか成長とかだけを糧に興行は打てない。
2番手スターとか、将来売り出したいとソロバンをはじいている若手とか、経営側の計算・大人の事情を盛り込んでしか、公演を成立させることは出来ない。
つーことで、2番手スターで将来トップ確実のれおんくんが出演することになり、若いまりもちゃんがヒロインを務め(トドといくつちがうんだろー……遠い目)、台詞言うだけでいっぱいいっぱいの真風くんが役をもらい、破壊力のあるソロをれんたが披露したりする、そーゆー公演にもなるわけだ。
Wヒロインとして、みなみちゃんが出演していたのは、せめてもの実力面補強だろうなと(笑)。
結果として、れおんもまりもちゃんもよくやっていたし、役の少ない……つまりはその少ない役を与えられた人たちは、やたらと比重が高くて大変だったりしたわけだけど、それでもトドに食らいついてがんばっていた。素直に、すげえよ、と心から拍手するよ。
それはたしかなんだけど。
トド単体で見るとやはり、相手役を務めるには足りていなかったんだ、彼らは。
キーンのひとり芝居めいていた。
こんなにおもしろい芝居なのに、トドが孤軍奮闘するばかりで、「芝居」としての総合的な調和には欠けていたと思う。
もちろんそれは、ひとりで芝居をしてしまうトドにも問題はある。
でも彼が主演で彼中心に展開する芝居なんだから、彼に合わせて、彼と同じレベルで芝居をしてくれよ、と、思ってしまうんだ。……所詮トドファンの身としては。
ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとりだ。
いつも。
それが、彼の芸風であり、魅力だということはわかっている。
だけど、それこそが、もどかしい。
トドがひとり芝居ではなく、座の一員として芝居することに心を砕いている……ように見えた公演がある。
それが、『オクラホマ!』だ。
まさかの若者役で、20歳近くトシのチガウ女の子を恋人に、いちゃいちゃラヴラヴしなければならなかったし、上級生のいない組であるゆえ、出演者たちとの世代差が大きかった。
さらに演出家は、ナニも考えていない中村B。主演がトド様だからって、トド様風の演出はしない。つか、できない。
トドは懸命に若返り、いつもの「トド様」オーラを消してカンパニーに溶け込もうとしていた。
ソレが成功していたどうかはともかく、歩み寄ろうとしているトド様はくすぐったい魅力があった。
初心に戻って芝居に取り組んでいる風が、かわいくてわくわくした。
が。
その翌年のコンサート『LAVENDER MONOLOGUE』で、トドはまた完璧な「ひとり芝居」に戻ってしまった。
ひとり芝居じゃないのに、他にも出演者はいっぱいいるのに、舞台の上に人はいるのに、……なのに、トドはひとり。
若手中心の出演者たちの中で、トドはもちろんひとりで浮かび上がっている。ぽっかりと。
世代も時代も芸風も、ナニもかもチガウ。
ここまでチガウ人たちを同じ舞台に立たせることが不思議だ。
早い話が轟悠オンステージつーか、独り舞台。
ひとりでいる孤独より、大勢の中にいるときの孤独の方が、つらい場合がある。
子どもたちのなかにいるたったひとりの大人が、大人だから「いちばんなんでもできるんだよ」と悦に入っているよーな構成は、見ていてたのしいものではなかった。
演出家は、酒井。彼がトドを好きで、トドの実力を高く評価しているのはわかるし、それゆえの構成だともわかる。
わかるがこれは、トドのためなんだろうか? 今この一瞬、他出演者より際立って優れているトドロキを眺めて終わり、になることに、意味があるのだろうか?
トドはこれからもずっと、ヅカにいるのに?
『Kean』はそのコンサートの後だ。
トドはすっかり、いつもの孤高の人に戻ってしまっていた。
作品がトド様の手に余ったこともあり、演出家の谷がトドのひとり舞台上等の演出をしたこともあるだろう。
だが、こーゆー役者の能力ガチンコ勝負の作品ですら、ひとり芝居をする人だと見せつけることになった。
そして今年の宙組特出公演『黎明の風』『Passion 愛の旅』はイシダと酒井。
イシダはトドがどーゆー人だとか関係なく、ただ自分がやりたいことをやる。彼が描くところの男性的無神経さに満ちた主役に、たまたまトドロキの持ち味がハマる、というだけで、イシダはアテ書きはしていない。彼はジェンヌより自分自身を愛している。
反対に酒井は、トドを評価しているからこそトドのために演出をし……結果、いつものようにトドを孤立させる。トドひとりが真ん中どーん、あとはカオのない脇役、という。
誰もトドと同じ世界にいない。
『黎明…』でトドのそばに汝鳥さんが多くいてくれたことは救いだが、イシダ脚本なので主人公は結局誰とも深くは関わらないし、掘り下げられることもない。
役者として、男役として、トドロキがなりふり構わず「芝居」で共演者と火花を散らす……そーゆーものは、見られないままなんだ。
トドファンやって、もう20年も経つのに。
「他者」と関わり合うトドロキが見たい。
できることならば、「恋愛」するトドロキが見たい。
ぬるい一ファンとして、心から願う。