銃を向けられ、肯定すれば殺されるとわかっていながら、ギャツビーは肯定する。車を運転していたのは、自分だと。

 まるで、運命のように。
 いや、運命に、勝利したかのように。
 誇らしく、虚空に向けて宣言する。

 愛していると。

 肯定の言葉は、愛の言葉だ。愛の宣誓だ。
 このときすでにデイジーは若き日の恋より現実の生活を選び、ギャツビーのもとにはいない。戻ってこないとわかっている。
 それでもギャツビーは宣言する。誇らしげに。恍惚すら見せて。

 あいしている、と。

 杜けあきの壮絶な演技、対峙する古代みず希の研ぎ済まされた狂気、同期の芝居巧者ふたりの真正面からのぶつかりあい。

 銃を向けられてからのギャツビーの心理の移り変わりがいいのな。最初のとまどいや恐怖から、なにかに達観したような虚をついた一瞬、続くこの世のなにも見ていないような、せつない空白と、次第に広がっていく恍惚の表情。

 息をのんださ。
 彼が「そこ」にたどり着くまでの思いに。人生に。

 彼は、勝利者だ。
 誰がなんと言おうと、彼は幸福だ。
 神も運命も、彼の真実をねじまげることはできなかった。

 たとえ周囲の人々が、世間が、なんと言おうとも。
 彼の葬式に、参列者いなくても。それが、世間が彼に与えた評価だとしても。

 彼を哀れむことなど、できない。

 ギャツビーの壮絶な最期、そして、純朴な老父の口から語られる、少年ギャツビーの姿が、名曲「朝日が昇る前に」を歌うギャツビーの姿に収束されて、幕が下りる。

 リピートするほど、ギャツビーのかなしさ、その人生がせつなくて泣けて泣けて仕方なかった。
 彼を幸福だと思うことと、その命を懸けた愛の絶唱にカタルシスを感じることとは別に、そうやって生きることしかできなかった男のせつなさが、泣けて仕方なかった。

 
 ……とまあ、年寄りなので、昔語りをする。

 『華麗なるギャツビー』は、トップスター杜けあき氏の折り返し地点となった作品だ。

 わたしはカリンチョさんの昔を知らないので、彼の最初の印象はコメディばっかやる人だ。
 スマートな美形ってわけではなかったし、個性的なスタイルと顔立ちだったし、初見では魅力がわからなかった。
 よその組のトップさんはみんな美人なのに、どーして雪組はきれいじゃないんだろう、と思った……失礼なことに。(大浦みずき氏の舞台顔は知っていても、この当時素顔は知らなかった)

 トップ就任のとほほ作『ムッシュ・ド・パリ』、時代錯誤な大歌舞伎の上にマロン・グラッセにすがりついて泣いちゃうよーなアンドレの『ベルサイユのばら』、いきなりお茶の間時代劇『天守に花匂い立つ』、すちゃらかコメディ『黄昏色のハーフムーン』、日本モノと洋モノショー2本に短いコメディ1本の3本立て公演、ときたわけだから、ヅカファンなりたてのわたしは、すっかり誤解していた。

 雪組とは、コメディ専門の組である。
 雪組トップスター・杜けあきは、コメディ専門の人である。

 ヅカファンになって数年、コメディばっか見せられていたんだもの。ショーでも、おさげアタマに顔にそばかす描いて「アタシ、長靴下のピッピ!」とか言って、ドリフ張りのお笑いをやっていたんだもの。
 今で言うなら、はじめて観た公演が『君を愛してる』で、しかもそっから数年間、『君を愛してる』と同じタイプの他愛ないハッピーコメディばかりが続き、水夏希って、ひとはいいけど、なさけない男の人がハマる人なんだ。と思い込む、ようなもんですな。
 途中『ベルばら』はやってるけど、全組巻きこんでの祭りだったので、「コメディの雪組」も参加せざるを得なかったんだな、程度の感覚でしかなかったさ。

 雪組ってのは、カリンチョさんってのは、そーゆーもんだと思っていたから。

 そんなカリさんのトップ6作目が『華麗なるギャツビー』で。
 カラーの違いに、どんだけ仰天したか。

 『君愛』の水しぇんしか知らないところへ、『マリポーサの花』を見せつけられるよーな感じですな。

 シリアス芝居、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 かっこいい男の役、できたんだ?!

 ……や、観たことなかったもんだから。

 雪組ファンで雪組しかほぼ観ていない状態だったのに、トップスターの実力すら、ろくにわかっていなかった、若かりし頃。
 芝居がうまいことはわかってたよ。コメディができるのは、実力者だからだって。歌がうまいのもわかっていたよ。滑舌と声の良さだってわかっていたよ。笑わせる芝居をあそこまで余裕でやる人なんだから。
 しかし。
 いわゆる「ヅカの男役」として「美しい」かどうかというのは……考えたことがなかった。

 そんな役も作品も、ほんとになかったから。

 ギャツビーで目からウロコ、びっくりしていたら、そっから先はシリアスで重苦しい作品しか来なくなった。……カリンチョのトップ人生、前半と後半でカラー違い過ぎ。

 ギャツビー@カリンチョは、マジでかっこよかった。
 包容力あふれる大人の男。しかし少年ぽさをにじませた、愛すべき男。生きる器用さと愛への不器用さ。

 初見では、わからなかった。
 なに、この話?
 今よりはるかに若く、幼いわたしには、ギャツビーの生き方もデイジーの魅力も、ラストシーンの意味も、わからなかった。
 理不尽な話だと思った。
 自分のために恋人が死んだってのに、車から降りもせずに行ってしまう、デイジーってナニ、最低女! こんな女のために死ぬってすげー犬死。

 あまりにも納得の行かない話だったので、映画をレンタルして見てみた。ロバート・レッドフォードのやつ。
 ……映画を見て、さらにアゴが落ちた。ま、ますます理解できねえ、この話。

 タカラヅカ版『華麗なるギャツビー』は、かなりヅカ風アレンジがしてあるんだってことが、わかった。
 演出家の腕がいいことも、ここでわかった。

 2回目に公演を観たときは、ラストにデイジーが車から降りて、墓穴に花を投げ入れていたよーな気もするが、「それだけかよっ?!」という憤りに変化ナシ。這いつくばって泣いて詫びろ!と。

 繰り返し観て、観ているうちに、ものごっつーハマったのだわ。
 ギャツビーもだし、デイジーもだし、ギャツビーを取り巻く裏社会の男たちの関係にも(笑)。

 杜けあき、というスターにハマったのは、このときからだ。
 あのクソ広い劇場で、2500人もの人間を相手に、あそこまで濃い芝居をしていいんだってこと、内面を掘り下げていいんだってこと、高密度のモノが爆発するような演技をしていいんだってことを、知った気がする。

 テレビカメラでアップにならなくても、役者の演技でドアップに見え、その表情のひとつひとつが忘れられなくなるんだってこと、はじめて知ったんだ。

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