本編が終わり、フィナーレがはじまる。

 タカラヅカ・ショーには形式があり、オープニング、前半部分、中詰め、後半部分、フィナーレ、パレードと構成が決まっている。
 どんなテーマでなにを作るかは自由だけど、フィナーレとパレードは鉄板。いろいろと個性的だったオギーの『タランテラ!』ですら、それまでのフリーダムさを忘れてフィナーレ~パレードだけはきっちりやっていた。(『ソロモンの指輪』は30分で芝居の前、なので規格外)

 タカラヅカ・レビュー『インフィニティ』のフィナーレもまた、正統派のフィナーレだった。

 各国めぐりでくりひろげられてきたショーのラストを飾るのが、日本。

 「タカラヅカ」でしかありえない、白い「男役」衣装に身を包んだまっつが登場する。
 歌うのは、「ゴンドラの歌」。
 命短し恋せよ乙女。
 クラシカルな歌に、クラシカルなドレスの娘役たちが登場し、主演の周りでひらひらと踊る。

 それは古い古い「タカラヅカ」の図。
 どれだけ古くても、時代が進んでも、変えてはならない、忘れてはならない、「タカラヅカ」の基本の図。

 まっつが登場したとき真っ白だったホリゾントの光が、娘役の登場で薄桃になるのが好き。
 上にあるセットの輪の色はピンクだったか薄い緑だったか。

 桜の色だ。

 「日本」の色だった。
 奥ゆかしく、されど凛とした気風を持つ、桜のイメージ。

 まっつから歌い継ぐのはあゆっち。彼女の歌声はここがいちばんキレイ。
 命短し恋せよ乙女。

 無限大、インフィニティ、終わりなき世界……その果てない旅のラストに、有限を歌う。

 終わる。終わってしまう。
 無限など存在しない。
 命は短い。美しさも短い。
 幸福や感謝もいずれ薄れ、失われていく。

 「タカラヅカ」自体がそもそも、嘘の世界だ。
 所詮舞台の上、所詮虚構。
 「男役」なんて、無意味なもの。

 それでも。

 今、美しさに胸が震える。

 嘘でも。
 消えて、なくなってしまうものだとしても。

 曲が終わると、威勢のいい和太鼓の音が聞こえてくる。
 和太鼓だよ! ドラムロールのように連続して打ち鳴らされる音。
 後ろに1列に並んでいるのは、男たち。

 黒燕尾姿。

 まっつと娘役たちがはけるのと入れ替わりに、段上に整列した黒燕尾の男たちが踊り出す。
 曲は佐渡おけさ。

 日本民謡で黒燕尾。

 この高揚感を、どう言えばいいのか。

 日本人で良かった。

 日本への誇りがわき上がる。
 宝塚歌劇なんてゆー、わけのわかんないモノが存在できるのは、日本だからだ。日本の文化、近代史の中で培われてきたモノだ。
 100年の歴史の中、磨き抜かれてきたモノだ。

 力強く踊る黒燕尾の男たち、そこへ再登場したドレス姿の娘役たちが絡む。
 激しい曲調、要所で響く和太鼓。

 和太鼓っていいよねええ。聴くと魂が沸き立つっていうか。
 プリミティヴな野生を刺激される感じ。
 日本人の根源というか、祖型を確かめさせられるというか。

 そうやって盛り上げきったところで。

 黒燕尾まっつが登場する。

 男役と娘役、それぞれが1列に整列したいちばん端に。
 みなが腰を落としたその瞬間、燕尾姿で立つまっつにライトが当たる。

 黒燕尾を着て、ただ、立っている。
 その、美しさ。

 まっつは踊りながら男役・娘役の間を移動する。
 まっつの動きに合わせて、周囲の者たちが身体の向きを順番に変えていく。

 大劇場、大階段でトップスターが登場するときの演出・振付だ。
 広大な舞台の、劇場の空気が、動きが、トップスターひとりに集約される、あの場面。

 バウホールで、たった22人しかいない舞台で、大階段の演出をやってのけた。

 ここから先はもお、涙ナシでは観られません(笑)。
 贔屓が「真ん中」で黒燕尾を踊る……ということももちろん感涙なんだけど。
 それだけではなく。

 黒燕尾まっつが下手から上手へ移動しきる……つまり、大階段を降りきったところで、次の場面。
 娘役たちがさーっとはけていき、男役だけの場面になる。

 黒燕尾群舞。

 曲は「荒城の月」。

 そこにあるのは、「タカラヅカ」だった。
 あまりにも強く「タカラヅカ」。
 いろんなものに囚われない、揺らがない、宝塚歌劇の根源たるもの。
 日本の曲で黒燕尾の男役がボレロを踊る。

 タカラヅカはたしかに、いろんな国を舞台にする。タカラジェンヌたちは髪を金色に染め、外国人を演じる。
 だがそれは本物の外国なわけでも、外国人なわけでもない。そんなもんが見たけりゃ洋画でも海外ミュージカルでも見てりゃーいい。
 外国を舞台にしても、あくまでも「日本」なんだ。日本人の価値観、美意識を基本として、カタチだけエキゾチックなものにする。

 各国巡り、世界旅行をテーマとする『インフィニティ』で、最後に帰り着く国が日本であり、「日本」と銘打った場面でザ・タカラヅカを見せる。
 その演出に、感動した。

 また、主演の未涼亜希は「タカラヅカ」を具現するスターだ。
 小柄で華奢な日本人女性が、芸の力で「男」を表現する、「男役」という架空の存在を作り上げる……宝塚歌劇という、ファンタジー。
 本物の男じゃない。男役だ。赤い唇で燕尾を着る、性別とも現実とも切り離された存在だ。

 「タカラヅカ」の根底の美しさを、見た。

 それゆえに、泣けて仕方がない。

 黒燕尾群舞で形作る逆三角形、その頂点に立って踊る。
 タカラヅカの全男役が憧れ、ほんとうにごくわずかな者しか味わえない、その貴重な場を、演出を与えてくれた、稲葉先生ありがとう。

 黒燕尾場面は、わたしのなかの「タカラヅカ愛」が刺激されまくるんだわ。
 こんなタカラヅカを愛している。誇りに思っている。それが、目の前で形になって差し出されている……そんな感じ。
 で、そのセンターにいるのがご贔屓って……そりゃ、泣けるわ。

 また、何故わたしが未涼亜希を好きなのかが、よくわかった場面でもあった。

 わたしは年季の入ったヅカヲタだ。贔屓の有無関係なく全組全作品観るし、劇団の行ういろーんなことに一喜一憂しながらも、離れることなく見続けてきた。
 わたしは「タカラヅカ」というモノを愛している。
 この独特なカルチャーを。

 そして未涼亜希は、泣けるほど「タカラヅカ」だ。
 頑なに、ある意味時代錯誤なほどに。
 譲れないもの、崩してはならないもの、見失ってはならないもの……そんな宝塚歌劇のスピリットを持った男役なんだ。

 黒燕尾ダンスは、息を詰めて見過ぎで、死にそーになってまつ(笑)。
 振付がもお、ほんとに大劇場の大階段前で踊る黒燕尾ダンスまんまで……「タカラヅカ」のお約束、ルールそのまんまで……稲葉くんありがとう。


 続く。

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