誇り高き美しさに。@インフィニティ
2012年1月15日 タカラヅカ 本編が終わり、フィナーレがはじまる。
タカラヅカ・ショーには形式があり、オープニング、前半部分、中詰め、後半部分、フィナーレ、パレードと構成が決まっている。
どんなテーマでなにを作るかは自由だけど、フィナーレとパレードは鉄板。いろいろと個性的だったオギーの『タランテラ!』ですら、それまでのフリーダムさを忘れてフィナーレ~パレードだけはきっちりやっていた。(『ソロモンの指輪』は30分で芝居の前、なので規格外)
タカラヅカ・レビュー『インフィニティ』のフィナーレもまた、正統派のフィナーレだった。
各国めぐりでくりひろげられてきたショーのラストを飾るのが、日本。
「タカラヅカ」でしかありえない、白い「男役」衣装に身を包んだまっつが登場する。
歌うのは、「ゴンドラの歌」。
命短し恋せよ乙女。
クラシカルな歌に、クラシカルなドレスの娘役たちが登場し、主演の周りでひらひらと踊る。
それは古い古い「タカラヅカ」の図。
どれだけ古くても、時代が進んでも、変えてはならない、忘れてはならない、「タカラヅカ」の基本の図。
まっつが登場したとき真っ白だったホリゾントの光が、娘役の登場で薄桃になるのが好き。
上にあるセットの輪の色はピンクだったか薄い緑だったか。
桜の色だ。
「日本」の色だった。
奥ゆかしく、されど凛とした気風を持つ、桜のイメージ。
まっつから歌い継ぐのはあゆっち。彼女の歌声はここがいちばんキレイ。
命短し恋せよ乙女。
無限大、インフィニティ、終わりなき世界……その果てない旅のラストに、有限を歌う。
終わる。終わってしまう。
無限など存在しない。
命は短い。美しさも短い。
幸福や感謝もいずれ薄れ、失われていく。
「タカラヅカ」自体がそもそも、嘘の世界だ。
所詮舞台の上、所詮虚構。
「男役」なんて、無意味なもの。
それでも。
今、美しさに胸が震える。
嘘でも。
消えて、なくなってしまうものだとしても。
曲が終わると、威勢のいい和太鼓の音が聞こえてくる。
和太鼓だよ! ドラムロールのように連続して打ち鳴らされる音。
後ろに1列に並んでいるのは、男たち。
黒燕尾姿。
まっつと娘役たちがはけるのと入れ替わりに、段上に整列した黒燕尾の男たちが踊り出す。
曲は佐渡おけさ。
日本民謡で黒燕尾。
この高揚感を、どう言えばいいのか。
日本人で良かった。
日本への誇りがわき上がる。
宝塚歌劇なんてゆー、わけのわかんないモノが存在できるのは、日本だからだ。日本の文化、近代史の中で培われてきたモノだ。
100年の歴史の中、磨き抜かれてきたモノだ。
力強く踊る黒燕尾の男たち、そこへ再登場したドレス姿の娘役たちが絡む。
激しい曲調、要所で響く和太鼓。
和太鼓っていいよねええ。聴くと魂が沸き立つっていうか。
プリミティヴな野生を刺激される感じ。
日本人の根源というか、祖型を確かめさせられるというか。
そうやって盛り上げきったところで。
黒燕尾まっつが登場する。
男役と娘役、それぞれが1列に整列したいちばん端に。
みなが腰を落としたその瞬間、燕尾姿で立つまっつにライトが当たる。
黒燕尾を着て、ただ、立っている。
その、美しさ。
まっつは踊りながら男役・娘役の間を移動する。
まっつの動きに合わせて、周囲の者たちが身体の向きを順番に変えていく。
大劇場、大階段でトップスターが登場するときの演出・振付だ。
広大な舞台の、劇場の空気が、動きが、トップスターひとりに集約される、あの場面。
バウホールで、たった22人しかいない舞台で、大階段の演出をやってのけた。
ここから先はもお、涙ナシでは観られません(笑)。
贔屓が「真ん中」で黒燕尾を踊る……ということももちろん感涙なんだけど。
それだけではなく。
黒燕尾まっつが下手から上手へ移動しきる……つまり、大階段を降りきったところで、次の場面。
娘役たちがさーっとはけていき、男役だけの場面になる。
黒燕尾群舞。
曲は「荒城の月」。
そこにあるのは、「タカラヅカ」だった。
あまりにも強く「タカラヅカ」。
いろんなものに囚われない、揺らがない、宝塚歌劇の根源たるもの。
日本の曲で黒燕尾の男役がボレロを踊る。
タカラヅカはたしかに、いろんな国を舞台にする。タカラジェンヌたちは髪を金色に染め、外国人を演じる。
だがそれは本物の外国なわけでも、外国人なわけでもない。そんなもんが見たけりゃ洋画でも海外ミュージカルでも見てりゃーいい。
外国を舞台にしても、あくまでも「日本」なんだ。日本人の価値観、美意識を基本として、カタチだけエキゾチックなものにする。
各国巡り、世界旅行をテーマとする『インフィニティ』で、最後に帰り着く国が日本であり、「日本」と銘打った場面でザ・タカラヅカを見せる。
その演出に、感動した。
また、主演の未涼亜希は「タカラヅカ」を具現するスターだ。
小柄で華奢な日本人女性が、芸の力で「男」を表現する、「男役」という架空の存在を作り上げる……宝塚歌劇という、ファンタジー。
本物の男じゃない。男役だ。赤い唇で燕尾を着る、性別とも現実とも切り離された存在だ。
「タカラヅカ」の根底の美しさを、見た。
それゆえに、泣けて仕方がない。
黒燕尾群舞で形作る逆三角形、その頂点に立って踊る。
タカラヅカの全男役が憧れ、ほんとうにごくわずかな者しか味わえない、その貴重な場を、演出を与えてくれた、稲葉先生ありがとう。
黒燕尾場面は、わたしのなかの「タカラヅカ愛」が刺激されまくるんだわ。
こんなタカラヅカを愛している。誇りに思っている。それが、目の前で形になって差し出されている……そんな感じ。
で、そのセンターにいるのがご贔屓って……そりゃ、泣けるわ。
また、何故わたしが未涼亜希を好きなのかが、よくわかった場面でもあった。
わたしは年季の入ったヅカヲタだ。贔屓の有無関係なく全組全作品観るし、劇団の行ういろーんなことに一喜一憂しながらも、離れることなく見続けてきた。
わたしは「タカラヅカ」というモノを愛している。
この独特なカルチャーを。
そして未涼亜希は、泣けるほど「タカラヅカ」だ。
頑なに、ある意味時代錯誤なほどに。
譲れないもの、崩してはならないもの、見失ってはならないもの……そんな宝塚歌劇のスピリットを持った男役なんだ。
黒燕尾ダンスは、息を詰めて見過ぎで、死にそーになってまつ(笑)。
振付がもお、ほんとに大劇場の大階段前で踊る黒燕尾ダンスまんまで……「タカラヅカ」のお約束、ルールそのまんまで……稲葉くんありがとう。
続く。
タカラヅカ・ショーには形式があり、オープニング、前半部分、中詰め、後半部分、フィナーレ、パレードと構成が決まっている。
どんなテーマでなにを作るかは自由だけど、フィナーレとパレードは鉄板。いろいろと個性的だったオギーの『タランテラ!』ですら、それまでのフリーダムさを忘れてフィナーレ~パレードだけはきっちりやっていた。(『ソロモンの指輪』は30分で芝居の前、なので規格外)
タカラヅカ・レビュー『インフィニティ』のフィナーレもまた、正統派のフィナーレだった。
各国めぐりでくりひろげられてきたショーのラストを飾るのが、日本。
「タカラヅカ」でしかありえない、白い「男役」衣装に身を包んだまっつが登場する。
歌うのは、「ゴンドラの歌」。
命短し恋せよ乙女。
クラシカルな歌に、クラシカルなドレスの娘役たちが登場し、主演の周りでひらひらと踊る。
それは古い古い「タカラヅカ」の図。
どれだけ古くても、時代が進んでも、変えてはならない、忘れてはならない、「タカラヅカ」の基本の図。
まっつが登場したとき真っ白だったホリゾントの光が、娘役の登場で薄桃になるのが好き。
上にあるセットの輪の色はピンクだったか薄い緑だったか。
桜の色だ。
「日本」の色だった。
奥ゆかしく、されど凛とした気風を持つ、桜のイメージ。
まっつから歌い継ぐのはあゆっち。彼女の歌声はここがいちばんキレイ。
命短し恋せよ乙女。
無限大、インフィニティ、終わりなき世界……その果てない旅のラストに、有限を歌う。
終わる。終わってしまう。
無限など存在しない。
命は短い。美しさも短い。
幸福や感謝もいずれ薄れ、失われていく。
「タカラヅカ」自体がそもそも、嘘の世界だ。
所詮舞台の上、所詮虚構。
「男役」なんて、無意味なもの。
それでも。
今、美しさに胸が震える。
嘘でも。
消えて、なくなってしまうものだとしても。
曲が終わると、威勢のいい和太鼓の音が聞こえてくる。
和太鼓だよ! ドラムロールのように連続して打ち鳴らされる音。
後ろに1列に並んでいるのは、男たち。
黒燕尾姿。
まっつと娘役たちがはけるのと入れ替わりに、段上に整列した黒燕尾の男たちが踊り出す。
曲は佐渡おけさ。
日本民謡で黒燕尾。
この高揚感を、どう言えばいいのか。
日本人で良かった。
日本への誇りがわき上がる。
宝塚歌劇なんてゆー、わけのわかんないモノが存在できるのは、日本だからだ。日本の文化、近代史の中で培われてきたモノだ。
100年の歴史の中、磨き抜かれてきたモノだ。
力強く踊る黒燕尾の男たち、そこへ再登場したドレス姿の娘役たちが絡む。
激しい曲調、要所で響く和太鼓。
和太鼓っていいよねええ。聴くと魂が沸き立つっていうか。
プリミティヴな野生を刺激される感じ。
日本人の根源というか、祖型を確かめさせられるというか。
そうやって盛り上げきったところで。
黒燕尾まっつが登場する。
男役と娘役、それぞれが1列に整列したいちばん端に。
みなが腰を落としたその瞬間、燕尾姿で立つまっつにライトが当たる。
黒燕尾を着て、ただ、立っている。
その、美しさ。
まっつは踊りながら男役・娘役の間を移動する。
まっつの動きに合わせて、周囲の者たちが身体の向きを順番に変えていく。
大劇場、大階段でトップスターが登場するときの演出・振付だ。
広大な舞台の、劇場の空気が、動きが、トップスターひとりに集約される、あの場面。
バウホールで、たった22人しかいない舞台で、大階段の演出をやってのけた。
ここから先はもお、涙ナシでは観られません(笑)。
贔屓が「真ん中」で黒燕尾を踊る……ということももちろん感涙なんだけど。
それだけではなく。
黒燕尾まっつが下手から上手へ移動しきる……つまり、大階段を降りきったところで、次の場面。
娘役たちがさーっとはけていき、男役だけの場面になる。
黒燕尾群舞。
曲は「荒城の月」。
そこにあるのは、「タカラヅカ」だった。
あまりにも強く「タカラヅカ」。
いろんなものに囚われない、揺らがない、宝塚歌劇の根源たるもの。
日本の曲で黒燕尾の男役がボレロを踊る。
タカラヅカはたしかに、いろんな国を舞台にする。タカラジェンヌたちは髪を金色に染め、外国人を演じる。
だがそれは本物の外国なわけでも、外国人なわけでもない。そんなもんが見たけりゃ洋画でも海外ミュージカルでも見てりゃーいい。
外国を舞台にしても、あくまでも「日本」なんだ。日本人の価値観、美意識を基本として、カタチだけエキゾチックなものにする。
各国巡り、世界旅行をテーマとする『インフィニティ』で、最後に帰り着く国が日本であり、「日本」と銘打った場面でザ・タカラヅカを見せる。
その演出に、感動した。
また、主演の未涼亜希は「タカラヅカ」を具現するスターだ。
小柄で華奢な日本人女性が、芸の力で「男」を表現する、「男役」という架空の存在を作り上げる……宝塚歌劇という、ファンタジー。
本物の男じゃない。男役だ。赤い唇で燕尾を着る、性別とも現実とも切り離された存在だ。
「タカラヅカ」の根底の美しさを、見た。
それゆえに、泣けて仕方がない。
黒燕尾群舞で形作る逆三角形、その頂点に立って踊る。
タカラヅカの全男役が憧れ、ほんとうにごくわずかな者しか味わえない、その貴重な場を、演出を与えてくれた、稲葉先生ありがとう。
黒燕尾場面は、わたしのなかの「タカラヅカ愛」が刺激されまくるんだわ。
こんなタカラヅカを愛している。誇りに思っている。それが、目の前で形になって差し出されている……そんな感じ。
で、そのセンターにいるのがご贔屓って……そりゃ、泣けるわ。
また、何故わたしが未涼亜希を好きなのかが、よくわかった場面でもあった。
わたしは年季の入ったヅカヲタだ。贔屓の有無関係なく全組全作品観るし、劇団の行ういろーんなことに一喜一憂しながらも、離れることなく見続けてきた。
わたしは「タカラヅカ」というモノを愛している。
この独特なカルチャーを。
そして未涼亜希は、泣けるほど「タカラヅカ」だ。
頑なに、ある意味時代錯誤なほどに。
譲れないもの、崩してはならないもの、見失ってはならないもの……そんな宝塚歌劇のスピリットを持った男役なんだ。
黒燕尾ダンスは、息を詰めて見過ぎで、死にそーになってまつ(笑)。
振付がもお、ほんとに大劇場の大階段前で踊る黒燕尾ダンスまんまで……「タカラヅカ」のお約束、ルールそのまんまで……稲葉くんありがとう。
続く。