宙を切り取る光の輪と、浮かび上がらせる一筋の光。@インフィニティ
2012年1月17日 タカラヅカ 『インフィニティ』はいろんな席から観劇した。
観る位置によって、感じること、発見することがちがったりするのはままあること。
わたしは出演者の顔がはっきり見える前方席が大好きなんだが、それとは別に、今回感動したのは、最前列センターにて観劇したとき。
大劇場ではなく、バウホールだ。
オケボックスも銀橋もないバウホールでは、最前列からは舞台を「見上げる」形になる。
出演者の足下は見えない。
そのかわりに、天井がやたらよく見える。
バウの最前列ぐらい、ヅカヲタ長ければ何度でも坐ったことはある。
今まで何十回となく坐ってきて、一度も感じたことのない経験、発見を、した。
バウホール舞台上部の、照明について、着眼した。
舞台の上にライトがいっぱいあるのは当たり前のこと。ライトが点り、キャストを、舞台を照らすのは当たり前、いちいち気にすることもない。
しかし。
わたしははじめて、ライトを見た。
下から、見上げた。
今までも目には入ったはずだけど、それこそ「当たり前」のものだったので、気にしたことがなかった。
「ライトがある」と意識して見たのは、はじめてだった。
というのも、今回のバウホールには、通常にはありえない大きなセットが頭上にあったんだ。
『インフィニティ』という作品を象徴する、巨大なふたつの輪。
位置は舞台中央。この輪は、上下に動く。
それこそ床近くまで降りて来て大道具のように足下にあったりもするし、斜めになって背景のような顔をしていたりもする。通常は、頭上高く、天井からの吊り飾りのよーに収まっている。
いろいろと活躍する輪だから、どうしても目に入る。
演者の邪魔にならないよう、天井に収まっているときでさえ、「ああ、あの輪だ」となんとなく意識の端にある。
だからつい、天井もセットの一部として、見てしまった。
通常なら、ただライトが並んでいるだけの部分なのに。そこに輪があるから、そこも表舞台の一部。
最前列から見上げる舞台は、出演者の肩口あたりから上にもう、天井が見える。位置によっては、背中あたりから、もう天井。
巨大な輪が見える。
額縁のように。
天井の輪が、まるで背景のように見える。
その幻想的に美しい輪のなかに、まっつがいる。
センターに、まっつがいる。
輪の鈍い光だけで歌って……雲間から陽が射すように、輪の中のライトが点る。
まっつに、向けて。
舞台の上には、こんなにたくさんのライトがある。
それがわかる。
普段は気にもしない、目にも入らない。
だけど今、それらの動きがわかる。
まっつのもとに、光が集まる。
ライトが光るのと連動して、目の前にいるまっつの姿が浮かび上がる。
光自体はわからない、露骨に「はい、今ライト点きましたー」てなもんじゃないから。
点灯は観客には意識させないもの、なんだろう。暗闇の中に光を点すのではなく、ふつうに明るい舞台に、さらにライトを増やすわけだから。
ごく自然に、まっつだけが鮮明に見えるようになる。
今までなんの疑問もなく見てきた、「真ん中の人だけが、浮かび上がる」「真ん中の人だけが、きらきら見える」……照明さんは、こーゆー仕事をしているわけだ。
それが今、まっつに向かってなされている。
まっつを輝かせるためにライトがいくつも輝く。増えていく。
天井のいくつもの丸い光、目の前で輝くまっつ。
う・わあ。
うわあ。うわあ。
すごい。
光があふれて、輝いて、涙がこぼれる。
まぶしい。
きれい。
まぶしくてうれしい。
きれいでうれしい。
ひかりの中にまっつがいて、他の出演者たちがそれを囲んで笑っていて、みんなみんな、きらきらしていて。
後方席からだと、天井のライトがまっつの背中には見えないし、輪もフレームにはならない。最前列でも、端からだと輪が歪んでしまい、またチガウ画面になった。
もちろん後方には後方の美しさと楽しさがあり、たとえば南仏のラスト、まっつの歌う「長い影」は後方からでないと見えない。
すべての光がまっつに集約する様を見ることのできた、最前列センターは、それまでも思いもしなかった感動だった。
主演って、こういうことなのか。
それを、思い知った。
「光」を得るまっつ。
いつだってまっつは、光の外側にいた。スターさんがまぶしいライトを浴びる中、まっつはその光の届かないところにいた。
わたしはいつもオペラグラスでまっつを追いかけていたけれど、それは暗闇の中が当たり前だった。
ライトの外側だから、たとえカメラの枠の中にいたとしても、映像には映らなかった。肉眼でなら見える闇でも、レンズは拾ってくれないから。
だからいつも、まっつに飢えて、光に飢えて、生の舞台でまっつを見つめ続けた。
それが、今。
光が、まっつのために存在している。
動くライトの数々。まっつを際立たせるために光り、輝度を変え、色を変える。
暗転する瞬間、まっつにだけライトが残り、消える。
主演って、スターって、こういうことなんだ。
ポスターに載ること、プログラムの出番表の冒頭に名前が載ること、真ん中で歌うこと、出番がたくさんあること、豪華な衣装を着せてもらうこと……そういうことでも主演の意味を噛みしめたけれど、それとは別に、思い知った。
なんて美しい……照明というもの。
たとえば「Night and Day 」のラスト。
歌い終わったまっつは、ポーズを決めて静止する。そこでライトは消え、暗転。
真っ暗な舞台に、流れ星が一筋光る。上手の上端から、下手の下端へ向けて流れる。それこそ1秒くらい、瞬きしているうちに消えるように。
この流れ星の演出、前方で観ると暗闇の中に、まっつの輪郭が一瞬浮かび上がるんだ。
これに気づいたときは、震撼した。
後方だと、流れ星の光るホリゾントは遠すぎて、まっつの立ち位置と無関係なところを流れるように見える。
前方だと角度が変わり、舞台を見上げるカタチになるため、流れ星がまっつの身体の後ろを通るように見えるんだ。
舞台は真っ暗、なにもない、見えない。でも、まっつがそこにいるから、流れ星はまっつの後ろを通る一瞬だけ消えて見える。
光の線が消え、代わりにまっつの肩や腕のあたりのカタチが、見える。
ほんの一瞬。
まばたきの間。
美しく静止したまっつが、暗闇に浮かんで、消える。
ありがとう。
舞台見ながら、繰り返した。
ありがとう。
まっつにありがとう、出演している雪組生たちにありがとう。
稲葉先生にありがとう。スタッフの人たちにありがとう。
わたしがこの公演を観ることができた、そのことにありがとう。助力してくれたすべての人たちにありがとう。
この公演を行ってくれた劇団に、そして、「タカラヅカ」というもの自体に、ありがとう。
バカみたいに、ありがとうを繰り返した。心の中で。
うれしい、と、好き、と、ありがとう。
それだけの気持ちに満たされる。
舞台のすばらしさとか、まっつのかっこよさとか、それを観ることはもちろん幸せなんだけど。
喜びと感謝の気持ちだけに満たされ、うち震える時間、ってのは、人生そうそうない。
それを味わえることの、幸福。
『インフィニティ』は、まっつは、なんて幸福をわたしに与えてくれたのだろう。
この気持ちを、忘れたくない。
観る位置によって、感じること、発見することがちがったりするのはままあること。
わたしは出演者の顔がはっきり見える前方席が大好きなんだが、それとは別に、今回感動したのは、最前列センターにて観劇したとき。
大劇場ではなく、バウホールだ。
オケボックスも銀橋もないバウホールでは、最前列からは舞台を「見上げる」形になる。
出演者の足下は見えない。
そのかわりに、天井がやたらよく見える。
バウの最前列ぐらい、ヅカヲタ長ければ何度でも坐ったことはある。
今まで何十回となく坐ってきて、一度も感じたことのない経験、発見を、した。
バウホール舞台上部の、照明について、着眼した。
舞台の上にライトがいっぱいあるのは当たり前のこと。ライトが点り、キャストを、舞台を照らすのは当たり前、いちいち気にすることもない。
しかし。
わたしははじめて、ライトを見た。
下から、見上げた。
今までも目には入ったはずだけど、それこそ「当たり前」のものだったので、気にしたことがなかった。
「ライトがある」と意識して見たのは、はじめてだった。
というのも、今回のバウホールには、通常にはありえない大きなセットが頭上にあったんだ。
『インフィニティ』という作品を象徴する、巨大なふたつの輪。
位置は舞台中央。この輪は、上下に動く。
それこそ床近くまで降りて来て大道具のように足下にあったりもするし、斜めになって背景のような顔をしていたりもする。通常は、頭上高く、天井からの吊り飾りのよーに収まっている。
いろいろと活躍する輪だから、どうしても目に入る。
演者の邪魔にならないよう、天井に収まっているときでさえ、「ああ、あの輪だ」となんとなく意識の端にある。
だからつい、天井もセットの一部として、見てしまった。
通常なら、ただライトが並んでいるだけの部分なのに。そこに輪があるから、そこも表舞台の一部。
最前列から見上げる舞台は、出演者の肩口あたりから上にもう、天井が見える。位置によっては、背中あたりから、もう天井。
巨大な輪が見える。
額縁のように。
天井の輪が、まるで背景のように見える。
その幻想的に美しい輪のなかに、まっつがいる。
センターに、まっつがいる。
輪の鈍い光だけで歌って……雲間から陽が射すように、輪の中のライトが点る。
まっつに、向けて。
舞台の上には、こんなにたくさんのライトがある。
それがわかる。
普段は気にもしない、目にも入らない。
だけど今、それらの動きがわかる。
まっつのもとに、光が集まる。
ライトが光るのと連動して、目の前にいるまっつの姿が浮かび上がる。
光自体はわからない、露骨に「はい、今ライト点きましたー」てなもんじゃないから。
点灯は観客には意識させないもの、なんだろう。暗闇の中に光を点すのではなく、ふつうに明るい舞台に、さらにライトを増やすわけだから。
ごく自然に、まっつだけが鮮明に見えるようになる。
今までなんの疑問もなく見てきた、「真ん中の人だけが、浮かび上がる」「真ん中の人だけが、きらきら見える」……照明さんは、こーゆー仕事をしているわけだ。
それが今、まっつに向かってなされている。
まっつを輝かせるためにライトがいくつも輝く。増えていく。
天井のいくつもの丸い光、目の前で輝くまっつ。
う・わあ。
うわあ。うわあ。
すごい。
光があふれて、輝いて、涙がこぼれる。
まぶしい。
きれい。
まぶしくてうれしい。
きれいでうれしい。
ひかりの中にまっつがいて、他の出演者たちがそれを囲んで笑っていて、みんなみんな、きらきらしていて。
後方席からだと、天井のライトがまっつの背中には見えないし、輪もフレームにはならない。最前列でも、端からだと輪が歪んでしまい、またチガウ画面になった。
もちろん後方には後方の美しさと楽しさがあり、たとえば南仏のラスト、まっつの歌う「長い影」は後方からでないと見えない。
すべての光がまっつに集約する様を見ることのできた、最前列センターは、それまでも思いもしなかった感動だった。
主演って、こういうことなのか。
それを、思い知った。
「光」を得るまっつ。
いつだってまっつは、光の外側にいた。スターさんがまぶしいライトを浴びる中、まっつはその光の届かないところにいた。
わたしはいつもオペラグラスでまっつを追いかけていたけれど、それは暗闇の中が当たり前だった。
ライトの外側だから、たとえカメラの枠の中にいたとしても、映像には映らなかった。肉眼でなら見える闇でも、レンズは拾ってくれないから。
だからいつも、まっつに飢えて、光に飢えて、生の舞台でまっつを見つめ続けた。
それが、今。
光が、まっつのために存在している。
動くライトの数々。まっつを際立たせるために光り、輝度を変え、色を変える。
暗転する瞬間、まっつにだけライトが残り、消える。
主演って、スターって、こういうことなんだ。
ポスターに載ること、プログラムの出番表の冒頭に名前が載ること、真ん中で歌うこと、出番がたくさんあること、豪華な衣装を着せてもらうこと……そういうことでも主演の意味を噛みしめたけれど、それとは別に、思い知った。
なんて美しい……照明というもの。
たとえば「Night and Day 」のラスト。
歌い終わったまっつは、ポーズを決めて静止する。そこでライトは消え、暗転。
真っ暗な舞台に、流れ星が一筋光る。上手の上端から、下手の下端へ向けて流れる。それこそ1秒くらい、瞬きしているうちに消えるように。
この流れ星の演出、前方で観ると暗闇の中に、まっつの輪郭が一瞬浮かび上がるんだ。
これに気づいたときは、震撼した。
後方だと、流れ星の光るホリゾントは遠すぎて、まっつの立ち位置と無関係なところを流れるように見える。
前方だと角度が変わり、舞台を見上げるカタチになるため、流れ星がまっつの身体の後ろを通るように見えるんだ。
舞台は真っ暗、なにもない、見えない。でも、まっつがそこにいるから、流れ星はまっつの後ろを通る一瞬だけ消えて見える。
光の線が消え、代わりにまっつの肩や腕のあたりのカタチが、見える。
ほんの一瞬。
まばたきの間。
美しく静止したまっつが、暗闇に浮かんで、消える。
ありがとう。
舞台見ながら、繰り返した。
ありがとう。
まっつにありがとう、出演している雪組生たちにありがとう。
稲葉先生にありがとう。スタッフの人たちにありがとう。
わたしがこの公演を観ることができた、そのことにありがとう。助力してくれたすべての人たちにありがとう。
この公演を行ってくれた劇団に、そして、「タカラヅカ」というもの自体に、ありがとう。
バカみたいに、ありがとうを繰り返した。心の中で。
うれしい、と、好き、と、ありがとう。
それだけの気持ちに満たされる。
舞台のすばらしさとか、まっつのかっこよさとか、それを観ることはもちろん幸せなんだけど。
喜びと感謝の気持ちだけに満たされ、うち震える時間、ってのは、人生そうそうない。
それを味わえることの、幸福。
『インフィニティ』は、まっつは、なんて幸福をわたしに与えてくれたのだろう。
この気持ちを、忘れたくない。