役者としての彼女・その1。@トークスペシャル in 東京
2012年5月16日 タカラヅカ トークイベントなどで素顔に触れることで、そのジェンヌに興味を持つようになることは、多々ある。
『トークスペシャル in 東京』でいちばん興味深かったのは、沙月愛奈、あゆみちゃんだ。
もともと舞台上でのあゆみちゃんに興味と好意はあるし、これまでもなにかと眺めてきた娘さんではある。
あゆみちゃんは雪組が誇るダンサー。
持ち味が女役風とはいえ、下級生時代はかわいこちゃんの色が強かったが、最近はめっきり「いい女」として確立している。
ダンサーとしてのあゆみちゃんは、いい。
素晴らしいと思っているし、かっこいい、美しい、ずっと観ていたいと思う。
そうではなく、今回改めて考えたのは、「役者」としてのあゆみちゃんだ。
『トクスペ』で本人も語っていたが、彼女はダンサーであり、新公ですらダンス中心の役付、台詞が多い役はろくにやっていない。
それが今回の『ドン・カルロス』では、いきなりの大役でびっくり、本人がいちばんあわてた、と。
今までであゆみちゃんのやった大きな役って、最大のモノでパラーシカ@『黒い瞳』だと思う。あの役はなんつーか、代役だったのかなあ、突然過ぎる上にキャラにも合っていない、謎の抜擢だったなあ、という思い出。
パラーシカって、新進娘役のための役なんだよね。若くてかわいければそれでよし、それ以外できなくてもなんとかなる、みたいな。
だからあゆみちゃんが演じると、なんだかよくわからないことになっていた。
あゆみちゃんは芝居も歌も及第点、破綻はない。ただ……どうにもこうにも、年齢不詳だった。少女なのか年配なのかわからん。お嬢様と同年代から年下の侍女なのか、お嬢様の乳母なのか。
それでももちろん、あゆみちゃんで良かったと思う。大好きな『黒い瞳』、あの作品はまるっと全部好き。
ただ、あゆみちゃんの芝居にはあまり期待しない、ようにはなったな。
及第点、破綻はない。……でも、ナニか、かなり重要なモノが欠けている印象。
今回の配役が発表になったとき、イサベル王妃があゆみちゃんだとわかり、てっきりかなり比重が低いんだと思った。
これまでの彼女の芝居での役付から考えても、芝居の実力から考えても、大きな役じゃない。
ぶっちゃけ王宮場面に坐っているだけで、台詞すら大してないんじゃあ、と思った。『ZORRO 仮面のメサイア』の総督の妻@杏奈ちゃんみたいに、画面に華を添える役目。
タカラヅカには番手がある。娘役は男役ほど明確じゃないけど、雪組の娘役2番手はあゆっちだ。だから大きな役は、あゆっちがやる。
通常、配役を見た段階で、作品の軸と役の比重がわかるもんだ。
あゆっちとあゆみちゃん、それぞれに役名があれば、あゆっちの役が主要キャラで、あゆみちゃんの役は脇キャラ。……それは常識。
たとえ、原作だのオペラだのでイサベルが重要な役、ヒロインクラスの役であっても、あゆみちゃんだっつー段階できっと脇役。
そう思ったのに、フタを開けてみたらマジで大きな役だった。娘役2番手が演じておかしくない役。
娘役としては上級生、されどこれまで芝居で主要な役を演じたことのない人が、いきなり演じていいよーな役じゃなかった。
んで、まあ実際……それほどいいデキぢゃない。あゆみちゃんのイサベル。
よくはやっているし、ムラ初日から東宝までで、いちばん変わったというか成長したのはあゆみちゃんで、役者って、舞台の上でこれだけ変わるんだ!とびっくりさせてくれたくらい、最終的には良くなった。
それは結果論であって、最初はほんと、大変だなあ、という感じだった。
よくはやっている、破綻とまでもいかない、だけどなんか大きなモノが欠けている、足りていない……パラーシカのときと同じ。
そんなあゆみちゃんに対しての印象が、『トクスペ』を観ることで、なんかすとんと腑に落ちた。
あゆみちゃんって……基本的に「芝居」が出来ないのかなあ。
芝居って、技術というか、ツールなんだと思う。
表現する道具。
お絵かきだとすると、紙とクレパスとかに相当するモノ。
「花の絵を描きましょう」って言われて、紙にクレパスで描く。別に色えんぴつでも絵の具でもいい、道具を使って描く。
芝居もその道具。「裏切られた妻を表現しましょう」と言われ、道具を使ってテーマを作る。
でもあゆみちゃんは、道具を使うのではなく、「自分」がそのテーマになろうとする。
道具を使って、技術で「裏切られた妻」を表現するのではなく、「裏切られた妻」そのものになろうとする。
「花の絵を描きましょう」と紙とクレパスを渡されてるのに、苗を植えて花を咲かせようとする。
役者には大雑把に割って2種類あって、技術で役を演じる人と、その役そのものになる人があるんだろうさ。
だからあゆみちゃんは後者、イサベルを演じるためにイサベルそのものになるんだろう。
それはいい。それはあり。
ただ。
役として昇華されていない、あゆみちゃん個人のナマの感情を舞台で見せられてもな、と思う。
憑依系、と称されるようななりきり型ならばそれはアリなんだろうけど、残念ながらあゆみちゃんは、「役のキモチになっているあゆみちゃん」でしかない。
だから見せられるのは、あゆみちゃんのキモチなんだな。
イサベルに感じる足りてなさというか欠落は、そういうことだったのかと。
話は途中だ、翌日欄へ続く!!
『トークスペシャル in 東京』でいちばん興味深かったのは、沙月愛奈、あゆみちゃんだ。
もともと舞台上でのあゆみちゃんに興味と好意はあるし、これまでもなにかと眺めてきた娘さんではある。
あゆみちゃんは雪組が誇るダンサー。
持ち味が女役風とはいえ、下級生時代はかわいこちゃんの色が強かったが、最近はめっきり「いい女」として確立している。
ダンサーとしてのあゆみちゃんは、いい。
素晴らしいと思っているし、かっこいい、美しい、ずっと観ていたいと思う。
そうではなく、今回改めて考えたのは、「役者」としてのあゆみちゃんだ。
『トクスペ』で本人も語っていたが、彼女はダンサーであり、新公ですらダンス中心の役付、台詞が多い役はろくにやっていない。
それが今回の『ドン・カルロス』では、いきなりの大役でびっくり、本人がいちばんあわてた、と。
今までであゆみちゃんのやった大きな役って、最大のモノでパラーシカ@『黒い瞳』だと思う。あの役はなんつーか、代役だったのかなあ、突然過ぎる上にキャラにも合っていない、謎の抜擢だったなあ、という思い出。
パラーシカって、新進娘役のための役なんだよね。若くてかわいければそれでよし、それ以外できなくてもなんとかなる、みたいな。
だからあゆみちゃんが演じると、なんだかよくわからないことになっていた。
あゆみちゃんは芝居も歌も及第点、破綻はない。ただ……どうにもこうにも、年齢不詳だった。少女なのか年配なのかわからん。お嬢様と同年代から年下の侍女なのか、お嬢様の乳母なのか。
それでももちろん、あゆみちゃんで良かったと思う。大好きな『黒い瞳』、あの作品はまるっと全部好き。
ただ、あゆみちゃんの芝居にはあまり期待しない、ようにはなったな。
及第点、破綻はない。……でも、ナニか、かなり重要なモノが欠けている印象。
今回の配役が発表になったとき、イサベル王妃があゆみちゃんだとわかり、てっきりかなり比重が低いんだと思った。
これまでの彼女の芝居での役付から考えても、芝居の実力から考えても、大きな役じゃない。
ぶっちゃけ王宮場面に坐っているだけで、台詞すら大してないんじゃあ、と思った。『ZORRO 仮面のメサイア』の総督の妻@杏奈ちゃんみたいに、画面に華を添える役目。
タカラヅカには番手がある。娘役は男役ほど明確じゃないけど、雪組の娘役2番手はあゆっちだ。だから大きな役は、あゆっちがやる。
通常、配役を見た段階で、作品の軸と役の比重がわかるもんだ。
あゆっちとあゆみちゃん、それぞれに役名があれば、あゆっちの役が主要キャラで、あゆみちゃんの役は脇キャラ。……それは常識。
たとえ、原作だのオペラだのでイサベルが重要な役、ヒロインクラスの役であっても、あゆみちゃんだっつー段階できっと脇役。
そう思ったのに、フタを開けてみたらマジで大きな役だった。娘役2番手が演じておかしくない役。
娘役としては上級生、されどこれまで芝居で主要な役を演じたことのない人が、いきなり演じていいよーな役じゃなかった。
んで、まあ実際……それほどいいデキぢゃない。あゆみちゃんのイサベル。
よくはやっているし、ムラ初日から東宝までで、いちばん変わったというか成長したのはあゆみちゃんで、役者って、舞台の上でこれだけ変わるんだ!とびっくりさせてくれたくらい、最終的には良くなった。
それは結果論であって、最初はほんと、大変だなあ、という感じだった。
よくはやっている、破綻とまでもいかない、だけどなんか大きなモノが欠けている、足りていない……パラーシカのときと同じ。
そんなあゆみちゃんに対しての印象が、『トクスペ』を観ることで、なんかすとんと腑に落ちた。
あゆみちゃんって……基本的に「芝居」が出来ないのかなあ。
芝居って、技術というか、ツールなんだと思う。
表現する道具。
お絵かきだとすると、紙とクレパスとかに相当するモノ。
「花の絵を描きましょう」って言われて、紙にクレパスで描く。別に色えんぴつでも絵の具でもいい、道具を使って描く。
芝居もその道具。「裏切られた妻を表現しましょう」と言われ、道具を使ってテーマを作る。
でもあゆみちゃんは、道具を使うのではなく、「自分」がそのテーマになろうとする。
道具を使って、技術で「裏切られた妻」を表現するのではなく、「裏切られた妻」そのものになろうとする。
「花の絵を描きましょう」と紙とクレパスを渡されてるのに、苗を植えて花を咲かせようとする。
役者には大雑把に割って2種類あって、技術で役を演じる人と、その役そのものになる人があるんだろうさ。
だからあゆみちゃんは後者、イサベルを演じるためにイサベルそのものになるんだろう。
それはいい。それはあり。
ただ。
役として昇華されていない、あゆみちゃん個人のナマの感情を舞台で見せられてもな、と思う。
憑依系、と称されるようななりきり型ならばそれはアリなんだろうけど、残念ながらあゆみちゃんは、「役のキモチになっているあゆみちゃん」でしかない。
だから見せられるのは、あゆみちゃんのキモチなんだな。
イサベルに感じる足りてなさというか欠落は、そういうことだったのかと。
話は途中だ、翌日欄へ続く!!