理屈はともかくとして、『近松・恋の道行』において、鯉助@みーちゃん萌え。

 もともとヘタレ男スキーなので、あの通常営業のダメっぷりがツボです。

 ヘタレ男スキーってのは、もちろんそのヘタレ男が男前であることが前提です。ルックスが良くて、それだけで人生勝ったよーなもんなのに、もっとうまく生きる術もあるだろうに、ヘタレて負け犬やってる男が好みです。

 初日のみーちゃんはお化粧かなりやばかったと思うけど、次に観たときは気にならなかった。
 てゆーか、彼はいつだって色男ですよ。遊び人設定に説得力。

 鯉助の魅力は、ダメ男であっても、悪人ではないというところでしょう。
 親の七光りにあぐらを掻いて、ナメた人生送っている男。尊大に振る舞うこと、他人を下げることでしか自分を保てない。浅慮さにより、あわや人殺し……心中教唆という犯罪まで犯す。
 が、残念なことに彼は、悪人ではない。どんだけ行いが悪であろうと、本人は悪人ではないんだ。

 そう、残念なことに。

 悪人ならよかった。本人も、周りも。
 心底邪悪な人間が、悪意でもって悪を成すのなら、それは憎しみにも排除にも科刑にも、簡単につなげることが出来る。

 しかし、鯉助はそうじゃない。
 本人も周りもつらいのは、彼が悪人ではないから。
 邪悪でない、ごくふつうにやさしさも正しさもある人間が、曲がってしか生きられない、それがつらい。

 やさしいなら、それを隠さず拒絶せず、そのまま生きていけばいいじゃん。
 そう思うけれど、そうはできない。
 だって彼は、弱いから。

 ありのままの自分を受け入れて生きるには、彼は弱かった。
 それゆえに歪んでみせる。
 歪むことで、自分と向き合うことから逃げている。

 本来はやさしいけれど、弱さゆえに歪み、悪の道へ。その逃げた悪人生ですら楽しそうではなく、うじうじ悩んでいる。
 ……というところが、鯉助のステキさ。

 きっと彼は、多くの人の共感を得ていると思う。

 自分自身にパーフェクトの自信や納得を得ている人は、少ないと思う。
 他人から見ればどんだけすばらしい、なにもかも持ち得る人でも、なにかしら「足りない」部分を持ち、悩んでいると思う。
 そんな、人間の普遍的な姿に、鯉助はモロにハマるキャラクタだからだ。


 初見時は、「いつ改心するのかしら」と思って見ていた。
 弱くて現実から逃げてばかりいるキャラクタは、フィクション内では通常、途中で改心するものだからだ。
 半端な不良やってきたけど、うっかり人殺ししそうになり、そこではじめて自分のアレさに気づき、このままではいけない!と一念発起……するのかと、思ったよ。
 えええ。殺人未遂してなお、変わらないのか-。
 親の金と名声で事件揉み消してもらって、それで終了、なにも変わらないのー?

 刑事ドラマに出てくる「権力者の息子が殺人犯」の場合、改心は絶対しないのね。大抵、少年法とか精神鑑定とかを利用して、どんだけ無体な罪を犯していようと数年で放免。対外的には殊勝な態度を取り、被害者家族や弱者相手には本性丸出し、殺人マンセー。
 この「改心しない犯人」は、心底邪悪として描かれる。
 だから視聴者は単純に犯人を憎むことが出来る。

 なのに鯉助は、「改心しない犯人」であるにも関わらず、真の悪人じゃないのだわ。
 ごくふつうの人間として、描かれる。
 改心することすらできない、ふつうに弱い人間。
 改心した方が楽なのに、それすら出来ずに苦しむ様が描かれる。


 では何故、彼がここまで弱っちくなっているのか。
 もちろんそれは、偉大すぎる父親・近松門左衛門@はっちさんのせい。

 鯉助の不幸は、人生における二大重要事項がひとつに要約されてしまっていることにはじまっているんだよなあ。
 パパのことが好き。パパのようになりたい。パパに認められたい。
 浄瑠璃が好き。素晴らしい浄瑠璃を書きたい。尊敬する浄瑠璃作家・近松先生に認められたい。
 別々なら良かったのに、それらは全部、ひとつのことで。
 愛と仕事が同じところに終始しているんだ。それを損なってしまったら、もうなにも残らないだろう。

 自分が望むように得られないから、父を否定し、浄瑠璃を否定し。
 自分が求めているすべてを自分で否定しているわけだから、空っぽのまま荒れて。

 楽になる方法はたったひとつ、自らが否定している自分の大切な物を、認めること。なのにそれが出来ずに、他人も自分も傷つけて。
 お蝶さん@きららちゃんに「それでも、親父様のようになりたいのでしょう」と、言い当てられてしまうのが、痛い。
 まさに、胸を突かれる。
 お蝶さん、それ急所……。クリティカル入っちゃったよ、HP一気に減ったよ……。まあ、鯉助の場合、HPゼロにして、セーブデータからリトライした方がいいのかもしれないね。だからこその致命傷攻撃なのかもね。
 いや、お蝶さんの場合、急所を握ることで鯉助を一気に支配した感があるんだが……(笑)。
 アレを言われちゃったら、鯉助はもうお蝶さんから離れられないと思う。いい意味でも、とても悪い意味でも。


 さて、このどーしよーもない鯉助くんの、最後の場面は高笑い。
 フィクションのパターンとして、悪人や弱い人は改心してハッピーエンドなんだが、鯉助はいつ改心するんだろう……と観てきて、最後まで改心せえへんのかい!というツッコミで終わる。

 嘉平次@みわっち、さが@みりおんが心中して果てて、それがただのきれいごとですまない市井の人々の評と、心中ごっこに興じる子どもたち。
 その現実の中で、高笑いをはじめる鯉助。

 たしかに「改心」は描かれていない。
 しかし。

 わたしはこの最後の高笑いで「動いた」と思った。

 それまでうすらぼんやりと広く映っていた視界が、ぎゅいんと集約される感覚。広いかわりにぼんやりしていたのが、見えるものがピンポイントになったかわりに鮮明になった。

 周囲が「背景」になり、鯉助が「主役」になる。

 この作品の中では鯉助は主役ではない。でもわたしの中で、その高笑いがあるからこそ、彼が「主人公」として刻まれた。

 彼の「これから」が見たい。

 そう思える人。
 彼は変わる。これから。
 あんな風に笑う人が、このままのはずがない。これから彼は変わる。たとえ本人が望んでなくても。

 さらなる苦しみが待ち受けているとしても、彼はそちらへ足を踏み出した。

 それが「クリエイター」である宿命だろう。

 えらんでしまったんだから、しょうがない。
 市井の徒ではなく、修羅の道を。「創る」側っつーのは、そういうことだ。
 選んだのは鯉助自身であり、本人の意志なんか超えた次元のモノでもある。

 だから、切ないね。

 だけど、しあわせだね。

 市井の徒ではなく、修羅の道で苦しみ抜く権利と義務を得た人。
 あれほど「ふつうの人」として弱さを持ちながら。もう彼は、「ふつう」には戻れない。

 そこが、鯉助というキャラクタの、壮絶なまでの魅力だと思う。
 わたしにとって。

 いや、もお、ほんと。
 鯉助の「これから」が見たいよ。

 きっと景子先生自身も書けないのだろうけど。(前日欄参照)

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