作者の分身が見える、こと。@近松・恋の道行
2012年5月29日 タカラヅカ わたしは景子せんせの作品を好きなんだが、引っかかりっつーか、「これさえなければもっと、作品に(わたしが)没入できるのに」と惜しくなる部分がある。
作品に存在する、作者(景子先生)自身。
景子たんはブレがないっちゅーか、ほんとに書くこと・創造することが好きで、つまりは自分大好きなんだろうなあ。
それは共感できるし、わたしもジブンスキーな人間なんで、否定するわけではまったくない。自分で自分の作品に萌えてる人、こだわりやら自負やらが見える、自意識過剰のうるさい作風のクリエイターは好みだ。
しかし、景子作品は「うおおお、オレはオレが好きだー!!」という、アッタマ悪い叫び方をしておらず、むしろその対極にあるよーな、理性とか理屈とかで固めている風なんだよなあ。
そのくせ、作者の自己愛が見えているところが、引っかかる(笑)。
なんというか。
植田景子は、「クリエイター」の存在しない作品を、書く気はないのか。
と言いたくなるんだなー。
デビュー作の『Icarus』から「作家」が狂言回し。
バウ作品『シンデレラ・ロック』『THE LAST PARTY』『Le Petit Jardin』『HOLLYWOOD LOVER』、大劇場の『シニョール ドン・ファン』『Paradise Prince』『クラシコ・イタリアーノ』と、みんなクリエイターが主人公。
主人公でなくても、狂言回しに重要な役として登場する、『オネーギン』や『近松・恋の道行』。
今ぱっと思いつくだけでも、クリエイターだらけ。
調べればもっとあるかもしれん。
クリエイターが登場しなくても、ラストに「作品のまとめ」を解説するコーナーがあり、作者自身が演説しているに等しいものも、多々あるし。
クリエイター主人公ものは、つまり、景子たん自身が主人公だ。
いろいろと手を変え切り口を変えてはいるが、クリエイターである景子たん自身の思いを元に、作ってある。
作者の手の内というか、計算が見えてしまった瞬間、わたしは作品に完全には没入できず、どこか俯瞰した部分を意識に持つことになる。
わたしはフィクションが好きで、架空の世界に遊ぶことが好きだ。が、そこに「あ、景子たんだ」と作者自身の姿を見つけると、完全な架空世界でなくなってしまうために、「それはそれ。そこは置いておいて、作品を楽しみましょ」という意識が働き、二重目線になる。作品を楽しもうと努力するわたしと、「景子たん、恥ずかしいなあ」と思うわたしとに分裂してしまう。
自分でももったいないなーと思う。
それはわたしの自意識過剰ゆえに起こる。
同族嫌悪ではないけれど、それに似た意識の働き。
自分の中にある、「恥ずかしいな」と思っている部分を、見せつけられてしまうためだ。
景子先生はわたしのよーな、ただブログで勝手な駄文を書き散らかしている人間と違い、社会的にも実力を認められた、才能あるクリエイターである。
次元が違うんだよ、勝手に同族扱いしてんぢゃねーよおこがましい、ということも十分わかっているんだが、わたしが景子作品に「引っかかる」のは、そこに原因があるのだろう。
わたしがもっとも安心して夢中になれた『舞姫』は、「クリエイター」が存在しない。
遠く因子を探すことは出来るが、直接には現れない。
だから、素直に大好きでいられた。
景子たんはますます腕を上げ、『近松・恋の道行』のクオリティの高さは半端ナイ。
だけどここでも景子たん自身が大手を振って存在し過ぎていて、わたしはかなり鼻白んだ。
今までは大抵単品だったのに、今回はふたりもいるんだもんよ……。
近松門左衛門@はっちさんと、杉森鯉助@みーちゃん。
近松は今までの景子作品の狂言回しや作品解説者、鯉助は主人公系のキャラクタ。
ふたつに分かれている分、濃さ倍増。
うわ、またコレかよ、と思いつつも、結局は景子たんの描く「クリエイター」は好きです。だって、景子作品好きなんだもの。
てことで、鯉助。
自己模索中の二世作家。近松という巨星の息子に生まれ、その名の陰から這い出ることが出来ずにあがいている。
ふつーはそーゆーキャラクタが作中に登場する場合、彼が改心したりきっかけを得て次のステージへ進んだりするもんだが、この作品ではそれは描かれていない。
だから鯉助にあるのは弱さとダメダメさのみ。心中教唆(幇助?)しておいて、それでも人生改めないとか、人として終わってるレベルのダメさ。
鯉助は主人公系の景子たん自身を担うキャラクタとはいえ、ここがタカラヅカである以上、主人公としては描けない。
闇キャラはいろいろあるが、全年齢向けの娯楽であるタカラヅカでガチな闇は描くべきではないし、それを観客は求めていない。
また、景子せんせ自身も、鯉助主人公だとせいぜい『クラシコ・イタリアーノ』になるだけで、今の鯉助の闇を真ん中に置いた創作はできないんだろうなと思う。
良くも悪くも景子先生は闇というか「病み」の薄い作家さんだと思うし、またそこが彼女の魅力っつーか長所だと思うので。
鯉助がステキな闇キャラなのは、彼が主人公ではないから。
描かれ方が単純に「少ない」ため、観客がひとりずつの好みでいかようにも闇の度合いを調節して受け止めることが出来る。
景子たん的「主人公」でありながら、描かれ方が「少ない」。……これは、めっちゃ魅力です。
改心もステップアップも「答え」として提示されていない、「To be continued...」っぷりは、オイシイです。
わたしは彼が好みど真ん中だし、彼にもっとも興味を持った。
「クリエイター」というカテゴリで表現されるけれど、つまりは「人生」に迷う姿をその職業を例題に表現しているだけなので、すべての人に感情移入可能な作り。
なんで人生を語る例題が創作業なのかというと、景子たん自身がその職業だから。語りたいことはよく知らない場所ではせず、自分の庭に持ち込んで語るのが景子たん(笑)。
得意分野に持ち込んで、全方向性の迷いを描いてある、鯉助はとてもいいキャラクタだ。
きっと多くの人の心に波紋を起こしたと思うよ。
また、その役をみーちゃんに託すあたりがニクい。
『Paradise Prince』の新公で、影の主役を演じたみーちゃんだもんなあ。景子たんがどんだけ役者としての彼を信頼しているか、伝わってくる。
ただわたしが、「クリエイター」主人公には引っかかるため、純粋に没入できない。
そこが残念。
わたしが、残念。
あああもったいないー。くやしいー。
作品に存在する、作者(景子先生)自身。
景子たんはブレがないっちゅーか、ほんとに書くこと・創造することが好きで、つまりは自分大好きなんだろうなあ。
それは共感できるし、わたしもジブンスキーな人間なんで、否定するわけではまったくない。自分で自分の作品に萌えてる人、こだわりやら自負やらが見える、自意識過剰のうるさい作風のクリエイターは好みだ。
しかし、景子作品は「うおおお、オレはオレが好きだー!!」という、アッタマ悪い叫び方をしておらず、むしろその対極にあるよーな、理性とか理屈とかで固めている風なんだよなあ。
そのくせ、作者の自己愛が見えているところが、引っかかる(笑)。
なんというか。
植田景子は、「クリエイター」の存在しない作品を、書く気はないのか。
と言いたくなるんだなー。
デビュー作の『Icarus』から「作家」が狂言回し。
バウ作品『シンデレラ・ロック』『THE LAST PARTY』『Le Petit Jardin』『HOLLYWOOD LOVER』、大劇場の『シニョール ドン・ファン』『Paradise Prince』『クラシコ・イタリアーノ』と、みんなクリエイターが主人公。
主人公でなくても、狂言回しに重要な役として登場する、『オネーギン』や『近松・恋の道行』。
今ぱっと思いつくだけでも、クリエイターだらけ。
調べればもっとあるかもしれん。
クリエイターが登場しなくても、ラストに「作品のまとめ」を解説するコーナーがあり、作者自身が演説しているに等しいものも、多々あるし。
クリエイター主人公ものは、つまり、景子たん自身が主人公だ。
いろいろと手を変え切り口を変えてはいるが、クリエイターである景子たん自身の思いを元に、作ってある。
作者の手の内というか、計算が見えてしまった瞬間、わたしは作品に完全には没入できず、どこか俯瞰した部分を意識に持つことになる。
わたしはフィクションが好きで、架空の世界に遊ぶことが好きだ。が、そこに「あ、景子たんだ」と作者自身の姿を見つけると、完全な架空世界でなくなってしまうために、「それはそれ。そこは置いておいて、作品を楽しみましょ」という意識が働き、二重目線になる。作品を楽しもうと努力するわたしと、「景子たん、恥ずかしいなあ」と思うわたしとに分裂してしまう。
自分でももったいないなーと思う。
それはわたしの自意識過剰ゆえに起こる。
同族嫌悪ではないけれど、それに似た意識の働き。
自分の中にある、「恥ずかしいな」と思っている部分を、見せつけられてしまうためだ。
景子先生はわたしのよーな、ただブログで勝手な駄文を書き散らかしている人間と違い、社会的にも実力を認められた、才能あるクリエイターである。
次元が違うんだよ、勝手に同族扱いしてんぢゃねーよおこがましい、ということも十分わかっているんだが、わたしが景子作品に「引っかかる」のは、そこに原因があるのだろう。
わたしがもっとも安心して夢中になれた『舞姫』は、「クリエイター」が存在しない。
遠く因子を探すことは出来るが、直接には現れない。
だから、素直に大好きでいられた。
景子たんはますます腕を上げ、『近松・恋の道行』のクオリティの高さは半端ナイ。
だけどここでも景子たん自身が大手を振って存在し過ぎていて、わたしはかなり鼻白んだ。
今までは大抵単品だったのに、今回はふたりもいるんだもんよ……。
近松門左衛門@はっちさんと、杉森鯉助@みーちゃん。
近松は今までの景子作品の狂言回しや作品解説者、鯉助は主人公系のキャラクタ。
ふたつに分かれている分、濃さ倍増。
うわ、またコレかよ、と思いつつも、結局は景子たんの描く「クリエイター」は好きです。だって、景子作品好きなんだもの。
てことで、鯉助。
自己模索中の二世作家。近松という巨星の息子に生まれ、その名の陰から這い出ることが出来ずにあがいている。
ふつーはそーゆーキャラクタが作中に登場する場合、彼が改心したりきっかけを得て次のステージへ進んだりするもんだが、この作品ではそれは描かれていない。
だから鯉助にあるのは弱さとダメダメさのみ。心中教唆(幇助?)しておいて、それでも人生改めないとか、人として終わってるレベルのダメさ。
鯉助は主人公系の景子たん自身を担うキャラクタとはいえ、ここがタカラヅカである以上、主人公としては描けない。
闇キャラはいろいろあるが、全年齢向けの娯楽であるタカラヅカでガチな闇は描くべきではないし、それを観客は求めていない。
また、景子せんせ自身も、鯉助主人公だとせいぜい『クラシコ・イタリアーノ』になるだけで、今の鯉助の闇を真ん中に置いた創作はできないんだろうなと思う。
良くも悪くも景子先生は闇というか「病み」の薄い作家さんだと思うし、またそこが彼女の魅力っつーか長所だと思うので。
鯉助がステキな闇キャラなのは、彼が主人公ではないから。
描かれ方が単純に「少ない」ため、観客がひとりずつの好みでいかようにも闇の度合いを調節して受け止めることが出来る。
景子たん的「主人公」でありながら、描かれ方が「少ない」。……これは、めっちゃ魅力です。
改心もステップアップも「答え」として提示されていない、「To be continued...」っぷりは、オイシイです。
わたしは彼が好みど真ん中だし、彼にもっとも興味を持った。
「クリエイター」というカテゴリで表現されるけれど、つまりは「人生」に迷う姿をその職業を例題に表現しているだけなので、すべての人に感情移入可能な作り。
なんで人生を語る例題が創作業なのかというと、景子たん自身がその職業だから。語りたいことはよく知らない場所ではせず、自分の庭に持ち込んで語るのが景子たん(笑)。
得意分野に持ち込んで、全方向性の迷いを描いてある、鯉助はとてもいいキャラクタだ。
きっと多くの人の心に波紋を起こしたと思うよ。
また、その役をみーちゃんに託すあたりがニクい。
『Paradise Prince』の新公で、影の主役を演じたみーちゃんだもんなあ。景子たんがどんだけ役者としての彼を信頼しているか、伝わってくる。
ただわたしが、「クリエイター」主人公には引っかかるため、純粋に没入できない。
そこが残念。
わたしが、残念。
あああもったいないー。くやしいー。