うわあああんっ、『ファントム』千秋楽、行けばよかった!!

 いや、チケット持ってなかったんですがね……金さえ積めば手に入るこの世の中、「チケットないから、行かなかった」は「行く気がなかった」とイコールされても仕方ないっすよ。
 でもわたしは、お金がなかったのよ……星組で使いすぎて。

 それで、花組はあきらめたの。

 もし、チケットが手に入るようならいつでも飛んでいくぞ! と、月組全ツ初日もあきらめて、日程だけは空けておいたんだけど、まあ世の中そんなに甘くはないわな。
 結局わたしは、自分に言い訳してあきらめたのさ。

 あとになって、まっつ大泣き+そのか会への挨拶とゆーのがあった、ということを知り、地団駄踏んでます。

 なんで行かなかったんだわたし!!
 そんなそんな、おいしいまっつを何故、見逃したんだ〜〜っっ。

 情報ありがとうございます、れちあ様。

 まっつはフィナーレから泣いており、退団者挨拶時には完全に固まっていたそうです。

 あの、「強張った顔のまま泣く」とゆー、オサコンのときにやっていたアレですなっ。
 じたばた。うわーん、まっつ〜〜っ。

 そして、終演後の楽屋出のとき。
 入るのも出るのもめっちゃ早いまっつなのに、そのとき出は、遅かったらしい。

 先に出てきたそのかが、わざわざまっつ会に報告してくれたそうです。
「まっつはまだ大泣きしている」
 と。

 や、正確には「みわっちさんとまっつがまだ、大泣きしてます」と、両会に教えてくれたらしいけど。

 大泣き。あの、まっつが。

 そしてソレを、いちいち報告していくのか、そのかよ!!

 そのあとにまっつが出てきて、そのか会に、

「今日までありがうございました。これからも、園加についていってください」

 と、はっきりした口調で挨拶をした
そうです。

 ……お礼、言うんだ……。
 そのかを応援してきたそのかのファンに。

 まっつにとって、そのかって。

 「まっつとそのかは仲良しなんですか?」とか書いてごめんよぅ。
 大切な人ぢゃなかったら、そのかを応援してきた人たちに、頭なんか下げないよなあ。

 ……すんません、書いてて、なんか泣けてきた。
 友だちのために、友だちを支えてくれた人にお礼言うのって、純粋な感謝だよね。愛情だよね。
 そんな友だちがいるのって、すごいよね。

 そーやってきちんと挨拶をしておきながら、まっつさんは自分の会には小さな声でぼそぼそとお礼を言うのみだったらしく……なにやってんだもおっ、かわいいぢゃないかっ!!

 泣きはらした眼をしていたそーです、まっつ。

 
 
 …………。

 …………。

 …………萌え死ぬかと思った。

 
 緑野こあら、一生の不覚。

 泣いちゃってめためたな挨拶をするオサ様(こちらも萌えでした)はスカステで映してくれるけれど、強張った顔のまま泣いているまっつは誰も映してくれない。
 ましてや、終演後のことなんて……。

 自分で行かなければならなかったのに。自分で見て、感じなければならなかったのに。
 わーん、わたしのバカバカバカ〜〜。

 や、ほんとに教えていただけて感謝です。
 これからもまっつ情報はいつでも募集中ですから!! みなさまよろしく!!

 まっつ大好き。
 うお〜〜。

 
 てゆーか。
 報告して去っていくそのか、にもすげー萌えます。
 なんなの、その関係って(笑)。

 まっつまっつまっつ。


 とゆーことで、なにがあるかわからない昨今、「花組東宝千秋楽」と「月組全国ツアー初日」が同日だったため、月組初日の方はあきらめ、翌日にしました。
 周囲に月組ファン皆無なため、話題にものぼらないっすが、ひとりでチケ取りし、ひとりで行って来ました、『あかねさす紫の花』『レ・ビジュー・ブリアン』梅芸楽。

 『あかねさす』をナマで観るのは、雪組以来です。
 花組の『あかねさす』は、博多だから観てないのだわ……寿美礼サマの中大兄を見たくてぐるぐるしたけど、結局あきらめたんだった。当時のわたしに、博多はものすげー遠いところだったのよ。今思えば、有間皇子@まっつを見るために行っておけばよかった、と後悔しきりですが。あのはかなさを見れば、まっつオチする日が早まったかもしれん(笑)。
 月組のは中日だったから観てません。梅田でやってくれたら、1回くらいは観ていたと思う。ゆーひくんが出ていればどこへでも行くけど、出てなかったんでスルー。きりやんの中大兄も見たかったなぁ。

 『あかねさす』を観るのは、実に10年振り。

 やっぱ、好きだ。

 この三角関係には、ぞくぞくするわー。
 やっぱ時代のせいなのか、最初物語の流れの悪さ、テンポの悪さに辟易したんだけど、中大兄が横恋慕はじめるあたりから「きゃーきゃー♪」な気持ちに(笑)。

 物語としては、大海人が主役であるべきだと思う。能力はあるが善良であるがゆえにおだやかに生きている男が、大切なモノを奪われ牙を剥き出すに至るまでの過程。……とゆーのが萌えですなっ。
 そしてこの三角関係を魅力的にするには、横恋慕する中大兄が、主役?と思えるくらい魅力的であることが必須。
 観ている観客が中大兄と大海人、ふたりの男の間でよろめいてしまうくらい、ふたりとも魅力的でなきゃね。
 額田に感情移入して、ふたりの男、ふたつの愛の狭間で心乱され戸惑い苦しむのがツボ。乙女ゲーの感覚、女の夢ですわよ。
 だからこそ、ほんとのとここの物語は額田主役であるべきだと思う。タカラヅカだから、そうできないという建前だけど、額田視点、大海人寄りってのがいちばん正しい姿だと思うよ。

 つーことで、プロローグでまず大海人のモノローグがあるのは、どっちの男が、ヒロインのダーリンか最初にを示すことになるので、正しい。
 ふたりとも魅力的、であるわけだから、最初に観客に教えてもらわなきゃこまるのよ、観る上での心構えとして。どっちの男が設定上のダーリンかわかったうえで、心を安定させて観なくちゃだわ。それがルールってもん。
 たとえ、そのあと出てくる男がどんなに魅力的でも、「物語」としての主役がどちらか、まず表明しておかなければ。
 「物語」の主役はこっちの男なんだわ、でももうひとりの男の方が好き!! とまで思わせてこそ「物語」の力になる。

 『生徒諸君!』の岩崎と沖田とかさ。
 岩崎がナッキーと最終的にくっつくダーリンであることは、読者みんなわかってるけど、それでも沖田が大人気! とかゆーのと同じ。
 岩崎と沖田の人気が拮抗して(いや、沖田人気の方がすごかったが)いるからこそ、マンガ自体の人気もヒートアップしていったよな。
 この「沖田」ポジションの男キャラが成功すると、少女マンガは成功するよな。

 『あかねさす』がおもしろいのは、男ふたりの魅力が拮抗することにある、と思う。
 あくまでも主役は「夫にしたいタイプ」「やさしい安全パイ」大海人で、それに対する「愛人にしたいタイプ」「強引で危険な男」中大兄をスパイスにするから、物語が引き締まる。
 大海人は「主役」としてのおいしさを、中大兄は「2番手」だからできるおいしさを持つ役。

 この作品を演じるには、力の拮抗したトップと2番手が必要だ。
 大海人と中大兄に、あまりにも格差があったり並びが悪かったりすると、設定が映えなくなる。

 だもんで、今回のあさゆひによる再演は、願ったり叶ったり。なにかにつけてあさゆひで客を釣ろうとする劇団の思惑にのってしまうよーで複雑だが、おいしくいただいておきます。

 95年に雪組で再演されたとき、主役の大海人はトップのいっちゃんで、中大兄と天比古は2番手のタカネくんと、3番手のトドロキの役替わりだった。
 先にトップと2番手が拮抗していなければ、と書いたが。
 ある意味中大兄は「ある程度の男役スキルのある人ならできる役」なんだよね。だから、2番手がやろうと3番手がやろうと、路線スターとしての華と実力があり、大海人個人のハマり具合や彼との映りがよければなんとかなる。拮抗、と言える範囲でな。
 ただ、天比古はそうはいかなくてなー。
 雪組でのベストキャスティングは、わたし的には大海人@いっちゃん、中大兄@トド、天比古@タカネくんだった。
 トドロキは中大兄はできても、天比古はできなかったんだよ……。冷酷な美形、は演じられても、人間くさい弱さのある役、はできなかった。どーにも嘘くさかったよ、あの人の慟哭シーン。
 難しい役だったんだ、天比古。
 その天比古と通じるもののある役、大海人もまた、中大兄以上に難しい役だと思う。
 当時のタカネくんは大海人も演じられたろうけど、トドロキは大海人を演じるだけの力はなかったろう。

 てなことも踏まえて、大海人こそが主役で、トップスターが演じるべきなんだと思うよ。難しいからこそ、演じる意義のある役だからさ。
 中大兄は「オイシイ」役。「2番手はオイシイ」と言われるのと同義語。
 その、「役」としてのオイシさで嵩上げされた「魅力」でいい、大海人と中大兄は「拮抗」してくれなきゃいかんのだ、物語的に!!

 
 いやあ、たのしかったっすよ、あさゆひ『あかねさす』。大海人@あさこ、中大兄@ゆーひ。
 ゆーひくん、合ってるよね、ああいう役。

 トドのときも思ったんだけど、中大兄に人間性なんかいらないわ、わたしは。
 実はいい人だとか、苦悩しているだとか、そーゆーハンパなもんはいらない。
 ひたすら傲慢で、強引で、計算高くて、冷酷な王者であってヨシ。
 それでもなお、惹かれてしまうてのが萌えだ。

 本能として、あると思うんだ。
 やさしい夫と平凡に幸福に暮らしている、なんの不満もない毎日。でも。
 強引で傲慢なめーっちゃハンサムな外国の大富豪が現れて、無理矢理さらわれてしまったら……ての。
 そりゃ泣くし傷つくし、夫や家族を思ってつらい想いをするだろーけど。
 富も名誉もあるハンサムに「君を愛している」と熱烈に迫られ、命ギリギリ愛を見せつけられたら、そりゃときめくわさ。
 ラヴロマンスの定番ストーリーですわな。

 平凡を愛しているつもりだったけれど、ほんとうのわたしは、激しい恋を求めていたんだ!! と、ハンサムな彼と恋の逃避行で終わってもいいし、激しい求愛によろめきもしたけれど「本当に愛しているのは夫」というオチにたどりついてもいい。
 なにしろ定番だから。

 ただ、『あかねさす』は「本当に愛しているのは夫」というオチだからこそ、横恋慕強引男は、「冷酷」である方が萌える。
 クールな美形、なに考えてんのかいまいちわかんねー。……という方が、よりどきどきするんだ。
 ホットで人間的なタカネくんの中大兄より、冷酷で機械的だったトドの中大兄にときめいたように。

 つーことで、ゆひ中大兄、人間性乏しそうなとこが、実にツボです(笑)。

 いいわー、あのなに考えてんのかわかんないとこ!!

 中大兄の腹の中が見えにくい分、大海人の人間らしさが際立っていて、いいコントラストだ。
 こういう「拮抗」ぶりは好みです。

 ゆひさんの中大兄は、実にいいんだけど。
 ……ゆひさん、万葉モノの化粧もカツラも、似合わねー(笑)。
 総髪にしてくれると、ほっとするわ〜〜。


 10年ぶりに『あかねさす紫の花』を観て。

 つくづく思うんだよなあ。

 大海人と額田の、恋人時代〜結婚式までを1場面入れてくれと。

 のーみそ幼児、としか思えないハイティーン時代に出会って、次の瞬間子持ちですよ。いくらなんでもそりゃないだろ。

 好きな話なんだけど、センスのちがいにより引っかかりがあちこち大きくて、ソレが気になるなあ。

 物語は大海人の独白からはじまり、額田と大海人が歌を交わしたとゆー有名な蒲生野の場面につづくのだが。
 伝えなくてはならない情報量が膨大だから仕方ないとはいえ、なんつーか滑りが悪いんだよなあ。最初の蒲生野の場面であまりに人が多く出過ぎるから、「さっきの独白の人」がどの人か、観客が見失いそうなのもまた、気になるし。
 きちんと、「主役」を主役として盛り立ててほしいのよ。どんな大勢の場面であろうと、まず大海人をきちんと目立たせ、そのうえで額田と中大兄を目立たせて欲しい。状況説明はそのあと。とりあえず、「この人たちに注目していればいいのね」ということだけ、わからせて欲しい。
 ぶっちゃけ、人間の心理さえ追うことができれば、歴史的背景なんかわかんなくても、「なんとなく?」でも、観客は物語についてゆけるのだから。
 蒲生野の、やたらめったらゆーーったり喋りは、ムード作りのためなんだろうけど、やりすぎに思えるし。全編そのテンポならともかく、最初だけ特にのろいし、ものすげー時代錯誤感が強い。現代でこのテンポはないだろ的、初心者が「なんか場違いなところへ来てしまった?!」とドン引きしそうな昭和ムード。
 なのに、時をさかのぼってふたりの出会いたる額田の郷の場面になると、いきなり幼児的お遊戯喋りになるし。
 いくらなんでも、ここまでのーみそ後退させなくてもいいだろうに。いくら古代だからって十代後半の若者が幼児喋りをするのって、純粋にだよ。史実にこだわるつもりはないが、中大兄と大海人って、幼児と大人、ほどは年齢離れてないよね? 兄弟前後逆疑惑があるくらいなんだからさー。

 この子ども時代をもう少しマシにするだけで、「時代遅れ」感はずいぶん減ると思うんだけどな。
 せっかくいい話なのに、わざと「ついて来られる者だけついて来な。この昭和ムードを受け入れられない者は観なくていい」と言っていそうな作りがもったいない。

 で、最初の話題に戻るが、この直後にいきなり子持ちだし。

 間延び歌舞伎調喋り→幼児喋り→子持ちでラヴラヴふつーの喋り。……ふたりの代わりっぷりに、一般人はついていけないんぢゃないのか? 観客すべてが役者の顔と名前もわかっていて、どんなに衣装や喋り方、性格まで変わっていても「同一人物」とわかるわけじゃないんだよ?

 ふたりが恋をして結婚するまで、台詞ふたつみっつと掛け合いデュエット1曲でいいから入れてくれよ。青春時代希望。
 そうやって、「ふつーの恋愛結婚」だということを印象づけるからこそ、さらに中大兄の横恋慕が活きるんじゃん。

 
 あとはどーしてもラストが蛇足に思える。
 95年の雪組を記憶のスタートにしてしまった者には、花組版のラストの蛇足っぷりにアゴが落ちたのね。
 テーマやストーリーを、ラストでとってつけたよーな台詞やナレーションで解説、なんていちばんかっこわるいと思っている。(類似・『愛するには短すぎる』)
 大海人が玉座の前で大暴れして高笑い、中大兄が「大海人、狂ったか?!」の一言のみで幕が下りる雪組版が最良だ。
 そーゆー終わり方が「わかりにくい」と言う人は、どれだけ言葉で説明したってわからない人なんだから放っておけばいい。のちの歴史なんか知らなくても、『あかねさす』のこれまでの物語を、大海人と額田の立場や気持ちをロールプレイングしていたならば、何故あのシーンで、大海人の狂ったような高笑いで幕が下りるのか、わかるはずだ。わからん人は物語をちゃんと理解してないってことだから、どんなに説明したって無意味。
 今回の『あかねさす』でも、やはり蛇足説明はだらだらあるわ、「狂ったか!」「狂いました!」とコントのよーなやりとりがあって、一気に萎えました(笑)。いやあ、ダサいわー。かっこわるいわー。
 ここまでテーマを口で説明しないと、観客には伝わらないと思ってるんだね。「観客はバカばっかり」と思っているか、もしくは「演出に自信ないんだ、ごめんね」ってことだろうか。
 やれやれ。

 まあ、センスがチガウってことなんだろうなあ。
 ツボにハマる演出で一度観てみたいなあ。

 ラストで涙が引っ込むんだけど(笑)、その前の場面まではダダ泣きでした。
 最後の蒲生野のシーンはいいよねええ。額田の独白から大海人登場「来てしまった……!」、十市ののーみそ足りなさ具合もベタで萎える寸前なんだが(笑)泣かせるし。

 
 ちなみに、95年雪組の『あかねさす』の主人公は額田女王@お花様でした。男ふたりは脇役ですよ、もちろん(笑)。
 蒲生野で独白をはじめた瞬間の吸引力。舞台が、世界が、彼女を中心に回っていることがわかるの。

 今回の月組『あかねさす』はそこまで額田が強くは思えなかった。かといって大海人の存在感がそれほどあったとも思えないので、結果大海人、額田、中大兄3人のパワーバランスがちょうどよくなったんだろうな。
 3人主役の『あかねさす』も、正しい姿だと思うよ。

 
 さて、主役3人以外ではやはり、鎌足@嘉月さんのうまさが印象に残る。鎌足は重要な役、雪組では4番手のタータンが演じていたはず。てっきり歌を聴けるものだと期待していたのに、ソロはカットなのね。

 天比古@まさきは、正直ちょっとチガウ気がした。ソレ、天比古ぢゃないだろう! みたいな(笑)。
 気合い入りすぎだから。そこまでアツくトバしすぎると、作品壊すからもー少し抑えてくれや。
 と思いつつ、小月@れみちゃんとの映りがいい。無駄にアツいダメ男に惚れて尽くし続ける、押しの強い健気美女って、なんて素敵カップル(笑)。

 誰が出ているのか、いつものことだが知りもしないで観に行って、マギーの濃さと存在感に振り回される(笑)。いやあ、どこにいてもわかる、つい目が行く。
 マギーを無意識に見てしまうせいか、気を取られるせいか、いつも一緒にいるあひくんに、気づかなかった。
 途中から、そーいやマギーと一緒にいる男の子は誰だろう、わたしの知らない若手かな? と思ってよく見ると、あひくんだった。
 そうか、あひくん月組に戻って来てたんだった!!
 よく見るとたしかに大きくて、きれいな顔で、顎が立派で、あひくんなんだ。
 ……でも、目立たなくてびっくりしたっす……。マギーが無駄に濃いだけかな。

 あと雉の歌手の歌声に癒される。誰かわかんないまま見てたんだけど。

 席はそこそこだったんで、オペラグラス使わずに、ほぼナマ目で観劇。プログラムもとーぜん買ってないので、誰が誰やら、どの場面がなんて名前やら(笑)。
 心残りは、ゆーひくんのブックマークが売り切れで、買えなかったことでしょうか。(ソコか!)


 わたしは初日好きです。初日ゆえのできあがっていない感をたのしむのが好きなの。

 でも今回、花東宝楽とかぶっていたから、念のために月全ツ初日はスルーしたのね。

 初日に行けばよかった!

 と、口惜しい思いをしました。
 芝居を観る上ではそこまで思わなかったの。
 ショー『レ・ビジュー・プリアン』を観て。
 心底、思ったね。何故わたし、初日を観なかったんだろう、観ればよかった! と。

 遼河はるひのダメっぷりに、心ときめいたっす!!

 芝居ではあひくん、役付も悪かったし、あまり目立つこともなかったんで、気づかなかった。ああ、いるんだ、ぐらいだったの。

 でもショーでは、ちゃんと場面や出番をもらっているのね。
 きりやんの位置にスライドしていたりするのね。

 ここまで、ナニも出来ない人だったとは!!

 キョドってます。
 盛大に、キョドってます。
 どーしていいかわかってないの。なにをすればいいのかとまどいまくってるの。

 うわー。

 わたしが観たのは、梅芸の楽、すなわち公演4回目。4回も客の前で上演してきて、まだこの状態?
 んじゃ、いちばん最初はどんなことになってたの?

 心ときめきました。
 『NEVER SAY GOODBYE』のアギラール役でノミの心臓ぶりを披露していたけど、ほんとに小心なんだー。
 真ん中でスポットライト浴びると、キョドっちゃうんだー。

 かわいいー。

 めずらしいよね。
 こんなに「真ん中」とか「スター扱い」が苦手なのに、舞台人を志したなんて。
 べつに脇役志望、私に主役をふらないで、て人にも思えないだけに。

 きりやんパートだから、彼に比べて歌が下手なことは、べつにわかっているからどーでもいい。
 ただ、うまいヘタ以前に「ショースターとして歌を観客に届ける」という立場を理解していなそーな姿に、疑問を持った。

 これが、「真ん中」としてのスキルが少ないってことだろうか。

 宙組にいたあひくんは、たとえ全ツであろうと、「場面の真ん中」「場面の主役」をもらったことがなかった。
 本公演ではもちろんその他大勢、みんなそろって歌う背景踊る背景。それが宙組クオリティ。
 全ツで出演者が半分になっても、抜けたスターの出番は組長とか副組長とかはっちゃんが埋める。それが宙組クオリティ。

 おかげであひくんは、「真ん中」に立つ訓練をまったく受けていない。
 自分のファンしか観に来ない、小さなバウホールで主役はできても、お手本のある1回限りの新人公演で主役はできても、「遼河はるひ個人」として、「真ん中」の仕事はできない。

 ……それって、どうなの?

 たしかに経験を積むことができなかったのだから、気の毒だなとは思うけれど。
 同じようにキャリアがなくても、まさきやマギーなら、やってのけると思えるんだが……。
 宙組でのあひくん(に限らないが)の扱いはひどかった。そのために、経験値が低いことは認める。
 しかし……ソレは言い訳にならない気がするんだよ。

 うん。
 実はさ、「真ん中」以前に。

 「男役」基本値の低さに、驚愕したの。

 パンツスーツのきれーなおねーさんが、真ん中で歌ってる……。

 周囲の男たちより、背が高いのに。
 なのに、「男役」スキルが低いために、おねーさんに見える。

 これは、どーゆーこっちゃ。

 かしコンにて、宙組の「男役」基本値の低さにショックを受けたところだった。でもそのあとのエンカレで、ともちがちゃんと「男役」として美しいことに大喜びをした。

 でも、「宙組」単体で観ているときはわたし、気になってなかったよね、彼らのスキルの低さに。
 かしコンでは、異分子ほっくんがいたからこそ、気づいたんだよね。
 あひくんだって、宙組にいるときはなにも気づかなかったよ。ふつーにきれーでかっこいい男役だった。
 なのに、月組の若い男の子たちの間に入ると、スキルの低さが全開になるの。
 エンカレは、宙組の子しかいなかった。……ひょっとして、ともちがかっこよかったのも、宙組内だけの話? 彼もよその組の子たちの混ざると、ダメダメに見えちゃうの?!

 たかはなはたしかに稀代のトップコンビだったし、わたしはたかはなのファンで、彼らが作り出す美しさに夢中だったけれど、やはり彼らだけに偏重した宙組のありかたは、まずかったんだなあ。
 たかはなとその他大勢、たかはなと歌う背景、踊る背景、だった宙組。
 その歪みを、あひくんが体現しているのだと思った。
 研11、新公主演バウ主演し、組内4番手だの5番手だので、路線としてスターファイルにも載っている人が、「男役」基本値がこれだけやばいレベルだという現実。
 あひくん単体ではなく、宙組への危機感を改めて感じ、震撼することになりました。

 とゆーことで。
 キョドっているあひくんに対して、興味がむくむくわき上がっています。

 フィナーレで、2番手羽背負ってんだよ?!

 で。

 やっぱり所在なさげで、キョドってるんだよ?!

 気になるじゃないか。かわいいじゃないか。

 もちろん、そのふがいなさにおどろきと苛立ちはある。
 でも、彼への反感にはならないんだなー。
 だって宙組にいたときは、そんなにレベルが低いなんてわからなかったもの。あひくん個人の問題だけではなく、組自体の問題っつー意味も大きいだろうから。
 そして、あひくんがちゃんと一生懸命であることがわかるから。

 がんばれ、と思う。
 月組にいたときは、ちゃんと「男役」だったんだ。月組にいればきっと、元の「月男」に戻るよね。
 あんなに素顔が美人さんで、でかい図体して、もういいトシ(学年)で、ノミの心臓……。なんて腐女子心をそそる存在だろう(笑)。マギーとかまさきとかを攻にして、月組1デカイ受として花開いてほしいもんですな。や、宙にいたときから受属性だったけど(笑)。

 ……にしても宙組……どーなるんだろ、これから。
 かっしーのあとのトップが誰か知らないけれど、きちんとヅカの「男役」芸を示し、伝えていけるといいなあ。
 タニちゃんは美しい人だけど、アレは「大和悠河」という美しさであって、いわゆる「男役」芸とはチガウものだしなあ。
 いや、5組もあるんだから、1組くらいはいいのかな、ヅカスキルとか基本とかと無関係な組があっても。それはソレで味とか個性とかゆーもんだし。ただ、宙育ちでよその組に組替えになると苦労するっちゅーだけで。(和くんも苦労してるよなー。彼はまだ若いので基本値が低くてもあまり気にならないけれど)
 コーラスだとか「団体芸」において、宙組に敵うものはないもんな。そーゆー特色があるんだから、それでいいのかもしんない。

 と、何故か月組を観に行って、宙組の話で終わるのだった。


 つい先日までムラでやっていたショーを、またやるのかぁ、という印象でした、『レ・ビジュー・ブリアン』。東宝まで観に行ったしさぁ。なんかついこの間、って気がしてならない。

 予備知識ナシで幕が上がり。

 月のブランコがないことに落胆した。
 そっか、全ツってこーゆーことなんだ。さみしくなるもんなんだ。
 あさこちゃんのブランコ、好きだったなあ。いかにも「夢の世界」って感じの美しさで。

 トド様がいないことを再確認し、あひくんがいることを再確認し。ゆーひくんが単独2番手であることを、再確認し。
 おお、役替わりってこういうことかー、本公演の印象がまだ強いだけに新鮮だなー。

 人数が少ないからかハコが小さい(小さいのか?)からか、はたまたわたしがたんにほどよい席にいたからか、大劇で観ていたときよりマギーとまさきがやたら目に付いた。活躍してるなー、やる気満々だなー。
 まさきのやる気っぷりは、芝居では多少うるさく感じられたのだけど、ショーではいい感じだ。水を得た魚。あーゆー受動態の役は、まさきの柄にあってないんだろうな。彼は「役のしばり」を飛び越したくてうずうずしているように見えた。
 マギーは堅実にしぶとくアツい(笑)。おもしろいしたたかさ。

 大劇のころから引き続き、かなみちゃんのかわいらしさにときめきっぱなし(笑)。
 首飾りをめぐってのあさこの妄想シーン(正式名称知らん)、あそこのかなみちゃんがごっつかわいい。
 無国籍な港町、宝石売りの嘉月おじさまと、歌う海の男@マッチ先輩、ラヴラヴカップルのあさかな。で、あさこが警官の撃った流れ弾に当たって、なんか夢の世界へ行っちゃう場面な。……あれって危機一髪あさちゃんのめくるめく妄想の世界よね? 心が強ければ陥らなかった隙間、ちゅーか。ま、結局身の丈にあった幸福に辿り着く、と。

 そこのかなみちゃんが和柄っぽいミニワンピースとロングブーツ、無邪気な笑顔で、健康的なかわいらしさなんだよなー。ミニスカートの下のフトモモがなんか萌えなんですけど。
 このかわいい女の子の横に、かっこいい男の子がいること、それだけのことが妙にうれしい。

 ただこのシーン、きりやんのときは安心して酔っていられたんだが、全ツではあひくんの危なっかしさに気もそぞろ。おーい遼河はるひさん、わたしにかなみちゃんのフトモモを堪能させてくれよー(笑)。

 反対に、かなみちゃんのミニスカポリスのところは、役替わりでトドの位置に入ったのが実力者の嘉月さんだったので安心、かなみちゃんガン見してました。
 いやあ、かわいすぎるよなあのコスプレ。のーみそ少な目なところがたまらん。シーン自体は意味不明(山ナシオチなし)なんだけど。

 てか、トドの位置に嘉月さん、つーのがすごいな。素敵に余裕のあるおじさまぶりで、大劇版とは印象ががらりと変わった。ううむ、タイプも年代もちがう色男ふたりをはべらすかなみちゃんがキュート。そして、うらやましい(笑)。

 さて、トド様がいないので、彼メインだったタンゴのシーンがまるっと別物に差し替えられてました。おお、新作があると、なんかお得な気分だ。
 あさこちゃんがシリアスに受ウケしく苦悩なさってました。

 あさちゃんにヘタレな受子ちゃん役ばかりをやらせるのは、劇団の意図なんでしょうか、演出家の趣味でしょうか(笑)。で、ゆーひくんはクールな攻男なのね。これも劇団の以下略。
 世の中のお嬢さんたちは基本的に「受」が好きなので、受キャラとして売り出すのは戦略として悪くないと思うけれど、あさこちゃんって2番手まで攻キャラで売っていた人だと思うんで、ファンのニーズに合っているのかどうか疑問ですわ。
 攻キャラだと思って惚れた男が突然受になっちまったら、ファンの女の子たちは混乱するんじゃないか……?

 それとは別にあさこちゃん、どーも「受」と「ヘタレ」を捉えまちがっている気がする。
 女の子に人気が高いのは「受」であって「ヘタレ」ではない。
 なまじ攻キャラのふりをして生きてきた人だから、そのへんがわかっていないのではないかと危惧する。

 わたしは「ヘタレ」は好物なので、瀬奈氏がヘタレ街道驀進してくれても、なんの文句もありません(笑)。

 さて、反対にゆーひくんは攻として売り出し中ですか。
 ヘタレあさこちゃんに対峙する役、敵役として、新作シーンでもゆーひくん登場です。あさこから女奪っていきます、黒いです、クールです。
 ……ゆーひが人気あったのは、受キャラとしてだと思うんですが。や、わたしは彼を受だと思ったことはありませんが、世間の認識では、って意味。
 トップが受だと、2番手が攻になるのは自然の習わしってもんで仕方がないし、わたしは攻のゆーひくんが大好きなのでぜんぜんかまいませんが。
 ただ世の中的にどーなのか、わたしにはさっぱりわかりません。

 「とりあえずあさことゆーひを絡ませておけ、そーすりゃ人気が出る」みたいな単純な構図に見えるんですが……それなら逆にした方がよくないか?
 あさこ×ゆーひの方が、世間のニーズにあっている気がするんだが。
 あさこにシシィやらせる劇団だから、なにを言っても無駄だろうなー。
 おやぢどもは、女子の「属性」に対する感覚を理解できないようだからな。「美形」=「耽美」でもないし、「美形」=「受」でもないのよ!!

 や、腐女子用語での感想なんで、共通言語と感覚を共有できる人だけ受け取ってください。

 とりあえず、あさこちゃんとゆーひくんが絡んでくれるので、オイシくたのしい場面です。かなみちゃんも黒くてかっこいーし。
 芝居となんか設定カブってる気がしないでもないが、よーするに彼ら3人が「映える」設定なんだろうな。わくわく。

 
 ついこの間観た気がする……わりに、結局のとこたのしかったっす、『レ・ビジュー・ブリアン』。


 あさこがヘタレ受でゆーひがクール攻としてイメージが固定しそうなほど、芝居といいショーといい、似たよーな立場の役割が続いていますが。

 そのショー『レ・ビジュー・ブリアン』は演出家が酒井せんせだから、なにも考えてないってのが、ほんとのとこだと思いますよ。

 樹里ちゃん退団作品で、ほとんど寿美礼サマとWトップ?てな扱いだった『エンター・ザ・レビュー』を博多座で上演する折、生徒の持ち味もなーんも考えず、「上から順番に割り振り」をした演出家だからな。
 ゆみこのコメディアンがどれほどサムかったか……まっつの兄鳥がどれほど痛々しかったか……。
 属性もなにもあったもんぢゃない。
 樹里ちゃんとゆみこちゃんでは、持ち味正反対だっつーに。まあ、酒井氏がなにも考えていないおかげで、「アランフェス」がオサゆみになって、よかったっちゃーよかったんだが。

 今回の『レ・ビジュー・ブリアン』も、なにも考えずに「空いたところに上から順に」役を振っていったんだろう……。
 その結果が、受のトップと攻の2番手。あさこだから、ゆーひだから、ではなく、「この公演の、上からひとりめとふたりめ」。
 ……あて書きしようよ……。

 
 えー、役割に付属する属性の話は置くとして(笑)、今はゆーひさんの話。

 今回彼が入っていた箱、すげー小さくなかったですか?

 びっくりしたんですけど。
 大劇とかでもあんな大きさだった?

 あの小さな箱にあのでかいゆーひさんが小さく丸まっていたのかと思うと、萌えます。
 なにがどうぢゃないが、ときめきます(笑)。スターって大変だなー(笑)。

 ゆひくん今回、どさくさにまぎれて中詰めの真ん中やってますよー。
 すげーや。
 あさこちゃんはそのあとの新作シーンがあるから、早々にいなくなってしまって、ゆーひとかなみちゃんが中心になって中詰めを最後まで持っていくのね。
 下級生たちがわーっと客席降りして通路で歌い踊り、客席も手拍子して大賑わい。
 すごいたのしいシーンなの。
 通路のきれいさんたちも見たいし、舞台のゆひかなも見たいしで、大忙しさー。

 しかしほんとに、感慨深いっす。
 あのゆーひくんが、中詰めの芯ですよ。
 機嫌が悪いとショー1時間中一度もニコリともしなかった、「スター」らしさとはかけ離れていた、あの隅っこにいたゆーひくんが。
 全ツとはいえ、とりあえず中詰めの芯。
 大人になったんだねえ……しみじみ。

 たのしそーに笑っている顔を眺めながら、胸が熱くなりました。

 いや、なにしろ演出家があの酒井氏なので。なにも考えずに「空いたところに上から順に」役を振ったのが手に取るよーにわかりますが(笑)、もういいや。
 ゆみこのコメディアンもまっつの兄鳥もアリだったんだからなー。ナニが起こってもおどろかないぞー。(いや、おどろきました)
 

「ゆーひくんがトド様の衣装着て、ズボンの裾は足りたんですか?」
 と、友人が心配してましたが。
 足りたんじゃない? あひくんがきりやんの衣装着てるくらいだから、ヅカの衣装マジック恐るべし!

 中詰めでゆーひくんが着ている衣装がトドのものかどうか、わたしはいちいち気にしてなかったんでよくわからんですが、エトワールの衣装が同じなのはわかった。

 ゆひくん……似合ってない(笑)。

 スタイルがアレなトド様を縦に長く見せるために、縦のラインを強調した白い衣装と、謎の白レースカーテン。
 この嘘くさいトンデモ服が、似合ってないの!(笑)
 いやあ、こーゆーのを「普段から着てますが、なにか?」てなふーに着こなすところがトド様のすごいとこなんだよなあ、と、かの人の偉大さに改めて思い馳せてみたり。
 ゆーひの歌が弱いことはもう言わずもがな。うーん、衣装に負けていて、さらに歌声のインパクトも弱いとなるとつらいなー。がんばれー。

 や、わたしたんに、ゆーひがエトワールってアリかよソレ?! ってことの方にウケてたんで(ウケてたのか!)、微妙さも含めておいしくいただきました。
 歌がアレな男役のエトワールが、今日日の流行りなのでしょーか。

 で、その似合わないトド様印のエトワール衣装@ゆーひくんは、歌い終わってそそくさと退場、自分のフィナーレ衣装に着替えて、こっそり合流しているのが、すげーツボりました。
 本来の衣装に着替えるんだ! つーとやっぱアレは借り物認識?(笑)
 横から現れて、こっそり並び位置に入り、なに食わぬ顔であさこちゃんを待つのが素敵。
 真っ白な2番手羽根背負ってさー。なにげなーくまざっちゃって。エトワールも大変(笑)。
 

 ゆーひくんの魅力は、ダークでクールに見える美貌と抜群のスタイル、そして、そのくせ笑うとくしゃっと子どものよーに無邪気な笑顔になることかなあ、としみじみ思ってみたり。
 中詰めのかなみちゃんとのかわいーカップルぶりと、その直後の鬼畜オーラ全開ぶりのギャップが素敵で。
 いやはや、どこに行くのか知らないが、ついていきますよ、おーぞらゆーひ。
 わたしの知っているゆーひくんのようであり、すでにもう知らない人のようであり。
 計り知れないところが、魅力なのかなぁ。


 ジャド子は息をのんだ。
 彼女の机の上に、花が生けられた花瓶と、黒いリボンをつけられたジャド子の写真が置いてあったからだ。
「ジャド子は昨日、自殺したのよ」
 クラスでも中心的な存在であるカリ子が言う。
「だってジャド子、ブスだし臭いしびんぼーだし、根暗で卑屈で陰険で、生きてても仕方なかったもの。それで首を吊って死んだんですって(笑)」
 華やかな美人で人気者のカリ子は、黙り込んでしまったジャド子にさらに言葉を重ねる。
「それでみんなで、ジャド子のお葬式をしようって話をしていたの」
「……お葬式?」
「ほらなにしろジャド子、みんなの嫌われ者だったでしょう? 誰かが率先してお葬式をしてあげなきゃ、誰もその死を悼んであげたりしないだろーし。だから、アタシがみんなに言ってあげるの。
『たしかにジャド子はゴキブリみたいに嫌われていたわ。醜くて卑怯で無能で、同じ空気吸うなボケ汚れるだろがッみたいな子だったけど。でもほんとうは、心の美しい子だったのよ』
って」
「…………」
「ジャド子は嫌われ者。ブスでバカで暗くて性格悪くてひがみっぽくて、みんなみんなジャド子を大嫌いだったけど、でも本当チガウのよ、ジャド子は実はいい子だったの」
「そう、ジャド子は嫌われ者のドブスだったけど、本当はいい子だったの」
「みんなジャド子をゴミでブタで臭い邪魔者だと思っていたけど、本当はいい子だったの」
 カリ子の取り巻きたちも声を合わせて話し出す。
「本当はいい子だったのに、ジャド子。可哀想に、死んでしまって」
「可哀想なジャド子」
「可哀想なジャド子」
「…………もうやめて!!」
 溜まりかねたジャド子は、机の上にあった花瓶をなぎ倒した。花瓶は教室の床に叩きつけられ、大きな音をたてて割れた。花が飛び散り、水が広がる。
「なにごとですか」
 ドアが開き、担任教師が入ってきた。いつの間にか始業のベルが鳴っていたらしい。
「先生、ジャド子さんが花瓶を割ったんです」
「わたしたちなにもしてないのに、ジャド子さんったらひどいんです」
 長身の女教師は黙ったままのジャド子を一瞥し、言い渡した。
「ジャド子さん、花瓶を片付けなさい。そしてそれが終わったら教室を出なさい。アナタに授業を受ける資格はないわ」
 ジャド子はなにも言わず、跪いて破片を拾い始めた。そんな彼女に、クラスメイトたちの忍び笑いがあびせられる。
 可哀想なジャド子。アナタはもう、死ぬしかしあわせになれないわよ? 嘲笑がそう言っている。

          ☆

 ……すみません、わたしダメでした、月組日生公演『オクラホマ!』

 なにがどう、出演者が演出が、などという以前の問題で。

 生理的にダメです、この世界観。

 いかにもアメリカ的な勧善懲悪。絶対正義の元、敵と仮定した対象には徹底した侮蔑と排除。敵の死や破滅に喝采を送るドライさ。ルール=自分だから、自分が勝つようにルールを歪めて、敵が負けるまで追いつめる。相手を陥れて自滅させ、名ばかりの裁判(出席者は全員自分の味方)を開いて自身の正当性を確立。
 わたし、ウェットな日本人だから、ついていけないっす。

 明るい他愛ない物語なんだけど、明るい他愛ない物語だからこそ、そこにあったりまえに肯定されている「歪み」がこわくてこわくて、正視できない。

 カーリー@トドとローリー@あいは、周囲も認める両想いカップル。でも結婚前の男女がベタベタするのははしたいないし、相手に夢中だと思われるのもなんだかくやしいし……と、中学生程度の精神年齢で、ちょっとギクシャク。
 そこへ、村の嫌われ者ジャッド@きりやんがローリーに横恋慕してきた。なにしろジャッドは気味の悪い男。道を歩いているだけで職務質問され、前を歩いていた女の子は「痴漢よ! 犯される!!」逃げ出し、下着泥棒が出たと言えば真っ先に疑われるよーな男。「絶対性犯罪者よ!」ローリーも村のみんなも、みーんなそう思っている。
 でも、ジャッドはローリーの農場の下働きなの。誰もやりたがらないよーな仕事を押し付けられる、都合のいい下等労働者が必要だから、仕方なく雇っている。
 ジャッドに村をあげてのイベントに誘われたローリー。承諾した理由は、「だって断ったりしたら、ナニされるかわからないじゃない!」。
 カーリーはそんなジャッドに釘を刺しに行く。「やあジャッド! いいところにロープがあるな、どうだジャッド、このロープで自殺してみないか? みんなよろこぶぞ」。そして、えんえんジャッドの葬式の話をする。しかも美談として。
「嫌われ者だったジャッド。死んでしまって可哀想に。本当はいいヤツだったのに」と、えんえん、生きている本人の前で言い続ける。

 心底、こわかったっす。
 突然部屋に入ってきた顔見知り程度の人が、「ねえこあら、あんた嫌われ者なんだし、自殺してみない?」と言って、わたしの葬式の話をえんえんえんえんするとしたら。
 悪意だけなら、まだわかるんだ。ああ、この人はわたしをキライで、わたしが邪魔なんだな。キライ=死ね、邪魔=死ね、という価値観の人なんだ、と思える。
 でも、悪意だけじゃないの。
「大丈夫、死ねば『いい人だった』ってことになるわ。みんなあんたのために泣くわよ。感動的なシーンね」
 と、ほんとーに感動的な話だと信じて言っているの。
 正義なの! キライ=死ね、邪魔=死ねが、この人個人ではなく、この世界全部での「正義」であり「ルール」なの!

 だって、陽気で痛快なラヴコメディなんだもの! 軽快な音楽で歌い踊るミュージカルなんだもの!

 わたしには、理解できないし、したくもない。

 こわいよーこわいよーこわいよー。ぶるぶるぶる。

 嫌われ者ジャッドは絶対悪。だから、彼に対し、なにをしてもかまわない。そして、彼が虐げられ、歪められ、悲憤のうちに自滅するさまを、軽快なコメディとして、楽しく歌い踊って幕。
 こわい。こわいよー。

 ジャッドはカーリーに殺されるんだけど、「正当防衛」ってことでカーリーはその場で許されるしね。裁判はカーリーの味方だけで行われ、誰もジャッドの側には立たないしね。裁判やる意味ないし、そんなの。
 で、その足でラヴラヴ新婚旅行だしね。

 ブラックすぎるだろ。

 
 もちろん、クソ古い作品だし、当時の世界観だとか世相だとか関係しているのは想像がつくし、本来ジャッドは同情の余地もないクソな悪役に描かれるべきなんだろう。
 そーゆーもんだ、というのはわかる。
 わかったうえで、わたしはこの作品を「いらない」と思う。生理的に許容できないので、いらない。

 明るく楽しいラヴコメ部分と、敵認定した者への迫害が同じ世界にあるのがこわい。敵認定、なだけで、その敵とやらは具体的になにも悪いことはしていないの。でも、「敵」だから「悪」と決めつけ、「悪だから、虐げていい」。

「ジャド子ってキモくね?」
「キモいよねー。絶対なんかヤバいよあいつ」
「んじゃ、ちょっとくらい虐めていいよねー」
「いいよいいよ、みんな同じこと思ってるって」
「いなくなればいいのにね」
「キモいもんね」
 嫌いな子の「お葬式ごっこ」をしていじめている、女子中学生みたいな怖さがある。本人たちには「正当で、たのしい日常」なあたりが。

 
 世界観構築で、やってはいけないこと、ってのがある。

 たとえば、『サザエさん』で、人が死ぬ。
 明るくやさしく、深く考えずハハハと笑ってたのしい気分のままで終わる『サザエさん』で、「もっと感動的にしよう」「いい話にしよう」と思ったからって、あの世界では人を殺してはいけないのだ。
 『ドラえもん』でも同じ。誰も死んではいけない。
 誰か死ねば「感動的」「いい話」を簡単プーに作れるが、世界観ゆえに「やってはいけない」のだ。

 つーことで、『オクラホマ!』でいちばん気持ち悪いのは世界観の歪みなのだわ。

 作品は『サザエさん』系なのに、強い立場の主人公とその側にいる者たちが弱い立場の人間をいじめて、しかもソレを「正義」として描いて、弱者はみじめに死ぬし、それでも強者たちは笑ってハッピーエンドだし。

 世界観がブレまくっている。
 このブレを修正すれば、少なくとも「気持ち悪い」ことにはならないんじゃないの?

 軽快な勧善懲悪ラヴコメディとするなら、姫を助けて悪を成敗する話にしなくてはならない。
 それなら、主人公が殺人を犯してもハッピーエンドになる。

 嫌われ者ジャッドを本当の悪人とする。窃盗脅迫暴行なんでもござれの大悪人。彼の暴力がこわくて、誰もなにも言えない。
 ローリーの農場の下働き、という設定のまま、男手が必要だしたしかに最低限仕事はしているからそれを理由に凄まれると首に出来ない、暴力がこわくて強く出られない、ということにすりゃーいい。
 物語冒頭から、理不尽に暴力をふるい、悪の限りを尽くすジャッドの場面を入れる。彼におびえる人々の姿も。
 ジャッドには人間性などいらん。ただの「悪」だ。ただの「障害」だ。それを倒し、乗り越えることで「物語」になるっつーだけものだ。
 強い絶対悪に立ち向かうカーリーは、ちゃんと「いい男」に見える。

 現代日本人の共有できる感覚として、いじめられていいのは「主役側」であって、主役側が敵側を「差別」して「いじめ」てはならない。
 『オクラホマ!』の気味の悪さは、それが逆転していることにある。

 強い立場の者が、その権力を使って弱い立場の者を虐げる。
 と、これだけ見れば、「主役は弱い立場の者で、権力と戦うのね」となるさね。
 ところが『オクラホマ!』の主役側はこの「強い立場の者」であり、権力を使って弱い立場の悪役ジャッドを虐げるのだわ。

 時代劇だから仕方がない。というのは、わかる。
 ナチスドイツがユダヤ人を迫害していた時代を舞台にした物語で、ナチス将校が弱いユダヤ人を虐め殺して、血統正しきドイツ人同士でハッピーエンドになってしあわせしあわせしていても、変だとは思わない。
 だが、ユダヤ人は別に悪くなく、彼に落ち度があったとしたらソレは「ユダヤ人だった」ということのみ、もともとナチスの方が強い立場だから、ユダヤ人を殺して排除することはなんの造作もない、ソレを殺してハッピーエンド、って、ソレ、物語としておもしろいか?
 障害を乗り越えなきゃ、盛り上がらないじゃん。強い者が弱い者を殺してハッピーエンドじゃ、物語としてなんにもおもしろくないよ。

 実際にナチス全盛期に作られ、同じ価値観の人々だけでたのしむ物語なら、単純でいいのだと思う。
 愛し合うナチス将校とドイツ人の美しい娘、そこに卑しい男が横恋慕してきた。そいつはユダヤ人だった。やっぱりユダヤはサイアクだな、悪を殺して、将校と娘はハッピーエンド。……その時代なら、ソレでよかったんだろう。
 だが現代に、こんな露骨な設定で物語を描いて、誰がよろこぶ? 思想的にどうとか、差別はよくない! とかゆー以前に、純粋に「物語」として盛り上がらないじゃん。
 だから、ナチスがユダヤを殺す話を描くなら、殺されるユダヤ側からの物語にしたり、殺す方と殺される方に葛藤を描いたりするわけでしょう?

 『オクラホマ!』が時代劇で、日常として「差別」が存在する時代の話だということはわかる。描かれた世界も、そしてそれを見てよろこぶ世界も、同じ感覚を持ってる時代の作品なんだろう。
 同時期の日本だって、「鬼畜米英!」っつって竹槍持っていたわけだし。そのときの日本人が共感できる物語は「強い日本人が、卑劣で弱い敵国人を殺した、正義は勝つ!」とかだったんだろうし。
 『オクラホマ!』で描かれている「強い立場の者が、権力を使って弱い立場の者を虐げ、その分不相応な弱い立場の者を成敗し、強い立場の者たちだけでハッピーエンド」というのが、「みんなが見てたのしい作品」だったんだろう。
 でも今、現代だし。
 現代の感覚では、「強い立場の者が、その権力を使って弱い立場の者を虐げ成敗してハッピーエンド」てのは、物語としておもしろくないよ。

 かといって、殺される弱い者側からの物語にしたり、殺す方と殺される方に葛藤を描いたりするわけにはいかないの。
 だってコレ、楽しさあふれるミュージカル作品だから。のーてんきなラヴコメだから。
 んな重いことをやると、のーてんきにならない。ミュージカルナンバーに合わない。

 強い者が弱い者を虐めて殺す、ことを「たっのしーい♪」と思う世界観を共有しなければ、真の意味でこの作品をたのしめないんだ。

 いくらなんでもソレじゃあんまりだから、と、いくぶんウェットな仕上がりにはなっているのだと思う、タカラヅカ版『オクラホマ!』。
 でもソレ、成功してないし。

 タカラヅカ版のジャッドはなんとなくかっこよくて影のある訳ありの男風になってるんだが、そのことが世界観の歪みの気持ち悪さに拍車を掛けている。

 最初に言ったように、勧善懲悪ラヴコメディとするなら、姫を助けて悪を成敗する話にしなくてはならない。
 悪は徹底して悪、同情の余地もなく悪にしなければならない。
 そうすることでようやく、主役側が数に任せてたったひとりを迫害することを正当化できるのだから。
 ジャッドが絶対悪にならなかったヅカ版は、虐げ殺される男と、殺す人たち(競売・裁判の一方的さから、殺すのはカーリーひとりではなく村の人々みんなだ)のどちらに感情移入すればいいのか混乱を招く。

 世界大戦終結以前のアメリカの世界観に徹底するか、あるいは現代的勧善懲悪に徹底するべきだった。
 や、思想的にどうこう以前に、たんに「物語をたのしく盛り上げるため」に。
 現代の正義とちがっていようがなんだろうが、「物語として正しい」ならあたしゃソレでいい。自分の好みとは別の問題としてな。
 ソレがハンパに曲がっていることが、とても気になる。

 現代日本では、カツオがクラスを扇動していじめをし、恋敵を自殺に追い込み、サザエが「死んだ子のためにみんでお祈りしたんだから、その子も浮かばれたわ!」と言ってまとめた話を、お茶の間で家族揃って「アハハ」と笑って見ることはできないよ。


 『暁のローマ』で気づいたことがある。
 わたしはどうも、一色瑠加が、好きらしい。

 なんかね、気がつくと彼を見ているのですよ。
 イケメンぞろいのあの暗殺者軍団のなかにあって、弱々しくも地味くさい一色氏を、探すともなく探して、見ているの。

 何故か。
 やはりなんつーかね、顔が好みなんですね。
 てゆーかその、顔の中でもズバリ、目の下のシワが。

 …………。

 ははははは。
 目の下のシワといえばなんといってもケロです。彼は年齢に関係なくシワを刻んでおりました。
 そして。
 目の下のシワといえばなんといってもまっつですね。彼は年齢に関係なくシワを刻んでおりますから。

 あああ。いつの間にかわたし、シワ愛好家に?!

 一色氏も、年齢に関係なく目の下にシワを刻んでおりますよ!! やたら若々しく年齢不詳なジェンヌのなかにおいて、目の下にシワのある人ってかえってレアな存在ですよねっ? ねっ? 目がいっても仕方ないですよねっ? ねっ?

 ……そんなに、特異な好みぢゃないよね、わたし……?
 マニアとかフェチとかぢゃ、ないよね……?

 一色氏も、トシを経ることによってわたし好みのシワが鮮明になってきた模様。いやあ、年輪を感じさせる顔はいいですよ、ええ。若くてもいいもんですよ、ええ。

 さて、月組日生公演『オクラホマ!』
 予備知識もなければその他の出演者も知らないこのわたし。先に全国ツアーを観ているけれど、そこに一色氏がいなかったことなど、記憶にない。一色氏は勝手に目に付く人であって、前もってチェックする人ではないのだ。いない舞台を観ても、いないことにも気づかない。
 だから日生ではじめて、あ、一色瑠加だ。と気づいた。そうか、そーいや全ツにいなかったっけ。こっちに出てたんだ。

 ふつーに村の若者〜〜って感じでその他大勢にまざっている。
 そして、その他大勢なのに、わたしは彼を目で追ってしまう。
 出演者の少ない公演でも、やっぱ役はついてないのね。と、油断していると。

 髭オヤジで出てこられて、おどろいたんですけどっ?!

 役ついてたのか! てゆーか髭オヤジって?! ねねちゃんのパパって?!
 ぶっとび系の人の話聞いてませんオヤジ。猟銃片手に吠える男。
 わたしの観た回は客席がジェンヌだらけだったので、下級生の坐っているブロックめがけて銃を構える一色オヤジに一部客席が大ウケ。
 そ、そうか……こーゆー役回りになるジェンヌなんだ……。
 考えてみりゃ月組は上級生が少ない。一色氏の学年(たしかタニと同期)ならもうおっさん役者認定されても当然なんだ……。
 なにしろ目の下にシワだもんな。……ケロも、若いうちから老け役やってたなぁ。遠い目。

 一色氏にはぜひこのまま、かっこいー大人の男を目指して欲しいっす。ケツの青い若造には表現できないかっこよさを見せてほしいっす。
 色気ダダ漏れ中年男は越リュウ様がいるけれど、それとは別に「いい人」系というか……ええその、一色氏はどうもヘタレ系に見えてしまっていて……色悪はちとチガウかなと。最初に彼を認識した公演が、『SLAPSTICK』のヘタレギャング役だったからさぁ。

 髭オヤジ役をたのしそーに演じる一色氏に胸をアツくしつつ。

 わたしにとってのこの公演は、越リュウ様のためだけにありました。
 や、わたしトドファンで、トドの出る公演は絶対観に行く人なんだけど(あの『花供養』だって2回も遠征して観たのよ! しかも定価でよ!!)。『オクラホマ!』だって、トドが出てなければ絶対わざわざ遠征して観に行ってないけど。
 今回もまたトドはわたしの観劇意義にはなってくれませんでした……(あの『花供養』だって観劇意義にはなってくれなかったわ……)。
 むしろ、「観なかった方が、心安らかだったかもしれん」ってくらい、ひどい作品のひどい役ばっかやってるのがトドなんだけど。
 とにかく、トドを好きでも、今回の救いは、越リュウ様。

 女役の越リュウ、素敵。

 はじめは、越リュウだとわからなかった。
 最初の場面、ひとり歌うさわやかトド様の後ろで女の人がなにやら作業をしている。……それが越リュウだと気づいたときの衝撃。

 や、『花供養』のときもね、最初女ハマコに気づかなかったの。専科のおねーさまだと信じ切っていたの。
 でもソレとはチガウ。だってわたし、ハマコが女役で出ることを知らなかったんだもの。
 越リュウが女だってことは、知っていた。てゆーか、ものごっつたのしみにしていた。
 なのに、最初気づかなかった。

 越リュウ、ふつーに女の人。

 えええっ、越リュウなのに?!
 あの素敵な色中年男が、男の中の男、ヅカでフンドシが似合う5人に入る、あの越リュウ様がっ?!

 いやほんとに、ふつーにきれーな女の人なの。
 そりゃ若くはないけれど、かっこよくてかわいい大人の女なのよ。
 長いスカートも、花飾りの付いた帽子も、ふつーに似合うのよ。
 ガーターベルトつけていたって、ぜんぜん不思議ぢゃないのよっ。

 ああ……越リュウ……。

 女性としての越リュウの魅力にめろめろ。
 声もいいし、芝居もいい。包容力のある大人の女。

 なのに。

 ああ、なのに。

 フィナーレで、男に戻ってます!!

 びびびっくりしたっ。
 フィナーレの野郎ダンスに、越リュウもふつーに混ざってます。男として踊りまくってます。

 でも、眉細いです。髪長いです。

 女メイクのまま、野郎になってるの。

 セ、セクスィ〜〜。くらくらっ。

 なんかね、ものすげー耽美なんですよ。
 どこの耽美キャラなんですかあの人っ。
 白いブラウスとリボンタイつけてもOKですよありゃ。

 リーゼントではなく、自然に流した長めの髪をざんばら揺らして、ダイナミックに踊りまくる越リュウの美しさときたらもー。

 なのになのに。

 最後のパレードでは、女に戻ってるし!!
 すげーサービスだ!!

 越リュウ、ブラボー!!

 この越リュウが見られただけでも、観に行った甲斐がありましたよ『オクラホマ!』。
 ああもー、越リュウ素敵〜〜。


 さて、わたしが観に行った回の『オクラホマ!』客席には、タカラジェンヌが鈴生りだった。

 開演前、自分の席に着いたわたしがなんとなく顔を上げると、目の前にマッチ先輩がいた。
 硬直した。

 マチオ先輩はわたしの前の列らしく、自分の席に着くためにそこにいたわけだ。目があってももちろんなんの反応もない。「目のあったファンが硬直する」ことなんて、スターなマチオ様には日常茶飯事なんだろう。
 マチオ先輩を先頭に、通路にはジェンヌがそろっていた。それがみーんな、わたしのいるあたりを目指してやってくる。

 月全ツ組、勢揃い。

 わたしはもちろん、ゆーひくんを探した。
 学年順ならマチオより後ろにいるはず……だが、そうではなく、ゆーひくんはあさこと一緒、嘉月さんや専科さんのグループにいた。
 わたしの前の列はマチオとか末子はんとかあたりの学年、そしてその1列前が管理職とあさゆひ。うおー、近い。斜め前がゆーひくんかよー!!
 ……ん、あさゆひ? かなみちゃんは?

 と思っているウチに、わたしの列にもジェンヌがずらりと入ってきた。おおっ、あひくんだあひくんだ、膝を縮めて前を通りやすくするんだけど、狭い劇場なのでどーしてもなんとなーく当たってしまう。わーい、あひくんに膝蹴られたー、なんかときめく〜。(変態発言はやめなさい)
 しかし、同じ列にジェンヌが坐るってすごいねっ。
 だって膝の前を接触しながらジェンヌが通るんだよ? わたしの太股分の距離しか、ジェンヌと距離が離れていないわけよ? 坐っているわたしの目の位置に、ジェンヌの胴や腰がくるわけよ?

 あひくんのお尻が、目の前だ〜〜。

 手を伸ばすだけで、触れる位置。
 そんな極近距離に、あひくんのお尻。……さ、触りてええぇ。(変態発言はやめなさい)

 あひくんのお尻は、信じられないほど薄かったっす。女の尻ぢゃないよありゃ……。かっこいー。ハァハァ。

 と、あひくんにとろけていると。
 かなみちゃんも、わたしの前を通っていった……てゆーか。わたしの隣の席ですかーっ!!

 や、正確にはふたつ隣だったんだが、わたしの隣って空席だったのだわ。だからかなみちゃんが坐っている姿がまんま見える。
 かわいい……ものごっつかわいい。肌とか輝いてるよー。目大きいよー。わーん。
 おそれ多くて、ろくに見ることができません。
 緊張する〜〜。

 わたしの後ろの列も、どうやらジェンヌがずらずら入って行っているよーだ。でも振り返れないので、よくわかんない。振り返って目が合っちゃったりしたら、至近距離だとわかっているだけにすげー不審者、失礼ぢゃん? 後ろは見られないよ〜〜。
 前方センターブロックの出来事です。
 なんか周囲の人はジェンヌのお知り合い率が高いよーで、挨拶をしてたりする。

 終演後、HOTEL DOLLYの仲間たち大集合でメシ食ったりしているときに、「どーしてそんな席のチケットが手に入ったんですか」と聞かれたけれど。
 どーしたもこうしたも。
 わたしゃ一般人です、なんのツテもコネもございません。
 ふつーに、発売日にチケットぴあで買っただけです。
 大当たりの席だったよ……わわわ。

 生ジェンヌが至近距離、というのもそりゃオイシイ話だが、それだけにとどまらないのだ。
 舞台の上の出演者たちのテンションがチガウ、サービスがチガウ。
 髭オヤジ@一色氏が大真面目な顔で客席の下級生を狙い撃ちしていたこともそうだし、怪しい商人@ルイスがどさくさまぎれの投げチューをよこしたりと、芝居中もにぎやかだ。
 そしてフィナーレともなると、みんなノリまくり。
 前方センターブロックめがけて、サービスサービス。
 ウインクは来るわ投げキスは来るわ、微笑みも目線も、集中砲火。
 ジェンヌ席、主にあさゆひに向かってのサービスが多いので、その斜め後ろにいるわたしは、おこぼれでウハウハです。
 トド様の指差しごちそうさまです、きりやんの投げチューごちそうさまです、越リュウ様のキメ目線ごちそうさまです。
 みんなみんな、わたしの周囲のジェンヌに向けてやっているとわかっていても、こちらに向かって飛んでくるのでカンチガイしてしあわせになれるのです。
 ああ、堪能。

 そして、あさゆひのふたりがいちいち反応しているのが、かわいいのなんのって。
 フィナーレでは手を振り返したりしているし、芝居中も愉快なシーンだとか、ふたりでなにかしらこそこそ喋っているのがかわいい。ふたりの頭が互いに寄っているのがわかるのよ。
 仲良きことは美しきかな。

 
 作品自体はドン引きしているんだが、シーンごとのたのしさや、なんといっても演じている人たちの活き活きした様子は大好きなのよ。
 わたしは結局のところタカラヅカが好きで、気持ちに濃淡はあれどジェンヌさんみんな愛しいもの。
 
 みんないい感じだよ、月組『オクラホマ!』メンバー。思いもかけない面子が活躍していたり、とてもたのしい。
 一色氏を見ているだけでなく、リュウ様にとろけているだけでなく、「新しい出会い求む!」とモブを見るのも忙しかったっす(笑)。

 舞台の上も、客席も、ジェンヌいっぱい笑いと手拍子いっぱい。
 舞台も客席もテンション高く、大変お得な公演。

 ……だったんだけど、気になることがひとつ。
 
 きりやんのことなんだけど。
 そのう……きりやんのお化粧、変ぢゃなかったですか?

 褐色の肌はべつにいいんだけど、ブルーのアイシャドーは何故?!

 褐色に、そこだけ浮いてるブルーの瞼。

 あ、このお化粧知ってる。デジャヴ。
 ……ああ、そうだ、マチオ先輩だ!
 大変個性的な、マチオ先輩のオリジナルメイク。一度見たらおぼえてしまうステキメイク。

 マッチ先輩のコスプレ?! なんのために?!!(白目)

 たまたま、わたしの観た回だけ、お化粧の手がすべったのでしょうか。
 きりやんはもっと色男だと知っているし、黒い霧矢さんは好みなんですが、今回はなんかビジュアルがちがった気がします。
 いやその、マチオ先輩はマチオ先輩だからいいのであって、彼の個性も含めてあのステキメイクが映えるわけで。
 きりやんがマチオ風メイクなのはちょっと……モゴモゴ。

 帰宅してから『オクラホマ!』初日映像見たけど、べつに青瞼なんかしてなかったし。

 ……マチオ先輩がいらっしゃっていた日に、マチオメイク。こ、これは……。

 ただの偶然でしょーか。
 オペラグラスいらない席だったんで、終始一貫使わなかったんですけど、もっとちゃんとアップで見て確認するべきだった?

 すげーアタリな回、アタリな席だったけど。
 きりやんのメイクだけは、ハズレな日だったのかもしれない……。(いや、かえってレアでアタリ??!)


 すんません。
 最初に謝っておく。
 『オクラホマ!』において。

 怪しい商人アリ・ハキム@ルイスを、ただの通行人だと思いこんでいた。

 アド・アニー@ねねちゃんとからんではいるけど今だけ、ソレだけ、カーテン前でちょっと喋っていなくなる、ただの脇役だと思っていた。

 何度も出てくるから、おどろいた。

 そして、混乱した。
 彼の「設定」がわからなくて。
 商人といっても、見るからにまともでもないし、大したこともない。
 自分で荷車引いてヒーヒー言っているし、持ってくる商品も高級品ではなく子どもだまし。
 びんぼーな村を回って行商するのだから高級品は必要ないっちゃその通りなんだが、どうもあか抜けない。格好つける必要ないから格好悪いというより、ほんとうにどんくさい詐欺まがいの小悪党か。
 じゃあどうして、女にモテるのだろう? アニーだけなら「彼女はおバカキャラだから」ってことで説明がつくが、それ以外にもふつーにモテていそう、不自由していなさそうだ。
 よそ者、都会を知っている、つーだけでモテるのか? それもいまいち説得力がない。

 目に映っているものと、台詞やストーリーで語られる設定のギャップにとまどい、終盤まで整理がつかなかった。

 ラスト近くになってようやく、理解した。

 そうか、アリって色男設定なんだ!!

 だからいかにもうさんくさくても、格好悪くても、どんくさそうでも、口先三寸でいい加減そうでも、女にモテるんだ!

 たとえばタニちゃんとか壮くんとか。
 他のなにが欠けていたってぶっちゃけなにもできなくたって、どんなにダサい格好でサムい会話をしていたって、彼らのような美貌の男なら、納得できる。そりゃモテるだろう、って。

 あるいは。

 そうか、アリって強引でぬけめない、でも人間としてのかわいさを持つ男設定なんだ!

 だからべつに美形でなくても、そのキャラクタの強さに巻き込まれた人間は、彼にハマっちゃうんだ。

 たとえば嘉月さんとかハマコとか。
 いわゆる美形キャラではないけれど、彼らがその存在感で華々しくうさんくさく、強引に調子よく快走すれば、そりゃみんなついて行くだろうさ。

 えーと。
 アリってたぶん、おいしい役だよね?
 バリバリ美形の路線スターだとか、あるいは芸達者な別格スターがやるような役だよね? 今思ったけど、この役マヤさんがやったらどれだけ盛り上がっただろう。

 登場があまりに地味で、かつ、任をこなしていなかったので、わたしはするっとただの脇役、通行人認定していた。

 出てくるだけで笑えて、一挙手一投足に観客が反応し、場の空気を動かす役ではないのだろうか。
 最後まで見てから、構成的に想像したんだけど。

 いやあ、ルイスはがんばってました。

 がんばっていた。
 それはわかる。
 わかるけど。

 ほんとに、ダメダメだった。

 嘉月さんがふたりいればなぁ。
 アリを演じる嘉月さんが見たかったよ……。どれだけ愉快で、そして魅力的なちょい悪親父だったことだろう。
 もしくは越リュウ、女役なんかやってる場合じゃないよ、アリをやってくれよ……。どれだけ女泣かせの色男だったことだろう。
 嘉月さんの鎌足はすばらしかったし、越リュウのエラー叔母さんがすばらしかったことはわかっていて、わがまま言ってるだけなんだけど。
 もしくは専科のおじさま方に、出て欲しかったなぁ。
 路線系でいくなら、さららんとかがやっても、おもしろいはじけっぷりをしただろうなあ。みっちゃんでも愉快だったろーなあ。

 ルイスは真ん中スキルがまったくない人だから。
 空気を動かすことが出来ない。演技に華がない。
 それがイタイ。

 と。
 ひどいことをさんざん書いてますが。

 ルイスがこの役であったことは、うれしい。

 や、わたしが見た段階ではダメダメだったけどな。
 スキルがないなら、身につければいいことだから。

 研ルイスはふつーに男役としての基礎のある人だ。歌唱力という武器もある。
 ただ今まで、未来の嘉月絵里や未沙のえるを目指せるよーな、ピンで真ん中に立つ別格の役をまったく与えてもらっていなかった。
 基本が出来ていることと、真ん中に立つ力は別物だ。

 だから、現時点でアリ役ができなくても仕方ない。
 要は、これからだ。
 舞台はナマモノで、そして、経験値が大きく物をいう世界。
 この経験を生かして、大きく成長してくれりゃーそれでいい。
 どーせタカラヅカはファンとリピーターで保っているんだ、ルイスがどれだけダメダメでも、きっとあたたかく見守ってくれるさ。
 全ツのあひくんがダメダメっぷりをさらしながらも、大きな拍手をもらっているように。
 弱点をさらけ出していいんだ。そこから努力し、進歩している姿を愛でるのも、ヅカの醍醐味だから。

 
 にしても、まあ、巧い人とそーでない人たちの差の激しい公演でした(笑)。仕方ないことなんだけどな、組を半分に割っての公演だから。こーやって場数を踏んで、みんな伸びていくんだから。

 怪しい商人アリと、ヒゲ親父@一色瑠加がもっと巧ければ、コメディ部分ももう少し滑りよく機能していたと思うんだが……。一色氏はルイスの比ではなく、その、アレで……ゲフンゲフン。が、がんばれ。

 あと、アド・アニーとガーティ@みっぽーのキャラは疑問。
 かぶってるよ、思い切り。
 どっちも突拍子ない系の「かわいい」女の子。
 とくに出番のろくにないガーティ。変な高笑いをするくらいしかないのかよ? やってるのがみっぽーだから、ふつーにかわいいので、「かわいくてのーみそライト感覚」のアニーちゃんと、かぶるかぶる。
 別ジャンルの舞台なら、デブでブスなおばさんとかがやるんぢゃないか、この役。出てきた瞬間「うわ、この女とだけはありえねえ」と思わせるよーな。
 ジャッドと通じるものがあるな。タカラヅカでは、外見を醜くできないから、役の正しい表現が不可能という共通点。

 作品の根本にある、現代との感性のズレは置いておいても、つまんない話と、ひどい演出なんだが、まあソレはソレ。
 アタマ空っぽに、キャストにだけ心を動かして眺めましょう。

 トド&きりやんは実力安定していてふたりで別世界だし、あいちゃんはキュートにヒロイン、こちらも真ん中として問題ナシ。
 越リュウいい女で色男だし(笑)、みっぽーちゃんうまいし。
 『Ernest in Love』以来気になる姿樹えり緒くん、持ち味のくどさがいいよなあ。
 もりえは善良キャラをやると小さくまとまってしまう危惧を感じる。無理目な役を与えて鍛えた方がよかったんじゃないか?
 女の子たちがかわいい。月娘はビジュアルよくてたのしーなー。
 男の子たち、声がんばれー。まだ男役声ができていない子が多いなー。仕方ないことだけども。

 モブで気になる子がいても、誰が誰だかわからん。プログラム買ってないからなぁ。
 次に出会うとき、一回りも二回りも大きくなって、改めてわたしの目を奪ってくれないかしら。や、この作品はさすがのわたしももう二度と観ないけれど、大劇場は本公演も新公も観るからさ。
 好きな子が増えるとうれしい。知っている子が増えるのもたのしい。

 
 ルイスは次の公演で、どれくらいステキになってるかなぁ。
 きっと成長している。
 きっと色男度が上がっている。

 たのしみだ。


 植田景子が、腐女子だったらいいのになあ。と、思う。

 どうしてそう思うかというと、景子タン、腐女子ぢゃないよなと、彼女の作品を観るたびに思うからだ。

 景子女史の作品は「少女マンガ」だ。ヲタクコミックでもなければ、BLでもない。
 古き良き少女マンガ。救いのないような痛さも、目を背けたくなるような醜さも、生々しい性活動もない、美しい世界。

 わたし世代の少女マンガを例に出すなら、『キャンディ・キャンディ』とかな。
 孤児のキャンディは差別されて苦労するけど、健気に生きてたくさんの美形にモテて、お金持ちのお嬢様になるのに、精神的にも金銭的にも自立して仕事に生き、最終的には初恋の王子様と結ばれる。
 差別だけでなく戦争とか人の死とか、暗いもの、重いものも含んでいるけれど、決して「少女マンガ」である範疇をはずれない。
 ニールやイライザという悪役も登場するけれど、彼らは「いじわる」をするだけで、それ以上はない。イライザが金で雇った男たちにキャンディがレイプされて妊娠して……とか、そーゆー展開には決してならない。
 勧善懲悪で「お母さんが、小学生の娘に読ませていい、と思う」よーな世界観と物語。

 描きたいのは現実の生々しさではなく、心地よいロマンだから。
 現代の少女マンガはもっとエグいし、セックス込みの恋愛を10代の少女があったりまえにしているけれど、「古き良き少女マンガ」はそうぢゃない。
 性愛なんかなくてイイのだ(笑)。
 子ども(少女)が理解できる世界観に、行き過ぎた醜さやいやらしさ、不健康さは不要。
 ひたすらきれいに。ロマンティックに。

 たとえば『落陽のパレルモ』では主役ふたりがベッドで暗転していたけれど、必要性がないあたり、昔の少女マンガだと思うわ。行為に至る性を含んだ恋愛は描かれていないもの(笑)。
 描きたかったのは主役たちの既成事実ではなく、ヴィットリオFくんの「おはよう、お寝坊さん」だろうしな。(あれぞ昔の少女マンガの極地!!)

 古き良き少女マンガに、歪んだモノは含まれない。
 だから、ホモ萌えもない。
 あからさまにホモである必要はないよ。腐女子が邪推してきゃーきゃー言えるような「萌え」なキャラクタだとかシーンだとか展開だとか。それがナイ。

 おしいなと思う。
 心から(笑)。

 『堕天使の涙』では、堕天使@コムが、人間@水を誘惑し、男ふたりで倒錯的に踊るシーンがあるんだが。

 ははははは。

 こんなシーンを作ってなお、腐女子になれないあたり、才能を感じます。
 ほんとに、腐女子スキル持ってないんだろーなー。こだまっちと足して2で割ってほしいくらいだ。さいとーくんとでもいいぞ(笑)。

 
 『堕天使の涙』は、堕天使ルシファーが、「何故神は人間を創ったか」「何故神が人間を愛するか」の答えを得る。……とゆーストーリー。

 まず「人間は醜い」ということが表現されるわけなんだが。

 この「醜さ」がね、ぬるいの。
 出世のために恋人捨てて金持ち男の元へ走るダンサー娘だとか、保身のため盗作をして殺人を犯す作曲家だとか。
 台詞だけで出てくるフランス革命前後の混乱期だとか、帝政ロシアの「血の日曜日」だとかの方が、ぐちゃぐちゃにエグいんですけど。
 なのに、そのほんとーにひどい出来事を「知っている」不老不死のルシファー様が、今さら「愛を金に換えるダンサー娘、フケツ!」だとか、「盗作最低! 保身殺人最低!」だとか言ってヒステリックに高笑いされても、こまるのよ。

 そんな「小学生が理解できるレベルの“わかりやすい、悪”」で、「地獄の舞踏会」と言われてもなー。

 で、その「悪」に翻弄される人間の「醜さ」に対するものとして、「愛」の存在を知ることになるのだが。

 この「愛」がね、ぬるいの。
 親から愛されず、どん底人生を生きてきた不幸の百貨店みたいな女リリス@まーちゃんが、それでも誰も恨まずすべてを受け入れて死んでいくのを見て……って、ええっ、それっぽっちのことにも何千年生きてきて、触れられずに来たの?!

 そんな「小学生が理解できるレベルの“わかりやすい、愛”」で、「光のパ・ドゥ・ドゥ」と言われてもなー。

 広げた風呂敷は大きいんだけど、やっていることは「小学生が理解できるレベル」の単純さ。

 なまじテーマが深みを期待させるものだから、「えっ、これだけなの?」と、差し出されるものの浅さに、愕然とする。

 やたら「地獄」だの「醜い」だの「神」だの連呼しておいて、実際のスケールの小ささときたら、もお……。

 そして景子タン作品らしく細部にまでこだわった、すばらしい美しさで舞台は幕を上げているわけですよ。
 なまじビジュアルが壮大で美しいだけに、そこで展開される陳腐な物語とのギャップが激しくなるわけですよ。
 何千年も生きてきたとは思えないルシファー様の世間知らずぶりは、オープニングの禍々しい美しさを見事に裏切るわけです。
 
 
 ふつーに考えればな。

 
 だが、ここで話は最初に戻る。

 植田景子作品は、「少女マンガ」である。

 だから、これでいいのだ。

 描きたいのは現実の生々しさではなく、心地よいロマンだから。
 子ども(少女)が理解できる世界観に、行き過ぎた醜さやいやらしさ、不健康さは不要。
 ひたすらきれいに。ロマンティックに。

 あそこまで差別されいじめられていたキャンディが、それでもレイプされたり嬲り殺されたりしないのは、少女マンガだから。
 そんなものは、テーマに必要ないから。

 ルシファー様が「見ろ、人間はこんなに醜い!」と嬉々として例に挙げるのが、「愛を金に換えるダンサー娘、フケツ!」だとか、「盗作最低! 保身殺人最低!」だとかなのは、正しいのだ。
 たかだか「心美しい人間の娘」ひとりに出会ったから、ころりと改心したとしても、正しいのだ。

 『堕天使の涙』は少女マンガであり、「タカラヅカ」は少女マンガを三次元で表現しうる数少ないジャンルなのだから。

 カテゴリの範疇で「悪」と「愛」を表現している以上、これでいいのだ。

 そのうえこの作品には、ただの「記号」をカタルシスに変えるふたりの主役が、ルシファーとリリスを演じている。

 ルシファー@コムとリリス@まーちゃんが、この「少女マンガ」を立体的に表現し、クライマックスのリリスの死から「光のパ・ドゥ・ドゥ」までを説得力を持ってドラマティックに見せてくれる。

 とくに、「光のパ・ドゥ・ドゥ」は圧巻。

 作品のすべての粗を覆い隠す、大いなる光。

 
 『堕天使の涙』は、気持ちのいい「少女マンガ」だ。
 大人になってしまった、だけどまだたしかに胸の中にいる「少女」のわたしが、感動して泣いている。

 ま、そして、腐女子な大人のわたしは、苦笑している。あまりに「少女マンガ」で、腐女子的な萌えがなくて(笑)。


 『タランテラ!』の配役が発表になったとき。
 キムの役が「パイド・パイパー」だと聞き、わたしは無邪気に聞き返したさ。

「パイド・パイパーって、なに?」

 kineさんだっけかが、簡潔に答えてくれた。

「『ハーメルンの笛吹男』」

 ……震撼した。
 色とりどりの衣装を着、笛を吹く男。彼のあとにはネズミの群。一列になって、死へ向かう。
 そして。
 罪を犯したハーメルンの街。2度目に現れた笛吹男のあとに続くのは、子どもたち。
 子どもたちは還らない。

 ソレが、キムですか。
 しかも、オープニングですか。

 
 『タランテラ!』のオープニングは、やたら明るいお祭りからはじまる。
 正気とは思えないカラフルな衣装を着た人々が、「ビビデバビデブー」を彷彿とさせるよーな、バカみたいに陽気な曲で歌い踊る。
 中心にいるのは、キム。

 笑顔で、無邪気な少年の声で歌う。

「♪老いも若きも踊り狂う 蜘蛛の毒にのたうちまわる♪」

 陽気に。にぎやかに。たのしく。

 毒を歌う。

 導くモノは、パイド・パイパー、笛吹男。
 たどりつく場所は何処?

 破滅へ向かう一列の道。
 誰も気づかない。
 陽気に。にぎやかに。たのしく。

 無言で見据えるのは、ジプシーたち。流れる者たち。

 苦悶の声を前景に、タランテラ@コムが現れる。
 彼は闇を歌い、罠を歌う。

 繰り返されるモチーフ。
 蜘蛛の糸。編まれた巣。毒と傷と罪。
 囚われるモノ。踊らされるモノ。

 踊る踊る踊る。踊り続ける。
 病のように。

 
 このショーは、タカラヅカの「いつものショー」ではない。
 お約束を全部スルーしている。

 ヅカのショーは構成が決まっている。

 オープニング−前半−中詰め−メイン−ロケット−デュエットダンス−フィナーレ・パレード

 多少変化があろうと個性的であろうと、この骨組みは変わらない。
 ところが『タランテラ!』ときたら。
 シーンごとの区切りはないに等しいわ、構成無視だわ、ロケットないわ、大階段前でのまともなデュエットダンスないわ、パレード変則的だわで、めちゃくちゃ。

 大きく分けると、「タランテラの物語」である前半、「サヨナラ公演」である後半と、すぱーんと真っ二つになっている。
 60分あるのかな、このショーって?
 「タランテラの物語」は30分で終わり、エピローグを兼ねた空気を変える中詰めが10分ほどあり、あとは全部まるっと純粋なショー作品である「サヨナラ公演」がはじまる。コムひとりが黒燕尾で踊り出すアレね。そっからノンストップさ。や、もちろん「サヨナラ公演」部分だって『タランテラ!』の一部ではあるんだけどね。
 「タランテラの物語」がぶっ飛ばしすぎだから、「サヨナラ公演」でバランスを取っているんだと思う。ただ、両方合わせて「タカラヅカのショーの構成テンプレ」を無視しきってるから混乱するだけで(笑)。

 コム姫は通し役、タランテラ。
 他者を傷つけ喰らい、そうやって存在しつづける者。
 愛する者すら喰らう浅ましき業を持つ者。

 しかしタランテラ自身の温度は低い。
 どこかこの世のものではないような、達観したよーな異邦人感をまとわりつかせながら、そこにある。
 そこ……舞台の中心。

 タランテラはスペインではマタドールに、南米ラ・プラタ河を経てブエノスアイレスから港町アムステルダムではどこのマフィアよ?みたいなスーツの男になり。
 大西洋でついに、息絶える。……や、そのあとも熱帯植物になって出てくるけど(笑)。

 囚われる者は誰? 踊らされる者は誰?

 その問いかけではじまった物語は、タランテラの最期でいちおー答えを得る。

 繰り返されるモチーフ。
 蜘蛛の糸。編まれた巣。毒と傷と罪。
 囚われるモノ。踊らされるモノ。

 いつかの蝶であり、今は海の女として現れたまーちゃんと、タランテラの絶望的なデュエットダンス。

 捕食者と被食者の逆転。

 天使のように聖女のように微笑むまーちゃんが、死ぬほどこわい。
 聖なる邪。
 闇を内包する光。
 

 そしてさらに。

 がらりと雰囲気を変える中詰め。極彩色のアマゾンでこれまた明るくのーてんきに生の饗宴を踊り狂う。

 死のあとに、絶望のあとに、「生きてるってすばらしい!」だもんなあ。
 タランテラが登場し、彼の物語をなぞりながら、さらに進んで「物語の集大成」ってな大地の息吹を感じさせる大合唱へ。

 でもって、エピローグ。
 もー、どーしよーかってゆーよーな、のほほん壮一帆のひとり舞台。てか、ひとり銀橋。

 ここでもまた、逆転の構図。
 タランテラが最初に現れた場面での「被食者」が彼だったのな。なのにラストで彼は「追いかける者」としてあっけらかーんと恋を歌う。

「♪捕まえたいと願う僕こそ 捕らえられてるキミに♪」

 えーっと。
 冷たい熱と絶望に彩られた「タランテラの物語」を、壮一帆がクソ明るく罪なく語尾にハートマークつけながら、要約しやがったぞっ?!!

 このオチに、両手を大地について突っ伏したいほど、感動しました(笑)。

 ど、どーしてくれよう……(笑)。

 で、ステキ壮一帆の力技で物語は終わり、後半「サヨナラ公演」突入。
 黒燕尾で端正に踊るコム、まーちゃん、水と絡み、水とふたりで腕まくり+開襟で野郎ダンス、いい女たち(五峰姐さんをあったりまえに含む。アータ、ゲストぢゃなくレギュラー、雪組子ですねっ?!・笑)をバックに踊りまくり、まーちゃんが大階段を男たち率いて降りて来、総踊りへ。
 「見てみたい」と思うだろうダンスシーンをこれでもかと投入。退団者サービスもてんこ盛り。
 変則パレードでは、「コムを継ぐ者」であるキムの歌を背景にコムが大階段を上って退場、「雪組を継ぐ者」水とすれ違い、歌詞にコムの名前の入った「コムさんへの愛の歌(笑)」を水が歌う。

 その水を筆頭にパレード開始。
 潮騒のようにいくつもの声が重なり合うパレードの歌声は、追う者と追われる者、蜘蛛と獲物のように追いかけ合う。

 たしかに「タカラヅカのお約束」からすれば変則的だけど、充分「サヨナラ公演」のショーとしては正しい姿を見せつけてくれるわけだ。

 そーやって「サヨナラ公演」で終わるのかと思いきや。

 最後の最後に、戻るんだ。
 この作品の最初、オープニングの、パイド・パイパーの歌に。
 「ビビデバビデブー」を彷彿とさせるよーな、バカみたいに陽気な曲。その曲に乗ってタランテラたちは銀橋を渡り、本舞台に戻って歌い踊る。

 踊り狂うままに、幕。

 魔法を見せられた。
 正気に返ったのか? それとも幻惑されたのか?

 オープニングの極彩色のカーニバル、笛吹男のあとをついていったのは、ネズミ? 子どもたち?
 それとも、わたし?

 夢は続く。
 極彩色の悪夢。紙一重の悦楽。

 毒が回る。
 タランテラの毒。

 もう戻れない。

 ハーメルンの笛吹男が、異世界へと導いている。


 『堕天使の涙』は、いびつな作品だ。構成的にいろいろまちがっている。
 そのひとつに、ジャン=ポール・ドレ@水とゆーキャラがある。

 退廃的で斬新なショー「地獄のルシファー」からはじまるこの物語。20世紀初頭のパリ社交界を席巻した謎のダンサーが、はじめて出会ったはずのジャンPに「私の名はルシファー、地獄から君を訪ねてやって来た」とテレパシーでコンタクトする。
 ルシファー@コムに導かれるように、ジャンPは彼の館を訊ね、ブルーローズ咲き乱れる庭で「地獄の舞踏会」という作品の振付を依頼される。

 えー、ここまでは、ルシファーの目的はジャンPであり、ジャンPを誘惑(笑)する理由は「地獄の舞踏会」という作品、つーことになる。

 ここまでならば、主役はルシファーで、視点がジャンPだ。
 謎の男ルシファーを描くために、観客目線のふつーの人間ジャンPがいる。ジャンPの困惑と酩酊は、観客の感情でもある。

 長々と時間を掛けて「主役ルシファー、視点ジャンP」を描いて起承転結の「起」の部分を上演したのだから、話はこのまま進まなきゃおかしい。

 ところがどっこい。
 ここから先はどーゆーことなのか、ジャンPでなくては創れないはずだった「地獄の舞踏会」もジャンP自身も、ルシファー的にもストーリー的にも、どーでもよくなってくる。
 ジャンPが「視点」からはずれてしまうんだ。
 観客はいきなり投げ出されてしまう。

 ジャンPは「母親に愛されなかった子ども」であり、「双子の妹を救えなかった兄」であるという、「欠損」を抱えている。彼が精神的に不安定かつ未熟なのはそのため。
 彼サイドの話は描かれているが、ブルーローズの場面以降はジャンPは「視点」ではない。サブストーリーのひとつ(イヴェット@さゆや、エドモン@壮と同列)、もしくはヒロイン・リリス@まーの生い立ち説明係になってしまっている。

 ヒロイン・リリスがジャンPの妹なのだから、ジャンP「視点」のまま進めても、なんの問題もなかったはずなのだが、何故か構成が散漫になり、横滑りしてしまっている。

 「地獄の舞踏会」を表現するために、数組の人間たちのドロドロ模様をそれぞれ同じ濃度で描く必要がある、というならば、冒頭で長々と「主役ルシファー、視点ジャンP」をやらなければないい。
 ジャンPもイヴェット、エドモンと同じ扱いにすればいいだけのことだ。

 だが、ジャンPを「視点」扱いしてしまった以上は、それを途中放棄してはいけない。

 『ドラえもん』において、「主役ドラえもん、視点のび太」は鉄板だ。なにがあってもこれは揺るがない。
 途中でどんなに魅力的なキャラクタやエピソードが出てきても、キャラの役割は変わらない。
 『堕天使の涙』の横滑りぶりを、『ドラえもん』を例にして書いてみると。
「ボクの名前はドラえもん、未来からキミを訪ねてやって来たんだ」
 目的は「地獄の舞踏会」の振付を依頼すること……ではなく、ダメ人間のび太の手助けをして彼の人生を正し、マシな未来につなげること。
 だからドラえもんとのび太の話であり、その一貫としてのび太の仲間たちとの関わりもあったのだが。
 途中で出てきたスネ夫の家庭問題の話になり、そのうちジャイ子の目指せ漫画家物語になり、ジャイアンの恋物語になり、しずかちゃんの温泉旅行の話になった。それぞれがとてもおもしろい話で、毎週たのしみに見ていられるとしても。
 あれ? そーいえばのび太はどうしてる? ここ何話かはのび太、出てなかったような?
 のび太が出ていなくても、スネ夫だのジャイアンだのしずかだのがなにかしらやっていて、ドラえもんが要所要所でポケットからひみつ道具を出せば『ドラえもん』という作品として成り立つ。
 だがそれでは、当初のプロット、「未来からやって来たドラえもんが、ダメ人間のび太を助け、マシな人間にする」という話からはずれてしまう。
 その回がスネ夫中心の話であったとしても、のび太は「視点」として物語に関与していなければならない。のび太が「ドラえもん、なんとかしてよ」と言うことではじめて、ドラえもんが「よーし!」とポケットに手を入れなければならないんだ。

 ジャンPが正しく視点として、人間とルシファーをつなぐ役目をしていれば、「世間知らずなルシファー様」が「人間ってキタナイっ!!」と逆ギレする……もとい、感情をぶつける相手として相応しい存在でいられたんだ。

 ルシファーは何度かジャンP相手に、「本音の話」をする。
 他の人間たちに対しては余裕ぶっこいて、欲望に身を投げ出す様を眺めたりチャチャ入れをしたりしているのに、ジャンPには何故か最初から正体を明かし、真情を吐露したりもする。
 それが、浮いている。

 「本音の話」をするときは、すでにジャンPは「視点」ではなく、ただのサブキャラになっている。
 そんな相手に取り乱して本音を叫んだりされると、ルシファー様の格が、さらに下がる。
 「世間知らずの甘ちゃん」ぶりが際立つというか。
 あー、なにも考えてないんだな、この人。つー感じ。

 テーマに関わる心情を吐露する相手ならば、「その他大勢」ではダメだ。
 彼でなければならない、という、プラスアルファが必須。

 ルシファーがジャンPと出会い、彼を口説くところからはじまる物語。
 ルシファーが彼を利用するつもりだったとしても、「神への疑問」「人間への疑問」という「本音」を語る相手になるのだから、ジャンPはルシファーにとってなにかしら「特別」な人間にならなくてはならない。
 そうすることでようやく、最後のノエルのシーンにつなげることができるんだ。
「忘れないよ、お前のダンス」
 という決め台詞を言わせるためには、男ふたりの間に「友情」が存在しなければならない。

 しかし。

 途中から話が横滑りし、ジャンPは「視点」でも「親友」でもなくなってしまった。

 浮気なルシファー様は、セバスチャン@キムに心惹かれる。

 輝かしい過去を理不尽に奪われたのに、神を恨むことも人間を憎むこともなく、おだやかに寛容に生きている青年、セバスチャン。
 「人間ってキタナイっ!!」と思春期の女の子みたいにピリピリしている箱入りルシファー様は、そんなセバスチャンに胸キュン。

 いやあ、リリスが登場してくれてよかったよ。

 セバスチャンに対してルシファー様の心が動いた瞬間に、リリス登場だからなあ(笑)。

 ヒロイン・リリスが特別な存在であることは言うまでもないので、今は置く。

 ルシファー様は最初「ジャンPに会いに来た」はずなのに。会いに来た理由は「地獄の舞踏会」だったのに、途中でルシファー様自身が言うのよ、
「『地獄の舞踏会』など、どうでもいい」
 と。
 えーっとソレ、ジャンPも「どうでもいい」ってことになるよね?
 ジャンPを選んだ理由も「暗い目に惹きつけられた」そうで、理由になってないよ!な、どーでもいい理由だし。

 のび太をマシな人間にするためにやってきたのに、20世紀の東京で他の人間たちと過ごしているウチに「のび太くんなんかどーでもいい」と言って、他の人に夢中になっているドラえもんだよそりゃ。
 のび太の立場は?!
 ……なのにオープニングでは第1回のときと変わらず、ドラえもんとのび太が主題歌に乗って仲良く冒険しているの。……すげー違和感。

 ルシファー様は、「暗い目」に惹かれ「人間なんてキタナイんんだからっ、キタナイことを証明して嘲笑ってやるんだからっ!」というマイナスの意識で地上に降り立った。
 が、実際に「暗い目」や「キタナイ人間」を見ているとセンシティヴなハートが痛み、「寛大さ」「やさしさ」などに心惹かれていく。
 そしてトドメが「リリス」という「光」。

 ジャンPに会うためにやってきたことなんか、いや、そーゆー言い訳をしていたことなんかすっかり忘れて、ノエルの光の中。

 かわいそうなジャンP。
 ほんとーは、準主役であり、観客の視点であったはずなのに。

 ラストで唐突に「忘れないよ、お前のダンス」とかどのクチがソレを言うんだみたいな唐突な台詞を言わされる。
 心の交流なんか、まったくなかったくせに。無視されていたくせに。
 ただ正体を知っていた、というだけ、リリスの生い立ちを解説しただけなのに。

 ひどいなあ、この扱い。
 なんだってちゃんとプロット管理しないんだろう。
 書いている途中で他のものに萌えたとしても、キャラ設定を忘却しちゃダメだよ。自分の萌えに従って書くと、物語が横滑りするよ。
 例として顕著なのが、こだまっちの『天の鼓』。虹人主役で書きはじめて、途中で帝に萌えちゃって、主役が誰だかわからなくなってめちゃくちゃになって終わった話。
 アレと同じ香りがする。やれやれ。


 『堕天使の涙』のプロットのゆがみについて。

 堕天使ルシファー@コム姫が、リリス@まーちゃんに出会って改心、というのはいいんだ。
 ぬるかろうとショボかろうと、「少女マンガ」だからソレでいい。

 問題は、「地獄の舞踏会」とジャンPが、途中から「どうでもいい」存在になってしまったことだ。

 起承転結の起を「地獄の舞踏会」とジャンPのために使ってしまったのだから、そのラインで進めなければプロットは崩壊する。
 何故ジャンPだったのか、思わせぶりな導入部分の、責任を取ってもらわないとこまる。

 ジャンPは、「植田景子作品」らしい主人公だ。
 ハンサムで才能のあるマザコン男。『ドン・ファン』も『パレルモ』も、主人公の絶対要素のひとつが「マザコン」だからな(笑)。
 通常の「あて書きしない」景子タン作品なら、ジャンPは主人公らしい主人公として存在できたのだろう。

 しかし『堕天使の涙』は、コムまーあて書き作品だ。
 ルシファー@コム、リリス@まーのキャラクタに傾倒してしまった以上、通常の「汎用キャラ」でしかないジャンPは、思い切りあおりを食っている。
 コムまーをより魅力的に描く、クライマックスの「光のパ・ドゥ・ドゥ」を効果的に描く、ことに集中するあまり、他のことがおろそかになった印象。

 主役であるルシファーとヒロインであるリリスを描く、のは、ぜんぜんいいんだけどね。
 エンタメは「キャラもの」であるべきだと思うから、このふたりのキャラクタと見せ場がきちんとであがっていれば、ソレだけで成功だと思うけれど。
 それとは別に、気になるゆがみがあるんだ。

 セバスチャン@キムのこと。

 思うんだが、セバスチャンってなんなんだろう。
 前日欄にも書いたが、「輝かしい過去を理不尽に奪われたのに、神を恨むことも人間を憎むこともなく、おだやかに寛容に生きている青年」とゆーのは、なんなんだ?
 ただの「地獄の舞踏会」要員ならば、エドモンとマルセル程度の露出でいいはずだ。稽古場のみの登場で充分、教会でのボランティアは不要だ。
 彼の設定は、リリスとかぶっている。
 このままリリスが登場しなかった場合、ルシファー様を改心させるのは、彼でも別に問題ないよね?

 セバスチャンの存在が半端過ぎ……ってゆーか、ルシファー様の心を動かす順番が、リリス→セバスチャン→ジャンPってのはチガウだろう。セバスチャンとジャンP逆だよ。

 セバスチャンを余分に描きすぎているために、バランス悪くなってるんだよなあ。
 や、個人的にセバスチャン好きなんだけど。好きなのとゆがみが気になるのは別だから。『天の鼓』で帝は大好きな萌えキャラだけど、彼への作者の偏愛が原因で物語が壊れたことを、苦く思っているのと同じで。

 本来「視点」であるはずのジャンPとの接点が薄くなったこと、彼と精神的に交流がないことで、ルシファー様の「傍観者」濃度が上がっているしね。
 わたしにはルシファーが主役にしか見えないが、彼が直接物語に関わらないことで主役に見えなくなるおそれがある。

 リリスの話と絡めて、ルシファー様はジャンPにも心を動かしてもらわないと。
 そーしないと双方外様感が煽られるし、結果としてジャンPがラストにルシファー様との別れを惜しむ発言をする意味がない。

 だってジャンP、ルシファーとリリスが「光のパ・ドゥ・ドゥ」踊ったの、知らないよね?
 ジャンPにとってルシファー様は、ただの「悪魔」か「疫病神」でしかないでしょうに。
 ジャンPが正しく「視点」であれば、わたしたち観客と同じでルシファー様を「視ている」から、彼へ愛情を持つに至っても不思議はないが、彼「視点」から降ろされてたし。

 「地獄の舞踏会」のために、地上にやってきた、と言ったルシファー様。
 「どうでもいい」が本音であるのはべつにかまわないが、物語上での決着はつけてもらわないと。

 マルセル殺人事件があったから、上演は中止になったんですかね。それによってカンパニーは解散、ジャンPはパトロンにも見放されて、しばらくは表舞台に出られそうもない、とか。
 「地獄の舞踏会」に関わった人たちはみんな不幸になり、それこそが真の「地獄の舞踏会」。……歌って踊って誤魔化していたけれど、まあ、そーゆー展開だよなあ?
 それでもジャンPはリリスと再会し、母との確執も和解(赦し)の兆しを見せ、今まで持っていたモノは全部失ったにしろ、ゼロから気持ち一新やり直せそうだ、つーんでノエルのあの清々しい表情、とかゆーことでしょうかね?

 ソレならソレで、きちんと描いてくれないと。

 セバスチャンの話はあくまでもエドモンとマルセル程度にとどめて、その空いた時間で「地獄の舞踏会」の顛末とジャンPのことを描いてくださいよ。

 つまりだな。

 ジャンPのことも、愛してやってくださいよ、ルシファー様。

 主役になんの興味も持たれていない役ってのは、いなくてもいい役なんですよ。

 「君に会うためにやってきた」ではじまって、そりゃないでしょ。

 ほんと、景子タンが腐女子でないことが悔やまれる(笑)。腐女子なら、ジャンPをここまでないがしろにはしないだろうに。

 わたしは水ファンだが、水くんの扱いが悪いからどうこうというのではない。
 たんに、物語の歪みが気になるのよー。
 物語的に正しければ、好きな役者の出番が少なかろうと、軽い扱いだろうと、んなこたぁどーでもいい。

 物語が歪んでいるために、ラストシーンが蛇足にしかならなくて、つまらない。

 圧倒的な力を持って発光する「光のパ・ドゥ・ドゥ」のシーンのあと、とってつけたよーなエピローグがある。
 このシーンの萎えっぷりを、どうすりゃいいんだろう。

 説明過多で、なんでもかんでもラストに台詞で解説してまとめるのは景子タンの悪い癖だが、このラストシーンもひでーもんだ。
 退団するコム姫の「退団する」ことで泣きを取ろうという魂胆見え見えの演出。
「忘れないよ、お前のダンス」
 というキメ台詞をクリスマスイヴにジャンP……つまりは水に言わせたいだけに作ったシーンなんだろうが、失敗してるから。

 『愛するには短すぎる』ラストのフレッドの無意味な独り言テイストの失敗だから。

 「地獄の舞踏会」もジャンPもどーでもよかったのなら、ラストでジャンPを出してべらべら喋らせなければいいんだ。
 「光のパ・ドゥ・ドゥ」のあとノエルのシーンになり、登場人物全員が行きかう中に、ジャンPも混ぜればいい。や、彼の扱いはほんと、その程度でいいよ、脇役のひとりぐらいにしかルシファー的にも物語的にも重要ぢゃないもん。

 
 完全版で観たいなあ、この作品。

 ちゃんとジャンPが「視点」としての役割を果たし、「地獄の舞踏会」の顛末が説明された話として。

 
 それにしても、芝居とショー、両方で「いなくてもかまわない」扱いの役を割り振られている2番手って……(笑)。
 それでも水くん単体ではかっこいいし、彼自身の輝きで食い下がっているから、役の比重がすげー軽いことなんか忘れていられるんだけどねっ。

 ただ、水くんってクリエイターの「創作心」をくすぐらないキャラクタなのかしら、と、ちと心配になる。
 景子タンとオギー、センシティヴ系のクリエイターふたりにそろって無視されるとなぁ。
 魂が健康で高温なのが、今回は禍したか?(笑)


 いろいろ文句も言っているが。

 わたしは、『堕天使の涙』が大好きだ。

 毎回ボロボロに泣いている。

 主役のルシファー@コム姫、ヒロイン・リリス@まーちゃんに集中して視ているもので、ぶっちゃけ作品の歪みなんか、どーでもいい。
 や、気になることは気になるんだけど。
 それすら、飛んじゃうの(笑)。

 ルシファーが可哀想で可哀想で。
 彼の孤独が、彼の飢えが、愛を求めながら愛を否定することしかできない姿が、せつなくてかなしくて、胸をかきむしられる。

 誰か、助けて。

 心から、そう思う。ルシファーを見ていて。

 この美しい人を、誰か救って。

 思うんだ。
 せつなくて痛くて苦しくて。

 なにもかも失ったのに、なにも恨まないセバスチャンに対し、声を荒らげるルシファー。
 セバスチャンの悲しい過去を聞いて、まるで彼自身が傷ついたかのように、痛い儚い荒んだ瞳をする。

 絶望のどん底で微笑むリリスに対し、うろたえるルシファー。
 リリスの境遇に自分自身を重ねながら、魂の有り様のちがいに愕然とする、その困惑と痛み、壮絶な孤独感。

 マルセルを殺す結果となってしまった盗作事件の結末に、人間たちの醜さをあげつらい、嘲笑うルシファー。
 嘲笑しているはずなのに、その声は泣き声のようで、突き放しているはずの魂は苦悩にあえいでいる。

 誰か、助けて。
 この美しい人を、誰か救って。

 ルシファーの慟哭にシンクロするからこそ。

 リリスに救われる。

 リリスが光と共に現れ、「光のパ・ドゥ・ドゥ」を踊る。
 ルシファーの心が解き放たれるその瞬間に、わたしの心もまた解き放たれる。

 その、カタルシス。

 生まれ直す刹那。

 そう、慟哭を抜け汚泥を抜け、新しい魂に生まれ変わる快感。

 ルシファーの、笑顔と共に。

 
 ……もお、溺れそうなほど、泣いてますよ。
 堕天使の涙と、その次にある解放に。

 
 大好きだ。

 
 景子タン、よくぞコム姫の最後に、まーちゃんの最後にこの作品を書いてくれた。
 まーちゃんの出番が少ないことや、タカラヅカらしいきれいな衣装を着ていないことはソレはソレで残念だとは思うけれど、それは「タカラヅカとして」思うだけで、「役者」として、この役を正しく担えることは、誇りにしていいだろうと思えるし。
 コム姫だから、まーちゃんだから、できる役。他の人では考えられない役。
 それで、「タカラジェンヌ」としての姿を、存分に焼き付けてくれるこの作品が、愛しくてならない。

 
 あと、わたしらしくヲタクな話をするならば。

 えー、セバスチャンとルシファー様で、もー少し突っ込んだ話が見たいです(笑)。

 今回ジャンP@水は、ただ男ふたりでダンスしているだけで、精神的にはなにもつながりがなく、萌えません(笑)。

 前日欄にも書いたけれど、セバスチャンって、リリスの代わりもできるんだよね、役的に。
 リリスは女性で、すぐに死んじゃうから美しいままで終わったけれど。

 リリスと出会わず、ルシファーがセバスチャンに興味を持ったまま、話が進んでいたらどーなったんだヲイ。
 強く正しく美しい彼を、誘惑しましたか、ルシファー様。
 清い彼を汚そうとしましたか、ルシファー様。

 セバスチャンには色気がないので、そーゆー想像がむずかしいですが。そーゆーことも含めて、興味津々だ〜〜。

 『天の鼓』の帝というキャラが萌えであるように、作品が歪む原因となった、作者の萌えポイントには、観客としても萌えポイントとなりうる、ということですなっ。
 それでストーリーがいびつになっていたとしてもだ。力点があるところは、磁場がチガウよなってことで。

 
 あと、今回壮くん単体にも、ものすげー萌えているのだが、ソレはまた別の機会に。


 あて書きが今回ほど成功している作品は、めずらしい。
 てゆーか、役者の持ち味だけで成り立っていると言っても暴言ではないくらい、まず「キャラありき」だよね?

 ルシファー@コム姫、リリス@まーちゃん。

 だもんで、大変なことになっていた。

 『堕天使の涙』新人公演

 新公を観て、痛切に感じたことは。

 コム姫とまーちゃんって、やっぱ人間ぢゃなかったんだ。

 同じ作品なのに、まーったく別物でした。や、技術的なことだけではなくて。

 ルシファーが、ただの人間だった。

 リリスが、ただの人間だった。

 闇がない。そして、光がない。
 そこにあるのはただの舞台で、ただの人間たちだった。

 なんだ、こんな話だったのか……と、とてもあちこち作品の粗がそのまま見えてこまった(笑)。

 
 ルシファー@かなめくんは、外見は美しいのだろうけど、なんだかふつーに人間で、未熟な不良青年テイストだった。
 『霧のミラノ』のときに、コムちゃんの演技を1から10までコピーしてみせたかなめくんだったが、今回はコピーできなかったみたい。まあ無理だわな、明らかに。
 最初のうちは、ダンスも含めどーなることかと手に汗握ったが、後半は安定、人間の世をすねた不良青年なりにゆらゆらしなくなったから、ソレはソレでヨシ。
 天使役は、誰にでもできるもんぢゃないんだな……。

 リリス@さゆちゃんは……えーと、技術はある人なんだろう、たぶん、きっと、おそらく。
 最後の「光のパ・ドゥ・ドゥ」はえーらいこっちゃになっていたけれど(笑)、演技も歌も、ふつーにうまい。
 ただ。
 なんでこう、地味なんだ?
 本公演観ていなかったら、ストーリー半ばになってようやく、ボロボロの姿で出てくる女の子をヒロインだと気づかなかったよ、わたし……。
 『Young Bloods!! 』のときも、華のなさにびっくりしたし、本公演のイヴェット役も地味さとあか抜けなさに首を傾げているんだが……このまま磨けばいつか輝いてくれるのかな?

 ジャンP@ヲヅキは別欄で書く予定なのでトバして(笑)。

 エドモン@コマ。
 ……正しい「エドモン」を見た、気がする(笑)。
 真面目でアツくて、素直に苦悩し、素直に慟哭している。
 フェイスラインのヤヴァさは健在だけど、芸風はぜひこのまま突っ走って欲しい。

 ……ええ、本役の「エドモン」は、正しくないと思っているので。そして、ソコに萌えているので。まあソレはまた別の欄で。

 で、今回、注目したのはマルセル@キングだ。

 や、わたし相変わらず、誰がどの役やってるのか、予備知識ナシで観ておりまして。
 開演直前までnanaタンやチェリさんとお喋りしてたんで、プログラムのチェックもしてなかったのよ。
 だから、誰がマルセルやってるのか、知らなかったの。

 キングだと、最初気づかなかった。

 や、マジで。
 知らない子がやってるんだと思って観ていた。

 気づいたとき、驚愕した。

 キング、受の演技できたんだ?!(ソコか!!)

 今までわたしが見たことのあるキングくんはですよ、「オレが、オレが」な人だったんですよ。
 これでもかと前へ出たがる、うぜーまでの意欲にあふれた男の子だったのよ。
 受の演技……というか、受動態の演技をしない子だった。引くことをしないというかね。
 その意欲はいいし、前へ出たがる子は好きなので、彼のそーゆーところを愛でていたので、役に合わせて引いた演技をしているのを見て、おどろいたわけですよ。

 誰かわかんなかった。
 たしかに顔はキングだぞヲイ、って、確認してびびった。

 役がチガウと、顔もちがって見えるしさ。
 ちゃんと可憐な美少年に見えたよ。

 セバスチャン@せしるもまた、なんか抑え気味だった。
 せしるのことだから、またものすげー熱風吹き荒れるんだろうなと、こわいもの見たさで期待していたのに。
 なんか、ふつーだった。
 ふつーにセバスチャンやってた。
 あれえ? えーと、穏やかに善人、なのは役として正しいんだろうけど、せしるの芸風ではなかったよーな。……いや、これで正しいのか?

 イヴェット@あゆちゃんは……ど、どうしよう。

「でも、デザートは抜きね。太ったら、役がもらえなくなるもの」
 とかゆー台詞に、いや、ソレだけ太かったらすでに手遅れだろう! と、突っ込んでしまったよ……。

 衣装も悪いよそりゃ。二の腕がいちばん太く見える長さの袖のついたチュチュだもんよ。でも、その二の腕は……。そしてなにより、顎と首の境目の曖昧さは……。

 まず見た目でびっくらこいて、実力がよくわからない。
 歌が裏声になったり地声になったり大忙しで、音程によって声量も変わるしで大騒ぎだったのはおぼえているが。
 が、がんばれー。

 ジュスティーヌ@リサちゃんは、納得の美貌。
 ジャンP@ヲヅキを生んだようには、カケラも見えないが、ソレもまたヨシ。
 彼女が凛として美しいことが、ジャンPの怒りをさらに煽るのだろうよ。
 五峰姐さんより抑え気味というか、リアルな印象。人形のような美貌と、生々しい女の台詞のミスマッチが萌え。

 ルブラン公爵@そらくんは、謎。
 ヒゲもシワもない、美青年のままルブラン公爵。見えません。
 ジュスティーヌは若く美しいままでもいいと思うが、公爵まで美青年だと、なんかもーわけわかりません。
 てゆーか、ジャンP@ヲヅキが誰より老け……もとい、大人っぽいので、年齢と見た目の逆転現象が謎を深めています。もー、バランス悪いったら。
 ビジュアルに頼らず、演技だけで壮年の男を表現できる自信があったのかな。それとも、ビジュアルをいじったところで重厚さを出すことはできないと開き直ったのかな。
 謎。

 アデーラ@ちとせちゃんは、きれーでした。
 なんか、思い切りよく黒塗りしてるなあ(笑)。そして、黒い方が似合っているかも。
 相手がゴツいヲヅキなので、元男役で少々骨太のちとせちゃんも、ふつーに女の子に見えます。よっしゃ! お似合いだぞっと。
 歌える、てのは強い。オープニングの影ソロもよかった。

 あと、谷みずせが本役のハマコに合わせ、らしくもなく温度を上げようとがんばっているのが微笑ましかったり(成功しているとは思えなかったが)、大凪真生くんが「二枚目顔」を作るあまり表情少なくなっている気がしたことや、愛原実花ちゃんがちょっときれいになっている気がしてみたり、かおりちゃんの役ってこれだけなの? と愕然としてみたり、オカマ役の祐輝千寿くんが冒頭で女装してもふつーに女の子に見えてしまって「カマに見えるせしる、すげー」と改めて思ってみたり(笑)。

 あて書き以外の人たちはわりとなんとかなるとして、やっぱ主役ふたりは大変だったなと。


 ヲヅキがかっこいい〜〜っ!!

 雪組新人公演『堕天使の涙』。ヲヅキにとって最後の新公。

 いやもーかっこよすぎだヲヅキ。
 なんつーかあの「厚み」がたまりません。カラダの厚み、キャラの厚み、演技の厚み。すごいいい男です。

 ヲヅキ、オペラピン取り基本なんで、じつは他があまり見れてません。ダメだわたし。

 ヲヅキの好きなとこをあげよう。

 まず、アタマのカタチ。
 後ろアタマとか好きです。あのアタマに触りたいと思う。つやつやした髪を、ぐりぐり撫でたい。
 耳からうなじのあたりも好き。襟足とか、リアルに肉感(虚構の存在ではなく、リアルなものっていうか)があって、見とれる。
 新公のセンターパーツ、似合ってました。ふつーにハンサムだ。

 眉と目のバランスが好き。
 少年マンガかアニメみたいに強いライン。眉と目の上の部分がかぶってしまう感じ。超サイヤ人とか、目の上がそのまま眉にくっついてるアレ。
 あの強さが好きなの。鋭さに惚けてしまう。

 鼻の穴が大きいことと、鼻自体が少々胡座をかいているのはご愛敬(笑)。
 鼻がチガウだけで、きっとものすごい美形になるんだろうなあ。
 あ、わたしは「鼻」にこだわりのある人間ですが、ヲヅキの鼻はべつに好みではありません。

 そして、なんといってもあのガタイ。
 肉厚で、スーツに「着られない」たくましさ。華奢だとサマにならないもんなんだよ、スーツって。男の人でもそう。華奢な少年体型の人はスーツが似合わない。ある程度の横幅が必要。
 ジャケットを脱いでなお、きちんと厚みのあるカラダが好き。
 かなめくんの横にいるとわからなくなってしまうが、じつはヲヅキ自身もすげースタイルがいい。長い手足が厚みのあるカラダを支え、動くと圧巻。

 温度を感じさせる芸風。
 「心」があること。そこにたしかに心があって、それが熱を持って動いて、そして声になり行動になる。演技がうまいというより、まず心をその役に重ねている印象。その役と同じ立場で同じ痛みを知り、同じ悲鳴を上げ、うずくまったり立ち上がって前へ進んだり。
 その温度に惹かれる。
 軽い役より重い役、コメディよりはシリアスが観たい。

 新人公演ではジャン=ポール(本役・水くん)。
 結局のところ、ジャンPってのは大した役ぢゃない。最初は物語の「視点」として登場するけれど、途中からその役割を忘れられ、会話の合いの手役、もしくはヒロイン・リリスの生い立ち解説役に成り下がっている。
 ルシファー様は勝手にひとりでグレて絡み節だし、ジャンPも自分の不幸で手一杯、会話はしていても、このふたりに心の交流はないに等しい。
 ところが。
 ヲヅキのジャンPは。

 自分の事情だけで手一杯だったジャンPなのに、ルシファーに対し心を動かすの。
 「人間なんてキタナイっ!」と傷つき悲鳴をあげているルシファーを見、その露悪的な言動の奥にあるものに、気付く……恒例(笑)になったスクリーン前の会話で。
「お前……?」
 と、いぶかしげにつぶやいた次の瞬間、シャルロットとアデーラがリリスのことで飛び込んで来るので、そこで話がぶった切られちゃうんだけど。

 たしかにあの瞬間、ジャンPはルシファーを「見る」の。作り上げてある外側ではなく、痛みに喘いでいる内面に注目するの。

 それまでは、ルシファー>ジャンPだった。
 ルシファーは人間たちより前に立ち、眺めていたのね。だけどあの瞬間、ルシファーの「弱さ」に気づくことの出来たジャンPが、前へ出るの。
 逆転し、ルシファー<ジャンPになる。

 そしてコレは、ヲヅキの芸風というか、わたしの思いこみかもしれないけれど。
 相手の弱さや、苦悩に気づいてしまったら。
 ヲヅキジャンPはそれを「思いやる」人だと思うのね。
 反射的に。本能的に。
 ルシファーの苦しみに気づいたときのジャンPがさ、深い顔をしていてね。自分の苦しみばかりに夢中で、自分より高位のモノだと信じてだからこそ感情任せにぶつかってもいいと思っていた相手が、自分と同じように泣きも苦しみもする存在だと知った瞬間。

 たぶんジャンPは、ルシファーを守ると思う。
 その心を、これ以上傷つけまいとする、と思う。

 あそこでシャルロットたちが飛び込んで来なければなあ。
 よわよわ不良青年でしかない、人間にしか見えないダメ男ルシファーを、抱きしめていたかもしれないのにー。
 自分よりか弱いモノとして、その大きな身体と魂で守ろうとしたかもしれないのにー。

 と、一瞬で妄想が走りました。

 あああ、ヲヅキ、オトコマエ過ぎ!!

 水ジャンPより、オトコマエなの。
 もちろんソレは、コム姫とかなめくんではルシファー様の格がチガウせいなんだけど。
 水ジャンPはマザコン男だけど、ヲヅキジャンPはチガウしねっ。
 もちろんソレは、五峰姐さんとリサちゃんのキャラがチガウせいなんだけど。

 そのシーンでジャンPがルシファーに対し愛情(変な意味ぢゃないぞ・笑)を抱くのがわかるので、ラストシーンで「名残惜しいな」とかなんとかジャンPが言うのが、納得できるの。
 ああ、そうなんだ、このふたり、ちゃんと友だちだったんだ。
 本公では、最後まで「天使@ルシファー」と「人間@ジャンP」に隔たりがあるように思えて、ラストシーンの取って付けた感に萎えまくっていたんだけど。

 ジャンPが、大人だ。
 ルシファーよりも。
 翻弄するモノとされるモノ、という関係ではじまったはずのふたりなのに、ラストでは立場が逆転している。
 翻弄されるはずのジャンPが、ルシファーを見守っている。

 これが、包容力というモノか。

 
 ……あらためて、ヲヅキに落ちて終わりました、雪新公。
 もー、もー、どうしようかと。

 
 そして、この芝居をヲヅキ主演で観てみたかったと、心底思います。

 演目が発表になったときに、思ったんだよ。
「景子タン作で『堕天使の涙』? 主役は堕天使ルシファー? ……ヲヅキの新公主役は、ナイな」

 いくらなんでも、ヲヅキで「天使」「耽美」はありえないだろ。
 いくらなんでも、持ち味的に想像すらできない、ありえない。
 ヲヅキの新公主役観たかったけど、この演目が来た時点でナイな。
 ヲヅキの耽美天使なんて、お笑い以外のナニモノでもないもんなっ。

 そう、思っていたのに。

 いざ幕が上がってみて、今のヲヅキを見て、前言撤回する。
 ヲヅキで、ルシファーが見てみたかった。

 そりゃま、ビジュアルはえらいことになると思う。かなめくんのような美しさは出ないだろう。
 なにしろ耽美アオセトナ様やって、謎のアフロ犬になってしまった人だからな。
 でも。

 彼の芝居を、見たかったと思うんだ。
 ジャンPをこのように演じたヲヅキならば、ルシファーをどう演じただろうか、と。
 純粋に、役者としての彼を、見たかったんだ。

 
 これでヲヅキは新公卒業。
 どんな役者になっていくのか、たのしみだ。

 緒月遠麻。そりゃ、その逞しいビジュアルも好きだけども。
 なかでも、彼の演技がいちばん好き。


 『堕天使の涙』のジャンP@水と、その家族について。

 景子女史作品は設定がベッタベタなので、とてもステレオタイプにいろんなことを想像できる。

 元オペラ座のエトワールだとかいうジュスティーヌ@五峰姐さんが、「子どもを愛せなかった」ということから、すべての不幸がはじまっているジャンPの人生。

 愛せなかった、といっても。

 ジュスティーヌがこだわったのは、娘リリス@まーちゃんだけだと思う。

 息子=恋人、娘=自分自身。

 「母親」として「人間」として納得や成熟がないままに、子どもを持ったジュスティーヌが、娘リリスのみを憎んだのは想像に難くない。
 リリスは、自分自身だから。まだなにも失っていない、可能性と幸福を持った若い女だから。
 自分がなにもかも失ったあとで、リリスの「純粋さ」を見せつけられるのは、耐えられなかったんだろう。
 もうひとりの自分が幸福になるなんて許せない。だってわたしは、こんなに不幸なのだから。

 リリスが別人格を持つ、別の人間だということを、本能的に理解していない。
 子どもと自分の存在の混同。きっとジュスティーヌは、リリスとずっとへその緒がつながっていると感じていたんだろうなあ。自分の一部だったんだろうなあ。

 だから、憎しみも果てがない。苦しみも、果てがない。

 そして、ジャンP。
 ジャンPのことは、ジュスティーヌは愛していたと思う。
 彼女が憎むのは自分の分身であるリリスのみ。じゃあなんでジャンPのことも憎むのかというと。

 ジャンPが、罪を見つめる者だからだ。

 ジュスティーヌが娘リリスを愛せず、虐げる、その生き証人がジャンPだ。
 「母親は、子どもを愛さなければならない」という刷り込みが、「愛せない自分」を責める。自分がまちがっていることはわかっているんだ。他の誰より自分自身の良心が自分自身を責め、裁いているというのに、それをさらに追いつめるカタチで、いつももうひとつの目が自分を見ている。

 娘リリスが「幸福を失う前の自分自身」であるならば、息子ジャンPは「罪を犯した自分自身を責め続ける、もうひとりの自分」なのだろう。

 ジャンPが双子ではなく、ひとり息子として生まれていたら、まったくちがったものになっていたのではないかと思う。
 娘が「悪魔の女」という悪意の名を付けられているのに、ジャンPはそうではない。ありふれた名前なだけに、「好きな男の名前でもつけたかな」という感じがする。
 リリスがおらず、ジャンPひとりなら。
 彼は、ジュスティーヌの「恋人」だったのではないか。や、変な意味ではなくて。
 自分の人生を捨ててまで生んだ息子を、溺愛したのではないだろうか。
 だって、そーでもないと救われないからな。愛した男は消え、人生懸けてきたバレリーナとしてのキャリアも失い、残ったのが赤ん坊だけなら。
 もう、赤ん坊を愛するしかないじゃないか。
 赤ん坊が同性ならば、自分と同じバレエの才能も憎らしいが、異性ならば彼のバレエの才能は愛した男から受け継いだものになる。

 ジュスティーヌは、ジャンPを愛していたと思う。
 リリスがいてなお。

 そして、ジャンPもそれを知っていたと思う。

 ジャンPが露悪的な生き方をするのは、それゆえだろうと思うんだ。
 母親が、娘を憎み、息子である自分だけを愛する。その生々しい「女」の部分が、潔癖な彼の逆鱗に触れるのだろう。

 ジャンPはきっと、リリスに対して罪悪感を持っていたと思う。
 自分だけが母から愛されているのを、知っていたから。

 盲目の娼婦リリスは言う。「誰からも愛されなかった」と。
 ジャンPは? 共に母から憎まれた、この世でたったふたりっきりの兄妹ならば、ジャンPからの愛情だけは本物だったろうに。
 リリスは、ジャンPの愛を勘定に入れないんだ。

 ジャンPがリリスを愛していたのは事実だろうけれど、そこにはもっと複雑なものが絡んでいて。
 自分だけが母に愛されている罪悪感、そんな歪んだ愛情しか子どもに抱けない母への反発、リリスを守って生きながらも「リリスがいなければ、自分は解き放たれるのでは?」という黒い感情。
 そーゆーものが混沌とした上での、愛情だったから。

 リリスは、ジャンPからの愛を、純粋な意味での「愛」としては、数えないのな。

 ほんとーにリリスとジャンPが愛し合っていたら、リリスはどこへも行かなかったと思う。
 だけどリリスは、姿を消した。自分がいると迷惑だから、と母も兄も捨てて出て行った。
 リリスにとっては、ジャンPもジュスティーヌと同じ「リリスを愛したいのに、愛せない」と悩み、鎖に囚われている罪人だったんだろう。だから、解放してあげるために、姿を消すしかなかった。
 や、もちろんジャンPが、「光のパ・ドゥ・ドゥ」というすばらしい作品を創り出すくらい、ちゃんとリリスを愛していることは、わかっているんだよ。だけどその愛の奥にある闇を知るからこそ、リリスは彼からも去るんだ。

 リリスを失ったあとジャンPが荒れているのは、そのこともあったと思う。
 彼女が何故、自分すら捨てて消えてしまったのか。
 自分の中にあった彼女への暗い感情を見抜かれていたせいだと……ある意味、彼女を追いつめた責任は自分にもあるのだと、わかっていたからではないか。

 そして、自分を守るために、母を責める。
 悪いのはジュスティーヌひとりだと。リリスの不幸も、自分の過ちも、なにもかも。
 ……ジュスティーヌとジャンPは、似ている。
 良くも悪くも。

 ジャンPはことあるごとに、ジュスティーヌを責める。
 それはまちがいなく、弱い者いじめだ。
 ジュスティーヌは決して彼の目を見ないのだから。正視できないほど、罪を知り悔いているのに、彼は容赦しない。彼女をいたぶり続ける。
 彼女を責めることで、ジャンPは救われようとしているんだ。

 ジャンPは破滅的に生き、ルシファーに興味を抱かせるほどの闇を瞳に宿している。
 それは「愛してくれなかったから、母を憎んでいる」という単純なものではないだろう。
 自分の罪から目を逸らし、他人のせいにして、自堕落に生きることへの歪み。他人を攻撃することで自己正当化し、泥の中で足踏みすることを赦す弱さこそが、彼の抱える「闇」ではないだろうか。

 
 リリスが死の間際に、彼らの鎖を解き放っていく。

 彼女が赦したのは、ジュスティーヌだけではないだろう。

 
                   ☆

 ジャンP@水に関しては、ルシファー@コムとはまったく萌えません。
 今回彼的にいちばん萌えたのは、ジュスティーヌに関してだ。

 ああ、このマザコン男、どーしてくれよう。
 ほんとうは愛し合っていることがわかる母子なだけに、「ひざまずかせてやる」とか言い合う憎悪な関係は、すげー萌えです。
 アデーラ@いづるんとつきあっているのも、ママが嫌がる相手だからてのが丸わかりだし。

 基本的にわたし近親相姦ダメなんですが、この母子は萌えです、はい。
 ねーっとり憎み合い、生々しい雄と雌であってほしいもんですなっ。


 あれは、10月1日のことだった。

 ケロに、のしかかられた。

 寝てたんですよ、わたしは。
 そしたら、顔の上にこう、ガバッとケロちゃんが。黒燕尾着用のオトコマエな姿で。

 や、アヴない妄想ぢゃなく、現実です。

 枕元に貼ってあったポスターが、顔の上に落ちてきたの。

 びっくりしたわー。
 汐美真帆ディナーショーのポスター。ランチを食べに行って手に入れた、超オトコマエなケロちゃんのポスター。
 いつでも眺められるように、枕元に貼って早2年弱。
 落ちるなんて。
 それも10月1日。2年前のケロの最後のムラ公演初日と同じ日。このタイミングで落ちてくるなんて。

「オレのことはもう忘れて、新しい恋に生きろよ、こあら」

 って意味かしら?
 いつまでもポスターを貼ってるんじゃない、前を見て生きろと?

 てなことをドリーさんに言ってみたところ。

「逆なんじゃない?」

 と、言われました。

 あ、やっぱ逆ですか。
 つまり。

「オレとゆーものがありながら、浮気してんぢゃねーぞ」

 って意味?

 9月29日の日記に、さんざん「昔の男」って書いたことへの抗議?
 やーん、ダーリンたら嫉妬深いのね!(キモい書き方はやめなさい)

 大丈夫よケロちゃん。忘れることなんかないから。
 ずっと好きだよ。

 ひとりずつ顔がチガウように、ひとりずつ「好き」もチガウ。ケロを好きだったように誰かを好きだということはない。ケロにはケロの「好き」で、それはケロちゃんがこの世にひとりしかないのと同じで、他には変えようがないのだ。

 貼りっぱなしの『巖流』のポスターを眺めては、じんとせつなくなる。
 武蔵が好きだった。
 わたしの好きな人はこんなにこんなにかっこいいのだと、全世界に叫びたかった。
 誇らしかった。
 それは今も変わらない。

 落ちてきたケロポスターを、四隅を修繕してまた大切に、枕元に貼る。
 長い指を眺めては、せつなくなる。この手が好きだった。
 この人が創り出すモノが好きだった。

 何度はがれたって、しつこく修繕してまた貼るからね。
 ケロちゃんは、ずっとそこにいてね。

 や、ときどきのしかかってきてくれても、いいけど(笑)。(キモい書き方はやめなさい)

 
 10月20日、HAPPY BIRTHDAY ケロちゃん。
 遅れちゃったけど、この日に書こうと決めていた。

 タカラヅカは今、コムちゃんの退団公演の最中だよ。オギーがとてつもなく美しく、そして毒のある世界を展開しているよ。
 東宝では、ワタさんの退団公演の最中だよ。時は流れているよ。確実に。

 それでも。
 世界は美しく、タカラヅカは美しく、人生は愛にあふれている。
 あの日と同じように。


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