歌で苦戦しているハマコを、はじめて見た。

 『ドルチェ・ヴィータ!』のときも思ったけど、オギーが「歌手」に求める技術はハンパではないなと。
 男役にあのキーで歌わせるか?!
 『タランテラ!』にてあたしゃ、裏声で歌うハマコをはじめて見ました。うわー、きつー。
 そしてあらためて、トウコの凄さを思い知った。
 トウコなら歌っちゃうんだろうなあ……『ドルチェ・ヴィータ!』で歌いきったよーに。

 次の花組で、きっとオサもすげー上のキーまで歌わされることだと思う。芝居では「男」が裏声使うの変だからってことで、そこまで要求されなかったけれど、ショーなら絶対やらされるはずだ(笑)。

 男役が高い声で歌うことによって、さらに世界は混沌とし、ボーダーレスになる。現実の男性には無理なことを、「女性が男を演じるタカラヅカ」だからあえて、やらせる。
 えーらいこっちゃ。

 しかしハマコがここまで裏声がOUTなのは、知らなかったよ。きれいぢゃない。今までは歌える音域でのみ歌ってきたんだなー。や、もちろんソレでいいわけなんだけど。こんな音を要求されることまずないんだから。
 ハマコ先生の歌が艶を増せば、作品がさらに美しくなることでしょう。ハマコがんばれ〜〜。

 あと気になるのは、あいようこの歌。
 低い曲はきれいにダークに歌いきっているんだけど、高い曲がねー……とくにタイトル曲が歌いきれないのは、どーしたもんか。
 作品全体歌詞がよく聴き取れないので(わたし、耳よくないし)、他にもあるかもしれんが、少なくとも最初に「タイトル」を口にするのがあいようこだと思うんだが……ここの歌声がなんとも微妙。キーが上がるなり声量が落ちてへろへろ、無理矢理出していることがわかる声で、「タランテラ!」と歌われてもなぁ。
 その弱さも効果のひとつなのかしら。
 でも、ソプラノ以外のあいようこおねーさまは、かっこよく押し出しよく歌っててよい感じ。今までの公演より、うまく聞こえる。キャラに合ってるんだろうな。

 コム姫、水くんは見事に「歌える」歌しか歌わせてもらっていない(笑)。だから声さえ好きなら心地よい歌声になっている。わたしはふたりの声好きだから問題なし。

 まーちゃんはいろいろやらされてるなー。早口言葉みたいな歌をぜーぜー歌っていたかと思えば、「誰、この声?」てな地声で歌ってくれるし。まーちゃんの地声の歌、好きだなー。こんな声なんだ。

 さすがなのは圭子女史。
 この人のドラマティックヴォイスはすげえ。ドスをきかせて活き活きと歌っているのがもぉー。ぞくぞくするわ。
 自由自在な歌声が快感。

 シビさんは空気を変える歌い手。
 彼女が歌うといきなり「物語」がはじまる(笑)。オギーショーにはなくてはならない人だ。

 いづるんのソプラノが心地いい。
 きれいに澄んで、そしてちょっと無機質なところがいいんだなー。こわくて。

 舞咲りんちゃんの少し金属的な、神経質な声質がハマる。ゆめみちゃんは歌声がニュートラルだからか、あまり印象的な使われ方はしていないけど、「正しい歌声」が必要なところで活躍。

 どさくさにまぎれて(笑)奏乃はると氏も歌ってましたな。初日に観たときより、あとになるほど歌の「仕事」っぷりが上がっているのがすごい。この人、短期間にどんどん成長してるんだー。がんばれー。

 キムも健闘中。歌える範囲の歌しか与えられていないと思うんで、あとは深みを出してくれるといいなぁ。
 いや、キムは歌よりも「男役ショースター」として真ん中に立つ訓練をさせられている感じがするが。

 踊りまくりのダンスショーなんだが、それを取り巻く「歌」もかなり冒険的。
 いろいろ気になった。
 他の演出家ではありえない使い方が。

 あー、わたし的にはなんつってもハマコだなー。
 ハマコがんばれー。
 ハマコがいつもの歌声と同じレベルで高音も出せるようになったら、この作品、がくんと色が変わると思うの。さらに高みに到達すると思うの。
 ものすごーく重い地面で、ハマコの歌声が必要とされているから。そこを歌いこなしてくれたら、どれほどカタルシスを味わえるだろう。

 東宝ではもっとよくなっていくんだろうなあ。
 いいなあ、東京の人。
 ムラではもうじき終わっちゃうんだよ。
 もっともっともっと、観ていたいのに。
 東宝はあんな僻地に劇場があるわけじゃないから、毎日だって立ち見しに行けるのになぁ。(働け)

 
 あー、とりあえず実況CDが欲しい。
 発売遅すぎ。


 愛用していたミニパソが臨終し、なんとも不自由になっていたところに、まさかの追い打ち。
 パソコン、クラッシュ。
 復旧に丸4日。

 …………わたしに、雪組公演の感想を書くなってことなのねっ?!
 千秋楽までに、一通り感想書こうと思ってたのに! 日付に追いつこうと思っていたのに!

 Cドライブがぶっ飛んだために、辞書が臨終しました。

 「みすずあき」と入力して、「美鈴秋」って変換されるのよっ?! 「はるのすみれ」は「春のスミレ」よっ?!
 ひどいわっ。ジェンヌの名前を一から登録し直せというの?(さめざめ)

 つーことで、書きたくても書けないジレンマにじれじれしつつ、よーやくパソコンとネット環境が本格復活した今日はもう10月末日、雪楽が終わってしまいました。
 ちょうどパソコンと夜通し格闘しているときに前楽、楽と観たので、疲労困憊、睡眠不足で突き抜けてハイになっていたような気がします。

 
 ああなんかもう今さらな気がするというか、「終わってしまった」喪失感が大きくて、途方に暮れている感じなんだけど、それでも記憶を残したいので、順を追って書いていきます。
 それにしても、辞書が不便だ……いつも使っている文字がなかなか出てこないストレス……。

 
 書く予定の項目を、メモしておく。

・地上最後の男と女@小夢魔ー……ってナニこの変換、コムまー
・笛吹男あるいは蜘蛛の影が見ている世界@キム
・少女の姿をした神、あるいは彼女の箱庭@シナ
・壮一帆万歳

・腐った話。ジャンPは受だが攻は誰か@当ててみてください(笑)。

・いつか好きになる未来。@まーちゃんお茶会

・千秋楽の朝に。@真面目に入り待ち。
・オギーの徹底したコムまー観がすげえ。@サヨナラショー

 
 そうこうしているうちに、空……くそーっ、「そら」と打って「宙」と出ないPCなんてっ。宙組初日が来てしまう。かしちゃんの最初で最後のトップスター公演の幕が上がってしまう。おろおろおろ。
 初日から駆けつけますよ、かしちゃん!!

 翌日は梅芸でオサ様の全ツがはじまるし……つってもこっちはチケットないんで、サバキ頼みです。余らせている方、劇場前でさばいてやってくださいまし!! わーん、見たいよ見たいよ、オサ様〜〜っ!!

 雪楽のあと、nanaタンに車で家まで送ってもらいながら来る花全ツの話やらなんやらしていて、なんかもー、ものすごくオサ様が恋しいです。
(nanaタンはお仕事の日でした。ムラには当然いませんでした。でも、「もう終電の時間だけど、車で送ってくれるならムラでこのままnanaタンが来てくれるのを待つわ」と「会いたい」メールしたら、「送ってやるから待ってろ、こあら!」と超オトコマエな返信をくれたの。ぽっ。で、夜中に一緒にごはん食べて、送ってもらったの。ぽっ)←迷惑な奴。

 あああ、コムちゃんとの別れで弱くなっているハートに、オサ様のことを想うとさらにさらにセンシティヴになります。
 やっぱり楽の広島まで追いかけるべきなのかな……チケットはきっと、行けばサバキあるよね……広島まで交通費は、ええっと。真面目に考えている自分がこわい。なんだろう、もう泣きそうだ。すっごくせつない。

 そして翌週になれば、まとぶDCがはじまるし。まっつに会える、まっつまっつまっつ。
 そして、ワタさんとの本当のお別れがやってくる。御堂会館でひとりお見送りする予定。

 トウコちゃんDCはカケラも当たらないし(梅芸・友会・プレリザと全滅続きですよ。周囲もそろって全滅)、なのに植爺を讃えるイベントはするっと当たるし(周囲もそろって当選)、このチケ事情はどーなってんの。
 来年のタカラヅカ手帳は未だに発売されないし(来年の予定が書き込めなくて不便だ)、月大劇公演は植爺+三木という駄作の予感に震え上がり、友会入力していいものなのかびびっているし。

 心穏やかでいられない日々が続く。

 宙初日までに、観劇日記追いつけるかしら。


 コム姫とまーちゃんの最後のショー作品である『タランテラ!』では、通常のデュエットダンスがなかった。

 フィナーレに階段前でふたりきりで踊るアレね。
 ふたりが踊り終わって、階段中央にエトワール登場、という流れがショーのテンプレ。

 いちお、怒濤のラストシーンでコムまーはふたりで踊るけれど、いわゆるふつーのデュエットダンスではなかった。
 や、プログラム(買ったさ!)には「デュエットダンスから群舞へ」とか書いてあるけど。チガウし。どう考えても。
 トップコンビふたりだけで、素敵なドレスとスーツ(とか燕尾とか)でじっくりくるくる踊るなんてこと、なかったよ。

 コムまーがしっかり絡んで「相手役」として踊っているのは、ストーリー部分の方。
 プログラムを読むと第5場「大西洋」で、「大きな海に抱かれて、繰り広げられるデュエットダンス」とかしれっと書いてある。

 アレの何処がデュエットダンスだ(笑)。

 や、言葉的にはまちがっていないのだろうけれど。
 精神的には、天と地ほとの差があるぞ(笑)。

 「ラ・プラタ河」の蝶とタランテラの場面にしたってこの「大西洋」にしたって、真っ当にラヴラヴしてない。
 そこにあるのは生命がかがったヒリつく関係。どちらも女の方は微笑んでいるけれど、描かれているのは生やさしいモノではない。
 ふつーに恋愛関係にある男女としては、踊っていない。

 ふつーの恋人同士ではない男と女。
 幸福な未来を持たない男と女。

 追いつめられた、研ぎ澄まされたモノ。
 いっそただの恋愛なら、あるいはただの愛欲なら、まだ救われたのに。
 そう思わせるなにか。

 コムまーというコンビにインスピレーションを受けて創作すると、こんなことになるんだ、ということを、見せつけてくれる。

 ヅカのお約束の、階段前のラヴラヴデュエットダンスなし。
 かわりにがっちり組んで踊ってくれたのは、捕食者と被食者のおそろしい場面。
 美しく、そして残酷な、絶望に満ちたダンス。

 最後の最後に、ここまで「コムまー」を見せつけてくれると、たまらない。
 コムちゃんをコムちゃんだから愛し、まーちゃんをまーちゃんだから愛した。このふたりの個性を生かし、このふたりでしかできないものを表現してくれた、『タランテラ!』という作品を、すごいと思う。

 邪を識(し)る者として描かれる、タランテラ@コム。
 無邪気なモノとして描かれる、蝶もしくは海の女@まー。

 邪は邪をしるゆえに牙を剥き、またその牙を収めることをしる。
 無邪気なものは邪を理解しないゆえに、邪の存在すら赦さず滅してしまう。

 邪……あるいは、罪。

 罪びとの罪、罪なきものの、罪なきゆえの罪。
 万華鏡のように、回り続ける。

 触れあえば消滅する、相反する世界のモノ。
 それでも存在する以上惹かれ合うモノ。

 そこにいるのは、地上最後の男と女。

 恋愛だとか情だとか、ぬるいものはすでに、そこにはなくて。
 ぎりぎりの、追いつめられた関係。
 共に滅びるか、それとも相手を喰らうか。

 なんてコンビだろう。
 これほどの精神世界を見せてくれたふたりに、涙が止まらない。

 心がなければ、絶望もないのに。
 愛したからこそ、心は痛み、軋む。希望はゆがみ、狂気に塗りつぶされていく。

 毒蜘蛛タランテラとして「悪」のように登場したコム。
 だが彼の人生(あるいは旅)を追体験していると、彼が「悪」でないことがわかってくる。
 彼が持つのは「業」。
 それは彼だけにとどまらない。すべての人間が持つものだ。

 彼はその「業」ゆえに罪を重ね、罪に苦しみ、彷徨を続ける。
 「業」と「罪」はチガウものだろう? 何故同じになる。同じだと思ってしまうことこそが弱さ、そして罪ではないのか。

 可憐な蝶として「善」のように登場したまーちゃん。
 無邪気に心のままに愛を表現する彼女は「正しい」。だけど彼女の正しさゆえに追いつめられていく毒蜘蛛の姿を見ていると、いたたまれなくなる。
 「清いもの」はその正しさで、闇を持つものを断罪しているんだ。

 彼女はその「正しさ」ゆえに罪を裁き、罪人を追いつめ、君臨する。
 彼女に罪はない。彼女には、罪人の弱さがはじめから理解できないのだから。

 「大西洋」の場面の、まーちゃんのこわさときたら。

 慈愛に満ちた大人の女の表情で、満面の笑顔で両腕をさしのべる。
 もし女神というものがいるなら、この彼女の姿を、そして表情をしているかもしれない。

 だからこそ、彼女の存在は、絶望なのだ。

 女神の前で、顔を上げられる者があるだろうか。自分は小指の爪先ほどの罪も悪意もないと、胸を張れる人間がいるだろうか。

 汚れきったわたしは、絶望する。
 彼女の美しさ、清らかさの前に、膝を折る。
 自分の存在を、恥じる。
 生きていけないほどに。

 神聖に美しい、慈愛の微笑を湛える女と、彼女に惹かれ、その腕に抱かれようとしながら惑乱する男。
 場に流れるのは、罪を歌う声。

 
 コムまーが好きだ。
 よくぞこのふたりがコンビを組み、これほどのものを見せてくれたと、引き合わせてくれたすべてのものに感謝する。

 緊迫感で呼吸もままならない、そんな男と女の関係があってもいいと思う。


 『タランテラ!』のキムは、彼個人でひとつの物語になっていると思う。

 『タランテラ!』はどこをとってもドラマが展開されているおそろしー作品なので、「誰を中心にして視るか」でまったく別の物語に見えると思う。また、同じ人を見ていたって、観客ひとりひとりの感じ方で、これまた別のものに見えるだろうし。
 だからこそおもしろい作品だと思う。

 「今」のわたしはこう感じているけれど、10年後20年後のわたしはチガウことを感じるかもしれない。10年前20年前のわたしなら、またチガウだろう。
 ……10年後や20年後に、もう今の『タランテラ!』を観ることは不可能なのだけど(ビデオなんぞ、ただの記録映像であって、「観る」ことがてぎるものには数えない)。

 わたしが最初に「中心」として惹かれたのが、蜘蛛の影@キムだ。
 プログラムで役名を確認したのがあとだったので、はじめはなにも知らず彼を「タランテラのミラー」と呼んでいた。
 ミラー……鏡な。タランテラを映すもの。
 『アルバトロス、南へ』でも、キムはそーゆー役割を担っていたから、注目しやすかったんだ。

 キムはずーーっと舞台の上にいる。
 純粋な登場時間だけでいえば、主役を超えてるんぢゃないか? ってくらい。
 2回目の観劇では、他のすべてをあきらめ、キムだけをガン見してみた。

 物語がどう動き、誰がどうしていようと、キムはいつも舞台のどこかにいるのだ。
 彼はタランテラと、それをとりまく者たちを見ている。あるときは近づき、絡み、あるときは離れ、視線すら向けず。

 タランテラ物語の中でキムが出ないところって、クライマックスの「大西洋」だけぢゃないの?
 承前では笛吹男として華と毒を振りまいているし、プロローグでは緑色の若い蜘蛛になって、きらきら踊ってるよね。
 スペインでは赤いジャケットで壮くんを襲ってるし(チガウ)、ラ・プラタ河ではジプシー姿で黄昏れているし、ブエノスアイレスとアムステルダムではスーツの男たちの間にひとりだけジプシー姿で混ざって野郎ダンスしてたよね?
 大騒ぎのアマゾンではやっぱきらきら爆発していて、物語のラストシーン、のほほん壮一帆のひとり銀橋に笛吹男として登場、伏線拾ってエンドマーク、だよね。

 パイド・パイパーと蜘蛛の影は別人、でいいと思う。
 別の役だけど、同じ人が演じていることに毒がある、つーことで。

 キムの持ち味は「少年」だと思う。
 若さだとか、拙さ。収まりきる前のモノ。力強くどん欲だけど、どこか不安定。
 彼がハタチ過ぎの青年であっても、魂は「少年」であると思う。その「未完成」さが魅力だと思う。……キム自身が実力的に安定した若手スターだということとは、別の話ね。

 キムだけを見つめていて見えてくるのは、「少年」の物語。

 傲慢さ、残酷さ、冷酷さ。
 若さが持つ驕り。
 狭量さ。

 魂のきらめきと目を離せない魅力。
 未完成であること、洋々たる未来があること自体の力。

 無意味な繊細さ。
 過剰な自意識ゆえの攻撃性。

 無知ゆえの、純粋さ。

 それは、「少年」という物語。
 他者に対しはてしなく残酷になれる年代。自分に対しはてしなくナーヴァスになれる年代。
 鏡の中の痛さと美しさが、蜘蛛の巣のようにひび割れて乱反射している。

 それに対する、「大人の男」タランテラ@コム。
 ふたりが同じものだとするならば、それはとてもせつない物語。

 大人ゆえにすべてを受け入れ彷徨するタランテラと、彼につかず離れず見つめる、少年のままのタランテラの影。
 少年は大人の自分を、ときに嘲笑し、ときに苛立ち、ときに冷たく突き放す。
 そして、心で慟哭する。
 泣かない大人の自分の代わりに。

 タランテラの静かさと、影の感情の激しさのギャップが痛い。
 「少年」である影は、純粋さも邪悪さも、タランテラよりはるかに強いのだから。

 「少年」タランテラから見た世界。
 それは、「大人の男」タランテラを主役として見る世界とはまた、チガウものだ。
 ふたりの蜘蛛の、どちらを視点にするかで、どちらに感情移入するかで、物語はまったく別の色を持つ。

 キム個人でも、ひとつの物語ですよ。
 それがすべてでないことは言うまでもないが、壮大なサーガのなかの一篇として、存在しうる。
 
 
 いやあ。
 理屈がどうより、キムの邪悪さにときめいたんですよ。

 黒くて無邪気で残酷で、そのくせ純粋で力強い、幼さとあやうさ、強さとしたたかさが万華鏡のように変わる、キムにときめきっぱなし(笑)。
 あの邪悪さはなにっ?!! 歯を剥き出しにして吠えて、哄笑して、嘲笑して、冷笑して。
 そのくせ弱い傷ついた瞳でたたずんで。

 わたしが見たかった「音月桂」を、よくもここまで完璧な形で見せてくれた。
 彼のかわいらしい容姿の下にある、熱を持った闇を、表現してくれたオギー、そして『タランテラ!』に心からの賞賛を。

 はじめのうちは、キムに釘付けで、他が見られなくなって苦労した。や、コムまーは別としても。
 スペインの場面は、上手で坐り込んでいるだけのキムをガン見してばかりだったので、舞台中央で壮くんが五峰姉さんと踊っていること、知りもしなかったよ。

 
 物語導入の使者・笛吹男と主人公の影を、同じ人物が演じる。
 舞台演劇の妙だよなあ。『凍てついた明日』で、主人公の聖域たる兄と、主人公を追いつめ破滅させる者を、同じ役者が演じていたように。他のジャンルではできない技術だよなー。
 生の舞台では、ひとりの役者が何役もすることは不思議でもなんでもない。映画やテレビドラマではありえないけど。
 だがらこそそこに、意味を含ませることができる。舞台のお約束を逆手にとって。

 人々を破滅へ導くハーメルンの笛吹男。
 罪を犯しながらでしか生きることのできない毒蜘蛛の、もうひとつの姿。
 このふたつが、同じ役者であるということ。

 いやあ、考えただけでぞくぞくしますなあ。

 なんておそろしい世界。
 なんて美しい世界。


 荻田浩一作品『タランテラ!』において、凶悪なまでにかわいらしいシナちゃん。「娘」という役名を持ち、舞台のさまざまな場面にただ存在している少女。
 彼女がなんであるか、何故そこにいるのかは、なんの説明もされていない。
 承前のパイド・パイパーの傍らに立ち、物語を導く者の一端であるはずの彼女。

 わたしは彼女にカタチのないモノを感じた。

 神だとか、運命だとか。
 カタチだとか意志だとかを持たないモノ。
 少女のカタチを取ってはいるけれど、少女ではない。笑っていたり人をもてあそんでいたりなにか考えていそうに見えるけれど、人間が理解できるような意志は持たない。
 ただ、今、わたしたちの目に見えているだけの姿をした、本来ならば見ることも理解することもできないモノ。

 いやあもー、ぞくぞくするんですけど。

 彼女のかわいらしさ、無邪気さが、こわいのなんのって。
 彼女がただ「そこにいる」ことが、すげーこわくて神聖で、惹きつけられる。

 オープニングで、大人の女をもてあそんでいるところなんか、すげー好きです。やーん、ロリータな美少女が、美しい年長の娘を笑いながら翻弄するってナニよソレ、たのしすぎる〜〜。倒錯感がたまりません。ハァハァ。ヘタレ壮くんをいじっているときより、よっぽど萌えます(笑)。

 そして彼女が関わる相手がタランテラの影@キムのみだというのも、萌え。

 彼女は気まぐれにそこに存在し、彼女の姿を見ることができるモノは限られている。彼女があえて姿を現しているとき以外は、「別次元のモノ」で、同じ世界にはいないのだろうと思える。
 そんな彼女が全編通して関わるのが、キム。
 タランテラ@コムが本体ならば、その影である少年@キムは、この世のモノではない。たしかにそこにいて、世界を見つめ、関わっているようだけれど、本当のところ彼は存在していない。

 タランテラが生み出した幻の少年と、彼にだけ見える少女の姿をした神。

 それは、泣きたいくらい美しく、せつないイメージだ。

 もつれあう人々から一歩離れ、清らかな白い花束を抱いた少女。
 混乱の中、小さな明かりを灯している少女。

 攻撃的な荒ぶる魂を秘めながら、繊細で傷つきやすい「少年」という性を持つキムとの、コントラストの美しさ。

 混沌とした世界のなかで、彼らだけが、この世のモノではないのだ。
 だからこそ少年は刹那の衝動に突き動かされながら傷つき続け、傷つけ続け、少女は永遠の穏やかさで人々を遠く眺めている。

 揺るがない彼女は、誰に傷つけられることも損なわれることもなく、そこに在る。

 誰の傷にも、誰の罪にも、誰の苦しみにも汚されることなく。

 そして。
 物語のフィナーレである狂乱のアマゾンにて、少女は生の象徴のような熱帯植物となって踊り狂う。
 それまでの穏やかさを捨て、なにかに憑かれたかのように、大きくはじける。爆発する。

 毒だとか有限だとか刹那だとか。
 痛いモノをたしかに内包しながらも、生の饗宴は光を発する。

 タランテラの旅路の果てにあるもの。
 たどりついた生命の源で、物語はゼロに還る。メビウスの輪のように。己れの尻尾を喰らう蛇のように。

 「踊らされたモノ」「囚われていたモノ」がなんだったのか……ステキ壮一帆がのほほんと歌う最後の場面で、承前のふたりが同じ姿で銀橋に現れる。
 パイド・パイパー@キムと、少女@シナ。

 少女が持つのは、小さな虫かご。
 パイド・パイパーがそれを受け取り、のぞき込む。

 かごは、空っぽ。

 何故ならば。

 少女が持っていた虫かごこそが、「世界」そのものだから。

 タランテラの物語全部が、彼女のかごの中……彼女の箱庭の中の物語だった。
 承前のパイド・パイパーに導かれ、別世界を見せられていただけのこと。
 彼女は神、あるいは運命。超越したモノ。
 彼女にカタチはなく、意志もない。
 ただ、そこに「在る」モノ。
 今、「少女」の姿に見えているだけのモノ。「少女」の無邪気さに見えているだけのモノ。

 …………ああ、ステキ過ぎる、この世界観。

 そして、かごが空っぽであることの、意味。

 彼女の箱庭でしかなかった世界が、現実に、リンクした。

 虫かごの中にいたはずのタランテラはその檻を出、わたしたちの目の前で、トップスター「朝海ひかる」として踊ってくれているのだから!!

 あの悲しい物語をあとにして。
 檻から解き放たれて。

 美しく強いひとが、ここにいる。

 踊らされるとか囚われるとか。
 毒に侵され踊り続けるとか。
 そーゆーんぢゃなくて。

 自分の意志で、力で、輝く人が、ここにいる。

 自らの輝きで、踊るひとがいる。

 それまでの原色の悪夢のよーな世界が嘘のように、黒燕尾で端正にストイックに踊り出すコム姫の姿に、涙が出る。

 ここまで、たどりついた。
 あらゆる痛み、苦しみ、迷いや後悔、いろんな汚いもの混沌としたものを抜けて。
 ここまで、たどりついたんだね。

 うおおおお、コム姫、好きだああぁぁぁあ。

 と、大泣き。

 そっから先はほんと「サヨナラショー」だからさ、構成が。
 コム姫とまーちゃんのダンス、水くんとの「男の友情」ダンス……と続き、大階段パレードにつながっていくわけだから。

 ああもー、大好きだ『タランテラ!』。
 どっかの演出家みたいに、台詞でダラダラ解説説明あらすじ起承転結テーマ鑑賞方法観劇感想文の書き方まですべて語るよーなことをしないから、観客の感性にゆだねられて、とてつもなくたのしい。
 深みを探り、それゆえに自分自身とすら対峙できるだけの確かな構成と豊かな内容を持った作品だからさ。
 相手にとって不足なし、思う存分トリップできる。

 何度でも何度でも、繰り返し観たい。浸りたい。
 世界観、色彩、物語、言葉、音楽、どれも絶品だ。
 や、たしかに毒々しくも安っぽい色彩にあふれているんだけどね。タカラヅカのお約束無視で、手放しで「名作」とは言えないのかもしれないけどね。

 少女の箱庭の中で、罪の遊戯に耽りたいんだ。


 で。
 荻田浩一作『タランテラ!』において、いちばん泣ける場面は、どこですか?

 もちろん、全編泣きツボだらけなんだけどね。

 せつなく美しい「ラ・プラタ河」のシーンでは当然泣けるし、かなしく神聖で、おそろしくてたまらない「大西洋」ではダダ泣き必至、嗚咽こらえるのに苦労する。

 観るたびに感じることや気づくこと、考えることがちがってくるので、泣けるポイントもそのたびチガウ。
 体調次第によっては冒頭の「ビビデバビデブー」からスイッチ入って泣き出しちゃうし、コム姫の闘牛士姿の美しさに泣いてしまったりもする。
 後半の「サヨナラショー」は「さあ、泣いていいんですよ」てな演出がこれでもかとされているんで、泣きっぱなしだし。

 どこがいちばん、というのはチガウかもしれないが。
 少なくとも、「毎回そこで必ず」泣ける場面がある。少なくとも、「他のどこともチガウ」意味で泣ける場面がある。

 だからその場面こそが、いちばん泣ける場面だと思うんだ。

 どこかって?
 ソレはずばり。

 ステキ壮一帆がのほほんと歌う銀橋の場面ですよっ!!

 壮一帆最強!! てか、最高!!

 
 21日、22日は我が友ドリーさんが遠征して来ててね。『タランテラ!』初見の彼女は言うのですよ。

「壮くんの銀橋の場面って、なんでみんな笑わないで観てられるの? アレ、おかしいでしょ、どう考えても」

 おかしいともさ!
 爆笑しても変ぢゃないって!

 だって壮一帆だよ? 壮くんがものごっつー壮くん全開で壮一帆しているシーンだよ? おもしろいに決まってるぢゃないか。

 でも。

 その場面が、いちばんの泣きポイントなんだ。

 
 壮くんは、健在だ。
 いついかなるときも、壮一帆。
 健康で、自分ダイスキで、周囲の空気読まなくて、じつにたのしそーに爆走している。
 『堕天使の涙』でも「演技している」というよりは、「演技している俺」に酔っている感じがぷんぷん臭っていて実に美味しい。ナイスな陶酔ぶり(笑)。
 
 『Romance de Paris』のディディエ役では、あまりの芝居音痴ぶりに閉口したもんだが、『お笑いの果てに』『DAYTIME HUSTLER』『ベルサイユのばら』(全ツ)と正しく進化し、今のステキ芸風を確立した。

 彼はもう、大根とか芝居音痴とかゆーレベルではありません。

 アレは、「壮一帆」という芸風なのです。

 周囲から浮き上がっていて当然、ひとり陶酔していて当然、空気読めなくて当然。
 だってアレはジャンル「壮一帆」。
 いついかなるときも「自分ダイスキ!!」と全世界へ向かって叫び続ける強さと健康さを持った人。

 もう、ダイスキです。
 心奮えます。

 半端に大根だったときは苦手イメージがあったりもしたけれど、そんなところはすでに突き抜けました。
 GO! GO! 壮一帆! ハレルヤ壮一帆!!

 
 この原色の毒がぎらぎらした作品『タランテラ!』において。
 どれだけ、彼の存在が救いになっているか。

 孤独なタランテラの旅路を、彼と共に魂をきしませて、傷ついて傷ついて、ただかなしいつらいだけでなく、美しくたのしい意味も大いにあり、心を上へ下へすごい勢いでシェイクされて、ボロボロになっているときに。

 壮くんが、問答無用の輝きで出てくるの。

 「ねえわたし、生きていていいの?」ーーそんな、根元の疑問に、レーゾンデートルが揺らいでいるときに。
 他人を傷つけながらでしか生きられない、そんな人生になんの意味があるの? あたしなんか、いなくなった方がいい、あたしの犯してきた罪に、過去に、食われてしまえばいい……そんなトコまで追いつめられているときにだよ?

 壮くんが、にぱぱっと笑って出てくるのさ。

「俺ってすごい! 俺ってダイスキ!!」

 と。

 理屈じゃないの。
 どれだけなにもできなくても、浮いていよーと空気壊そうと、そんなこと関係ないの。
 彼はただ「自分であること」を肯定しているの。それだけなの。

 自己否定と自傷のあとに、爆弾みたいな自己肯定と自画自賛の光が輝く。

 その光が、ただもうまぶしくて。

 号泣。

 壮くんが好きだ。
 心から、好きだ。
 彼を思うと涙が止まらなくなる。

 あの魂の健康さに、救われる。

 壮くんが壮くんでいてくれて、よかった。
 ひとはひとりひとりちがい、誰が誰の代わりもできない。
 壮くんはこの光を発するために、壮くんなんだね。

 壮くんののほほん銀橋場面は、たのしい明るい場面だというだけでなく、壮くんの壮くんらしい陶酔ぶりに爆笑することもできる。『お笑いの果てに』テイストというか。『DAYTIME HUSTLER』で爆笑した人は、ここでも絶対思い切り笑えるはずだ。

 でもね、そのおかしさが、救いなの。
 この重すぎる作品では。

 壮一帆メイト(いつの間にそんなメイトがっ?!)のパクちゃんと、楽の朝、彼のすばらしさと銀橋場面のすばらしさについて、レストランのテーブルを叩くほどの勢いで語り合った。

「オギーってアレ、絶対わかって使ってますよね」
「壮一帆の正しい使い方だよ、ありゃ」


 壮くんに、救われる。
 壮くんが、壮くんであることに。

 ひとはそうやって、誰かを救うことができるんだ。

 だから、生きていこう。
 この、痛みに満ちた人生を。

 「いちばん泣ける場面」は、「壮くんの銀橋」。
 いつも必ずここで泣けるし、他の場面の涙とは、涙の意味がチガウ。
 あってよかったよ、この場面。
 ダイスキだ。

 
 ところでオギーってさ、実は壮くんのこと気に入ってるよね?
 少なくとも、水くんより。

 今回の水くんの扱い、ほんとひどいもんなあ……。
 や、ちゃんと「2番手」として大事にはされているけれど、「サラリーマン・オギー」として大切にしているだけで、「アーティスト・オギー」として、興味がないことが透けて見えるのがつらい。
 水くんのキャラクタは、「サヨナラショー」部分では素の「アツい水先輩」としてハートフルに使われているけれど、「タランテラ物語」部分では、コムちゃんを薄めただけの使い方しかしてない。中途半端。ぶっちゃけ、いなくてもいい。
 熱も光も、半端なんだよなあ。水くん……。今回の作品では、「水夏希」というキャラクタは不要だったんだよな。
 もちろん、水くんには別の魅力があり、他の作品でなら活かせることを知っているから、「今回は残念だ」と肩を落とすだけだけどさっ。

 半端に陰と色気と熱と光のある水先輩とちがい、壮くんはもー突き抜けて健康だ。この個性は愛でられるモノだろう。

 で、その壮くんは雪組でオギー作品に出演し、まーちゃんDSでオギー作品に出演し、そのまま花組異動でまたしてもオギー作品に出演する。

 どこまでオギーのお気に入りなの、壮一帆?! えりたん、おそろしい子!!(白目)

 やー、パクちゃんもブログで書いているけれど、壮くんって、実はオギー役者なのかもしれませんよお客さん!! どー思いますっ?!(笑)


 千秋楽の朝。
 コム担のパクちゃんを花の道で捕獲、タニ担……のはずが2日も前からムラに生息しているジュンタンと、楽の日にはなにかと会っている気がするハイディさんと、一緒に朝食。この雪組公演ではお世話になりっぱなしのコム担maさんも合流。
 そしてわたしは、あたりまえのよーに言ったさ。

「欲しいのは、カラダのつながりぢゃなくて、心のつながりなのよっ! カラダだけなんて萌えないわっ!!」

 えー。
 『堕天使の涙』の、ルシファー@コムと、ジャンP@水のことです。

「ブルーローズの場面でルシファーに誘惑されて椅子で眠り込んじゃったジャンPは、あのあと絶対ヤラレちゃったと思うけど、カラダだけなんて……」

 と、わたしが語っているそばから「ナイナイ」ってみんなそろって言うのよ! 最後まで聞きもしないで!!

 ヤラレちゃったよね、ジャンP。
 心はないまま、それでもとりあえず関係しちゃったから、一種の仲間意識っつーか「共犯者」感覚があるのよね? ジャンP女関係いろいろありそーだけど、オトコははぢめてだったんぢゃないかなっと。や、ルシファー様が男性かどうかまでわかりませんが。人間の姿では男だから、男カウントするとして。

 次の場面、ヒロインのオーディション会場でルシファーとジャンPは目で会話しているのよ。昨日今日ちょっと喋っただけの相手ぢゃないってアレは。
 あったりまえにアイコンタクトで話を進めていくふたりを見て、わたしはものすごーく素で、ああこいつら、ヤッちっゃたんだなー、と思ったよ?

 でもさでもさ、ソレだけだったし。
 ジャンPは物語の中枢からするっとはずされて、ソレっきり。

 カラダだけ? カラダだけなの、アンタたちのつながりって?!

 と、やきもきしましたが、なにか?

 とりあえずルシファーの館での夜、ジャンPくんの受攻を考えてみますと。
 ルシファー様が受をなさるはずがないという前提がまずあるので、おのずと答えは出ますな。
 ルシファー様は小柄で華奢で華麗な美青年で、そのうえファザコンで箱入りお嬢様で「人間なんて汚いっ、みんな大嫌いよ!!」とゆー思春期の女子みたいなヒステリー性質だったりするけれど、持ち味自体は骨太でオトコマエなんだよなー。
 華美な服装で美しい自分にうっとりしていそーだが、自分を女役だとはまったく考えないっていうか。
 君臨することが好き。
 えらそーにすることが好き。
 「馬鹿な人間たち」を見下ろして、嘲笑するのが好き。

 ……だからもちろん、ジャンPのこともさんざん翻弄したのでしょう。あら大変。

 ルシファー×ジャンP、は基本だと思うけれど。

 さらにここに、サリエル@かなめも絡んでくる、と勝手に思っている(笑)。

 サリエルくんは、襲い受ヨロシク。ルシファー様の手足となってください、ハイ。
 大変ですジャンP。

 てな薔薇館の夜、からはじまっておきながら。
 ソレだけ、てのはあんまりだよ。

 わたしが見たいのは『銀の狼』みたいな、「心はつながっているけれど、あえてカラダの関係はナシ」な話なのよ!!
 『堕天使の涙』はその反対ぢゃん。やーだー。

 
 薔薇館の夜にナニがあったかとか、カラダがどうのと腐女子的見解の話にすり替えてしまったけれど。

 ほんとのとこは、別の話。

 「カラダのつながり」というのは、男同士でこれみよがしなサービス的パ・ドゥ・ドゥ踊ってみたり、ラストシーンでいきなり「忘れないよ、おまえのダンス」と寒い台詞を言ってみたりすることを表しているのよ。
 表面的な、フィジカルな面での関係のこと。

 一緒に踊らなくても、わざとらしい台詞がなくても、心でつながっている関係ならば、どんなに萌えただろう。

 コム姫と水くんは、とても映りのいい男ふたりだったのに。
 『霧のミラノ』といい『ベルばら』といい、この『堕天使の涙』といい、コムと水をうまくつかうことができなかったのが、とてもくやしい。
 腐女子度が劣る、という点では、景子タンは、植爺や中村Aと同列だという事実。あうー。

 わたしもう若くないから、フィジカルだけではエロスを感じられないの。メンタルが萌えないと、エロぢゃない。

 
 とまあ、そんなこんなで。
 じつはジャンPくんには、別な相手で勝手に萌えてます。

 メンタル第一ですよ、もちろん。
 ただのこじつけ、妄想に過ぎなくても、まずは「心」ですハイ。

 ジャンPがアデーラ@いづるんとつきあっているのは、ママへのあてつけでしょう? ママがいやがる「混血の女」だからわざとつきあっている。
 アデーラは美人なうえ包容力もあるから、マザコンのジャンPには似合いの相手だと思うし、実際彼女の存在は彼にとって大きいと思うけれど、ジャンP自身がソレに気づいているかどうかはあやしいもんだ。なにしろジャンP、人間できてないから。
 アデーラからの愛は、「あってあたりまえ」「いくらでもいつでも、与えられるモノ」と胡座をかいていそうだ。
 そーゆー男はちょっと痛い目に遭えばいいと思う(笑)。
 最終的にアデーラに帰るかもしれないにしろ、現在「ママなんか嫌いだ! だって僕のこと嫌いなんだもの!」とうじうじ飲んだくれているジャンPに、ママ絡みの恋愛沙汰をどーんと突っ込みたい。

 ジャンPとジュスティーヌは似ていると思う。
 リリスとジャンP、リリスとジュスティーヌ、よりは、よっぽど。
 外見もそうだし、なにより性格が。
 弱くて自分本位。責任転嫁と自己憐憫、ひとつのことでいつまでもぐじぐじしていられるところ。……悪いところばかりそっくりだ(笑)。それは本人たちもわかっているんだろう。
 同類嫌悪、てのもあるんだろう、息子と母。

 だから、ハイ、ここでジュスティーヌにあこがれていた男の登場です。

 オーギュスト@ヲヅキ。
 キタキタキタ、キましたよ、ヲヅキですよっ。

 「あなたのオデットは今でも目に焼きついています」とか言ってジュスティーヌを口説いてしまえる男、オーギュスト。
 あったりまえに言ってるけどちょっと待て、ジュスティーヌのエトワール時代を知っているってことはヲヅキあんたいくつの役よ? ジャンPが生まれる数年前に、もう大人の女にあこがれられる年齢だったってこと?!

 そんなおっさん役が、なんの違和感もない新公学年のヲヅキ(笑)。

 やはりここは、ヲヅキでしょう。

 ジュスティーヌはあこがれのひと。彼女には権力者でもある旦那がいつもぴったりくっついているから、手は出せない。あきらめつつも遠く見守って生きていたらば。
 目の前にいるじゃん、ジュスティーヌの息子が。
 どこかしらあこがれのひとを思い出させる傲慢さとあぶなっかしさで。そして、無防備さで。

 ここは背徳の都、パリ。
 なんでもアリでしょ、ハイ。しかもオーギュスト、アーティストの端くれだし。なんでもアリでしょ、ハイ。

 自暴自棄に酔いつぶれて、介抱しようとしたら絡んでくる、そんなジャンP相手に実力行使、つーのは、ぜんぜんアリだよねええ?

 あとオーギュストは、かわいいオカマのシャルル@せしるとも、なんかあってほしいもんです。
 ジャンP、オーギュスト、シャルルの三角関係(笑)。

 ああ、そんな、本編とはなんの関係もないところに妄想の翼ははばたいています。

 ルシファー様とジャンPの間に、フレッドとアンソニーの間の愛情の半分でもあれば、よかっただけのことなのになああ。


「まーちゃんって、りらちゃん? なんで緑野さんがりらちゃんのお茶会に行くの? ぜんぜん好きじゃなかったじゃない!」
 ただいま新婚、しあわせいっぱいヅカからもすっかり足が遠のいたBe-Puちゃんが言う。
 観劇しないのにムラまで来てくれたのは、長年わたしが借りっぱなしにしていたニンテンドウ64回収のため。「緑野さんちまで車で取りに行くよ、いつがいい?」と聞かれ、「ごめん、休みの日は全部ムラにいるから、家にはいない。よかったらムラまで取りに来て」と答えのだわ、わたし。だってコムちゃんラストなんだもん。オギーショーなんだもん。
 それでBe-Puちゃんははるばるムラまでやって来、ごはんだけ一緒したのだわ。もう公演は観てはくれないんだもの。

 Be-Puちゃんはずっと、まーちゃんのことを好きだった。ものすごーくファンってほどでもないが、ダンサー好きなので、少なくともわたしよりは好きだった。

「あれほどいつもいつも、あたしがりらちゃんかわいいって言っても、緑野さん『ふーん』って言うだけだったじゃない」

 ごめんわたし、芝居下手な人、興味なくて。

「……たしかにりらちゃんは、芝居は相当アレだったけど」

 花担のBe-Puちゃんのつきあいで、当時から花組公演はなんだかんだいって観ていた。本公演はもともとどの組も1回は観るけど、バウまで観ていたのはBe-Puちゃん絡みが多い。
 若くして抜擢されていたまーちゃんの舞台も、なんやかんや観ていたさ。彼女がヒロインをつとめる公演だって、複数観てきたさ。
 だけどなんの感情もわかなかった。
 嫌いですらなかった。目に入らないんだもの。

 だから彼女が雪組コムちゃんのところへ政略結婚でやってくる、と知ったときも「ふーん」だった。ほんとーに興味がなかったんだ。
 トップお披露目の『春麗がどーたら』も、いてもいなくてもいい役どころだったので、さらに印象に残らず。ショーではきれいにくるくる踊っていたけれど、もともとショーってみんないろんな人と組むじゃん? コム姫がまーちゃんと組んで踊っていたって「ふーん」でしかない。

 それが今では、まーちゃんのお茶会に行くほどに、大好きになった。

 わたしはお茶会ってもんに、ほとんど行かない。ジェンヌは架空の存在で、舞台の上だけで愛でるモノというスタンスだからだ。アニメやゲームの二次元キャラに萌えているのと同じ感覚。生身の人間だとは思っていない。だから入り出やお茶会には基本興味がない。
 それでも行くからには、わたし的にはいくつものハードルを越えた結果となる。

 花組時代、下級生時代のまーちゃんは、ほんとに芝居がアレだった。せっかくおいしい役をもらっても、他の人に食われて印象をなくして終わっていた。せっかくきれいなのに、地味であか抜けない女の子。そーゆー印象だった。

 それが、雪組でトップスターになって。
 彼女はどんどん変わっていった。

 立場が人を変える、ということはある。だがそれは、立場によって自分を変えることができる柔軟性あってのことだ。

 まーちゃんは、忠実に「タカラヅカの娘役」なのだろう。
 立場によって、相手によって自分を変える。
 下級生時代は技術が追いついていなかったから、立場や相手に追いつくことができずに自爆していたけれど、雪組に来るころには立派にコントロールできるようになっていた。

 そして朝海ひかるという、ちょっと独特なトップスターの相手役として、舞風りらもまた独特な味を持つトップスターとなる。

 追従を許さないほど美しく軽やかなデュエットダンスを踊ることができるコンビでありながら、決してラヴラヴもベタベタもしていない。硬質かつ透明な距離感。
 まーちゃん単体ならば愛にあふれたキャラクタだが、コムちゃんがクールでデレデレしない、娘役への愛情をあまり外へ出さない人であるためまーちゃんもベタベタしないキャラとなった。

 際立つのは、清涼な光。

 その光に瞠目したのは『スサノオ』のとき。
 人の心そのもののような混沌の世界に、まっすぐに立つ薄い身体。本人に色はなく、自ら発光するでなく、だがたしかにこの世の光を集めて輝く少女。
 闇の中で、彼女だけが光を持っている。

 少年以上女未満のような、あざやかな清さを持つ少女の姿は、物語を光ある方へ導いた。

 もちろんソレは、コムちゃんの、傷つくために傷ついているような凶暴で繊細な「少年」性あってのこと。スサノオ@コムだからこそ、イナダヒメ@まーちゃんは正しく存在した。

 次に彼女の持つ光に注目したのは、『銀の狼』。
 心に闇を持つ男と女が、その闇ゆえに共に歩く物語。凛とした冷たさと静かさ。まぶしいわけではない、だがたしかな光がそこにある。まっすぐにのびている。

 少女ではない大人の女の持つ強さと深さが、絶望をチガウ形へと導いた。

 もちろんソレは、コムちゃんの、他を寄せ付けない硬質な強さと孤独感あってのこと。シルバ@コムだからこそ、ミレイユ@まーちゃんは正しく存在した。

 そして、今。

 『堕天使の涙』と『タランテラ!』において、まーちゃんの聖なる輝きは集大成を迎えている。

 『堕天使の涙』のまーちゃんの、すばらしいこと。
 美しい衣装もしなやかな身のこなしも禁じられた、わずかばかりの出番で、作品の意味を決めるのはまーちゃんだ。
 彼女の浄さ、光があってこその作品だ。
 途中からストーリーが横滑りしてわけわかんなくなるこの物語で、それでも物語が終わることができたのは、まーちゃんの力だ。

 圧倒的な光が、世界を満たす。

 光量に比例しない心地よい温度。空気に溶ける感覚。大気となり、重力を離れ、自在に舞う錯覚。

 聖なるもの、を表現する力。

 それを、見せてくれた。
 あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
 彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、天使となって舞い降りた。

 と、これだけでもすげーっつーに。
 つづく『タランテラ!』では。

 聖なるモノゆえのおそろしさを、見せつけた。

 美しいモノ、清いモノが、反面どれだけおそろしいか。
 汚れたモノにとって、闇にとって、天からの光がどれほど惨く容赦ないか。
 彼女が「天使」であるがゆえの「痛さ」を解放した。

 あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
 彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、裁く者となって舞い降りた。

 正しい者、聖なる者、清浄なる者の持つ剣。
 女神は光の剣を抜き放ち、闇を斬り捨てる。

 際立つのは、清涼な光。

長くなったんで、続く。


まーちゃん語り、続き。

 際立つのは、清涼な光。

 その光に感服して、わたしは「舞風りら」のナマの声を聞きに、お茶会へ行ったんだ。

 maさんとハイディさん夫妻と同席。
 最後のお茶会つーことで、内容は「舞風りらの歴史を振り返る」ものとなっていた。

 初舞台から思い出をたどるトークは、わたしの記憶を確認するものでもあった。
 ああそうだ、たしかにわたし、その舞台観ているわ。でも、とくになんとも思わなかった。当時のまーちゃんには興味がなかった。

 司会の質問に答える形で思い出を語るまーちゃんは、年末の「カウントダウン」イベントで見たときよりしっかりとした、大人の女性だった。や、なんかこう、まーちゃんつーと天然さんのイメージ強くて。「カウントダウン」のときだって、「数を後ろから数えられない(カウントダウンができない)」ので練習をしたとか、でもやっぱりうまく数えられなかったとかが、あまりに印象強くてな(笑)。

 具体的な内容については、なにもおぼえていない。や、わたし、客観的記録はまったく取れない人間ですから。
 あるのは、まーちゃんを見た「わたしの」感じたことのみ。

 ええ、もう、もう、かわいすぎるよ!!

 なんなの、あの細さ、華奢さ。
 細いだけぢゃないのよ、存在自体が軽やかなの。ありえねー透明感。
 笑顔がこぼれてこぼれて、なにかきれいな音がしている。

 人間ぢゃない……マジで天使ぢゃないのか、このひと。

 まーちゃんから参加者ひとりひとりに、紅茶のプレゼント(ティーバッグがかわいく包装してあるもの)があったんだが、ちゃんと目を見てにっこり微笑まれて一瞬放心しちゃったよあたしゃ。
 どどどどーしよー、天使の目にわたしが映ってしまったわっ。天使が汚れる……とゆーよりは、汚れきったわたしが「アチアチアチ」と光に焼かれて焦げている感じ。天使様はわたし程度のゴミを見たって、汚れるはずがないものっ。

 なんかもう、おそれおおくてなにも言えない、そばにも寄れないっす。
 だけど神々しいというよりは、親しみやすいやわらかさを持っていて。
 女神ではなく天使なんだなあ。
 裁く者ではなくて、癒す者なんだなあ。と、しみじみ。

 こんなすてきな女性だからこそ、舞台であれほどの光を放てるんだなと、遠くぼーっと考えた。

 まーちゃんトークの間、わたしはひとりでボロボロ泣いてたんですが、まあ気にしないでやってくれ。良くも悪くも感情が揺れると泣いてしまうので。べつにまーちゃん、かなしい話なんかせずに、やさしい元気なお話していただけなのになー。

 長い間わたしは、「舞風りら」という舞台人を好きではなかった。好き嫌い以前に、興味もなかった。
 舞台にいることも、ときにはヒロインであることもわかっていたが、なにも感じずスルーしていた。
 わたしがなにも感じなかったいくつもの舞台の、「当時の思い出」をまーちゃんが語る。

 たしかに、この人なんだ。
 あの舞台も、この舞台も、この人だったんだ。

 残念ながら、記憶はない。興味なくスルーしていたわたしには、彼女がどんなふうに演じていたか踊っていたか、語られても思い出せない。

 だからといって、残念ではないのだ。
 や、もちろん「もっとちゃんと見て、おぼえていればいいのに」とは思っているよ。それとは別にな。

 今、好きであることが、うれしいんだ。

 友だちが「りらちゃんかわいい」と横でずっと言っていたのに、それでもぜんぜん記憶に残っていなかった。
 あれほどなんの興味もなかった。
 そんな人のことを、今、好きであることがうれしい。

 ひとはどこからでも、好きになれるんだ。

 どこからでもスタート地点になるんだ。

 長年なんとも思ってなかったから、これからもそうだ、なんてことはないんだ。
 いつ、どこで開眼してダイスキになるか、誰にもわからないんだ。

 そのことが、うれしい。

 なんだか人生、宝の地図みたいだ。

 今現在なんとも思っていない人のことも、これから突然好きになるかもしれない。
 ヘレン・ケラーの「ウォーター」みたいに、世界が突然変わるかも。

 そう思えることがうれしい。
 出会えることがうれしい。

 今わたし、舞台人「舞風りら」が好き。その力量を認め、尊敬している。

「なんで緑野さんがりらちゃんのお茶会に行くの? ぜんぜん好きじゃなかったじゃない!」
 長いつきあいのBe-Puちゃんは、そう言うけれど。

 好きじゃなかった。
 でも、好きになった。

 好きな人が増えること、それがうれしい。
 わくわくする。

 トシを取り、衰えるだけの人生は虚しいけれど、それだけぢゃないって思えるよ。

 いつか、好きになる未来がある。
 今は思いもしないなにか。
 そのことに、わくわくしていられる。

 
 ああ、まーちゃん好きだー。
 天使だと思える人に、会えてよかった。

 ダイスキであることが、うれしい。


 はじめて、まともに入り待ちしたんだ。
 雪組公演『堕天使の涙』『タランテラ!』千秋楽の日。
 や、いつもなら当日券抽選に並んでるから、入り待ちどころぢゃないんだもの。
 でも今回、maさんになにからなにまでお世話になり、千秋楽が観られることになった。前もって「観ることができる」とわかっている安心感。これは、「実際に観られること」と同じくらいありがたいことだ。
 楽が近づくにつれ、わたしは「『タランテラ!』を、コムまーを、もう観られなくなっちゃう」という焦燥感でくるくる空回っていたけれど、「最後を見届けられる」という事実にすがって、なんとか平静を保っていられた。

 だからこその、入り待ち。
 観られるかどうかわからない、心の余裕も時間の余裕もない状態では、決してできなかった。

 今まででいちばん早く、ムラへ行った。
 行けば誰かに会えるだろう、と、特に約束をするでなし、ひとりで。

 なんかねえ、すげーいい場所取れてしまって。
 周り、カメラだらけ。てゆーか、カメラ持ってないのわたしだけ?
 レンズだらけ、のばされた腕だらけの中でぽつんと、ナマ目で眺めるだけのわたし。小心なんでどきどき。
 純粋に、最後の楽屋入りを見たくて、拍手で送りたくて、早朝からそこにいたんだ。

 下級生から順に楽屋へ入っていく退団者たちに、いっぱい拍手をして。
 専科の高さんにも拍手をして。

 ねえねえ、わたしあいようこおねえさま、ナマで見たのはじめてだったんだけど。
 かわいいねっ。
 舞台姿が嘘のように、なんかとてもかわいい人でした。ええ? きれいだし、細いぞ?! ……舞台ってこわい、あんな人でも、アレでアレな姿に映るんだ……。

 有沙姉さんは、大人になっちゃったんだなあ、と思った。
 有沙さんはちょっと個人的に思い入れというか、こっちが一方的に「知っている」人だったのね。
 ただ、その「知っている」有沙さんは、10年くらい昔の姿で。
 入り出待ちをしないわたしは、舞台の上の有沙さんしか知らない。舞台では大人の女ってゆーかすでにマダム役をする人になっていたけれど、舞台と素は別だから。
 わたしの記憶の中の有沙さんは、かわいい小柄な女の子で、目の前にいる大人の女性とは、ずいぶん印象がちがって見えて、感慨深かった。

 ゆっさんがファンの人たちに「なおきさん」と呼ばれていることに、なんかおどろいてみたり……。そうか、なおきさんか……そりゃそーだよな、悠なお輝だもんな……。
 ナマのゆっさんを見たのは、何年ぶりだろう。ゆっさんもカオ変わったよね、この10年。

 ゆっさんと有沙さんが卒業して、雪組77期生はいなくなっちゃうんだ。
 や、その、わたしが一方的に愛着を持っていたのが10年くらい前の「雪組77期生」でね。だからトウコやケロは含まれているが、コムはごめん、入ってない。
 時代が変わること、区切りがきていることを、ひしひしと感じた。

 雪組以外でも、楽屋入りするオサ様やかしちゃんを見られてよろこんだ。きっと、楽屋内でコムちゃんに挨拶とかするんだろうな、と思った。
 うん、そんときは(笑)。

 妖精のようなまーちゃんが楽屋入りした、少しあとに。

 雪組生たちがわらわらと楽屋口から出てきた。
 下級生たちは私服の上に雪組ジャージ。上級生は緑色の雪組はっぴ。
 緑のハチマキもりりしく、大騒ぎ。

 さっき入っていったばかりのまーちゃんも、はっぴ姿で出てきた。
 手には謎の物体。
 えーと、魔法少女のバトン? 用途不明。祭りを一部始終眺めたあとでも、不明。ただわかることは、杖状の先端に、ペガちゃんがついているということ。

 まーちゃんと一緒にいるのは、我らが水先輩。
 オトコマエな彼が持つのは、拡声器。

 なんの飾りも洒落もない、どっからみても拡声器。
 夢の世界の住人が持つ拡声器……。

 さて、魔女っこペガちゃん付きバトンを持ったまーちゃんと、拡声器を握った水くんは、ふたりでなにやら打ち合わせ。
 サービスいいな、花の道に顔を向けて相談してくれるよ。

 いやあ、このときの水くんがねぇえ。真剣そのもので。
 そして、隣のまーちゃんが水の話聞いてないよな? ってくらい、にこにこの笑顔で。
 ふたりのコントラストがすごい(笑)。

 まーちゃんはもー、かわいすぎ。
 落ち着きのない小動物みたい。動作のひとつひとつが愛らしくてたまらん。

 水先輩は、仕切ってます。引率の先生のようです。下級生たちの立ち位置調整したり、指示してます。また下級生たちが素直に言うこときいて、動いてるの。どっちもかわいい。

 なにかと忙しい水先輩。
 自然な動作ではっぴをめくり、尻ポケットから携帯を取り出し、話し出した。
 尻ポケットに携帯かよ!!
 ふつー女の子は尻ポケットに携帯入れませんわな。男子です、そーゆーことするのは。
 動作が自然で、彼がナチュラルに男子であることがわかり、大変眼福な瞬間でした。

「はい。……はい、わかりました」
 てな声が、とぎれとぎれに聞こえたよーな、仕草からそう聞こえたように思えたのか。わりとでかい声で電話してたよな、水くん。

 電話を尻ポケットに戻した彼は、やおら拡声器を握り直すと。

「コムさん、来られますー!!」

 てなことを叫ぶ。
 おおっ、つーと今の電話、コムちゃん相手かよー!!
 なんか萌え(笑)。

 宣言のあとすぐに、コム姫登場。車が楽屋口前に停まり、コムちゃんが降りてくる。
 こちらは悠々たるもの。

 わたしはコムちゃん登場の瞬間の、水くんを見ていた。

 水先輩は、とにかく真剣な顔で。
 終始謎の中腰なんだけど、高校球児のような真剣さなのね。

 なのに。
 コムちゃんが現れた瞬間、ぱあぁあっと笑ったの。

 水くん、真剣なときと笑ったときのギャップ激しいから。でかい口がドナルドダックのよーに開くから。

 うわ、笑った。
 ずーーっとこわいカオしてたのに。

 黙っているとオトコマエだけど、全開で笑うとすげーファニーフェイス。
 そのファニー全開の、ピエロ人形みたいな笑顔。

 コムちゃん見るなり、笑ったよおお。すっげーうれしそうに。

 そっかあ……ほんとコムちゃんのこと、好きなんだぁぁ……。

 なんかもう、胸が熱くなりますよ。
 そして水くん、あんなにうれしそーに笑っておいて、またカオ引き締めるのね。「きりっ」てカオになって、仕切りはじめるの。
 カオに、「使・命・感」って書いてある(笑)。

 愛しい人だ、水夏希。

 まーちゃんとふたりして謎の中腰でコムちゃんを誘導。わたしの視界からいったん消える。

 なんで中腰なの?
 テレビカメラに映っちゃいけないってこと? いやいや、誰もアナタたちにそんなこと言ってませんから!! 一般人スタッフぢゃなくて、娘役トップスター(しかも退団者)と2番手スター(しかも次期トップスター)なんだから!!

 お着替えをしたコムちゃんが、謎の中腰まー&水に先導されてもどってきてからはもー、無礼講? 太鼓と替え歌、クラッカー。
 てゆーか、いつの間にかしちゃんいるの?!

 わたしが水くん注目しているうちに、いつの間にかあたりまえにまざっている私服の人がいます……。
 楽屋で挨拶、だけだと思っていた……だから、雪組勢揃いの「ここ」に、かしちゃんがいないことが寂しかった……のに、なんだよーっ、あたしが気づいてなかっただけで、いたのかよぅ。涙。

 コムちゃんの拡声器を使っての挨拶は、あまり聞こえませんでした。音割れちゃって。そして、柱と雪組上級生が視界を遮るのでコムちゃんがあまり見えない。
 馬鹿騒ぎしている雪組上級生がわーわー騒いでいるのを眺める。みんな団子になって騒ぐ。
 騒ぐ。騒ぐ。

 だけど。

 撤収の際には、咄嗟にゴミ拾い。

 すげー(笑)。
 みんな一斉にかがんでゴミ拾い出したっ。
 そしてやはり、わーわー騒ぎながら、コム姫にくっついて楽屋の中へ。ジャージ下級生たちがそれに続く。

 予行演習でもしたのか? てな揃い方。……したのかもな(笑)。

 ちらちらと見える、コム姫の笑顔。爆笑してるよ、クールビューティ様が。
 たのしそうに。

 祭りだもんな。
 祭りなんだ。

 
 わたしの77期生はすっかり大人になっちゃったけど。
 ここはやっぱりワンダーランドで、時の流れとはべつのところにあるんだなあ。
 学園祭ムード満載。
 タカラヅカのいいところは、永遠の学園祭前夜であることだ。
 祭りの前。夢の直前。
 ずっと、ずっと。

 
 そして。

 次にわたしがここで入り待ちをするときは、宙組千秋楽の日なんだと思って、ひそかにヘコんだ。

 
 …………ところで。

 なんかすっげーあったりまえにまちかめぐるがいたんだけど。

 わたし、ひとりだったから誰にも言えなくて。周囲の人も誰もなにも言わなくて。かしちゃんのことはみんな口々に言ってたのに。話題にしていたのに。

 アレ、まちかだよね? ふつーに楽屋入っていって、そのあとはビデオカメラ持って入り口にいたぞ?!

 入り待ちのあと友だちと合流して報告したけど、誰も見ていないっていうし!!
 またしても、わたしだけまちか?!!


 コムまーのサヨナラショーがどんなものになるのか、どうしてもこの目で見届けたかった。

 荻田浩一が、「タカラヅカの朝海ひかる」のラストステージとして書き下ろすものが、どーゆーものなのかを、確認したかったんだ。

 前楽のとき、サヨナラショースタートと共に緞帳にコム姫のサインがアニメーションで描かれ、しかも音楽が『ベルサイユのばら』オープニングだったもんで、そのベッタベタ感にびっくらこいたのだけど。

 楽を観て納得。
 千秋楽は本編とサヨナラショーの間に組長による「退団者紹介」が入る。
 その紹介のときに、ひとりひとりに「おとめ」の写真とサインが緞帳に映し出されたの。
 ほほお、これは親切な演出だ。映像好きなオギーらしい。
 入団当初のものから最近のものまで、いわば、卒業アルバムだ。
 卒業していく人たちを見送り、思い出を振り返りながら前途を祝うのにぴったりだ。

 その流れでなら、サヨナラショーの冒頭にサインが描かれても変じゃない。
 前楽は退団者紹介がなかったから、いきなりサインでびっくりした。

 緞帳が上がり、大階段にひとり立つオスカル様@コム。や、コスプレはナシ。
 終始彼は「朝海ひかる」のままだった。
 ワタさんがラダメスになったのとは対照的に。

 なつかしい衣装は使ってもなりきることはせず、役を表す端的な記号を使わず、匂わすのみにとどめ、「朝海ひかる」のままであること。
 それが、このショーのこだわりであったと思う。

 オスカル様をはじめ、コムまーの単体orペアでの派手目の演目が前半に集中する。
 大階段には、当時の映像。
 すげえ。
 大階段ってスクリーンとして使えるの?! はじめて見た、そんな使い方。
 まーちゃんも登場し、ふつーに、さも「ふつーのトップコンビですが、なにか?」というような、きれいでキャッチーなデュエットダンスを披露。
 1曲や1場面をそのまま切り張りするのではなく、いったんばらばらにして細かく再構成された凝った作り。オギーお得意のパッチワーク手法。
 『タランテラ!』がトバしすぎたから、サヨナラショーはふつうに無難にまとめるつもりかしら、と、そのときは思った。
 他退団者たちの見せ場を作り、組子全員で元気に「HeyHeyワンダーランド!!」と歌い踊ってみたりな。あー、ふつーじゃん、と。

 甘かった。

 後半は、芝居パートに突入。

 『睡れる月』の曲を歌いながら、ひとり銀橋を渡るコム姫。本舞台では、同作品で悪役だったゆっさんが、虚空に向かって弓を引く。
 なにかの象徴のように。

 コム姫が本舞台に戻るころに、まーちゃんが中央にせり上がり。ナディアだった。
 そしてコム姫とまーちゃん、ふたりで『Romance de Paris』の曲をデュエット。
 ……なんだけど。

 背中合わせ。

 ふたりは、触れあわないの。
 大きな盆の対角線上に立ち、背中を向けたままで歌う。

 たしかに別れの歌ではあるんだが……だが、接触ナシってそんな馬鹿な。
 『Romance de Paris』で別れたふたりのその後、遠く離れた地で愛を歌っている……にしては、向かい合っていないのはおかしい。
 遠く離れたまま、背中を向けたまま回る盆に、背筋をぞくぞくしたものを這い上がってくる。

 ナディアは去り、コム姫のみが残る。
 群衆が行き交い、それぞれの人生が行き交う。そのなかに、コム姫。

 高まるのは、孤独感。

 そしてそのまま『銀の狼』行きます。

 孤独がひりつくような、あの物語に。
 激しい渇きと狂気と絶望。
 不安にゆがむ世界。

 そこに再度登場する、まーちゃん。その姿は、ミレイユ。

 ここでもコムちゃんとまーちゃんは、触れあわない。
 ふたりはそれぞれの孤独のなかにいる。

 えーと?
 芝居の再現でしょ、コレ。
 それも、そのまんまぢゃなく、「イメージ再現」ってやつ。

 まーちゃんは役が想像できる姿になるけれど、コムちゃんは「朝海ひかる」のまま。

 何故、コムちゃんはコムちゃんのままなの? まーちゃんだけが役になるの?

 何故、触れあわないの? 手を取り、視線を合わせ、愛を歌わないの?

 背筋を這い上がるもの。
 ぞくぞくと、確実に、あがってくる。

 コムは先に舞台から消え、ミレイユひとりが残される。
 彼女は背を向け、静かに歩み去っていく。

「めをとじて みみをふさぎ やみのなかに かくれて
 ただおちるだけ 堕チルダケ ただ」


 『アルバトロス、南へ』の1幕ラストを飾った、あのフレーズが響く。

 ライトの消えた舞台を、ミレイユが奥へと進む。
 薄い背中。
 ひとり。

 闇の中へ。

 虚空の中へ。

 孤独の中へ。

 絶望の中へ。

 そして。

 次の瞬間、歓びの歌が響く。

 『Joyful!』。
 暗闇の中に、ハマコの美声が響き渡る。や、コーラスなんだけど、ハマコの声だけびんびんにわかる(笑)。

 振り返ったミレイユは、もうミレイユじゃない。まーちゃんだ。こぼれんばかりの笑顔の。

 絶望のあとに、生きる歓びかよ!!!

 落としたくせに。
 もうこれ以上なく、立ち上がれないくらい、叩き落としたくせに。
 なのに、「Joyful」かよ、「Freude」かよ。
 信じられない。

 昔、平井堅が英語でベートーヴェンの『第九』を歌った。
 歓喜の歌、『第九』。
 歓喜の叫び「Freude!!」を、彼は「Joyful Joyful!!」と歌った。

 「Joyful」ってのは、そーゆー意味。
 歓び。希望。光。

 だーだーに号泣しました。
 や、だって。
 あそこまで突き落とされたあとに、コレだよ?! 魂振り回され過ぎて、おかしくなりそうだ。

 徹底している。まーちゃんとコムちゃんはすれ違いに登場し、コムちゃんを中心とした全員ラインダンス@90周年風に、まーちゃんはいないの。
 仲間たちと一緒になって希望と愛を歌うコム姫は「トップスター」であるけれど、横に「娘役トップスター」が、「トップ人生の伴侶」がいない。

 そして、「おお大和よ」と世界に対する呼びかけをして、みんなに見守られながらセリ下がっていく。
 彼がたしかに「世界の中心」であることを位置づけて。

 コムとすれ違う形で、イナダヒメ@まーちゃん登場。
 「泣くのはやめた」と、別れを乗り越える歌を歌う。
 清々しい美しさ。

 そして、またしてもまーちゃんとすれ違う形でコム姫登場。
 男の美学ともいうべきソフト帽とロングコート姿。

 人を頼ることなく、かわりに縛ることもなく生きる、ひとりの男。

 しんとした美しさ。
 ひとりで立つ美しさ。

 ここで、幕が下りる。

 
 …………えええっ?!

 サヨナラショーの最後って、組子全員が登場して、にぎやかに思い出の曲を歌い踊って幕、ぢゃないのおおお?!

 てゆーか、コム姫とまーちゃん、最後まで絡まなかったんですけどっ?!!

 呆然。

 なんなの、コレ。

 『アルバトロス、南へ』と同じ手法? 前半でふつーのぬるいショーみたいなふりして目くらましして、後半でやりたいよーにやるっていう?

 コム姫は終始「朝海ひかる」だった。
 まーちゃんは、そのたび役になった。

 そしてふたりは、すれ違い続けた。

 生きている次元がチガウ。
 存在する世界がチガウ。
 愛し合っているのかもしれないが。必要としあっているのかもしれないが。
 欠けたパーツのように、ぴたりと符合するのかもしれないが。

 彼らの手が、重なることはないんだ。

 
 ぞくぞくと、背筋に走る戦慄。
 これが、コムまーってことか、オギー。

 地上最後の男と女。
 毒蜘蛛と蝶。
 決して相容れることのない存在。
 彼らの意志であるとかないとかではなく。そんな、生やさしいモノではなく。

 絶望と希望。
 闇と光。
 邪と聖。

 すごいものを、観た。
 『アルバトロス、南へ』『タランテラ!』、そしてこのサヨナラショー。
 同じテーマで貫かれた壮大な物語。
 

 タカラヅカ史上でも、稀に見る個性のトップコンビが、退団する。

 ただ、刮目し続けるのみ。


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