舞台挨拶と芝居の台詞って、どうチガウんだろ?
 挨拶だってフリートークじゃない、あらかじめ台本作ってあって、それを喋っているだけでしょう? 芝居の台詞と同じじゃん?

 なのになんで、芝居の台詞は噛まずに言えて、挨拶はカミカミになるんだろう?
 純粋に、不思議だ。

 不思議だけど、そーゆーもんなんだ、と、改めて思いました。
 『インフィニティ』の、まっつ挨拶にて。

 挨拶って、噛むもんなんだ……。
 まっつでも噛むんだから、噛むものなんだわ。

 まっつを基準に世の中を考える(笑)。

 いやしかし、まっつは今まで別に、挨拶を噛む人ではなかった。
 つってもまあ、挨拶する機会なんてほとんどなかったわけだけど。
 新人公演や、巴里祭を生で観てきてますが、別に彼はとりたてて噛んでなかった。ふつーに挨拶していた。
 「泣きながら挨拶」が「ふつー」になっている新公でも、他の人が感極まって泣きながら挨拶している図も多々見かける「初めてのDS千秋楽」でも、まつださんは通常営業な挨拶しかしていなかった。
 泣かないし、噛まないし。
 はじめてのバウ主演の初日だって、泣かないし、噛まなかった。

 そつがないというか、プロというか、大人というか。
 よその劇団ならそれが当たり前なんだろうけど、タカラヅカにおいてはちょっと物足りない(笑)くらい、「実力派」「クール」の呼び名に違わぬ人だった。

 そんな人が、公演途中から、噛みだした(笑)。

 初日にあんなに流暢に挨拶していた人が……!
 一旦噛み出すと癖になるのか、続けて噛む。

 なんというか。

 ほっとした。

 ほんとに今まで、「台本通りの挨拶」的な人だったからなああ。
 挨拶までが舞台の一貫、台詞の延長として、そつない面白味のない言葉を連ねているだけだったから。
 顕著な例が『宝塚巴里祭2009』ですよ、わたし全公演観劇しましたが、まっつ個人の素の言葉というより、「言うのが当たり前のことだけを連ねた挨拶」でしたよ。もちろん、「お約束だから口にしているだけで心にもない」挨拶ではなく、本人の心にも沿っているのだろーけど、端正だけどそつなさ過ぎて、新たな発見はないという。
 台詞のような挨拶しか、がんとしてしないところに本人らしさを見て、ファンがによによしていたくらい(笑)、隙を見せない人だった。

 おかげさまで、挨拶にはなんの期待もしていない。
 なにかおもしろいことを言ってくれるとか、それこそ素の顔で泣き出してくれるとか(笑)。
 アドリブでウケを取ろうをしないのと同じで、挨拶も決まり切った定例句だけでまとめて終了だろうと。
 ウケを狙わない、そんなところで客席におもねらない。舞台の質だけで勝負する。……ついでに、不要な労力も使わないエコロジスト(笑)、てなイメージ。

 だったので。
 ごく当たり前のことしか言う気がなさそうなのが見えるところに、「噛み」が発生し、オイシイことに。

 彼が語る言葉は、ごく当たり前のこと。
 これまでのバウホール挨拶で主演の人が5万回くり返してきたこと。ウケも狙わない、美辞麗句で飾らない、とてもシンプルにスタンダードなこと。
 それを語るはずが、不用意に、噛んでしまう。

 スタンダードを語るスタンダードなまっつ、通常営業のまっつ、が、噛んでしまうことによって、「他では見られないまっつ」になる。
 失敗に対する反応、フォローの仕方に、本人のキャラが出る。
 はい、自己ツッコミ入ります。
 ひとり漫才状態。さすがまっつ……噛むとセルフツッコミ入れちゃうんだー。
 笑いだすヒメに振り返ってツッコミ入れたり、すぱっ、すぱっと。
 圧倒的に舞台を勤め上げた主演さんが、生身の人間としてのかわいらしさを見せる……わけですよ、これをオイシイと言わずにどうしろと(笑)。

 また、まっつが挨拶を噛むことによって、共演している下級生たちの反応も変わってくる。
 最初のうちは「まっつさんは挨拶も完璧にして当たり前」って感じで、そこに意識を置いてなかった。でも、まっつがカミカミぶりを披露するようになってからは、下級生たちもそれぞれ「個」を見せて、まっつに注目する。
 一緒になってうなずいているきんぐや、かーちゃんみたいな目で見守っているコマはもちろんのこと、両翼端にいる超下級生たちまでもが、すごいオーラを飛ばしてまっつを見守っている。

 あー、いいカンパニーだ。
 共演者たちの信頼、愛情が見える。
 そう思って、胸が熱くなった。

 そして。

 そんな状態が続いていた、ある日。


 ハンパに続く(笑)。
 『インフィニティ』の各公演最後の挨拶にて、何故かまっつがカミカミになってしまった話、続き。

 初日からしばらくは、淀みなく流暢に締めの挨拶をしていたまっつ。
 それが公演が進むにつれ、噛み出すようになった。
 本人は噛まないようにと大真面目だし、下級生たちもそれぞれまっつを見守るようになっていた。

 そんなある日。

 いつものよーにまっつが噛んだ。が、本人はそのまま流して話を続けようとした。

 そのとき。

「イエ~~イ!!(笑)」の声と共に、下級生たちがジャンピングウェーブをはじめた!! 上手から下手へ波が起こる。

 や、マジ突然。
 観客もびっくり。

「今のセーフじゃないのー?」
 とか、まっつは後ろ振り返って言いつのってるし。

 えー、説明ナシです。

 たとえば前日に「今度噛んだらみんなでウェーブするって言われてるんです」とか説明があったわけじゃないっす。
 たまたまその回を観た人に「この公演は、そんなルールなの?」って聞かれたけど、いやいやいや、んなルールないです、知らないです(笑)。それとも、出待ちとかしているファンの人たちなら、本人から聞いたりしてたのかしら。
 少なくとも観客には一切告知なし、その上、突然やっておいて、それでも説明なし。

 いやもお、かわいいったらナイ。

 ルール告知がなかっただけに、イベントとして企画したのではなく、ほんとに仲間たちがわいわいやった流れでできあったことなんだろうなと思える。まっつ自身、下級生たちがほんとにやるとは思ってなかったんじゃあ?
 だって、ウェーブの先端切るのはコマやヒメたち上級生ではなく、端っこの最下級生っすよ? 上級生の意を汲んでの行動なのは当然としても、組内2番目の学年のこの公演の座長にツッコミ入れるのが最下級生ってとこで、このカンパニーの盛り上がりが、わかる。
 すごーく学年の離れた下級生がツッコミ入れられるくらい、みんなが「仲間」なんだ。

 わたしはまっつがどんな人なのか知らないし、他の下級生たちにしろまったくわかってないんだが、今、この笑顔にあふれた空間を見ているだけで、満たされた気持ちになる。
 信頼と、愛情。
 それが見える空間は、人々は、とても微笑ましい。愛しい。

 その愛情の詰まった場の中心に、まっつがいる喜び。
 シンプルに、うれしい。

 この雰囲気のカンパニーだから、こんなにも素晴らしい舞台を見せてくれているのだなあと思う。

 ……もちろん、挨拶を噛むのは良いことではない。
 でも、大劇場という公の場ではない、個人のバウ主演の場という閉ざされた空間では、挨拶で噛んでしまうのもある意味ファンサービスだよなあ。と、思った。いつもは見られない、素の顔が見えるから。
 まっつ本人は、噛まないように必死の努力をしていたし、噛むたび謝り、「わざとじゃないんです」と言っていた。噛むとウケることはわかっていただろうに。
 これまでずーーっと、隙のない挨拶しかしてこなかった人だから、そうでないところを見られることが、うれしいよ。まっつ自身、こんだけ毎日毎回挨拶する立場は、生まれてはじめてだろうしねええ。そりゃ、本人が目指すもの以外の結果になっちゃったりするよ。

 公演前半は、『Samourai』組が観に来てくれたりお客様いろいろで、挨拶時にそれを紹介してきれいにまとめていた。
 後半、言うことがなくなってくるに従って、いろいろ大変そうだったなと(笑)。

 今日は言うことなさそうだな、どうするんだろう? てな微妙な沈黙のあと、「お楽しみいただけましたでしょうか」と言い出すところに、勝手に胸熱。
 というのも、「お楽しみいただけましたでしょうか」の言い方、空気やイントネーションがまとぶさんまんまで。
 まとぶんの挨拶を、ずーっと後ろから見守ってきたまっつならではだなあと思い、うれしくもくすぐったくなる。
 まとぶん時代の花組も、まっつも、大好きだったよ。

 かしこまって、挨拶。
 繰り返すのは、感謝の言葉。
 伝えようとする、意志。
 終演後の挨拶ってのは、そういうものだよね。
 ……噛もうと、噛むまいと(笑)。


 さて、カミカミ罰ゲームウェーブの起こった翌日。
 まっつさんがすげーがんばって、噛まずに挨拶をやり遂げたのは、言うまでもない。
 客席が期待しているのわかっているだろうに、絶対サービスで失敗したふりなんかしない人だ。直球勝負あるのみだ。

 ……別の回にやはり噛んじゃって、ウェーブ起こってたけどなー(笑)。
 『インフィニティ』の1幕最後、ドイツの場面。

 ここのストーリーについて、まっつ自身がお茶会で語った。

 ……お茶会の感想を別立てで書こうと思っていたんだが、とりたてて書くことがナイので、公演感想の中に取り込んでしまおうかと思う。
 どのジェンヌさんであっても、わたしがお茶会について書く場合はレポではなく、ただの「感想」なので、今回は別にする意味がないよなってことで。

 1930年代のベルリンだと、わざわざ明記してある場面。
 まっつは登場してすぐ、上着を着替える。目に痛いドピンクのジャケット。
 背徳の街を嘲笑う彼の周囲で、男と女が踊る。エロティックに、本能的に。
 だが、ひとりの女@あゆっちの登場で、まっつは変わる。それまで解説者だったのに、物語の中へ踏み込む。
 あゆっちとのダンス、せき立てられるようなタンゴ。
 それらは不吉なサイレンの音で断ち切られ、まっつはひとりになる。
 最初に脱いだ上着に再度着替え、「夜明け」を歌う。彼の周りには、先ほどの背徳の街の男女が現れ、同じように明日を見つめる……。

 てな流れなわけですが、どーゆーストーリーかというと。

 まず、舞台はとある店。クラブ。……ここまでは、想定内。
 問題は、次の設定。

 まっつは、店のオーナー。

 最初に上着をチェンジするのは、出勤してきて、仕事着に着替えているそうだ。

 ええええ。
 そ、そんな理由?!!

 で、その店はショーなんかも見せるそうで、女の子たちが踊ったりしている。

 えーと。
 この設定ってさ……どこの『マリポーサの花』……。『Rpmance de Paris』でもいいよ……つまり、正塚定番設定。

 それも、かなりトホホなハリー。ミュージカルをうまく作れない正塚おじさんが、歌とダンスを入れるための言い訳に、舞台をショーステージのあるクラブにしている、つーだけの……。

 しかも、クラブ・オーナー自身が、「スターです!」てな派手な衣装着て、ステージで踊っちゃうとか、『マリポーサの花』のときも痛感したけど、まともに考えるとかなり残念な設定なんですけど……。
 だって、雇われ人であるところの他のダンサーたちは、ナニも言えないわけじゃん? オーナーがノリノリでセンターで踊っても。オーナーにダンスの才能があろうとなかろうと、口出しできない。
 オペラ座を買い取って主役を演じるカルロッタと同じ痛さ……。

 この、正塚の残念設定をそのまま使いますか、正塚の愛弟子・稲葉せんせ!!(笑)

 いちばん豪華な衣装を着て、舞台の真ん中で歌うのよ♪、だっけ、カルロッタ。
 わざわざど派手なピンクジャケットに着替えて、真ん中で踊るまっつ……。

 女の子はべらして踊ったり、男たちのセンターに立ったり、すっげーカッコイイまっつさんなのに、……やっていることがカルロッタだと思うと、肩が落ちます。

 この「店のオーナー」「仕事着に着替える」てのを聞いた瞬間、この設定は、聞かなかったことにしようと思った(笑)。
 いなばっちェ……。

 まあ、それはともかく。

 この店にいるみなさんは、とても刹那的に「今」を過ごしているらしい。
 明日がどうなるかわかんないご時世だからね。
 男女も妖しくもつれているし、男同士・女同士の恋人たちもいる。なんでもアリ。
 「店には、同性愛者の人たちも来ている」と、まっつ自身の解説。

 ……えーと。
 まっつはその店の、オーナーなんだよね?
 ゲイにやさしいその店は、まっつが好んで作り、運営してるんだよね?

 オーナー自身、バイとかありえる?(笑)
 いなばっち、愉快な設定をありがとう。

 んで、あゆっちはまっつの昔の恋人。
 今はナチス将校の囲われ者らしい。
 この辺はNOW ON STAGEで言っていた通り。
 昔の恋人と再会しちゃうわけですなー。

 でもこの場面は、どこまでが夢か現実かわからない作りになっている。
 そう聞いたお茶会参加者たちが「おおー、深い~~」てな意味のリアクションをすると、「と、稲葉先生が言ってます」と、まっつさんはすぱっと斬り捨て。
 深いのは稲葉せんせで、自分ではないと。


 まっつは「自分でこう思って演じている」とは、あまり語らない人だなと。

 場面や役の説明も、演出家の意向をそのまま語る。
 自己アピールより、演出家の意志を体現することを是とするタイプの役者なんだなという印象。
 自分主体ではなく、場や作品主体。先にあるモノに合わせる、求められるモノを正しく表現する。場や作品を「自分を表現するための道具」だとは思っていない。

 ストーリーのあるドイツ場面にしても、演出家の作った「ストーリー」の説明はするが、それをまっつ自身がどう思っているかは語らない。
 それは、スペイン場面で歌う歌詞が、「自分の気持ちそのまま」だと言いながら、「歌詞のどのへんがそうなのか」という質問に「ノーコメント」であるように。

 ガード固いなああ。

 ま、ともかくドイツ場面のストーリーがある程度わかって良かった。
 それをそのまま受け取る気はなく、心の隅に置いただけで、あとはやっぱり自分で実際に、舞台から感じたことを優先する。
 カルロッタ設定だからどうこうじゃなく(笑)。


 お茶会の話で興味深かったのは、まっつ(と、出演者たち)はインドの場面に100%の自信を持って臨んでいたのではナイということ。
 スベるかもしれない、と危惧していた。失笑されるかも、と。

 聞いてて納得した。
 初日のまっつが、インド場面から変わった、ナニか吹っ切れたと思ったのは、正しかったんだ。
 スベるかも、と思って臨んだマッツマハラジャで、その一挙手一投足に観客大ウケ、大絶賛!だもん、うれしかったんだろうなあ。
 黄色い歓声あびて、まっつがどんどん図に乗っていく様が、ムカつくくらい、かわいかった。うれしかった。
 なんだよ、歓声あびると、うれしいんだ? 女の子にきゃーきゃー言われるの、うれしいんだ。クールなふりしてさー。やっぱ舞台人だねー。
 ……なんて感じでさ。


 こちらの想像力をかき立ててくれる。
 そんなステージであり、舞台人である。
 『インフィニティ』と、まっつ。

 だからもっと、その世界に漂っていたかった。
 『インフィニティ』の、まっつ以外の出演者について、ぼちぼちと。

 この公演で見直したというか株が上がったというか、コマくんに着目した。
 や、コマくんには『雪景色』ですこーんとハマって以来一目も二目もおいているので、今さら見直したもナイんだが。

 しみじみ、いい子だなと。
 すごい子だなと。

 コマつん自身のスターとしての力は、今まで見てきた通り。
 今回思い知ったのは、カンパニーの中での、彼の力。

 1場面与えられたら、ちゃんとセンターとしての仕事をする。
 それでいて、2番手の仕事……「助演」としての役割を求められるときの、的確さ。
 出すぎない。でしゃばらない。実力で場を支える。しかし、埋没しない。地味にもならない。

 って、ナニこれ。
 すげえよ。

 きんぐには、そこまで感じない。
 彼は自分にできる精一杯を、ありのままにやっている。
 翔くんは自分のことだけでいっぱいいっぱい。奮闘中。

 男役ではコマだけが、周囲を見渡し、バランスを取っている。(娘役では、ヒメが同じようにやってます)

 ありがたいなと。
 なんかもー、しみじみ感謝しました。
 や、わたしが言うのもおかしなもんですが。おこがしいとは思いますが。
 感謝したの。
 コマつんがいてくれて良かったと、『インフィニティ』の成功は、まっつの成功は、コマくんはじめ仲間たちがいてくれたからなんだと思いました。


 決められた仕事をする以外に、コマはアドリブで舞台を盛り上げてくれた。
 まっつが仕掛けたりナニもしなかったり、気ままだったベネツィア。
 まっつがナニかすれば、的確に返してくれる。ナニもしなければ、さらっと流してくれる。
 毎回やるならともかく、いつやってくるかもわかんない絡みに、いちいちリアクションしてくれてありがとうだわほんと。
 それとも、前もって「今日絡むから」ってまっつから予告でもあるの?(しそうにナイ気がする……)

 で、いちばん派手に実力(笑)を発揮していた、インド場面。
 やる気があるんだかないんだかの、おかしな侍従役。
 マッツマハラジャ様にクビを言い渡されて去って行くときの、声の挙げ方に変化を付けて、リピーターからも笑いを取っていた。
 楽近くになると、マッツマハラジャ様の投げたオレンジに当たった演技(声)まで付け加えて。

 ほんとセンスあるわ、コマくん。

 そのあとの彼の見せ場、フィリピンの歌手も好きだったさ。
 コマくんの声とねっとり熱と湿り気のある歌い方が、曲と雰囲気に合っていて。


 それから。

 舞台でのコマつんのステキさとはまた別次元のことなんだけど。

 まっつファンとして、とても感謝していることがある。
 それはフィナーレの「ご挨拶」部分だ。

 ラストの場面で、出演者全員が順番に挨拶をする。
 喋るわけではなく、音楽に乗ってセンターへ進み出、思い思いのポーズで一礼する、というやつだ。
 下級生順にスタートして、コマくんは最後から2番目、まっつの前。

 この「ご挨拶」はフリーダム。
 みんな個性発揮、盛り上がってたのしいキモチのまま、キラキラした笑顔のまま客席にアピールする。
 いちばん濃いのは朝風くん。毎回違ったポーズで強いアピールをする。
 娘役ではもちろんヒメ。
 このふたりは、毎回「ナニやってくれるんだろう」とわくわくする(笑)。
 翔くんは美形っぷりに磨きを掛けてアピるし、きんぐもまたカッコ付け激しい。
 どんどんあとになるほど濃ゆいアピールをする人たちの中で、最後から2番目のコマつんは。

 とりたてて、ナニもしない。

 二本指の敬礼を左右に飛ばすだけ。

 とても抑えた、シンプルなアピール。

 どうして? コマのキャラからすれば、ものごっつーねっとりした、派手な爆弾アピールかましても、不思議じゃない。
 なまじ他の子たちが、学年が上がるにつれ濃ゆーく濃ゆ~~くアピってるんだ。
 コマのところでトーンダウンするなんて、おかしい。

 初日に見たとき、がっくりきた。
 え、なんで? って。
 右肩上がりの折れ線グラフが、コマのところでがくっと下降したから。

 でも、その直後にまっつが出てくることで、あれ?と思った。

 ひょっとして、このため? と。

 初日に感じた違和感は、回を重ねるごとに確信になった。
 他の子たちがどんどんはじけて派手になるアピール場面で、コマだけががんとして地味に抑えている。

 まっつの、ためだ。
 自分の直後に登場する、主役のためだ。

 コマくんなら、もっと派手にねちっこく、「自分のために」盛り上げることが出来る。
 なのにあえて、それをしない。
 助演である彼は、次に登場する主役のために、あえてトーンダウンさせているんだ。

 いったんコマのところで熱を落とせば、最後の「真打ち登場!」のまっつが、盛り上がる。

 自分のアピールポイントを削ってでも、「この公演のため」の仕事をしてくれている……!

 なんて、ありがたいんだろう。
 なんて、いい子なんだろう。
 なんて、なんて……。

 こんなこと感じているのはわたしだけかと思ったら、まっつメイトも同じように言っていて、あ、やっぱそうなんだ、と思いを強くした。

 当たり前の顔で、さらりとこんな仕事をしてしまえる、コマくんってなんてすごいんだろう。
 こういう子が当たり前にいる、これが「タカラヅカ」のすごさなんだ。


 コマくんをはじめ、ひとりひとりの力を結集して、『インフィニティ』号は旅をした。
 すごい公演だった。
 驚きと感動が詰まっていた。

 得がたい空間を、共有できたのだと思う。
 初見では、とまどってしまう。
 なんつーんだ、過去の自分の記憶と照らし合わせ、いちばん好きなモノだけを求めてしまうから。

 『インフィニティ』に出演する「歌手」、ヒメの話。

 わたしはヒメのパワフルで狂気や毒のある歌声が好き。
 今のヒメはすげー歌手だと思っているが、昔はそれほどだとは思っていなかった。
 路線のちょっと外側というか、一瞬それっぽい位置まではいっていた、かわいい女の子。
 なにしろ最初に彼女を認識したのが『アンナ・カレーニナ』のキティお嬢様だ。初々しい美少女役。
 かわいくて、そこそこなんでも出来る……それ以外の認識がなかった。

 ヒメがなんで路線に乗れないんだろう、って考えたとき、「正面顔と横顔が違いすぎるからだよ」って誰かに言われて、ごめん、納得してしまったのも、遠い思い出。
 てゆーかあれから、11年も経つのか。

 ただの「かわいこちゃん」認定だったのに。
 彼女への認識が変わったのが、2006年。
 彼女が持つ、毒。
 オギーが「使う」舞咲りんは、トリッキーな魅力を持つ舞台人だった。
 秀でた歌唱力がある、とまでは思わない。うまい人だとは思うけど。
 でも、そーゆーモノ以外の魅力を持つ歌声。
 ヒメの歌には、耳障りな「悲鳴」のようなものがある。ひとを不安にさせるような「狂気」がある。

 それが、魅力的だった。

 オギーがタカラヅカから消え、ヒメの毒部分を引き出す演出家はいなくなった。
 ヒメもまた、正統派の歌手としての実力を磨き、毒の部分はすっかり影を潜めた。

 だけど無意識にまだ、「あのころのヒメ」を求めている。
 「Vai de Amores」を歌うヒメを。


 「声」をテーマにした少数精鋭バウ公演。
 ヒロインポジだろうと思うあゆっちは、歌は得意ではナイ。
 ならば学年的にも、実力的にも、裏ヒロインはヒメだろう!と、期待した。
 で、裏ヒロインならば、いろんな歌を歌うだろう。
 『H2$』で聴かせたようなソウルフルな歌声を、『ロック・オン!』で響かせたようなパワフルな歌声を。
 もう何年も聴いていない、オギー作品でのような歌声だって、聴けるかも……?!

 と、勝手に盛り上がっていたモノで。

 正直、初日はがっくりきました。
 期待したヒメぢゃない……。

 てゆーかヒメの活躍場面、少なくないか? もっとがっつり歌わせてくれてもいいじゃんよー。

 なんか、ヒメの使い方が、すごく「ふつー」だった。
 ふつうの歌ウマ娘さん的な、使い方。
 えー? ヒメはもっと、いろんなことができるのにー。

 回数を観るうちに、納得したけれど。
 不満に思ったのは勝手な思い込みゆえ。

 こんなヒメ、あんなヒメ、と自分でイメージを固定していた。

 『インフィニティ』は、個人のコンサートではナイ。
 主演のまっつですら、出ずっぱりのワンマンショーはやってない。
 他のみんながそれぞれ、学年やポジションに合わせて、等しく見せ場をもらう「タカラヅカ・レビュー」だった。

 女の子の歌ではヒメがワンマンショー状態、ぐらいの勢いで期待していたので、思いの外彼女が歌わないことに、がっくりきたっつーだけ。
 歌っても、なんかふつーの歌い方ばっかしだし。

 なんか、物足りない……。と。

 でもそれも、失礼な話だ。
 わたしは「過去」のヒメに思いを馳せ、勝手にそれだけを期待していた。
 それなら過去作品のDVD観てろよって話で、なんの生産性もナイ。

 自分で「観たいモノ」を決め、そのイメージ通りではなかった、と肩を落としていたんだな。
 なんて不毛なの。

 『インフィニティ』は、そんなところにない。
 舞咲りんは、そんなところにない。

 『インフィニティ』はヒメだけでなく、下級生の歌ウマちゃんたちにも等しく見せ場があり、ヒメはとても素直な、正統派の歌声を響かせてくれていた。

 ああ、そうか。
 これが、『インフィニティ』なんだ。

 ワンマンショーではなく、古式ゆかしい「タカラヅカ・レビュー」。
 タカラヅカを愛するがゆえに出来上がった作品。

 美しいモノを、ただ愛する作品。

 そこでヒメは、あの爆弾キャラで場をぶっ壊すことなく、着実にいい仕事をしていた。
 あゆっちと双子姉妹を演じるフランスや、マッツマハラジャ様の侍女など、はじけられるポイントはあったのに、やり過ぎることはなかった。

 エトワールとして「青い星の上で」を歌いはじめたとき、彼女から清浄な空気が広がった。

 その前のまっつ黒燕尾で、彼がただひとり歌う「限りなき世界」で、ボロボロに泣いているわたしに、ヒメのやさしい光が差し込んで、どれだけ、救われたか。

 舞咲りんは、タカラジェンヌだ。

 夢を織り、人を癒す、人を救う、タカラジェンヌなんだ。
 そう、心から思った。


 舞台外でのムードメーカーとしても、いい仕事してたよねー。
 まっつのカミカミ挨拶へのツッコミや、千秋楽のまっつへの突撃っぷり。
 口火を切るヒメがいてくれるからこそ。

 ほんとに、いい娘役さんだ。


 ヒメの独壇場たる場面や歌がなかった……ことに、作品コンセプトとして納得はしているけれど。
 ただひとつ、不満があるのよ、いなばっち。

 まっつとヒメの、ガチ歌バトルが、なかった。

 バトらなくてもいい、その、デュエットでいいのよ。
 ふたりで声を合わせ、競わせ、歌ウマ同士マジで融和する歌声を聴きたかった。

 何故か歌声は全員、単体ばかりで、デュエットはろくになかったよねええ?
 デュエットがあったのが、翔くんと夢華さんという、微妙な人選のみって。

 いやその、ヒメと歌対決したら、まっつが吹き飛ばされて気まずいことになったかも、しれないけどさ(笑)。


 ま、負けないよね、まっつ? どきどき。
 その昔、雪組には、作品にめぐまれない気の毒な壮いっぽくんという美形さんがいてだな。
 彼の主演バウ『送られなかった手紙』は、なんとももの悲しい駄作で、今となってはそんな作品があったことすら、人の口に上がることもない。
 そのもの悲しい作品で、強烈な印象を残した娘さんがいた。
 アニメ的な特徴ある顔立ちの美女で、ツンと取り澄ました顔が実に魅力的だった。
 主役との絡みはべつにどーってことない役なんだが。(つかそもそも、ラブシーンもない芝居だった……主役は)

 エロエロおじさま、チャル様とラブシーンのある娘さんだった。

 チャル様に後ろから抱きしめられる役。チューされちゃう役。
 あの美しい娘さんは誰?
 チャル様とふたりして、背徳のかほりで画面を美しく彩った、コケティッシュな美女は誰?

 ……それが、リサリサの第一印象でした。

 あまりに強烈なデビューだったため、わたしと周囲の友人たちは、リサちゃんの説明をするとき、
「いっぽくんのバウで、チャル様にチューされてた子よ」
「ああ、あの子!」
 てな会話が成立してました。

 あの歩くフェロモン、チャル様にあーんなことされて、ほんの下級生娘役、リサちゃんの未来を心配したもんでした……ふつーの男(役)とのラヴシーンぢゃ満足できないキャラになったらどうしよう、と(笑)。

 で。

 その昔、雪組には、作品にめぐまれない気の毒な壮いっぽくんという美形さんがいてだな。
 彼の主演バウ『さすらいの果てに』は、突き抜けた超駄作で、今もまた「爆笑なしでは語れない」と人の口に上がるほどのトンデモぶり。
(駄作レベルで同等なのは『忘れ雪』ですな。『さすらいの果てに』と『忘れ雪』で主演したキムくんもまた、雪組の伝説となるほど作品にめぐまれないスターだわ)

 その歴史に残る駄作は、話はともかく、キャストだけはめちゃくちゃ美形揃いでした。
 なにしろ、主演が壮くん。ヒロインがリサちゃん。2番手がかなめくん。
 「美貌以外ナニも持っていない」人たちだけで固めた、すばらしい舞台でした。(当時は、ね。今はそれぞれ、それぞれの実力を花開かせておられますが)
 苦難を乗り越えて、主人公とヒロインがよーやく再会する感動のラストシーンで、観客が爆笑するくらい、脚本もひどけりゃ、役者の芝居もアレレな、大変な公演でございました。

 でもとにかく、ヒロインは美しかった。
 このまま新公ヒロして、路線に乗ってくれても問題ないくらいに。

 いろいろとやばすぎたのか、バウヒロだけで、新公ヒロはめぐってこなかったのだけども。

 そしてリサちゃんは、ヒロイン街道ではない、独自の道を進んでいった。
 ヒロインには出せない、セクシーさと美しさを絶妙にブレンドして、「いい女」道を突き進んだ。

 前方席に坐ると、高確率でリサちゃんからウインクがもらえた。
 娘役で客席を一本釣りしていく、そのアグレッシブさにときめいた。

 ここはタカラヅカ、なによりもいちばん必要な物は、「美しさ」。
 大劇場で大きな役がつかなくても、台詞が少なくても、舞台にいるだけで「タカラジェンヌ」としての仕事を果たせる人だ。

 その、美しさで。

 わたしはリサリサの芝居も好き。
 でもその芝居は、彼女の「美しさ」込みだと思っている。
 美しいリサリサだからこそ、この芝居が活きる。てな感じで。
 美しい女性が、その美しさを武器にする様を見るのが好き。リサちゃんはわたしが思い描く「美女」の具現だ。
 『仮面の男』の洗濯女のように、美貌を封印してなお、存在感のある芝居をする人だとわかっているが、それでもなお、彼女の美貌込みの芝居やキャラクタ、存在の色が好き。
 『オネーギン』のニーナが好き。そして、『Samourai』のブランシェはもっと好き。
 『ロミジュリ』のキャピュレットの女のように、ただそこにいるだけで、ドラマを感じされる情の強さが好き。

 雪組の舞台を見る、楽しみのひとつでもあった。女の子たちの中に、彼女を探すことが。
2012/01/26

雪組 退団者のお知らせ

下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。

 (雪組)
  涼花 リサ
  華吹 乃愛 
  

     2012年5月27日(雪組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
 辞めちゃうのか……。
 ヲヅキの組替えがなければ、もう少しいてくれたのかなあ。や、誰を貶める意味でもなく、そう思った。ひとが進退を決めるとき、同期の存在の有無はきっかけのひとつにはなるよなあ、と、一般論として。

 老人なので、つい過去を懐かしんでしまう。
 『お笑いの果てに』はトンデモ作品だったけど、あのころの雪組も大好きだったよ。
 壮くん版のキャストで、役名あった人で今残っているのがにわにわだけという、この現実……。

 タカラヅカは、切ないところだな……。


 のあちゃんは、わたしが狂喜乱舞していた全ツ『黒い瞳』での印象が深い。
 舞台の上でも、それ以外でも。ええ子や……と思ったもんよ、某エピソード聞いて。

 美女がふたり、雪組から去ってしまうのか。
 あ、ふたりともマリリン・モンローじゃん、『ロック・オン!』の。うおお。もったいない~~。


 最後の舞台が、より良いものになりますように。


 ヲヅキとリサリサの絡みが見たいです。
 リサリサとあんなちゃんの絡み……いやその、並びが見たいです。絡んでくれてもうれしいですが。リサリサとあんなで、アダルトな百合っぽいダンスとかあったら鼻血吹いて通いますわ……。
 で、次回公演『ドン・カルロス』の配役が発表されました。

 まっつパパ!!

 フェリペ二世@まっつ、に、テンションあがってます(笑)。

 同期トップスターの父親役に狂喜乱舞するっつのーも、年齢の上では不思議な感じもしますが、「キムくんとがっつり絡む役」を切望する身としては、願ってもない配役です。
 無教養なわたしは原作も史実もオペラもまったくわかってないのですが、まっつメイトに教えてもらったところ、「キムくんはまっつが18歳のときの子ども」なんだそうです。……生徒名で書くとすごいな……まっつが18歳で産んだ子がキムか……。(産んでません)
 ともかく、カルロスさんはハタチそこそこで亡くなっているそーだから、まっつはアラフォーですな。ナニそのオイシイ年齢。
 張良様とかアトス様とかブラット部長とかと同年齢。まっつのストライクゾーン(笑)。

 キムシンのいいところは、脚本をちゃんと集合日前に上げて来ている、とゆーところにもあるんじゃないっすか?
 集合日に配役がどーんと出て、ついでに人物相関図までサイトにUPされる、ってのは、それ以前に準備が終わっていたということ。
 集合日を過ぎても脚本が完成していない演出家だと、こうはいかない。
 や、キムシンが緻密な構成だの下調べだのをしない、勢いだけで書き上げちゃうタイプだからこその早書きだとしても。期日を守って納品するのは、社会人として正しいかと(笑)。
 (脚本遅くて凝りに凝った作品を書く、大野せんせーの作風も好きだけどなー)

 人物相関図にわざわざ「CRICK!」と付けてまで、エピソード解説されているので、「イサベルをめぐる父子の思い」は脚本に盛り込まれているんでしょう。
 『虞美人』のとき、あらすじに書いてあった范僧先生@はっちさんとのエピソードが、そのまんま劇中で書かれていたように。

 物語の主軸に絡む役かあ。感動。

 スペイン王家を国王まっつ中心に考えると。
 息子@キム
 後妻@あゆみちゃん(しかもキムくんの元婚約者)
 妹@リサリサ
 異母弟@ヲヅキ

 うわー……ナニこの俺得なメンバー。

 しかもまっつ国王、わざわざ「亡き妻マリア・マヌエラを想う」とあるので、キムくんの生母に未練タラタラなわけですよ。
 てことで、もしキャスティングするなら。
 亡くなった妻@キム(2役)
 ですね。
 や、まっつメイトから「愛する妻に生き写しの息子との愛憎」説がアツく語られているので(笑)、それを期待して。

 や、メインはもちろん、ヒロインのみみちゃんとの身分違いの恋、カルロス王子の人生を左右するネーデルラントの話、親友ちぎくんとの物語になるんでしょうが。
 それらより落ちる比重であったしても、とりあえずキムまっつが見られそうなことに、ワクテカしておきます。

 てゆーか、キムまっつの歌が聴きたい。

 このふたりががっつり歌い合う公演が、『黒い瞳』だけなんですけど今のところ。
 前公演なんか、芝居もショーも絡みもナニもなしなんですけど。
 せっかくの歌ウマふたりなんだよ、掛け合いの歌とかハモりとか聴きたいんだよー。
 資源は有効に活用してくれよ……たのんます。

 あと、美形ちぎくん率いる、貴族の若者チームがこれまた美形揃いでわくわくします。
 あすレオ入ってるよ! でもって月城くんまでいるよ! なんて麗しい。

 で、ひそかに期待しているのは。
 公女グループは、トンデモソングを歌うのでしょうか(笑)。
 あゆっち筆頭の公女グループ、あゆっち(と、あんなちゃん・笑)以外は歌ウマさんたちで固めてますよ?
 あゆっちはきちんとキャラのある役で、その後ろで公女様たちが歌いまくるのよね?
 キムシン芝居に必須の、愉快な女性たちになるよね? ヒメだっているのよ? 期待していいよね、歌と濃さを。

 女官も歌うんだろうなとか、幻覚さんたちも歌うんだよねとか。
 キムシン・オペラだもん、歌中心だよね。
 あああ、音楽が甲斐先生でありますように。高橋せんせでも吉田せんせでもいいよ、長谷川氏以外なら。長谷川氏の地味で繊細な音楽が、キムシンの豪快で大雑把な語彙と世界観に合ってないこと、どーして気づかないんだ。

 わたしはキムシン大好きなので、大抵どの作品も楽しめます。彼の最高峰は『炎にくちづけを』だと思っているクチなので、あれくらいぶっ飛ばしてくれてもヨシ(笑)。まあ、世間的に拒絶反応も大きかったよーなので、たかはな時代の宙ならいざ知らず、今の雪組でやっちゃうとまずいとは思ってるので、あまりとんがりすぎなくていいよ、とは思いますが(笑)。
 でも、キムシンの、キムシンだからこその作品が観たいなー。『虞美人』はどっちつかずでストレス溜まったもんなー。

 ……人物相関図を見て、主人公を取り巻く3つの軸があり、そのひとつがご贔屓絡みである、ということに心から喜びましたが。
 しかし、1時間半の話で、軸が3つあるって、どうなの……大丈夫なの??
 軸はひとつにまとめるべきだったんじゃあ? 広げてもせいぜい2つまでにしておくべきだったんじゃあ?
 と、不安もありますが。

 キムシン・スピリッツはわたしの好みに合うので、基本は心配してません。彼でいちばん残念なことは、音楽に長谷川氏を選ぶ、自己プロデュースの出来てなさ、だもん。


 あとひそかに気がかりなことは。

 まっつは、ヒゲだろうな。

 と、いうこと。

 ヒゲなのはいい。
 パパ役だもん。仕方ないよね。
 問題はそのヒゲが、どの程度のモノかってこと。

 顔全体覆うライオンヒゲだったら、どうしよう。

 や、似合うと思うよ。思うけど……そこまで行かれるとちょっと、残念かなあ。
 「トップスターの同期が演じる父親役」として直近の例になっている、キャリエール@『ファントム』あたりのビジュアル希望。口ひげがいいっす。
 まだ40歳そこそこの役なんだしさー。必要以上にじいさんにすることはナイと思うんだけどなー。

 とまあ、それも気に掛かってはいるけれど。
 実は、「もっとこわいこと」として、まっつメイトと話していたことは。

 ヒゲなしでも、余裕でキムくんと親子に見えそう。

 ってことですわ……。
 まっつ、おっさん得意やからなー(笑)。
 ヒゲなしで、みわっちさんの育ての親とか、ふつーにやっちゃってたしなー。@『太王四神記』

 ヒゲありでもナシでも悩ましい……(笑)。
 壮一帆という舞台人の不思議。

 彼がキムシンのミューズ(笑)なのは、過去作品から見当が付く。
 キムシン作品においてのえりたんてば、とんでもなく魅力的である。
 実力がかなり足りていなかった雪組時代の『スサノオ』ですら、えりたんの役付きはやたら良かった。彼より番手が上のガイチに女役をさせることで、えりたんを男役3番手にしたもんなあ。
 以来、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』『オグリ!』『虞美人』と、ザ・えりたん!な役や作品を演じ続けている。
 キムシンとえりたんの相性の良さは周知のことと思う。

 でも、キムシンだけに留まらないんだなあ。

 イシダもか。

 『復活 -恋が終わり、愛が残った-』における、シェンボック@えりたんの力ときたら。

 この重いテーマを持った『復活』という作品において、シェンボックが担うものは、救いだ。

 軽薄な遊び人として描かれる彼は、深刻で周囲が見えなくなるネフリュードフ@らんとむの横でただ「自由に」在る。
 本筋の横にいるだけのキャラクタで、彼自身がナニか事件を起こしたり引っ張ったりするわけではない。
 ぶっちゃけ、本筋だけで言うなら、彼は「いなくてもいい」。

 だが、シェンボックは「作品」に不可欠な存在だ。

 原作がどうなのか無教養ゆえ知らないのだが、イシダせんせ作の宝塚歌劇『復活』において、シェンボックの意味は重い。

 ネフリュードフだけでは、本筋が成り立ったとしても、誰も付いてこない。彼の行動は他人の共感を得にくい。少なくとも、「タカラヅカ」では求められていないキャラクタなので、観客の支持を得にくいだろう。
 横で明るく茶々入れをするシェンボックが在ってはじめて、「タカラヅカ」の範疇に収まっているわけだ。

 優秀なネフリュードフとは違い、シェンボックは成績も悪く、事業にも失敗して借金まみれ、自由恋愛主義という看板の、女にだらしない最低男。およそ「いいところ」がなにひとつない。
 だけど、真に聡明なのはシェンボックの方だ。
 学校の成績がいいのはネフリュードフ、人生の成績がいいのがシェンボック。
 現に、ネフリュードフは簡単に破滅したり絶望したり人を傷つけたりするけれど、シェンボックはそんな事態には陥らずに生きるだろう。

 あくまでも、ネフリュードフという暗い色があってのシェンボックという光。
 そういう描き方をした物語だけど、シェンボックの光が、半端ナイ。

 物語を「タカラヅカ」にし、光を射し、道なき荒野にひょうひょうと道を作る。
 それを「本筋の横」でやってのける。
 本筋を損なうことなく。

 すげえキャラだな、シェンボック。

 そして、そんな荒技を可能にしてしまう、壮一帆という舞台人。
 壮くんがものすげー演技巧者で緻密な芝居をしている、という印象は、ごめん、わたしにはない。
 雪組時代なんか、見事な大根ぶりで重厚な雪組芝居で浮きまくっていた。根本的に、芝居センスがないのかと疑ったことすらあった。(ex.『DAYTIME HUSTLER』)

 センスの問題じゃ、ないんだよなあ。舞台人って。
 その舞台に、役に、はまるかどうかなんだ。

 『タランテラ!』にて、今までさんざん舞台クラッシャーをしてきた、その浮きっぷりを逆手に取った役割を演じた。
 絶望に満ちた美しい世界に、壮くんがそれまでの空気なんかなんの理解もせず、ぶち壊してテカ~!とかピカ~!と現れた……その、すばらしさ。

 その輝きを持ったまま花組にやって来て。
 それ以来、壮くんは魅力を開花しまくっている。
 いつも同じ役、と言ってしまえばそれまでだが、それはえりたんにしかできない役だ。
 新公で同じ役を演じた子たちが、まったく別モノになるように、えりたんは「属性えりたん」で「輝き」や「救い」を舞台に添える。

 演技が出来る人なら、いくらでもいる。小器用に脚本に書いてある通りの台詞を言い、演出家の指示通りに動いたり表情を作ったりするだけの人なら。
 だけど、「属性えりたん」は、えりたんだけだ。
 この「輝き」があるのは、舞台人・壮一帆の才能だろう。

 そしてクリエイターは、彼のその「輝き」を愛でる。欲する。
 ここが「タカラヅカ」であり、絶望とか深刻とかだけを重宝する舞台ではナイ。ハッピーエンド至上主義の世界観。悲劇で終わっても、死んだ主人公とヒロインが起き上がって天国でデュエットダンスするよーな世界観の舞台だ。
 えりたんは、その世界観に必要不可欠なキャラクタだ。

 ぶっちゃけ、えりたんがいれば、通常の「タカラヅカ」では描けないものを描けるんだよ?
 どんだけ本筋やテーマが「タカラヅカ」らしくなくても、えりたんを放り込めば、ちゃんと「タカラヅカ」として仕上がる(笑)。
 そりゃ重宝するわー。

 『復活』はよく出来た話で、「どーしたんだイシダ?!」的な、良い舞台だ。
 だけど、話の内容的にタカラヅカでやるべきじゃないよね? やってもいいけど難しいっていうか、リスクが大きいよね?
 トルストイで愛か償いかなんてテーマで、ヒロインがガチ娼婦なんて題材、ふつーは大劇場では描けない。
 それをやるためには、タカラヅカ的な仕掛けが必要で、それにはえりたんが、必要だった。

 えりたんが、えりたんならではの輝きでもって、テカ~!とかピカ~!とか、発光しているのを見ると、ほんと愛されてるなと思う。
 クリエイターに。

 芝居が出来る、だけの代わりならいくらでもいるけど、えりたんの代わりはいない。
 壮くんにしかできない役割。

 キムシンに引き続き、イシダもか。
 えりたんをミューズとして作品作っちゃうの。

 『相棒』のえりたん、良かったもんなー。彼の特性を活かして、作品を新たに書きたくなるよなああ。

 えりたんの「救い」の輝きが、まぶしくて。
 この人はほんとに、タカラヅカに在るべき人だよなあ。

 なにかのインタビュー記事で読んだ。
 「生まれ変わったらナニになりたいか」という質問に、「自分自身」と答えた、そんなえりたんを、泣きたいくらいステキだと思う。
 彼が持つ「自己肯定」が、劣等感だらけのわたしを救うんだ。
 技術とか努力とか、せせこましい部分ではなく、持って生まれた才能、「私が、私である」というだけの力で輝く人。

 『復活』のえりたんも、ほんとにいいえりたんだ。
 これだけでも、観劇する意味がある。
 『復活 -恋が終わり、愛が残った-』を、最初に観たときは、素直に感動した。
 どーしたんだイシダ?! イシダなのにおもしろいって?! イシダなのに感動するって?!
 ……イシダせんせの作品ととことん気が合わず、生理的に無理!なことがほとんどであるために、そーゆー感想になりました。イシダなのに、生理的に無理じゃない、むしろおもしろい、感動するなんて、どーゆーこと?! と。

 出てくる人々みんなが人間的で、共感する部分のある「生きた」人々。そして誰もがなにかしら光を見つけて一歩を踏み出していく様が、見ていて気持ちよかった。

 主人公のネフリュードフ@らんとむの行動は狂気の沙汰、いろんな意味で共感は得にくいと思うけど、それでもらんとむだから成り立っているのかなと思った。
 なんつーんだ、彼のホットな持ち味、血の通った芸風だからこそ、「それってどうよ?」な行動も、許されるのかなと。
 これが、彼より熱伝導率の悪い人が演じたら、ますます「ナニ考えてんの?」な人になったろうなあ、と。
 また、らんとむは、かっこいい。
 男役としての美貌、格好良さが確立している。
 ここがタカラヅカである以上、これほどに美しい男なら、ナニをやったって許される。
 だから、らんとむで良かった。

 で。

 ネフリュードフって、どうよ?

 その、キャラとして。
 初見では素直に感動したけどさあ、2回目を見たら、この男への反感むらむら(笑)。

 過去の過ちはひどいけど、それだけなら人としてまだ許容範囲。
 問題は、その償いをしようと暴走しはじめること。

 ただの自己満足で、誰かを救う気なんてナイんじゃん。
 ……と、思えた。

 カチューシャ@蘭ちゃんを愛しているとも、思えない。演じているのがらんとむだから熱伝導ゆえに愛情っぽく見えるけど、「ネフリュードフ」という男は愛してないよね?

 イワノーヴァナ伯母様の「自分が幸せでないのに、愛する人を幸せにしようなんて、おこがましい」は真理だと思う。
 間違った恋愛モノに必ずある、「自分を犠牲にして……」ってやつ。そんなの、やられた方が迷惑だっての。

 ネフリュードフの「罪」は若き日のカチューシャを捨てたことではなく、「償い」の名の下に今現在行われていることだと思った。
 周りの人々を不幸にし、泣かせ、迷惑を掛け。
 ただ自分が気持ちよくなるためだけに。

 救いたいのはカチューシャではなく、自分自身。
 なのに美談ですか。最低だな。

 2回目でそう思ったのは、ネフリュードフを演じるらんとむ氏の演技に、引っかかったからかもしれない。

 らんとむは最初からあーゆー演技してたっけ? あんな芝居の人だったけ?

 なんつーか……ひとりだけ、わざとらしい、大芝居。
 「今オレ、芝居してまっす!」的な、歌舞伎っぷり。

 他の人たちがナチュラルに話しているもんだから、ネフリュードフの芝居口調が、気になる気になる。
 どうしちゃったの? わざとあんな風にやってるの?

 ひとりだけ大芝居なこともあり、ネフリュードフへの違和感ばりばり。彼の言う「キレイゴト」が、まさしく口先だけに思える。

 公演が進むにつれ、演技に力が入りすぎ、それで大芝居になっちゃってるのかな?
 それとも、わたしが気づかなかっただけで、らんとむっていつもこんなだった?
 アンソニー・ブラックやナポレオンなら、この喋り方でもいいと思うけど、ネフリュードフは違うやろ。ってゆーか、周りの人たちみんな、そんな喋り方してないやん。何故ひとりだけそんな、もったいつけた節回しなの?

 初見時は「それも愛かな」と思えたのに、全部欺瞞に見えてしまった。

 そして。
 それはそれで、完結している。

 ネフリュードフは、今現在「罪」を行っている。「償い」だと言いながら、他者を不幸にし続ける。
 罪や欠点と、その人の魅力はまた別次元のことだからね。間違わない人だけが魅力的なわけじゃないもの。
 周囲の人たちは、それでもネフリュードフを愛し、受け止め、彼の暴走ゆえに成長する。突然のトラブルや不幸で、成長するのはよくあることだもんね。

 で、その間違いまくったネフリュードフが、最後、目を覚ますところで、この物語は終わる。
 過去の罪を、間違った自分を受け止める精神を持たなかった、弱い弱い男が、罪を認められずに偽善を尽くしあがきまくる様を描き、そこから一歩踏み出す物語だったのか。

 ネフリュードフは、もともとはまともな男だったけれど、打たれ弱く、自分のせいでカチューシャが不幸になったという現実を受け入れられなかった。
 で、精神的におかしくなった。
 芝居がかった台詞回しは、異常の現れ。
 芝居することで、現実逃避し、自分を守っている。
 やることなすこと、自己防衛。めちゃくちゃでも、他人に迷惑でもおかまいなし。それは病がなせる技。
 そんな弱い弱い男が、シベリアまで行ってよーやく、正気に返る……そーゆー物語だったのか。

 と、目からウロコ的に、きれいに完結した。

 そーゆー意図があって、ひとり大芝居をしているのかな?

 なんにせよ、迷惑なやっちゃ。

 そりゃカチューシャも、命がけで逃げるわ。
 ストーカーにつきまとわれた女が、「結婚しかない」と思うのも当然。
 んで、いちばん近くにいた男とゴールインしちゃうのも、自明の理。

 すげー、すべて辻褄合う。


 なんて、わたしの感想が見当外れでもなんでも、まあ「注・個人の感想です」ってやつで(笑)。
 タカラヅカがこれほど多くの人を、長く魅了し続けてきているのは、ここが「人生」の縮図だからだろう。
 花組『復活 -恋が終わり、愛が残った-』『カノン』千秋楽、退団者の袴姿を見ながら、苦しくて仕方なかった。


 タカラジェンヌはまるで、わたし自身のアルバムのようだ。
 袴姿のアーサーを見て、彼との出会いが走馬燈のように浮かび上がる。
 彼がまだ研3だった、『エンカレッジコンサート』。
 雄弁な歌声と、無表情。
 表現したいことがあるのはわかる、だけどなにもできずに固まっている。
 そんな彼を、愛でた。
 まだ正しく歌うことだけでいっぱいいっぱい。でも彼の歌は、まだ高みを目指していた。この子、絶対もっと延びる……機会さえ与えられれば。
 そう思っていたところへ、まさかの大劇場本公演でのソロ。適材適所のオギー、『TUXEDO JAZZ』。
 だいもん、ネコちゃん、アーサー。まだ研4、研3のひよっこたち3人に、歌の場面が与えられた。
 エンタメとはナニかを理解しただいもんの歌声、とにかく気合いと熱の入りまくったネコちゃん、
 もっとも端正な歌声ながら、アーサーには表現力が足りていなかった。加えて能面みたいな無表情。
 歌声が心地よい、しかし能面過ぎてこわい……そう、ウケていた。
 それから公演を重ねるたびに「表情」を作ることができるよーになり、学年ゆえ大した役割がないもんだから、もっぱら群舞のすみっこで華を磨き。
 ロケットで、キラキラに満面の笑みを浮かべているのを見たときゃあ、胸熱だったもんなあ。なんだ、笑えるよーになったんじゃん!と。
 その後、歌ウマ男子として、新公で活躍の場を得られるよーになり。

 新公主演、して欲しかったんだ。

 してもおかしくないと、思ったんだ。
 顔はまあ、好き好きとして、タッパはあるし、スタイルバランスいいし、声が良くて歌ウマ、芝居も出来る。
 昔から一貫してアグレッシヴな芸風。上を目指していること、欲していることが、わかる。……実際、望んでもおかしくない位置にいるし。

 新公主演があったなら、まだこの華やかな迷宮で、戦い続けてくれただろうか。

 新公を卒業してから、殻が取れたように、芸風が変わっていった。
 アグレッシヴさがなくなり、まるく、やわらかくなった。

 「男役」であることは、なによりも精神力が必要なんだと思った。
 退団の近い男役の子が、男役ではなくなっていく姿を何人も見ていたけれど、アーサーもまた、『ファントム』あたりから変わっていた。

 アーサーほど貪欲に男役であった子すら、男役を保てなくなるものなのか……と、ショックだった。
 そして、だからこそタカラヅカは、すばらしいところなんだとも、思った。
 並大抵の力では、ファンタジーを保てない。どれほどの心を、努力を要して成立している世界なのかと。

 まだ固い殻を付けたまま、卵からクチバシだけ出した状態のころから、愛でてきた。
 そんなジェンヌの卒業は、人生の縮図を見る思いだ。
 大人になっていった。そして、ここではないどこかへ羽ばたくための変化をはじめた。
 寂しく、愛しく見つめる。見守る。
 そうすることしか出来ない。

 タカラヅカは、すごいところだ。


 もうひとり、アルバムを思わせる、めぐむ。

 めぐむもまた、下級生時代から愛でてきた。
 わたしの運命を変えたオサコン『I GOT MUSIC』。花担でなかったわたしは、下級生までよくわかっていない。出演者の中で「知らない」男の子が、めぐむとしゅん様だった。
 ふたりの見分けはすぐについた。「ぶ○いくな方が、めぐむ」と。
 で、すぐにそれを撤回、謝ることになる。
 次の本公演『落陽のパレルモ』新公ニコラ役で、盛大にオチる。扇めぐむ、かっけーー!!と、東宝まで新公を追いかける(笑)。
 そっからしばらくは、めぐむブーム。

 今だから言う、お茶会も行った(笑)。参加人数が少なすぎて身バレ必至だから、ブログには書けなかったが。
 めぐむさんとのツーショ写真もあります……自分の醜さ・みっともなさが嫌すぎて、二度と見られないけど(笑)、大事な記念。
 ほわわんと喋る、人のよさそーな子でした……。

 大人になるに従って、どんどんかっこよくなっていったね。
 頬が削げて顔がひとまわり小さくなって、芝居をしているときはほんといい男だよね。
 ショーではほわわんとした部分が、多く出ていた気がする。
 余裕を持って、楽しんで舞台にいたイメージ。

 最後の役『復活』のカルチンキンがいい男で、びびった。

 女を黙らせる強引なキス、があるなんて、初見でオペラグラス落とすかと思った……。
 なんなのあの色気! 悪い男があんなに似合うって!! 『蒼いくちづけ』のスター役のすべりっぷりに頭を抱えたのが、嘘みたいだー。
 わーん、やめるのもったいないよ、あんな役が出来るのに!! あんな色気が出せるのに!!

 めぐむさんは、わたしの視界にいるのが当たり前で、どの記憶を紐解いてもふつーにそこにいる、だから今、彼がわたしの視界の外へ卒業していくことが、信じられない。
 『復活 -恋が終わり、愛が残った-』『カノン』千秋楽、卒業する子たちを眺めながらの過去語り、続き。
 年寄りはいつだって未来より過去にこだわるものさ。


 姫花をはじめて認識したのが、『TUXEDO JAZZ』の黄色いドレスの女の子、だったよ。
 まっつと踊っているあの美少女は誰?!って。

 美貌だけにワクテカし、次の『アデュー・マルセイユ』の新公で役が付いているのでどんな芝居をする子なんだろう?!とさらに期待し、実際に見てみて椅子から落ちた、のも、いい思い出(笑)。

 『蒼いくちづけ』の衝撃の大根ぶり……演技以前の問題だろうそれは?!と、歴史に残る破壊っぷりに、人々の関心をさらったのは、つい昨日のこと。
「『蒼いくちづけ』どうたった? って聞くと、みんな『姫花がすごかった』としか答えない……」と、作品も他のキャストも、全部全部ぶっ飛ばしたもんなあ……あれほどの破壊力は、20年そこそこの観劇歴で姫花だけだ。

 もうこれは才能の域だから、『BUND/NEON 上海』や『小さな花がひらいた』みたいに適性を活かした使い方をしてほしいと願った、天は二物を与えなかった、絶世の美少女、姫花。
 ……ラストはいい役だったね。


 いまっちは入団前のイベントから、見てる。文化祭も見てる。彼の名が組ファンにとどろき渡った『蒼いくちづけ』も見てる。

 そしてなにより、彼の実力を示したのはスカイフェアリーズだと思う。

 下級生が「若いから」を言い訳に、初々しさだけでつたない姿を見せるのが当時のスカフェだったのに、エンターティナーとはなんたるべきかを、いまっちが示した。
 スカフェがなくなり、ナビゲーターズに代わったのは、いまっちの功罪じゃないかと、マジに思う。入団間もない下級生では、まず、真瀬はるかになれないもの。中堅どころを投入しないと。
 友人たちから伝え聞く、お茶会での様子などから、「男役」というファンタジーをしっかり理解し、プロ意識を持って「タカラジェンヌ」を作っていた印象。

 だから、こんなに早く辞めてしまうのは、心から残念だ。
 そして、こんな逸材を早々に手放してしまう、劇団をバカだと心から思う。
 将来トップになるかどうかは置いておいて、新公主演させるべきだったのに。
 ベニーのように、セルフプロデュースできるジェンヌが支持される時代、いまっちは花組に流れる停滞感を打破できるキャラクタだったのに。


 卒業していく彼らにも、郷愁がわき上がるが。
 さらにもうひとつ、今回の公演、ショーにて画面にとまどったんだ。

 まとぶんがいない、画面に。

 不在、はショーの方が大きいんだな。
 改めて思った。

 蘭寿さんに含みはなく、ただ、愛着のある姿が「ここにいない」ことに切なくなった。
 なまじ、周囲の顔ぶれは同じだ。よくあるトップの代替わりなら、周りの番手も上がっているので景色も変わる、ああこれが新しい時代なんだな、と思える。
 だが、今回はまとぶん時代と顔ぶれが同じ。2番手も3番手も、娘役も。ただ、真ん中の人だけが違っている。
 そこに喪失を感じて、切なくなった。

 きれいに作られたジグソーパズルの、真ん中の1ピースだけが別の物に変わっている感じ。落下傘って、こういうことなんだ。
 や、わたしはらんとむが花組だったときから花組を見ていたので、落下傘ではないことを知っているけれど、この1ピースだけ別モノに変わっている、という状況は、落下傘人事を如実に表しているなと。

 前回の本公演は一本モノの芝居だったので、あまり感じなかった。
 芝居はなんつっても梅芸や全ツなど、主演が違っていたり別の顔ぶれで上演したりするので、あまり気にならないのな。
 それと同じ理屈で、全ツでショー作品を観ても、花組フルメンバーじゃないため、特にナニも思わなかった。えりたん・みわっちがいないショーは、別箱感高まるわ。

 本公演、大劇場でのショーは、あくまでもトップスターを頂点としたピラミッドでのみ行われるので、変化がばーんとわかりやすい。

 まとぶん時代をあまりにたくさん眺め過ぎていたから。

 わたし、まとぶん好きだったのかあ、と改めて気づかされたり。
 や、好きだったけどね。でも、自分で思っている以上に、愛着があったようだ。

 そして、わたしのよく知る画面でナイことへのとまどいもまた、アルバムを眺めているからなんだな。
 過ぎ去った過去が、よみがえる。
 悲しいことやつらいことがあったとしても、あとからこうして振り返れば、どれもこれも、ただ美しく、愛しい思い出だ。

 変わってゆく、流れてゆく。
 わたしの人生が止まらないように、タカラヅカも止まらない。

 それがいい悪いではなく、感傷的になる。


 卒業する彼らも、花園に留まり続ける人々も、みんなみんな、しあわせであることを願う。

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