『銀ちゃんの恋』は、おもしろかった。

 だけどやはりわたしは、石田作品は好きになれないと思った。

 映画は見ているが、初演は未見。だから初演『銀ちゃんの恋』を語ることは出来ないし、今回の再演が初演とどう変化しているのかはわからない。

 はじめて出会う作品として『銀ちゃんの恋』を観、思ったことは。

 大空祐飛ゆえに、この作品がぎりぎりのところで成り立っているということへの、驚き。

 ゆーひぢゃなかったら、どうなってたんだヲイ、という疑問。

 ゆーひくんゆえに成功してるけど、それは結果論であって、なんでそもそもこんな作品を上演してるんだろう? と、首をひねった。

 有名な『蒲田行進曲』を原作とするこの『銀ちゃんの恋』は、タカラヅカという表現形態が持つ「良さ」を活かしにくい。
 むしろ、タカラヅカでは描いてはならないネタばかりを、ことさらにあげつらっている。
 わざわざヅカでやらなくていいのに。と、思う。

 同じテーマを、ハリウッドを舞台に華やかに表現したりするのが、ヅカの醍醐味だと思う。あくまでもおしゃれに、美しく。
 それは『蒲田行進曲』でもつかでもないと言うだろうが、そうとも、ヅカなんだから、別ジャンルなんだから、それでいいんだ。そのためにヅカはあるんだ。
 つか芝居や『蒲田行進曲』が観たいなら、相応しい場所で観ればいい。なにもヅカでなくても。

 という疑問が終始消えなかった。

 ……が。
 それでもなお、『銀ちゃんの恋』は「タカラヅカ」だった。
 何故ならば主人公の銀ちゃんを演じるゆーひくんが、とてつもなく、タカラヅカ・スターだったからだ。

 「タカラヅカ」という、荒唐無稽な世界で生きる、特殊なイキモノだった。
 いくら下世話で汚れた世界を描こうと、ゆーひくんがぶっちぎりで「異世界タカラヅカ」だった。
 彼が「世界」を支えていた。
 世の中が灰色で、そーだよな所詮世の中こんなもんだよなと思われそうなもんなのに、ゆーひくんが総天然色で現れて、自分の周りに原色を復活させていった。彼が通るところにいちいち色がつき、彼が消えると色も消える。なんかのトリック映像でも見ている気分だった。

 演技力がどうとかいう、以前の問題で。
 彼がいなかったら、この芝居はどこかよその劇団の芝居みたいになっていた気がする。

 出演者は総じて芝居の出来る子たちが集められていた。
 だから脇まで不安なく観ていられる。台詞も出番もろくにない子たちだって、みんなふつーに演技うまいもの、台詞言えるもの。
 だからこそ余計に、手堅く別カンパニー公演系になる。脚本も演出もヅカではなく、石田お得意の下品さや笑い取りに満ちているわけだし。

 うまいだけじゃダメだ。
 だってここはタカラヅカ。
 「他で観るからいいよ」なモノでは、意味がないんだ。ここでしか観られないモノでなきゃ、ダメなんだ。
 芝居なんか、星の数ほどある劇団がいろんなとこでやってんだってば。ヅカでなきゃ存在しないモノを、表現してくれなきゃ。

 ここがタカラヅカであり、宝塚歌劇団がこの作品を上演している、公演の存在意義を、ゆーひくんがひとりで担っていた。

 ということが、すごく、おもしろい。

 外部の芝居でも、タカラヅカ・スターがひとりいれば、真ん中でその力を存分に発揮すれば、それは「タカラヅカ」として成立しうるのか。
 その事実に感動した。

 
 『銀ちゃんの恋』は、タイトルに反して銀ちゃん自身は「主人公」ではない。
 主人公はヤス@みつるであり、小夏@すみ花だ。銀ちゃん@ゆーひは、彼らの目を通して描かれるのみで、銀ちゃん自身の物語はない。
 極端な話、銀ちゃんは登場せず、ヤスや小夏の会話の中だけで描くことも可能だ。
 登場しなくても物語進行に支障のないキャラクタは、主人公ぢゃないわな(笑)。

 だけど、銀ちゃんは「主役」なんだ。
 彼の人生も悩みも考えも、直接には描かれないけれど、彼個人の場面はストーリーと離れひとりで歌っているだけだったりするけれど、ヤスと小夏の視点による物語でしかないけれど、主人公では絶対にないけれど、それでも銀ちゃんこそが「主役」なんだ。
 扇の要。絵の部分しか人は見ようとしないけれど、扇が扇として成り立つのは要があるから。

 物語的には存在しなくても構わない、概念だけでもイイくらいの「影」役でありながら、実際の舞台の上では誰よりも強烈な「光」を放つ、アンバランスさ。
 それがこの作品の魅力となり、他の作品とは一線を画した味わいになっている。

 おーぞらゆーひが、えらいことになってんなぁ。
 そのことがひたすら、おもしろい。

 
 また、この作品を「タカラヅカ」たらしめている要因のひとつに、ヤス役が、みつるであることが、あると思う。

 ヤスという役は、芝居巧者がやってはいけないのだ。
 や、ヘタな人がいいと言っているわけではなく、ある程度巧くなきゃぶちこわしになるが、ほんとの意味で演技の巧い、職人系の人がやってはいけない。
 まりんとかマメとかじゃダメだってこと。タイプとして、未沙さんとかもダメ。

 ヤスを演じていいのは、キラキラ・アイドルだけだ。

 だってここは、タカラヅカだから。
 乞食役でも美しい衣装を着るところだから。

 みっともないなさけないブ男の役を、そのままありのまんま演じてしまえる人は、ダメなんだ。

 銀ちゃんが鼻にティッシュ突っ込んでてなお美しくあるように、ヒゲのダメ男すらキラキラ・キュートでなければ意味がないんだ。「タカラヅカ」である意味が。

 外部の役者さんみたい、と思わせる演技をしちゃいけないんだ、ヤス役は。
 汚い役だからこそ、とびきりきれいな男の子が演じ、「かわいい」と思わせなくてはならないんだ。

 美しい大空祐飛と美しい華形ひかるでこその『銀ちゃんの恋』。『蒲田行進曲』ではなく、宝塚歌劇団の『銀ちゃんの恋』だ。


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