その広い背中が、支えるものは。@銀ちゃんの恋
2008年10月13日 タカラヅカ 『銀ちゃんの恋』は、おもしろかった。
だけどやはりわたしは、石田作品は好きになれないと思った。
映画は見ているが、初演は未見。だから初演『銀ちゃんの恋』を語ることは出来ないし、今回の再演が初演とどう変化しているのかはわからない。
はじめて出会う作品として『銀ちゃんの恋』を観、思ったことは。
大空祐飛ゆえに、この作品がぎりぎりのところで成り立っているということへの、驚き。
ゆーひぢゃなかったら、どうなってたんだヲイ、という疑問。
ゆーひくんゆえに成功してるけど、それは結果論であって、なんでそもそもこんな作品を上演してるんだろう? と、首をひねった。
有名な『蒲田行進曲』を原作とするこの『銀ちゃんの恋』は、タカラヅカという表現形態が持つ「良さ」を活かしにくい。
むしろ、タカラヅカでは描いてはならないネタばかりを、ことさらにあげつらっている。
わざわざヅカでやらなくていいのに。と、思う。
同じテーマを、ハリウッドを舞台に華やかに表現したりするのが、ヅカの醍醐味だと思う。あくまでもおしゃれに、美しく。
それは『蒲田行進曲』でもつかでもないと言うだろうが、そうとも、ヅカなんだから、別ジャンルなんだから、それでいいんだ。そのためにヅカはあるんだ。
つか芝居や『蒲田行進曲』が観たいなら、相応しい場所で観ればいい。なにもヅカでなくても。
という疑問が終始消えなかった。
……が。
それでもなお、『銀ちゃんの恋』は「タカラヅカ」だった。
何故ならば主人公の銀ちゃんを演じるゆーひくんが、とてつもなく、タカラヅカ・スターだったからだ。
「タカラヅカ」という、荒唐無稽な世界で生きる、特殊なイキモノだった。
いくら下世話で汚れた世界を描こうと、ゆーひくんがぶっちぎりで「異世界タカラヅカ」だった。
彼が「世界」を支えていた。
世の中が灰色で、そーだよな所詮世の中こんなもんだよなと思われそうなもんなのに、ゆーひくんが総天然色で現れて、自分の周りに原色を復活させていった。彼が通るところにいちいち色がつき、彼が消えると色も消える。なんかのトリック映像でも見ている気分だった。
演技力がどうとかいう、以前の問題で。
彼がいなかったら、この芝居はどこかよその劇団の芝居みたいになっていた気がする。
出演者は総じて芝居の出来る子たちが集められていた。
だから脇まで不安なく観ていられる。台詞も出番もろくにない子たちだって、みんなふつーに演技うまいもの、台詞言えるもの。
だからこそ余計に、手堅く別カンパニー公演系になる。脚本も演出もヅカではなく、石田お得意の下品さや笑い取りに満ちているわけだし。
うまいだけじゃダメだ。
だってここはタカラヅカ。
「他で観るからいいよ」なモノでは、意味がないんだ。ここでしか観られないモノでなきゃ、ダメなんだ。
芝居なんか、星の数ほどある劇団がいろんなとこでやってんだってば。ヅカでなきゃ存在しないモノを、表現してくれなきゃ。
ここがタカラヅカであり、宝塚歌劇団がこの作品を上演している、公演の存在意義を、ゆーひくんがひとりで担っていた。
ということが、すごく、おもしろい。
外部の芝居でも、タカラヅカ・スターがひとりいれば、真ん中でその力を存分に発揮すれば、それは「タカラヅカ」として成立しうるのか。
その事実に感動した。
『銀ちゃんの恋』は、タイトルに反して銀ちゃん自身は「主人公」ではない。
主人公はヤス@みつるであり、小夏@すみ花だ。銀ちゃん@ゆーひは、彼らの目を通して描かれるのみで、銀ちゃん自身の物語はない。
極端な話、銀ちゃんは登場せず、ヤスや小夏の会話の中だけで描くことも可能だ。
登場しなくても物語進行に支障のないキャラクタは、主人公ぢゃないわな(笑)。
だけど、銀ちゃんは「主役」なんだ。
彼の人生も悩みも考えも、直接には描かれないけれど、彼個人の場面はストーリーと離れひとりで歌っているだけだったりするけれど、ヤスと小夏の視点による物語でしかないけれど、主人公では絶対にないけれど、それでも銀ちゃんこそが「主役」なんだ。
扇の要。絵の部分しか人は見ようとしないけれど、扇が扇として成り立つのは要があるから。
物語的には存在しなくても構わない、概念だけでもイイくらいの「影」役でありながら、実際の舞台の上では誰よりも強烈な「光」を放つ、アンバランスさ。
それがこの作品の魅力となり、他の作品とは一線を画した味わいになっている。
おーぞらゆーひが、えらいことになってんなぁ。
そのことがひたすら、おもしろい。
また、この作品を「タカラヅカ」たらしめている要因のひとつに、ヤス役が、みつるであることが、あると思う。
ヤスという役は、芝居巧者がやってはいけないのだ。
や、ヘタな人がいいと言っているわけではなく、ある程度巧くなきゃぶちこわしになるが、ほんとの意味で演技の巧い、職人系の人がやってはいけない。
まりんとかマメとかじゃダメだってこと。タイプとして、未沙さんとかもダメ。
ヤスを演じていいのは、キラキラ・アイドルだけだ。
だってここは、タカラヅカだから。
乞食役でも美しい衣装を着るところだから。
みっともないなさけないブ男の役を、そのままありのまんま演じてしまえる人は、ダメなんだ。
銀ちゃんが鼻にティッシュ突っ込んでてなお美しくあるように、ヒゲのダメ男すらキラキラ・キュートでなければ意味がないんだ。「タカラヅカ」である意味が。
外部の役者さんみたい、と思わせる演技をしちゃいけないんだ、ヤス役は。
汚い役だからこそ、とびきりきれいな男の子が演じ、「かわいい」と思わせなくてはならないんだ。
美しい大空祐飛と美しい華形ひかるでこその『銀ちゃんの恋』。『蒲田行進曲』ではなく、宝塚歌劇団の『銀ちゃんの恋』だ。
だけどやはりわたしは、石田作品は好きになれないと思った。
映画は見ているが、初演は未見。だから初演『銀ちゃんの恋』を語ることは出来ないし、今回の再演が初演とどう変化しているのかはわからない。
はじめて出会う作品として『銀ちゃんの恋』を観、思ったことは。
大空祐飛ゆえに、この作品がぎりぎりのところで成り立っているということへの、驚き。
ゆーひぢゃなかったら、どうなってたんだヲイ、という疑問。
ゆーひくんゆえに成功してるけど、それは結果論であって、なんでそもそもこんな作品を上演してるんだろう? と、首をひねった。
有名な『蒲田行進曲』を原作とするこの『銀ちゃんの恋』は、タカラヅカという表現形態が持つ「良さ」を活かしにくい。
むしろ、タカラヅカでは描いてはならないネタばかりを、ことさらにあげつらっている。
わざわざヅカでやらなくていいのに。と、思う。
同じテーマを、ハリウッドを舞台に華やかに表現したりするのが、ヅカの醍醐味だと思う。あくまでもおしゃれに、美しく。
それは『蒲田行進曲』でもつかでもないと言うだろうが、そうとも、ヅカなんだから、別ジャンルなんだから、それでいいんだ。そのためにヅカはあるんだ。
つか芝居や『蒲田行進曲』が観たいなら、相応しい場所で観ればいい。なにもヅカでなくても。
という疑問が終始消えなかった。
……が。
それでもなお、『銀ちゃんの恋』は「タカラヅカ」だった。
何故ならば主人公の銀ちゃんを演じるゆーひくんが、とてつもなく、タカラヅカ・スターだったからだ。
「タカラヅカ」という、荒唐無稽な世界で生きる、特殊なイキモノだった。
いくら下世話で汚れた世界を描こうと、ゆーひくんがぶっちぎりで「異世界タカラヅカ」だった。
彼が「世界」を支えていた。
世の中が灰色で、そーだよな所詮世の中こんなもんだよなと思われそうなもんなのに、ゆーひくんが総天然色で現れて、自分の周りに原色を復活させていった。彼が通るところにいちいち色がつき、彼が消えると色も消える。なんかのトリック映像でも見ている気分だった。
演技力がどうとかいう、以前の問題で。
彼がいなかったら、この芝居はどこかよその劇団の芝居みたいになっていた気がする。
出演者は総じて芝居の出来る子たちが集められていた。
だから脇まで不安なく観ていられる。台詞も出番もろくにない子たちだって、みんなふつーに演技うまいもの、台詞言えるもの。
だからこそ余計に、手堅く別カンパニー公演系になる。脚本も演出もヅカではなく、石田お得意の下品さや笑い取りに満ちているわけだし。
うまいだけじゃダメだ。
だってここはタカラヅカ。
「他で観るからいいよ」なモノでは、意味がないんだ。ここでしか観られないモノでなきゃ、ダメなんだ。
芝居なんか、星の数ほどある劇団がいろんなとこでやってんだってば。ヅカでなきゃ存在しないモノを、表現してくれなきゃ。
ここがタカラヅカであり、宝塚歌劇団がこの作品を上演している、公演の存在意義を、ゆーひくんがひとりで担っていた。
ということが、すごく、おもしろい。
外部の芝居でも、タカラヅカ・スターがひとりいれば、真ん中でその力を存分に発揮すれば、それは「タカラヅカ」として成立しうるのか。
その事実に感動した。
『銀ちゃんの恋』は、タイトルに反して銀ちゃん自身は「主人公」ではない。
主人公はヤス@みつるであり、小夏@すみ花だ。銀ちゃん@ゆーひは、彼らの目を通して描かれるのみで、銀ちゃん自身の物語はない。
極端な話、銀ちゃんは登場せず、ヤスや小夏の会話の中だけで描くことも可能だ。
登場しなくても物語進行に支障のないキャラクタは、主人公ぢゃないわな(笑)。
だけど、銀ちゃんは「主役」なんだ。
彼の人生も悩みも考えも、直接には描かれないけれど、彼個人の場面はストーリーと離れひとりで歌っているだけだったりするけれど、ヤスと小夏の視点による物語でしかないけれど、主人公では絶対にないけれど、それでも銀ちゃんこそが「主役」なんだ。
扇の要。絵の部分しか人は見ようとしないけれど、扇が扇として成り立つのは要があるから。
物語的には存在しなくても構わない、概念だけでもイイくらいの「影」役でありながら、実際の舞台の上では誰よりも強烈な「光」を放つ、アンバランスさ。
それがこの作品の魅力となり、他の作品とは一線を画した味わいになっている。
おーぞらゆーひが、えらいことになってんなぁ。
そのことがひたすら、おもしろい。
また、この作品を「タカラヅカ」たらしめている要因のひとつに、ヤス役が、みつるであることが、あると思う。
ヤスという役は、芝居巧者がやってはいけないのだ。
や、ヘタな人がいいと言っているわけではなく、ある程度巧くなきゃぶちこわしになるが、ほんとの意味で演技の巧い、職人系の人がやってはいけない。
まりんとかマメとかじゃダメだってこと。タイプとして、未沙さんとかもダメ。
ヤスを演じていいのは、キラキラ・アイドルだけだ。
だってここは、タカラヅカだから。
乞食役でも美しい衣装を着るところだから。
みっともないなさけないブ男の役を、そのままありのまんま演じてしまえる人は、ダメなんだ。
銀ちゃんが鼻にティッシュ突っ込んでてなお美しくあるように、ヒゲのダメ男すらキラキラ・キュートでなければ意味がないんだ。「タカラヅカ」である意味が。
外部の役者さんみたい、と思わせる演技をしちゃいけないんだ、ヤス役は。
汚い役だからこそ、とびきりきれいな男の子が演じ、「かわいい」と思わせなくてはならないんだ。
美しい大空祐飛と美しい華形ひかるでこその『銀ちゃんの恋』。『蒲田行進曲』ではなく、宝塚歌劇団の『銀ちゃんの恋』だ。