「この世で最も大切なのはオスカル様。オスカル様のためになら、腕でも脚でも目玉でも、なんでも捧げて良し。むしろ捧げなさい」

「この世で最も尊いことは、オスカル様のために生きること。身も心も時間もなにもかも捧げること。この世で最も尊いことは、オスカル様のために死ぬこと」

「オスカル様は素晴らしい。オスカル様は神。オスカル様、オスカル様……」

 幼いアンドレは、繰り返しこの呪文を聞いて育った。
 

 謎の九州弁で話すフランスのプロヴァンス地方で育った彼は、好きな女の子もいる、ふつーの少年だった。
 だが両親の死をきっかけに、彼の人生は大きく変わる。

 ほぼはじめて会う「祖母」を名乗る老婆が現れ、まずアンドレ少年を徹底的に否定した。
「うん、しか言えないの? これだから田舎モノは……」

 アンドレがどんな人格かは関係ない。
 彼に与えられるのは、徹底した「否定」。

「家を畳まなきゃならないから、孫になんか構ってられないよ! ああ忙しい忙しい」

 亡き息子夫婦に代わってアンドレを引き取りに来たと言う老婆は、「アンドレのために来た」はずなのに、彼のことを「どうでもいい」と切り捨てる。

 彼はみなしごの「やっかいもの」で老婆に迷惑を掛けるだけのどうしようもない存在なのだ。たたみかけられる言葉に「うん」しか返せない低脳な彼に価値などなく、「生かしてやるだけ感謝しな」ということなのだ。

 この老婆しか身寄りがないアンドレは、なにを言われてもなにをされても、この老婆にすがるしかない。

 出会った最初から叩き込まれる、「否定」。
 お前はダメな奴だ、お前に生きる価値などない。

 繰り返し繰り返し、老婆は少年に言い聞かせる。

 出会った最初から叩き込まれる、「罪悪感」。
 お前は厄介者だ、お前が生きているだけで他人に迷惑が掛かる。

 繰り返し繰り返し、老婆は少年に言い聞かせる。

 プロヴァンスの生まれ育った家を引き払う最中に、またベルサイユへの道すがら、老婆はわずか8歳の少年の人格を粉砕する。

「生きていてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい」
 ……少年がそう思うところまで、追いつめる。

 さあ罪の子よ、お前に救いの道を示そう。
 生きる価値もないお前が赦されるのは、唯一女神を守ることのみだ。女神の手足となって生き、盾となって死ぬことだ。

 繰り返される呪文。
 アンドレを否定し、オスカルを讃える。

 アンドレは、幼なじみの少女のことを忘れた。幼い恋も、約束も。
 人格も変わった。彼自身の意志はなく、ただ「オスカルのため」という使命感だけが彼を支配する。

「オスカル様のためになら、アンドレの目のひとつやふたつ」
 と言って、当のオスカルの父親に「馬鹿者、アンドレもオスカルも同じ人間だ」と叱られる老婆、というやりとりの直後に、
「オスカルのためなら、目のひとつやふたつくれてやる!」
 と、威勢良く飛び出していくアンドレの、なんと教育の行き届いたことか。

 老婆の言葉は、そのままアンドレの言葉。
 老婆の意志は、そのままアンドレの意志。

 アンドレにはなにもない。
 彼の人格は8歳のときに砕かれた。アンドレはもう死んだ。

 今ここにあるのは、老婆の人形。
 老婆ののぞむままの言葉を喋り、行動を取る。

「目が見えなくなるなんて、それじゃ誰がオスカル様をお守りするの? なんて役立たず。オスカル様を守れないなら、もうお前になんの価値もない、意味もない」
「見えなくても見えている振りをして、戦場に行くよ、おばあちゃん。オスカルを守って立派に死ぬよ」
「そうよ、死になさい。オスカル様のために死ぬのがお前の幸せ、お前の存在が赦される理由だからね」

 
 そうして人形は死んだ。
 見えもしない目で戦場へ行き、真正面から撃たれて死んだ。

 老婆の施した洗脳通り、「オスカル……」と最期に女神の名を呼んで。

 しかし彼の女神、当のオスカルをパリで、戦場で見かけた者は誰ひとりいない。
 アンドレは、そこにいない女神の名を呼んで、衛兵隊の仲間たちに囲まれてひとりで逝った。

「アンドレとオスカル様はパリで死んだ」
 と、老婆は涙ながらに語る。……だが、オスカルの死体を見たものはいない。パリでオスカルを見た者はいない。

 ただ老婆が語るのみだ。

 
 ところで。

 フランス革命をたくましく生き抜いた老婆の手元には、彼女が望んでいた通りのものが手に入ったとか。
 孫に「目でも命でも捧げろ」と言い聞かせていたくせに、自分の髪の毛一本傷めることはしなかった老婆は、哀れな人形をひとつ使い潰した上で、ほんとうに欲しかった人形を手に入れた。

 美しいブロンドの人形は、「愛するアンドレは、パリで死んだ」と知ってからすっかり心を閉ざし、老婆の言いなりになっているとか。

「さあオスカル様、おぐしを梳かしてさしあげましょうね……」

 
            ☆


 マロングラッセこわすぎ……。

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