ひとりの少女の絶望と、再生の物語。@真実
2007年6月9日 タカラヅカ 年寄りなので、昔話をする。
雪組の初演『エリザベート』で、忘れられないエピソードがある。
1幕、教会での結婚式シーン。銀橋のトートと本舞台にいる結婚式出演者たち、そして舞台にいない人たちも陰コーラスとして参加している、歌の掛け合い。
トートがまず歌い、それを継ぐように他出演者全員が歌う。
トート@いっちゃんが、歌詞を間違えた。
次の瞬間、組子全員が、その間違った歌詞で歌った。
誰も、本来の歌詞で歌わず、全員がトートについて行った。
彼らは、ひとつだった。
これは、いっちゃんが自身がエッセイで書いていることだ。
「間違えたことより、みんながついてきたことに興奮した」と。
わたしはこのアクシデントを実際に見ていないと思うが(見ていても気づかないだろう、全員が同じ歌詞で歌ったなら!)、想像して興奮した。
あの場面で。
ハプスブルクの終焉を歌うあの神秘的かつ押し出しの強い場面で、あれほどの人数の声が重なっている状態で。
全員が、なんの打ち合わせもなく、本来とチガウ歌詞を歌うことができるなんて。
『エリザベート』は、そーゆー「奇跡」をあったりまえに孕んだ作品だったんだよなあ。
わたしは一路真輝のファンではない。
長く雪組のファンをしていたので、「わたしの組のトップさん」ということで愛着は強かったが、とくに好きだったことはない。
それでも、彼女の退団記念エッセイ『真実』は購入した。
96年5月、いっちゃんのタカラジェンヌ人生があと1ヶ月ほどで終わるころのことだ。
や、たんに『エリザベート』フィーバーしてたんだよ。なんせわたし、小池修一郎作『小説版・エリザベート』まで買ってたからな!(笑) 「小説」と呼ぶには相当アレな、高いだけのあんな本まで!!
いっちゃんのエッセイは、衝撃的だった。
わたしがそれまでに読んだことがあったのは、杜けあきと大浦みずきのエッセイのみだった。
どちらも、明るく楽しくタカラヅカ生活が綴られていた。
大浦氏は雑誌に連載されていたエッセイを単行本化したものだったから、1章ごとの書かれた間隔が空いていたのだと思う。最初はかなりアレだった文章が、どんどんうまくなっていくのだわ。おお、進化している! と、そんなことでも感動したな(笑)。
それらに比べ、いっちゃんの『真実』はひたすら重く暗いものだった。
ずっと隠していた身体/障/害の告白からはじまり、父親の事件のことまで書かれていた。
父親の事件の具体的な内容については書かれていなかったけれど、事件があったことと、それによっていっちゃん自身がどんな目に遭ったかは書かれている。
90年代、タカラヅカの暴露本が次々出版されていたので、いっちゃんの父親の事件のことは、自然と情報として耳に入った。
いっちゃん自身の手で書かれた、幸福な幼少時代から綴られたエッセイだからこそ、あのしあわせそうな家族がズタズタに引き裂かれる様は読んでいてショックだった。
「一路真輝」だからというより、「タカラヅカ」だからというより、「ひとつの青春小説」として、わたしのツボにハマったのだと思う。
わたしはなにかっちゃー、この本を読み返していた。
そのころのトップスターは、誰もが必ずエッセイを出さなければならなかった。
雪組ファンだったわたしは、カリンチョさん、いっちゃん、タカネくん、トドロキと4世代のトップスター・エッセイを購入したもんだが、いちばんふつーだったのはカリさん、がっかりしたのはユキちゃん、衝撃的だったのはいっちゃん、そして最悪だったのはトドだ(笑)。
タカネくんのエッセイにがっかりしたのは、本人の作品ではなかったことだ。『歌劇』の「えと文」でタカネくんはユニークな文才を披露していたので、すごーく期待していたの。「ユキちゃんのエッセイなら、絶対おもしろいはず!!」……なのに、ライターさんが書いたもので、タカネくん自身の文章ではなかったのだわ。ちゃんとライター名が書いてあった。
まあ、タカネくんの例があったために、「ヅカのエッセイってほんとに本人が書くんだ!」と反対におどろいたよ。芸能人本はゴーストライターが基本、とか、世の中的に言われてるじゃん?!
まあ、「えと文」みたいな、素人丸出し、絵文字だらけのすごい文章を載せてしまうカンパニーだから、エッセイがほんとーに本人執筆でもおかしくないっちゃーないんだが。
トドのエッセイは、ちがった意味で最悪だった。どう最悪だったかを書くと話が長くなるので割愛するが、トップスター・エッセイ企画がなくなったのは、この最悪な作品が原因ではないかと思うくらい、記念的なものすごさだった。
所詮わたしはトドファンなので、盛大に肩を落とし、「トド、さいてー」とつぶやきつつも、その落とした肩がふるふる笑いに震えたけどな(笑)。
どう考えても、いっちゃんの『真実』だけは色が違っている。
わたしは疑り深いので、エッセイだろうと伝記やノンフィクションだろーと、「心にあるまま正直に書いた」「出来事を正しく書いた」などと謳われていても、そのまんま信じられない。
「心」を持った人間が「文章」という技術を利用して具現化する以上、絶対になんらかの「作為」「装飾」「歪曲」がある。
自動筆記マシンじゃないんだから、「真実」そのまま、なんてことあるはずがない。
てな認識だから、いっちゃんの書いた『真実』という本の内容が、どれだけ「真実」かについては、どーでもいいんだ。
そんなことより、そこに「書かれていること」を受け止め、愉しむ。
一路真輝の『真実』は、「青春小説」として、ふつーにおもしろかった。
「宝塚歌劇団」という、わたしのよく知っているジャンルを舞台とした、ひとりの女の子の「自分」との戦いの記録。
彼女が抱えた「闇」は、特別でもなんでもない、誰もが持つ普遍的なモノであると思うからだ。
傷つくことがこわくて、優等生を演じてきた。
嫌われることがこわくて、自分を押し殺してきた。
身体の障/害や家族の事件などはたしかに特別な不幸で、それゆえに心を殺してしまうのはストーリー的にアリだと思うが、そーゆー特別なことがなくったって、人間は多かれ少なかれ似たような痛みを抱えている。
幼いがゆえに闇や痛みを抱え、頑なに殻をまとって自分自身を守ってきた少女が、スターへの階段を上りつつ、さまざまな出来事を通し、人間的に成長していく。
そしてついに、心を開き、闇の部分を解放するに至る。
や、完璧な青春小説だよ。TVドラマ化OK!的な、見事な起承転結ぶり。
その「物語」のクライマックスが、冒頭に書いた『エリザベート』の場面だ。
長い間心を閉ざすことで自分を守ってきたヒロイン。舞台に立つことで、少しずつ心を開き、仲間たちに「自分」を見せられるようになってきていた。
その仲間たちとの最後の公演で、彼女は歌詞を間違えた。致命的な失敗。彼女に続けて出演者全員が掛け合いで歌わなければならないのに、間違えるなんて!! 混乱した出演者たちの歌声が乱れたら、バラバラになったら、舞台はどうなる?!
だが仲間たち75人全員は、一糸乱れず彼女と同じ歌詞で歌った。
迷わず、彼女について行った。
ひとりじゃない。
ひとりじゃないんだ。
心を開き、弱さや汚さを見せたって、本当の仲間なら赦してくれる。
少女・一路真輝のナイーヴさ、いじらしさ。
栄光への道と、内側に抱え込んだ闇。
そして、それらからの解放。
魂がカタルシスへ到達する物語。
文章が巧いわけでもないし、あちこち引っかかるところも相当あるんだが、それも含めて、ある意味お約束通り、ベッタベタな「青春小説」として、わたしはこの本を愛しく思っている。
や、その。
予定以上に、現在の再演版雪組『エリザベート』に散財してしまったもんで。
どれほどわたしにとって『エリザベート』が特別かとゆー意味で、『エリザベート』絡みの昔話でした。
2007/06/20追記。
あまりに毎日「一路真輝 身体/障/害」で検索が来るので、スラッシュを入れてみる。キャッシュが反映されるのはいつになるやら。
カラダのこともパパのことも、詳細を書く気はありませんのでここには来ないでくださいよぅ。てゆーか当時からのヅカファンならみんな知ってることだよぅ。
雪組の初演『エリザベート』で、忘れられないエピソードがある。
1幕、教会での結婚式シーン。銀橋のトートと本舞台にいる結婚式出演者たち、そして舞台にいない人たちも陰コーラスとして参加している、歌の掛け合い。
トートがまず歌い、それを継ぐように他出演者全員が歌う。
トート@いっちゃんが、歌詞を間違えた。
次の瞬間、組子全員が、その間違った歌詞で歌った。
誰も、本来の歌詞で歌わず、全員がトートについて行った。
彼らは、ひとつだった。
これは、いっちゃんが自身がエッセイで書いていることだ。
「間違えたことより、みんながついてきたことに興奮した」と。
わたしはこのアクシデントを実際に見ていないと思うが(見ていても気づかないだろう、全員が同じ歌詞で歌ったなら!)、想像して興奮した。
あの場面で。
ハプスブルクの終焉を歌うあの神秘的かつ押し出しの強い場面で、あれほどの人数の声が重なっている状態で。
全員が、なんの打ち合わせもなく、本来とチガウ歌詞を歌うことができるなんて。
『エリザベート』は、そーゆー「奇跡」をあったりまえに孕んだ作品だったんだよなあ。
わたしは一路真輝のファンではない。
長く雪組のファンをしていたので、「わたしの組のトップさん」ということで愛着は強かったが、とくに好きだったことはない。
それでも、彼女の退団記念エッセイ『真実』は購入した。
96年5月、いっちゃんのタカラジェンヌ人生があと1ヶ月ほどで終わるころのことだ。
や、たんに『エリザベート』フィーバーしてたんだよ。なんせわたし、小池修一郎作『小説版・エリザベート』まで買ってたからな!(笑) 「小説」と呼ぶには相当アレな、高いだけのあんな本まで!!
いっちゃんのエッセイは、衝撃的だった。
わたしがそれまでに読んだことがあったのは、杜けあきと大浦みずきのエッセイのみだった。
どちらも、明るく楽しくタカラヅカ生活が綴られていた。
大浦氏は雑誌に連載されていたエッセイを単行本化したものだったから、1章ごとの書かれた間隔が空いていたのだと思う。最初はかなりアレだった文章が、どんどんうまくなっていくのだわ。おお、進化している! と、そんなことでも感動したな(笑)。
それらに比べ、いっちゃんの『真実』はひたすら重く暗いものだった。
ずっと隠していた身体/障/害の告白からはじまり、父親の事件のことまで書かれていた。
父親の事件の具体的な内容については書かれていなかったけれど、事件があったことと、それによっていっちゃん自身がどんな目に遭ったかは書かれている。
90年代、タカラヅカの暴露本が次々出版されていたので、いっちゃんの父親の事件のことは、自然と情報として耳に入った。
いっちゃん自身の手で書かれた、幸福な幼少時代から綴られたエッセイだからこそ、あのしあわせそうな家族がズタズタに引き裂かれる様は読んでいてショックだった。
「一路真輝」だからというより、「タカラヅカ」だからというより、「ひとつの青春小説」として、わたしのツボにハマったのだと思う。
わたしはなにかっちゃー、この本を読み返していた。
そのころのトップスターは、誰もが必ずエッセイを出さなければならなかった。
雪組ファンだったわたしは、カリンチョさん、いっちゃん、タカネくん、トドロキと4世代のトップスター・エッセイを購入したもんだが、いちばんふつーだったのはカリさん、がっかりしたのはユキちゃん、衝撃的だったのはいっちゃん、そして最悪だったのはトドだ(笑)。
タカネくんのエッセイにがっかりしたのは、本人の作品ではなかったことだ。『歌劇』の「えと文」でタカネくんはユニークな文才を披露していたので、すごーく期待していたの。「ユキちゃんのエッセイなら、絶対おもしろいはず!!」……なのに、ライターさんが書いたもので、タカネくん自身の文章ではなかったのだわ。ちゃんとライター名が書いてあった。
まあ、タカネくんの例があったために、「ヅカのエッセイってほんとに本人が書くんだ!」と反対におどろいたよ。芸能人本はゴーストライターが基本、とか、世の中的に言われてるじゃん?!
まあ、「えと文」みたいな、素人丸出し、絵文字だらけのすごい文章を載せてしまうカンパニーだから、エッセイがほんとーに本人執筆でもおかしくないっちゃーないんだが。
トドのエッセイは、ちがった意味で最悪だった。どう最悪だったかを書くと話が長くなるので割愛するが、トップスター・エッセイ企画がなくなったのは、この最悪な作品が原因ではないかと思うくらい、記念的なものすごさだった。
所詮わたしはトドファンなので、盛大に肩を落とし、「トド、さいてー」とつぶやきつつも、その落とした肩がふるふる笑いに震えたけどな(笑)。
どう考えても、いっちゃんの『真実』だけは色が違っている。
わたしは疑り深いので、エッセイだろうと伝記やノンフィクションだろーと、「心にあるまま正直に書いた」「出来事を正しく書いた」などと謳われていても、そのまんま信じられない。
「心」を持った人間が「文章」という技術を利用して具現化する以上、絶対になんらかの「作為」「装飾」「歪曲」がある。
自動筆記マシンじゃないんだから、「真実」そのまま、なんてことあるはずがない。
てな認識だから、いっちゃんの書いた『真実』という本の内容が、どれだけ「真実」かについては、どーでもいいんだ。
そんなことより、そこに「書かれていること」を受け止め、愉しむ。
一路真輝の『真実』は、「青春小説」として、ふつーにおもしろかった。
「宝塚歌劇団」という、わたしのよく知っているジャンルを舞台とした、ひとりの女の子の「自分」との戦いの記録。
彼女が抱えた「闇」は、特別でもなんでもない、誰もが持つ普遍的なモノであると思うからだ。
傷つくことがこわくて、優等生を演じてきた。
嫌われることがこわくて、自分を押し殺してきた。
身体の障/害や家族の事件などはたしかに特別な不幸で、それゆえに心を殺してしまうのはストーリー的にアリだと思うが、そーゆー特別なことがなくったって、人間は多かれ少なかれ似たような痛みを抱えている。
幼いがゆえに闇や痛みを抱え、頑なに殻をまとって自分自身を守ってきた少女が、スターへの階段を上りつつ、さまざまな出来事を通し、人間的に成長していく。
そしてついに、心を開き、闇の部分を解放するに至る。
や、完璧な青春小説だよ。TVドラマ化OK!的な、見事な起承転結ぶり。
その「物語」のクライマックスが、冒頭に書いた『エリザベート』の場面だ。
長い間心を閉ざすことで自分を守ってきたヒロイン。舞台に立つことで、少しずつ心を開き、仲間たちに「自分」を見せられるようになってきていた。
その仲間たちとの最後の公演で、彼女は歌詞を間違えた。致命的な失敗。彼女に続けて出演者全員が掛け合いで歌わなければならないのに、間違えるなんて!! 混乱した出演者たちの歌声が乱れたら、バラバラになったら、舞台はどうなる?!
だが仲間たち75人全員は、一糸乱れず彼女と同じ歌詞で歌った。
迷わず、彼女について行った。
ひとりじゃない。
ひとりじゃないんだ。
心を開き、弱さや汚さを見せたって、本当の仲間なら赦してくれる。
少女・一路真輝のナイーヴさ、いじらしさ。
栄光への道と、内側に抱え込んだ闇。
そして、それらからの解放。
魂がカタルシスへ到達する物語。
文章が巧いわけでもないし、あちこち引っかかるところも相当あるんだが、それも含めて、ある意味お約束通り、ベッタベタな「青春小説」として、わたしはこの本を愛しく思っている。
や、その。
予定以上に、現在の再演版雪組『エリザベート』に散財してしまったもんで。
どれほどわたしにとって『エリザベート』が特別かとゆー意味で、『エリザベート』絡みの昔話でした。
2007/06/20追記。
あまりに毎日「一路真輝 身体/障/害」で検索が来るので、スラッシュを入れてみる。キャッシュが反映されるのはいつになるやら。
カラダのこともパパのことも、詳細を書く気はありませんのでここには来ないでくださいよぅ。てゆーか当時からのヅカファンならみんな知ってることだよぅ。