ルキーニの愛の行方は?・その2。@エリザベート
2007年6月15日 タカラヅカ 異世界トートと、たのしそーなルキーニを中心にしての、独断と偏見、思いこみだけでここまで語るか『エリザベート』をやってみましょー。
トートは異次元生物だから、わたしたちと同じ理で生きていない。
だから彼は、愛情表現としてシシィを苦しめまくる。
それが、いざ彼女から「死なせて」と言ってきたときはじめて「チガウ」ことに気づく。
それ以降トートとシシィの場面はないが、おそらくトートは愛情表現を変えたのだろう。人間の側にまで、堕ちてきたんだ。
「最終答弁」のトート閣下は、「変わった」あとの閣下だ。
あれほど喜怒哀楽が人間離れしていたのに、フランツごとき(ごめん)を相手に「ただの人間」のようなうろたえ方をする。
「アナタは恐れている。愛を拒絶されるのを!」
「チガウ!!(絶叫)」
で、ルキーニを使ってのシシィ暗殺。「拒絶なんかされないもん! ちゃんと愛されてるもん!」てか?
重要なのは、「描かれていない部分」だと思う。
すなわち、トートがシシィを拒絶したあとから、シシィ暗殺までの、間。
トートが「人間」になり、「人間」の感性でひとりの女を愛した部分。
トートは「人間」だから、迷ったんだ。
エリザベートを見守ってきた。彼女とはたしかに心の交歓があったと思う。愛があると、思う。
でも……ほんとうに?
自分のカンチガイ、思いこみに過ぎないんじゃないだろうか。
フランツが言うように、自分は黄泉の帝王なのだから、人間の女が愛するはずがないんじゃないのか?
だから彼は声を荒らげ、「チガウ!」と絶叫する。
それでも、己の正しさを証明するために、ルキーニにナイフを渡す。
トートとエリザベートの関係は、今回の新演出で答えが出た。
では、残りはルキーニの裁判、最終答弁とはなにか? ってことだけど。
そもそもコレはすべて、ルキーニの「中」の物語なんじゃないの?
裁判も、トートもシシィも、なにもかも。
だから、時代も場面もとびまくる。ルキーニが選ぶままに。
たのしそうなルキーニ。
脳内世界、彼のインナーワールド。彼が「神」である世界。
登場人物は、実在だと思うよ。
彼らが痛みを持って生きたのはほんとう。
だが、それを物語るルキーニが、好きにゆがめ、脚色しているのだと思う。
トートだけが、虚像かもしれないと思うんだ。
エリザベート、フランツ、ゾフィー、ルドルフたちは全部ホンモノ。
そこに「トート」という「ありえないもの」を組み込み、創作した。
史実を元にしたファンタジー。
トートが「人間」になってシシィと愛し合う場面は全カット。
「夜のボート」のときにシシィはもう、トートとの愛を無意識にでも認めているのに。そうなるに至った場面は描かれない。
「最終答弁」も話途中。
なんの決着もつかないのに、突然ぶった切り。
そしてルキーニは、今までの「語り手」から「登場人物」になる。
彼のこの豹変ぶりがねー。
物語の作者が、自分の作品の中に自分役で登場して、うれしがって張り切りすぎているよーに見えるのよー(笑)。
トートがルキーニの「創作」した唯一の「オリジナル・キャラクタ」ならば、その思い入れは特別だと思うのよ。
ほら、アレだ。
「新撰組」の大ファンが「新撰組」の小説(でもマンガでも舞台でもいいや)を書いてさ、隊士のひとりを「自分自身」に置き換えて視点とし、オリジナル・キャラクタを主人公にして物語を描くの。
たとえば、山崎さんが語り部で、田中一郎というオリジナル・キャラクタ(剣の達人で沖田の親友、でもじつは男装の美少女、とか。妄想炸裂)を出して「新撰組」の物語を展開、「自分自身」でもある視点の山崎主役の回とかは、すっげー力入ってます、てへ☆ てなもん。
語り部で視点は山崎だけど、描きたかったのは男装の美少女・田中一郎と土方歳三の恋だから! みたいな。田中一郎こそが、実は「自分自身」の妄想の権化だから! みたいな。
ルキーニは、シシィが好き。
語り手でしかないくせに、シシィとだけはラヴラヴ遊んでいる。
トートがかっこよく「黄泉の帝王」としてシシィをはじめ、人間たちを翻弄している場面は描く。
でも、ほんとうの恋に落ちて、「人間」として、みっともなく悩んだだろう、展開が地味になっただろう場面はさくっとカット。
語り手であった自分が「登場人物」として、物語の中に登場する場面は描く。活き活きと、「狂気のテロリスト役」を演じる。過剰なほどの狂気っぷりで。
そして、シシィがトートを選び、ふたりはハッピーエンド。
トートが、ルキーニの「妄想」ならば、すべて辻褄が合う。
トートはルキーニの、「夢の自分自身」。ドリーム小説の主人公だ。
ルキーニが好きなシシィを、「夢の自分自身」であるトートも好き。もちろん。「閣下」と敬ってみせるのも、「自分を好き」なだけ。
そして、「夢の自分自身」になって、好きな女の子とハッピーエンドになるんだ。
田中一郎、というキャラを生み出して、脳内ストーリー「新撰組」で大好きな土方さんと恋に落ちるよーなもんだ。
ルキーニは「ニヒル・キャラ」ってことで、物語すべてを俯瞰し、「神」の傲慢さで嘲笑しながら眺めている。
活き活きと、自由自在に歌い、たのしそうに。
行き過ぎた爬虫類系トート、彼が強い分弱く淡くなったルドルフ、革命家たち。
全部全部、ルキーニの思いのまま。
ルキーニはトートを好きだと思うよ。
大切な、「夢の自分自身」だもん。
でも、この物語を創作した「神」である自分の方がもっともっと好きなんだけどね。
ルキーニが「人として」あんなにコワレているのも、ここが彼の脳内だから。
現実の社会の彼は、もっとまともかもよ?
ネットでえらそーに書き散らして悦に入っている人が、リアルでは地味で小心なふつーの人だったりするようにな。(えっ、あたしのことですか?!)
なんか、自分的に辻褄合っちゃったんですけど、ダメかなっ?
ルキーニに愛はある、ということで(笑)。
トートは異次元生物だから、わたしたちと同じ理で生きていない。
だから彼は、愛情表現としてシシィを苦しめまくる。
それが、いざ彼女から「死なせて」と言ってきたときはじめて「チガウ」ことに気づく。
それ以降トートとシシィの場面はないが、おそらくトートは愛情表現を変えたのだろう。人間の側にまで、堕ちてきたんだ。
「最終答弁」のトート閣下は、「変わった」あとの閣下だ。
あれほど喜怒哀楽が人間離れしていたのに、フランツごとき(ごめん)を相手に「ただの人間」のようなうろたえ方をする。
「アナタは恐れている。愛を拒絶されるのを!」
「チガウ!!(絶叫)」
で、ルキーニを使ってのシシィ暗殺。「拒絶なんかされないもん! ちゃんと愛されてるもん!」てか?
重要なのは、「描かれていない部分」だと思う。
すなわち、トートがシシィを拒絶したあとから、シシィ暗殺までの、間。
トートが「人間」になり、「人間」の感性でひとりの女を愛した部分。
トートは「人間」だから、迷ったんだ。
エリザベートを見守ってきた。彼女とはたしかに心の交歓があったと思う。愛があると、思う。
でも……ほんとうに?
自分のカンチガイ、思いこみに過ぎないんじゃないだろうか。
フランツが言うように、自分は黄泉の帝王なのだから、人間の女が愛するはずがないんじゃないのか?
だから彼は声を荒らげ、「チガウ!」と絶叫する。
それでも、己の正しさを証明するために、ルキーニにナイフを渡す。
トートとエリザベートの関係は、今回の新演出で答えが出た。
では、残りはルキーニの裁判、最終答弁とはなにか? ってことだけど。
そもそもコレはすべて、ルキーニの「中」の物語なんじゃないの?
裁判も、トートもシシィも、なにもかも。
だから、時代も場面もとびまくる。ルキーニが選ぶままに。
たのしそうなルキーニ。
脳内世界、彼のインナーワールド。彼が「神」である世界。
登場人物は、実在だと思うよ。
彼らが痛みを持って生きたのはほんとう。
だが、それを物語るルキーニが、好きにゆがめ、脚色しているのだと思う。
トートだけが、虚像かもしれないと思うんだ。
エリザベート、フランツ、ゾフィー、ルドルフたちは全部ホンモノ。
そこに「トート」という「ありえないもの」を組み込み、創作した。
史実を元にしたファンタジー。
トートが「人間」になってシシィと愛し合う場面は全カット。
「夜のボート」のときにシシィはもう、トートとの愛を無意識にでも認めているのに。そうなるに至った場面は描かれない。
「最終答弁」も話途中。
なんの決着もつかないのに、突然ぶった切り。
そしてルキーニは、今までの「語り手」から「登場人物」になる。
彼のこの豹変ぶりがねー。
物語の作者が、自分の作品の中に自分役で登場して、うれしがって張り切りすぎているよーに見えるのよー(笑)。
トートがルキーニの「創作」した唯一の「オリジナル・キャラクタ」ならば、その思い入れは特別だと思うのよ。
ほら、アレだ。
「新撰組」の大ファンが「新撰組」の小説(でもマンガでも舞台でもいいや)を書いてさ、隊士のひとりを「自分自身」に置き換えて視点とし、オリジナル・キャラクタを主人公にして物語を描くの。
たとえば、山崎さんが語り部で、田中一郎というオリジナル・キャラクタ(剣の達人で沖田の親友、でもじつは男装の美少女、とか。妄想炸裂)を出して「新撰組」の物語を展開、「自分自身」でもある視点の山崎主役の回とかは、すっげー力入ってます、てへ☆ てなもん。
語り部で視点は山崎だけど、描きたかったのは男装の美少女・田中一郎と土方歳三の恋だから! みたいな。田中一郎こそが、実は「自分自身」の妄想の権化だから! みたいな。
ルキーニは、シシィが好き。
語り手でしかないくせに、シシィとだけはラヴラヴ遊んでいる。
トートがかっこよく「黄泉の帝王」としてシシィをはじめ、人間たちを翻弄している場面は描く。
でも、ほんとうの恋に落ちて、「人間」として、みっともなく悩んだだろう、展開が地味になっただろう場面はさくっとカット。
語り手であった自分が「登場人物」として、物語の中に登場する場面は描く。活き活きと、「狂気のテロリスト役」を演じる。過剰なほどの狂気っぷりで。
そして、シシィがトートを選び、ふたりはハッピーエンド。
トートが、ルキーニの「妄想」ならば、すべて辻褄が合う。
トートはルキーニの、「夢の自分自身」。ドリーム小説の主人公だ。
ルキーニが好きなシシィを、「夢の自分自身」であるトートも好き。もちろん。「閣下」と敬ってみせるのも、「自分を好き」なだけ。
そして、「夢の自分自身」になって、好きな女の子とハッピーエンドになるんだ。
田中一郎、というキャラを生み出して、脳内ストーリー「新撰組」で大好きな土方さんと恋に落ちるよーなもんだ。
ルキーニは「ニヒル・キャラ」ってことで、物語すべてを俯瞰し、「神」の傲慢さで嘲笑しながら眺めている。
活き活きと、自由自在に歌い、たのしそうに。
行き過ぎた爬虫類系トート、彼が強い分弱く淡くなったルドルフ、革命家たち。
全部全部、ルキーニの思いのまま。
ルキーニはトートを好きだと思うよ。
大切な、「夢の自分自身」だもん。
でも、この物語を創作した「神」である自分の方がもっともっと好きなんだけどね。
ルキーニが「人として」あんなにコワレているのも、ここが彼の脳内だから。
現実の社会の彼は、もっとまともかもよ?
ネットでえらそーに書き散らして悦に入っている人が、リアルでは地味で小心なふつーの人だったりするようにな。(えっ、あたしのことですか?!)
なんか、自分的に辻褄合っちゃったんですけど、ダメかなっ?
ルキーニに愛はある、ということで(笑)。