ひとは、きれいなままでは生きられないのだ。

 『舞姫』は、太田豊太郎というひとりの青年の成長の物語だ。青春と呼ばれる時代との決別の物語だ。

 それと同時に。
 豊太郎とその恋人エリス、親友・相沢。3人の主要人物それぞれが罪を犯す物語でもある。

 3人はみな、悪人ではない。
 それぞれ善良で、誠実に生きている。
 だが、それだけではどうしようもなかった。
 心の正しい、やさしい人々が、罪を犯す物語。犯さざるを得なかった物語。

 そして。
 誰もが他人の罪を責めず、赦し、己の心のうちに傷みを抱きしめて生き続ける。

 だからこそ、たまらなく切なく、美しい物語である。

 太田豊太郎は、武士の子として、太田家の嫡男として、厳しく育てられた優秀な青年。母の言いなりになっているのではなく、彼女への愛、彼女の期待に応える息子でありたいという願いに加え、彼女の求める美学を、豊太郎自身正しいと思っているからこそ。
 ひとつの道しか知らなかった豊太郎が、ドイツにて新しい思想と出会う。今までの日本的なものを否定するのではなく、そのうえでの展望。和の心を尊びながらも、くさびから解き放たれ自由になることは可能なはずだ。
 向学心にあふれ、欧米への卑屈さも拒絶反応もない豊太郎は、積極的に新しい世界へとけ込み、知識を吸収し、感性を豊かにしていく。
 そーゆー素直なキャラクタだからこそ、異国の少女エリスと愛し合った。
 日本人だけで寄り集まって完結している他の留学生たちには、ありえないことだ。

 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 その決断でどれほど苦しむことになっても、自分の意志で動き、誰のせいにもなんのせいにもしない。あまりにも、まっすぐな性格。

 エリスを選んだために、彼は仕事と名誉と、母を失う。
 名を汚す、というのは、今までの彼の生きてきた世界での価値観でいえば、死に等しい。名誉を守るために切腹するのが常識であるからだ。
 実際、豊太郎の母はそのために死んだ。名を汚すくらいなら死を選ぶ。その価値観を貫いた。

 豊太郎がエリスを選んだのは、ほんとうにえらんだのは、免官か帰国かを突きつけられたときではない。
 免官となり、母の自害を知ったあとだ。

 それまでの自分の世界と、今自分がいる場所の差を思い知らされ、どちらの価値観を選ぶかを迫られた。

 
 わたしは、この作品を「出演者へのアテ書き」だとは思っていない。
 景子タンまたしてもアテ書きはしなかったんだな、いつもと同じ「ニュートラルに主役がカッコイイ話」を書いたんだな、と思っている。
 『THE LAST PARTY』や『Le Petit Jardin』がそうであるように。
 ある程度の男役スキルを持つ人ならば、誰でも演じられるし、誰が演じても「カッコイイ! こんな役を、こんなストーリーを見たかった!」と思える作品。
 別配役でも観てみたい、と思える作品は、アテ書き作品ぢゃないぞっと。
 景子先生の作品は、見終わったあとに妄想配役で盛り上がれるんだよなー。「スコット役は別の人で見てみたかったなー」とか、「豊太郎役は誰々で見てみたい」とかさー。

 そして、やはりこれもいつもの景子せんせ作品と同じように、「少女マンガ」だと思う。
 きれい。ひたすら、きれい。
 闇の部分、濁の部分が存在しない、ただ甘くきれいなだけの作品。
 裏切りや慟哭があってなお、絶対に「きれい」。少女マンガの域を決して踏み外さない潔癖さ。

 わたしは景子先生の作品が大好きだけれど、今のところ真の意味で彼女のファン……というか、信者と呼ばれる熱狂的ファンにはなれないと思う。
 わたしが愛するのは、「闇」であり「濁」であるからだ。
 きれいなものは大好きだけど、その根幹にあるのが「闇」や「絶望」であるものにこそ、惹かれるからだ。
 彼女の作品は、「きれいすぎる」。
 「毒」がない。
 それがわたしには、物足りない。

 もちろん、植田景子を語るときに必ず明記していることだが、その「きれいなだけ」「醜いモノは徹底排除」した、「少女マンガまんま」の世界観は、タカラヅカというジャンルに相応しいんだ。
 よくぞここまで正しくタカラヅカな作品を作ってくれる、と感動しているのも本当。
 だからこそ好きなのも本当。

 
 と、ちと脱線して植田景子とその作品語りをしたうえで、話は『舞姫』に戻る。
 そーゆー景子タン作品だが、ときどき「景子タン」の枠を超えて「毒」を持つことがある。
 脚本にどれだけ「毒」が存在しなくても、舞台は役者のモノだ。役者がどう演じるかで色は変わる。

 わたしがこの『舞姫』を好きなのは、……おそらく、景子タンの書いた脚本以上に好きなのは、豊太郎@みわっちの持つ狂気だ。

 べつにコレ、みわっちアテ書きぢゃないし、みわっちの魅力をいちばん表現できるような役でもないし、みわっち以上に豊太郎をうまく演じられる人はいくらでもいるだろう。
 でもわたしは、みわっちの豊太郎が好き。

 ただきれいなだけの脚本で。きれいなだけに終始できる役で。

 みわさんが、狂気を放つ。

 豊太郎がエリスを選んだとき。
 免官となり、母の自害を知ったあと。

 豊太郎が慟哭する意味が、エリスにはわからない。

「愛より生命より大切なモノがあるの?」

 そう歌うエリスを、豊太郎は見つめる。
 彼がほんとうの意味で選んだのは、このとき。
 それまでの自分の世界と、今自分がいる場所の差を思い知らされた。

 今までの価値観を捨てるということは、ほんとうに、すべてを捨てるということ。
 べつに、ドイツがどうとか日本がどうとかじゃない。そんな物理的な話ではなくて。

 今、エリスを愛するということは、彼女を選ぶということは、豊太郎のこれまでの人生すべてを否定するということ。
 幼い頃から「名誉のために、義のため死ね」と教えられてきた彼のアイデンティティーの放棄。

 だってエリスは、豊太郎の価値観を「わからない」と否定したんだ。母親がその価値観で死んでいるっつーに、「わからない」と一刀両断だよ?
 ふつーなら、ここでふたりの関係は終わりだ。
 ここまで根本的な考え方がチガウなら、好意を持ちようがない。

 エリスを受け入れる、選ぶということは、自害した母親を彼女の言う通りの「犬死」に貶めることだ。や、エリスは別に明言してないけど、そーゆーことだよね、「体面のために自殺するなんて、理解できない。世の中にはもっと大切なことがあるのに」というのは。
 母親の死を貶められてまで、豊太郎は彼女を選ぶ。

「わたしにはわからない」
 と、豊太郎の人生を全否定するエリスに、豊太郎は、

「愛している」

 と返す。


 その瞳に宿る、狂気。

「愛より生命より大切なモノがあるの?」
 と否定を歌うエリスと、
「この少女が変えた」
 と、己の世界を歌う豊太郎。

 エリスは豊太郎を理解しない。それどころか、否定する。豊太郎はそれがわかっていてなお、彼女を選ぶ。

 世界を滅ぼしても、この女を選ぶ。

 豊太郎の狂気は、そーゆーことだ。
 免官されたとか祖国に帰れないとかそーゆー次元のことではなくて。
 豊太郎は「世界」を敵に回したんだ。エリスを愛するために。

 それを豊太郎自身痛感しているからこその、狂気だ。
 彼は母を殺した。
 あれほど愛し、誇りにしてきた母親を、殺した。
 自殺させたことじゃない。それまでは「自殺」だったが、彼女の生命を懸けた訴えを「わからない」と否定した少女を肯定したときに、豊太郎は母を殺したんだ。

 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 彼は自分の意志と責任で、母を殺した。

 その手を罪に染めた瞬間。
 エリスを見つめる豊太郎の瞳に輝く狂気。

 あ、狂ってる。
 ……そう思える、太田豊太郎。

 だからこそ、みわっちなんだ。
 他の人じゃダメ。
 きれいなだけの脚本を、きれいなまま演じる人じゃ、わたしは嫌。

 豊太郎の犯した最初の罪。
 母親殺し。


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