彼らが、罪を犯す物語・3。@舞姫
2007年6月28日 タカラヅカ 相沢謙吉は、善人である。
わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが善人であることを、とくに「すごい」ことだとは思わない。
ひとは誰でも基本善人だから、彼は善良であるという前に、凡人なのだと、思う。
ふつーなんだと思う。
そのふつーの人が、取り返しのつかない罪を犯す。
「いかなる善意からはじまった行いも、終わりがすべてを決める」@『暁のローマ』
相沢は、罪を犯す。
親友・太田豊太郎のために。祖国・日本のために。そして、親友の愛した女性・エリスのために。
『舞姫』という作品で、もっとも大きくわかりやすく「罪」あるいは「過ち」とされるのが、相沢がエリスを発狂に追いやること、だ。しかも豊太郎の意識のない間のスタンドプレイとして。
相沢のキャラクタは1幕から丁寧に創られている。
豊太郎を愛し、尊敬し、誇りにしている男。一種盲目的。
豊太郎の免官騒ぎのときも、豊太郎の母が自害してまでその行動を責めたのに対し、相沢は一貫して豊太郎を守る立場を貫く。
世界を敵に回しても、ボクだけは君の味方だ。てなノリですな。
なにがあろうと揺るぐことなく豊太郎を愛し、信じ、彼の側に立つ。
溺愛し盲信しているよーだが、強く苦言も呈する。
こんな参謀がいたら、天下取れるんぢゃね?(笑)
副官タイプの男だなー、つくづく。で、トップのために汚れ役・憎まれ役を進んで引き受ける。
相沢が善人であることについては「ふつー」認定だし、愛する人のために努力することも、「ふつー」認定なんだ、わたし的に。
誰だってそうでしょ? 知らない人のためだとか、軽蔑したり嫌っている人のために粉骨砕身してわざわざなにかしてやったりしなくても、夫や子どものためならなんでもするじゃん? 愛してたらそれがふつー。
別に、偉大なことでも素晴らしいことでもない。
相沢だって、豊太郎相手だからそこまでするわけで、他の人相手に同じことをするとは思えない。
だから彼は、ふつーの人。
1幕から丁寧に、彼がどれだけ「ふつー」の人かを表現している。
ふつーであるがゆえの、自然な言動。
それゆえに彼は、豊太郎にエリスと別れろと言い、実際にエリスに別れ話を直接切り出すんだ。
豊太郎もエリスも、「至上の愛」に踏み込んだ人たちだ。
「ふつー」を捨て、「それは人としてどうよ?」な領域に踏み込んだ非凡な人々。
エリスは狂っているし、豊太郎は母親を殺しているし。
彼らの域まで到達することは、凡人にはあまり考えられない。
だから彼らはアンタッチャブル、観客はあくまでも「観客」の立場で美しい慟哭を見ていられる。
しかし、相沢は。
主要人物のうちで彼ひとりが凡人だ。わたしたち側の人間だ。
わたしたちがよく見知っている常識で考え、理性や建前で行動する人。
つまり。
わたしたちは、いつでも相沢たり得るんだ。
相沢が犯した罪は、わたしたちが明日犯す罪かもしれない。
正しいことを善意ゆえにして、取り返しのつかない事態になる。
それは、十分ありえることだ。いつでも、起こりうることだ。
横断歩道をよぼよぼ渡っているおばあさんがいて、親切心で声を掛け、手を取って一緒に渡ってあげた。そんなことをしているうちに、目を離した小さな息子が道路に飛び出して事故に遭った。……そんな感じの罪。
正しいことを、善意でしただけなのに。それゆえに悲劇が起こったとしても、それはもう避けられなかったことで、誰がどうすることも出来なかったことのはずで。
だけど、悲劇は悲劇で。
相沢の罪は、そんなやるせない悲劇。
相沢を悪者にせず、きちんと「凡人」であるスタンスを描ききっているところがすごい。
ステレオタイプの悪人は、ある意味非凡で、観客からかけ離れた存在だからだ。
豊太郎とエリスを「純」とし、ソレに対する「悪」(俗、でもいい)として対比させるのではなく、「純」(狂、でもいい)に対する「凡」(正、でもいい)としてあざやかに対比させた。
白いドレス姿で、日本の舞扇を手に踊るエリスのように。
相反するモノを配置し、美を際立たせる。
そして「凡人」である相沢の救いは、彼が「とことん誠実」であること。
彼もまた、自分の行いから決して逃げない。凡人であるかもしれないが、いや、凡人であるからこそ、卑劣な真似はしない。
わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが「自分の罪から逃げない」のは、彼が「ふつー」であるがゆえだと思うのですよ。
ふつーの人ってみんな、程度の差こそあれ、善良だよね?
その程度の差を考えたときに、それでも、相沢くんは、強い人だと思うのだけど。
ふつーだけど、ふつーより強い人だと。
常識の範囲内で生きる人だけど、天才ではないけれど、強さを持った人なんだって。
相沢が犯した罪は、誰でも犯しかねない罪。
人間は、誰だって罪を犯す。誰ひとり、なにひとつ傷つけないで生きられる者はいない。
人間は、誰だって転ぶ。一度も倒れずに生きることなんてありえない。
だから、問題は。
罪を犯したあと、どう生きるかだ。
転んだあと、どう立ち上がるかだ。
罪を犯すところまでは、平凡。
相沢くんはわたしたち、凡人代表、観客代表だ。
エリスを発狂させたあとに、彼の真価が問われる。
相沢謙吉は、太田豊太郎の親友である。
豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
相沢もまた、豊太郎の親友たる男である。
友人を見れば、その人となりがわかる。
豊太郎が一角の人物であるのならば、相沢もそうであるはずだ。豊太郎より凡人だとしても。
わたしたち凡人側だった相沢くんは、あくまでもわたしたち側に立ったまま、未来を見せてくれる。
天才ゆえの慟哭だの悲劇だのではなく、等身大の奇跡を見せてくれる。
立ち上がれ。
逃げるな。
立ち向かえ。
自分自身に。
愛する者に。
日常に。
人間たちが、罪を犯す物語。
罪を犯してまで、誰かを愛する物語。
罪と向き合い、背負い、生きていく物語。
語られるのは過去。
そして、見えてくるのは、未来。
わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが善人であることを、とくに「すごい」ことだとは思わない。
ひとは誰でも基本善人だから、彼は善良であるという前に、凡人なのだと、思う。
ふつーなんだと思う。
そのふつーの人が、取り返しのつかない罪を犯す。
「いかなる善意からはじまった行いも、終わりがすべてを決める」@『暁のローマ』
相沢は、罪を犯す。
親友・太田豊太郎のために。祖国・日本のために。そして、親友の愛した女性・エリスのために。
『舞姫』という作品で、もっとも大きくわかりやすく「罪」あるいは「過ち」とされるのが、相沢がエリスを発狂に追いやること、だ。しかも豊太郎の意識のない間のスタンドプレイとして。
相沢のキャラクタは1幕から丁寧に創られている。
豊太郎を愛し、尊敬し、誇りにしている男。一種盲目的。
豊太郎の免官騒ぎのときも、豊太郎の母が自害してまでその行動を責めたのに対し、相沢は一貫して豊太郎を守る立場を貫く。
世界を敵に回しても、ボクだけは君の味方だ。てなノリですな。
なにがあろうと揺るぐことなく豊太郎を愛し、信じ、彼の側に立つ。
溺愛し盲信しているよーだが、強く苦言も呈する。
こんな参謀がいたら、天下取れるんぢゃね?(笑)
副官タイプの男だなー、つくづく。で、トップのために汚れ役・憎まれ役を進んで引き受ける。
相沢が善人であることについては「ふつー」認定だし、愛する人のために努力することも、「ふつー」認定なんだ、わたし的に。
誰だってそうでしょ? 知らない人のためだとか、軽蔑したり嫌っている人のために粉骨砕身してわざわざなにかしてやったりしなくても、夫や子どものためならなんでもするじゃん? 愛してたらそれがふつー。
別に、偉大なことでも素晴らしいことでもない。
相沢だって、豊太郎相手だからそこまでするわけで、他の人相手に同じことをするとは思えない。
だから彼は、ふつーの人。
1幕から丁寧に、彼がどれだけ「ふつー」の人かを表現している。
ふつーであるがゆえの、自然な言動。
それゆえに彼は、豊太郎にエリスと別れろと言い、実際にエリスに別れ話を直接切り出すんだ。
豊太郎もエリスも、「至上の愛」に踏み込んだ人たちだ。
「ふつー」を捨て、「それは人としてどうよ?」な領域に踏み込んだ非凡な人々。
エリスは狂っているし、豊太郎は母親を殺しているし。
彼らの域まで到達することは、凡人にはあまり考えられない。
だから彼らはアンタッチャブル、観客はあくまでも「観客」の立場で美しい慟哭を見ていられる。
しかし、相沢は。
主要人物のうちで彼ひとりが凡人だ。わたしたち側の人間だ。
わたしたちがよく見知っている常識で考え、理性や建前で行動する人。
つまり。
わたしたちは、いつでも相沢たり得るんだ。
相沢が犯した罪は、わたしたちが明日犯す罪かもしれない。
正しいことを善意ゆえにして、取り返しのつかない事態になる。
それは、十分ありえることだ。いつでも、起こりうることだ。
横断歩道をよぼよぼ渡っているおばあさんがいて、親切心で声を掛け、手を取って一緒に渡ってあげた。そんなことをしているうちに、目を離した小さな息子が道路に飛び出して事故に遭った。……そんな感じの罪。
正しいことを、善意でしただけなのに。それゆえに悲劇が起こったとしても、それはもう避けられなかったことで、誰がどうすることも出来なかったことのはずで。
だけど、悲劇は悲劇で。
相沢の罪は、そんなやるせない悲劇。
相沢を悪者にせず、きちんと「凡人」であるスタンスを描ききっているところがすごい。
ステレオタイプの悪人は、ある意味非凡で、観客からかけ離れた存在だからだ。
豊太郎とエリスを「純」とし、ソレに対する「悪」(俗、でもいい)として対比させるのではなく、「純」(狂、でもいい)に対する「凡」(正、でもいい)としてあざやかに対比させた。
白いドレス姿で、日本の舞扇を手に踊るエリスのように。
相反するモノを配置し、美を際立たせる。
そして「凡人」である相沢の救いは、彼が「とことん誠実」であること。
彼もまた、自分の行いから決して逃げない。凡人であるかもしれないが、いや、凡人であるからこそ、卑劣な真似はしない。
わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが「自分の罪から逃げない」のは、彼が「ふつー」であるがゆえだと思うのですよ。
ふつーの人ってみんな、程度の差こそあれ、善良だよね?
その程度の差を考えたときに、それでも、相沢くんは、強い人だと思うのだけど。
ふつーだけど、ふつーより強い人だと。
常識の範囲内で生きる人だけど、天才ではないけれど、強さを持った人なんだって。
相沢が犯した罪は、誰でも犯しかねない罪。
人間は、誰だって罪を犯す。誰ひとり、なにひとつ傷つけないで生きられる者はいない。
人間は、誰だって転ぶ。一度も倒れずに生きることなんてありえない。
だから、問題は。
罪を犯したあと、どう生きるかだ。
転んだあと、どう立ち上がるかだ。
罪を犯すところまでは、平凡。
相沢くんはわたしたち、凡人代表、観客代表だ。
エリスを発狂させたあとに、彼の真価が問われる。
相沢謙吉は、太田豊太郎の親友である。
豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
相沢もまた、豊太郎の親友たる男である。
友人を見れば、その人となりがわかる。
豊太郎が一角の人物であるのならば、相沢もそうであるはずだ。豊太郎より凡人だとしても。
わたしたち凡人側だった相沢くんは、あくまでもわたしたち側に立ったまま、未来を見せてくれる。
天才ゆえの慟哭だの悲劇だのではなく、等身大の奇跡を見せてくれる。
立ち上がれ。
逃げるな。
立ち向かえ。
自分自身に。
愛する者に。
日常に。
人間たちが、罪を犯す物語。
罪を犯してまで、誰かを愛する物語。
罪と向き合い、背負い、生きていく物語。
語られるのは過去。
そして、見えてくるのは、未来。