んで、今さらですが『太王四神記』です。
 んで、今さらですが、ヒョンゴ@まっつです。

 毎公演必ず書いてる、こあらった目線の見どころまっつ。
 今回も書くつもりで、『太王四神記』箇条書きのときも、まっつのことは割愛してたんだーっ。
 つってももお、あんまり昔のことなんで海馬にあんまし残ってないんだけど、どーせ映像には残らないんだから、せめて文字にして残しておくしかないんだーっ。

 公演中にリアルタイムで書きたかったよ……なんでこう時間がないんだろう……。

 
 『太王四神記』第1幕。
 とにかくしょっぱなからヒョンゴ@まっつが登場する。
 上手花道のセリ。初日はびっくりした。とにかくびっくりした。
 観客って、はじまったら条件反射で拍手するじゃん? 幕が開いて、最初にせり上がってくるから、それが誰かもわからず条件反射で拍手して、その一瞬あとに「まっつ?!」と驚く空気が愉快だった、初日。
 まっつだと思わず拍手はじめちゃった、でもま、まっつでも拍手してもかまわないっちゃーかまわないよね、ととりあえずキリのいいところまで拍手してみました、な雰囲気(笑)。

「私は高句麗の隠れ里、コムル村の村長ヒョンゴ」
 まず自己紹介からはじまる。
 ここから、すべてがはじまる。
 まっつの姿から、声から。

 白いローブ姿に、魔法使いのような杖。
 淡々と朗々と、滑舌良く正確に発せられる言葉の数々。

 ナレーションに徹した姿で、スタンドプレイはしない。表情は変わらず、そこにいるからといって彼を見る必要などなく、本舞台で展開される物語を見ろと、その静かさで示す。
 ……が、まっつガン見基本なので、本舞台はあまり見たことがない(笑)。もちろん見ているけれど、センター芝居のみで、モブの子たちが誰でナニをしているかまでは、残念ながら見られなかった。

 ただの解説である最初は無表情なんだが、語りが盛り上がるにつれ、ヒョンゴ村長も少しずつ変わりはじめる。
 彼はどうも最初から熊族セオ@みわっち寄りで、虎族カジン@彩音ちゃんに対しては終始クール。耳で声だけ聴いているとふつーのナレーションでしかないが、ヒョンゴ自身を見ていると、ファヌン@まとぶとセオに感情移入して語ってるの。彼らが幸せなときはやわらかく、彼らの苦難には苦しげに表情を変えている。
 我が子を殺される母親セオの悲劇には、ヒョンゴ村長もすげー嘆きっぷりです、ほとんど誰も見てくれてないだろーに(笑)。
 赤ん坊の死と黒朱雀誕生の効果音が終了すると、次の解説をしなければならないので、取り乱した村長は一瞬で立ち直る。緊迫した場に相応しい様子で黒朱雀の説明。
 ここでのささやかのツボは、ファヌン様の「白虎、風を起こせ、青龍、雲を集め、玄武、雨を降らせ」の歌に合わせ、ヒョンゴ村長が目線を変えるところ。「白虎」「青龍」「玄武」の呼びかけで、本舞台では四神(-1)のみなさんがそれぞれ自分の名で肯いているんだが、それに合わせてヒョンゴ村長もまた目線……顔の向きを変えているのね。
 「三度目の銅鑼」@『王家に捧ぐ歌』の振付みたいで、ちょっとわくわく(笑)。

 人知れず(笑)盛り上がっているヒョンゴ村長。
 最高峰はもちろん、「ファヌン様は天の弓を射た!!」ですな。アクション付きです。

 この公演で、まっつはなによりその「声」の良さを広く知らしめたと思う。
 耳触りのいい、聴きやすい声。情報量の多さをモノともせず、わかりやすく解説し続ける。

 このナレーションに徹しているところも、実はまっつの演技的には変化があった。
 語る声の明瞭さはそのままに、公演が進むにつれて演技が大きくなり、東宝でまたリセットされていたらしいが、やはり東宝楽には大きくなっていた。地味に「物語」に参加しているんだなー。
 まったくの客観、第三者目線ではなく、セオ寄りに語っていたりと、ちゃんと「ヒョンゴ村長」なんだよね、ただの感情も役もないナレーターではなく。

 
 神話時代の話が終わり、彼の語りはチュシンの日の出来事に移る。
 2000年の時が経ち、チュシンの星が輝く夜がやって来る。舞台上にはナレーションのヒョンゴと、彼の語りの中の少年ヒョンゴ@イブちゃんが同時に存在する。
 ヒョンゴもまた、物語の中のキャラクタなんだな。
 ここではもう、「コムル村のヒョンゴ村長」になっている。声だけの存在ではなく、現実にもう生きている人間として、舞台中央に現れ、感情や意志を表現している。

 物語の主人公タムドクはまだ無く、彼の登場以前を彩るエピソード、キャラクタの数々。
 タムドク登場に向けて力が一点に凝縮していく様を歌に乗せてたたみかける、プルキル@壮くんとヒョンゴの歌が大好きだ。

 少年ヒョンゴが赤ん坊を見つけたときのやりとり、ヒョンゴに台詞はないけれど、いちいち少年ヒョンゴと同調した表情してるんだよね。
 前村長に「オマエが息の根を止めるのだ」と言われたとき、少年ヒョンゴは真剣な面持ちで肯定するけれど、ヒョンゴは真剣を通り越して苦しげな表情をする。
 あくまでこれは回想シーンであり、語っているヒョンゴにとっては「はじめて会った赤ん坊」のことではなく、手塩に掛けて育てた弟子スジニ@みわっちを殺す話、なんだ。
 少年のまっすぐな瞳と、ヒョンゴの苦悩が切ない。

 だけど彼の最大の「仕事」である「声」に揺るぎはなく、あくまでもここは「当時の話」をしているだけで現在のヒョンゴの愛と苦悩を表現する場ではないってことで、冷静な解説は続くんだな。
 スジニと名を付けた、と語るあたりに苦みを残すだけで、やりすぎることなく「仕事」に徹する。

 でもって、この怒濤のオープニングの終結……実は「すげー難しいんぢゃねーの?」と思っているのは、ココなんだが。
 すべての説明すべき出来事が終わり、本編がはじまる、つーところ。
 ヒョンゴ村長の語りから、現在進行形の物語への移行を、どうしたもんか。

 たとえばルキーニ@『エリザベート』は狂言回しとして物語のあちこちに登場するけれど、ヒョンゴはそうじゃない。彼が語り部としてナレーションするのはぶっちゃけ最初のコレだけで、あとはふつーに物語の登場人物なんだもん。
 彼の「解説」部分と「物語」はけっこー乖離してるんだな。

 それを、どうつなぐか。

 ……つながっていないというか、演出あんまし成功していない、気がしている、わたしは。
 すげーブツ切り感。

 だって、「解説」パートの最後が「私はスジニを背負ってコムル村に帰りました」だもん。帰ったんだ、帰ったから終わりなんだ、ほー(笑)。

 どうしようもないっていうか、「帰った」から「終わり」という「えーと、ソレは……」てな投げだし感というか、そしてヒョンゴの語りがすげーしみじみと寂しそうな感じがツボ(笑)。

 ちなみにこの「帰りました」でヒョンゴはスカートの裾を持ち上げて階段を上り(この仕草もツボだ・笑)、コムル村御一行様と合流する。で、合流してしまうと、B席からは見えない。イケコ、2階席のことも考えて演出しようよ……(笑)。

 東宝では地味に演出が変更になっており、ヒョンゴはコムル村御一行様には合流せず、階段途中止まって暗転を迎えるので2階席からも最後まで見えた。スポットももらっているし。ありがとイケコ。

 続く。

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