貴方に恋した、そのあとで。@しいちゃんのこと・2。
2009年4月18日 タカラヅカ「しいちゃんはいつ、大人になったんだろう?」
……わたしがしいちゃんを好きだったのは、彼に「ゆがみ」があったからだ。
ロケットボーイでただきらきらしていたときは、好意はあってもその若さや光を愛でているだけだった。
それがアンリ役以降迷走し、真っ白だった光に微妙な光彩ができてからだ。
永遠の青年であるしいちゃんには、若者が持つ無神経さがあった。
自分が正しいと思うことを貫いて、他人を傷つけるような。そしてそれを当然とするような、若さゆえの無謀さと傲慢さ。
太陽であるがゆえに、陰の生物を傷つけるような。
そーゆーいびつさが、好きだった。
わたしはショタの気がないので、「子ども」には興味がない。
だけどわたしもたしかに昔は子どもだった。幼く、無謀で、傲慢だった。や、今も変わらずアホでカンチガイ者だが、ソレとはチガウ意味で。
いつか失ってしまう「若さゆえの傲慢さ」を、その痛い姿まんまで持ち続けてくれる「永遠の青年」は、ノスタルジーを刺激する。
痛い……というのは、「美しい」ということなんだな。
核が剥き出しになった姿。それがどんだけ危険なことか、こわいことか、まったくわかっていない、美しさ。
まぎれもなく太陽でありながら、現在の人でありながら、舞台の上でのしいちゃんは「なつかしい」人なんだ。
いつかのわたしがはじめて恋した同い年の男の子のような、そーゆー痛さ、切なさを持っているわけだ。
えー、そーゆー男の子だった立樹遥さん。
変わらないと思っていた、しいちゃん。
今は、チガウ。
いつ、しいちゃんが大人になったのか。
たぶんそれは、安蘭けい氏の影響が大きいと思う。
でもって、湖月わたる氏の。
人にはやっぱ、役割と立場があると思う。
そこにいるからには、役割を果たさなくてはならない。
役割を果たさずに、ただその立場にいたら、いつかそこは自分の居場所ではなくなってしまう。
ワタさんという未曾有の「大きさ」を持ったトップスターは、その安定した腕の中で、多くの組子たちの立場を守っていたんだと思う。
ワタさんという大きな男がいるから、トウコちゃんは彼に対峙する役だったりちょっかい掛けたりする役だったり恋人だったり(笑)、持ち味や役割分担して棲み分けていられた。
それと同じように、しいちゃんもまた、「青年」でいられたんだと思う。
タカラヅカらしい、きらきらした若者。太陽の男の子。
たとえ大人の役をやっても、根っこは変わらず。魂の若さは曇らず。
それが、ワタさん卒業と共にもトウコちゃんの代になって。
世代交代したトウコちゃんの星組では、しいちゃんに求められる役割がちがっていた。
トップスターの下にいる若い男の子(その中では年長の兄貴ポジ)ではなく、トップスターを支えられる、対等に対峙できる大人の男、だったんだよ。
それこそ、トップスターの恋敵と、父親、両方を演じられる大人の男として。
究極ですよ。
通常、主要クラスの役をするスターたちのなかで、最上級生がトップスターだからね。
でもって、そーゆー役は2番手が半分以上担うもんなんだけど、新しい星組はまだ2番手にそーゆー役割は担えなかったからね。
歴代の、いろんな組の2番手さんたちは、時にはトップスターの父親くらいの年齢の役をする。
トップってのは特別な人だから、それに対峙できる、それより大人の男の役を演じられるのは次のトップになるべき人ぐらいのもんなんだよ。
ワタさん時代の2番手トウコちゃんがそうであったように。
しいちゃんは2番手さんではないけれど、役の比重は2番手ではないけれど、役割的には2番手相応のものを負うことになった。
ああ、これって。
『凱旋門』の、アンリだ。
きらきら真っ白しいちゃんが変わってしまった、あの役。
どーにもこうにもできなくて、大変なことになっていたあの役。
しいちゃんは、ワタさん卒業と共に、新しい星組できちんと自分の居場所を見つけていたと思う。役割を、果たしていたと思う。
ただ代替わりしただけだったら、その役割に落ち着くまで時間が掛かったかもしれないけど、『ヘイズ・コード』があった。
主役であるトップスター・トウコちゃんの声が出なくなるという、ものすげー非常事態があり、しいちゃんの立場は、求められる役割は一気に確定したと思う。
それゆえに、あのカールトン監督@『ヘイズ・コード』があり、ジェラード・ペルー@『エル・アルコン』があるのだと思う。
大人の男。
トップスター演じる主人公と同じか、あるいはそれ以上に。
対等か、あるいはそれを超えた人物として。
役割がわかり、立場がわかったからって、すぐにそれが出来るはずもない。
しいちゃんは長い間かけて、その準備をしていたんだろう。本人の意識のことではなくて、「舞台人」として、いつか「大人」になる経験値を少しずつ貯めていたんだろう。
そしてトウコちゃん時代到来と共に、クラスチェンジした。
今までとかけ離れているのではなく、あくまでも延長線上に。
魂の輝きは、そのままに。
大人になったしいちゃんは、それまで思ってもなかった「ときめき」を持って降臨した(笑)。
もともと好きだったんだってば。
ただ、「年下の男の子」「失った青春の記念碑」みたいな意味で萌えていた面があって。
対等な「恋愛相手」だとは思ってなかったから。
そのもともと好きだった「若い男の子」が、その好きだったところはそのままに、大人の男として、堂々恋愛対象として現れたりしたら。
オチますがな。
しいちゃんの持つまっすぐさや太陽具合、それでいてそれらだけではどーしよーもないゆがみやくすみ……諦観や、限界を知る姿が、世俗にまみれた大人なわたしからすりゃあ、たまらない魅力なのですよ。
カールトンさん、ダイスキだった。
ジェラード様、ダイスキだった。
ときめきだ。
今、地に足の着いた、リアルなときめきなんだ。
『My dear New Orleans』の、ムッシュ・アンダーソンを見ていて思う。
これはアンリ@『凱旋門』と同カテゴリのキャラクタだなと。キャラの性格とかがではなく、立ち位置。トップスターの恋敵で、彼からトップ娘役を金で奪う、トップよりも大人の紳士。2番手的役どころだが、2番手ではない。
10年前演じきることの出来なかった役を、大人になったしいちゃんが今、美しく演じている。
ワタさん卒業と共に「青年」を卒業したしいちゃん。
トウコちゃん時代のために「大人」である姿を見せてくれたしいちゃん。
トウコちゃんが卒業する今、その役割も終わる。
大人の男、トップスターと対峙できる器を持つ立ち役。
ヅカの男役としてひとつの到達点であるこの役割を終えたのだから、今彼は卒業の時なんだろう。
しいちゃんは「永遠」で、「変わらない」と思っていた。
彼が持つ「青春」の光は、わたしの求める「夢」の具現だった。
永久に「夢」はそのままだと思っていた。
だけど、そうじゃないんだね。
成長して、役割を果たして、堂々と卒業していくんだ。
最後のお茶会で「タカラヅカへの愛と誇り」を歌って。
決して平坦ではなかった道を、たしかに歩ききって、その立場の責任を、務めを果たして、胸を張って。
美しいと思うの、あの人を。
無垢な光に満ちていた下級生時代とはチガウ、今の光をなお、美しいと思う。
……わたしがしいちゃんを好きだったのは、彼に「ゆがみ」があったからだ。
ロケットボーイでただきらきらしていたときは、好意はあってもその若さや光を愛でているだけだった。
それがアンリ役以降迷走し、真っ白だった光に微妙な光彩ができてからだ。
永遠の青年であるしいちゃんには、若者が持つ無神経さがあった。
自分が正しいと思うことを貫いて、他人を傷つけるような。そしてそれを当然とするような、若さゆえの無謀さと傲慢さ。
太陽であるがゆえに、陰の生物を傷つけるような。
そーゆーいびつさが、好きだった。
わたしはショタの気がないので、「子ども」には興味がない。
だけどわたしもたしかに昔は子どもだった。幼く、無謀で、傲慢だった。や、今も変わらずアホでカンチガイ者だが、ソレとはチガウ意味で。
いつか失ってしまう「若さゆえの傲慢さ」を、その痛い姿まんまで持ち続けてくれる「永遠の青年」は、ノスタルジーを刺激する。
痛い……というのは、「美しい」ということなんだな。
核が剥き出しになった姿。それがどんだけ危険なことか、こわいことか、まったくわかっていない、美しさ。
まぎれもなく太陽でありながら、現在の人でありながら、舞台の上でのしいちゃんは「なつかしい」人なんだ。
いつかのわたしがはじめて恋した同い年の男の子のような、そーゆー痛さ、切なさを持っているわけだ。
えー、そーゆー男の子だった立樹遥さん。
変わらないと思っていた、しいちゃん。
今は、チガウ。
いつ、しいちゃんが大人になったのか。
たぶんそれは、安蘭けい氏の影響が大きいと思う。
でもって、湖月わたる氏の。
人にはやっぱ、役割と立場があると思う。
そこにいるからには、役割を果たさなくてはならない。
役割を果たさずに、ただその立場にいたら、いつかそこは自分の居場所ではなくなってしまう。
ワタさんという未曾有の「大きさ」を持ったトップスターは、その安定した腕の中で、多くの組子たちの立場を守っていたんだと思う。
ワタさんという大きな男がいるから、トウコちゃんは彼に対峙する役だったりちょっかい掛けたりする役だったり恋人だったり(笑)、持ち味や役割分担して棲み分けていられた。
それと同じように、しいちゃんもまた、「青年」でいられたんだと思う。
タカラヅカらしい、きらきらした若者。太陽の男の子。
たとえ大人の役をやっても、根っこは変わらず。魂の若さは曇らず。
それが、ワタさん卒業と共にもトウコちゃんの代になって。
世代交代したトウコちゃんの星組では、しいちゃんに求められる役割がちがっていた。
トップスターの下にいる若い男の子(その中では年長の兄貴ポジ)ではなく、トップスターを支えられる、対等に対峙できる大人の男、だったんだよ。
それこそ、トップスターの恋敵と、父親、両方を演じられる大人の男として。
究極ですよ。
通常、主要クラスの役をするスターたちのなかで、最上級生がトップスターだからね。
でもって、そーゆー役は2番手が半分以上担うもんなんだけど、新しい星組はまだ2番手にそーゆー役割は担えなかったからね。
歴代の、いろんな組の2番手さんたちは、時にはトップスターの父親くらいの年齢の役をする。
トップってのは特別な人だから、それに対峙できる、それより大人の男の役を演じられるのは次のトップになるべき人ぐらいのもんなんだよ。
ワタさん時代の2番手トウコちゃんがそうであったように。
しいちゃんは2番手さんではないけれど、役の比重は2番手ではないけれど、役割的には2番手相応のものを負うことになった。
ああ、これって。
『凱旋門』の、アンリだ。
きらきら真っ白しいちゃんが変わってしまった、あの役。
どーにもこうにもできなくて、大変なことになっていたあの役。
しいちゃんは、ワタさん卒業と共に、新しい星組できちんと自分の居場所を見つけていたと思う。役割を、果たしていたと思う。
ただ代替わりしただけだったら、その役割に落ち着くまで時間が掛かったかもしれないけど、『ヘイズ・コード』があった。
主役であるトップスター・トウコちゃんの声が出なくなるという、ものすげー非常事態があり、しいちゃんの立場は、求められる役割は一気に確定したと思う。
それゆえに、あのカールトン監督@『ヘイズ・コード』があり、ジェラード・ペルー@『エル・アルコン』があるのだと思う。
大人の男。
トップスター演じる主人公と同じか、あるいはそれ以上に。
対等か、あるいはそれを超えた人物として。
役割がわかり、立場がわかったからって、すぐにそれが出来るはずもない。
しいちゃんは長い間かけて、その準備をしていたんだろう。本人の意識のことではなくて、「舞台人」として、いつか「大人」になる経験値を少しずつ貯めていたんだろう。
そしてトウコちゃん時代到来と共に、クラスチェンジした。
今までとかけ離れているのではなく、あくまでも延長線上に。
魂の輝きは、そのままに。
大人になったしいちゃんは、それまで思ってもなかった「ときめき」を持って降臨した(笑)。
もともと好きだったんだってば。
ただ、「年下の男の子」「失った青春の記念碑」みたいな意味で萌えていた面があって。
対等な「恋愛相手」だとは思ってなかったから。
そのもともと好きだった「若い男の子」が、その好きだったところはそのままに、大人の男として、堂々恋愛対象として現れたりしたら。
オチますがな。
しいちゃんの持つまっすぐさや太陽具合、それでいてそれらだけではどーしよーもないゆがみやくすみ……諦観や、限界を知る姿が、世俗にまみれた大人なわたしからすりゃあ、たまらない魅力なのですよ。
カールトンさん、ダイスキだった。
ジェラード様、ダイスキだった。
ときめきだ。
今、地に足の着いた、リアルなときめきなんだ。
『My dear New Orleans』の、ムッシュ・アンダーソンを見ていて思う。
これはアンリ@『凱旋門』と同カテゴリのキャラクタだなと。キャラの性格とかがではなく、立ち位置。トップスターの恋敵で、彼からトップ娘役を金で奪う、トップよりも大人の紳士。2番手的役どころだが、2番手ではない。
10年前演じきることの出来なかった役を、大人になったしいちゃんが今、美しく演じている。
ワタさん卒業と共に「青年」を卒業したしいちゃん。
トウコちゃん時代のために「大人」である姿を見せてくれたしいちゃん。
トウコちゃんが卒業する今、その役割も終わる。
大人の男、トップスターと対峙できる器を持つ立ち役。
ヅカの男役としてひとつの到達点であるこの役割を終えたのだから、今彼は卒業の時なんだろう。
しいちゃんは「永遠」で、「変わらない」と思っていた。
彼が持つ「青春」の光は、わたしの求める「夢」の具現だった。
永久に「夢」はそのままだと思っていた。
だけど、そうじゃないんだね。
成長して、役割を果たして、堂々と卒業していくんだ。
最後のお茶会で「タカラヅカへの愛と誇り」を歌って。
決して平坦ではなかった道を、たしかに歩ききって、その立場の責任を、務めを果たして、胸を張って。
美しいと思うの、あの人を。
無垢な光に満ちていた下級生時代とはチガウ、今の光をなお、美しいと思う。