休演について、触れてはならない。
 舞台はナマモノであり、言い訳のきかないエンタメだ。
 休演者などいない。不調な者などいない。最良のキャスティングで、最高の舞台を作っている。
 それが、建前だ。

 映画でもなくテレビドラマでもなく、生の舞台を愛しているモノとして、その建前を素直に信じ、愛する。
 だから、劇団が意志を持って「休演」に触れずにいることにも、納得していた。

 また、まっつ本人も、休演についてはなにも語らないだろう。そう思っていた。
 声が出ないときも、一切の説明・言い訳もなく「これが最良」と通した。舞台にあるものだけを、観客に示した。

 今回もまた、そうだろう。
 泣かない、言い訳しない、それがまっつ。しれっと「いつもの」まっつ節で通すのだろう。

「千秋楽、泣くと思う?」
「思わない。泣くわけないよ」
「だよねー」
 『巴里祭』で、初バウ主演で、友人たちと交わした会話と同じように、
「休演についてなんか言うかな」
「言わないんじゃない?」
「言わないよねー」
 と話した。

 そうやって参加した、未涼亜希『Shall we ダンス?』『CONGRATULATIONS 宝塚!!』東宝公演お茶会にて。

 たぶん、「言わないよねー」と思ったのは、わたしとその周辺だけでもなかったんだろう。
 会が用意したお茶会の進行は、「まっつさん復帰おめでとうお茶会」などではなく、「いつも通りの、なにひとつ変わらないお茶会」だった。
 以前、長期休演(全休)していたジェンヌさんの復帰公演のお茶会に参加したことがあるけれど、それはちゃんと会主体の「復帰おめでとうお茶会」だった。だから、お茶会のスタンスが違うことは、よくわかった。
 乾杯のあとは、公演の話。あくまでもふつーの進行。

 それを、まっつが、遮った。

 なにごともない、ふつーのお茶会としての台本を、まっつが、覆した。

 細かい言葉はおぼえてない。
 たしか、「その前にまず」と、話し出した。

 新年の挨拶、復帰宣言、陳謝と感謝。

 用意されていた質問を、進行を、遮って。
 まず、伝えなければ、と、意志を持って。

 劇団は「復帰」を明言していない。「休演のお知らせ」はあっても、「復帰のお知らせ」はしない。
 最初に発表したキャストが「いるのが当たり前」だから、「いなかったこと」も「復帰したこと」も、等しく触れない。
 それを通すことも出来る。それが穏便なのかもしれない。
 それでもまっつは、自分の意志で、自分の言葉で、まず、筋を通した。

 新年の挨拶。ひととして、ふつーのこと、礼儀。
 そして、復帰宣言。
 待っていたわたしたちを前にして、わたしたちが、いちばん聞きたかったことを、明確に言葉にした。舞台人として。
 そして、心配を掛けたことの詫びと礼。ひととして、舞台人として。

 ひとつずつは、当たり前のこと。
 だけどそれを、きちんと自分の意志で行う姿に、彼の「ブレなさ」を見た。

 あ、わたしは男役さんを通常「彼」と表記します。生身の男性と混同しているわけではなく、芸名で発信している部分は舞台上と同じ「タカラジェンヌ」というファンタジーだと思っているので。

 そうやって進行を奪っておきながら、言うだけ言ったらまた司会者に話を戻し……「なんだっけ?」と、公演の話に。
 あとはいつもの「まっつ節」。ばっさばっさと公演ネタの質問を、話題を、切っていく(笑)。

 休演後のお茶会だから、いつも以上に参加者が多い。
 テーブルずらり、椅子がきゅうきゅう、もちろん隅っこ席のわたしと友人は、「これじゃまっつ、客席練り歩けないね」と危惧したくらい。
 うん、いちいち椅子を引かなきゃ通れないよーな間隔だもん、まっつはいつもほどいろんなテーブル横を通ってくれなかった。仕方ない。
 こんなにたくさんの人が、まっつに会いにやって来た。
 まっつのお茶会が面白いのかどうか、わたしには実のところわかってない。
 まっつの喋りは独特の冷たさというか乾きがあって、そのすぱっとした切り方が、みょーに面白い。これはもう、ニュアンスの問題で、彼の言葉をまんま文章にしても伝わりにくいと思う。
 や、少なくともわたしの文章力じゃ伝わらないだろう。
 だからわたしはレポではなく、あくまでもわたしのフィルターを通した「感想」を書いている。
 わたしには、面白いんだ。
 万人向けの面白さじゃないかもしんないけど、まっつの喋りは面白いよ。

 テーブルごとの写真撮影はなくなったけれど、握手はある。
 まっつはすげー目がでかい。
 生で見る前は、あんなに大きいと思ってなかった。舞台での渋い印象が強いためか、切れ長のイメージだった。それが、実際に目にしてみると、こぼれ落ちそうな大きな目をしている。
 わたしだけでなく、最初に生まっつ体験した人がみんな、口を揃えて目の話をするくらい。……ってそれ、どうなの(笑)。
 大きな目をしっかり合わせて「ありがとうございます」と言ってくれる、握手は異次元体験です、わたしにとって。毎回、目しかおぼえてないや。

 そーやって、いつも通りのお茶会が一通り終わり。

 最後の挨拶で、まっつはまた、進行を遮って、話し出した。

 休演について。

 ケガの詳しい説明じゃない。そんな専門的なことではなくて、休演を決めた経緯と、復帰までの道のり。

 話の詳細はどこか詳しいレポがあると思うんで、わたしはあくまでも、わたしの感想として、まっつの言葉をまとめる。

 わたしは、まっつがいないことが、つらかった。
 初日前に発表された、全休演。
 最初から「いない」ような舞台。
 わたしはわたしの都合、わたしのエゴで考える、全休演ではなく、一部分でも出てくれたら良かったのに。やるだけやってみたら、意外に出来たかもしんないじゃん。
 ゆっくり休んで欲しい、無理をしないで欲しい、そう思う気持ちはもちろん本心だけど、まっつの「いない」舞台を観るつらさはまた別で、「まっつが休演していない舞台」を夢想した。本当ならここにまっつがいるはず、この位置、この歌はまっつだったはず……。現実に幻を重ね合わせた。
 それでも、限界はある。だって一度も観ていないのだから。
 せめて初日、舞台に立っていてくれたら。その姿を見せてくれていたら。そのあと舞台から消えてしまったとしても、その姿を胸に、復帰を信じて待っていられたのに。
 ……ええ、ただのわたしだけの都合、エゴです。
 わたしが救われたいだけの。

 だけどまっつは、「やるだけやってみたら、意外に出来たかもしんない」とは考えなかった。
 無理をすれば、初日に舞台に立つことは出来たかもしれない。でも、そのあと数日で休演することになったろう。幕が開いてからの、休演……それがどれだけ、混乱を招くことになるか。

 無事是名馬、健康に職務を果たすことがいちばんだけど、人間アクシデントはある。やっちまったもんはしょうがない、問題はそこで、どう判断するか。
 「迷惑をかけてしまう。それはもう覆せない。では、その迷惑をどう最小限に抑えるか」……それが、まっつの考えたこと。
 「舞台は仕事であり、お客様からお金をいただいている以上、半端なものは見せられない」……タカラヅカが「夢」の世界であることを踏まえた上で、その「夢」を作る仕事に対する責任感。「夢の世界」だから、自分が楽しければそれでいい、わけじゃない。「夢」を「仕事」にする以上、「責任」が伴う。

 このへんは考え方だから、「ケガなんて気力があれば克服できる」「舞台に穴を開ける方が問題」「仕事なんて夢がないことを、タカラジェンヌは言うべきではない」など、感じ方はそれぞれだろう。
 ただ、まっつは、精神論でぎりぎりまでがんばるのではなく、すぱっと身をひるがえした。

 彼が見ているのは、「今」ではなく、「今から続いている未来」だった。

 今自分が無理をして、結果、より多くの迷惑を現場に掛けてしまう。
 今自分が無理をして、結果、思うように身体が動かなくなる。

 それを善しとは、しなかった。

 だから、休演を決めた。迷わなかった。
 東宝復帰に向けて、治療とリハビリに努めた。

 わたしは今というか、足元しか見てないわけだから。
 「今」まっつがいないことに、傷ついた。
 でもそれは、わたしの勝手。

 まっつはちゃんとこうして戻って来て、そして、自分の言葉で「なにを思い、どうしたか」を伝えてくれる。

 それが、すべてだろう。

 劇団発信の場では、「休演はなかったこと」になっている。舞台はいつもその1回が最良のモノ、休演も復帰もない。
 だけど、ファンが集まるこの場では、きちんと休演について、話してくれた。筋を通してくれた。

 そして、またしてもまっつは、「ついて来てください」と言った。
 休演という「過去のこと」に囚われて、ぐずぐすベソかいていたわたしは、がつんとアタマを叩かれた気がした。

 休演している間、わたしたちが止まってしまっている間に、まっつはもっと先に進んでるって。
 わたしは「今」しか見てなかった。
 だけどまっつは、未涼亜希は、未来を見つめている。

 彼は、タカラジェンヌ。彼は、フェアリー。

 そして彼は、舞台人だ。

 舞台を「仕事」だと理解して、責任感を持っている。
 プロが本気で創り出すものだからこそ、彼らの舞台は、「タカラヅカ」は、あんなにも美しい。

 彼が舞台で「未涼亜希」として見せてくれるモノ、彼自身が発するモノ、わたしがそこから受け取るモノ、それだけがすべてだ。

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