谷+みっちゃん=……? @こうもり
2016年4月3日 タカラヅカ 『こうもり』についてあれこれ語る。
わたしは無学故に原作オペラを知らない。ことごとく無知ですわ。でも厚顔に生きている。
で、厚顔なわたしはわたしが知るもの、わたしが出会うモノがすべてであるので、原作とか関係なく、今自分が目にした「宝塚歌劇『こうもり』」に疑問を持つ。
これ、主人公おかしくね?
騙されてきりきり舞いするアイゼンシュタインと、陰から笑っているファルケ博士。
主人公はアイゼンシュタインの方が、すっきり来ないか?
アイゼンシュタイン主人公で、妻のロザリンデがヒロイン。
ファルケ博士主人公で、アイゼンシュタイン家の侍女がヒロイン、って、無理がある……。
とここまで書いて、ウィキのお世話になる。
オペレッタ『こうもり』のあらすじ、はじめて知った!! えええ、ちゃんとおもしろい。つか、アイゼンシュタイン主役やん。
や、ヅカ版は主役が違っているのどうのと小耳に挟んだ気はしていたが、なにしろ予備知識なしで観るのが好きなので、あえて考えないようにしてるのな。
アイゼンシュタインが主役でロザリンデがヒロインで、アルフレードが間男で……って、プロットもちゃんと多面に存在してるやん。
多人数使わなきゃならないタカラヅカで、なんで役を減らしてプロット減らして、スッカスカにしてるんだ? 意味わかんない。
てゆーか、アイゼンシュタインがファルケ博士に犯した罪の重さがぜんぜん違うやん……。
友だちを公園の像に縛り付けておかしな飾りを付けて晒し者にしたのと、酔っ払いを置いて来たのでは、悪意の量が段違いだわ……。
そしてやっぱり、主役たちが嘘だのてきとーをやってつじつま合わせにばたばたするのを笑うのと、主役が悪意で友人を騙してみんなで嗤っている様を笑うのとでは、まったくもって笑いの質がチガウ……。
まぬけさを笑うのと、いじめを笑うのは、わたしにとってすっげー大きな違いよ……いじめを笑うのやだー。
えー。原作オペレッタまんまのプロットで観たかったよー。
原作をそのままやれと言うわけじゃない。
主人公を変更しようがストーリーを改編しようが、要は面白ければいいんだ。
面白くないから問題。
つまらなくするなら、手を加えるなと。
主人公変更は、書き手としては楽しいネタだから、やりたい気持ちはわかるけどさ。
それなら原作以上に書き込まなきゃ。
何故脇役をあえて主人公に据えるのか。主人公サイドからは見えないモノを描くためでしょう?
情報量が原作より減ったら、意味ないのよ。何故このキャラクタを主人公にしたのか、主人公と作品への愛をこれでもかと書き込まなきゃ。愛のない改編なんて、二次創作の価値がないよー。
なんか、手抜き感がひどい。
原作まんまをタカラヅカ化するのも面倒だから、視点を変える(主人公を変える)という方法を使って、手抜きがわからないようにする。
真正面から観たら、スッカスカの手抜き建築だと丸見えだけど、ナナメから写真を撮ると「いい建築ですね」と見える。
そういう印象。
そして。
谷せんせの手抜き感は、みっちゃんが「出来る」人だから発動している、気がする。
作家ががんばらなくても、みっちゃんがなんとかしてしまうから。
みっちゃんの「歌」だけで成り立つと思っているから。
谷せんせのクラシック楽曲まんまシリーズはそれ。
タカラヅカの舞台に変換せずに、素材のまま投げ出して、力のある演者に丸投げしてしまう。
『銀二貫』のように、役者に不安感があるものは、ちゃんとプロットも作り込むんだよね。作り込んでも『CODE HERO/コード・ヒーロー』 みたいに原作なしだと作劇能力のなさがまんま出て大変なことになるけど、原作がみっちりある『銀二貫』は大丈夫だった。
『こうもり』にしろ『THE MERRY WIDOW』にしろ。
谷せんせ、楽してる。きちんと作り込んでない。主演がみちこだからって、安心して。
そして、楽をしている分、みちこに丸投げしている分、みちこにも甘い。
みっちゃんはみっちゃんで、せんせからの信頼と自由行動を与えられて、調子に乗りまくるし。
演出家と主演が両思いで、それゆえに独特の空気感を出しているのだとは思う。
そういう作品が好きな人にはいいんだろうけれど、わたしは苦手だ。
きちんと作り込まれた作品が好き。
そして、役者が作品をきちんと土台にした上で膨らますのが好き。
谷せんせだってみっちゃんだって、そういうことだって出来る人たちなのに。このふたりが組むと、違う方向へ進んでしまう。
もともとゆるいからって、んな大暴れされても。
作者も役者も、どっちも悪いわ。
みっちゃんに力があるから、成り立っているだけで。
こんな綱渡りばっかやってたら、いつか破綻する。
とまあ、わたしは勝手にそう思っておりますのよ。
みっちゃんと谷せんせって食い合わせ悪いわ。わたしには。
わたしは無学故に原作オペラを知らない。ことごとく無知ですわ。でも厚顔に生きている。
で、厚顔なわたしはわたしが知るもの、わたしが出会うモノがすべてであるので、原作とか関係なく、今自分が目にした「宝塚歌劇『こうもり』」に疑問を持つ。
これ、主人公おかしくね?
騙されてきりきり舞いするアイゼンシュタインと、陰から笑っているファルケ博士。
主人公はアイゼンシュタインの方が、すっきり来ないか?
アイゼンシュタイン主人公で、妻のロザリンデがヒロイン。
ファルケ博士主人公で、アイゼンシュタイン家の侍女がヒロイン、って、無理がある……。
とここまで書いて、ウィキのお世話になる。
オペレッタ『こうもり』のあらすじ、はじめて知った!! えええ、ちゃんとおもしろい。つか、アイゼンシュタイン主役やん。
や、ヅカ版は主役が違っているのどうのと小耳に挟んだ気はしていたが、なにしろ予備知識なしで観るのが好きなので、あえて考えないようにしてるのな。
アイゼンシュタインが主役でロザリンデがヒロインで、アルフレードが間男で……って、プロットもちゃんと多面に存在してるやん。
多人数使わなきゃならないタカラヅカで、なんで役を減らしてプロット減らして、スッカスカにしてるんだ? 意味わかんない。
てゆーか、アイゼンシュタインがファルケ博士に犯した罪の重さがぜんぜん違うやん……。
友だちを公園の像に縛り付けておかしな飾りを付けて晒し者にしたのと、酔っ払いを置いて来たのでは、悪意の量が段違いだわ……。
そしてやっぱり、主役たちが嘘だのてきとーをやってつじつま合わせにばたばたするのを笑うのと、主役が悪意で友人を騙してみんなで嗤っている様を笑うのとでは、まったくもって笑いの質がチガウ……。
まぬけさを笑うのと、いじめを笑うのは、わたしにとってすっげー大きな違いよ……いじめを笑うのやだー。
えー。原作オペレッタまんまのプロットで観たかったよー。
原作をそのままやれと言うわけじゃない。
主人公を変更しようがストーリーを改編しようが、要は面白ければいいんだ。
面白くないから問題。
つまらなくするなら、手を加えるなと。
主人公変更は、書き手としては楽しいネタだから、やりたい気持ちはわかるけどさ。
それなら原作以上に書き込まなきゃ。
何故脇役をあえて主人公に据えるのか。主人公サイドからは見えないモノを描くためでしょう?
情報量が原作より減ったら、意味ないのよ。何故このキャラクタを主人公にしたのか、主人公と作品への愛をこれでもかと書き込まなきゃ。愛のない改編なんて、二次創作の価値がないよー。
なんか、手抜き感がひどい。
原作まんまをタカラヅカ化するのも面倒だから、視点を変える(主人公を変える)という方法を使って、手抜きがわからないようにする。
真正面から観たら、スッカスカの手抜き建築だと丸見えだけど、ナナメから写真を撮ると「いい建築ですね」と見える。
そういう印象。
そして。
谷せんせの手抜き感は、みっちゃんが「出来る」人だから発動している、気がする。
作家ががんばらなくても、みっちゃんがなんとかしてしまうから。
みっちゃんの「歌」だけで成り立つと思っているから。
谷せんせのクラシック楽曲まんまシリーズはそれ。
タカラヅカの舞台に変換せずに、素材のまま投げ出して、力のある演者に丸投げしてしまう。
『銀二貫』のように、役者に不安感があるものは、ちゃんとプロットも作り込むんだよね。作り込んでも『CODE HERO/コード・ヒーロー』 みたいに原作なしだと作劇能力のなさがまんま出て大変なことになるけど、原作がみっちりある『銀二貫』は大丈夫だった。
『こうもり』にしろ『THE MERRY WIDOW』にしろ。
谷せんせ、楽してる。きちんと作り込んでない。主演がみちこだからって、安心して。
そして、楽をしている分、みちこに丸投げしている分、みちこにも甘い。
みっちゃんはみっちゃんで、せんせからの信頼と自由行動を与えられて、調子に乗りまくるし。
演出家と主演が両思いで、それゆえに独特の空気感を出しているのだとは思う。
そういう作品が好きな人にはいいんだろうけれど、わたしは苦手だ。
きちんと作り込まれた作品が好き。
そして、役者が作品をきちんと土台にした上で膨らますのが好き。
谷せんせだってみっちゃんだって、そういうことだって出来る人たちなのに。このふたりが組むと、違う方向へ進んでしまう。
もともとゆるいからって、んな大暴れされても。
作者も役者も、どっちも悪いわ。
みっちゃんに力があるから、成り立っているだけで。
こんな綱渡りばっかやってたら、いつか破綻する。
とまあ、わたしは勝手にそう思っておりますのよ。
みっちゃんと谷せんせって食い合わせ悪いわ。わたしには。