ひとは、きれいなままでは生きられないのだ。

 『舞姫』は、太田豊太郎というひとりの青年の成長の物語だ。青春と呼ばれる時代との決別の物語だ。

 それと同時に。
 豊太郎とその恋人エリス、親友・相沢。3人の主要人物それぞれが罪を犯す物語でもある。

 3人はみな、悪人ではない。
 それぞれ善良で、誠実に生きている。
 だが、それだけではどうしようもなかった。
 心の正しい、やさしい人々が、罪を犯す物語。犯さざるを得なかった物語。

 そして。
 誰もが他人の罪を責めず、赦し、己の心のうちに傷みを抱きしめて生き続ける。

 だからこそ、たまらなく切なく、美しい物語である。

 太田豊太郎は、武士の子として、太田家の嫡男として、厳しく育てられた優秀な青年。母の言いなりになっているのではなく、彼女への愛、彼女の期待に応える息子でありたいという願いに加え、彼女の求める美学を、豊太郎自身正しいと思っているからこそ。
 ひとつの道しか知らなかった豊太郎が、ドイツにて新しい思想と出会う。今までの日本的なものを否定するのではなく、そのうえでの展望。和の心を尊びながらも、くさびから解き放たれ自由になることは可能なはずだ。
 向学心にあふれ、欧米への卑屈さも拒絶反応もない豊太郎は、積極的に新しい世界へとけ込み、知識を吸収し、感性を豊かにしていく。
 そーゆー素直なキャラクタだからこそ、異国の少女エリスと愛し合った。
 日本人だけで寄り集まって完結している他の留学生たちには、ありえないことだ。

 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 その決断でどれほど苦しむことになっても、自分の意志で動き、誰のせいにもなんのせいにもしない。あまりにも、まっすぐな性格。

 エリスを選んだために、彼は仕事と名誉と、母を失う。
 名を汚す、というのは、今までの彼の生きてきた世界での価値観でいえば、死に等しい。名誉を守るために切腹するのが常識であるからだ。
 実際、豊太郎の母はそのために死んだ。名を汚すくらいなら死を選ぶ。その価値観を貫いた。

 豊太郎がエリスを選んだのは、ほんとうにえらんだのは、免官か帰国かを突きつけられたときではない。
 免官となり、母の自害を知ったあとだ。

 それまでの自分の世界と、今自分がいる場所の差を思い知らされ、どちらの価値観を選ぶかを迫られた。

 
 わたしは、この作品を「出演者へのアテ書き」だとは思っていない。
 景子タンまたしてもアテ書きはしなかったんだな、いつもと同じ「ニュートラルに主役がカッコイイ話」を書いたんだな、と思っている。
 『THE LAST PARTY』や『Le Petit Jardin』がそうであるように。
 ある程度の男役スキルを持つ人ならば、誰でも演じられるし、誰が演じても「カッコイイ! こんな役を、こんなストーリーを見たかった!」と思える作品。
 別配役でも観てみたい、と思える作品は、アテ書き作品ぢゃないぞっと。
 景子先生の作品は、見終わったあとに妄想配役で盛り上がれるんだよなー。「スコット役は別の人で見てみたかったなー」とか、「豊太郎役は誰々で見てみたい」とかさー。

 そして、やはりこれもいつもの景子せんせ作品と同じように、「少女マンガ」だと思う。
 きれい。ひたすら、きれい。
 闇の部分、濁の部分が存在しない、ただ甘くきれいなだけの作品。
 裏切りや慟哭があってなお、絶対に「きれい」。少女マンガの域を決して踏み外さない潔癖さ。

 わたしは景子先生の作品が大好きだけれど、今のところ真の意味で彼女のファン……というか、信者と呼ばれる熱狂的ファンにはなれないと思う。
 わたしが愛するのは、「闇」であり「濁」であるからだ。
 きれいなものは大好きだけど、その根幹にあるのが「闇」や「絶望」であるものにこそ、惹かれるからだ。
 彼女の作品は、「きれいすぎる」。
 「毒」がない。
 それがわたしには、物足りない。

 もちろん、植田景子を語るときに必ず明記していることだが、その「きれいなだけ」「醜いモノは徹底排除」した、「少女マンガまんま」の世界観は、タカラヅカというジャンルに相応しいんだ。
 よくぞここまで正しくタカラヅカな作品を作ってくれる、と感動しているのも本当。
 だからこそ好きなのも本当。

 
 と、ちと脱線して植田景子とその作品語りをしたうえで、話は『舞姫』に戻る。
 そーゆー景子タン作品だが、ときどき「景子タン」の枠を超えて「毒」を持つことがある。
 脚本にどれだけ「毒」が存在しなくても、舞台は役者のモノだ。役者がどう演じるかで色は変わる。

 わたしがこの『舞姫』を好きなのは、……おそらく、景子タンの書いた脚本以上に好きなのは、豊太郎@みわっちの持つ狂気だ。

 べつにコレ、みわっちアテ書きぢゃないし、みわっちの魅力をいちばん表現できるような役でもないし、みわっち以上に豊太郎をうまく演じられる人はいくらでもいるだろう。
 でもわたしは、みわっちの豊太郎が好き。

 ただきれいなだけの脚本で。きれいなだけに終始できる役で。

 みわさんが、狂気を放つ。

 豊太郎がエリスを選んだとき。
 免官となり、母の自害を知ったあと。

 豊太郎が慟哭する意味が、エリスにはわからない。

「愛より生命より大切なモノがあるの?」

 そう歌うエリスを、豊太郎は見つめる。
 彼がほんとうの意味で選んだのは、このとき。
 それまでの自分の世界と、今自分がいる場所の差を思い知らされた。

 今までの価値観を捨てるということは、ほんとうに、すべてを捨てるということ。
 べつに、ドイツがどうとか日本がどうとかじゃない。そんな物理的な話ではなくて。

 今、エリスを愛するということは、彼女を選ぶということは、豊太郎のこれまでの人生すべてを否定するということ。
 幼い頃から「名誉のために、義のため死ね」と教えられてきた彼のアイデンティティーの放棄。

 だってエリスは、豊太郎の価値観を「わからない」と否定したんだ。母親がその価値観で死んでいるっつーに、「わからない」と一刀両断だよ?
 ふつーなら、ここでふたりの関係は終わりだ。
 ここまで根本的な考え方がチガウなら、好意を持ちようがない。

 エリスを受け入れる、選ぶということは、自害した母親を彼女の言う通りの「犬死」に貶めることだ。や、エリスは別に明言してないけど、そーゆーことだよね、「体面のために自殺するなんて、理解できない。世の中にはもっと大切なことがあるのに」というのは。
 母親の死を貶められてまで、豊太郎は彼女を選ぶ。

「わたしにはわからない」
 と、豊太郎の人生を全否定するエリスに、豊太郎は、

「愛している」

 と返す。


 その瞳に宿る、狂気。

「愛より生命より大切なモノがあるの?」
 と否定を歌うエリスと、
「この少女が変えた」
 と、己の世界を歌う豊太郎。

 エリスは豊太郎を理解しない。それどころか、否定する。豊太郎はそれがわかっていてなお、彼女を選ぶ。

 世界を滅ぼしても、この女を選ぶ。

 豊太郎の狂気は、そーゆーことだ。
 免官されたとか祖国に帰れないとかそーゆー次元のことではなくて。
 豊太郎は「世界」を敵に回したんだ。エリスを愛するために。

 それを豊太郎自身痛感しているからこその、狂気だ。
 彼は母を殺した。
 あれほど愛し、誇りにしてきた母親を、殺した。
 自殺させたことじゃない。それまでは「自殺」だったが、彼女の生命を懸けた訴えを「わからない」と否定した少女を肯定したときに、豊太郎は母を殺したんだ。

 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 彼は自分の意志と責任で、母を殺した。

 その手を罪に染めた瞬間。
 エリスを見つめる豊太郎の瞳に輝く狂気。

 あ、狂ってる。
 ……そう思える、太田豊太郎。

 だからこそ、みわっちなんだ。
 他の人じゃダメ。
 きれいなだけの脚本を、きれいなまま演じる人じゃ、わたしは嫌。

 豊太郎の犯した最初の罪。
 母親殺し。


 その昔、『宝塚ファミリーランド』のいちばん奥に「スペースコースター」というアトラクションがあった。
 室内型のジェットコースターで、宇宙を模した暗い空間を走るというのがウリだった。

 わたしは、この「スペースコースター」がダイスキだった。

 当時、他のアトラクションが200円とか300円だったのに、この「スペースコースター」だけ600円だか800円だかしたと思う。
 1000円の「乗り物券」を買っても、1回しか乗ることが出来ない、高価なアトラクション。
 それも、長い長い行列に並び、何十分も待たなければ乗れない。

 家族と遊びに行ったときも、「スペースコースター」に乗るのはわたしひとり。両親はジェットコースターなんか乗らないし、弟は遊園地が嫌いなので、動物園エリアに入り浸っていた。

 わたしはいつもひとりで、列に並んで、ひとりで乗っていた。

 「スペースコースター」の入口は高いところにあって(3階くらい?)、まず長い長いエスカレータを上らなくてはならない。行列が出来ているときは、エスカレータは停止、横の階段に並ばされていた。
 その長い階段にいるときに、不思議な音楽が流れていた。

 いかにも「宇宙」って感じの、電子音。
 わたしはその音楽を聴くのが好きだった。

 わくわくした。
 これから体験する「夢」の世界の旅に思いを馳せて。

 階段を上がりきり、建物の中に入っても、まずは通路で並ばされるだけ。少しずつ進んでいくと、「宇宙基地内部」のような部屋を通る。
 これから「宇宙」の旅に出るんだ、という期待をふくらませる演出。

 で、さんざん焦らされたあとによーやくコースターに乗り、宇宙空間に旅立つ。広さのわからない闇の中にある無数の星たち。
 耳に届く電子音、不思議な音楽。
 遠くに見える土星。

 ほんとうに、好きだった。
 とびっきりの「夢」の時間だった。

 ……大人になってから、わかるんだけどね。
 よーするに「スペースコースター」って、ディズニーランドの「スペースマウンテン」のパクりだったんだけど。
 当時、ディズニーランドはまだ日本にはなく、アメリカにでも行かなきゃ体験できないものだったから。
 日本の小学生にとっては、パッタもんでも「とびっきりの夢」だった。

 宙組公演『宙 FANTASISTA!』を観て。

 「スペースコースター」の長い階段に「乗り物券」を握りしめてひとりで並んでいた、あのときの気持ちを思い出した。

 どきどきする。
 わくわくする。
 「夢」の時間への期待。興奮。
 なんて幸福な旅。

 しあわせの記憶が、せつなくよみがえる。

 今、自分が「夢」の中にいるのだという自覚が。

 幸福だった。

 なんかもー、すごいしあわせなショーなんですけど。

 メルヘ〜ンな感じにはじまる。
 宇宙版おとぎ話。
 孫悟空が石から生まれるみたいに、タニちゃん王子が卵(らしいよ)から生まれ、メルヘン全開、かわいこちゃん全開。
 幼児タニ王子は幼女ウメと出会い、これまたピヨピヨと仲良しこよし。
 されどタニ王子は宇宙漫遊しなければならない。ちぎの運転する空飛ぶ車に乗って出発!! てゆーか、タニ+ちぎってナニ、かわいすぎる!!
 最初に王子ちゃまがたどりついた月の世界には、お尻にしっぽつけた男たちがいるし、このままおとぎ話路線で行くのかと思いきや。

 次の火星がすごかった。

 砂色の衣装のともちと女装すずはるきがねっとりと踊り、「な、なんだ?! なにがはじまるんだ?!」と、今までといきなり世界観チガウぞ?!と驚かせておいて、さらに。
 白っぽいドレスのウメちゃんが張り付けにされ、赤い服の男たちが周囲で禍々しく踊る。
 なんかダークだわー、と思っていたら。

 ウメが戒めを解き、白ドレスを脱ぎ捨てる。

 黒いウメ、キターーッ!!

 ダーク&セクシーなウメが、ワイルドに踊りまくる!!
 男たちを率い、センター取って踊る踊る!!

 カッコイイっ!!

 ウメだ。ウメちゃんだよーっ。ステキステキステキ!!
 彼女と絡むのはみっちゃん。ちょっとらんとむ、なんでここにいないのよ、こーゆーアダルト+セクシーは君の持ち場だろー?!(や、みっちゃんに含みはありません)

 娘役が、1場面まるまる主役を務めましたよ。
 すげえや。

 で、次にいきなり舞台が水色になる。あー、火星の次は水星かー。
 登場するのはタニ王子。そして、彼と踊るのは……えええ、らんとむ?!

 タニ王子とらんとむ(パツキンロン毛)は、うつくしいぶるーのいしょうで、たんびにあやしくおどります。

 デジャヴ。
 強烈な、デジャヴ。

 ナルキッソス@『TAKARAZUKA舞夢』!

 何故だ。
 何故だ藤井大介。
 『TAKARAZUKA舞夢』で懲りなかったのか? らんとむ×水で同じよーな場面をやり、あきらかに失敗だったのに、何故同じことを繰り返す?
 てゆーか、あのときだって、水くんはいいんだ、問題はらんとむだ。らんとむに、耽美をやらせるな。
 ラグビー部主将にチュチュを着せて踊らせても耽美にはならないってことが、どーしてわからないんだっ、藤井!

「『TAKARAZUKA舞夢』のナルキッソスも、藤井的には失敗ではなかったってことか……」
 いつもの店でごはんをしながら、ドリーさんはつぶやく。
 なんておそろしい事実だ……つまり藤井は、これからもらんとむでまちがった耽美シーンを作り続けるかもしれないっつーんだな。

 プログラムを見せてもらって、さらに驚愕。

「タニの前に美しいらんとむが現れる。二人は互いに恋に落ち、めくるめく官能に溺れていく。らんとむは妖しい色気でタニを湖の底に誘おうとするが……」(プログラムのまま。ただ、名前は役名で記載)

 正気か藤井。
 タニとらんとむでめくるめく? 官能?

 せ、せめてみっちゃんにしよーよ。みっちゃんでもアレだとは思うが、らんとむよりマシだろー。(や、らんとむにもみっちゃんにも、含みはありません)

 七帆とらんとむなら、見たかったかもなー。ぼそっ。

 ここまでで、すでに盛大にツボに入り、大いにたのしんでいたんだが。
 耳慣れた音楽とともに、舞台は木星へ。

 タニちゃんを中心に、みんなで、みんなで、集まってくる。
 歌う歌は、タニちゃんを讃える歌だ。
 新しいトップスターの誕生を祝う歌だ。

 今、新しい組がはじまる。
 あたらしい夢がはじまる。

 どうしよう。
 なんか、泣ける。
 泣けてしょーがない。

 おめでとう、タニちゃん。おめでとう、ウメちゃん。
 おめでとう、宙組。

 んで、巨大な美女たち(脚見せアリ)が歌いながら銀橋を渡ったあとは、黒タキ、ホストクラブ、キターーッ!!
 や、衣装は黒タキじゃないし、たぶんホストクラブでもないけど!(笑) このショー、かなり『TAKARAZUKA舞夢』とかぶってんるんで。
 黒スーツ男たちのセンター取るのは我らがらんとむだ!!
 そーだよ、これぞ正しい蘭寿とむだよーっ。感涙。コレが見たかったんだよーっ。
 かっこいーよー、いい男ぞろいだよー。
 でもって、さっき銀橋を渡っていった巨大な美女たちも、気がつくと男たちの間にまざってキザってるし! キャッホー!

 で、余計なナレーションのあとに、これまた『TAKARAZUKA舞夢』と同じ展開で争う人々の世界、土星。
 で、『舞夢』と同じ展開で世界は光に向かうんだが……。

 黄金の世界に立つのは、太陽の王子タニなの。

 すべてのことが、タニちゃんを中心に収束していく。
 まばゆい光。

 ここでもまた、ぶわーっと泣く。
 泣くってばよ。

 昔わたしは、わくわくしながら「スペースコースター」の列に並んだ。宇宙基地内部のような部屋を通り、ついにはコースターに乗り、宇宙の旅に出た。
 あの、わくわくだ。
 あの、よろこびだ。

 純粋に、夢。
 つくりものだとかバッタもんだとか、そんな「オトナ」の目線ではなく。
 ただ、夢は夢だった。

 タニちゃんという光。
 それは、純粋な夢なんだ。

 デュエットダンスもすごくいいんだよー。
 ダンステクニックがどうとかじゃないの。
 さんざん踊って、銀橋まで走り抜けて(走るだけ!・笑)、そこまでやったあとで、まるで「はぢめて相手に触れる」みたいに、おずおずとウメちゃんが手を差し出し、タニが、手の甲にキスするの。これまた、たどたどしく。

 ヲトメゴコロがキューーン☆

 なにアレ〜〜!! 反則〜〜!!
 抱き合ってセリ下がっていくのもいいの。うわーん、かわいいよう!

 続くみっちゃんとたっちんのエトワールのハーモニーもすばらしいし。

 もう、たのしくてたのしくて。
 ショーだけなら何度でも観たい!!

 芝居が終わったあとかなり荒れていたんで(笑)、ショーで思いっきり救われた!! らんとむとタニで耽美やっても、それでもステキだ藤井大介!
 出演者への愛が見える作りがなによりうれしい。

 心から言うわ。

 タニちゃん、ウメちゃん、トップスターお披露目初日おめでとう。

 よい旅を。


 あのね、『舞姫』はね、ダブルヘッダーするもんぢゃないわよ。
 すっげー消耗するからね。
 1日1『舞姫』が正しいわね。
 2日〜3日に1『舞姫』×1ヶ月、ぐらいが、ちょうどよかったかも。
 『TUXEDO JAZZ』も週2で通っていたし、わたしにはそれくらいのペースが合ってるみたい。
 なのにうっかり1日2『舞姫』とかやっちゃった日にはさぁ、偏頭痛起こすわ、目眩するわで大変よ。早々に寝込んだわよ。

 
 とまあ、『舞姫』の話は置いておいて。

 今日は、シールの話。

 わたしは自分で「観劇用スケジュールシール」を作っている。
 各組ごとに色分けした小さなシールで、観劇日も初日や楽、友会入力日や発売日もばっちりだ!

 その「観劇日」シールが。

 花組だけ、使い切ったの。

 えええ?
 だってわたし、ちゃんと計算して作ったのよ?
 去年使った枚数から、今年必要であろう枚数を推測し、十分な枚数のシールを作ったのに。
 現に、他の組はたっぷり残ってる。3分の1も使ってない。

 「観劇日」シール、組ごとに42枚ずつあったんですが。

 花組シール、42枚全部、使っちゃったってこと?
 それってつまり。

 今年もう、花組を42回観たってこと?!

 いやいやいや! 落ち着けわたし。
 今まだ6月だから。
 まだ今年半分しか終わってないから。
 花組だけで42回とか、ありえないから!

 「スケジュールシール」なので、「予定」として手帳に貼るので、「予定していたけど、結局行かなかった。チケットはさばいた」などの場合も、シールは消費している。

 そのためだ。
 うん。

 42回……そうさ、ありえない……そのうち20回が『TUXEDO JAZZ』だったりするけど、ありえない……。

 
 ちなみに、花の次に減っているのは星組。
 いちばん減っていないのは、意外なことに、月組でした。
 なんでだ? ゆーひくんとそのかがいるのに……あ。1月の公演、植爺だったからだ。

 
 なんにせよ、花組シールがなくなってしまったので、急遽追加印刷しなければ。
 何枚必要だろう……まさか42枚は、いらない、よ、な……?


 すみません、貴城優希さん、どこですか?

 またしても青木さんからご招待いただいて、盛大にしっぽを振りながら観に行きましたよOSK、『カウボーイズ〜地平線の向こうには夢がある!?〜』
 ミツバチ・トミー@高世麻央さんと、濃いぃいおっさん俳優@貴城優希さんの舞台だって! 男役5人だけのミュージカルだって! わくわくわくっ。

 『舞姫』公演中ですが、なにしろあっちは消耗度が激しいので……他の舞台も観なきゃ続かないよ〜〜! と、朝から別の劇場へ。や、どーせ午後からはムラへ行くんですけどね。

 前回の『春のおどり』がマジたのしかったし、高世さんも貴城さんもカオわかるし、あと若手の楊琳くんもチェックしてた子だし、たのしみだわー。計5人ってことは、あとのふたりのこともこれでおぼえられるだろーし、カオと名前をおぼえれば何倍もたのしく観られるのはヅカもOSKも一緒、たのしみたのしみっ。
 キタの人間なので梅田より南の地理にうとく、方向音痴なんでどきどきしながら弁天町へ。環状線沿線はマジでわからん……。
 OSKの劇場、世界館初体験。横からと正面とで、ここまで外観のチガウ劇場もめずらしいのでは……? 公式HPの劇場外観写真を目印に行ったので、びっくりした(笑)。
 や、なんかおもしろいっす。ミもフタもなく「倉庫」な感じと、デコラティヴな部分が。
 「劇場だ」と思った。小劇団とか観に行く、あの感じの濃密な空間。

 で、相変わらずHPの公演案内以上の知識もなく観て。

 貴城さんがいないっ?!
 変だな、この公演の2番手だよな、貴城さん。なんでいないんだ? えーと、高世さんから数えて5人、ちゃんともう5人舞台にいる。
 なのに、わたしの知っている貴城優希がいない。貴城さん、どこですか?

 ……ひょっとして……あの、めちゃくちゃかっこいい人が、貴城優希?!

 えええっ?!

 混乱。
 ち、ちょっと待て。わたしの知ってる貴城さんはだ、濃いぃい芸風のおっさん顔の人で。OSK初体験だった去年の『春のおどり』でやたら目線くれてたホクロの人で、「貴城優希って名前、かしげ+ハマコだけど、間違いなくハマコ系の人だわー」と思っていたのに。
 実際、今年の『春のおどり』でもお笑い担当、吉本みたいなおもろいおっさんだったぢゃないの。

 か、かっこいいっ。
 マジ美形?!
 なんでなんで?
 ほんとはこんなイケメンだったの?!

 物語は、田舎者のカウボーイ5人組が「ビッグになってやるぜ!」と地に足着かないあこがれだけでNYにやってきて、それぞれが自分の生き方を見つける、という、めっちゃ他愛ない話。
 なにしろ1時間ほどの小品だ、んなこねくった話であるはずがない。
 正直ストーリーはかなりアレだった。
 よーするに、スター5人の「魅力」を見せるためだけのプロモーションビデオみたいなもんだ。物語だとかミュージカルだとか、とにかくまとまった「ひとつの作品」を観たい人には「なんじゃこりゃ?」だと思うけど、スターシステムで成り立つカンパニーなら、ソレはソレでOKかと。

 実際、マーロン@貴城優希、ステキだし。

 ガキ5人組の中で、マーロンひとり年長。かっこいい、みんなのにーちゃん。センシティヴな主人公デイブ@高世麻央もマーロン大好き。
 マーロンのときもすげーかっこいいし、ヤクザ男をやっているときなんか、さらにさらにかっこいいんだこれがっ。
 濃い。すっげー濃い。そして、嘘臭い。(誉めてます)
 やりすぎなまでに「野郎」な感じがもお。
 ざんばらな髪がまたいいんだー。どこのロックやってるにーちゃんだよー、ってかっこよさ。

 あまりにも、わたしが勝手にイメージしていた貴城さんとチガウのでびびっていたんだが。
 カーテンコール時はふつーに貴城さんだった。
 表情が、見知ったものだったの。にかっとした、三枚目全開の笑顔。

 つまり。
 役によって、あそこまで変わるってこと?!
 すすすすげー!
 今まで彼を三枚目とかおっさんだとか思っていたのは、彼がそーゆー役をやっていたからか。本気で「二枚目」を演じれば、あれだけトキメキな美形になるんだ。

 いやあ、深いなー。

 
 デイブ@高世さんは美少年です。
 他のダメダメな3人とはちがい、まっとーな「悩める少年」。
 「自分だけの夢を見つけることが夢」とか言う、モラトリアムまんまの健康で善良な男の子。
 さらさらの髪、大きな瞳。ヲイヲイ、かわいいぢゃないか。
 

 劇場が小さく、また少人数の舞台だからか、今回強く感じたのは彼らの、作り込まれた美だ。

 フィナーレ、白いシャツ姿で踊る彼らを観て、しみじみ思った。
 「男役」というアクター。
 女性が当たり前に持つ丸みを削ぎ落し、あるいは隠し、矯正し、もうひとつの性をカタチ作る。
 それは生まれたままの才能でどうこうなる次元の話じゃない。
 努力と経験と年月をもって作り上げられるものだ。

 高世さんの細いカラダからほとばしるパッションに、貴城さんの潔い二の腕の筋肉に、彼らが舞台の上でまちがいなく「別の性」を生きる「別の存在」だと思った。
 や、男性ともチガウんだよ。
 「男役」なの。
 世の野郎共ともまたチガウ、もっと魅力的なイキモノなの。

 スタイルがそれほどいいわけでもないし(すまん)、ぴっちぴちに若いわけでもない(すまん)、でも彼らは、まちがいなく美しいの。

 
 でもって、残りの若手くんたち。
 アンディ@楊琳くんが、めーーっちゃかわいい!!
 なんなの、あのキュートさ!
 ヒロイン?も彼だよね?
 両足そろえてちょこんと坐って、ニンテンドーDS(旧型・笑)やってるのがすごいかわいい。
 丸眼鏡に「アキバ系」シャツ。とてもわかりやすいヲタク少年。
 だからこそ、ラストにホスト姿で出てきたときのギャップがステキ。うおー、かっこいー!
 まだ入団3年目とかそんなもんだよね? 去年の『春のおどり』で新人として出てたよね?
 声が女の子のままだけど、あのビジュアルだけでもめっけもんだわ。

 ピート@香月蓮くんはそのう、たしかにめちゃくちゃ目立つ。あまりに、そのう、ふっくらしていて。
 女好きのおデブキャラ、なんだよね? ラストは中年太りのタイコ腹だし。
 彼があまりに女の子まんまで、男役度が低かったために、ヤクザ男にボコられるところがわたし的にきつかった。女の子が一方的に殴られているみたいに見えて。コミカルにしてあって、「ああ、ここは笑うところなんだろうなあ」と思いつつ、ちと引いた……。
 きっとこれから男っぽくかっこよくなっていくんだろう。顔はかわいいんだし。

 ラストひとり、ジム@真麻里都くんは役としてちょっと印象薄いかな。や、わざとらしいまでの巨乳美女はキュートだったが。ボクサー志望の元気少年、ラストもジャージ姿だから美的にかっこよく見せにくいしな。割を食った感はある。あ、ヒゲオヤジはかっこよかった(笑)。
 元気に踊っていたなー。ダンサーカテゴリだからひとりだけ体育会系キャラなのかな?

 
 フィナーレの白シャツでのダンスは、若者にはちとキツい部分が目立つ。「男役は1日にて成らず」ってな、高世&貴城と若手くんとのキャリアの差が出まくっていた。
 ダンスの実力とは別のところにある、「男役」としてのビジュアル。

 とにかく「目の前」感がすごくて。段上がりセンターの観やすい席だったんだけど、舞台の上の人たちと目が合いまくる気がして、落ち着かない。やーん、どうしよう(笑)。
 「巻き込まれる」感じに浸れて、すげーお得感のある舞台でした。
 いいなー、たのしーなー。
 ヅカでもこんなのやってくんないかなー。


 緑野こあら、出待ちしました。
 花組バウホール公演『舞姫』千秋楽。
 入り出待ちは一切しないで生きてきたわたしが、数年ぶりでバウホールの出待ちをした。なにか用があって残っていて結果的に生徒さんの出を見られた、とか、「出待ちする!」という友人につきあって出待ちをした、とかいうことは何度かあったけれど、自分の意志で出待ちをしたのは数年ぶり。
 それが、この作品の、わたしのなかの「位置」だ。

「『血と砂』以来かなぁ」
 と、出待ち歴を振り返るわたしにつきあって、最後まで一緒にいてくれたパクちゃん、ありがとう。

 黒髪のまっつが、大変美しゅうございましたっ。 

 わーいわーいナマまっつだー。
 黒髪に黒いシャツ、シルバーのアクセ。コンパクトなまっつ(アタマ小さいっ、カオ小さいっ)がファンの人たちから手紙を受け取る様を、ぼーっと眺めていた。
 で、明日がお誕生日のまっつのために、FCの人たちが「はっぴーばーすでー」を歌い出した。たぶん雰囲気的に、その場にいた人たちみんな参加OK。てことで、わたしもどさくさにまぎれて一緒に歌ってみた、小さな声で(笑)。
 そこにちょうどみわっちも現れた。
 彼も一緒になってまざる。

「はっぴばーすでーでぃあ、ケンちゃん♪」

 ケンちゃんかよっ?! てことで、まっつ爆笑。みわっちもウケている。
 歌が終わったあとも、まっつとみわっちでひとしきりじゃれていた。
 みわっちがことさら、「ケンちゃん」って呼ぶんだよ、まっつのこと!!

 で、まっつは「謙吉」と指示し、みわっちがはいはい、て感じに「ケンキチ」って呼び直してあげて。

 なんだよヲイ、ラヴラヴだなっ。
 名字呼びしかしない関係だった太田豊太郎@みわっちと相沢謙吉@まっつ、千秋楽に至って急接近?!(笑)
 

 本日の楽はとくにアドリブもなく、ストイックに、ただ熱だけを静かに発して終わった。
 わたしは相変わらずガーガー泣いて、カオをガビガビにしていた。

 ミトさんの挨拶はよどみなく、花組名物はっちさんとの差異を強く感じる。まあ、はっちさんのは名物だから……(遠い目)。
 みわっちは男らしくきちんと挨拶、途中泣き出しかけたけれどぐっとこらえ、主演としての仕事を最後まで全うした。
 意外なことに出演者全員のひとこと挨拶があり、下級生順に口を開いた。
 みんな大抵「ありがとうございました」と言ってお辞儀するだけなんだが。

 個性を出したのは、らいらいとマメとまっつ。……ん?
 らいらいだけはナニも話さず、ただ一礼。すっげーかっこつけて。うおおお、なんてらいらしい、キザったらしさ。
 マメはすごい。自分の番になるなりくしゃみ一発。岩井くんキャラでご挨拶。すげーすげー。とっさにここまでできるってナニモノ?!

 で、まっつ。
 個性を出す、で、らいとマメの名前があがるのはいいとして、まっつが並列していると変な気がするんだが……。

 まっつは、自分の番が来るなり、みわっちに、抱きついた。

 後ろから、がしっと。

 ……ええええ?!

 あの、ふつーなら客席も反応しますよね? 主演の男役と2番手男役がアドリブで抱き合ったりしたら、「きゃあっ☆」てな黄色い声が上がりますよね?
 あまりに意外だったからか、客席が置き去りにされていた。いまいち反応薄い……。

 だって、まっつがそんなアクションするの、はじめて見た……。
 みんながぐちゃぐちゃに抱き合ってよろこびあってます、てなときじゃなく、整然とひとりずつ挨拶してるんだよ?
 抱きしめますか……後ろから……強引に……で、すぐに放してふつーに挨拶しますか……。

 びびりました。
 ら、ラヴラヴやね、あんたら……。
 

 そんなこんなで。
 出のときにも仲良しさんで、いいもん見ました。

 ファンの人に対してふつーに標準語で喋っていたまっつが、みわっち相手になるとまんま大阪弁になるのもすごい。
 うわー、素の喋りはこうなんだー、と。
 「いややわー」と言うまっつのベタベタな大阪弁具合にびっくりだ。わたしでもそこまでベタな発音しないぞ?

 先に現れたわけだから、先に去っていくまっつは、何度もみわっちを振り返り、「さっさと自分のファンのところへ行け」とゼスチャー。
 まっつの指さしポーズはなにか元ネタあり? 何度か同じポーズをしているのを見た気がするんだが。たとえば、ウラジミール@『マラケシュ』のときとか。
 みわさんはまっつにウケていて、なかなか自分のFCのところに行かない(笑)。

 みわさん会の人たちは、みんなお揃いの「トヨ様写真入り扇」を手に待ちかまえていた。(いいなあアレ、あたしも欲しい……)
 で、要返しは無理だとして、くるりと回すだけ回して「トヨ様」と声をそろえて挨拶をしていた。
 いいよな、トヨ様。サマ付けできるキャラだよなー。相沢くんは「ケンちゃん」だけど(笑)。

 マメの私服のオサレさに大ウケしたり、しゅん様が舞台と同じカオしていることに驚いたり(メイクしてなくても、あれだけ濃いんだ……)、とーってもシンプルな風情のちゃーが「うわ、素顔も好みだ……」と唖然とさせてくれたり、りおんちゃんの素の喋りと舞台台詞が変化ないことに震撼したり、まあ普段入り待ち出待ちしないだけに今さらな発見を繰り返しつつ。

 終わってしまうんだ、ということを痛感した。
 

 よい作品だった。すばらしい公演だった。
 しかし、観劇することでの消耗度もすごかった。
 繰り返し観ることで、体力と気力を削ぎ取られるかのよーだった。
 毎回あんなに泣いてたんじゃあ、そしてそれがほぼ毎日じゃあ、そりゃ消耗するわ……食事も睡眠も不規則になるしな。

 自分の泣きポイントは、さすがにもう熟知していたはずなんだが。

 本日千秋楽。
 何度目かのカーテンコールで幕が上がり、白い軍服姿のみわっちひとりが、なにもない舞台に立っていた。

 それを見て、泣いた。

 なにがなんだか。
 でも、泣いた。

 美しい、と思った。

 真っ白なみわさんが。
 美しくて、泣けた。

 みわっちはすぐに仲間たちを呼び、舞台は色彩で溢れたけれど。

 
 出会えたことが、愛しい。
 大切に大切に、全身で抱きしめたい。
 そんな公演だった。

 ありがとう。


HAPPY BIRTHDAY!@まっつまっつまっつ
 ゲームをはじめるなり、フルメタルさんに襲撃された。
「誕生日おめでとう、アズ!」

 あ、そっか。
 今日はまっつ村のアズの誕生日だ。

 べらんめえキャラで意地っ張りのフルメタルさんが、テレながらもお祝いしてくれたよ。
 ヨカッタヨカッタ。

 アズくんは今、シルクハットがトレードマークのクラシカルな紳士だ。
 ついこの間まではずーっと学ランだったんだけどね。今も学ランでもいいかもしんないけど、なにしろ2月からずーっと学ランだったからさすがに飽きた。で、今はこの格好さ。
 次の『さらば港町』のころには、どんな服装になっているんだろうな……。

 
 とゆーことで今日は、まっつの誕生日です。

 『舞姫』通いですっかり消耗したわたしは、夕方になってからよーやくのそのそと出かけ、「せっかくまっつの日だから、なにかまっつにちなんだものでも買おう」と、わけわかんない理屈を付けて、東急ハンズをウロついてました。
 や、もう世の中サマーグッズ商戦入りしてるだろうからさ、タツノオトシゴ・グッズが出てないかと思って。
 ドリーさんからもらったタツノオトシゴのストラップ、落としちゃったんだもん……それ以来ずーっと、ネットでもリアルでも探しているんだけど、売ってないんだよ……。
 わたし、海洋生物大嫌いだから、リアルな海洋生物はダメ。デフォルメされた、かわいい嘘くさい海馬グッズが欲しいのよーっ。
 なんで売ってないのよーっ、イルカは山ほどあるし、魚もタコもイカも、エイやサメだって売ってるのに、どーして海馬はないのよーっ。

 あまりにも売っていないから、海馬はあきらめて黒ヒョウでも探そうかと思ったんだけど。
 いざ探すと、ないんだわ……黒ヒョウも……。
 
 なんで黒ヒョウかとゆーと、まつださんが「自分を動物に例えると黒ヒョウ」だとゆーてるからです。
 「まっつ=黒ヒョウ」つーと、大抵の人は「はあ? ありえねー」と言いますが、わたしもびっくりしましたが、本人がそうゆーてるんですから、仕方ありません。
 今年のレヴュー本に書いてあるんですわ。いちお、「動物占いで黒ヒョウだったから」という、トホホ感漂う理由も書いてありましたが……。

 ちなみにわたしは「コアラ」で、「黒ヒョウ」さんとはあんまし相性よくないっす……。てゆーか性格正反対すぎ。
 でもどりーずメンバーは黒ヒョウ多いんだよなー。みんなテキパキさんだからなー。(わたしはダラダラ族)

 海馬にも黒ヒョウにも関係なくても、なにか身につけるモノでも買っておけば、日にちと共に記憶に残るのになー。
 たとえば今日履いてるミュールは、かしちゃんトップお披露目初日を観に行くために、前日に買った物だわ、とか。おかげで博多の街ではひどい靴擦れだった、とかな(おろしたての靴で旅行はやめましょう)。
 ソレを見るたびに「思い出」がよみがえるから。
 『舞姫』と黒髪のまっつとみわっちとのいちゃいちゃと、そしてまっつの誕生日を全部いっぺんに「思い出」にするために、なにか買おうと思ったんだが……。
 とくになにも、ぴんとくるものがなかった……。ストラップが欲しかったのになー。

 ロデム@『バビル二世』のストラップでも売ってないかな?

 ロデムって、まっつっぽいと思う。ね? ね?

 
 誕生日おめでとう、まっつ。

 てゆーか、わたしがめでたい。**年前の今日、まっつが生まれてくれてよかったっ。すげーめでたいわー!!
 おかげでわたしは、こんなにハッピーだ。

 まっつまっつまっつ。


 エリスは無垢な少女である。
 彼女は光、彼女は夢。
 ただただ美しい存在。

 主人公・太田豊太郎の目線で描かれた「青春の幻影」の物語である『舞姫』において、ヒロイン・エリスはただ美しく、それゆえに哀しい。

 森鴎外原作ではあるが、植田景子作のこの作品は、名前だけ借りた別物、景子先生のオリジナルだと言ってもいいと思う。
 主役の人格も物語のテーマもなにもかも違い、名前と基本設定・物語の流れだけが同じ、じゃ、「実在の人物を主人公に物語を作りました。実在の人物なんで人物関係も出来事も史実通りですが、他は全部フィクションです」とゆー『THE LAST PARTY』と同じじゃん。

 つーことで、そのオリジナルな『舞姫』。
 豊太郎とその恋人・エリス、親友・相沢。3人の主要人物それぞれが罪を犯す物語

 「夢」の具現であるエリスの犯した罪は、もちろん彼女が純粋すぎ、汚い現実世界で生きられなかったことにある……が。
 愛ゆえに壊れた美しい人、という、「よいイメージ」だけで終始するのではなく、彼女が具体的に犯した、致命的な罪について。

 もしも武士を相手に町人の娘が、
「名誉のために死ぬなんてバカじゃないの?」
 と言ったら、斬り捨てられても仕方ないよな? 斬り捨て御免、死を持って償え、てな致命的犯罪だわな。
 それも、今まさに「名誉のために自害」した武士の家族の前でソレを言ったら。
 
 エリスは、豊太郎にソレをした。

 豊太郎が本来の豊太郎なら、「日本人」であり、「武士」である豊太郎のままであったら、その場でエリスを殺し、自分も自害していると思う。
 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 彼は自分の意志と責任で、エリスを殺し、己の生命でもってけじめをつけただろう。
 本来ならば。

 エリスはそれだけ徹底的な、取り返しのつかない過ちを犯しているが、そもそもの過ちの根幹であるところの無知さにより、自分の罪にすら気づかない。

 日本人だからドイツ人だからとかゆー話ではなく、生命を懸けた価値観を、浅慮さゆえに全否定する愚かさ。無神経さ。
 「わからない」ことは仕方ないかもしれないが、何故ソレを今ここで口に出す? いくらなんでも無神経すぎるだろう。愚かすぎるだろう。殺されなかったのは、相手が豊太郎だったからであって、武士でなくても死んだ家族をあのタイミングで貶められたら激昂するぞ? ドイツ人同士でも殺されたかもしれないぞ?

 このことからわかる通り、彼女はただ「愛している」と言うだけで、豊太郎を理解する気がまったくない。
 人間として、あまりに幼く、矮小だ。

 彼女の美しさ、純粋さは、ただの愚かさだ。
 なにも知らないからきれいなだけ。汚れる前だからきれいなだけ。汚れたらそのことに耐えきれずに逃げ出してしまう。

 彼女の「罪」は「愛している」と言いながら、その愛する相手を「まったく理解しない」ことだ。
 なにが相手を傷つけるかも考えず、ただ自分が気持ちいいことだけを追求する。
 蝶の羽、足を、ひとつずつもぎ取り、嬲り殺す子どもと同じ「純粋」さで。
 

 「エリスの罪は純粋すぎたこと」ではない。
 それもあるっちゃーあるが、それだけではない。

 えー、いつも語っているが、わたしは「まちがっていることを『正しい』とする世界観」が嫌い。
 たとえば「世界でいちばん尊いのは愛だから、自分と恋人以外はどーなってもヨシ、仕事なんか投げ出して当然、不倫も当然、自分たちに説教するよーなヤツは悪人、卑怯者、自分だけが正義」とかな。や、植爺作『ベルサイユのばら』のフェルゼンとかゆー人の言動ですが。
 この例題が気持ち悪いのは、この自分勝手極まりない万年留学中(30過ぎてまだ遊ぶだけの学生)不倫男を「正しいことをしているのに、愚かな人々から攻撃される悲劇の主人公」と描いていること。
 主人公を「正しい」とするために、他のすべての世界観、価値観がゆがめられているの。
 どう考えてもまちがっているのは主人公なのに、彼をマンセーするために彼以外のすべてが「悪」になっている。

 「まちがっている」ことは、悪いことではない。
 リアル界でどーだかは置いておいて、「物語」の中では、だ。
 「まちがっている」ことは「まちがっている」こととして公正に描き、「過ちを犯してまで、なにをしたいのか」「何故その過ちを犯したのか」を描くことこそ、「物語」だろう。
 ある殺人者の物語だとしたら、植爺作品ではもれなく価値観倫理観がゆがめられ殺人が正しいことになるだろうが、そーではなく、殺人は悪い、だが殺人を犯してまでなにを求めたのか、殺人を犯したのは何故かを描くのが「物語」の醍醐味だろう。

 エリスは美しいだけの少女ではなく、身もフタもなく愚かなだけの罪を犯している。

 だが、彼女は美しく、この物語もまた美しい。

 それはエリスを正当化するために世界観をゆがめた結果得られたモノではない。

 彼女の罪や愚かさをきちんと描いたうえで、それを認めているゆえだ。

 視点となる主人公豊太郎が、エリスの罪と愚かさを理解し、それでもなお彼女を愛しているから、だ。

「わたしにはわからない」
 と、豊太郎の人生を全否定するエリスに、豊太郎は、

「愛している」

 と返す。


 この少女のために、母を殺した男が狂気の目で「愛している」と歌う。
 返り血をあび、汚れ、歪んだ顔に、目だけがぎらぎらと光る。

 まちがっている。
 これは罪だ。

 それでもなお、愛さずにはいられない。

 その壮絶さが、激しい琴の音と相まって目眩のような美に昇華される。

 人間たちが、罪を犯す物語。
 罪を犯してまで、誰かを愛する物語。

 だからこそエリスは美しく、豊太郎は美しく、この物語『舞姫』は美しい。


 相沢謙吉は、善人である。

 わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが善人であることを、とくに「すごい」ことだとは思わない。
 ひとは誰でも基本善人だから、彼は善良であるという前に、凡人なのだと、思う。

 ふつーなんだと思う。
 そのふつーの人が、取り返しのつかない罪を犯す。

「いかなる善意からはじまった行いも、終わりがすべてを決める」@『暁のローマ』

 相沢は、罪を犯す。
 親友・太田豊太郎のために。祖国・日本のために。そして、親友の愛した女性・エリスのために。

 『舞姫』という作品で、もっとも大きくわかりやすく「罪」あるいは「過ち」とされるのが、相沢がエリスを発狂に追いやること、だ。しかも豊太郎の意識のない間のスタンドプレイとして。

 相沢のキャラクタは1幕から丁寧に創られている。
 豊太郎を愛し、尊敬し、誇りにしている男。一種盲目的。
 豊太郎の免官騒ぎのときも、豊太郎の母が自害してまでその行動を責めたのに対し、相沢は一貫して豊太郎を守る立場を貫く。

 世界を敵に回しても、ボクだけは君の味方だ。てなノリですな。

 なにがあろうと揺るぐことなく豊太郎を愛し、信じ、彼の側に立つ。
 溺愛し盲信しているよーだが、強く苦言も呈する。
 こんな参謀がいたら、天下取れるんぢゃね?(笑)
 副官タイプの男だなー、つくづく。で、トップのために汚れ役・憎まれ役を進んで引き受ける。

 相沢が善人であることについては「ふつー」認定だし、愛する人のために努力することも、「ふつー」認定なんだ、わたし的に。
 誰だってそうでしょ? 知らない人のためだとか、軽蔑したり嫌っている人のために粉骨砕身してわざわざなにかしてやったりしなくても、夫や子どものためならなんでもするじゃん? 愛してたらそれがふつー。
 別に、偉大なことでも素晴らしいことでもない。

 相沢だって、豊太郎相手だからそこまでするわけで、他の人相手に同じことをするとは思えない。
 だから彼は、ふつーの人。

 1幕から丁寧に、彼がどれだけ「ふつー」の人かを表現している。
 ふつーであるがゆえの、自然な言動。

 それゆえに彼は、豊太郎にエリスと別れろと言い、実際にエリスに別れ話を直接切り出すんだ。

 
 豊太郎もエリスも、「至上の愛」に踏み込んだ人たちだ。
 「ふつー」を捨て、「それは人としてどうよ?」な領域に踏み込んだ非凡な人々。
 エリスは狂っているし、豊太郎は母親を殺しているし。
 彼らの域まで到達することは、凡人にはあまり考えられない。
 だから彼らはアンタッチャブル、観客はあくまでも「観客」の立場で美しい慟哭を見ていられる。

 しかし、相沢は。

 主要人物のうちで彼ひとりが凡人だ。わたしたち側の人間だ。

 わたしたちがよく見知っている常識で考え、理性や建前で行動する人。

 つまり。

 わたしたちは、いつでも相沢たり得るんだ。

 相沢が犯した罪は、わたしたちが明日犯す罪かもしれない。
 正しいことを善意ゆえにして、取り返しのつかない事態になる。
 それは、十分ありえることだ。いつでも、起こりうることだ。

 横断歩道をよぼよぼ渡っているおばあさんがいて、親切心で声を掛け、手を取って一緒に渡ってあげた。そんなことをしているうちに、目を離した小さな息子が道路に飛び出して事故に遭った。……そんな感じの罪。
 正しいことを、善意でしただけなのに。それゆえに悲劇が起こったとしても、それはもう避けられなかったことで、誰がどうすることも出来なかったことのはずで。
 だけど、悲劇は悲劇で。

 相沢の罪は、そんなやるせない悲劇。

 相沢を悪者にせず、きちんと「凡人」であるスタンスを描ききっているところがすごい。
 ステレオタイプの悪人は、ある意味非凡で、観客からかけ離れた存在だからだ。
 豊太郎とエリスを「純」とし、ソレに対する「悪」(俗、でもいい)として対比させるのではなく、「純」(狂、でもいい)に対する「凡」(正、でもいい)としてあざやかに対比させた。
 白いドレス姿で、日本の舞扇を手に踊るエリスのように。
 相反するモノを配置し、美を際立たせる。

 そして「凡人」である相沢の救いは、彼が「とことん誠実」であること。
 彼もまた、自分の行いから決して逃げない。凡人であるかもしれないが、いや、凡人であるからこそ、卑劣な真似はしない。

 わたしはふつーに性善説の人間なので、相沢くんが「自分の罪から逃げない」のは、彼が「ふつー」であるがゆえだと思うのですよ。
 ふつーの人ってみんな、程度の差こそあれ、善良だよね?

 その程度の差を考えたときに、それでも、相沢くんは、強い人だと思うのだけど。
 ふつーだけど、ふつーより強い人だと。
 常識の範囲内で生きる人だけど、天才ではないけれど、強さを持った人なんだって。

 相沢が犯した罪は、誰でも犯しかねない罪。
 人間は、誰だって罪を犯す。誰ひとり、なにひとつ傷つけないで生きられる者はいない。
 人間は、誰だって転ぶ。一度も倒れずに生きることなんてありえない。

 だから、問題は。

 罪を犯したあと、どう生きるかだ。

 転んだあと、どう立ち上がるかだ。

 罪を犯すところまでは、平凡。
 相沢くんはわたしたち、凡人代表、観客代表だ。

 エリスを発狂させたあとに、彼の真価が問われる。

 相沢謙吉は、太田豊太郎の親友である。
 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 相沢もまた、豊太郎の親友たる男である。
 友人を見れば、その人となりがわかる。
 豊太郎が一角の人物であるのならば、相沢もそうであるはずだ。豊太郎より凡人だとしても。

 わたしたち凡人側だった相沢くんは、あくまでもわたしたち側に立ったまま、未来を見せてくれる。
 天才ゆえの慟哭だの悲劇だのではなく、等身大の奇跡を見せてくれる。

 立ち上がれ。
 逃げるな。
 立ち向かえ。

 自分自身に。
 愛する者に。

 日常に。

 人間たちが、罪を犯す物語。
 罪を犯してまで、誰かを愛する物語。
 罪と向き合い、背負い、生きていく物語。

 語られるのは過去。
 そして、見えてくるのは、未来。


 豊太郎は、エリスを捨てた。
 そのためにエリスは発狂した。

 が、豊太郎の犯した罪は、エリスを捨てたことではない。

 そもそも、「エリスを選んだこと」が罪だった。
 彼女が自分を理解しない、ふたりでいても決して幸福にはなれないと本能でわかっていながら、愛に流された。母を殺してまで、愛を選んだ。

 己で道をゆがめてしまっただけ。
 相沢や天方大臣の説得により帰国を決めるのは、過ちでも罪でもなく、「本来の道に立ち帰った」だけ。

 道を誤り続けていることを自覚しているから、豊太郎は夢の世界の住人ではいられない。
 エリスが「永遠」を信じ酩酊しているときでも、豊太郎は棘の痛みを感じている。
 ここが有限の楽園であることを理解している。いずれ壊れること、去らなければならないことを本能で知っているからこそ……切ないまでのひたむきさでエリスを愛し、守ろうとする。

 「現在」しか持たないエリスは、すなわち「永遠」を手にして生き、「過去」「現在」「未来」すべてを持つ豊太郎に「永遠」はない。
 「現在」はいずれ過去になる。エリスが望むように「現在」だけが永遠に続くはずがない。

 帰国要請に頷いたあと泣き崩れる豊太郎は、自分の「返答」を後悔したわけではないだろう。
 後悔などしようがない。それは罪ではない。

 知っていた答えにたどり着いた。その慟哭。

 ずっと「現在」のままでいたかった。「未来」を選び取りたくなかった。
 時を止めて、「青春」というモラトリアムの中にいたかった。

 あの柱時計のように。

 
 豊太郎の罪は、エリスを捨てたことではない。
 エリスへの死刑宣告を、相沢に告げさせたことだ。

 愛だけがすべて、この世界とはチガウ場所にいるエリスという少女にとって、「愛」を否定することは「全世界」の否定だ。死刑宣告だ。
 それがわかっているからこそ、豊太郎は「答え」が出たあとすぐに、彼女に真実を告げることが出来なかった。
 体調不良により物理的に叶わなかった、わけだし、そんな豊太郎に代わって手切れ金まで用意してエリスに別れるよう迫ったのは相沢のスタンドプレイだ。
 仕方がなかった、のだとしても。

 エリスを殺すのは、豊太郎であるべきだった。

 彼女の愛を、世界を殺すのは。
 豊太郎だけが、その権利を持ち、義務を得ていたのに。

 母を殺したように、妻を殺すべきだったんだ。

 そうすることで彼はようやく正しい道に戻れるはずだったのに。

 相沢がそこに割り込んだ。
 彼に割り込ませる余地を作ってしまった。

 それが、豊太郎の罪。

 豊太郎が魅力的なのは、彼が絶対に責任転嫁しないことだ。
 なにごとも、自分で決め、自分で責任を負う。
 自分が犯した罪がなんなのか、見極め、受け止めるだろう。

 「永遠」に成長しない、「大人」にならない「少女」エリスとともに、豊太郎は自分の中の「少年」をも葬る。

 花組バウホール公演『舞姫』は、希望に燃えた若者・太田豊太郎の旅立ちからはじまり、大人になった豊太郎の青春回顧で終わる。
 少年が大人になる物語。少年のままではいられない物語。

 雛はまず、殻を破って生まれ出る。
 破壊することによって、誕生する。

 ひとは、きれいなままでは生きられないのだ。
 壊す。汚す。傷つける。
 そうやって、世界は広がる。

 豊太郎、エリス、相沢。
 3人はみな、悪人ではない。
 それぞれ善良で、誠実に生きている。
 だが、それだけではどうしようもなかった。
 心の正しい、やさしい人々が、罪を犯す物語。犯さざるを得なかった物語。

 そして。
 誰もが他人の罪を責めず、赦し、己の心のうちに傷みを抱きしめて生き続ける。

 エリスは豊太郎を責めない。
 狂ってしまった彼女は、閉じた世界の中で豊太郎に微笑みかける。
 はじめて出会ったときのように、彼の手に頬を寄せる。

 豊太郎を、赦す。

 その、聖なる光。
 他人を、人間を、救うことの出来る力。

 豊太郎は相沢を責めない。
 相沢は豊太郎を責めない。
 互いを信頼する男たちは、黙って共に歩み続ける。
 もしも相手に対する恨みの心があるならば、それゆえの罪悪感や依存心があるならば、ふたりは手を取り合い同じ道を歩くことは出来なかったはず。
 祖国のために前へ進む武士たちは、痛みを飲み込んで戦い続ける。

 心の傷は、魂の一部になる。
 身体の傷がそうであるように。
 彼を形成するひとつとなる。

 犯した罪も、それゆえの慟哭も。

 これは、彼らが罪を犯す物語。
 罪を犯し……そして、逃げずに、生き続ける物語。

 だからこそ、たまらなく切なく、美しい物語である。


 公演期間中はあまりに消耗が激しく、リアルタイムに感想を書くことが叶わなかった花組バウホール公演『舞姫』

 公演も終わったことだし、『あさきゆめみし』初日までまだ間があるし、ゆっくりちんたらうだうだと、語っていきましょう。や、『あさき』はチケ難民してますんで、初日観られるかどうかわかんないんですけどね。サバキありますように!!

 さて。
 まっつ以外の出演者について、ぜーんぜん語っていないよーな気がするんだが。
 でもって今も、放っておくとえんえん「まっつまっつ!」と言うだけで終わってしまいそうなので、それは置いておいて、他の人の話。

 主演、太田豊太郎@みわっち。

 まず、単独初主演おめでとう、みわさん!!

 これまで、『春風さん』とか『くらわんか』だとか、みわっちにはキツい演目での主演が続いていたので、はじめてニンに合った役と作品で主演だっつーことが、素直にウレシイです。

 みわっちは「釣り」の人という認識(笑)で、彼の芝居についてなにか考えたことはほとんどなかったんだが、今回ふつーにうまい人だとわかってうれしいおどろき。
 ふつーにうまいだけなら、ふつーに「芝居が出来る」だけなら、ソレだけで終わるんだけど、彼はかなりわたし好みの芝居をする人だった。

 ギュンター@博多『マラケシュ』が当たり役だと思っているので、もともと「狂気」「毒」「黒」を得意とする人だとは思っていた。ムラと東宝で同じ役をやっていたらんとむさんが、健康的なお笑いの人「ギュン太」もしくは「源太(漢字が似合う……何故だ)」になっていたのに(ごめん、らんとむ)、みわさんは耽美の人ギュンターだったからなあ。
 でも、あーゆーイッちゃった役ができるからといって、それだけではとくになにも思わなかったのよね。所詮イロモノじゃん、って。

 それがこの『舞姫』で、正真正銘の白い役、端正な二枚目をを演じてくれて。
 発散型の役ではなく、内側を充実させなければならない役をきちんとこなす様を見て「なんだ、ふつーに芝居できる人だったんだ!」と思った。
 そして。

 その、「正統派の白い役」「端正な二枚目」を、ただ「きれいなだけ」にせず、みわさんらしい「狂気」「毒」を入れて演じてくれたことに、ハートを鷲掴みされた。

 景子先生は、アテ書きはしない人だと思っている。
 『舞姫』はこのキャストだから成功したのであり、豊太郎にしろ相沢にしろ原よっしーにしろ、他の人で見たくない! てかエリスは絶対他の子じゃ無理だし! キャストがひとりでも変更されたらソレは『舞姫』ぢゃない! ってくらいに愛しているけれど、それとは別に、『舞姫』って、誰が演じても名作だよね? と思っている。
 豊太郎に関しては、ある程度の男役スターなら誰でもハマる。誰でもステキ。
 ぶっちゃけ、タニちゃんと壮くん以外の新公主演経験有りの研10以上キャリア有り男役なら、誰でもOKだと思う。相沢も同じ。
 ただ、エリスだけはできる子が相当限られているってゆーか、景子せんせがアテ書きというか、「この子にやらせてみたい」と思ったのはののすみエリスのみで、他のキャストは順不同って感じじゃねーの?と思っている。
 だもんで、終演後に『舞姫』の妄想キャスティングやって、「たか花で見たい」と結論が出、ツッコミ担当ドリーさんに「ソレって結局『ごはんが食べたい』っていうのと同じじゃん」とあきれられたりもしたさ。
 いやあ、豊太郎@たかこ、エリス@花ちゃん、相沢@水しぇん、原@タニで『舞姫』やったら、すげーことになってたぞヲイ(笑)。

 とまあ、「タカラヅカ」の白いごはん……もとい、タカラヅカらしさという点でスタンダードの美を誇ったたか花率いる宙組で見てみたいと思わせるくらいには、スタンダードに美しい作品である『舞姫』。

 豊太郎は、みわっちの魅力を最大限に引き出す役ではない。
 もちろん、「路線男役スター」としての魅力を引き出す役ではあるけれど、みわさん限定の魅力と豊太郎はまったく別物。
 だから、アテ書きではない。
 オギーの博多版ギュンターだとか、『TUXEDO JAZZ』の幻想の女こそがアテ書きだろう。

 アテ書きじゃないから、誰でもできる……と言いつつも、豊太郎は、みわっちでなきゃ嫌だと思う、この矛盾(笑)。

 そう思わせてくれることが、愛音羽麗という役者を「好き」だということなんだよな、と思う。

 初日に観たときは、役としての端正さがほとんどだった。脚本通り、演出通りのスタンダードなかっこいい太田豊太郎だったんだろう。
 それが、回数を重ねるにつれ、レールからはずれはじめる。
 なにかが、にじみ出はじめる。

 1幕最後の「愛している」と歌い出すあたりの狂気っぷりは、鳥肌もの。

 みわっちキターーッ!
 うわ、みわっちだ。この黒さ、この毒。「きれい」なだけに収まらないのがみわっちだ。
 豊太郎としての「白さ」を壊すことなく、静かに狂っている。

 誰がやってもかっこいい役、と言いつつ、ただの善良な白い二枚目なら、わたしはそれほど萌えなかったろう。や、わたし主役とか真ん中の人、そもそも好みじゃないから。
 みわさんの持つアヴないところ、エキセントリックなところが垣間見える豊太郎だからこそ、こんなに萌えたんだと思う。

 狂気を持つ男だとわかっているからこそ、2幕はじめの方の、ベッドの中でエリスを抱きながら遠くを見ている姿が胸苦しくなるほど切ないし、コワレそうなくらいやさしい瞳でエリスを包む姿に涙する。
 甘いやさしさを裏切るほどの熱、強い抱擁。抱きしめているときに、なーんかいつも動いている指のやさしさとリアルなエロさ(笑)。
 
 うおおお、みわっちトヨさん好きだ〜〜。

 毒全開だとソレは「スター」として正しくないので、豊太郎をきちんと枠に収めて演じられる能力を見せつけてくれたことに感動。
 こんなに「スター」な人だったんだなあ、みわさん。

 軍服とフロックコート姿の美しいこと。
 大きな瞳が印象的。
 小柄だし、スタイルはそりゃめっちゃいいわけではないんが、そんなこと無問題。
 エリス@ののすみともお似合いだー。ハァトがきゅんきゅん(笑)するカップルだわ。

 
 この作品にフィナーレがないことは正しいことだと思う。
 余韻を残したまま静かに終わるのが、ふさわしい。

 ふさわしいんだが……。

 これまた、相反するキモチがあるのだ。

 フィナーレがなくてよかった、と思うことも本当。しかし。

 フィナーレで「愛音羽麗全開!」で目線絨毯爆撃、ウインク、投げチュー大安売り! のみわっちも、見てみたかった。

 トヨさんとのギャップに、憤死しますよ!!(笑)
 や、フィナーレのみわさんこそがみわさんですから! いつもの愛音さんですから!

 いやあ、マジ見たかったなー。
 ダンスのほとんどない作品だから、フィナーレでは踊りまくってさー。
 みわっちがキザりまくってクサ味放出して、「ザ・花組!」みたいなことやって……。

 本編とあまりに別人のみわさんに度肝を抜かれた観客は、その横にいるまっつの本編との変わらなさ、に、さらに混乱するとゆーことで(笑)。

 男たちの黒タキ群舞、そこに絡むロングドレスの娘たち……見たかったなー。鼻息荒く花組らしく、みんな客席アピりまくってさー。

 ソレはソレで、絶対おもしろいと思うんだけどなー。

 や、そう思わせてしまうみわさんのキャラクタに乾杯! ってことで。


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