ファン・アイテムだから、を言い訳に。@THE SECOND LIFE
2007年11月19日 タカラヅカ 要するにファン・アイテム、主演ファンがよろこぶ作りだからそれで正しい、『THE SECOND LIFE』。
タカラヅカとしては正しいけれど……。
あちこち、まちがってますよね、作劇。
『銀薔薇』や『A/L』の方がずっと出来がいいぞ。
植爺系の失敗してるぞ。これって相当致命的なんだが……。
いちばんの失敗。
マンガスクールにコレで投稿したら、絶対ハネられてる(笑)大失敗。
主人公が誰か、わからない。
これは芝居だから、人間が演じているから、「主役は北翔海莉」だと観客はわかっている。
そうではなく、脚本上の主役が誰かがきちんと書かれていない。
ギャングのジェイクなのか、ピアニストのマークなのか。
主役が傍観者になり、ストーリーを動かさない、とかゆー失敗をする作家・作品はいくらでもある。
しかし、「主役が誰かわからない」話は、そもそもプロット段階でハネられるから客の目には触れないものなんじゃないのか?
プロローグは棺の前。ジェイク@ほっくんを中心としたマフィアの男たちがスーツで踊る。
そこから本ストーリーに続き、シチリアのマフィアたちの物語になる。登場するのはプロローグにいた男たち。そして、マフィアのジェイク。
どれだけジェイクがかっこいいかを、コメディタッチに描き続ける。
観客は主演が誰かを知っている。ほっくん演じるジェイクという男が主人公であり、このかっこいいのかおかしいのか、微妙なところでキザり続ける(笑)心優しい男を愛しはじめる。
一方、ヒロインのルシア@たっちんが登場。彼女には死んだ恋人がいる。ストーリー開始時点から、ルシアの恋人マーク@かいくんは「死んだ恋人」であり、「過去の人」だ。
マークがどんな人なのかはわからない。なにしろもう「過去の人」だし。
これからルシアがジェイクと出会い、新しい恋がはじまるのだろう。そう思わせる設定。というか、それがふつーのルール。
だがこの物語はコメディなので。死んだマークはアタマに天使の輪っかを付けて登場。
1年も前に死んだマークはルシアが忘れられず、人間界に降りてくる。とーぜんルシアには彼が見えない。
ここまでは、まだアリだ。
幽霊が出てきたり、よみがえったりする話はアリだと思っている。「フィクション」なんだから、荒唐無稽でも嘘くさくてもなんでもいい。
そんなことはどーでもいいんだ。
ただ、「物語を作る」上でのルールさえ守られているならば。
たとえばジェイクにだけはマークが見えるとか、彼が成仏(仏教用語)するためにルシアになにかしら働きかけをしなければならず、マークに手を貸しているうちにジェイクとルシアが愛し合ってしまうとか。そーして「次の愛を見つけしあわせになったルシア」を見届けてマークが昇天するとか。
5万回は見たよーな話だが、主人公とヒロイン、ヒロインの死んだ恋人の幽霊、でできる話はこんなもんだろ。
あくまでも、主人公はジェイク。何故なら本ストーリー最初から、ジェイクを「主人公」として描き、主演俳優が彼を演じているから。
なのに。
このジェイクがあっけなく死ぬ。
死んでしまう。
そして幽霊のマークが、コレ幸いとジェイクの死体に入り、マークのままルシアと再度恋をする。
えええ。
ちょっと待った、いくらなんでもそれはないだろ。
それでは、主人公はジェイクではなく、マークということになる。
ほっくんではなく、かいくんなのだ。
ほっくんが演じているが、彼の言動、表情ひとつひとつにかいくんを想像しながら見なくてはならなくなる。
これは、致命的な失敗だ。
物語として、「やってはならないこと」だ。
「入れ替わりモノ」というのは、ジャンルとして存在する。今までいくらでもあった、使い古されたネタだ。
ほっくん自身だって、『恋天狗』で似たよーな役をすでにやっている。
だが、「主役」と「視点」は確実に固定しなければならない。
物語としての主役がマークならば、はじめからマークを「主人公」として描くべきだ。
彼がどんな人か、まず説明する。ピアニストとして喝采を浴びるところからスタートし、恋人のルシアにプロポーズ、明るい未来が待っていたのにそれが無惨に打ち砕かれた。
幽霊となったマークはいつもルシアを見守り続けていたが、ある日誰も発見していないできたてほやほやの死体を見つけ、その死体に入ることで、人間として「2番目の人生」を手に入れた。
これなら「入れ替わりモノ」として、なんの問題もない。
主人公は最初から固定されている。
ジェイクについてはなにも描く必要はない。彼の人格があってはかえって邪魔だからだ。若くして失った彼の人生に観客が同情してはならないし、ジェイク自身に感情移入させてはならないからだ。
「ジェイクは天国で楽しくやっている」と説明させたって免罪符にはならない。そもそもジェイクとしての人生を最初から描かなければよかっただけのこと。
ほっくん主役だと決まっているのだから、マークもジェイクもほっくんが演じれば良かった。
死体は顔を見せずに横たわり、入れ替わったあとも同じカオ。しかし演出で「別人」だと表現すればいい。今やっているドラマ『ドリーム・アゲイン』みたいにね。
この「物語」のルールを無視した、「不誠実さ」に愕然とする。
主人公であるはずのジェイクをあっけなく殺し、彼の物語も背負ってきたモノもあるはずの未来も全部殺し、「なかったこと」にして役者が同じなんだから、ファンは納得するだろってことで別人にする。
そりゃあファンは物語を観に行っているのではなく、「みっちゃん」を観に行っているのだから、ストーリーなんかどうでもいい。「みっちゃん」がかっこよくてかわいくて、得意の歌をばんばん歌っていればそれで満足なんだろ?
……って、演出家が思ってどうするの?
それじゃ植爺と一緒じゃん。『恋天狗』と一緒じゃん。
主演俳優に2役させるのは「ファン・サービス」。物語としてどれだけ壊れていても問題なし。不誠実でも関係なし。ファンなんてバカだから、スターの出番や役柄が多ければそれで大喜び、真面目に物語をルール守って作るなんて面倒なことしなくてヨシ。や、植爺はたんに壊れたモノしか作れないだけだけど。
……また、みっちゃんの演技が『恋天狗』のときと同じテイストで……うまいのはわかるけど、コメディやるとこの人、こーゆーことになっちゃうんだよなあ、という。
「みっちゃん」をステキに、いろんなカオを見せつつも、誇りのある作劇をしてこそクリエイターなんじゃないのか?
「物語」を大切にして欲しい。
やってはいけないことをして、「タカラヅカなんだからいいじゃん」で安直に逃げないで欲しい。
タカラヅカだからまかり通っているけど、読み切りマンガや単発短編ドラマのプロットだったら却下されてるよね。
「主役が誰かわからない。わかるように書き直してこい」って。
いろんなカオの「みっちゃん」を見せる、が目的なら、ジェイクを出す必要はなかったのに。
「かっこいいマフィア」としてのジェイクなら、「死にたての死体に入ったから、カラダが生前の癖をおぼえている」という作品中に出てくる設定でまかなえるのに。
ジェイクを「主人公」として長々と描いてしまった今の『THE SECOND LIFE』前半を正しく使うなら、死んだあともジェイクの人格を描き続けなければならない。
カラダはジェイクひとつだが、そこにマークとジェイク、ふたつの魂があることを表現して、二人三脚で物語を進めるしかない。
死んだはずのマークが2度目の人生でハッピーエンドでもいい、荒唐無稽だとかありえないとか言わない、それがフィクションの醍醐味だと思う。
ただ、「なんでもあり」なのは、「ルールを守った上で」なんだ。
マークが主人公、というルールの上でなら彼がジェイクの人生を奪ってハッピーエンドでもいいが、ジェイクが主人公ならおかしいんだ。「演じている人が同じ」は言い訳にならない。
「心」の問題だからだ。
なんつーか、最近の若い男の子の流行りなんですか?
「カラダが同じなら、中身が別でもOK」って。たとえば、美人な女の子がいれば、中身が途中で別人になっていてもOK? 大切なのはカラダだけ?
稲葉先生の『Hallelujah GO!GO!』でも、同じことやってるんだよね。
主人公が途中で変わって別人になってるんだけど、演じている役者が同じだから問題なし、ってやつ。
演じてるのが同じちえちゃんだから、同じみっちゃんだから、キャラクタが別でもいいだろ、てか。
カラダが同じなんだから、中身がちがってもいいだろ、って。
若い作家が立て続けにこういう価値観で物語を描くことに、不安を感じるよ……。
タカラヅカとしては正しいけれど……。
あちこち、まちがってますよね、作劇。
『銀薔薇』や『A/L』の方がずっと出来がいいぞ。
植爺系の失敗してるぞ。これって相当致命的なんだが……。
いちばんの失敗。
マンガスクールにコレで投稿したら、絶対ハネられてる(笑)大失敗。
主人公が誰か、わからない。
これは芝居だから、人間が演じているから、「主役は北翔海莉」だと観客はわかっている。
そうではなく、脚本上の主役が誰かがきちんと書かれていない。
ギャングのジェイクなのか、ピアニストのマークなのか。
主役が傍観者になり、ストーリーを動かさない、とかゆー失敗をする作家・作品はいくらでもある。
しかし、「主役が誰かわからない」話は、そもそもプロット段階でハネられるから客の目には触れないものなんじゃないのか?
プロローグは棺の前。ジェイク@ほっくんを中心としたマフィアの男たちがスーツで踊る。
そこから本ストーリーに続き、シチリアのマフィアたちの物語になる。登場するのはプロローグにいた男たち。そして、マフィアのジェイク。
どれだけジェイクがかっこいいかを、コメディタッチに描き続ける。
観客は主演が誰かを知っている。ほっくん演じるジェイクという男が主人公であり、このかっこいいのかおかしいのか、微妙なところでキザり続ける(笑)心優しい男を愛しはじめる。
一方、ヒロインのルシア@たっちんが登場。彼女には死んだ恋人がいる。ストーリー開始時点から、ルシアの恋人マーク@かいくんは「死んだ恋人」であり、「過去の人」だ。
マークがどんな人なのかはわからない。なにしろもう「過去の人」だし。
これからルシアがジェイクと出会い、新しい恋がはじまるのだろう。そう思わせる設定。というか、それがふつーのルール。
だがこの物語はコメディなので。死んだマークはアタマに天使の輪っかを付けて登場。
1年も前に死んだマークはルシアが忘れられず、人間界に降りてくる。とーぜんルシアには彼が見えない。
ここまでは、まだアリだ。
幽霊が出てきたり、よみがえったりする話はアリだと思っている。「フィクション」なんだから、荒唐無稽でも嘘くさくてもなんでもいい。
そんなことはどーでもいいんだ。
ただ、「物語を作る」上でのルールさえ守られているならば。
たとえばジェイクにだけはマークが見えるとか、彼が成仏(仏教用語)するためにルシアになにかしら働きかけをしなければならず、マークに手を貸しているうちにジェイクとルシアが愛し合ってしまうとか。そーして「次の愛を見つけしあわせになったルシア」を見届けてマークが昇天するとか。
5万回は見たよーな話だが、主人公とヒロイン、ヒロインの死んだ恋人の幽霊、でできる話はこんなもんだろ。
あくまでも、主人公はジェイク。何故なら本ストーリー最初から、ジェイクを「主人公」として描き、主演俳優が彼を演じているから。
なのに。
このジェイクがあっけなく死ぬ。
死んでしまう。
そして幽霊のマークが、コレ幸いとジェイクの死体に入り、マークのままルシアと再度恋をする。
えええ。
ちょっと待った、いくらなんでもそれはないだろ。
それでは、主人公はジェイクではなく、マークということになる。
ほっくんではなく、かいくんなのだ。
ほっくんが演じているが、彼の言動、表情ひとつひとつにかいくんを想像しながら見なくてはならなくなる。
これは、致命的な失敗だ。
物語として、「やってはならないこと」だ。
「入れ替わりモノ」というのは、ジャンルとして存在する。今までいくらでもあった、使い古されたネタだ。
ほっくん自身だって、『恋天狗』で似たよーな役をすでにやっている。
だが、「主役」と「視点」は確実に固定しなければならない。
物語としての主役がマークならば、はじめからマークを「主人公」として描くべきだ。
彼がどんな人か、まず説明する。ピアニストとして喝采を浴びるところからスタートし、恋人のルシアにプロポーズ、明るい未来が待っていたのにそれが無惨に打ち砕かれた。
幽霊となったマークはいつもルシアを見守り続けていたが、ある日誰も発見していないできたてほやほやの死体を見つけ、その死体に入ることで、人間として「2番目の人生」を手に入れた。
これなら「入れ替わりモノ」として、なんの問題もない。
主人公は最初から固定されている。
ジェイクについてはなにも描く必要はない。彼の人格があってはかえって邪魔だからだ。若くして失った彼の人生に観客が同情してはならないし、ジェイク自身に感情移入させてはならないからだ。
「ジェイクは天国で楽しくやっている」と説明させたって免罪符にはならない。そもそもジェイクとしての人生を最初から描かなければよかっただけのこと。
ほっくん主役だと決まっているのだから、マークもジェイクもほっくんが演じれば良かった。
死体は顔を見せずに横たわり、入れ替わったあとも同じカオ。しかし演出で「別人」だと表現すればいい。今やっているドラマ『ドリーム・アゲイン』みたいにね。
この「物語」のルールを無視した、「不誠実さ」に愕然とする。
主人公であるはずのジェイクをあっけなく殺し、彼の物語も背負ってきたモノもあるはずの未来も全部殺し、「なかったこと」にして役者が同じなんだから、ファンは納得するだろってことで別人にする。
そりゃあファンは物語を観に行っているのではなく、「みっちゃん」を観に行っているのだから、ストーリーなんかどうでもいい。「みっちゃん」がかっこよくてかわいくて、得意の歌をばんばん歌っていればそれで満足なんだろ?
……って、演出家が思ってどうするの?
それじゃ植爺と一緒じゃん。『恋天狗』と一緒じゃん。
主演俳優に2役させるのは「ファン・サービス」。物語としてどれだけ壊れていても問題なし。不誠実でも関係なし。ファンなんてバカだから、スターの出番や役柄が多ければそれで大喜び、真面目に物語をルール守って作るなんて面倒なことしなくてヨシ。や、植爺はたんに壊れたモノしか作れないだけだけど。
……また、みっちゃんの演技が『恋天狗』のときと同じテイストで……うまいのはわかるけど、コメディやるとこの人、こーゆーことになっちゃうんだよなあ、という。
「みっちゃん」をステキに、いろんなカオを見せつつも、誇りのある作劇をしてこそクリエイターなんじゃないのか?
「物語」を大切にして欲しい。
やってはいけないことをして、「タカラヅカなんだからいいじゃん」で安直に逃げないで欲しい。
タカラヅカだからまかり通っているけど、読み切りマンガや単発短編ドラマのプロットだったら却下されてるよね。
「主役が誰かわからない。わかるように書き直してこい」って。
いろんなカオの「みっちゃん」を見せる、が目的なら、ジェイクを出す必要はなかったのに。
「かっこいいマフィア」としてのジェイクなら、「死にたての死体に入ったから、カラダが生前の癖をおぼえている」という作品中に出てくる設定でまかなえるのに。
ジェイクを「主人公」として長々と描いてしまった今の『THE SECOND LIFE』前半を正しく使うなら、死んだあともジェイクの人格を描き続けなければならない。
カラダはジェイクひとつだが、そこにマークとジェイク、ふたつの魂があることを表現して、二人三脚で物語を進めるしかない。
死んだはずのマークが2度目の人生でハッピーエンドでもいい、荒唐無稽だとかありえないとか言わない、それがフィクションの醍醐味だと思う。
ただ、「なんでもあり」なのは、「ルールを守った上で」なんだ。
マークが主人公、というルールの上でなら彼がジェイクの人生を奪ってハッピーエンドでもいいが、ジェイクが主人公ならおかしいんだ。「演じている人が同じ」は言い訳にならない。
「心」の問題だからだ。
なんつーか、最近の若い男の子の流行りなんですか?
「カラダが同じなら、中身が別でもOK」って。たとえば、美人な女の子がいれば、中身が途中で別人になっていてもOK? 大切なのはカラダだけ?
稲葉先生の『Hallelujah GO!GO!』でも、同じことやってるんだよね。
主人公が途中で変わって別人になってるんだけど、演じている役者が同じだから問題なし、ってやつ。
演じてるのが同じちえちゃんだから、同じみっちゃんだから、キャラクタが別でもいいだろ、てか。
カラダが同じなんだから、中身がちがってもいいだろ、って。
若い作家が立て続けにこういう価値観で物語を描くことに、不安を感じるよ……。