「齋藤吉正見参!!」てな作品。@エル・アルコン−鷹−
2007年11月22日 タカラヅカ その昔。
バウホールで『花吹雪恋吹雪』という作品を観た。
はっきり言ってめちゃくちゃだった。ストーリーも時代考証もキャラ設定も。
時の流れとか場面のつなぎ方とかも変だし、ストーリーをいちいちぶった切ってアニメのオープニングみたいなキメ・シーンが長々と入るし、わけわかんねー。
まともなことなんか、ぜんぜんないのに。
おもしろくて、仕方なかった。
血が全身を駆けめぐる感じ。
「おもしろい!!」と拳を握り、頭上に突き上げたり、リズムを取って振り回したくなる、そんなじっとしていられない高揚感。
アタマの半分は冷静に「ありえねー、コワレてる」と思っているのに、もう半分は「ありえねー、おもしれー」と、興奮している。
右脳だっけ、左脳だっけ、理屈ではなく感覚を司る部分。直感がすべてな動きをするの。
『花恋吹雪』は、アタマの半分だけで愉しむ作品だった。
理屈で考えちゃダメ。本能で感じろ、五感全部で愉しめ。
当時のわたしは、『花恋吹雪』主演の安蘭けいのファンではなかった。
好きかキライかと聞かれれば「好き」だと答えるが、ファンなのかと聞かれれば「別に」と答える。そのあたりの温度。
贔屓組である雪組の御曹司だったから愛着はすげーあったし、『凱旋門』のハイメ役がすごくよくてヲトメ心がきゅんきゅん(笑)していたので大分株は上がっていたが、まだ「ファン」と呼べるほどのものではなかった。
それでも、『花恋吹雪』には夢中になった。
おもしろさに、理屈は不要だと、痛感した。
いつもわたしは、「コワレてる」だの「物語の方程式からはずれている。これじゃ途中で論理崩壊して答えが出ない」とか、てきとーなこと言って文句垂れてるけど、そーゆー細かいことを全部まるっと「どーでもいいや」と思わせる力があったんだ。
やーもー、うっかり五右衛門サマ@トウコちゃんに、恋してしまうし。
あれほど華々しいFall in Loveは他にない(笑)。音がしそうなほど、一気にオチた。
以来、五右衛門サマの写真とかを不意に目にすると「うッ」とうめいてのけぞったり、そのあとフニャフニャに熔解したりして、友人たちから「バカだこいつ」とバッサリやられたりしたもんだ。
わたしが恋したのは五右衛門サマで、どうやらトウコちゃんではなかったらしい(最初は混同していたが、あとからチガウとわかった)が、それでもこのことにより、「安蘭けい」という人はわたしのなかで「トクベツ」になった。
ファンなのかと聞かれ「好きだけど別にファンじゃない」と答えていたのに、このときから「ファンです、トウコちゃん大好き」と言えるようになった。
あああ、なつかしいなあ、『花恋吹雪』。当時、石田三成@まとぶんのへたっぴさ(特に歌!!)に眩暈がしていたっけ……(笑)。
まとぶさんのわたしの最初の印象って、『エピファニー』と『花恋吹雪』だから、いい印象なかったんだよなあ、あまりになにもかもへたっぴで。まさか今、こんなにいい男になり、好きになろうとは……(笑)。
そのなつかしい……つまり昔の作品、『花恋吹雪』。
未だにわたしは、『花恋吹雪』を齋藤吉正の最高傑作だと思っている(笑)。
コレを超える魅力的なトンデモ作を、彼自身まだ作れずにいる。
そのあとのサイトーくんの劣化は凄まじく、去年の『Young Bloods!! 』のときなんぞ、「もう見捨てようか」と思ったほどだ。
だけど今。
『花恋吹雪』から、なんと7年もの時を経て。
『花恋吹雪』を彷彿とさせる作品が登場した。
や、彷彿とさせる、つーことで、超えてはいないんだが、当時のテイストにここまで近いモノを、今さら作れるなんて。
サイトーくんは、大人になっていないんだ。
そのことに、驚く。
『花恋吹雪』のおもしろさは、「めちゃくちゃさ」にあった。
良識とか羞恥心とか理性とかを持ち合わせた、ふつーの大人は作れない。
「お月様にはウサギさんが住んでいるんだよ。さあ、そのウサギさんのお話をしようね」
と言われても、「んなもんいねーよ」と知っている人と、本気で「月にいるウサギさんに会いたいなあ」と思っている人とでは、作る物語がチガウでしょう。
『花恋吹雪』とその焼き直し作品『血と砂』以後、サイトーくんは迷走を続けた。
誰だよ、齋藤吉正に「月にウサギはいない」って教えたの。たとえ真実でも現実でも、彼にはそんなもん、教える必要なかったのに。
「月のウサギさん」を信じているからこそ、ふつーの大人には想像も付かない奇天烈な世界を展開していた斉藤作品は、「大人の目を意識した」余計な部分が見えるようになった。
いらん知恵がついたために、作品がコワレているのはそのままなのに、小さく、つまらなくなっていった。
もうあの、子どもゆえの、常識を知らないゆえのめちゃくちゃさは、なくなってしまったんだ……。
そう思っていたのに。
あの安蘭けいを主演に迎えての齋藤吉正最新作、『エル・アルコン−鷹−』。
齋藤吉正が、帰ってきた。
ふつーの大人には作れないめちゃくちゃさで、『エル・アルコン−鷹−』を作ってきましたよ!!(笑)
や、『花恋吹雪』のころに比べれば十分、「大人の分別」をわきまえた上で、それでもあのころのバカッパワーを持って。
だからおもしろかった、『エル・アルコン』。
サイトーくんのリビドーまんま、過去作品使い回し! どこを切ってもサイトーヨシマサ!!
恥ずかしいほどのサイトー節に、おかしいやら泣けてくるやら。
初日に観たとき、いろんなとこで眩暈を感じつつも、にやけてしょーがなかった。
「好きだ!!」と叫んでいる、この作風。
大人は叫ばないよ、理性とか羞恥心とか持ってるからね。
「原作が好きだ、安蘭けいが好きだ、タカラヅカが好きで、それから自分も好きだ〜〜!!」
と、ハダカで叫んでいるよーな、作品。背中には「バカで悪いか」と油性マジックで殴り書き、「LOVE」と書いた長ハチマキ。
そんなイメージだ、サイトーくん(笑)。
好きなモノを「好きだ」とおそれずひるまず取り繕わず叫び、叫ぶことにさえよろこびを感じている子どものよう。
恥ずかしいけれど、大好きだ。そーゆー作品。
世界を動かすのは、愛ですよ。愛であるべきですよ。だから、「愛」が動機でできあがっている作品には、愛情を感じるのですよ。
見終わったあと、「♪エル・アルコン〜〜」と歌が脳裏を回って仕方がなかった。
「♪マドリッド マドリッド 我ら夜の鷹 エル・アルコン♪」
「♪帰るあてのない エル・アルコン♪」
男と女がベッド(長椅子)で重なり合って暗転、その部屋のセットの上には、その男を仇と狙う青年がスタンバっていて、暗転のあと降りてくる。
男と彼を憎む青年、男と愛憎関係にあるヒロインの唐突な三重唱で、トライアングルを描く動きをする。
復讐を誓う青年には若い仲間たちがいて、クライマックスの乱戦前に「道は俺たちがつくる!」と言う。
♪エル・アルコン エル・アルコン♪
……ええもちろん、『血と砂』(齋藤吉正作)の方ですよ。『血と砂』は、『花恋吹雪』のエロ+シリアス度アップした焼き直しだしね。
あまりに似すぎていて、ウケてしまった。サイトーくんのリビドーまんま、恥ずかしいなあ(笑)。
バウホールで『花吹雪恋吹雪』という作品を観た。
はっきり言ってめちゃくちゃだった。ストーリーも時代考証もキャラ設定も。
時の流れとか場面のつなぎ方とかも変だし、ストーリーをいちいちぶった切ってアニメのオープニングみたいなキメ・シーンが長々と入るし、わけわかんねー。
まともなことなんか、ぜんぜんないのに。
おもしろくて、仕方なかった。
血が全身を駆けめぐる感じ。
「おもしろい!!」と拳を握り、頭上に突き上げたり、リズムを取って振り回したくなる、そんなじっとしていられない高揚感。
アタマの半分は冷静に「ありえねー、コワレてる」と思っているのに、もう半分は「ありえねー、おもしれー」と、興奮している。
右脳だっけ、左脳だっけ、理屈ではなく感覚を司る部分。直感がすべてな動きをするの。
『花恋吹雪』は、アタマの半分だけで愉しむ作品だった。
理屈で考えちゃダメ。本能で感じろ、五感全部で愉しめ。
当時のわたしは、『花恋吹雪』主演の安蘭けいのファンではなかった。
好きかキライかと聞かれれば「好き」だと答えるが、ファンなのかと聞かれれば「別に」と答える。そのあたりの温度。
贔屓組である雪組の御曹司だったから愛着はすげーあったし、『凱旋門』のハイメ役がすごくよくてヲトメ心がきゅんきゅん(笑)していたので大分株は上がっていたが、まだ「ファン」と呼べるほどのものではなかった。
それでも、『花恋吹雪』には夢中になった。
おもしろさに、理屈は不要だと、痛感した。
いつもわたしは、「コワレてる」だの「物語の方程式からはずれている。これじゃ途中で論理崩壊して答えが出ない」とか、てきとーなこと言って文句垂れてるけど、そーゆー細かいことを全部まるっと「どーでもいいや」と思わせる力があったんだ。
やーもー、うっかり五右衛門サマ@トウコちゃんに、恋してしまうし。
あれほど華々しいFall in Loveは他にない(笑)。音がしそうなほど、一気にオチた。
以来、五右衛門サマの写真とかを不意に目にすると「うッ」とうめいてのけぞったり、そのあとフニャフニャに熔解したりして、友人たちから「バカだこいつ」とバッサリやられたりしたもんだ。
わたしが恋したのは五右衛門サマで、どうやらトウコちゃんではなかったらしい(最初は混同していたが、あとからチガウとわかった)が、それでもこのことにより、「安蘭けい」という人はわたしのなかで「トクベツ」になった。
ファンなのかと聞かれ「好きだけど別にファンじゃない」と答えていたのに、このときから「ファンです、トウコちゃん大好き」と言えるようになった。
あああ、なつかしいなあ、『花恋吹雪』。当時、石田三成@まとぶんのへたっぴさ(特に歌!!)に眩暈がしていたっけ……(笑)。
まとぶさんのわたしの最初の印象って、『エピファニー』と『花恋吹雪』だから、いい印象なかったんだよなあ、あまりになにもかもへたっぴで。まさか今、こんなにいい男になり、好きになろうとは……(笑)。
そのなつかしい……つまり昔の作品、『花恋吹雪』。
未だにわたしは、『花恋吹雪』を齋藤吉正の最高傑作だと思っている(笑)。
コレを超える魅力的なトンデモ作を、彼自身まだ作れずにいる。
そのあとのサイトーくんの劣化は凄まじく、去年の『Young Bloods!! 』のときなんぞ、「もう見捨てようか」と思ったほどだ。
だけど今。
『花恋吹雪』から、なんと7年もの時を経て。
『花恋吹雪』を彷彿とさせる作品が登場した。
や、彷彿とさせる、つーことで、超えてはいないんだが、当時のテイストにここまで近いモノを、今さら作れるなんて。
サイトーくんは、大人になっていないんだ。
そのことに、驚く。
『花恋吹雪』のおもしろさは、「めちゃくちゃさ」にあった。
良識とか羞恥心とか理性とかを持ち合わせた、ふつーの大人は作れない。
「お月様にはウサギさんが住んでいるんだよ。さあ、そのウサギさんのお話をしようね」
と言われても、「んなもんいねーよ」と知っている人と、本気で「月にいるウサギさんに会いたいなあ」と思っている人とでは、作る物語がチガウでしょう。
『花恋吹雪』とその焼き直し作品『血と砂』以後、サイトーくんは迷走を続けた。
誰だよ、齋藤吉正に「月にウサギはいない」って教えたの。たとえ真実でも現実でも、彼にはそんなもん、教える必要なかったのに。
「月のウサギさん」を信じているからこそ、ふつーの大人には想像も付かない奇天烈な世界を展開していた斉藤作品は、「大人の目を意識した」余計な部分が見えるようになった。
いらん知恵がついたために、作品がコワレているのはそのままなのに、小さく、つまらなくなっていった。
もうあの、子どもゆえの、常識を知らないゆえのめちゃくちゃさは、なくなってしまったんだ……。
そう思っていたのに。
あの安蘭けいを主演に迎えての齋藤吉正最新作、『エル・アルコン−鷹−』。
齋藤吉正が、帰ってきた。
ふつーの大人には作れないめちゃくちゃさで、『エル・アルコン−鷹−』を作ってきましたよ!!(笑)
や、『花恋吹雪』のころに比べれば十分、「大人の分別」をわきまえた上で、それでもあのころのバカッパワーを持って。
だからおもしろかった、『エル・アルコン』。
サイトーくんのリビドーまんま、過去作品使い回し! どこを切ってもサイトーヨシマサ!!
恥ずかしいほどのサイトー節に、おかしいやら泣けてくるやら。
初日に観たとき、いろんなとこで眩暈を感じつつも、にやけてしょーがなかった。
「好きだ!!」と叫んでいる、この作風。
大人は叫ばないよ、理性とか羞恥心とか持ってるからね。
「原作が好きだ、安蘭けいが好きだ、タカラヅカが好きで、それから自分も好きだ〜〜!!」
と、ハダカで叫んでいるよーな、作品。背中には「バカで悪いか」と油性マジックで殴り書き、「LOVE」と書いた長ハチマキ。
そんなイメージだ、サイトーくん(笑)。
好きなモノを「好きだ」とおそれずひるまず取り繕わず叫び、叫ぶことにさえよろこびを感じている子どものよう。
恥ずかしいけれど、大好きだ。そーゆー作品。
世界を動かすのは、愛ですよ。愛であるべきですよ。だから、「愛」が動機でできあがっている作品には、愛情を感じるのですよ。
見終わったあと、「♪エル・アルコン〜〜」と歌が脳裏を回って仕方がなかった。
「♪マドリッド マドリッド 我ら夜の鷹 エル・アルコン♪」
「♪帰るあてのない エル・アルコン♪」
男と女がベッド(長椅子)で重なり合って暗転、その部屋のセットの上には、その男を仇と狙う青年がスタンバっていて、暗転のあと降りてくる。
男と彼を憎む青年、男と愛憎関係にあるヒロインの唐突な三重唱で、トライアングルを描く動きをする。
復讐を誓う青年には若い仲間たちがいて、クライマックスの乱戦前に「道は俺たちがつくる!」と言う。
♪エル・アルコン エル・アルコン♪
……ええもちろん、『血と砂』(齋藤吉正作)の方ですよ。『血と砂』は、『花恋吹雪』のエロ+シリアス度アップした焼き直しだしね。
あまりに似すぎていて、ウケてしまった。サイトーくんのリビドーまんま、恥ずかしいなあ(笑)。