演奏が終わった途端、「ブラボー!!」って叫ぶおじさんがいる。絶対にいる。同じ人か単体かはわからないが、必ずいる。
 いつも理解できなかった。
 感動したから叫ぶ、にしてはどんなときも100%叫ぶ。練習だろうがなんだろうが、終わると必ず「ブラボー!!」。
 それってたんに、叫びたいから叫んでいるだけで、演奏の善し悪しとは別、よーするに自分が目立ちたいだけなんぢゃないの?

 「なんでもいい、演奏が終わったら毎回絶対100%、声を上げる」人のことは理解できないが。

 はじめて、終わったとき、声を上げたくなった。

 毎年恒例『1万人の第九』、長い長いベートーヴェン交響曲第九番、合唱が終わり、演奏が全部終わったときに。
 いつものブラボーおじさんが「ブラボー!!」と叫び、他にも何人か「ブラボー!」と叫んでいた。わたしの後ろの女性も小さく「ブラボー」と口にしていた。

 競馬の最終コーナーでみんな一斉に声を上げる、あの感じっていうか。
 興奮が高まると声になる、あの感じっていうか。

 なんか体温上がって、心臓がばくばくして、なにかしら叫びたかった。

 こんなの、はじめてだ。
 『1万人の第九』も、参加9回目。連続参加9年目、佐渡せんせーとも連続9回目。
 もういい加減「恒例」で「日常」になっているっていうのに。
 今さら。今になって。今回限り。

 音楽の才能に著しく欠けているわたしは、いつまでたってもうまく歌えない。や、すでにあきらめている。わたしにはできない、と。
 だから自分のできる範囲で、「参加する」ことを愉しんでいる。
 歌えるところだけ歌い、無理なことはしない。わたしがソロ歌手ならそーゆーわけにもいかないが、なにしろ1万人いる。アルトだけで5000人はいるだろーって勢いだ。そのうちのひとりがへたっぴでもなんの問題もない。「出ないところ、歌えないところは口パク推奨」「ブレスは好きなところで何回でもしてよし」と先生も指導している。
 プロのように歌えるはずがない。できないことはできない。だからカメの歩みで「去年より少しでも歌えるようになろう」てな、「自分目標」を決めて臨んでいる。
 
 近年は「合唱の声で歌う」ことがMy目標。
 「合唱の声」ってゆーのは、自分が思っているだけで、それがどーゆーもんかは説明できない。なにしろ知識が皆無なもので。
 ただ、第九を歌っていると、他人様の地声と合唱の声はチガウ、ということだけはわかる。歌う声と喋る声がチガウように。
 歌というとカラオケしか知らないわたしは、「合唱の声」とやらの出し方がわからない。だからずーっと地声で歌っていた。まず、音を取りやすいところで曲をおぼえるしかなかった。
 で、カメなわたしはよーやく、他人様のような「地声ではない」歌い方をしようと四苦八苦。自分が思っている通りの音が出ないんだこれが。

 自分が音痴だとわかっているので、いつも「他の人の迷惑にならないよう」気を遣う。はずれた音ででかい声で歌う人が近くにいると、すごーく迷惑だもの。釣られるのよ、その音に。
 反対に、ガイドとなる「正しい音」があると歌いやすかった。同じ音を心がけて声を出すのは気持ちいい。
 わたしをいつも導いてくれた「正しい音」のあらっちは、もういない。もう永遠に、彼女の歌声を聴くことはない。
 あらっちのように歌えるはずもないが、あらっちのように歌いたいと、地声の歌い方を捨て、「合唱の声」を目指す。
 『THE SECOND LIFE』を観たあと、『アデュー・マルセイユ』を観たあとのレッスン(劇場からレッスン場へ直行・笑)では、ほっくんの歌声を耳に残したまま、オサ様の歌声を耳に残したまま、イメージに届けと必死に声を出した。……それがさー、不思議なの、歌ウマさんの声が耳に残っているときの方が、うまく歌えた気がするのよー(笑)。

 そーやって、自分なりにカメなりに努力しての、今年の第九。
 9回目の参加だが、はじめて、座席移動がなかった。
 欠席者の席を埋めるため、当日の席決めで絶対に移動があるもんなんだ。1万人を超える参加者が、ひとりの欠席者もないなんてこと、物理的にあり得ない。ひとりでも来ない人がいたら、その人の席を詰めるために全員が移動する。
 だが今年のわたしの仮座席は、アルトとソプラノの境界線だった。わたしの座席位置(縦一列)を基準に席移動をすることになり、わたしと同じ縦列“以外”の人たち全員が、なにかしら移動。わたしたちだけそのまま着席。
 境界線だから、当然通路際。しかもわたしは、出入口真上の手すり位置だった。
 つまり、わたしの前には誰もいない。はるか下方に男性座席があるだけ。
 これはわたし的にすっげーありがたいことだった。
 わたしは「自分が音痴である」こと、「音程の狂った声は前列の迷惑」になることを知っている。
 横の人の迷惑には、あまりならない。直撃を喰らうのは前の人。後ろに音痴がいるとすげーつらい。
 でも今回は、わたしの前に誰もいない。つーことは、気を遣わず、思い切り歌っていいってこと?

 つーことで、本気で歌った。
 ここまで腹の底から声出したことなんて、そうそうない。……てくらい、本気だった。

 や、前日のリハまではまだ出ていた音階が、当日は風邪が悪化していたため出なくなったりしていたが、出せる範囲の音を気持ちよく出した。
 大阪城ホールは馬鹿でかい。某歌劇団が音校生も含めて運動会を開催できるほどの広さだ。
 わたしが腹の底から声を出したって、ぜんぜんびくともしない。

「1万人の合唱団と120人のオーケストラ、すべての音を指揮するつもりだから」と、佐渡先生は前もって宣言していた。
 ちゃんと全員に合図を出すからついてこい、と彼は言った。

 ついていこう。
 全霊を上げて。

 なにしろわたしがいるのはソプラノとの境界線近く。……基準線で最初の境界線だったが、最終的にはわたしの隣のブロック半ばまでアルトが移動してきた(わたしたちは動いていないが)ので、厳密な境界線ではなくなったが。
 佐渡せんせー的にはわたしたちの位置は「ソプラノ席」なので、送ってくれる合図はわたしのいる位置とは反対方向に向けられちゃってるんだけど、それでもソレを受けて声を出す。

 世界中の人たちが手を取り合い、仲間になる。
 不思議な力。
 神の手。
 奇跡を信じ、声を合わせる。

 ありえないねぇ。
 なんなんだろうね、この高揚感。

 奇跡って、あるのかもしれない。

 すとんとそう思えるほどの、クリアになった意識。
 歌声。
 演奏。
 1万人を超える人たちの、意志を持って出す音たち。

 響き渡る、音。

 だから。

 終わった瞬間、叫びたくなった。
 なんかよくわかんなくて、拳を握った。

 お隣のおばーさんと目を合わせて笑った。

 やったね。やったよ。すごいね。すごいよね。

 何年か前には、ここにあらっちがいたのになあ。隣の席のおばーさんは、あらっちくらいの身長だった。わたしの肩ぐらい。
 あらっちが亡くなってから、やたらとあらっちのことを思い出すよ。
 いつだったか『1万人の第九』の参加抽選にはずれてしまったとき、「合唱団の中には入れないけど、客席で歌うわ」と言っていたあらっち。
 ここにはいないけれど、それでもどっかで参加してるかもな。あの「正しい音」を響かせていたかもな。
 
 ブラボーおじさんの気持ちはわからないが、「ブラボー!」と叫びたい気持ちはわかった。

 すげぇ気持ちよかったよ。
 今年の第九。

 
 で。
 たしかに、今年の第九は好い第九、だったんだけど。

 わたし的にいちばん衝撃だったのは。

 じつは、ゲスト歌手の中島美嘉の、「素顔」だった。

 どれくらいの衝撃かって、『白夜伝説』のミーミルちゃんの素顔写真を、プログラムで見たとき以来の衝撃だった(笑)。


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