「ヒーロー」のいない世界にて。@フットルース
2012年7月14日 タカラヅカ
なんかとっても、統一感のある色合わせです、カラーバンド。
てかさー、どの色が当たるかは10分の1じゃないですか。なのになんで、またしても、ディープ・ブルーが来るかな。今回、コマ大当たりだ。プレゼント日に行くたびに、コマグッズが増える。
そして、ご縁皆無なのが、キムとまっつ。ほんとにわたしのくじ運ってば……(笑)。
あんまりわたしがまっつまっつうるさいので、まっつのカードと黒バンドは譲っていただけました、あかりさん、ありがとう!
でも、チェリー・ピンクのバンドも欲しかったなー。わたしはもう、プレゼント公演は見られないんだなー。
フィナーレで牧師様がクソまじめにピンクと黒のバンドを付けて踊っているのを見るたびに、お揃いしたいっ、とじれじれしました(笑)。
で。
自分のくじ運は早々に見放して、買いました。
ピンクのバンド。
本物ちゃんと見たことないからわかんないけど、テレビや舞台まっつを見る限り、わりと似てない? このバンド。
てことで、まっつ黒バンドと一緒にこのニセモノピンクバンド付けて、自己満足することにします。
ばったもんのバンド付けてる残念なおばさんを見かけても、なまあたたかくスルーしてやってくださいまし……。
☆
『フットルース』の、ナニがこんなに面白いのか。わたしの琴線に触れるのか。
それを考えた。
そして、思い至るんだ。
「ヒーロー」がいない、ことだ。
『フットルース』に登場するのは、ふつーの人々だ。
それぞれ個性は強いし、デフォルメされたりタカラヅカ的、あるいはマンガ的手法が取られているけれど、あくまでもふつーの人たち。
超人はいない。
立場的に悪役もいるけれど、彼らとて絶対悪ではないし、主人公サイドと同じく、善悪においても日常の範囲。
ふつーの人しかいない、わたしたちの日常と地続きの世界で、ふつーの人たちががんばる話。
主人公レン@キムは、ヒーローではない。
どこにでもいる、ふつーの男の子だ。
彼がやってくることで街が変わったのは、彼が「よそ者」だったせい。同質のモノだけで固まっていた集団に異分子が入り、瓦解した。
「天のもとでは、あらゆるものに時期がある」と作中にあるように、そろそろ限界だったんだと思う。壊れるのは時間の問題、だったところに異分子が混ざり、ぱーんと割れた。
ラスト、ラスボスが方針を変えた、だけでみなが従ったのは、彼ら自身限界を感じていたからだ。ラスボスが折れてくれて、ほっとしただろう。
必然だった、なにも不思議はない。
レンが特別に素晴らしいヒーローだったから、街を変えられたわけじゃない。
だけどレンは、いい子だ。
彼の魅力は、「ヒーローではない」ところにある。
レンの持つ、素直さと柔軟さ。
それはたぶん、ボーモントの街が失ってしまったモノを象徴している。
レンは街の仕組み自体、ダンスを禁じる地方条例撤廃に向けて闘いを挑む。
「I’m Free」、自由を手に入れろ、と。
でもその「闘い」は、あまりに正攻法、まともすぎる方法で。
暴力に訴えるのでもないし、学校をボイコットしたり立てこもったりという、マンガやドラマでよく見かける方法でもない。
町議会で発言して、評議員の多数決で撤廃してもらおうというんだから、フィクションにあるまじきまともさと、地味さ。
議会で踊って、なし崩しに全員巻き込んでダンスパーティにしてしまえ、というこれまた映画などで見かける派手な方法でもない。ましてや、唐突に子守歌を歌って突然みんな泣き崩れ、脈絡なしに心が通じ合うなんていう、どっかの歌劇団のお家芸もやらない。
日常にある方法、常識の範囲でしかない闘い。
しかも、レンがたぐいまれなカリスマ性と秀逸な話術で敵対する人々を魅了し、奥深い心理戦と駆け引きでラスボスを論破し、勝利を得るわけでもない。
レンひとりでは、闘えない。
議会で発言するスピーチ内容は、仲間たちみんなで考えている。ウィラード@コマやアリエル@みみの力を借りて、原稿がやっと出来上がる。
それを発言するのだって、「おぼえてきた原稿を読み上げてます」という、まったくもって「自分の言葉」になっていない、ただの朗読マシーン状態。
ひとの心を動かすにはほど遠い、お粗末な出来。
とても、ヒーローの仕事じゃない。
でも、レンがやってのけたことは、十分「ふつーの人の心」を打つ。
レンが仲間たちと作り上げた原稿は真っ当なものだし、子どもたちがそうやって力を合わせ努力して、正しい方法で公の場で意見する姿は、見ていていじらしい。よくやった、と心を動かす。
ふつーの大人なら、そういうときは子どもたちの功績を認め、誉めてあげるもんだ。子どもたちの努力を全否定して叩きつぶす、なんて不毛なことはしない。
ただ、レンたちが相手にしたのはふつーの大人たちではなく、「悪」に染まった大人たちだから、そうはいかなかっただけで。
じゃあ何故、大人たちは「悪」に染まっているのか。必要なのは条例改正のための「正論」ではなく、聴く耳を持たなくなった「悪」の心を砕くこと。
敵のラスボスムーア牧師@まっつは、元は善人だが、今は不幸にも「悪」に取り憑かれている。
てことでレンは、ムーア牧師単体に狙いを定め、彼を歪めている原因を取り除くことにする。
これまた、なにか華々しい必殺技があるわけではなく、「正論=キレイゴト」ではなく、「本心=弱さ・傷」をぶつけることで、ムーアの心を動かす。
レンが仲間たちとやってきたことは正しいこと、プラスのことだ。
それでも十分だけど、さらにその奥にある弱さや歪み、マイナスのことをさらけ出し、正しさと弱さを、プラスとマイナスを、全部ひとつにした。
陰と陽、プラスとマイナス、それはつまり、「人間」だ。
ごくあたりまえに、「人間」の姿。
プラスしか持たないヒーローじゃない。マイナスしか持たない悪人じゃない。
ごくふつーの人間が、常識の範囲内でがんばって、奇跡を起こす物語。
「HERO」という曲が有名であり、作中で実際にその単語が使われているけれど、ほんとのとここの物語にヒーローはいない。出てこない。
超人じゃない、ふつーの男の子であるレンが、アリエルにとってのヒーローであるように、「白馬の騎士」は存在しない。
……だからこそ、逆手に取って使われているよね、この単語。
出来事もキャラクタもすべて「ふつー」なのに、それらがしあわせな奇跡につながる。
彼らの奇跡は、わたしたちの奇跡かもしれない。
超人とかに頼らない、ずるをしない、ふつーの人々ががんばって危機的状況をひっくり返し、大団円に持ち込む物語が、わたしは大好きなんだ。
これぞエンターテインメント! 逆転の快感。障害を打開し高見に至るカタルシス。
わたしが、もっとも心地よいと思う起承転結の黄金パターンのひとつだ。
だから、こんなにこんなに好きなんだよなあ、『フットルース』。
てかさー、どの色が当たるかは10分の1じゃないですか。なのになんで、またしても、ディープ・ブルーが来るかな。今回、コマ大当たりだ。プレゼント日に行くたびに、コマグッズが増える。
そして、ご縁皆無なのが、キムとまっつ。ほんとにわたしのくじ運ってば……(笑)。
あんまりわたしがまっつまっつうるさいので、まっつのカードと黒バンドは譲っていただけました、あかりさん、ありがとう!
でも、チェリー・ピンクのバンドも欲しかったなー。わたしはもう、プレゼント公演は見られないんだなー。
フィナーレで牧師様がクソまじめにピンクと黒のバンドを付けて踊っているのを見るたびに、お揃いしたいっ、とじれじれしました(笑)。
で。
自分のくじ運は早々に見放して、買いました。
ピンクのバンド。
本物ちゃんと見たことないからわかんないけど、テレビや舞台まっつを見る限り、わりと似てない? このバンド。
てことで、まっつ黒バンドと一緒にこのニセモノピンクバンド付けて、自己満足することにします。
ばったもんのバンド付けてる残念なおばさんを見かけても、なまあたたかくスルーしてやってくださいまし……。
☆
『フットルース』の、ナニがこんなに面白いのか。わたしの琴線に触れるのか。
それを考えた。
そして、思い至るんだ。
「ヒーロー」がいない、ことだ。
『フットルース』に登場するのは、ふつーの人々だ。
それぞれ個性は強いし、デフォルメされたりタカラヅカ的、あるいはマンガ的手法が取られているけれど、あくまでもふつーの人たち。
超人はいない。
立場的に悪役もいるけれど、彼らとて絶対悪ではないし、主人公サイドと同じく、善悪においても日常の範囲。
ふつーの人しかいない、わたしたちの日常と地続きの世界で、ふつーの人たちががんばる話。
主人公レン@キムは、ヒーローではない。
どこにでもいる、ふつーの男の子だ。
彼がやってくることで街が変わったのは、彼が「よそ者」だったせい。同質のモノだけで固まっていた集団に異分子が入り、瓦解した。
「天のもとでは、あらゆるものに時期がある」と作中にあるように、そろそろ限界だったんだと思う。壊れるのは時間の問題、だったところに異分子が混ざり、ぱーんと割れた。
ラスト、ラスボスが方針を変えた、だけでみなが従ったのは、彼ら自身限界を感じていたからだ。ラスボスが折れてくれて、ほっとしただろう。
必然だった、なにも不思議はない。
レンが特別に素晴らしいヒーローだったから、街を変えられたわけじゃない。
だけどレンは、いい子だ。
彼の魅力は、「ヒーローではない」ところにある。
レンの持つ、素直さと柔軟さ。
それはたぶん、ボーモントの街が失ってしまったモノを象徴している。
レンは街の仕組み自体、ダンスを禁じる地方条例撤廃に向けて闘いを挑む。
「I’m Free」、自由を手に入れろ、と。
でもその「闘い」は、あまりに正攻法、まともすぎる方法で。
暴力に訴えるのでもないし、学校をボイコットしたり立てこもったりという、マンガやドラマでよく見かける方法でもない。
町議会で発言して、評議員の多数決で撤廃してもらおうというんだから、フィクションにあるまじきまともさと、地味さ。
議会で踊って、なし崩しに全員巻き込んでダンスパーティにしてしまえ、というこれまた映画などで見かける派手な方法でもない。ましてや、唐突に子守歌を歌って突然みんな泣き崩れ、脈絡なしに心が通じ合うなんていう、どっかの歌劇団のお家芸もやらない。
日常にある方法、常識の範囲でしかない闘い。
しかも、レンがたぐいまれなカリスマ性と秀逸な話術で敵対する人々を魅了し、奥深い心理戦と駆け引きでラスボスを論破し、勝利を得るわけでもない。
レンひとりでは、闘えない。
議会で発言するスピーチ内容は、仲間たちみんなで考えている。ウィラード@コマやアリエル@みみの力を借りて、原稿がやっと出来上がる。
それを発言するのだって、「おぼえてきた原稿を読み上げてます」という、まったくもって「自分の言葉」になっていない、ただの朗読マシーン状態。
ひとの心を動かすにはほど遠い、お粗末な出来。
とても、ヒーローの仕事じゃない。
でも、レンがやってのけたことは、十分「ふつーの人の心」を打つ。
レンが仲間たちと作り上げた原稿は真っ当なものだし、子どもたちがそうやって力を合わせ努力して、正しい方法で公の場で意見する姿は、見ていていじらしい。よくやった、と心を動かす。
ふつーの大人なら、そういうときは子どもたちの功績を認め、誉めてあげるもんだ。子どもたちの努力を全否定して叩きつぶす、なんて不毛なことはしない。
ただ、レンたちが相手にしたのはふつーの大人たちではなく、「悪」に染まった大人たちだから、そうはいかなかっただけで。
じゃあ何故、大人たちは「悪」に染まっているのか。必要なのは条例改正のための「正論」ではなく、聴く耳を持たなくなった「悪」の心を砕くこと。
敵のラスボスムーア牧師@まっつは、元は善人だが、今は不幸にも「悪」に取り憑かれている。
てことでレンは、ムーア牧師単体に狙いを定め、彼を歪めている原因を取り除くことにする。
これまた、なにか華々しい必殺技があるわけではなく、「正論=キレイゴト」ではなく、「本心=弱さ・傷」をぶつけることで、ムーアの心を動かす。
レンが仲間たちとやってきたことは正しいこと、プラスのことだ。
それでも十分だけど、さらにその奥にある弱さや歪み、マイナスのことをさらけ出し、正しさと弱さを、プラスとマイナスを、全部ひとつにした。
陰と陽、プラスとマイナス、それはつまり、「人間」だ。
ごくあたりまえに、「人間」の姿。
プラスしか持たないヒーローじゃない。マイナスしか持たない悪人じゃない。
ごくふつーの人間が、常識の範囲内でがんばって、奇跡を起こす物語。
「HERO」という曲が有名であり、作中で実際にその単語が使われているけれど、ほんとのとここの物語にヒーローはいない。出てこない。
超人じゃない、ふつーの男の子であるレンが、アリエルにとってのヒーローであるように、「白馬の騎士」は存在しない。
……だからこそ、逆手に取って使われているよね、この単語。
出来事もキャラクタもすべて「ふつー」なのに、それらがしあわせな奇跡につながる。
彼らの奇跡は、わたしたちの奇跡かもしれない。
超人とかに頼らない、ずるをしない、ふつーの人々ががんばって危機的状況をひっくり返し、大団円に持ち込む物語が、わたしは大好きなんだ。
これぞエンターテインメント! 逆転の快感。障害を打開し高見に至るカタルシス。
わたしが、もっとも心地よいと思う起承転結の黄金パターンのひとつだ。
だから、こんなにこんなに好きなんだよなあ、『フットルース』。