これは、誰の物語か。@フットルース
2012年7月22日 タカラヅカ 昔、映画を見たときは、主人公の高校生たちが頭の固い大人たちを説得して、念願のダンスパーティを開くっていう話だと思っていた。
見たのがあまりに大昔なので、ろくにおぼえてないんだけど。
ふつーに主人公たちに感情移入して見ていた。
そして今。
雪組『フットルース』を観て驚いた。
えーとコレ、主人公、誰?
演出・潤色の小柳先生がプログラムで言っています。
「Footloose」という言葉は、「自由」を意味するのだと。
Footをlooseするわけだから。
英語なんてさーーっぱりわからない無教養なわたしは、タイトルの意味を芝居全体、そして主題歌から受け取りました。
すなわち「解き放つ」こと。
オープニングでまずこのタイトルソング「Footloose」が歌われる。
主人公のレン@キムをはじめ、ヒロインのアリエル@みみ、主要キャラのウィラード@コマ、ラスティ@あゆっち、チャック@きんぐたち、全員が「逃げ出したい」と歌っている。
全員が「閉塞感」を持っている。もてあましている。つまり、「キツい靴を履いた状態」だ。彼らはFootをlooseして自由になりたい、解き放たれたいと歌う。
レンはこの閉塞感と真っ向から闘うヒーローだ。彼が取り囲んだ檻を叩き壊し、人々に自由がなにかを示した。
だから彼が主人公であることは間違いない。
ただ。
物語の主人公って、わりと役割が決まっている。
起承転結、ワンパターン。
主人公がなにかしら問題にぶつかり、停滞し、悩み、それを乗り越えて成長し、ハッピーエンド。
で、この障害→乗り越えてハッピーエンド、ってのは、「物質的なこと」と「精神的なこと」がある。
「県大会で優勝できなかったらチーム解散」と言われた弱小サッカー部が、仲間集めからはじめて、ついにはほんとに優勝しちゃう、という物語だとしたら、実際に試合で勝って解散せずに済むことが物質的な部分。試合の駆け引きとかで十分はらはらどきどき、面白い物語になる。
でも、さらに面白く……というか、感動的にするには、物質的な目に見えるストーリー展開に、精神的な山場を重ねる。一連のストーリーの流れの中で、主人公が成長し、なにかしら大きな心の転換を経験すること。ひとを信じられなかった主人公が、あとに引けない状況で試合をするうちに、仲間と強い友情で結ばれるようになった、とか、そーゆーの。
そしてこの物質と精神は、シンクロさせた方がわかりやすい。つまり、物質的なクライマックスに、精神的なクライマックスを重ねる。
このシュートはずしたら敗北、ってないちばん盛り上がる展開のときに、主人公が仲間との友情に目覚める、とかね。
人間が意識を、つまりは生き方を変えるわけだから、物語のクライマックスですよ、物質的にも!
黄金パターンですな。
このエンタメの基本ルールでいくと、だ。
『フットルース』の主人公って、……えーと?
これって、ムーア牧師の物語だよね?
クライマックスで「転」を迎えるのはムーア@まっつなのだわ。レンではなくて。
5年前の不幸な事件以来、心を閉ざしていたムーア。彼がレンと出会い、心を開く。
これが、この物語の核。
だもんで2幕後半ってば、ムーアさん中心に話が進みます。
レンによって改心したムーアが後悔したり迷ったりして、朗々とソロ歌って、翌朝素直な心をみなの前で告げる。
これが、クライマックス。
レンは途中から脇役。
現に、舞台センターで客席に顔を見せているのがムーアで、レンは客席に背中を向けて脇に立ち、ムーアを見つめている。
これには、びっくりしたわー。
映画の主人公はレンだったと思うけど、このヅカ版の主人公は?
ブロードウェイ版がどうなのかは知らないけれど。
レンというキャラクタは、「主人公」として動かすのは難しいと思うよ。
レンは、ハンサムでダンスがうまくて、意志が強くて優しい。
最初から全部持っている。
強くて優しいから、彼を損なうことは難しい。こーゆーキャラを真ん中に置いて「物質的」な盛り上がりは作りやすいけれど、「精神的」なモノは作りにくい。
不当に虐げられ、それを跳ね返すという物質的山場は作れる。しかし、もともと強く正しい心の持ち主だから、そこよりさらに上位の精神にたどり着くとなると、精神的な山場が組みにくい。
だから、ムーアの方が作りやすかったんだろうなと。
ムーアは精神的に歪みまくっているので。そこから正しいところへ、ばーんと持って行くのは、エンタメとして描きやすい。
レンももちろん作中に成長しているけれど、あまり大きな変化じゃない。もともと強い子だから。
レンの「カタルシス」……つまり、一番大きな変化は、1幕ラストの「I’m Free」なんだよなー。もともと強いレンが、不当に膝を付かされていたけれど、それをよしとせず、ついに立ち上がる場面。
1幕でレン的クライマックスやっちゃったよー。主人公のはずなのに。
正しくレンを主人公として描くならば、2幕のクライマックスもレン中心であるべきだった。
つまり、涙ながらにムーアを説得したあと、ムーアのソロにはせず、カメラはレンを追うべきなんだ。
ムーアと話すことで、自分の中の傷を明らかにした……その心の揺れを表現すべきだ。レンの歌い上げ系ソロとかで。
そして、翌朝のミサでは、センターにムーアがいていいけど、レンは客席に顔を向けるべきだ。主役として。
『ドン・カルロス』にて、同じような場面と展開があったが、カルロス@キムは必ず客席に向かって立っていた。裁判なのだから、被告人のカルロスは裁判官の方を向いて、客席に背中を向けているはずなのに。
『ドン・カルロス』の主人公は、カルロスだった。フェリペ二世@まっつではない。
レンの成長物語は1幕でクライマックス、2幕では脇に回っているのが、バランス的にどうなのよと思う。アリエルとの恋愛クライマックスは2幕だけれど、あそこは「レンとアリエル」であって、レンの一人称場面じゃない。
そのあとの町議会からミサは、ムーア主人公だし。
この作品のタイトルであり、テーマである、「Footloose」。
オープニングで主要キャラたちがみな歌っていた。「自由になりたい」「解き放たれたい」。
そして、ラストのミサの場面で、ムーア牧師が言う。
「解き放たれるのを感じました。まるで、踊り出すような気分でした」
テーマを語るのが、ムーアかよ。
驚きましたともさ。
レンには「Footloose」を語る場面がないのなー。
一連の「ダンスパーティやるぞ」の行動で示してはいるけれど。
レンにあるのは、行動。物質面。物質と精神、両方でひとつのはずなのに。
『フットルース』というこの物語の作りが、レンひとりを主役にしていない。
わたしの記憶がアレなだけで、映画もそうだったのか、ブロードウェイ版もそうだったのか。
レンは物質面と1幕、ムーアが精神面と2幕。
ふたりで主役を分け合っているかのような、作りになっている。
あくまでも、作りの話ね。
それでも、「主役」であることが揺るぎない音月桂に、感嘆する。
物語の作りが、途中からレンを脇にしているっちゅーにね。
それでも、『フットルース』を観た人は、レンが主人公であることを疑わないだろう。
それが、キムくんの力。
レンの強さと正しさは、キムくんならではだと思う。
さすがアテ書きの小柳たん。
そして。
裏主役としてテーマ部分を担うわれらがまっつが、キムくんの光に負けることなくがっつり組み上がっていることにも、喜びと誇りを感じる。
見たのがあまりに大昔なので、ろくにおぼえてないんだけど。
ふつーに主人公たちに感情移入して見ていた。
そして今。
雪組『フットルース』を観て驚いた。
えーとコレ、主人公、誰?
演出・潤色の小柳先生がプログラムで言っています。
「Footloose」という言葉は、「自由」を意味するのだと。
Footをlooseするわけだから。
英語なんてさーーっぱりわからない無教養なわたしは、タイトルの意味を芝居全体、そして主題歌から受け取りました。
すなわち「解き放つ」こと。
オープニングでまずこのタイトルソング「Footloose」が歌われる。
主人公のレン@キムをはじめ、ヒロインのアリエル@みみ、主要キャラのウィラード@コマ、ラスティ@あゆっち、チャック@きんぐたち、全員が「逃げ出したい」と歌っている。
全員が「閉塞感」を持っている。もてあましている。つまり、「キツい靴を履いた状態」だ。彼らはFootをlooseして自由になりたい、解き放たれたいと歌う。
レンはこの閉塞感と真っ向から闘うヒーローだ。彼が取り囲んだ檻を叩き壊し、人々に自由がなにかを示した。
だから彼が主人公であることは間違いない。
ただ。
物語の主人公って、わりと役割が決まっている。
起承転結、ワンパターン。
主人公がなにかしら問題にぶつかり、停滞し、悩み、それを乗り越えて成長し、ハッピーエンド。
で、この障害→乗り越えてハッピーエンド、ってのは、「物質的なこと」と「精神的なこと」がある。
「県大会で優勝できなかったらチーム解散」と言われた弱小サッカー部が、仲間集めからはじめて、ついにはほんとに優勝しちゃう、という物語だとしたら、実際に試合で勝って解散せずに済むことが物質的な部分。試合の駆け引きとかで十分はらはらどきどき、面白い物語になる。
でも、さらに面白く……というか、感動的にするには、物質的な目に見えるストーリー展開に、精神的な山場を重ねる。一連のストーリーの流れの中で、主人公が成長し、なにかしら大きな心の転換を経験すること。ひとを信じられなかった主人公が、あとに引けない状況で試合をするうちに、仲間と強い友情で結ばれるようになった、とか、そーゆーの。
そしてこの物質と精神は、シンクロさせた方がわかりやすい。つまり、物質的なクライマックスに、精神的なクライマックスを重ねる。
このシュートはずしたら敗北、ってないちばん盛り上がる展開のときに、主人公が仲間との友情に目覚める、とかね。
人間が意識を、つまりは生き方を変えるわけだから、物語のクライマックスですよ、物質的にも!
黄金パターンですな。
このエンタメの基本ルールでいくと、だ。
『フットルース』の主人公って、……えーと?
これって、ムーア牧師の物語だよね?
クライマックスで「転」を迎えるのはムーア@まっつなのだわ。レンではなくて。
5年前の不幸な事件以来、心を閉ざしていたムーア。彼がレンと出会い、心を開く。
これが、この物語の核。
だもんで2幕後半ってば、ムーアさん中心に話が進みます。
レンによって改心したムーアが後悔したり迷ったりして、朗々とソロ歌って、翌朝素直な心をみなの前で告げる。
これが、クライマックス。
レンは途中から脇役。
現に、舞台センターで客席に顔を見せているのがムーアで、レンは客席に背中を向けて脇に立ち、ムーアを見つめている。
これには、びっくりしたわー。
映画の主人公はレンだったと思うけど、このヅカ版の主人公は?
ブロードウェイ版がどうなのかは知らないけれど。
レンというキャラクタは、「主人公」として動かすのは難しいと思うよ。
レンは、ハンサムでダンスがうまくて、意志が強くて優しい。
最初から全部持っている。
強くて優しいから、彼を損なうことは難しい。こーゆーキャラを真ん中に置いて「物質的」な盛り上がりは作りやすいけれど、「精神的」なモノは作りにくい。
不当に虐げられ、それを跳ね返すという物質的山場は作れる。しかし、もともと強く正しい心の持ち主だから、そこよりさらに上位の精神にたどり着くとなると、精神的な山場が組みにくい。
だから、ムーアの方が作りやすかったんだろうなと。
ムーアは精神的に歪みまくっているので。そこから正しいところへ、ばーんと持って行くのは、エンタメとして描きやすい。
レンももちろん作中に成長しているけれど、あまり大きな変化じゃない。もともと強い子だから。
レンの「カタルシス」……つまり、一番大きな変化は、1幕ラストの「I’m Free」なんだよなー。もともと強いレンが、不当に膝を付かされていたけれど、それをよしとせず、ついに立ち上がる場面。
1幕でレン的クライマックスやっちゃったよー。主人公のはずなのに。
正しくレンを主人公として描くならば、2幕のクライマックスもレン中心であるべきだった。
つまり、涙ながらにムーアを説得したあと、ムーアのソロにはせず、カメラはレンを追うべきなんだ。
ムーアと話すことで、自分の中の傷を明らかにした……その心の揺れを表現すべきだ。レンの歌い上げ系ソロとかで。
そして、翌朝のミサでは、センターにムーアがいていいけど、レンは客席に顔を向けるべきだ。主役として。
『ドン・カルロス』にて、同じような場面と展開があったが、カルロス@キムは必ず客席に向かって立っていた。裁判なのだから、被告人のカルロスは裁判官の方を向いて、客席に背中を向けているはずなのに。
『ドン・カルロス』の主人公は、カルロスだった。フェリペ二世@まっつではない。
レンの成長物語は1幕でクライマックス、2幕では脇に回っているのが、バランス的にどうなのよと思う。アリエルとの恋愛クライマックスは2幕だけれど、あそこは「レンとアリエル」であって、レンの一人称場面じゃない。
そのあとの町議会からミサは、ムーア主人公だし。
この作品のタイトルであり、テーマである、「Footloose」。
オープニングで主要キャラたちがみな歌っていた。「自由になりたい」「解き放たれたい」。
そして、ラストのミサの場面で、ムーア牧師が言う。
「解き放たれるのを感じました。まるで、踊り出すような気分でした」
テーマを語るのが、ムーアかよ。
驚きましたともさ。
レンには「Footloose」を語る場面がないのなー。
一連の「ダンスパーティやるぞ」の行動で示してはいるけれど。
レンにあるのは、行動。物質面。物質と精神、両方でひとつのはずなのに。
『フットルース』というこの物語の作りが、レンひとりを主役にしていない。
わたしの記憶がアレなだけで、映画もそうだったのか、ブロードウェイ版もそうだったのか。
レンは物質面と1幕、ムーアが精神面と2幕。
ふたりで主役を分け合っているかのような、作りになっている。
あくまでも、作りの話ね。
それでも、「主役」であることが揺るぎない音月桂に、感嘆する。
物語の作りが、途中からレンを脇にしているっちゅーにね。
それでも、『フットルース』を観た人は、レンが主人公であることを疑わないだろう。
それが、キムくんの力。
レンの強さと正しさは、キムくんならではだと思う。
さすがアテ書きの小柳たん。
そして。
裏主役としてテーマ部分を担うわれらがまっつが、キムくんの光に負けることなくがっつり組み上がっていることにも、喜びと誇りを感じる。