主人公とヒロイン。@ローマの休日
2016年6月15日 タカラヅカ 『ローマの休日』って、どんな話だったっけ。
映画を見たのは大昔。ストーリーは知っていても、細部まではおぼえてない。むしろ『レディ・アンをさがして』の方が記憶に残っている。←
かっこいいおじさんに憧れるより、キュートなお姫様に夢中になるのは、若い頃にはよくあることだよね。女の子が手にする人形は女の子の人形であって、男の子じゃない。女の子はまず、かわいい女の子に反応する。
おじさんの魅力がわかるのは、もっと大人になってからだ。
おじさん俳優のグレゴリー・ペックよりも、若くきれいなオードリー・ヘプバーンの方が印象的だった。
「オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』」という言い方はしても、「グレゴリー・ペックの『ローマの休日』」という言い方はしない、ようなもので。
アンという名前は「そうそう」と思い出せても、その相手役の名前は思い出せない。
それくらい、アン王女@ヘプバーンのイメージだけがある作品。
や、わたしにとって。
だから雪組の『ローマの休日』を観て、意外に、ちぎくんが主役だ! と、膝を打った。
『ローマの休日』というと、ヘプバーンしかなかったんだもの! 名前も思い出せない「王女の相手役」を男役至上主義のタカラヅカでトップスターに演じさせるなんて、冒険だな……って思ってたんだもの。
なまじ、ちぎみゆは『伯爵令嬢』という、女の子がタイトルロールかつ完全に主役! という作品をやっている。
『伯爵令嬢』に続き、またしてもみゆちゃんが主役でしかない作品をやるのか。ちぎくん大変だな。
そう思ったんだもの。
タカラヅカは男役中心。トップスターとは男役のみの称号、娘役はたとえトップでも主役ではなく、主演男役に寄り添うヒロイン、相手役。
いい悪いではなく、そういうシステム。前提。
だから『伯爵令嬢』だって、演出の生田くんが、すっげーがんばって、「ヒロインの相手役」に過ぎない青年を、「主人公」にしようと比重を上げていた。
生田くんががんばっているのはわかった。努力したのはよく見えた。ちぎくんだって、そのスター力を存分に発揮し、いい真ん中ぶりだった。
でも、どうあがいても『伯爵令嬢』の主人公はみゆちゃんだった。ちぎくんは、その相手役。
物語がそうなっているんだもの、仕方ない。
だから『ローマの休日』も、『伯爵令嬢』と同じことになるんだろうなと、あきらめていた。受け入れていた。どっちが主役とかにこだわらず、いい作品を見せてくれればいい。ちぎみゆなら、大丈夫。
なのに、実際に観てみたら。
主役は、ジョー@ちぎくんだった。
意外。トップスターが、ちゃんとトップスターだ。
そしてわたしは、原作『ローマの休日』を大しておぼえていないことに気づく。
ストーリーもキャラもなんとなくおぼえているし、印象的な場面とかも断片的におぼえているけれど。
その、「忘れているのに、それでも記憶に残っている」部分って、みんな王女に関することなんだ。なんつっても、「オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』」だから!
でも、物語のセオリー的に、主役はアン王女だとしても、新聞記者役は「視点」であるべきだよね。『レディ・アンをさがして』だって、主役兼視点はレディ・アンじゃなくて作曲家の方だったわ。
王女は非日常。非日常と、わたしたちの住む日常が偶然交わるから、そこにドラマが生まれる。非日常を描くためにはまず、日常がなくてはダメ。
ゆえに、視点となるのは、私たちと同じ世界に住み、同じ価値観で生きるふつーの人。そのふつーの人を通すからこそ、王女はとびきり魅力的に映る。
だからジョー@ちぎが主役たり得るんだ。
『伯爵令嬢』では無理だった。どんなに生田くんがアラン@ちぎのターンを作っても、原作が「アランの目を通した世界」にはなっていない。主人公コリンヌ@みゆの物語、「コリンヌの目を通した世界」なんだ、アランは「主人公の視界の中にいる人物のひとり」でしかない。
正直、田渕せんせは生田せんせほどがんばって「タカラヅカらしくしよう、主人公をトップスターの役にしよう」とはしていない、ように見えた。
ものすごいこだわりとか努力とか、感じなかった。
ただ、原作映画のままに作ったら、こうなりました、って感じ。
でも、ただ原作通りにするだけで、ちゃんとちぎくんが主人公になる。
そっか。『伯爵令嬢』とは根っこからチガウんだ。
てなことを、実際に観てようやく気づく。思い至る。
こんなに観やすいのは、そのためか。
主人公が主人公である。
これって重要。
なにもしない、なんのエピソードもドラマもない人が、「主人公です」と出番だけ多くされちゃうと、すっげーストレスだから。
なにもしない主人公に尺だけ取られて、描くべきストーリーもドラマもテーマもなにも展開出来ず、破綻したまま終了する作品が、ヅカには数多く存在するからねー。女性主人公の物語を原作に選んじゃって、「主人公の相手役」でしかない人を主人公にするからすべてぐちゃぐちゃに壊れるの。
そういう問題のない原作だったんだ、『ローマの休日』って。
主人公は新聞記者のジョー。
彼が少女と出会い、恋をして、己の人生と向き合う物語。彼の仕事、彼の夢、彼の友人、彼がひとつのドラマを通して、成長する物語なんだ。
ヒロインの王女も冒険と恋を通して成長する、まぎれもないもうひとりの主人公。だからこそ、添え物ヒロインよりはるかに魅力的に描かれている。
…………原作まんまではなく、もっとタカラヅカ的に練り直してくれれば。
それこそ、『レディ・アンをさがして』並に、「『ローマの休日』は元ネタです」と別モノに書き直すことが出来れば。
ちょっと映画まんま過ぎたかなあ。
映画の記憶が大してナイくせにそう思うのは、画面や演出が平面的かつ平坦だったから。
せっかくナマでここにいる、存在している、三次元感が薄かったような。
映画を見たのは大昔。ストーリーは知っていても、細部まではおぼえてない。むしろ『レディ・アンをさがして』の方が記憶に残っている。←
かっこいいおじさんに憧れるより、キュートなお姫様に夢中になるのは、若い頃にはよくあることだよね。女の子が手にする人形は女の子の人形であって、男の子じゃない。女の子はまず、かわいい女の子に反応する。
おじさんの魅力がわかるのは、もっと大人になってからだ。
おじさん俳優のグレゴリー・ペックよりも、若くきれいなオードリー・ヘプバーンの方が印象的だった。
「オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』」という言い方はしても、「グレゴリー・ペックの『ローマの休日』」という言い方はしない、ようなもので。
アンという名前は「そうそう」と思い出せても、その相手役の名前は思い出せない。
それくらい、アン王女@ヘプバーンのイメージだけがある作品。
や、わたしにとって。
だから雪組の『ローマの休日』を観て、意外に、ちぎくんが主役だ! と、膝を打った。
『ローマの休日』というと、ヘプバーンしかなかったんだもの! 名前も思い出せない「王女の相手役」を男役至上主義のタカラヅカでトップスターに演じさせるなんて、冒険だな……って思ってたんだもの。
なまじ、ちぎみゆは『伯爵令嬢』という、女の子がタイトルロールかつ完全に主役! という作品をやっている。
『伯爵令嬢』に続き、またしてもみゆちゃんが主役でしかない作品をやるのか。ちぎくん大変だな。
そう思ったんだもの。
タカラヅカは男役中心。トップスターとは男役のみの称号、娘役はたとえトップでも主役ではなく、主演男役に寄り添うヒロイン、相手役。
いい悪いではなく、そういうシステム。前提。
だから『伯爵令嬢』だって、演出の生田くんが、すっげーがんばって、「ヒロインの相手役」に過ぎない青年を、「主人公」にしようと比重を上げていた。
生田くんががんばっているのはわかった。努力したのはよく見えた。ちぎくんだって、そのスター力を存分に発揮し、いい真ん中ぶりだった。
でも、どうあがいても『伯爵令嬢』の主人公はみゆちゃんだった。ちぎくんは、その相手役。
物語がそうなっているんだもの、仕方ない。
だから『ローマの休日』も、『伯爵令嬢』と同じことになるんだろうなと、あきらめていた。受け入れていた。どっちが主役とかにこだわらず、いい作品を見せてくれればいい。ちぎみゆなら、大丈夫。
なのに、実際に観てみたら。
主役は、ジョー@ちぎくんだった。
意外。トップスターが、ちゃんとトップスターだ。
そしてわたしは、原作『ローマの休日』を大しておぼえていないことに気づく。
ストーリーもキャラもなんとなくおぼえているし、印象的な場面とかも断片的におぼえているけれど。
その、「忘れているのに、それでも記憶に残っている」部分って、みんな王女に関することなんだ。なんつっても、「オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』」だから!
でも、物語のセオリー的に、主役はアン王女だとしても、新聞記者役は「視点」であるべきだよね。『レディ・アンをさがして』だって、主役兼視点はレディ・アンじゃなくて作曲家の方だったわ。
王女は非日常。非日常と、わたしたちの住む日常が偶然交わるから、そこにドラマが生まれる。非日常を描くためにはまず、日常がなくてはダメ。
ゆえに、視点となるのは、私たちと同じ世界に住み、同じ価値観で生きるふつーの人。そのふつーの人を通すからこそ、王女はとびきり魅力的に映る。
だからジョー@ちぎが主役たり得るんだ。
『伯爵令嬢』では無理だった。どんなに生田くんがアラン@ちぎのターンを作っても、原作が「アランの目を通した世界」にはなっていない。主人公コリンヌ@みゆの物語、「コリンヌの目を通した世界」なんだ、アランは「主人公の視界の中にいる人物のひとり」でしかない。
正直、田渕せんせは生田せんせほどがんばって「タカラヅカらしくしよう、主人公をトップスターの役にしよう」とはしていない、ように見えた。
ものすごいこだわりとか努力とか、感じなかった。
ただ、原作映画のままに作ったら、こうなりました、って感じ。
でも、ただ原作通りにするだけで、ちゃんとちぎくんが主人公になる。
そっか。『伯爵令嬢』とは根っこからチガウんだ。
てなことを、実際に観てようやく気づく。思い至る。
こんなに観やすいのは、そのためか。
主人公が主人公である。
これって重要。
なにもしない、なんのエピソードもドラマもない人が、「主人公です」と出番だけ多くされちゃうと、すっげーストレスだから。
なにもしない主人公に尺だけ取られて、描くべきストーリーもドラマもテーマもなにも展開出来ず、破綻したまま終了する作品が、ヅカには数多く存在するからねー。女性主人公の物語を原作に選んじゃって、「主人公の相手役」でしかない人を主人公にするからすべてぐちゃぐちゃに壊れるの。
そういう問題のない原作だったんだ、『ローマの休日』って。
主人公は新聞記者のジョー。
彼が少女と出会い、恋をして、己の人生と向き合う物語。彼の仕事、彼の夢、彼の友人、彼がひとつのドラマを通して、成長する物語なんだ。
ヒロインの王女も冒険と恋を通して成長する、まぎれもないもうひとりの主人公。だからこそ、添え物ヒロインよりはるかに魅力的に描かれている。
…………原作まんまではなく、もっとタカラヅカ的に練り直してくれれば。
それこそ、『レディ・アンをさがして』並に、「『ローマの休日』は元ネタです」と別モノに書き直すことが出来れば。
ちょっと映画まんま過ぎたかなあ。
映画の記憶が大してナイくせにそう思うのは、画面や演出が平面的かつ平坦だったから。
せっかくナマでここにいる、存在している、三次元感が薄かったような。