『ドン・ジュアン』初日感想にて、「ドン・カルロ@咲ちゃんが弱い」と書いた。

 でもわたし、今回ドン・カルロ萌えなのです(笑)。

 観劇しながら「ああこれ、『ロミジュリ』だ」と思った。
 ドン・ジュアン@だいもんはロミオなのだと。マーキューシオも兼ねた、闇のロミオ。

 亡霊@がおりが「死」、ラファエル@ひとこがティボルト、ドン・カルロがベンヴォーリオ。

 そして、『ロミオとジュリエット』でわたしがもっとも愛するキャラクタはベンヴォーリオだ。ロミオの親友ですべての事件の渦中にありながら、ただひとり生き残る男。
 そう、もうひとつの『ロミジュリ』にマーキューシオはいなくていいけど、ベンヴォーリオは必要。

 『ロミジュリ』のベンヴォーリオは、基本、おいしくない。おいしいところは相棒のマーキューシオが持って行くから。
 ふたりでいる場合、派手なリアクションでキャラを強く打ち出すのはマーキューシオ。そして、片方が派手だと、もう片方は地味にするしかない。ふたりして派手にしたら、両方のキャラが死ぬ。
 しどころのない役。キャラクタ。
 ……それゆえのキャラ立ての工夫や魅力も、もちろんあるし、だからこそわたしはこの役がいちばん好きなんだけど。
 ぱっと見、目立つ役じゃない。
 わかりやすく、オイシイ役じゃない。

 実際ドン・カルロは弱く、薄い。演じている人が、役を持てあましているように見える。
 派手に暴れ回るドン・ジュアンをただ眺めている場面も多いのだけど、突っ立っているだけというか、表情の「抜け」方が、ああ、演技し切れてないんだな、と思えた。

 まあなあ。難しいよなああ。
 アクティブに、自分からがんがん行くキャラの方が作りやすいんだよね。動作を追うだけで格好がつくから。むしろ、なにもしない役の方が、なにもしていないときをどう作ればいいのか、わからなくなるんだろう。

 でもね。ドン・カルロは、あのしどころのなさがいいの。

 物語の中心に割って入ることは出来ず、周辺でおろおろしている無力さが、すっげー好みだ。
 なにも出来ないし、出来ないことに言い訳して自分を守っているくせに、役に立たない良心ゆえに完全に背を向けることも出来ずに中途半端にうろうろしている。
 うざいよねー、こんなヤツ。
 だが、それがいい。

 咲ちゃんの芝居が足りてないとか整理できてないとか、そんな理由でドン・カルロが役として中途半端になっているとか、おいしくなくなっているとか、たとえそうなんだとしても、わたしは思わない。
 今あるものを「正解」として受け止める。今のドン・カルロを「完全版」と受け取る。
 あの中途半端にうろうろしている姿を、「ドン・カルロとして正しい姿」とする。

 となると、ドン・カルロの立ち位置のあやふやさに説明をつける必要がある。

 第2章の方に初日の夜にUPしたけど、ドン・カルロは昔一度、ドン・ジュアンとやっちゃってるんだろうなと。
 それゆえに、男でありながら、ドン・ジュアンを取り巻く女たちに近い位置にいる。
 ドン・カルロがもっともシンパシーを得るのが、ドン・ジュアンの昔の女イザベル@圭子ねーさまですから。ふたりは同じ位置にいるのね。同じ感覚を共有しているのね。

 という記事に、UPした当時同意のメールをいただきましたよ、あざーっす!
 しかしリアル友には「ドン・ジュアン受が理解出来ない、カルロが女役じゃないの?」と言われたりもしました。
 えー? ジュアンさんが好きこのんで男を抱くとでも? そしてカルロさんはふつーに男子だから、行動するときは抱く側にしかならないっすよ、気の毒なことに。
 なんで気の毒かというと、カルロが受……抱かれる側の方が、救いがあるからなの。「ドン・ジュアンに無理矢理奪われた」と言い訳出来るから。でも、そうじゃない。無慈悲な友人は、カルロにそんな言い訳を許さない。
 カルロが、ジュアンを抱くからこそ、カルロはその罪の意識に縛られ続けるのよ。

 「悪の華」でドン・カルロを押し倒し、その腰の上に跨がるドン・ジュアンの、悪魔的な笑みの素晴らしいこと。
 いやあ、萌えますなあ。

 ドン・カルロ萌えです。
 わくわくします(笑)。

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