新規客層開拓?@2017年公演ラインアップ
2016年7月1日 タカラヅカ 月が変わった、今月は『エリザベート』はじまるぞー、『エリザ』情報がいろいろ目に付くところに出て来てるぞー、……という時期ですが、さらに先の公演の情報も出ました。
浅田次郎……?
何故?
とりあえず、首をかしげました。
まあ、冴えないおっさんリーマン主人公の『Shall we ダンス?』を舞台化しちゃったんだから、おっさん向け小説でも大丈夫なのか……と思いつつ演出家名を確認する。
田渕先生……?
だ、大丈夫か??
途端わきあがる不安。
わたし的2015年上演公演ワースト作品の演出家!ですがな。
小柳タンを持って来れなかったのか……この題材なら、せめて。『Shall we ダンス?』や『ルパン三世』を舞台化した実績のある小柳タンならまだなんとか、期待も持てたんだが……。
田渕せんせも原作モノなら大丈夫なのかなあ?
や、原作は存じません。
浅田次郎氏の読者対象から、わたしはきっとはずれているだろう自覚があるため、今までノータッチで生きてきました。
知らないくせにイメージだけで不安を語るのはひどいですが、今のところ不安です、すみません。
タカラヅカと現代日本は、いちばん食い合わせの悪いジャンルっすよ……。
無知ゆえ、タイトルだけ見て「またみりおんタイトルロール? すごくない?」と思って、次に原作者名見て「あ、チガウっぽい」と気づき、解説読んでさらに首かしげた次第。
しかもショーが中村A……。
『エリザベート』で勢いづく宙組に、どうしてさらに勢いづく企画を与えないのか、純粋に不思議。
ここは宙組のファン層がよろこぶ題材を持ってくるべきだろうに。
なんて言いつつ、オリジナル新作2本立ては、わくわくします。
大作再演よりオリジナル新作2本立てがいい。それがタカラヅカの基本。過去の遺産消費ではなく、未来への挑戦!
楽しみにしてます。
2017年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<2017年2月~4月・宙組『王妃の館』『VIVA! FESTA!』>
2016/07/01
7月1日(金)、2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
宙組
■主演・・・(宙組)朝夏 まなと、実咲 凜音
◆宝塚大劇場:2017年2月3日(金)~3月6日(月)
一般前売:2017年1月7日(土)
◆東京宝塚劇場:2017年3月31日(金)~4月30日(日)
一般前売:2017年2月26日(日)
ミュージカル・コメディ
『王妃の館』
~原作 浅田次郎「王妃の館」(集英社文庫刊)~
脚本・演出/田渕 大輔
太陽王ルイ14世が残した「シャトー・ドゥ・ラ・レーヌ(王妃の館)」を舞台に、個性豊かな登場人物たちが織り成す人間模様をコミカルに描いた浅田次郎氏の小説「王妃の館」。このベストセラーを、宝塚歌劇ならではの演出を加えミュージカル化致します。
パリ、ヴォージュ広場の片隅に佇む「シャトー・ドゥ・ラ・レーヌ」は一見客の宿泊を許さぬ高級ホテルだが、実際は深刻な経営難に陥っていた。そこに目を付けたのは、やはり倒産寸前の旅行会社「パン・ワールド・ツアー・エンタープライズ」。旅行社はホテルとタッグを組み、前代未聞のダブルブッキングツアーを企画。高額の“光(ポジ)ツアー”と格安の“影(ネガ)ツアー”という二種のツアー客に同じ客室を利用させるという奇策に打って出る。しかし集まったのは風変わりな人気作家ら、一筋縄ではいかない癖者ばかり。かつての城主、ルイ王をめぐるエピソードが紐解かれる中、様々な騒動を繰り広げる。果たして、愛と人生に迷う彼らが行き着く先とは……。
なお、この作品は演出家・田渕大輔の宝塚大劇場デビュー作となります。
スーパー・レビュー
『VIVA! FESTA!』
作・演出/中村 暁
祈り、感謝、願いなど、生きる為に大切な想いが集約され、人々が非日常の世界に集うFESTA(祭り)。リオのカーニバル、中欧・北欧に伝わるヴァルプルギスの夜、スペインの牛追い祭りや日本のYOSAKOIソーラン祭りなど、世界各地のFESTAをテーマにしたスーパー・レビュー。宙組のパワー漲る数々の場面をお届け致します。朝夏まなとを中心とした宙組のFESTAに、ようこそ!
浅田次郎……?
何故?
とりあえず、首をかしげました。
まあ、冴えないおっさんリーマン主人公の『Shall we ダンス?』を舞台化しちゃったんだから、おっさん向け小説でも大丈夫なのか……と思いつつ演出家名を確認する。
田渕先生……?
だ、大丈夫か??
途端わきあがる不安。
わたし的2015年上演公演ワースト作品の演出家!ですがな。
小柳タンを持って来れなかったのか……この題材なら、せめて。『Shall we ダンス?』や『ルパン三世』を舞台化した実績のある小柳タンならまだなんとか、期待も持てたんだが……。
田渕せんせも原作モノなら大丈夫なのかなあ?
や、原作は存じません。
浅田次郎氏の読者対象から、わたしはきっとはずれているだろう自覚があるため、今までノータッチで生きてきました。
知らないくせにイメージだけで不安を語るのはひどいですが、今のところ不安です、すみません。
タカラヅカと現代日本は、いちばん食い合わせの悪いジャンルっすよ……。
無知ゆえ、タイトルだけ見て「またみりおんタイトルロール? すごくない?」と思って、次に原作者名見て「あ、チガウっぽい」と気づき、解説読んでさらに首かしげた次第。
しかもショーが中村A……。
『エリザベート』で勢いづく宙組に、どうしてさらに勢いづく企画を与えないのか、純粋に不思議。
ここは宙組のファン層がよろこぶ題材を持ってくるべきだろうに。
なんて言いつつ、オリジナル新作2本立ては、わくわくします。
大作再演よりオリジナル新作2本立てがいい。それがタカラヅカの基本。過去の遺産消費ではなく、未来への挑戦!
楽しみにしてます。
涙を返せ(笑)。@ドン・ジュアン
2016年7月2日 タカラヅカ ちょっと待て。
『ドン・ジュアン』ドラマシティ初日、幕間。
わたしはけっこー混乱していた。
なんかすげえ大切な部分の演出がしれっと変わってますが、なんで?
隣の席のグループとか、開演前に「神奈川で4回観たわ」とか語ってたのに、幕間誰もその話してなくて、「え? なんで? まずその話しないか?? それともすでに神奈川で変更済みだったのか?」と混乱。わたしの友人は今日初見だからわかんないし……。
わたしはKAAT版『ドン・ジュアン』は初日の1回だけしか観ていません。
物理的に観られなかったの。
チケットが手に入らなくて。
DCだって、チケットは平日1回分しか持ってない。今回、まーーったく当たらなかったの。ほんとにチケットないの。見回しても、ぜんぜんないの。
だいもん人気をあなどってたわ……。『アル・カポネ』が楽に入手出来たんで、同じくらいの難度かと思っていたわ。
原田氏オリジナルの内容ナシ箇条書き偉人伝と、生田くん潤色の海外ミュージカルでは、期待度がチガウに決まってるやん。
こんな状況で土曜日のDC初日なんか観られるわけナイ……と、ダメ元でサバキ待ちしたら、えええっ、サバキ取れたー! あの大量のサバキ待ちの群れの中で、何故か声かけてもらえたー!
しかも7列目センター……自分で持ってる平日チケットよりいい席だ……。
神様ありがとう。
たぶんわたしは観られないわ、バイバイ、と言って劇場前で別れた友人たちと、劇場内で「入れたー!」と再会。
KAATで通いまくっただいもんファン友人を幕間に探して、「演出変わってるよね? KAATでもう変わってたの?」と質問。
KAATではずっと同じ演出だった。
DCで、改訂された。
ということらしい。
友人は「DVD撮りがDCだから、アレはまずい、と変更されたんじゃないですかねえ?」と言っていたけれど。
真実はわからない。
母親を犯して、それゆえに母自殺……っての、ドン・ジュアンの人格形成の根幹に関わることだと思うんだが……ここを変更ってどうなの。
母自殺設定だと信じて観ているわけだから。
オープニングからすでに泣けたし、ドン・ジュアンをめぐるひとつひとつに切なくなっていたのに……基本設定変更済み、って、わたしの涙を返せ(笑)。
2回目の楽しみじゃないですか。
結末を知った上で観ると切なさ倍増、とか、感動の質が変わる、とか。
わたしはソレを楽しんでいたわけですよ。2回目だからこその感動を味わっていたわけですよ。自分が観たモノと同じ、同じ公演の2回目観劇だと信じて。
そしたら、別モノだった。
えええ。
同じものだと思うからこその、涙だったのに。
別モノだったら、感じ方チガウっつーの。
なんか騙された(笑)。
怒っているわけじゃないが、騙された、と思う。
神奈川に通うことはできなかったし、大阪で堪能するのを楽しみにしていた……あくまでも、同じものを。
別物になるとか聞いてないよ!
こんなことなら、どんだけ無理してもKAATで複数回観ておくんだった……。整理が着かないわ、こんなの。
でも、なにはともあれ、DC初日を観られて良かった。
このショックを自分で体験出来て良かった。先入観なしで、予備知識なしで、自分で感じたいんだもの。
サバキの神様、ありがとう。チケット運の神様ありが……ん? そもそも、チケット当ててくれてれば、こんな綱渡りしてないぞ?
チケット運の神様からは、見放されたままっす。
『ドン・ジュアン』ドラマシティ初日、幕間。
わたしはけっこー混乱していた。
なんかすげえ大切な部分の演出がしれっと変わってますが、なんで?
隣の席のグループとか、開演前に「神奈川で4回観たわ」とか語ってたのに、幕間誰もその話してなくて、「え? なんで? まずその話しないか?? それともすでに神奈川で変更済みだったのか?」と混乱。わたしの友人は今日初見だからわかんないし……。
わたしはKAAT版『ドン・ジュアン』は初日の1回だけしか観ていません。
物理的に観られなかったの。
チケットが手に入らなくて。
DCだって、チケットは平日1回分しか持ってない。今回、まーーったく当たらなかったの。ほんとにチケットないの。見回しても、ぜんぜんないの。
だいもん人気をあなどってたわ……。『アル・カポネ』が楽に入手出来たんで、同じくらいの難度かと思っていたわ。
原田氏オリジナルの内容ナシ箇条書き偉人伝と、生田くん潤色の海外ミュージカルでは、期待度がチガウに決まってるやん。
こんな状況で土曜日のDC初日なんか観られるわけナイ……と、ダメ元でサバキ待ちしたら、えええっ、サバキ取れたー! あの大量のサバキ待ちの群れの中で、何故か声かけてもらえたー!
しかも7列目センター……自分で持ってる平日チケットよりいい席だ……。
神様ありがとう。
たぶんわたしは観られないわ、バイバイ、と言って劇場前で別れた友人たちと、劇場内で「入れたー!」と再会。
KAATで通いまくっただいもんファン友人を幕間に探して、「演出変わってるよね? KAATでもう変わってたの?」と質問。
KAATではずっと同じ演出だった。
DCで、改訂された。
ということらしい。
友人は「DVD撮りがDCだから、アレはまずい、と変更されたんじゃないですかねえ?」と言っていたけれど。
真実はわからない。
母親を犯して、それゆえに母自殺……っての、ドン・ジュアンの人格形成の根幹に関わることだと思うんだが……ここを変更ってどうなの。
母自殺設定だと信じて観ているわけだから。
オープニングからすでに泣けたし、ドン・ジュアンをめぐるひとつひとつに切なくなっていたのに……基本設定変更済み、って、わたしの涙を返せ(笑)。
2回目の楽しみじゃないですか。
結末を知った上で観ると切なさ倍増、とか、感動の質が変わる、とか。
わたしはソレを楽しんでいたわけですよ。2回目だからこその感動を味わっていたわけですよ。自分が観たモノと同じ、同じ公演の2回目観劇だと信じて。
そしたら、別モノだった。
えええ。
同じものだと思うからこその、涙だったのに。
別モノだったら、感じ方チガウっつーの。
なんか騙された(笑)。
怒っているわけじゃないが、騙された、と思う。
神奈川に通うことはできなかったし、大阪で堪能するのを楽しみにしていた……あくまでも、同じものを。
別物になるとか聞いてないよ!
こんなことなら、どんだけ無理してもKAATで複数回観ておくんだった……。整理が着かないわ、こんなの。
でも、なにはともあれ、DC初日を観られて良かった。
このショックを自分で体験出来て良かった。先入観なしで、予備知識なしで、自分で感じたいんだもの。
サバキの神様、ありがとう。チケット運の神様ありが……ん? そもそも、チケット当ててくれてれば、こんな綱渡りしてないぞ?
チケット運の神様からは、見放されたままっす。
変更されたけど、されてないってことで。@ドン・ジュアン
2016年7月3日 タカラヅカ 『ドン・ジュアン』DC版について。
回想場面の母@うきちゃんは、聖書を持っていたりロザリオを持っていたり、なんか日替わりでやっていたらしい。
演出している生田せんせに、答えが出ていないのかな。
細部はともかく、わかっていることは、「母の死はドン・ジュアンと無関係」ということだ。
ドン・ジュアンが母を死に追いやったわけではなく、母はなんらかの要因で亡くなり(病死と思われる)、ドン・ジュアンはそれゆえに神を信じなくなる。
えーと。
このエピソード、よくわかんない……。
そんなことぐらいでドン・ジュアンが今の人格になったの?
そんなこと、って、「母の死」を軽く扱っているわけではなくて。
母の死は大ごとですよ、もちろん。
しかし、「ドン・ジュアン」という男の存在が強烈であるがゆえに、「物語あるある」の簡単お手軽理由を取って付けられると、すごく萎えます……。
マザーファッカーは最悪、いくらなんでも行きすぎ設定、ってことでNGが出たため、仕方なく改編したとしても、今のネタは安直すぎてかえって意味がわからない。
それならいっそ、「美しい優しい母」が微笑んでくるくる踊っているだけでよかったわ。
美しい母と、しあわせそうな少年ジュアン@ひまりちゃん。
それだけで、なんの作為もなく答えもなく、ドン・ジュアン@だいもんが舞台手前でうずくまり、爪を噛んでいる。
犯さなくていいし、死ななくていい。ただしあわせなだけでいい。
……それでも、現在のジュアンの歪みっぷりから、いくらでも観客は想像の翼を広げることが出来るはずだ。
母とナニがあったの? 母はどうしたの? あの少年が何故こうなったの?
想像出来ない人は置き去りにしていいよ、そんな「誰もが平等に同じ答えを得られるように導いてくれないなんて駄作だ」てな姿勢の人は放置してヨシ。それぞれが自分の身の丈に合った範囲で楽しめばいい、受け取ればいい。そういう作品でしょコレ。
DC初日を観て「整理が着かない」と書いた。
でもわたしはすぐに、投げ出した。
どう考えても、KAAT版が正しいじゃん?
企画からKAAT初日まで「母自殺」版で練られてきて、丸1ヶ月かけてお稽古して、KAAT千秋楽まで舞台上で熟成されてきたんでしょう?
それを変更したのは、なにかしらアクシデントがあったからよね?
最初から「DCでは演出変更します」と2パターンの芝居を作り、2パターンのお稽古をしてきたわけじゃないよね? だったらDC初日から母の芝居が日替わりで試行錯誤中になるわけないもん。
急遽変えざるを得なくなった。しかも、あまりに急すぎるから決定稿がDC初日に間に合わなかった。幕開いてからいろいろ試すしかないほどに。……という想像をしてしまう。この迷走ぶり。
どう考えても、正しいのはKAAT版じゃん。
劇団のおえらいさんとかスポンサー筋とか、どこから変更指示が入ったのかは知らないが。
たとえ原作サイドからの変更指示だったとしても、KAAT版を正解だと思う。
原作は原作でしかなく、宝塚歌劇団で上演が決まった段階で、原作とは別モノだからだ。や、出演者全員女性、ってだけで、別モノ必至でしょ。
母自殺、マザーファッカーを必要不可欠な要因として、この物語は構築された。
すべての展開、感情、バランスは、それゆえに。
原作者だろうと運営側だろうとスポンサーだろうと、作品に口出しすること自体は仕方ないことだし、してもいいと思うよ。
それによって変更されるのは、残念だけど、商業社会にはままあること。どんなに阿呆な改悪指示であったとしても、だ。
クリエイターは口をつぐんで、自作にハサミを入れる。「スポンサーに口出しされたから、変更を余儀なくされました。とても不本意です」とは言えない。言ってはいけない。ソレも含めて「仕事」だからだ。
生田くんも劇団も、変更理由の公式アナウンスはしないだろう。
KAAT版はソフト化されないらしいし、「なかったこと」にされるのだろう。
でも、「変更され前の、本来の作品」を観た者が、「変更される前の作品を観て感じたこと」を「肯」としてもいいはずだ。
DC版を観て「え、なにコレわからない」と思った。
そしてすぐに、解決した。
見なかったことにしよう。
回想シーンは、KAAT版のままってことで。
ドン・ジュアンの後ろで繰り広げられているのは、「究極の悪徳」ということで。
ごめんね、うきちゃん、ひまりちゃん。
熱演はちゃんと見ているよ。
でも、「物語」としては別なの。
これは観客の特権。
フィクションを好きに受け取り、咀嚼する。
回想場面の母@うきちゃんは、聖書を持っていたりロザリオを持っていたり、なんか日替わりでやっていたらしい。
演出している生田せんせに、答えが出ていないのかな。
細部はともかく、わかっていることは、「母の死はドン・ジュアンと無関係」ということだ。
ドン・ジュアンが母を死に追いやったわけではなく、母はなんらかの要因で亡くなり(病死と思われる)、ドン・ジュアンはそれゆえに神を信じなくなる。
えーと。
このエピソード、よくわかんない……。
そんなことぐらいでドン・ジュアンが今の人格になったの?
そんなこと、って、「母の死」を軽く扱っているわけではなくて。
母の死は大ごとですよ、もちろん。
しかし、「ドン・ジュアン」という男の存在が強烈であるがゆえに、「物語あるある」の簡単お手軽理由を取って付けられると、すごく萎えます……。
マザーファッカーは最悪、いくらなんでも行きすぎ設定、ってことでNGが出たため、仕方なく改編したとしても、今のネタは安直すぎてかえって意味がわからない。
それならいっそ、「美しい優しい母」が微笑んでくるくる踊っているだけでよかったわ。
美しい母と、しあわせそうな少年ジュアン@ひまりちゃん。
それだけで、なんの作為もなく答えもなく、ドン・ジュアン@だいもんが舞台手前でうずくまり、爪を噛んでいる。
犯さなくていいし、死ななくていい。ただしあわせなだけでいい。
……それでも、現在のジュアンの歪みっぷりから、いくらでも観客は想像の翼を広げることが出来るはずだ。
母とナニがあったの? 母はどうしたの? あの少年が何故こうなったの?
想像出来ない人は置き去りにしていいよ、そんな「誰もが平等に同じ答えを得られるように導いてくれないなんて駄作だ」てな姿勢の人は放置してヨシ。それぞれが自分の身の丈に合った範囲で楽しめばいい、受け取ればいい。そういう作品でしょコレ。
DC初日を観て「整理が着かない」と書いた。
でもわたしはすぐに、投げ出した。
どう考えても、KAAT版が正しいじゃん?
企画からKAAT初日まで「母自殺」版で練られてきて、丸1ヶ月かけてお稽古して、KAAT千秋楽まで舞台上で熟成されてきたんでしょう?
それを変更したのは、なにかしらアクシデントがあったからよね?
最初から「DCでは演出変更します」と2パターンの芝居を作り、2パターンのお稽古をしてきたわけじゃないよね? だったらDC初日から母の芝居が日替わりで試行錯誤中になるわけないもん。
急遽変えざるを得なくなった。しかも、あまりに急すぎるから決定稿がDC初日に間に合わなかった。幕開いてからいろいろ試すしかないほどに。……という想像をしてしまう。この迷走ぶり。
どう考えても、正しいのはKAAT版じゃん。
劇団のおえらいさんとかスポンサー筋とか、どこから変更指示が入ったのかは知らないが。
たとえ原作サイドからの変更指示だったとしても、KAAT版を正解だと思う。
原作は原作でしかなく、宝塚歌劇団で上演が決まった段階で、原作とは別モノだからだ。や、出演者全員女性、ってだけで、別モノ必至でしょ。
母自殺、マザーファッカーを必要不可欠な要因として、この物語は構築された。
すべての展開、感情、バランスは、それゆえに。
原作者だろうと運営側だろうとスポンサーだろうと、作品に口出しすること自体は仕方ないことだし、してもいいと思うよ。
それによって変更されるのは、残念だけど、商業社会にはままあること。どんなに阿呆な改悪指示であったとしても、だ。
クリエイターは口をつぐんで、自作にハサミを入れる。「スポンサーに口出しされたから、変更を余儀なくされました。とても不本意です」とは言えない。言ってはいけない。ソレも含めて「仕事」だからだ。
生田くんも劇団も、変更理由の公式アナウンスはしないだろう。
KAAT版はソフト化されないらしいし、「なかったこと」にされるのだろう。
でも、「変更され前の、本来の作品」を観た者が、「変更される前の作品を観て感じたこと」を「肯」としてもいいはずだ。
DC版を観て「え、なにコレわからない」と思った。
そしてすぐに、解決した。
見なかったことにしよう。
回想シーンは、KAAT版のままってことで。
ドン・ジュアンの後ろで繰り広げられているのは、「究極の悪徳」ということで。
ごめんね、うきちゃん、ひまりちゃん。
熱演はちゃんと見ているよ。
でも、「物語」としては別なの。
これは観客の特権。
フィクションを好きに受け取り、咀嚼する。
はじめての恋だから(笑)。@ドン・ジュアン
2016年7月4日 タカラヅカ 『ドン・ジュアン』DC版を観て。
うれしい驚きは、咲ちゃんがうまくなっている! でした。
KAAT初日に観て、ドン・カルロ@咲ちゃんが「足りない」と思った。
歌声も演技力も存在感も。
ああ、ひとり経験不足の新人が板の上にいるな。そう思えた。
なまじ、周囲がうますぎるから。エマさんや圭子ねーさまと絡むんだもの、そりゃ不利だわ。
咲ちゃん単体でいる分には「弱いな」「歌残念だな」で済んだけど、ドン・ジュアン@だいもんと対峙すると、その色の薄さゆえに存在がかすみ、吹っ飛ばされる。
「悪の華」とか、同等の力が必要な場面で、ドン・ジュアンの独壇場になっている。
それだけドン・ジュアンが圧倒的な存在だという演出、と受け取ることも出来るので、いいっちゃーいいんだが。
わたしは、カルロにもがんばってほしかった。
カルロはしどころのナイ役……に見えるけど、そうしているのは役者の問題だ。
本当は、すごくオイシイ役だ。……ベンヴォーリオ好きのわたしは、ドン・カルロをただの脇役に下げてしまう咲ちゃんに肩を落としていた。ベンヴォーリオだって、演じる人次第でおいしくもつまらなくもなる……演者の裁量に任された部分の大きな役なんだよ。
だから、KAAT公演を経て、DCで咲ちゃんカルロが見違える出来になっていることに、感動した。
歌えている。
声が出ている。
だいもんのうるさすぎる芸風に、暴力的な圧に、真っ向から対抗している……!
存在を、打ち出している。
そうなると、咲ちゃんは強い。
だって、美しいからだ。
輪郭や色の薄い、半透明人だったときは目に付かなかった、姿の美しさが力を持つ。
コスチューム似合うわー、かっこいいわー。
ただちょっと、気になる点。というか、え、それはどうなの?とびびった点。
前は台詞のない傍観しているときなどに、「抜け」ているのが気になった。役がカラダに入ってないんだな、と思えた。
今はそれはない……んだと思う。ベンヴォーリオ好きのわたしは、ベンヴォーリオ的役割の役はちょー好み。カルロ役だけでなく、どんな作品でも積極的に眺める。目で追う。だから、ただのモブにまざっちゃっているときのカルロも観ていたけれど、今回は「抜け」ているとは思わなかった。
でも。
その傍観しているときのカルロ……ドン・ジュアンを「恋する目」で見てますがな……、そ、それってどうなの? いいの?
切ない、恋に身を焦がす瞳。
えええ。
ちょっと待てカルロ、立ち位置、立ち位置!
そりゃわたしは、カルロ→ジュアンで腐った考察をしていますが、だからってそんな、中の人にソレは求めてないんですが。
公式が最大手とか、ヅカではそんなんシャレならん……(笑)。
たぶん、咲ちゃんのスキルの問題なんだと思う。
ドン・ジュアンへの友情を表すのに、……強い、強い、屈折した愛情を表すのに、他に表現方法を持たないんだと思う。
もしくは、咲ちゃん自身の感情が出てしまっているんだと思う。「男性」を相手に愛を示すと、男役でも役でもなく、女の子の咲ちゃんが出てしまうとか。「女の子」「娘役」への愛情表現は10年かけて学んできたけど、男相手ははじめてだもんね……。
ある意味「抜け」てるのか……? でも、キモチは確実に入った状態だからなあ。
このカルロ、ドン・ジュアンに恋してますやん……。
なんかもう、どっひゃーー!というか、ギャフンというか、いたたまれなくなりました……。
イザベル@圭子ねーさまに対するときも、同族愛と嫌悪がビシバシ伝わってきて、観ていてびびる。
咲ちゃん……おもしろいわ。
こんな風に、演じている役で「入り込みすぎておかしくなっている」感を、咲ちゃんに感じたことがなかった。
咲ちゃん自身、ブレーキングがうまくいかなくて、とまどっている感じ。
ただ熱量を上げればいいわけじゃない。ピントを絞り、一点に集中しなければならない、それが高難度、ずれるとぼやける。
焦点を絞るあまり、他が見えなくなってる感じ? それじゃ行きすぎてるよ、やばいよ。持てあます、うろたえる、見失う。
時折泣きそうに心許なく見えるカルロが、すっげー愛しい。
いっそ女なら、泣き崩れることも、恨みを口にすることも出来たのに。
男だから、ひとり立ち、留まって。どうすることもできず、ドン・ジュアンを見つめていることしか出来ない。
イザベルがカルロに毒を吐くのがわかるわー。同じ穴の狢のくせに、そうでないような口ぶりで、でも「同じ目」をして寄りかかってこられたら、振り払いたくもなるわ。うぜえ(笑)。
このへん、カルロに「男のずるさ」を感じる。
エルヴィラ@くらっちにやさしいのも、シンパシーゆえよね。見ていられないんだよね、自分自身を見るようで。
せっかくジュアンが真実の愛に目覚め、たったひとりの女性を愛すると言っているのに、マリア@みちるちゃんをアタマから認めないのは、ジュアンへの恋慕ゆえよね。
ラファエル@ひとこが襲いかかってきたときに、ドン・ジュアンをかばって、あったりまえに剣を抜いて前に出るんですよ。背中にジュアンをかばうんですよ!
え、なに、ナイトなの、あなたジュアンのナイトなの、ジュアンは姫君なの?!
いや、もお、カルロがいじらしすぎて、涙で前が見えません(笑)。
かんっぺきに片想いだもんね。報われることなんて1ミリたりともなさそうだもんね。そしてそれをカルロ自身知ってるもんね。「友人と思われているかどうか……(自嘲)」だしね。
あー、カルロ大好きだー。
うれしい驚きは、咲ちゃんがうまくなっている! でした。
KAAT初日に観て、ドン・カルロ@咲ちゃんが「足りない」と思った。
歌声も演技力も存在感も。
ああ、ひとり経験不足の新人が板の上にいるな。そう思えた。
なまじ、周囲がうますぎるから。エマさんや圭子ねーさまと絡むんだもの、そりゃ不利だわ。
咲ちゃん単体でいる分には「弱いな」「歌残念だな」で済んだけど、ドン・ジュアン@だいもんと対峙すると、その色の薄さゆえに存在がかすみ、吹っ飛ばされる。
「悪の華」とか、同等の力が必要な場面で、ドン・ジュアンの独壇場になっている。
それだけドン・ジュアンが圧倒的な存在だという演出、と受け取ることも出来るので、いいっちゃーいいんだが。
わたしは、カルロにもがんばってほしかった。
カルロはしどころのナイ役……に見えるけど、そうしているのは役者の問題だ。
本当は、すごくオイシイ役だ。……ベンヴォーリオ好きのわたしは、ドン・カルロをただの脇役に下げてしまう咲ちゃんに肩を落としていた。ベンヴォーリオだって、演じる人次第でおいしくもつまらなくもなる……演者の裁量に任された部分の大きな役なんだよ。
だから、KAAT公演を経て、DCで咲ちゃんカルロが見違える出来になっていることに、感動した。
歌えている。
声が出ている。
だいもんのうるさすぎる芸風に、暴力的な圧に、真っ向から対抗している……!
存在を、打ち出している。
そうなると、咲ちゃんは強い。
だって、美しいからだ。
輪郭や色の薄い、半透明人だったときは目に付かなかった、姿の美しさが力を持つ。
コスチューム似合うわー、かっこいいわー。
ただちょっと、気になる点。というか、え、それはどうなの?とびびった点。
前は台詞のない傍観しているときなどに、「抜け」ているのが気になった。役がカラダに入ってないんだな、と思えた。
今はそれはない……んだと思う。ベンヴォーリオ好きのわたしは、ベンヴォーリオ的役割の役はちょー好み。カルロ役だけでなく、どんな作品でも積極的に眺める。目で追う。だから、ただのモブにまざっちゃっているときのカルロも観ていたけれど、今回は「抜け」ているとは思わなかった。
でも。
その傍観しているときのカルロ……ドン・ジュアンを「恋する目」で見てますがな……、そ、それってどうなの? いいの?
切ない、恋に身を焦がす瞳。
えええ。
ちょっと待てカルロ、立ち位置、立ち位置!
そりゃわたしは、カルロ→ジュアンで腐った考察をしていますが、だからってそんな、中の人にソレは求めてないんですが。
公式が最大手とか、ヅカではそんなんシャレならん……(笑)。
たぶん、咲ちゃんのスキルの問題なんだと思う。
ドン・ジュアンへの友情を表すのに、……強い、強い、屈折した愛情を表すのに、他に表現方法を持たないんだと思う。
もしくは、咲ちゃん自身の感情が出てしまっているんだと思う。「男性」を相手に愛を示すと、男役でも役でもなく、女の子の咲ちゃんが出てしまうとか。「女の子」「娘役」への愛情表現は10年かけて学んできたけど、男相手ははじめてだもんね……。
ある意味「抜け」てるのか……? でも、キモチは確実に入った状態だからなあ。
このカルロ、ドン・ジュアンに恋してますやん……。
なんかもう、どっひゃーー!というか、ギャフンというか、いたたまれなくなりました……。
イザベル@圭子ねーさまに対するときも、同族愛と嫌悪がビシバシ伝わってきて、観ていてびびる。
咲ちゃん……おもしろいわ。
こんな風に、演じている役で「入り込みすぎておかしくなっている」感を、咲ちゃんに感じたことがなかった。
咲ちゃん自身、ブレーキングがうまくいかなくて、とまどっている感じ。
ただ熱量を上げればいいわけじゃない。ピントを絞り、一点に集中しなければならない、それが高難度、ずれるとぼやける。
焦点を絞るあまり、他が見えなくなってる感じ? それじゃ行きすぎてるよ、やばいよ。持てあます、うろたえる、見失う。
時折泣きそうに心許なく見えるカルロが、すっげー愛しい。
いっそ女なら、泣き崩れることも、恨みを口にすることも出来たのに。
男だから、ひとり立ち、留まって。どうすることもできず、ドン・ジュアンを見つめていることしか出来ない。
イザベルがカルロに毒を吐くのがわかるわー。同じ穴の狢のくせに、そうでないような口ぶりで、でも「同じ目」をして寄りかかってこられたら、振り払いたくもなるわ。うぜえ(笑)。
このへん、カルロに「男のずるさ」を感じる。
エルヴィラ@くらっちにやさしいのも、シンパシーゆえよね。見ていられないんだよね、自分自身を見るようで。
せっかくジュアンが真実の愛に目覚め、たったひとりの女性を愛すると言っているのに、マリア@みちるちゃんをアタマから認めないのは、ジュアンへの恋慕ゆえよね。
ラファエル@ひとこが襲いかかってきたときに、ドン・ジュアンをかばって、あったりまえに剣を抜いて前に出るんですよ。背中にジュアンをかばうんですよ!
え、なに、ナイトなの、あなたジュアンのナイトなの、ジュアンは姫君なの?!
いや、もお、カルロがいじらしすぎて、涙で前が見えません(笑)。
かんっぺきに片想いだもんね。報われることなんて1ミリたりともなさそうだもんね。そしてそれをカルロ自身知ってるもんね。「友人と思われているかどうか……(自嘲)」だしね。
あー、カルロ大好きだー。
そして世界にヒビが入る。@ドン・ジュアン
2016年7月5日 タカラヅカ だいもんは相手役を選ばない男だと思っていた。
だいもんさんの中の人のことは知りません。舞台上のことっす。
見た目には体格とか映りとかいろいろあると思う。だいもん小さいから、長身の娘役とは合わないだろうし。
でも、芸風としては、誰でも合うと思っていた。トドロキとかトウコとかがそうであるように「男」としての技術が確定しているから、相手がはるかに年上でも年下でも、ノミの夫婦になろうとも、なんでもどんとこい!だと思っていた。
合わない人って、いるんだな……。
マジで、考えたことがなかった。
ヒロインするほどの立場の娘役スターさんなら、大抵ある程度の実力も美貌もあるのが当たり前だし。
娘役は男役より旬も出来上がりも早いから、学年関係なくカタチにはなっているものだし。
だからほんと、考えてなかった。
『ドン・ジュアン』のヒロイン、みちるちゃんもまた、ふつうにかわいくてうまい娘役さんだ。
ふつうにかわいくてうまい。
そう思っていた。
いや、ふつうよりうまいと思っていた。
『るろうに剣心』の弥彦が、とてもうまかったから。かわいかったから。
新公ヒロイン姿はそれほどでもなかったけれど、1回きりの新公より、東西2ヶ月通して上演し続ける本公演でかわいくてうまい方がよっぽど重要。よっぽど尊い。
一定以上のスキルを持ち、本公演の大役と新公ヒロを重ね、着実に経験値も上げている。
それで十分じゃん? なにを不安に思う必要がある?
だから、なんも考えてなかった。
『ドン・ジュアン』を、観るまでは。
すでに書いた通り、KAAT初日のみちるちゃんの出来には首をかしげたけれど、「まだ初日だし」と思った。
もっとも経験の浅い下級生娘役ちゃんだもの、ベテランさんたちと比較して足りてないのは当たり前。初日で判断するものではないわ。
そして、DCにて。
KAAT初日同じように「足りない」と思った咲ちゃんが、見事に成長していた。いいものを見せてくれた。
それなら、期待するじゃん?
さすが神奈川で1興行打ってきたメンバーだ、この迫力、このまとまり、すごいハイクオリティ。出演者の気合い半端ナイ、成長半端ナイ。
よーし、このまま未曾有の感動へ突き進むぞおーー!
えーと。
マリア@みちるちゃん……?
何故ひとりだけ、成長してないんだ……?
盛大に、水を差された。
盛り上がるぞおーー! と振り上げた心の拳が、虚しく宙を切る。
高揚したカラダに、ばっしゃーん、と冷水をぶっかけられた。
あ、あれ?
ナニが起こったかわからない。
わたし今、すごく興奮して、感動して、盛り上がって……?
混乱。
ほら、KAAT初日感想でわくわくと書いたじゃないですか。
次々と実力者が歌い出す。この人も歌ウマ、この人も歌ウマ、なんなのこれすごい、ついに主役が歌い出した、これがまためちゃ歌ウマだーー!! えええ、すごいーー!!
興奮が連鎖し、拡大しているわけですよ。
次から次へと実力者が登場し、世界を何倍にも深めていく。
なのに。
この世界に突然、別の世界の人が混ざってくるんですわ。
『ベルばら』の劇画界に、『ちびまる子ちゃん』キャラが現れたような肩すかし感。
しかも、ヒロインとかいう……。
えええ。
だいもんの歌声が盛り上がる、うわああすごい……っ、と興奮したところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
びっくりして、素に戻る。
のめりこんでいたのに、現実に戻される。
だいもんがまたぶわーっと盛り上げる。うわあああ、気持ちいい……っ、と思ったところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
びっくりして、素に戻る。
現実に、引き戻される。
そのくり返し。
つ、つらい……っ。
なんだこりゃ。
この実力の差はなんなの。
ミュージカル俳優たちの舞台に、事務所だかスポンサーだかの都合で、ひとりだけテレビアイドルが出ている感じ。ひとりだけ、明らかに異質。
しかもこの場違いアイドルさん、ヒロイン役だし。
きついわ……。
歌唱力がない分、天才的な芝居をするとか。
あるいは、絶世の美女だとか。
そういうこともなく、「こどもっぽくかわいい」だけの女の子が、ひとりだけレベルの低い歌を歌い、色の違う芝居をしている、という現実。
うわーん。
みちるちゃんも、この公演でなければ別に問題ない人だと思う。
ただ、今回ばかりはミスキャストだ。
これだけ公演数重ねても成長しないってことは、彼女の許容量を超えた役割を与えられてしまっているのだろう。
ヒロインがどうであれ、だいもんは誰でも合うだろうし、誰でも実力で引っ張り上げてくれると思ってた。安心してた。
そんなわけじゃ、ないんだね。
誰でもいいわけじゃない、合わない子がいるんだ。
最低限、「ここまでは歌える」というレベルが必要なんだ。
「どんなに相手役が難アリでも、本当に素晴らしい役者ならば観客にそんなことを感じさせないはずだ。相手役が歌うたびに夢から覚めるというなら、それは主演にその程度の力しかないためだ」……という意見もあるだろう。その通りなのかもしれない。
「その程度の主演」でしかないとしてもだ。ヒロインに足を引っ張られていい理由にはならん。
むしろ、だいもんが「その程度」なら、彼を盛り立てられるヒロインを付けてくれ、と思う。
だいもんどうこうというより、ひとえに「わたしが」がっかりした。
わたしが、気持ちよくいたのに。もっと気持ちよくなりたかったのに。
水を差されて、落胆した。
別に、みちるちゃん個人に対し、どうこうは思わない。他の作品なら、たとえだいもん主演でも問題なかったろうと思う。ここまで、「歌」に力のある作品でさえなければ。『アル・カポネ』のヒロインは、音痴と定評のあるせしこだったくらいだし。
縣くんがひとりヘタでも作品は壊さない。彼の役割は少ないからだ。咲ちゃんがヘタだった場合も、カルロ役はドン・ジュアンに吹っ飛ばされて色を失うだけだからなんとでもなる。ドン・ジュアンがカルロを軽んじているから。
でもマリアは。この役だけは、ヘタな人は務まらない。ドン・ジュアンが人生を変えることになる役、作品のキーだ。そこがもっとも力のない役者だと、作品にヒビが入る。
わたしは、ヒビの入っていない『ドン・ジュアン』を観たかった。
このヒビごと、『ドン・ジュアン』だと思っているけど。
運が悪かった。
みちるちゃんにとっても、わたしにとっても。
ただもう、残念だ。
ヒロインに、こんなにストレスを感じることになるなんて。
だいもんさんの中の人のことは知りません。舞台上のことっす。
見た目には体格とか映りとかいろいろあると思う。だいもん小さいから、長身の娘役とは合わないだろうし。
でも、芸風としては、誰でも合うと思っていた。トドロキとかトウコとかがそうであるように「男」としての技術が確定しているから、相手がはるかに年上でも年下でも、ノミの夫婦になろうとも、なんでもどんとこい!だと思っていた。
合わない人って、いるんだな……。
マジで、考えたことがなかった。
ヒロインするほどの立場の娘役スターさんなら、大抵ある程度の実力も美貌もあるのが当たり前だし。
娘役は男役より旬も出来上がりも早いから、学年関係なくカタチにはなっているものだし。
だからほんと、考えてなかった。
『ドン・ジュアン』のヒロイン、みちるちゃんもまた、ふつうにかわいくてうまい娘役さんだ。
ふつうにかわいくてうまい。
そう思っていた。
いや、ふつうよりうまいと思っていた。
『るろうに剣心』の弥彦が、とてもうまかったから。かわいかったから。
新公ヒロイン姿はそれほどでもなかったけれど、1回きりの新公より、東西2ヶ月通して上演し続ける本公演でかわいくてうまい方がよっぽど重要。よっぽど尊い。
一定以上のスキルを持ち、本公演の大役と新公ヒロを重ね、着実に経験値も上げている。
それで十分じゃん? なにを不安に思う必要がある?
だから、なんも考えてなかった。
『ドン・ジュアン』を、観るまでは。
すでに書いた通り、KAAT初日のみちるちゃんの出来には首をかしげたけれど、「まだ初日だし」と思った。
もっとも経験の浅い下級生娘役ちゃんだもの、ベテランさんたちと比較して足りてないのは当たり前。初日で判断するものではないわ。
そして、DCにて。
KAAT初日同じように「足りない」と思った咲ちゃんが、見事に成長していた。いいものを見せてくれた。
それなら、期待するじゃん?
さすが神奈川で1興行打ってきたメンバーだ、この迫力、このまとまり、すごいハイクオリティ。出演者の気合い半端ナイ、成長半端ナイ。
よーし、このまま未曾有の感動へ突き進むぞおーー!
えーと。
マリア@みちるちゃん……?
何故ひとりだけ、成長してないんだ……?
盛大に、水を差された。
盛り上がるぞおーー! と振り上げた心の拳が、虚しく宙を切る。
高揚したカラダに、ばっしゃーん、と冷水をぶっかけられた。
あ、あれ?
ナニが起こったかわからない。
わたし今、すごく興奮して、感動して、盛り上がって……?
混乱。
ほら、KAAT初日感想でわくわくと書いたじゃないですか。
次々と実力者が歌い出す。この人も歌ウマ、この人も歌ウマ、なんなのこれすごい、ついに主役が歌い出した、これがまためちゃ歌ウマだーー!! えええ、すごいーー!!
興奮が連鎖し、拡大しているわけですよ。
次から次へと実力者が登場し、世界を何倍にも深めていく。
なのに。
この世界に突然、別の世界の人が混ざってくるんですわ。
『ベルばら』の劇画界に、『ちびまる子ちゃん』キャラが現れたような肩すかし感。
しかも、ヒロインとかいう……。
えええ。
だいもんの歌声が盛り上がる、うわああすごい……っ、と興奮したところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
びっくりして、素に戻る。
のめりこんでいたのに、現実に戻される。
だいもんがまたぶわーっと盛り上げる。うわあああ、気持ちいい……っ、と思ったところに、素人っぽい歌声が割り込む。え……っ。びっくりする。
びっくりして、素に戻る。
現実に、引き戻される。
そのくり返し。
つ、つらい……っ。
なんだこりゃ。
この実力の差はなんなの。
ミュージカル俳優たちの舞台に、事務所だかスポンサーだかの都合で、ひとりだけテレビアイドルが出ている感じ。ひとりだけ、明らかに異質。
しかもこの場違いアイドルさん、ヒロイン役だし。
きついわ……。
歌唱力がない分、天才的な芝居をするとか。
あるいは、絶世の美女だとか。
そういうこともなく、「こどもっぽくかわいい」だけの女の子が、ひとりだけレベルの低い歌を歌い、色の違う芝居をしている、という現実。
うわーん。
みちるちゃんも、この公演でなければ別に問題ない人だと思う。
ただ、今回ばかりはミスキャストだ。
これだけ公演数重ねても成長しないってことは、彼女の許容量を超えた役割を与えられてしまっているのだろう。
ヒロインがどうであれ、だいもんは誰でも合うだろうし、誰でも実力で引っ張り上げてくれると思ってた。安心してた。
そんなわけじゃ、ないんだね。
誰でもいいわけじゃない、合わない子がいるんだ。
最低限、「ここまでは歌える」というレベルが必要なんだ。
「どんなに相手役が難アリでも、本当に素晴らしい役者ならば観客にそんなことを感じさせないはずだ。相手役が歌うたびに夢から覚めるというなら、それは主演にその程度の力しかないためだ」……という意見もあるだろう。その通りなのかもしれない。
「その程度の主演」でしかないとしてもだ。ヒロインに足を引っ張られていい理由にはならん。
むしろ、だいもんが「その程度」なら、彼を盛り立てられるヒロインを付けてくれ、と思う。
だいもんどうこうというより、ひとえに「わたしが」がっかりした。
わたしが、気持ちよくいたのに。もっと気持ちよくなりたかったのに。
水を差されて、落胆した。
別に、みちるちゃん個人に対し、どうこうは思わない。他の作品なら、たとえだいもん主演でも問題なかったろうと思う。ここまで、「歌」に力のある作品でさえなければ。『アル・カポネ』のヒロインは、音痴と定評のあるせしこだったくらいだし。
縣くんがひとりヘタでも作品は壊さない。彼の役割は少ないからだ。咲ちゃんがヘタだった場合も、カルロ役はドン・ジュアンに吹っ飛ばされて色を失うだけだからなんとでもなる。ドン・ジュアンがカルロを軽んじているから。
でもマリアは。この役だけは、ヘタな人は務まらない。ドン・ジュアンが人生を変えることになる役、作品のキーだ。そこがもっとも力のない役者だと、作品にヒビが入る。
わたしは、ヒビの入っていない『ドン・ジュアン』を観たかった。
このヒビごと、『ドン・ジュアン』だと思っているけど。
運が悪かった。
みちるちゃんにとっても、わたしにとっても。
ただもう、残念だ。
ヒロインに、こんなにストレスを感じることになるなんて。
光と闇のエルヴィラ。@ドン・ジュアン
2016年7月6日 タカラヅカ ヒロインのキャスティングにのみ不満があるのですが、かといってマリア役を誰が出来たのかというと、よくわからんです……。
くらっちならマリアが出来たのかもしれないけど、だとしたらエルヴィラどうすんだ、という問題が。
というわたしは、エルヴィラ@くらっちがすげー好みです。
だもんで、マリアでなくてよかったと思ってます。
『ドン・ジュアン』で、もっとも胸を突かれたのはエルヴィラの闇。
『銀二貫』のヒロインが好みではなかったので、最近くらっち株が落ちてたんですが、『ドン・ジュアン』を観て思い出しました。
この子が『伯爵令嬢』でわたしのハートを奪っていった子だということを。
書くだけ書いてUPできてないよーな気がするが、『伯爵令嬢』初日を観てくらっちに惚れ込みました。
彼女の「濁」を持つ芝居に。
『伯爵令嬢』の感想、どこへやったかな……たしか今はもうぶっ壊れたPCで日生劇場の幕間ロビーと帰りの新幹線で書いてたはず……ということは、サルベージできないのかな。なくしちゃった? くそー。
汚れ役だとか意地悪な役だとか、タカラヅカの娘役らしくない役だとか、そんなことはどうでもいい。
アンナ@『伯爵令嬢』には、人間の持つ濁った感情を見せてもらった。
コリンヌ@みゆちゃんを海へ突き落とすときに見せた表情に、わたしは心底ぞっとした。
それと同じだ。
エルヴィラに、ぞくっとした。
背筋が寒くなった。
ドン・ジュアン@だいもんに裏切られて、ぎゃーぎゃー言ってたり、パパ@エマさんに「なんとかしてよ!」と責任転嫁してぎゃーぎゃー言ってたり、「わたしだって悪いことできるのよ」と自棄になってストリップしたり……というのは、別に、ふつうに観ていられる。
うまいなーと思う。
このうまさだけで十分好きだと思う。
でも、彼女の本領は、闇落ちしてからだ。
ジュアンパパにクロスを投げつける、その痛み。
神と共に生き、男に騙されて神を裏切ったと嘆いてなお、神と共に生きている娘が。
クロスを、投げつけた。
もうどこか、ボタンが掛け違っている。歪みが出ている。引き返せないほど、壊れかけている。
崩れだしている。
砂の城が形を失っていくように。
彼女の危うさが、痛い。
苦しい。
「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」
そう歌う、エルヴィラとラファエル@ひとこ。
マリア@みちるちゃんに婚約者がいたと知ったドン・ジュアンが、嫉妬に狂う。はじめて愛を知り、はじめて愛に傷つく。
せっかくしあわせだったのに、エルヴィラがラファエルに告げ口したゆえに。
苦しむドン・ジュアンを見つめる、エルヴィラの瞳が痛くて。
自分を傷つけた男が傷ついている……望んだ光景がそこにあるのに、苦しそうで。ドン・ジュアンが苦しめば、同じだけ彼女も傷ついている。ドン・ジュアンが受ける罰は、そのままエルヴィラの受ける罰でもあるんだ。
傷つけることで、傷つく。悲しい姿が、そこにある。
なのに。
マリアがドン・ジュアンにすがりつくのを……なだめているのを見るなり、目にすっと闇が落ちる。
闇。暗闇。
光が消えるの。深い井戸みたいに底の見えない深淵が満ちる。
こわい。
マジ、ぞっとした。
この子、こわい。
「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」……?
答えはない。いらない。
説教はいらない。
「わたし、気づいたの。あの人を傷つけても傷は癒えないのだと。むしろ、愛する人のしあわせを祈るわ」……とか、「物語の最終章、みんないい人なんだよ」的取って付けた解答編はいらん。
闇は闇でいい。
エルヴィラは闇を持つ。
十字架も投げつけるし、復讐も企てる。他人の不幸も願う。
それでいて。
傷つく。
苦しむ。
答えも、救いもない。
それが、生きるってことだろう?
闇を持つから、神を求める。
聖人君子に救いなど必要ない。
エルヴィラだけ追った映像が欲しいな。この子の感情の動きをコンプリートしたい。
かなしいほど、リアルだ。この子の存在は。
今回は役のせいか、ところどころ顔立ちがまっつを思い出させる。普段は似てるとは思わないんだけどね。
暗い、闇系の役だと彷彿とするのか(笑)。
でも、だからこそ声でびびる。女の子だーー。
エルヴィラ好きだ。
『Crossroad』のヘレナ@あすかを好きだった感覚を思い出す。ヘレナの孤独な叫びを文章化したいと切望した、あの感覚。
エルヴィラの物語を文章化できたら、楽しいだろうなあ。とことん幸福に世界へ没入出来るだろう。
観るのでも書くのでも、その物語世界へ……「異世界」へ入り込む、それこそが快感だもんな。
(だから、そのトリップに水を差して現実に引き戻す人は苦手)
エルヴィラを見て思う。
神を裏切り、否定してなお。
この子は結局、神と共に生きていくんだろう。
闇があるからこそ、そこに光がある。
くらっちならマリアが出来たのかもしれないけど、だとしたらエルヴィラどうすんだ、という問題が。
というわたしは、エルヴィラ@くらっちがすげー好みです。
だもんで、マリアでなくてよかったと思ってます。
『ドン・ジュアン』で、もっとも胸を突かれたのはエルヴィラの闇。
『銀二貫』のヒロインが好みではなかったので、最近くらっち株が落ちてたんですが、『ドン・ジュアン』を観て思い出しました。
この子が『伯爵令嬢』でわたしのハートを奪っていった子だということを。
書くだけ書いてUPできてないよーな気がするが、『伯爵令嬢』初日を観てくらっちに惚れ込みました。
彼女の「濁」を持つ芝居に。
『伯爵令嬢』の感想、どこへやったかな……たしか今はもうぶっ壊れたPCで日生劇場の幕間ロビーと帰りの新幹線で書いてたはず……ということは、サルベージできないのかな。なくしちゃった? くそー。
汚れ役だとか意地悪な役だとか、タカラヅカの娘役らしくない役だとか、そんなことはどうでもいい。
アンナ@『伯爵令嬢』には、人間の持つ濁った感情を見せてもらった。
コリンヌ@みゆちゃんを海へ突き落とすときに見せた表情に、わたしは心底ぞっとした。
それと同じだ。
エルヴィラに、ぞくっとした。
背筋が寒くなった。
ドン・ジュアン@だいもんに裏切られて、ぎゃーぎゃー言ってたり、パパ@エマさんに「なんとかしてよ!」と責任転嫁してぎゃーぎゃー言ってたり、「わたしだって悪いことできるのよ」と自棄になってストリップしたり……というのは、別に、ふつうに観ていられる。
うまいなーと思う。
このうまさだけで十分好きだと思う。
でも、彼女の本領は、闇落ちしてからだ。
ジュアンパパにクロスを投げつける、その痛み。
神と共に生き、男に騙されて神を裏切ったと嘆いてなお、神と共に生きている娘が。
クロスを、投げつけた。
もうどこか、ボタンが掛け違っている。歪みが出ている。引き返せないほど、壊れかけている。
崩れだしている。
砂の城が形を失っていくように。
彼女の危うさが、痛い。
苦しい。
「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」
そう歌う、エルヴィラとラファエル@ひとこ。
マリア@みちるちゃんに婚約者がいたと知ったドン・ジュアンが、嫉妬に狂う。はじめて愛を知り、はじめて愛に傷つく。
せっかくしあわせだったのに、エルヴィラがラファエルに告げ口したゆえに。
苦しむドン・ジュアンを見つめる、エルヴィラの瞳が痛くて。
自分を傷つけた男が傷ついている……望んだ光景がそこにあるのに、苦しそうで。ドン・ジュアンが苦しめば、同じだけ彼女も傷ついている。ドン・ジュアンが受ける罰は、そのままエルヴィラの受ける罰でもあるんだ。
傷つけることで、傷つく。悲しい姿が、そこにある。
なのに。
マリアがドン・ジュアンにすがりつくのを……なだめているのを見るなり、目にすっと闇が落ちる。
闇。暗闇。
光が消えるの。深い井戸みたいに底の見えない深淵が満ちる。
こわい。
マジ、ぞっとした。
この子、こわい。
「愛する人を傷つければ、傷はいえるのか」……?
答えはない。いらない。
説教はいらない。
「わたし、気づいたの。あの人を傷つけても傷は癒えないのだと。むしろ、愛する人のしあわせを祈るわ」……とか、「物語の最終章、みんないい人なんだよ」的取って付けた解答編はいらん。
闇は闇でいい。
エルヴィラは闇を持つ。
十字架も投げつけるし、復讐も企てる。他人の不幸も願う。
それでいて。
傷つく。
苦しむ。
答えも、救いもない。
それが、生きるってことだろう?
闇を持つから、神を求める。
聖人君子に救いなど必要ない。
エルヴィラだけ追った映像が欲しいな。この子の感情の動きをコンプリートしたい。
かなしいほど、リアルだ。この子の存在は。
今回は役のせいか、ところどころ顔立ちがまっつを思い出させる。普段は似てるとは思わないんだけどね。
暗い、闇系の役だと彷彿とするのか(笑)。
でも、だからこそ声でびびる。女の子だーー。
エルヴィラ好きだ。
『Crossroad』のヘレナ@あすかを好きだった感覚を思い出す。ヘレナの孤独な叫びを文章化したいと切望した、あの感覚。
エルヴィラの物語を文章化できたら、楽しいだろうなあ。とことん幸福に世界へ没入出来るだろう。
観るのでも書くのでも、その物語世界へ……「異世界」へ入り込む、それこそが快感だもんな。
(だから、そのトリップに水を差して現実に引き戻す人は苦手)
エルヴィラを見て思う。
神を裏切り、否定してなお。
この子は結局、神と共に生きていくんだろう。
闇があるからこそ、そこに光がある。
イマジネーション。@ドン・ジュアン
2016年7月7日 タカラヅカ 囚われるのはイヤ。
『ドン・ジュアン』が面白いのは、単純な答えならあるけれど、それを複雑に考えることが可能だからだ。
何日か前の欄に、「はじまりは、愛。そして。愛が、最愛の者を殺した。」てな一連の文章を書いた。
それはそのとき思ったこと。
『ドン・ジュアン』という物語の「答え」だとは思ってない。
つか、「答え」をわたしは求めていない。
だからまたイチから別の話。
さあ、滅びの宴をはじめよう。
愛を持たずに生まれたドン・ジュアン@だいもん。
彼が生まれ直すためには、「愛」を知らなくてはならない。
「愛」から逆算する物語。
まず、死ぬ。
愛のために。
そこを基点として、必要なモノが生まれる。
すなわち、亡霊@がおり。
死ぬために、死を運ぶモノ、死に導くモノが生まれた。
どこから? もちろん、ドン・ジュアン本人から。
亡霊はドン・ジュアンを導き、マリア@みちると出会わせる。
マリアはただの石像、いてもいなくてもいい。
要はドン・ジュアンが「愛している」と思いさえすればいい。
石像だって、抱きしめていればあたたかくなる。
亡霊がマリアを選んだ理由は、彼女が魅力的だからではまったくなく、ラファエル@ひとこという恋人がいる女だったから。
支配欲の強いラファエルは、女を取られれば激昂し、戦いを挑んでくる。だから、マリア。
亡霊が登場する布石として、わかりやすく形を取るために、騎士団長をドン・ジュアンに殺させる。そのために騎士団長の娘をドン・ジュアンに誘惑させる。
すべてはラストシーンにつなげるために、仕組まれていた。
誰が仕組んだ?
もちろん、ドン・ジュアン自身。
亡霊を生み出したのは、彼だから。
それほどに、世界は苦しかった。彼にとって。
華やかに生き、快楽と自由を満喫しているように見えて。
彼はずっと、飢えていた。
傍若無人にふるまう彼に惹かれる者が絶えないのは、彼に飢えと孤独があるから。
人は、欠けた存在だから。満ち足りたものには惹かれない。欠けた者が、欠けた者を求める。
強い生命力を放ちながら、明らかに欠けている者に、惹きつけられる。
飢えが満たされることなどないのに。
ひとりだとさみしくない。
ひとりじゃないからさみしい。
欠けて、いびつなドン・ジュアン。
母は死んだ。自殺した。
そして。
彼もまた、自ら死を選択した。
『ドン・ジュアン』が面白いのは、単純な答えならあるけれど、それを複雑に考えることが可能だからだ。
何日か前の欄に、「はじまりは、愛。そして。愛が、最愛の者を殺した。」てな一連の文章を書いた。
それはそのとき思ったこと。
『ドン・ジュアン』という物語の「答え」だとは思ってない。
つか、「答え」をわたしは求めていない。
だからまたイチから別の話。
さあ、滅びの宴をはじめよう。
愛を持たずに生まれたドン・ジュアン@だいもん。
彼が生まれ直すためには、「愛」を知らなくてはならない。
「愛」から逆算する物語。
まず、死ぬ。
愛のために。
そこを基点として、必要なモノが生まれる。
すなわち、亡霊@がおり。
死ぬために、死を運ぶモノ、死に導くモノが生まれた。
どこから? もちろん、ドン・ジュアン本人から。
亡霊はドン・ジュアンを導き、マリア@みちると出会わせる。
マリアはただの石像、いてもいなくてもいい。
要はドン・ジュアンが「愛している」と思いさえすればいい。
石像だって、抱きしめていればあたたかくなる。
亡霊がマリアを選んだ理由は、彼女が魅力的だからではまったくなく、ラファエル@ひとこという恋人がいる女だったから。
支配欲の強いラファエルは、女を取られれば激昂し、戦いを挑んでくる。だから、マリア。
亡霊が登場する布石として、わかりやすく形を取るために、騎士団長をドン・ジュアンに殺させる。そのために騎士団長の娘をドン・ジュアンに誘惑させる。
すべてはラストシーンにつなげるために、仕組まれていた。
誰が仕組んだ?
もちろん、ドン・ジュアン自身。
亡霊を生み出したのは、彼だから。
それほどに、世界は苦しかった。彼にとって。
華やかに生き、快楽と自由を満喫しているように見えて。
彼はずっと、飢えていた。
傍若無人にふるまう彼に惹かれる者が絶えないのは、彼に飢えと孤独があるから。
人は、欠けた存在だから。満ち足りたものには惹かれない。欠けた者が、欠けた者を求める。
強い生命力を放ちながら、明らかに欠けている者に、惹きつけられる。
飢えが満たされることなどないのに。
ひとりだとさみしくない。
ひとりじゃないからさみしい。
欠けて、いびつなドン・ジュアン。
母は死んだ。自殺した。
そして。
彼もまた、自ら死を選択した。
伝説は甦るのか。@2017年ラインアップ発表
2016年7月8日 タカラヅカ 2週続けてラインアップ発表キターー!
『スカピン』だああ。
ベニーの運命を変えた作品。
それまで路線外の脇役、「組ファンだけが知っている、きれいな下級生」に過ぎなかったベニーが、トップへ向かう進路の切符を手に入れた……ヅカファンをスター誕生!!の興奮状態にさせた、『THE SCARLET PIMPERNEL』初演の新人公演は、ある意味伝説。
それをベニーがトップお披露目でやる、となると、話題性抜群。
……というだけなら、誰でも考えつく。
「らんとむで『ファントム』(ダジャレ)」ぐらい、ネタとしてヅカファンの口に上がる話だ。
ネタになったとしても、本当にやるかどうかは、別問題。
ぶっちゃけ、歌唱力が。
『エリザベート』は音痴勢揃いでやってもいい演目、ってことになってるけど、『スカピン』はトップコンビと2番手までは歌ウマでなくてはならない、という縛りがある……と、されていた。初演・再演と、トップスターは歌ウマさんだし。
歌唱力不問ビジュアル重視のベニーとキサキちゃんで、再々演するだろうか……?
風ちゃんが残るならまだしも、キサキちゃんは美少女タイプで、元革命の闘士の美人女優がハマる大人の女ではないし。
2番手になるだろうことちゃんは、歌唱力はヅカでもトップクラスだが、芸風が幼くてショーヴランがハマるタイプではないし。
「伝説の新公再び」はセールスには使いやすいけれど、ヅカファンが本当に求めているモノだろうか……?
それでも、本当にやるんだ。
おおおっ。なんか、テンション上がってきたー。
『スカピン』は好きな作品です。初演厨です(笑)。
なんといっても、曲がいいの。
またあの曲が聴けるなんて、あの場面が観られるなんて、うれしいわ。
ベニーもキサキちゃんも、まずなんといっても美しいだろうし。
コスチュームものは、美しさで楽しませてもらいたいものね。
そして、ことちゃんのショーヴランが楽しみ。
幼くても、2番手ならショーヴランでしょ? ことちゃんの声で名曲の数々を聴きたい。
れおんくんは、あの役でジェンヌ人生分けたよなあ……。いろいろと伝説の詰まった公演だ。
2017年 公演ラインアップ【宝塚大劇場、東京宝塚劇場】<2017年3月~6月・星組『THE SCARLET PIMPERNEL』>
2016/07/08
7月8日(金)、2017年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、【宝塚大劇場】【東京宝塚劇場】の上演作品が決定しましたのでお知らせいたします。
星組公演
■主演・・・紅 ゆずる、綺咲 愛里
◆宝塚大劇場:2017年3月10日(金)~4月17日(月)
一般前売:2017年2月11日(土)
◆東京宝塚劇場:2017年5月5日(金)~6月11日(日)
一般前売:2017年4月2日(日)
ミュージカル
『THE SCARLET PIMPERNEL(スカーレット ピンパーネル)』
THE SCARLET PIMPERNEL
Book and Lyrics by Nan Knighton Music by Frank Wildhorn
Based on the Novel “The Scarlet Pimpernel” by Baroness Orczy
Original Broadway Production Produced by
Radio City Entertainment and Ted Forstmann
With Pierre Cossette, Bill Haber, Hallmark Entertainment and
Kathleen Raitt
潤色・演出/小池 修一郎
1997年にブロードウェイで初演後、大ヒットを記録したミュージカル「THE SCARLET PIMPERNEL」。宝塚バージョンのオリジナルを加え日本初上演した2008年の星組公演は、フランク・ワイルドホーンの名曲の数々と共に、冒険活劇としての面白さ、すれ違う夫婦の心理描写をドラマティックに描いて絶賛を博し、第16回読売演劇大賞優秀作品賞、第34回菊田一夫演劇大賞を受賞致しました。続く2010年の月組による公演も大好評を収め、その後も再演の呼び声の高い傑作ミュージカルが、7年振りに宝塚歌劇の舞台に甦ります。新トップコンビ紅ゆずると綺咲愛里を中心とした新生星組が刻む『THE SCARLET PIMPERNEL』の新たな1ページに、どうぞご期待下さい。
『スカピン』だああ。
ベニーの運命を変えた作品。
それまで路線外の脇役、「組ファンだけが知っている、きれいな下級生」に過ぎなかったベニーが、トップへ向かう進路の切符を手に入れた……ヅカファンをスター誕生!!の興奮状態にさせた、『THE SCARLET PIMPERNEL』初演の新人公演は、ある意味伝説。
それをベニーがトップお披露目でやる、となると、話題性抜群。
……というだけなら、誰でも考えつく。
「らんとむで『ファントム』(ダジャレ)」ぐらい、ネタとしてヅカファンの口に上がる話だ。
ネタになったとしても、本当にやるかどうかは、別問題。
ぶっちゃけ、歌唱力が。
『エリザベート』は音痴勢揃いでやってもいい演目、ってことになってるけど、『スカピン』はトップコンビと2番手までは歌ウマでなくてはならない、という縛りがある……と、されていた。初演・再演と、トップスターは歌ウマさんだし。
歌唱力不問ビジュアル重視のベニーとキサキちゃんで、再々演するだろうか……?
風ちゃんが残るならまだしも、キサキちゃんは美少女タイプで、元革命の闘士の美人女優がハマる大人の女ではないし。
2番手になるだろうことちゃんは、歌唱力はヅカでもトップクラスだが、芸風が幼くてショーヴランがハマるタイプではないし。
「伝説の新公再び」はセールスには使いやすいけれど、ヅカファンが本当に求めているモノだろうか……?
それでも、本当にやるんだ。
おおおっ。なんか、テンション上がってきたー。
『スカピン』は好きな作品です。初演厨です(笑)。
なんといっても、曲がいいの。
またあの曲が聴けるなんて、あの場面が観られるなんて、うれしいわ。
ベニーもキサキちゃんも、まずなんといっても美しいだろうし。
コスチュームものは、美しさで楽しませてもらいたいものね。
そして、ことちゃんのショーヴランが楽しみ。
幼くても、2番手ならショーヴランでしょ? ことちゃんの声で名曲の数々を聴きたい。
れおんくんは、あの役でジェンヌ人生分けたよなあ……。いろいろと伝説の詰まった公演だ。
脚本から見えるモノと現実に見えるモノ。@ドン・ジュアン
2016年7月9日 タカラヅカ ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。
それがわからない、のがいちばんつらい。
脚本から読み解くことは出来る。
マリアはこの時代の女性にはめずらしい、己の仕事に誇りと生き甲斐を持つ、自立した女性だったんだろう。結婚と生き甲斐を別に考えるとか、わたしたちなら当たり前のことだけど、当時の世界観では異端なのだろう。
異端ではあっても、マイナスの意味には捉えられていない。
むしろ、彼女が「特別に素晴らしい」という装飾になっている。
彼女には友人がいて、群れの中で親愛と尊敬を持って受け入れられている。
ただの異端なら、そうはならないはず。彼女の「ふつうでない」ところは、彼女の魅力として捉えられている。
プライドの高いラファエルが選んだ、ということもマリアという女性の設定を読み解く要因のひとつ。
ラファエルは、群れの中で「とびきりのいい女」だからこそマリアを選び、妻にと望んだ。
ラファエルこそ、群れの中で「とびきりのいい男」として描かれている。他の男たちが「ラファエルにはかなわない」というスタンスを取っているし、「ラファエルだからこそマリアを口説ける」「マリアのような素晴らしい女は、ふつうの男では口説けない」と思っている。
タカラヅカではよくある手法。グループの中で、「特別な立場」のキャラクタを作る。現実の友人関係で、ここまであからさまな上下関係を作り、かつ円滑であるとか、なかなかに難しいことなんじゃないかと思ったりもするけれど、ヅカはフィクションだから、手法としてアリだと思っている。
「お蝶夫人よ。今日もお美しいわ」とか「きゃあ、藤堂さんよ。ドキドキする~~」とか、周囲に言わせることで、そのキャラクタの「特別感」を表現するのね。周囲に語らせるのがいちばん手っ取り早いから。
そうやって、「素晴らしいラファエル」が、「素晴らしいマリア」を選んだ。周りは「素晴らしいふたり、自分たちとはチガウ」と拍手。
それくらい、「マリアは特別」と説明してくれてるのになあ。
いまいち、彼女の魅力がわからない……。
ふつうにかわいい女の子だけど……かわいい、だけじゃなあ。
それまで語られていた「いい女」設定も、突然石像を叩き割るエキセントリックさも、響いてこない。
てゆーか石像を叩き割るような子に見えないんだわ……そんなことをしそうにない、ふつうの地味な女の子に見える。
ファム・ファタールに見えない。
ドン・ジュアンのような歴戦のプレイボーイが、ごくふつうの女の子に恋をする、というギャップを狙っているならこのマリアでいいけれど。
設定からマリアは「ふつうの女の子」ではなさそうなので、混乱する。
なにがあれば、マリアは設定にある通りの「運命の女」になるんだろう?
圧倒的な美貌とか、圧倒的な歌唱力があれば、もちろんねじ伏せられると思う。
でも、そのどちらもない場合は、なにをどうすればいいのか、よくわからない。
みちるちゃんの芝居は、「マリア」の設定からズレを感じる。
ふつうに、わたしたちが想像する「恋する女の子」に見える。相手がドン・ジュアンではなく、クラスメイトの男の子とか、職場の先輩とか。日常の恋愛。
ドン・ジュアンは恋を知り、「ふつう」の男になった、だから「ふつうの恋愛」でいい。としても、彼らの世界の「ふつう」は現代の「ふつう」ではないはずで、クラスメイトとの恋愛になっちゃうのは、違和感。
芝居は好みの部分が大きいので、今回のみちるちゃんの芝居がわたしの好みではないということなんだろう。
弥彦@『るろうに剣心』では毎回泣かせてくれたんだから、「今回は」チガウんだろう。
最初は歌唱力のなさにストレスを感じたけれど、どうも芝居もチガウようだ、と遅まきながら気づいた。
だいもんはじめ、他の人たちに圧倒されていて、ヒロインへの違和感をまともに考え出したのが遅かった。や、考え出すのが遅い、って段階でもう、ヒロイン存在感ナッシングに気づいてなかったってことで、どんだけ「ヒロイン」として用をなしていないか、ってことだけども。
この激しい愛の物語で、ヒロインに琴線が反応しないのは、とても残念だ。
マリアがヒロインとして機能していたなら、さらに感動出来たろうに。
もったいないわー。
わたしの好みのせいだから、わたしが残念な人ってこと。
それがわからない、のがいちばんつらい。
脚本から読み解くことは出来る。
マリアはこの時代の女性にはめずらしい、己の仕事に誇りと生き甲斐を持つ、自立した女性だったんだろう。結婚と生き甲斐を別に考えるとか、わたしたちなら当たり前のことだけど、当時の世界観では異端なのだろう。
異端ではあっても、マイナスの意味には捉えられていない。
むしろ、彼女が「特別に素晴らしい」という装飾になっている。
彼女には友人がいて、群れの中で親愛と尊敬を持って受け入れられている。
ただの異端なら、そうはならないはず。彼女の「ふつうでない」ところは、彼女の魅力として捉えられている。
プライドの高いラファエルが選んだ、ということもマリアという女性の設定を読み解く要因のひとつ。
ラファエルは、群れの中で「とびきりのいい女」だからこそマリアを選び、妻にと望んだ。
ラファエルこそ、群れの中で「とびきりのいい男」として描かれている。他の男たちが「ラファエルにはかなわない」というスタンスを取っているし、「ラファエルだからこそマリアを口説ける」「マリアのような素晴らしい女は、ふつうの男では口説けない」と思っている。
タカラヅカではよくある手法。グループの中で、「特別な立場」のキャラクタを作る。現実の友人関係で、ここまであからさまな上下関係を作り、かつ円滑であるとか、なかなかに難しいことなんじゃないかと思ったりもするけれど、ヅカはフィクションだから、手法としてアリだと思っている。
「お蝶夫人よ。今日もお美しいわ」とか「きゃあ、藤堂さんよ。ドキドキする~~」とか、周囲に言わせることで、そのキャラクタの「特別感」を表現するのね。周囲に語らせるのがいちばん手っ取り早いから。
そうやって、「素晴らしいラファエル」が、「素晴らしいマリア」を選んだ。周りは「素晴らしいふたり、自分たちとはチガウ」と拍手。
それくらい、「マリアは特別」と説明してくれてるのになあ。
いまいち、彼女の魅力がわからない……。
ふつうにかわいい女の子だけど……かわいい、だけじゃなあ。
それまで語られていた「いい女」設定も、突然石像を叩き割るエキセントリックさも、響いてこない。
てゆーか石像を叩き割るような子に見えないんだわ……そんなことをしそうにない、ふつうの地味な女の子に見える。
ファム・ファタールに見えない。
ドン・ジュアンのような歴戦のプレイボーイが、ごくふつうの女の子に恋をする、というギャップを狙っているならこのマリアでいいけれど。
設定からマリアは「ふつうの女の子」ではなさそうなので、混乱する。
なにがあれば、マリアは設定にある通りの「運命の女」になるんだろう?
圧倒的な美貌とか、圧倒的な歌唱力があれば、もちろんねじ伏せられると思う。
でも、そのどちらもない場合は、なにをどうすればいいのか、よくわからない。
みちるちゃんの芝居は、「マリア」の設定からズレを感じる。
ふつうに、わたしたちが想像する「恋する女の子」に見える。相手がドン・ジュアンではなく、クラスメイトの男の子とか、職場の先輩とか。日常の恋愛。
ドン・ジュアンは恋を知り、「ふつう」の男になった、だから「ふつうの恋愛」でいい。としても、彼らの世界の「ふつう」は現代の「ふつう」ではないはずで、クラスメイトとの恋愛になっちゃうのは、違和感。
芝居は好みの部分が大きいので、今回のみちるちゃんの芝居がわたしの好みではないということなんだろう。
弥彦@『るろうに剣心』では毎回泣かせてくれたんだから、「今回は」チガウんだろう。
最初は歌唱力のなさにストレスを感じたけれど、どうも芝居もチガウようだ、と遅まきながら気づいた。
だいもんはじめ、他の人たちに圧倒されていて、ヒロインへの違和感をまともに考え出したのが遅かった。や、考え出すのが遅い、って段階でもう、ヒロイン存在感ナッシングに気づいてなかったってことで、どんだけ「ヒロイン」として用をなしていないか、ってことだけども。
この激しい愛の物語で、ヒロインに琴線が反応しないのは、とても残念だ。
マリアがヒロインとして機能していたなら、さらに感動出来たろうに。
もったいないわー。
わたしの好みのせいだから、わたしが残念な人ってこと。
最強の「マリア」を考えてみる。@ドン・ジュアン
2016年7月10日 タカラヅカ マリアがヒロインとして機能していたら、『ドン・ジュアン』はどんな物語だったか。
残念ながら、それはわからない。
だから、わたしは今あるモノだけで、考える。
ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。
……やっぱ、巷でよく言われている「亡霊の呪いです」に行き着いてしまう。
別に、マリアでなくても良かった。ちょうどいいからたまたまマリアになっただけ。
すべては亡霊に仕組まれた。
マリアだけ歌も芝居も浮いていて、作品に水を差す出来なのも、亡霊の策略。「このマリアに恋するなんておかしい」と誰もが思うように、あえてひとりだけヘタなのだ。
観客も他のキャラクタたちもすべてが「おかしい」と思っているのに、「ドン・ジュアンだけがおかしいと気づいていない」「この恋はドン・ジュアンを破滅させる」と予感させるために、あえてこのマリアなのだ。
という。
ぶっちゃけ「マリア」ってキャラ、難しいと思う。誰が演じても「なんかちがう」「なんか足りない」と思ってしまったかも?
みちるちゃんだけの問題ではなく、マリアが難しい。
ドン・ジュアンの特異性をさんざん描いたあとで、「このドン・ジュアンが恋に落ちる相手って?」とさんざんハードル上げてるんだもの。
無理やわー。
それならいっそ、「マリア」はナシにしてしまえば?
マリアという女性がそこにいる、とみんな振る舞っている。実際、舞台上にはいる。
でも、マリア役の役者はいない。
他の役者たちの演技だけで、観客が自由に「マリア」を想像するの。
それってすごいかも。楽しいかも。
誰もいない彫りかけの石像の前で、恋にとまどうドン・ジュアン。
ひとりきりのベッドの上で、ふたりの愛を歌い上げるドン・ジュアン。
や、だいもんならやれる。つか、見てみたい。
どんだけ濃いやろ……(笑)。
すべては観客に委ねられる。
理想の女性、マリア。
「存在しない」「観た人が自由にイメージする」……これほど最強のマリア像があるだろうか(笑)。
そして。
マリアとはほんとうに実在するのか。ドン・ジュアンの妄想ではないのか。亡霊の呪いではないのか。
ドン・ジュアンだけでなく、他の者もマリアが見えているようだ……ほんとうに? なにかトリックがあるのではないだろうか?
マリアの歌はナシ、どうしても必要なところはカゲソロで、「幻想? ドン・ジュアンにだけ聞こえている?」って感じにして。
どこまでが現実で、どこからが幻想?
語り部がドン・カルロならば、彼があえてマリアを語らずにいるのか……?
などなど。
すっげーいろいろ広がる!
『ドン・ジュアン』は自由に妄想出来る深さと濁りを持っている。
ヒロインが弱いからって、そこで枷を作るのはもったいない。それすらも、自由に作品を遊ぶ要素にしてしまおう。
マリアがみゆちゃんだったら、とは、考えた。
みゆちゃんだと歌はやっぱり弱かったかもしれないけれど、彼女の演技力ならどんなマリアを見せてくれただろうか、と。
わたしはみゆちゃんの「役を立体的に見せる力」を買っている。その役の生きている世界を想像させる力。脚本にあるものだけではない、行間をカタチにする力。
タカラヅカは一期一会、寿命の短いジェンヌに「次の機会」はまずない。だけどもし、いつかだいもん主演のまま『ドン・ジュアン』が再演されて、ヒロインがみゆちゃんだったら……。
トップ制度とか、ポジションとか、そういうことは今は置いておいて。
ただ、物語好きとして、見てみたい。
物語る力のある主人公とヒロインが創る、『ドン・ジュアン』という激しいファンタジーを。
残念ながら、それはわからない。
だから、わたしは今あるモノだけで、考える。
ドン・ジュアンが何故マリアを愛したのか。
……やっぱ、巷でよく言われている「亡霊の呪いです」に行き着いてしまう。
別に、マリアでなくても良かった。ちょうどいいからたまたまマリアになっただけ。
すべては亡霊に仕組まれた。
マリアだけ歌も芝居も浮いていて、作品に水を差す出来なのも、亡霊の策略。「このマリアに恋するなんておかしい」と誰もが思うように、あえてひとりだけヘタなのだ。
観客も他のキャラクタたちもすべてが「おかしい」と思っているのに、「ドン・ジュアンだけがおかしいと気づいていない」「この恋はドン・ジュアンを破滅させる」と予感させるために、あえてこのマリアなのだ。
という。
ぶっちゃけ「マリア」ってキャラ、難しいと思う。誰が演じても「なんかちがう」「なんか足りない」と思ってしまったかも?
みちるちゃんだけの問題ではなく、マリアが難しい。
ドン・ジュアンの特異性をさんざん描いたあとで、「このドン・ジュアンが恋に落ちる相手って?」とさんざんハードル上げてるんだもの。
無理やわー。
それならいっそ、「マリア」はナシにしてしまえば?
マリアという女性がそこにいる、とみんな振る舞っている。実際、舞台上にはいる。
でも、マリア役の役者はいない。
他の役者たちの演技だけで、観客が自由に「マリア」を想像するの。
それってすごいかも。楽しいかも。
誰もいない彫りかけの石像の前で、恋にとまどうドン・ジュアン。
ひとりきりのベッドの上で、ふたりの愛を歌い上げるドン・ジュアン。
や、だいもんならやれる。つか、見てみたい。
どんだけ濃いやろ……(笑)。
すべては観客に委ねられる。
理想の女性、マリア。
「存在しない」「観た人が自由にイメージする」……これほど最強のマリア像があるだろうか(笑)。
そして。
マリアとはほんとうに実在するのか。ドン・ジュアンの妄想ではないのか。亡霊の呪いではないのか。
ドン・ジュアンだけでなく、他の者もマリアが見えているようだ……ほんとうに? なにかトリックがあるのではないだろうか?
マリアの歌はナシ、どうしても必要なところはカゲソロで、「幻想? ドン・ジュアンにだけ聞こえている?」って感じにして。
どこまでが現実で、どこからが幻想?
語り部がドン・カルロならば、彼があえてマリアを語らずにいるのか……?
などなど。
すっげーいろいろ広がる!
『ドン・ジュアン』は自由に妄想出来る深さと濁りを持っている。
ヒロインが弱いからって、そこで枷を作るのはもったいない。それすらも、自由に作品を遊ぶ要素にしてしまおう。
マリアがみゆちゃんだったら、とは、考えた。
みゆちゃんだと歌はやっぱり弱かったかもしれないけれど、彼女の演技力ならどんなマリアを見せてくれただろうか、と。
わたしはみゆちゃんの「役を立体的に見せる力」を買っている。その役の生きている世界を想像させる力。脚本にあるものだけではない、行間をカタチにする力。
タカラヅカは一期一会、寿命の短いジェンヌに「次の機会」はまずない。だけどもし、いつかだいもん主演のまま『ドン・ジュアン』が再演されて、ヒロインがみゆちゃんだったら……。
トップ制度とか、ポジションとか、そういうことは今は置いておいて。
ただ、物語好きとして、見てみたい。
物語る力のある主人公とヒロインが創る、『ドン・ジュアン』という激しいファンタジーを。
キャパ不足。劇場も、わたしも。@ドン・ジュアン
2016年7月11日 タカラヅカ 『ドン・ジュアン』不満点。
翼くんに、歌がない。
えええ。
せっかくの歌重要ミュージカルで翼くんに歌ナシとか、つまんないーー!
や、単にわたしが翼くんスキーなもので。
モブでは翼くん眺めるのが常なので。
歌えるし踊れるし芝居できるし、お顔はちょいとファニーだけどスタイル良しの素敵な男の子なのになー。なんで扱い上がらないんじゃろ……と、勝手に残念に思っています。
で、翼くんと言えば死に芝居! ですよ。
わたしは彼の死ぬ芝居が大好きです。
今回も戦場場面に出てきたのを見て「これは……!」と期待を込めてロックオン、キタよキタ、来ましたよ、死に芝居!
舞台の隅っこ、ろくにライトも当たらないところで、翼くんはまた見事に死んでいきました。
撃たれてから絶命するまで、表現が細かくて「うわーー」と思う。崩れ落ちるときはすでに意識がないんだよね……生き物から物体になって、重力に引かれて身体が折れていく。
見ててこわい死に方する……リアルで、ぞっとする死に方。
……映像には残ってないんだろうなあ。いい死に方するのになあ。
翼くんの役はスガナレル。ドン・ジュアンの家の執事ポジションかな。お芝居の相手はジュアンパパのドン・ルイ@エマさん限定。たぶん、それなりの年齢の役。少なくとも小僧っこじゃない。
悪くはないけど、とくにどうとは思わない演技だったなと。
翼くん、見た目は老けてないというか、ほんとのとこ年配役は柄じゃないと思う。ひょろっとしていて小顔の「若いにーちゃん」体型なのよね。大顔小柄の「年代が主人公たちとはチガウと思われる」体型ではない。
声も低くないし、全体的に「軽い」から、彼にアテ書きしちゃうとまぬけな警官@『るろうに剣心』みたいなのになっちゃうんだと思う。
おっさん役が出来れば重宝されるけど、翼くんはどうなんだろう。新公では年寄り役ばかりだけど、それは向いているからではなくて立場的にそういう役割が回ってくるというだけだろうし。(路線ではなくて芸達者だと、管理職や専科さん役が回ってくる)
『ローマの休日』でまなはるの年配役を観て「ほんとのとこは向いてない」ことを改めて考えちゃったからなあ。や、まなはるは年寄り役をよくやっているけれど、やはりそれは「路線ではなくて芸達者だと、管理職や専科さんがやるような役が回ってくる」というだけのことで、小顔のスタイル良しさんは、ヒゲぐらいではおっさんにはならないのよね……頭身が若者なんだもん。
がおりくらい極めればいいのか……がおりさんもスタイル美形だけど、それでも年配役総ナメしてるもんな。
年寄りまで8頭身とか、とんでもないのがタカラヅカらしさではあるのだし。
今回つばさくん、役は付いているとはいえ、「タカラヅカ」的には縣くんやすわっち以下の扱いに思える。
つまり、今後立ち位置はさらに厳しくなっていくんだろう。
長くいてくれるといいな……。
ライトも当たらない舞台の隅っこで、あんだけ本気で死ぬような人だから、ほんとに舞台が好きなんだろう。
まだまだいてほしい、いてくれると思いたい。
『ドン・ジュアン』は真ん中の圧が大きすぎて、周囲を観る余裕がない。
ドン・ジュアン@だいもんから目を離せないし、離したくない。彼単体で情報量が多すぎて、受け止めるだけで精一杯。
加えて、ドン・カルロ@咲ちゃん、エルヴィラ@くらっちも、ずーっとドラマを追い続けていたいと思わせる。
そのうえ亡霊@がおりさんですよ、もうひとりのドン・ジュアンですよ。
真ん中4人がこんな重い人たちだと、ほんとに目が足りないのよ。
きれいどころがたくさん出演しているのに、モブだろうがなんだろうが眺めたい人たちもいるのに、ろくに意識を向けられない。
モブでもうきちゃんきれいだし、ひまりちゃんが小悪魔的だし、色気はないけど(笑)踊っているひーこには振り向かされるし、星加&眞ノ宮という美形若手気になるし、まさかのブリッジ状態でタップを踏むジジくんすげーし、すわっちはナニしてても目に飛び込んできて困るし。
あー、男役は全体的に下級生メインな分、いろいろ大変そう。女の子たちは下級生でも「アタシ、いい女よ!!」とスカートたくし上げて色香振りまいてますが、男の子たちはそんな女性陣に押されているというか。や、愛しいな雪オトコたち(笑)。
もっともっと観たいのにな。
マジ、チケットないんで観られないっす。
現在のだいもんにDCは狭すぎたな……。
KAATぐらいのキャパが必要な公演だったと思う、『ドン・ジュアン』。
翼くんに、歌がない。
えええ。
せっかくの歌重要ミュージカルで翼くんに歌ナシとか、つまんないーー!
や、単にわたしが翼くんスキーなもので。
モブでは翼くん眺めるのが常なので。
歌えるし踊れるし芝居できるし、お顔はちょいとファニーだけどスタイル良しの素敵な男の子なのになー。なんで扱い上がらないんじゃろ……と、勝手に残念に思っています。
で、翼くんと言えば死に芝居! ですよ。
わたしは彼の死ぬ芝居が大好きです。
今回も戦場場面に出てきたのを見て「これは……!」と期待を込めてロックオン、キタよキタ、来ましたよ、死に芝居!
舞台の隅っこ、ろくにライトも当たらないところで、翼くんはまた見事に死んでいきました。
撃たれてから絶命するまで、表現が細かくて「うわーー」と思う。崩れ落ちるときはすでに意識がないんだよね……生き物から物体になって、重力に引かれて身体が折れていく。
見ててこわい死に方する……リアルで、ぞっとする死に方。
……映像には残ってないんだろうなあ。いい死に方するのになあ。
翼くんの役はスガナレル。ドン・ジュアンの家の執事ポジションかな。お芝居の相手はジュアンパパのドン・ルイ@エマさん限定。たぶん、それなりの年齢の役。少なくとも小僧っこじゃない。
悪くはないけど、とくにどうとは思わない演技だったなと。
翼くん、見た目は老けてないというか、ほんとのとこ年配役は柄じゃないと思う。ひょろっとしていて小顔の「若いにーちゃん」体型なのよね。大顔小柄の「年代が主人公たちとはチガウと思われる」体型ではない。
声も低くないし、全体的に「軽い」から、彼にアテ書きしちゃうとまぬけな警官@『るろうに剣心』みたいなのになっちゃうんだと思う。
おっさん役が出来れば重宝されるけど、翼くんはどうなんだろう。新公では年寄り役ばかりだけど、それは向いているからではなくて立場的にそういう役割が回ってくるというだけだろうし。(路線ではなくて芸達者だと、管理職や専科さん役が回ってくる)
『ローマの休日』でまなはるの年配役を観て「ほんとのとこは向いてない」ことを改めて考えちゃったからなあ。や、まなはるは年寄り役をよくやっているけれど、やはりそれは「路線ではなくて芸達者だと、管理職や専科さんがやるような役が回ってくる」というだけのことで、小顔のスタイル良しさんは、ヒゲぐらいではおっさんにはならないのよね……頭身が若者なんだもん。
がおりくらい極めればいいのか……がおりさんもスタイル美形だけど、それでも年配役総ナメしてるもんな。
年寄りまで8頭身とか、とんでもないのがタカラヅカらしさではあるのだし。
今回つばさくん、役は付いているとはいえ、「タカラヅカ」的には縣くんやすわっち以下の扱いに思える。
つまり、今後立ち位置はさらに厳しくなっていくんだろう。
長くいてくれるといいな……。
ライトも当たらない舞台の隅っこで、あんだけ本気で死ぬような人だから、ほんとに舞台が好きなんだろう。
まだまだいてほしい、いてくれると思いたい。
『ドン・ジュアン』は真ん中の圧が大きすぎて、周囲を観る余裕がない。
ドン・ジュアン@だいもんから目を離せないし、離したくない。彼単体で情報量が多すぎて、受け止めるだけで精一杯。
加えて、ドン・カルロ@咲ちゃん、エルヴィラ@くらっちも、ずーっとドラマを追い続けていたいと思わせる。
そのうえ亡霊@がおりさんですよ、もうひとりのドン・ジュアンですよ。
真ん中4人がこんな重い人たちだと、ほんとに目が足りないのよ。
きれいどころがたくさん出演しているのに、モブだろうがなんだろうが眺めたい人たちもいるのに、ろくに意識を向けられない。
モブでもうきちゃんきれいだし、ひまりちゃんが小悪魔的だし、色気はないけど(笑)踊っているひーこには振り向かされるし、星加&眞ノ宮という美形若手気になるし、まさかのブリッジ状態でタップを踏むジジくんすげーし、すわっちはナニしてても目に飛び込んできて困るし。
あー、男役は全体的に下級生メインな分、いろいろ大変そう。女の子たちは下級生でも「アタシ、いい女よ!!」とスカートたくし上げて色香振りまいてますが、男の子たちはそんな女性陣に押されているというか。や、愛しいな雪オトコたち(笑)。
もっともっと観たいのにな。
マジ、チケットないんで観られないっす。
現在のだいもんにDCは狭すぎたな……。
KAATぐらいのキャパが必要な公演だったと思う、『ドン・ジュアン』。
なにかを選ぶということは、他のすべてを捨てるということ。@ドン・ジュアン
2016年7月12日 タカラヅカ そしてついに、『ドン・ジュアン』最後の日がやって来た。
DC千秋楽。
千秋楽は全体を観て、海馬と心に刻み込むのよ……と、思っていたの。
この作品が好き。物語が好き。
フィクション好きの者として、最後に全体を観て、わたしの血肉とするのよ。
と、思っていたのに。
2列目を、サバキで手に入れてしまった。
DC初日に引き続き、なんつー強運。
DC初日もサバキ待ちで埋まった劇場前で、たまたま声をかけてもらえて、7列目センターなんつー神席で観ることが出来た。
もうそれが最初で最後、そんな幸運は二度とめぐってこないとハナからあきらめていたのに。
最後の最後に2列目て……!!
センター寄りのサブセン。DCは舞台が低くて座席のすぐ前にあるから、1~2列目って出演者が触れそうなくらい目の前に見える、すげー席。
そう、目の前。
つまり、キャストばかり見えて、舞台全体は見えなくなる。『リンカーン』のときに最後の星条旗がカケラも見えなかった・わからなかった。『アル・カポネ』だってタルの中が見えなかったわ。
舞台全体を観たいなら、選んではいけない席。
出演者の顔しか見えないよーな席。
わたしは、この『ドン・ジュアン』という作品が、物語が好きで、それで、最初と最後は作品全体を味わおうと決めて……。
…………。
一瞬、迷った。
迷った。ほんの一瞬。たかが一瞬。されど一瞬。
ええ、譲っていただきましたとも。あわてて財布出した。現金入っててよかった、自分がいくら持ってるかも意識してなかった。
や、サバキ待ちしてたわけじゃなかったの。劇場入る前に隅っこで立ち止まってメールしてたの。でもこんなわたしに声掛けてもらえた! 神! 神ですか!!
んで、自分のチケットはすぐさま他の人にさばいた。真ん中通路上のセンター、全体を観やすい席。めちゃよろこんでくれた、いやいや、わたしの方こそありがとう、助かりました。
舞台全体より、だいもんを取っちゃった。
作品よりも、だいもんを取っちゃった。
だいもんガン見したい!! という、それだけの欲が勝ってしまった。
作品好きだって言ったくせに~~。物語好きだって言ったくせに~~。
いやはや。
前言撤回、お恥ずかしい。人生矛盾に満ちている。
もー、むっちゃドキドキして2列目に坐ったわ。『アル・カポネ』は超前方でしか観たことなかったくらいなのに(後方で観てみたくて、あとから入手したくらい)、この公演はほんっとにチケ運に見放されていて。
前方で観たことなかったの。
この公演こそ、前で観たかったのに。
全体とか物語とか手放して、気になるキャラクタひとりをガン見してみたかった。
もっと思う回数観られていたなら、他の人を観るのもいいけれど。
唯一の機会だもの。
ドン・ジュアン@だいもんを視る。
他は手放す。
二兎は追えない。
わたしが「視たい」「識りたい」いちばんの人、主人公ドン・ジュアンを視る。
ドキドキしながら。
偏頭痛起こしそうなくらい、集中して。
ドン・ジュアンを理解しようとは思わない。
ただ、魅せられて。
惹きつけられて。
その豊かな歌声を、饒舌な声音を、表情のひとつひとつを、注視し続ける。
なんかずっと、ドキドキしていた。
何故こうも動悸が激しいままなのか、わからない。
終わってしまう。
消えてしまう。
なくなってしまう。
たぶん、そのことにずっと、煽られていた。
待望の座席、切望した画面を堪能しながら。
今ここにあり、そして、消えてしまう「舞台」というものを、惜しみ、愛しさに身を灼いていた。
最後の最後にこんな画面を得て。
せ、せめてもう1回猶予があるときでなきゃ、無理。許容量限界起こしてる、受け止めきれない。
最初の最後で全部得なければ、って、焦燥感でおかしくなりそう。
苦しい。ちょっとマジ苦しい。
幕間に鎮痛剤飲んで、糖分取って、貧血起こさないよう予防線張って。
大好き。
苦しいほど好きなモノに出会えた。
大好き。
そしてそれほど大切なモノを、今、失おうとしている。
大好き。
だから、苦しい。
…………ぜえぜえ。
年寄りには過ぎた快楽じゃ……消耗したわー……。
若いときはもっと、余裕を持って受け止められた気がするのだけど。
でも舞台はいつだって一期一会、そのときのわたしが出会えたモノがすべて。
今の老いたわたしが受け止められるものを、精一杯浴びるだけ。
衰えた脳と心でナニを得られたかわかんないけども、とりあえず。
ラストシーンの「だいもん」が脳裏に焼き付いた。
……てことで、翌日欄へ続く。
DC千秋楽。
千秋楽は全体を観て、海馬と心に刻み込むのよ……と、思っていたの。
この作品が好き。物語が好き。
フィクション好きの者として、最後に全体を観て、わたしの血肉とするのよ。
と、思っていたのに。
2列目を、サバキで手に入れてしまった。
DC初日に引き続き、なんつー強運。
DC初日もサバキ待ちで埋まった劇場前で、たまたま声をかけてもらえて、7列目センターなんつー神席で観ることが出来た。
もうそれが最初で最後、そんな幸運は二度とめぐってこないとハナからあきらめていたのに。
最後の最後に2列目て……!!
センター寄りのサブセン。DCは舞台が低くて座席のすぐ前にあるから、1~2列目って出演者が触れそうなくらい目の前に見える、すげー席。
そう、目の前。
つまり、キャストばかり見えて、舞台全体は見えなくなる。『リンカーン』のときに最後の星条旗がカケラも見えなかった・わからなかった。『アル・カポネ』だってタルの中が見えなかったわ。
舞台全体を観たいなら、選んではいけない席。
出演者の顔しか見えないよーな席。
わたしは、この『ドン・ジュアン』という作品が、物語が好きで、それで、最初と最後は作品全体を味わおうと決めて……。
…………。
一瞬、迷った。
迷った。ほんの一瞬。たかが一瞬。されど一瞬。
ええ、譲っていただきましたとも。あわてて財布出した。現金入っててよかった、自分がいくら持ってるかも意識してなかった。
や、サバキ待ちしてたわけじゃなかったの。劇場入る前に隅っこで立ち止まってメールしてたの。でもこんなわたしに声掛けてもらえた! 神! 神ですか!!
んで、自分のチケットはすぐさま他の人にさばいた。真ん中通路上のセンター、全体を観やすい席。めちゃよろこんでくれた、いやいや、わたしの方こそありがとう、助かりました。
舞台全体より、だいもんを取っちゃった。
作品よりも、だいもんを取っちゃった。
だいもんガン見したい!! という、それだけの欲が勝ってしまった。
作品好きだって言ったくせに~~。物語好きだって言ったくせに~~。
いやはや。
前言撤回、お恥ずかしい。人生矛盾に満ちている。
もー、むっちゃドキドキして2列目に坐ったわ。『アル・カポネ』は超前方でしか観たことなかったくらいなのに(後方で観てみたくて、あとから入手したくらい)、この公演はほんっとにチケ運に見放されていて。
前方で観たことなかったの。
この公演こそ、前で観たかったのに。
全体とか物語とか手放して、気になるキャラクタひとりをガン見してみたかった。
もっと思う回数観られていたなら、他の人を観るのもいいけれど。
唯一の機会だもの。
ドン・ジュアン@だいもんを視る。
他は手放す。
二兎は追えない。
わたしが「視たい」「識りたい」いちばんの人、主人公ドン・ジュアンを視る。
ドキドキしながら。
偏頭痛起こしそうなくらい、集中して。
ドン・ジュアンを理解しようとは思わない。
ただ、魅せられて。
惹きつけられて。
その豊かな歌声を、饒舌な声音を、表情のひとつひとつを、注視し続ける。
なんかずっと、ドキドキしていた。
何故こうも動悸が激しいままなのか、わからない。
終わってしまう。
消えてしまう。
なくなってしまう。
たぶん、そのことにずっと、煽られていた。
待望の座席、切望した画面を堪能しながら。
今ここにあり、そして、消えてしまう「舞台」というものを、惜しみ、愛しさに身を灼いていた。
最後の最後にこんな画面を得て。
せ、せめてもう1回猶予があるときでなきゃ、無理。許容量限界起こしてる、受け止めきれない。
最初の最後で全部得なければ、って、焦燥感でおかしくなりそう。
苦しい。ちょっとマジ苦しい。
幕間に鎮痛剤飲んで、糖分取って、貧血起こさないよう予防線張って。
大好き。
苦しいほど好きなモノに出会えた。
大好き。
そしてそれほど大切なモノを、今、失おうとしている。
大好き。
だから、苦しい。
…………ぜえぜえ。
年寄りには過ぎた快楽じゃ……消耗したわー……。
若いときはもっと、余裕を持って受け止められた気がするのだけど。
でも舞台はいつだって一期一会、そのときのわたしが出会えたモノがすべて。
今の老いたわたしが受け止められるものを、精一杯浴びるだけ。
衰えた脳と心でナニを得られたかわかんないけども、とりあえず。
ラストシーンの「だいもん」が脳裏に焼き付いた。
……てことで、翌日欄へ続く。
消失を繰り返す、それが役者なのかもしれない。@ドン・ジュアン
2016年7月13日 タカラヅカ 『ドン・ジュアン』千秋楽。
全体を観たい気持ちはたしかにあったのに、最後の最後で前方席を得られた。
どういうめぐりあわせなのかはわからない。
ただ。
最後の最後に、この位置から舞台を……だいもんを観られたことを、奇跡だと思う。感謝する。
物語が進み、深まり、そしてついに最後の瞬間。
だいもんが「ドン・ジュアン」である最後。
ライトが落ち、暗闇になる。
次にライトの中に登場するのは、もう「ドン・ジュアン」ではない。ドン・ジュアンを演じた、望海風斗だ。
だいもんがドン・ジュアンである最後の瞬間を、「視る」ことが出来た。
ライトが落ちる寸前。ほんとうに、一瞬のこと。叶う限りの近い距離から肉眼で、その変化を視ることが出来た。
ドン・ジュアンから、だいもんに変わる瞬間が、視られた。
目の光が消え、空虚になった。
なにかが抜け落ちるように。
本来なら、完全に暗転するまで「ドン・ジュアン」であるのだと思う。今までだってそうだったのだから。
でもこのときは暗転の一瞬前に「ドン・ジュアン」が消えた。
だいもん自身が、とまどい、惜しんでいるように見えた。
自分の中から、「消えた」男のことを。
ああ。
消えたんだ。
たった今、ドン・ジュアンは消えた。
もうどこにもいない。
ドン・ジュアンの衣装を着ただいもんが立っているけれど、彼はもうドン・ジュアンじゃない。
役者って……!
涙が、あふれだした。
ドン・ジュアンが消えた瞬間。
そして、かくん、となにかを失ったように、空虚さにとまどうだいもんを見て。
なにこれ。
なにを見たんだ、わたしは、今。
公演が終わったあとも、その瞬間のだいもんばかりが脳裏をぐるぐる回り、平静でいられない。
だいもんの芝居がすごいのは、ああやって入り込んでいるからなんだろう。
「終わった」途端、中身が別になった。姿は変わらないのに。そしてそれは、本人ですら、どうしようもない次元のことなんだろう。
ドン・ジュアンは消えた。
もういない。
何ヶ月もかけて少しずつ作り上げたものが、一瞬で消えた。永遠に失った。
もしも次に同じ作品と役を得たとしても、あのドン・ジュアンはもういない。
カーテンコールで、なにか言えとだいもんから振られた咲ちゃんが、「ドン・ジュアンに会いたい」と言ったのがわかる。
「再演したい」でも「観たい」でもなく、「会いたい」。
そこにいるのはドン・ジュアンの格好をした、だいもんだもの。彼はもうどこにもいない。
ドン・ジュアンのいちばん近くで、ドン・ジュアンを恋する瞳で見つめていた咲ちゃん。
同じ姿をした別人を前に、その言葉が出てしまう、気持ちはわかる。わかるよ。
わたしも、ドン・ジュアンに会いたい。
もう会えない。
どこにもいない。
かなしい。
さみしい。
つらい。
苦しい。
切なくて切なくて、泣けて仕方がない。
もう会えない。
大好きな人を、失ってしまった。
そして、あの瞬間の、消失の目をした、だいもん。
その身に別人の人生を刻んで、燃焼し尽くす人。
舞台に生きるために、生まれてきた人。
わーん、舞台の神様、この人に役目を。
神様が与えた正しい役目を、果たさせてあげて。
舞台の真ん中で、表現し尽くすこと。空気を動かし世界を変え、観る者に楔を打ち付けるような痕を残す。
この役者に、使命を果たさせて。
本人の望みと、才能が正しく融合した、稀有なひとりなの。
だいもんに舞台を。
彼がその才能を、表現欲を、とことん発揮出来る舞台を与えて。
彼に正しい役目を与えたら、これだけのことをやってのけるのだから。
ドン・ジュアンを失うことが、心底つらかった。
だけど、希望はある。
ドン・ジュアンの中の人は、健在だ。今、役者として充実期を迎えている。
彼がいる限りまた、こんな風に愛しい人に出会えるはず。再演して欲しいとかではなくて、だいもんが「だいもん力」を発揮出来る、器のある役と作品に、めぐり会える可能性があるということ。
それを心の支えにするよ。
わたしはまた、「だいもん」と再会したい。
全体を観たい気持ちはたしかにあったのに、最後の最後で前方席を得られた。
どういうめぐりあわせなのかはわからない。
ただ。
最後の最後に、この位置から舞台を……だいもんを観られたことを、奇跡だと思う。感謝する。
物語が進み、深まり、そしてついに最後の瞬間。
だいもんが「ドン・ジュアン」である最後。
ライトが落ち、暗闇になる。
次にライトの中に登場するのは、もう「ドン・ジュアン」ではない。ドン・ジュアンを演じた、望海風斗だ。
だいもんがドン・ジュアンである最後の瞬間を、「視る」ことが出来た。
ライトが落ちる寸前。ほんとうに、一瞬のこと。叶う限りの近い距離から肉眼で、その変化を視ることが出来た。
ドン・ジュアンから、だいもんに変わる瞬間が、視られた。
目の光が消え、空虚になった。
なにかが抜け落ちるように。
本来なら、完全に暗転するまで「ドン・ジュアン」であるのだと思う。今までだってそうだったのだから。
でもこのときは暗転の一瞬前に「ドン・ジュアン」が消えた。
だいもん自身が、とまどい、惜しんでいるように見えた。
自分の中から、「消えた」男のことを。
ああ。
消えたんだ。
たった今、ドン・ジュアンは消えた。
もうどこにもいない。
ドン・ジュアンの衣装を着ただいもんが立っているけれど、彼はもうドン・ジュアンじゃない。
役者って……!
涙が、あふれだした。
ドン・ジュアンが消えた瞬間。
そして、かくん、となにかを失ったように、空虚さにとまどうだいもんを見て。
なにこれ。
なにを見たんだ、わたしは、今。
公演が終わったあとも、その瞬間のだいもんばかりが脳裏をぐるぐる回り、平静でいられない。
だいもんの芝居がすごいのは、ああやって入り込んでいるからなんだろう。
「終わった」途端、中身が別になった。姿は変わらないのに。そしてそれは、本人ですら、どうしようもない次元のことなんだろう。
ドン・ジュアンは消えた。
もういない。
何ヶ月もかけて少しずつ作り上げたものが、一瞬で消えた。永遠に失った。
もしも次に同じ作品と役を得たとしても、あのドン・ジュアンはもういない。
カーテンコールで、なにか言えとだいもんから振られた咲ちゃんが、「ドン・ジュアンに会いたい」と言ったのがわかる。
「再演したい」でも「観たい」でもなく、「会いたい」。
そこにいるのはドン・ジュアンの格好をした、だいもんだもの。彼はもうどこにもいない。
ドン・ジュアンのいちばん近くで、ドン・ジュアンを恋する瞳で見つめていた咲ちゃん。
同じ姿をした別人を前に、その言葉が出てしまう、気持ちはわかる。わかるよ。
わたしも、ドン・ジュアンに会いたい。
もう会えない。
どこにもいない。
かなしい。
さみしい。
つらい。
苦しい。
切なくて切なくて、泣けて仕方がない。
もう会えない。
大好きな人を、失ってしまった。
そして、あの瞬間の、消失の目をした、だいもん。
その身に別人の人生を刻んで、燃焼し尽くす人。
舞台に生きるために、生まれてきた人。
わーん、舞台の神様、この人に役目を。
神様が与えた正しい役目を、果たさせてあげて。
舞台の真ん中で、表現し尽くすこと。空気を動かし世界を変え、観る者に楔を打ち付けるような痕を残す。
この役者に、使命を果たさせて。
本人の望みと、才能が正しく融合した、稀有なひとりなの。
だいもんに舞台を。
彼がその才能を、表現欲を、とことん発揮出来る舞台を与えて。
彼に正しい役目を与えたら、これだけのことをやってのけるのだから。
ドン・ジュアンを失うことが、心底つらかった。
だけど、希望はある。
ドン・ジュアンの中の人は、健在だ。今、役者として充実期を迎えている。
彼がいる限りまた、こんな風に愛しい人に出会えるはず。再演して欲しいとかではなくて、だいもんが「だいもん力」を発揮出来る、器のある役と作品に、めぐり会える可能性があるということ。
それを心の支えにするよ。
わたしはまた、「だいもん」と再会したい。
配慮されない人、される人。@新人公演『NOBUNAGA<信長>』
2016年7月14日 タカラヅカ えー、『ドン・ジュアン』話をとりとめもなく続けておりましたが、ここで突然月組新人公演『NOBUNAGA<信長> -下天の夢-』の話。
新公配役が発表になったとき、わたしの周囲のごく狭いところでポイントとされていた、「森蘭丸役の有無」。
わざわざ森蘭丸役の欄が * になっている。発表されてないけど、実は出るんだよ、などという意味ではなく、ガチに削除されているんだよ、この役は新公では存在しないんだよ、という意味での * だ。
どうして?
一本モノでもないのに。
んでもって、実際本公演の幕が上がってみると、森蘭丸役は超ちょい役で、いてもいなくてもかまわないよーな役だった。
これならたしかに、削られても問題はないかも……って、そんな、削ってもいいような役をなんで出すかな。わざわざ配役表に書いて発表するかな。
「主な配役」に記載されない役だって、実際の公演にはいくらでもあるんだもの。ルドルフ@『エリザベート』役だって、公演によってはモブ役でアルバイトをしていたが、「主な配役」にはアルバイトまでは記載されなかった。
おかしな話。
で、新人公演にて。
森蘭丸役は、本当になくなっていた。
蘭丸の台詞は、別の人に振られてた。それでなんの問題もなかった。
てゆーか、突然出て来た「誰?」という蘭丸より、それまでずっと従ってきた毛利良勝の台詞の方が納得だし、信長に心酔していたただひとりの家臣・弥助の比重が上がる方が正しいわ。
ほんとに、本公演の森蘭丸は、いらない役なんやなー。
じゃあどうして、こんないらない役をわざわざ作ったのか。
ひとえに、男役スター朝美絢のためでしょう。
公演初日の蘭丸の扱いを見たとき、舌を巻いたもの。
あーさ、大事にされてんだなあ、と。
タカラヅカの華は男役、ファンは男役を観に来る。
美形男役スターの女装をファンは喜ぶけれど、それはあくまでも「男役の女装」であること、ほんとうに女役に転向することは望まない。
それと同じで、公演通して女役だけだと、せっかく得た人気を失う危険性がある。かっこいい男役を見たいのに、ふつーに女になって娘役と同じことをしていたんじゃ、意味がないもの。
「娘役にだってファンはいる! 娘役軽視するな!」というツッコミはなしね、わたしがどうこうではなく、「タカラヅカ」がそうやって100年続いてきた劇団だという話。
妻木@あーさはいい役だ。
男役でモブに毛の生えたよーな「武将のひとり/初見ライト観客からは個別認識されず」よりも、トップスターとエロい絡みのある美形くのいち役の方がいい役に決まっている。
でも、いくらいい役だからといって、女役だけだと、本当の意味で「いい役」ではないんだ。
ファンは女役を求めているわけじゃないから。
だから、わざわざ男役もさせる。
いなくてもいいような、どーでもいい役を無理矢理作って、しかも「森蘭丸」という超有名美少年役で。
「男役として美しい朝美絢」を見せつけられる役を、わざわざ、あーさのためだけに、作ったんだね、大野くん。
森蘭丸がどーでもいいような役だからこそ、震撼したわ。
こんな無理矢理なことするほど、配慮されてるのかと。
劇団主導なのか、大野くんの趣味なのかはわかんないけども。
新人公演で「蘭丸がいない」方が、作品として正しいことを見せつけられると、より一層嘆息する。
あーさ、いいなああ。
こんなに気を遣ってもらって。
大切にしてもらって。
ええ。
『NOBUNAGA<信長>』初日に思ったもの。
あーさにとってつけたような男役させるなら、『虞美人』の桃娘@だいもんにも、3分でいいから男役をやらせる配慮が欲しかった。
一本モノで女役のみだったんだよ……アルバイトもナシだよ……「未来のある男役スター」と考えるなら、「男役としてかっこいい場」を用意すべきだったのに……そんな配慮はしてもらえなかったさ……はは、は……遠い目。
ということで、結局はだいもん(笑)。
まともな月新公の話は7月16日欄にて。
新公配役が発表になったとき、わたしの周囲のごく狭いところでポイントとされていた、「森蘭丸役の有無」。
主な配役新人公演
妻木(帰蝶の家臣)朝美 絢/海乃 美月
森蘭丸(織田信長の小姓)朝美 絢/ *
わざわざ森蘭丸役の欄が * になっている。発表されてないけど、実は出るんだよ、などという意味ではなく、ガチに削除されているんだよ、この役は新公では存在しないんだよ、という意味での * だ。
どうして?
一本モノでもないのに。
んでもって、実際本公演の幕が上がってみると、森蘭丸役は超ちょい役で、いてもいなくてもかまわないよーな役だった。
これならたしかに、削られても問題はないかも……って、そんな、削ってもいいような役をなんで出すかな。わざわざ配役表に書いて発表するかな。
「主な配役」に記載されない役だって、実際の公演にはいくらでもあるんだもの。ルドルフ@『エリザベート』役だって、公演によってはモブ役でアルバイトをしていたが、「主な配役」にはアルバイトまでは記載されなかった。
おかしな話。
で、新人公演にて。
森蘭丸役は、本当になくなっていた。
蘭丸の台詞は、別の人に振られてた。それでなんの問題もなかった。
てゆーか、突然出て来た「誰?」という蘭丸より、それまでずっと従ってきた毛利良勝の台詞の方が納得だし、信長に心酔していたただひとりの家臣・弥助の比重が上がる方が正しいわ。
ほんとに、本公演の森蘭丸は、いらない役なんやなー。
じゃあどうして、こんないらない役をわざわざ作ったのか。
ひとえに、男役スター朝美絢のためでしょう。
公演初日の蘭丸の扱いを見たとき、舌を巻いたもの。
あーさ、大事にされてんだなあ、と。
タカラヅカの華は男役、ファンは男役を観に来る。
美形男役スターの女装をファンは喜ぶけれど、それはあくまでも「男役の女装」であること、ほんとうに女役に転向することは望まない。
それと同じで、公演通して女役だけだと、せっかく得た人気を失う危険性がある。かっこいい男役を見たいのに、ふつーに女になって娘役と同じことをしていたんじゃ、意味がないもの。
「娘役にだってファンはいる! 娘役軽視するな!」というツッコミはなしね、わたしがどうこうではなく、「タカラヅカ」がそうやって100年続いてきた劇団だという話。
妻木@あーさはいい役だ。
男役でモブに毛の生えたよーな「武将のひとり/初見ライト観客からは個別認識されず」よりも、トップスターとエロい絡みのある美形くのいち役の方がいい役に決まっている。
でも、いくらいい役だからといって、女役だけだと、本当の意味で「いい役」ではないんだ。
ファンは女役を求めているわけじゃないから。
だから、わざわざ男役もさせる。
いなくてもいいような、どーでもいい役を無理矢理作って、しかも「森蘭丸」という超有名美少年役で。
「男役として美しい朝美絢」を見せつけられる役を、わざわざ、あーさのためだけに、作ったんだね、大野くん。
森蘭丸がどーでもいいような役だからこそ、震撼したわ。
こんな無理矢理なことするほど、配慮されてるのかと。
劇団主導なのか、大野くんの趣味なのかはわかんないけども。
新人公演で「蘭丸がいない」方が、作品として正しいことを見せつけられると、より一層嘆息する。
あーさ、いいなああ。
こんなに気を遣ってもらって。
大切にしてもらって。
ええ。
『NOBUNAGA<信長>』初日に思ったもの。
あーさにとってつけたような男役させるなら、『虞美人』の桃娘@だいもんにも、3分でいいから男役をやらせる配慮が欲しかった。
一本モノで女役のみだったんだよ……アルバイトもナシだよ……「未来のある男役スター」と考えるなら、「男役としてかっこいい場」を用意すべきだったのに……そんな配慮はしてもらえなかったさ……はは、は……遠い目。
ということで、結局はだいもん(笑)。
まともな月新公の話は7月16日欄にて。
えっ……。
さやかさん退団……?!
大活躍している充実期真っ只中の専科さんの退団だ……と……?
近年専科へ異動する人は多いけれど、本当の意味での専科さんはまりんさんとさやかさんのみだった。
特にさやかさんはまりんより3学年も若い分「若い専科さん」というイメージもあり、活躍を期待した。若いってのは、ジェンヌ人生がそれだけ長く残っているということだし、若めのおじさまから本格的爺役までフォロー可能で役幅も広いし、体力もあるってことだもんね。
専科に残る、というのは、それほどに難しいことなのか……。
なんだか、改めて考えさせられる。
専科に行っても、元いた組にばかり出るよね。そんなにも「組を超えて出演するスペシャリスト」は生きにくいのだろうか?
番手役しかしない、スター専科さんじゃない、本専科さんであっても、他の組では生きづらいものなのか。
そして結局、元いた組で退団。
若い専科さんからいなくなる、新たな補充はなし、って、やっぱり「専科不要」ってことなんだろうか。
ヒロさんとかはっちさんとかエマさんとか、必要な方々なのにな。(あれ? この人たちみんな元星組?)
その後継者があまりいないのは不安だ……。
……まりん、辞めないでね……ずっといてね……。
歌の84期、あの華やかな実力者たちの期が、これで全員いなくなってしまうのか……。
専科 退団者のお知らせ
2016/07/15
下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。
専科
美城 れん
2016年11月20日(星組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
さやかさん退団……?!
大活躍している充実期真っ只中の専科さんの退団だ……と……?
近年専科へ異動する人は多いけれど、本当の意味での専科さんはまりんさんとさやかさんのみだった。
特にさやかさんはまりんより3学年も若い分「若い専科さん」というイメージもあり、活躍を期待した。若いってのは、ジェンヌ人生がそれだけ長く残っているということだし、若めのおじさまから本格的爺役までフォロー可能で役幅も広いし、体力もあるってことだもんね。
専科に残る、というのは、それほどに難しいことなのか……。
なんだか、改めて考えさせられる。
専科に行っても、元いた組にばかり出るよね。そんなにも「組を超えて出演するスペシャリスト」は生きにくいのだろうか?
番手役しかしない、スター専科さんじゃない、本専科さんであっても、他の組では生きづらいものなのか。
そして結局、元いた組で退団。
若い専科さんからいなくなる、新たな補充はなし、って、やっぱり「専科不要」ってことなんだろうか。
ヒロさんとかはっちさんとかエマさんとか、必要な方々なのにな。(あれ? この人たちみんな元星組?)
その後継者があまりいないのは不安だ……。
……まりん、辞めないでね……ずっといてね……。
歌の84期、あの華やかな実力者たちの期が、これで全員いなくなってしまうのか……。
キャスト感想つれづれと。@ 新人公演『NOBUNAGA<信長>』
2016年7月16日 タカラヅカ 『ドン・ジュアン』DC公演がはじまっちゃったから、UPするのが後回しになっちゃってた、新人公演『NOBUNAGA<信長> -下天の夢-』ゆるい感想の続き。これでラスト!
弥助@風間くんが、萌えキャラになってた。
本公演を観て、じれったく思っていたから。新公で、期待する方向へ踏み出してくれて膝を打った。よっしゃあ!
このひどい脚本の『NOBUNAGA』で、唯一、ほんっとーにただひとりだけ、心から信長を愛している弥助くん。
このキャラをクローズアップせんで、ナニをするのよ。
新公は弥助の比重上がってたよね? 正しいわ~~。
風間くん、美形だよねえ。
『リンカーン』のときに思い知ったんだけど、黒人メイクにするとイケメンも美女もビジュアル度が下がるんだよね。よくある黒塗りぐらいだと(今回のぐっさん秀吉とか)かえって男前度が上がったりするんだけど、本気の黒人はな……。
カレーくんがそれでも美形だったように、黒人メイクでも男前な人は、ほんとに整った顔立ちなんだと思う。
芝居も悪くないし、今後楽しみな子だわ。
ナガさん役の蒼瀬くん、るうくん役の颯希くんが、うまいしかっこよかったー。
こうやって脇に二枚目がしっかり育っているのはいいねえ。
うまいというと、佳城くんはいつもながら堅実にうまい。今回のオルガンティノさん役なんかは、彼の得意分野だろう。
得意だからか、ちょっとやりすぎというか、楽な方面に持って行きすぎていた気がする。
もうちょいタカラヅカっぽくていいんじゃないかなあ。お笑い風味は抑えて。
ルイス・フロイス@とっきーが、とっきーまんまで……いいのかあれ(笑)。や、とっきーくんがどういう人か知らないけれど、それでもなんかイメージまんまだったので、かえってとまどった。
えー、なんというか、ひょろんぬらりんとしているというか。(擬音やめなさい)
今回は役的にそれでいいんだけど、一度ちょーキリッとシリアスなとっきーが見てみたいっす……。
毛利良勝@せれんくん、ふつーに、学年相応にうまくて容姿も整っていると思う。今回、良かったよね?
いつもいまいち役付きがよくないのがわからん……きれいだし、もっと使ってもいいだろうに。
女の子たちは役名はあるけど役割がないというか。
まつ@さくらちゃん、ねね@時ちゃん……ふつうにうまいけど、印象に残らない。
むしろ、象使い役のアルバイトの方が、きれいで目立つわ……。
ハリボテ象の従者(象の横を並んで歩いて、ハリボテのストッパーいじったり、アタマを動かすスイッチ入れたりする人たち)が、新公では全員女の子だった。
全員男の本公演の方がリアルだけど、全員女の子の新公の方が、華やかでいい。
てゆーか、象使いが時ちゃん、くらげちゃん、小雪ちゃん、さくらちゃんって……ヒロイン経験者限定。ナニこのゼイタク感!! 美少女ばかり!
って、ちょっと待て、小雪ちゃん、今作のヒロインがアルバイトって……?!(白目)
戦国時代モノの宿命よね。娘役に出番も役もない、のは。
にしても、ヒロインすらこんな扱いだもんなー。
演出も幾人かのキャラクタも、新公の方がよかった。好みだった。
新公も大野くん自身で演出しているんだから、「わかって」やってるんだろうなあ。
弥助@風間くんが、萌えキャラになってた。
本公演を観て、じれったく思っていたから。新公で、期待する方向へ踏み出してくれて膝を打った。よっしゃあ!
このひどい脚本の『NOBUNAGA』で、唯一、ほんっとーにただひとりだけ、心から信長を愛している弥助くん。
このキャラをクローズアップせんで、ナニをするのよ。
新公は弥助の比重上がってたよね? 正しいわ~~。
風間くん、美形だよねえ。
『リンカーン』のときに思い知ったんだけど、黒人メイクにするとイケメンも美女もビジュアル度が下がるんだよね。よくある黒塗りぐらいだと(今回のぐっさん秀吉とか)かえって男前度が上がったりするんだけど、本気の黒人はな……。
カレーくんがそれでも美形だったように、黒人メイクでも男前な人は、ほんとに整った顔立ちなんだと思う。
芝居も悪くないし、今後楽しみな子だわ。
ナガさん役の蒼瀬くん、るうくん役の颯希くんが、うまいしかっこよかったー。
こうやって脇に二枚目がしっかり育っているのはいいねえ。
うまいというと、佳城くんはいつもながら堅実にうまい。今回のオルガンティノさん役なんかは、彼の得意分野だろう。
得意だからか、ちょっとやりすぎというか、楽な方面に持って行きすぎていた気がする。
もうちょいタカラヅカっぽくていいんじゃないかなあ。お笑い風味は抑えて。
ルイス・フロイス@とっきーが、とっきーまんまで……いいのかあれ(笑)。や、とっきーくんがどういう人か知らないけれど、それでもなんかイメージまんまだったので、かえってとまどった。
えー、なんというか、ひょろんぬらりんとしているというか。(擬音やめなさい)
今回は役的にそれでいいんだけど、一度ちょーキリッとシリアスなとっきーが見てみたいっす……。
毛利良勝@せれんくん、ふつーに、学年相応にうまくて容姿も整っていると思う。今回、良かったよね?
いつもいまいち役付きがよくないのがわからん……きれいだし、もっと使ってもいいだろうに。
女の子たちは役名はあるけど役割がないというか。
まつ@さくらちゃん、ねね@時ちゃん……ふつうにうまいけど、印象に残らない。
むしろ、象使い役のアルバイトの方が、きれいで目立つわ……。
ハリボテ象の従者(象の横を並んで歩いて、ハリボテのストッパーいじったり、アタマを動かすスイッチ入れたりする人たち)が、新公では全員女の子だった。
全員男の本公演の方がリアルだけど、全員女の子の新公の方が、華やかでいい。
てゆーか、象使いが時ちゃん、くらげちゃん、小雪ちゃん、さくらちゃんって……ヒロイン経験者限定。ナニこのゼイタク感!! 美少女ばかり!
って、ちょっと待て、小雪ちゃん、今作のヒロインがアルバイトって……?!(白目)
戦国時代モノの宿命よね。娘役に出番も役もない、のは。
にしても、ヒロインすらこんな扱いだもんなー。
演出も幾人かのキャラクタも、新公の方がよかった。好みだった。
新公も大野くん自身で演出しているんだから、「わかって」やってるんだろうなあ。
個性爆発、大暴れ。@龍真咲サヨナラショー
2016年7月17日 タカラヅカ 『NOBUNAGA<信長>』『Forever LOVE!!』前楽に行って、無事『龍真咲サヨナラショー』も観てきました。
サヨナラショーはそのトップさんの個性がよく出るというか、それぞれ特色があるもんですよね。
昔はともかく、今の「サヨナラショーをソフト化して販売する」商売が根付いてからは。
まさお氏のサヨナラショーもとても特徴的で……感心しました。
わたしの記憶では、まさおくんは2012年に『ロミオとジュリエット』でトップスター就任したと思うんですが。
サヨナラショーを観て感じたことは。
まさおの中では、みりおくん準トップという体制は、「なかったこと」になってるっぽい。
サヨナラショープログラムに、みりおくんがいた気配は皆無でした。「まさみりの思い出」的なモノは一切なし。
まあ、仕方ないか……。異様だったもんなあ。トップスターなのに、2番手の役をさせられたり、「トップ娘役」が自分だけの相手役じゃないとか。
どう言葉を繕っても、おかしかったよ。まさおも、そしてみりおも、つらかっただろう。
まあ、ここまではわかる。
問題は。
まさおの中では、ちゃぴが相手役だった、ということも「なかったこと」になってるっぽい。
…………おーい。
最後の芝居『NOBUNAGA<信長>』でもラブシーンなし、そもそもふたりで絡むこともほとんどなく、同じ場面にすら出ない。
最後のショー『Forever LOVE!!』でもがっつりした絡みなどなく、デュエットダンスもなし。
ちゃぴは「トップ娘役」ではあっても、「トップスターの相手役」ではない、という扱いだった。
それでもせめて、サヨナラショーではふつうに、……多くは望まない、「ふつう」のことをしてくれるかと、期待していたんだ。
そしたら、もお、見事でした。
ちゃぴの扱い。
相手役ではまったくない。
デュエットダンスがないどころか、まともな絡みもない。
てゆーか。
他のスターたちと同列扱い、トップ娘役ですらない……。
そ、そうか。
本公演で「相手役じゃない」と示して、サヨナラショーでは「トップ娘役じゃない」と示すわけか……。
徹底してるわ……。
まさお……。
トップ娘役を残して、トップスターのみが退団する場合でも、ふつうはデュエットダンスがあるし、思い出の場面を再現したりして、互いに哀惜を示すものなんだけど。
一切ナシっすよ……。
すげえ。
もう、「すごい」としか言いようがない。
加えて、まさおのあとに月組を率いることになるたまきちへの「引き継ぎ」場面もなかったけど……これはある人とない人があるから、それを言及する気はないけども。
ソロ曲が全部、「相手役がちゃぴでない作品限定」とか、「ちゃぴが出演していない作品」とか、ナニその徹底ぶり。
他のなにをさておいても、トップ娘役否定は、びびりましたわ……。
それはともかく。
『1789』という作品を持つまさおは強いな。
サヨナラショーは全部で何曲歌ったんだっけ? そのうちの半分とか3分の1とか、とにかくけっこうな割合で『1789』が占めていたと思う。
わたしの体感としては『1789』コンサートの合間に他の楽曲も入れました、的な。長く歌うのが『1789』、最初と最後に歌うのが『1789』。
『1789』ガラコンサート状態なら、そりゃ盛り上がるわ。
曲がヅカオリジナルとは段違いだもん。
好きだな、『1789』。
日本初演で、まさおと月組が作り上げた作品。
きっとこれからも再演されるだろうけれど、この作品を「最初にこの世界に送り出した」のはまさおと月組。
この世界、ってのは、タカラヅカね。
『1789』はオレのもの!!っていう、誇りが見える。
いいなあ。
『1789』を歌うまさおはいい。
ロナンでも『1789』という作品でもなく、「まさおの『1789』」なの。まさおとして歌っているの。
それが、心地いい。
まさおの暴れっぷりが。
まさお節はさらにひどくなって、せっかくの名曲もぶわんぶわん節回ってるし(笑)。
だが、それがいい。
まさおはまさおらしく、大暴れしてくれれば。
サヨナラショーはそのトップさんの個性がよく出るというか、それぞれ特色があるもんですよね。
昔はともかく、今の「サヨナラショーをソフト化して販売する」商売が根付いてからは。
まさお氏のサヨナラショーもとても特徴的で……感心しました。
わたしの記憶では、まさおくんは2012年に『ロミオとジュリエット』でトップスター就任したと思うんですが。
サヨナラショーを観て感じたことは。
まさおの中では、みりおくん準トップという体制は、「なかったこと」になってるっぽい。
サヨナラショープログラムに、みりおくんがいた気配は皆無でした。「まさみりの思い出」的なモノは一切なし。
まあ、仕方ないか……。異様だったもんなあ。トップスターなのに、2番手の役をさせられたり、「トップ娘役」が自分だけの相手役じゃないとか。
どう言葉を繕っても、おかしかったよ。まさおも、そしてみりおも、つらかっただろう。
まあ、ここまではわかる。
問題は。
まさおの中では、ちゃぴが相手役だった、ということも「なかったこと」になってるっぽい。
…………おーい。
最後の芝居『NOBUNAGA<信長>』でもラブシーンなし、そもそもふたりで絡むこともほとんどなく、同じ場面にすら出ない。
最後のショー『Forever LOVE!!』でもがっつりした絡みなどなく、デュエットダンスもなし。
ちゃぴは「トップ娘役」ではあっても、「トップスターの相手役」ではない、という扱いだった。
それでもせめて、サヨナラショーではふつうに、……多くは望まない、「ふつう」のことをしてくれるかと、期待していたんだ。
そしたら、もお、見事でした。
ちゃぴの扱い。
相手役ではまったくない。
デュエットダンスがないどころか、まともな絡みもない。
てゆーか。
他のスターたちと同列扱い、トップ娘役ですらない……。
そ、そうか。
本公演で「相手役じゃない」と示して、サヨナラショーでは「トップ娘役じゃない」と示すわけか……。
徹底してるわ……。
まさお……。
トップ娘役を残して、トップスターのみが退団する場合でも、ふつうはデュエットダンスがあるし、思い出の場面を再現したりして、互いに哀惜を示すものなんだけど。
一切ナシっすよ……。
すげえ。
もう、「すごい」としか言いようがない。
加えて、まさおのあとに月組を率いることになるたまきちへの「引き継ぎ」場面もなかったけど……これはある人とない人があるから、それを言及する気はないけども。
ソロ曲が全部、「相手役がちゃぴでない作品限定」とか、「ちゃぴが出演していない作品」とか、ナニその徹底ぶり。
他のなにをさておいても、トップ娘役否定は、びびりましたわ……。
それはともかく。
『1789』という作品を持つまさおは強いな。
サヨナラショーは全部で何曲歌ったんだっけ? そのうちの半分とか3分の1とか、とにかくけっこうな割合で『1789』が占めていたと思う。
わたしの体感としては『1789』コンサートの合間に他の楽曲も入れました、的な。長く歌うのが『1789』、最初と最後に歌うのが『1789』。
『1789』ガラコンサート状態なら、そりゃ盛り上がるわ。
曲がヅカオリジナルとは段違いだもん。
好きだな、『1789』。
日本初演で、まさおと月組が作り上げた作品。
きっとこれからも再演されるだろうけれど、この作品を「最初にこの世界に送り出した」のはまさおと月組。
この世界、ってのは、タカラヅカね。
『1789』はオレのもの!!っていう、誇りが見える。
いいなあ。
『1789』を歌うまさおはいい。
ロナンでも『1789』という作品でもなく、「まさおの『1789』」なの。まさおとして歌っているの。
それが、心地いい。
まさおの暴れっぷりが。
まさお節はさらにひどくなって、せっかくの名曲もぶわんぶわん節回ってるし(笑)。
だが、それがいい。
まさおはまさおらしく、大暴れしてくれれば。
見納めの視界。@NOBUNAGA<信長>/Forever LOVE!!
2016年7月18日 タカラヅカ 千秋楽を観る予定も、観るために抽選にチャレンジする予定もないため、前楽が最後。
『NOBUNAGA<信長>』『Forever LOVE!!』を、生のまさお氏を見るのは、これで最後。
あとは東宝楽の中継を見るだけかな。
まさお氏のことは長く愛着もって眺めて来ただけに、とても寂しい。
まさお節は苦手なんで、あさこトップ時代のまともな芸風に戻ってくれればいいのにと、ずっと切望してきたけどね(笑)。
まだ『NOBUNAGA』の感想途中……っていうか、あれ、初日の感想が途中なんですが、もうムラ公演終わっちゃうとか、あり得ない。
初日に観たときはそれでも「まさお節がマシになってる! 時代劇との相性いい」と思ったのに、観に行くたびまさお節はひどくなっていって、前楽は絶好調にぶわんぶわん言ってました。イントネーションの愉快さに気を取られて、日本語が聴き取れない……(笑)。
わたしやっぱり『NOBUNAGA』はダメで、ちっとも楽しく観られなかった。
設定は面白いのに、何故こうなった、としか言いようがない。
大野作品で、ここまで感情移入出来ないのははじめて。多少粗があっても大野せんせの物語は「心を裏切らない」から、好きだった。
なのに今回、裏切りもしないがそもそも最初から「心がない」ような作り……。純粋に不思議だ。なにがしたかったのか。
ストーリーを気にせずに画面だけ観ていればいいんだろうけど、画面も見どころが極少でなあ……。
まさおがまさおらしく美しいのって最初のちょろっとだけなんだもん。あとは全編、いちばん似合わないチョビ髭姿で。
史実通りでもなく、かといってフィクションとしても振り切れず、中途半端でつらい。
ショーがあってよかった。
『Forever LOVE!!』はそれほどいい作品とも思わないんだけど……だってやっぱバランス悪い、トップとトップ娘役がまともに組んでないの……でもまさおさんが大暴れしているのを観られるのは、うれしい。
3人のヲカマ……ゲフンゲフン、美女と絡むところ、カチャだけ特別にいじってた。そうか、カチャはこれで月組サヨナラなんだもんな……。
カチャさんは放置プレイされてました(笑)。
まさお、楽しそうだな……。
そして、個人的に思い入れありまくる、ナガさんを観ていました。
次にショーでナガさんを観られるのはいつだろう……。
『Shining Rhythm!』のときも思ったんだよ。あのときナガさん、歌にダンスに大活躍だったしね。ああ、これが最後なんだ、ひょっとしたらもうショーに出ることはないのかもしれない、だからこそ餞別としての見納めとしての大活躍なのかもしれないと。
組長はショーにももちろん出るけれど、専科さんは出ないからね。たまに出ることがあっても、スパイス的な役どころと、階段降りだけになるし。
こんなに、ふつうに組の一員として出るのは、最後。
実際、雪組から専科に異動になっても、ナガさんは続けて雪組に出演していた。でも組長ではなく専科だから、芝居のみ。続けて出演するなら専科に行く必要はないだろうにそれでも専科なのは、やっぱショーに出る・出ないが大きいよなと思う。
まさかまた組に所属することになるとは、『Shining Rhythm!』のときは思ってなかったけど。
今度こそ、最後かもしれない。体力的にもたぶん。
そう思えるから余計に、ナガさんナガさん、うああ、寂しい。
ナガさんはほんと、まさおのために月組に来た人だったね……。
まさお時代の月組を守ってくれた人。
そして、まさおの卒業と共に役目を終えて去って行く。
時代が変わる。
ひとつの時代が終わる。
クライマックスの合唱が胸に迫る。ひとつになる力。
まさおと、大階段に電飾点く演出にぶわーっと泣ける。
タカラヅカはすごい。
また改めて、そう思う。
『NOBUNAGA<信長>』『Forever LOVE!!』を、生のまさお氏を見るのは、これで最後。
あとは東宝楽の中継を見るだけかな。
まさお氏のことは長く愛着もって眺めて来ただけに、とても寂しい。
まさお節は苦手なんで、あさこトップ時代のまともな芸風に戻ってくれればいいのにと、ずっと切望してきたけどね(笑)。
まだ『NOBUNAGA』の感想途中……っていうか、あれ、初日の感想が途中なんですが、もうムラ公演終わっちゃうとか、あり得ない。
初日に観たときはそれでも「まさお節がマシになってる! 時代劇との相性いい」と思ったのに、観に行くたびまさお節はひどくなっていって、前楽は絶好調にぶわんぶわん言ってました。イントネーションの愉快さに気を取られて、日本語が聴き取れない……(笑)。
わたしやっぱり『NOBUNAGA』はダメで、ちっとも楽しく観られなかった。
設定は面白いのに、何故こうなった、としか言いようがない。
大野作品で、ここまで感情移入出来ないのははじめて。多少粗があっても大野せんせの物語は「心を裏切らない」から、好きだった。
なのに今回、裏切りもしないがそもそも最初から「心がない」ような作り……。純粋に不思議だ。なにがしたかったのか。
ストーリーを気にせずに画面だけ観ていればいいんだろうけど、画面も見どころが極少でなあ……。
まさおがまさおらしく美しいのって最初のちょろっとだけなんだもん。あとは全編、いちばん似合わないチョビ髭姿で。
史実通りでもなく、かといってフィクションとしても振り切れず、中途半端でつらい。
ショーがあってよかった。
『Forever LOVE!!』はそれほどいい作品とも思わないんだけど……だってやっぱバランス悪い、トップとトップ娘役がまともに組んでないの……でもまさおさんが大暴れしているのを観られるのは、うれしい。
3人のヲカマ……ゲフンゲフン、美女と絡むところ、カチャだけ特別にいじってた。そうか、カチャはこれで月組サヨナラなんだもんな……。
カチャさんは放置プレイされてました(笑)。
まさお、楽しそうだな……。
そして、個人的に思い入れありまくる、ナガさんを観ていました。
次にショーでナガさんを観られるのはいつだろう……。
『Shining Rhythm!』のときも思ったんだよ。あのときナガさん、歌にダンスに大活躍だったしね。ああ、これが最後なんだ、ひょっとしたらもうショーに出ることはないのかもしれない、だからこそ餞別としての見納めとしての大活躍なのかもしれないと。
組長はショーにももちろん出るけれど、専科さんは出ないからね。たまに出ることがあっても、スパイス的な役どころと、階段降りだけになるし。
こんなに、ふつうに組の一員として出るのは、最後。
実際、雪組から専科に異動になっても、ナガさんは続けて雪組に出演していた。でも組長ではなく専科だから、芝居のみ。続けて出演するなら専科に行く必要はないだろうにそれでも専科なのは、やっぱショーに出る・出ないが大きいよなと思う。
まさかまた組に所属することになるとは、『Shining Rhythm!』のときは思ってなかったけど。
今度こそ、最後かもしれない。体力的にもたぶん。
そう思えるから余計に、ナガさんナガさん、うああ、寂しい。
ナガさんはほんと、まさおのために月組に来た人だったね……。
まさお時代の月組を守ってくれた人。
そして、まさおの卒業と共に役目を終えて去って行く。
時代が変わる。
ひとつの時代が終わる。
クライマックスの合唱が胸に迫る。ひとつになる力。
まさおと、大階段に電飾点く演出にぶわーっと泣ける。
タカラヅカはすごい。
また改めて、そう思う。
新生月組体制を表すかのような。@グランドホテル
2016年7月19日 タカラヅカ 『グランドホテル』の主な配役が発表になった。
とりあえず。
男爵主役バージョンだー!!
主演のたまきちが男爵、ちゃぴがグルーシンスカヤ。
よかった。
たまきちは絶対オットーじゃないもん。
演目発表時はカチャ異動は未発表だったから、みやちゃんとカチャのどちらかがオットーだろうと思った。
カチャがいないから、必然的にオットーはみやるりになる。
さすがの劇団も、暁くんにオットーをやらせる愚行は決断しなかったか。よかったよかった。
タニちゃんにネイサン@『ガイズ&ドールズ』をやらせた劇団と月組だから、持ち味も学年も実年齢も実力も無視して、強引な配役をしないとも限らないもんな。
つか、「主な」配役が多くてびっくり。
初演時の主役オットーと相手役フラムシェン、男爵とバレリーナ、その付き人のレズ女の5人しか記憶にナイ、しがない初心者っすから。
実際に見れば役割から思い出せると思うけど、ぶっちゃけ役名おぼえてないのだわ……。
そして、月組名物、怒濤の役替わり祭り。
月組って、宝塚歌劇団で唯一「役替わりがナイ方がめずらしい組」だよね……。
2012年
『ロミオとジュリエット』役替わり
2013年
『ベルサイユのばら』役替わり
『ルパン』ナシ
2014年
『宝塚をどり』『TAKARAZUKA 花詩集100!!』役替わり
『PUCK』ナシ
2015年
『1789』役替わり
『舞音-MANON-』ナシ
2016年
『NOBUNAGA<信長>』ナシ
2017年
『グランドホテル』役替わり
現トップお披露目公演から次代トップのお披露目公演まで、9本中5本が役替わりアリ。
他の組は数年に1本あるかないかなのに、月組は毎年。
いびつだなあ……。
組の体制が整った方が、人気が出る。
れおんくんの星組、ちぎくんの雪組で、劇団は学ばなかったのか……。
お披露目から役替わり祭りってことは、番手誤魔化しのその場しのぎ人事を継続するってことかニャ……?
あーさはまた女役だけど、やっぱ気を遣われてるなと思う。男役も役替わりでやるんだもの。(それに比べてだいもん桃娘は……笑)
また、暁くんとの差を大きく開けすぎないようにも、気を遣われているなと思う。
そういうことも含めて、暁くんの育て方が数年前のたまきちとダブる。
たまきちを上げたい、2番手にしたい。でも実力も人気も整わないから、上級生スターのみやるりとカチャを押しのけてまで2番手に出来ない。
とはいえポジションを上げたくて仕方がないから、無理にでもいい役を付けたり、上級生スターをさしおいて別箱主演をさせたりする。大スター天海祐希の役をやらせれば人気出るよね? 大スター天海祐希の役をやらせるんだから、次のトップだとわかるよね?
柱の陰から、チラッチラッとファンの顔色をうかがってる感じ。
本命のたまきちが弱すぎるから、いずれ番手から外す予定の上級生スターも、現状では無碍には出来ない。あっちもこっちも気を遣って、たまきちの扱いを上げきれない。
中途半端にいい扱いをして、中途半端だからファンも外野もとまどう。
わたしとしては、そんなに気を遣ってなにもかも中途半端にしなければならない下級生を「隙あらば上げたい」とやるのではなく、ふつーに学年も舞台スキルも人気も上のみやるりを2番手にしちゃえばいいのに、と思うけどなあ。や、たまきちに含みはまったくない、ただの外野として。
……この「たまきち」を暁くんに「みやるりとカチャ」をみやるりそのままでカチャをあーさに置換すると、現在の状況を表す文章にそのまま使える。わあ、リサイクル出来てエコ(笑)。
マギー主演バウは、ほんとのとこ暁くんを鍛えるためにあるんだと、劇団発表からして匂わせてるもんな。みやちゃんバウ主演したことないのに、あーさだって0.5しかしてないのに、暁くんだけ0.5ずつとはいえ、2年連続。
『月雲の皇子』やって『Bandito』やったたまきちみたいな?
劇団はまだ同じこと繰り返し続けるのか……。
暁くんが早く、痩せて垢抜けて、男役として魅力的な芝居が出来るようになればいいなあ……。でもって人気もタカラヅカ1~2を争うようになればなあ。
そうすれば劇団もすぱっと2番手に出来るだろうし、そうしても誰も不思議に思わないだろう。
そうなってほしくて、何年も何年も特別扱いを続けているんだから、そして、そうならない限りは彼の特別扱いと組の番手誤魔化しが続くのだとしたら、ほんと、みんなのために早く成長して欲しいと思う。(あ、この文章も暁くん→たまきちに置換可能だな)
思う……のに。
次、メインが女役なんだね……。
なんでそう、育てるのヘタなんだろうな、劇団……。
たまきちに似合わない耽美だとかはじけた若者だとかをやらせ続けた劇団らしいわ……。
役替わり祭りに、「新生」のはずの月組が「なにも変わらない」気配を感じてちょっと肩を落としましたが。
作品も男爵主役バージョンも楽しみです。
久しぶりに大劇場でみつるが見られるのも、楽しみです。
とりあえず。
男爵主役バージョンだー!!
主演のたまきちが男爵、ちゃぴがグルーシンスカヤ。
よかった。
たまきちは絶対オットーじゃないもん。
演目発表時はカチャ異動は未発表だったから、みやちゃんとカチャのどちらかがオットーだろうと思った。
カチャがいないから、必然的にオットーはみやるりになる。
さすがの劇団も、暁くんにオットーをやらせる愚行は決断しなかったか。よかったよかった。
タニちゃんにネイサン@『ガイズ&ドールズ』をやらせた劇団と月組だから、持ち味も学年も実年齢も実力も無視して、強引な配役をしないとも限らないもんな。
つか、「主な」配役が多くてびっくり。
初演時の主役オットーと相手役フラムシェン、男爵とバレリーナ、その付き人のレズ女の5人しか記憶にナイ、しがない初心者っすから。
実際に見れば役割から思い出せると思うけど、ぶっちゃけ役名おぼえてないのだわ……。
そして、月組名物、怒濤の役替わり祭り。
月組って、宝塚歌劇団で唯一「役替わりがナイ方がめずらしい組」だよね……。
2012年
『ロミオとジュリエット』役替わり
2013年
『ベルサイユのばら』役替わり
『ルパン』ナシ
2014年
『宝塚をどり』『TAKARAZUKA 花詩集100!!』役替わり
『PUCK』ナシ
2015年
『1789』役替わり
『舞音-MANON-』ナシ
2016年
『NOBUNAGA<信長>』ナシ
2017年
『グランドホテル』役替わり
現トップお披露目公演から次代トップのお披露目公演まで、9本中5本が役替わりアリ。
他の組は数年に1本あるかないかなのに、月組は毎年。
いびつだなあ……。
組の体制が整った方が、人気が出る。
れおんくんの星組、ちぎくんの雪組で、劇団は学ばなかったのか……。
お披露目から役替わり祭りってことは、番手誤魔化しのその場しのぎ人事を継続するってことかニャ……?
あーさはまた女役だけど、やっぱ気を遣われてるなと思う。男役も役替わりでやるんだもの。(それに比べてだいもん桃娘は……笑)
また、暁くんとの差を大きく開けすぎないようにも、気を遣われているなと思う。
そういうことも含めて、暁くんの育て方が数年前のたまきちとダブる。
たまきちを上げたい、2番手にしたい。でも実力も人気も整わないから、上級生スターのみやるりとカチャを押しのけてまで2番手に出来ない。
とはいえポジションを上げたくて仕方がないから、無理にでもいい役を付けたり、上級生スターをさしおいて別箱主演をさせたりする。大スター天海祐希の役をやらせれば人気出るよね? 大スター天海祐希の役をやらせるんだから、次のトップだとわかるよね?
柱の陰から、チラッチラッとファンの顔色をうかがってる感じ。
本命のたまきちが弱すぎるから、いずれ番手から外す予定の上級生スターも、現状では無碍には出来ない。あっちもこっちも気を遣って、たまきちの扱いを上げきれない。
中途半端にいい扱いをして、中途半端だからファンも外野もとまどう。
わたしとしては、そんなに気を遣ってなにもかも中途半端にしなければならない下級生を「隙あらば上げたい」とやるのではなく、ふつーに学年も舞台スキルも人気も上のみやるりを2番手にしちゃえばいいのに、と思うけどなあ。や、たまきちに含みはまったくない、ただの外野として。
……この「たまきち」を暁くんに「みやるりとカチャ」をみやるりそのままでカチャをあーさに置換すると、現在の状況を表す文章にそのまま使える。わあ、リサイクル出来てエコ(笑)。
マギー主演バウは、ほんとのとこ暁くんを鍛えるためにあるんだと、劇団発表からして匂わせてるもんな。みやちゃんバウ主演したことないのに、あーさだって0.5しかしてないのに、暁くんだけ0.5ずつとはいえ、2年連続。
『月雲の皇子』やって『Bandito』やったたまきちみたいな?
劇団はまだ同じこと繰り返し続けるのか……。
暁くんが早く、痩せて垢抜けて、男役として魅力的な芝居が出来るようになればいいなあ……。でもって人気もタカラヅカ1~2を争うようになればなあ。
そうすれば劇団もすぱっと2番手に出来るだろうし、そうしても誰も不思議に思わないだろう。
そうなってほしくて、何年も何年も特別扱いを続けているんだから、そして、そうならない限りは彼の特別扱いと組の番手誤魔化しが続くのだとしたら、ほんと、みんなのために早く成長して欲しいと思う。(あ、この文章も暁くん→たまきちに置換可能だな)
思う……のに。
次、メインが女役なんだね……。
なんでそう、育てるのヘタなんだろうな、劇団……。
たまきちに似合わない耽美だとかはじけた若者だとかをやらせ続けた劇団らしいわ……。
役替わり祭りに、「新生」のはずの月組が「なにも変わらない」気配を感じてちょっと肩を落としましたが。
作品も男爵主役バージョンも楽しみです。
久しぶりに大劇場でみつるが見られるのも、楽しみです。
『Bow Singing Workshop~星~』最終日に2回連続観劇。……や、チケット手に入っちゃったから(笑)。予定外だけど、これもまたよし。
月新公と同じ日だったから書くの遅くなっちゃったけど、観劇時のメモをもとに感想をば。
2回連続で観たので、2回分混ざってます。
今回ちょっと感動したのは、吉田優子せんせ。
生バンド入ってるのは歌バウお約束だし、イベント公演の指揮が音楽監督を務める先生なのもお約束だけど。
優子せんせ、キーボード兼指揮なのね。
キーボード弾きながら、要所要所で片手で指揮をする。
それがかっこいいのー。
おおっ、ここでこうくるのか!てな、曲の演出と先生の動きがシンクロしてて、すげー興味深い。なるほど、舞台はこうやって作られるんだなと。
見とれちゃったわ。
あと、舞台の使い方が偏っていることが、ちょっと気になった。
中村Bはわざとやってるのかしら?
出演者の大半が下手から登場して下手で歌うの。舞台の占有率が、センターと下手がほぼ同じくらい、上手はほとんど空きっぱなし。
誰もがセンターで歌うのは当然として、歌いながら移動して、センター以外で立ち止まってしばらく歌うでしょ。それがほぼ下手側なの。
途中から気になって、2回目は意識して観ちゃったわ。気のせいじゃない、下手ばっかだー。
左右均等にしなければならない決まりはないけど、前方上手端に坐ってたら切なかったろうな。せっかく前方席なのに、生徒さんがほとんど目の前に来ない、対角線上に立たれると遠いばかり、と。
月組のときは気づかなかったけど、全組こんな感じなのかな?
でもって、出演者の感想。
ほぼプログラム順……だけど、まんまでもない。人によって1幕2幕まとめてたり、あとでまとめて書いてたり。
宙組の歌バウのように全員分の感想メモがない。月新公と同日だったため、メモ書きする時間が少なかったの。帰りの電車の時間は同じだからねー。
オープニングのノバボサのあと、先頭切るのはしどりゅー。
『太陽王』から「太陽のごとく輝け」。
しどりゅーは声がいいな。なんかとっても正統派。初回はそれでも詰まるというか聴いていて不自然なところがあったんだけど、2回目は気にならなかった。
単体で観るとこうしてかっこいいのに、大劇場の大勢の中にいるとそれほどでもなくなっちゃうのはなんでなんだろ。
あやなちゃんは『ロミジュリ』から「いつか」。
イントロの甘いメロディを聴きながら、登場してきたあやなちゃんの甘い姿に期待感が高まる。美形キター! ロミオキター!
……が、その甘い美貌の君の歌声は、べつに甘くはなかった……。
歌バウに出るから、あやなくんは歌ウマなのかと思った……。『こうもり』新公でもふつうに歌っていたと思うし。
そうか……歌はいまいちなのか……歌がんばれ枠での出演だったのか。
音痴というほどではなく、ちょっと前のヅカならこれくらい歌えれば路線として無問題、むしろもっと破壊力ある音痴の方が路線スターっぽい、ってくらいだったけど。
でも今は歌えるスターがどんどん出て来ているから、この実力だといろいろと不自由かも?
歌が苦手だからなのか、歌う姿が固くてな……。歌唱力以前に表現力が課題か? 借りてきた猫みたいだ。もっとどーんとやっちゃっていいのに。
ゆうほくん、タータン……!
なんか、すげーイメージがかぶった。タータンよりも丸くてスタイルも残念なことになってるけど、歌唱力とか歌い方がすごくタータンを彷彿とさせた。
タータンがネバセイ歌ってる! タメるわクドいわこんなのネバセイぢゃない(笑)。
や、マジうまいです。
次の子はぜんぜん知らない子だ。さくらくん、101期、まだ研2か。若っ。
『誰がために鐘は鳴る』の主題歌。
2回目の方がやばい? 声裏返りかけまくる。ヘタではないんだけど、声を制御できてない。練習不足かな? 腹筋足りてないイメージ。
今回わたし、はじめてみねりちゃん個別認識した。
「エル・アモール」を慎くんとデュエット。
え、この子かわいい、声きれい、歌うまいー!
慎くんとふたり、ドラマティック。互いしか見ていない歌が好き。終わった後素に戻るギャップもいい。
いかにも「タカラヅカ」っぽくて、慎くんともども「いいもん観たー」という気持ちになった。
続く~~。
月新公と同じ日だったから書くの遅くなっちゃったけど、観劇時のメモをもとに感想をば。
2回連続で観たので、2回分混ざってます。
今回ちょっと感動したのは、吉田優子せんせ。
生バンド入ってるのは歌バウお約束だし、イベント公演の指揮が音楽監督を務める先生なのもお約束だけど。
優子せんせ、キーボード兼指揮なのね。
キーボード弾きながら、要所要所で片手で指揮をする。
それがかっこいいのー。
おおっ、ここでこうくるのか!てな、曲の演出と先生の動きがシンクロしてて、すげー興味深い。なるほど、舞台はこうやって作られるんだなと。
見とれちゃったわ。
あと、舞台の使い方が偏っていることが、ちょっと気になった。
中村Bはわざとやってるのかしら?
出演者の大半が下手から登場して下手で歌うの。舞台の占有率が、センターと下手がほぼ同じくらい、上手はほとんど空きっぱなし。
誰もがセンターで歌うのは当然として、歌いながら移動して、センター以外で立ち止まってしばらく歌うでしょ。それがほぼ下手側なの。
途中から気になって、2回目は意識して観ちゃったわ。気のせいじゃない、下手ばっかだー。
左右均等にしなければならない決まりはないけど、前方上手端に坐ってたら切なかったろうな。せっかく前方席なのに、生徒さんがほとんど目の前に来ない、対角線上に立たれると遠いばかり、と。
月組のときは気づかなかったけど、全組こんな感じなのかな?
でもって、出演者の感想。
ほぼプログラム順……だけど、まんまでもない。人によって1幕2幕まとめてたり、あとでまとめて書いてたり。
宙組の歌バウのように全員分の感想メモがない。月新公と同日だったため、メモ書きする時間が少なかったの。帰りの電車の時間は同じだからねー。
オープニングのノバボサのあと、先頭切るのはしどりゅー。
『太陽王』から「太陽のごとく輝け」。
しどりゅーは声がいいな。なんかとっても正統派。初回はそれでも詰まるというか聴いていて不自然なところがあったんだけど、2回目は気にならなかった。
単体で観るとこうしてかっこいいのに、大劇場の大勢の中にいるとそれほどでもなくなっちゃうのはなんでなんだろ。
あやなちゃんは『ロミジュリ』から「いつか」。
イントロの甘いメロディを聴きながら、登場してきたあやなちゃんの甘い姿に期待感が高まる。美形キター! ロミオキター!
……が、その甘い美貌の君の歌声は、べつに甘くはなかった……。
歌バウに出るから、あやなくんは歌ウマなのかと思った……。『こうもり』新公でもふつうに歌っていたと思うし。
そうか……歌はいまいちなのか……歌がんばれ枠での出演だったのか。
音痴というほどではなく、ちょっと前のヅカならこれくらい歌えれば路線として無問題、むしろもっと破壊力ある音痴の方が路線スターっぽい、ってくらいだったけど。
でも今は歌えるスターがどんどん出て来ているから、この実力だといろいろと不自由かも?
歌が苦手だからなのか、歌う姿が固くてな……。歌唱力以前に表現力が課題か? 借りてきた猫みたいだ。もっとどーんとやっちゃっていいのに。
ゆうほくん、タータン……!
なんか、すげーイメージがかぶった。タータンよりも丸くてスタイルも残念なことになってるけど、歌唱力とか歌い方がすごくタータンを彷彿とさせた。
タータンがネバセイ歌ってる! タメるわクドいわこんなのネバセイぢゃない(笑)。
や、マジうまいです。
次の子はぜんぜん知らない子だ。さくらくん、101期、まだ研2か。若っ。
『誰がために鐘は鳴る』の主題歌。
2回目の方がやばい? 声裏返りかけまくる。ヘタではないんだけど、声を制御できてない。練習不足かな? 腹筋足りてないイメージ。
今回わたし、はじめてみねりちゃん個別認識した。
「エル・アモール」を慎くんとデュエット。
え、この子かわいい、声きれい、歌うまいー!
慎くんとふたり、ドラマティック。互いしか見ていない歌が好き。終わった後素に戻るギャップもいい。
いかにも「タカラヅカ」っぽくて、慎くんともども「いいもん観たー」という気持ちになった。
続く~~。
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