宙組新人公演『エリザベート』観劇。

 なにをさておいてもわたしは、ルキーニ@和希そらが観たかった。

 それだけだった。
 『エリザ』新公は本気でチケットなくて手に入らなくて、かなり大変だったんだけど、「かずきそらのルキーニ」と思ったら、がんばれた。
 なにがなんでも観るんだ、と。


 そんでもって。

 和希そら、かっこよくないですか?

 わたしの目の錯覚ですか?
 わたしの心の錯覚ですか?

 和希そらがかっこいいです。
 ハンサムです。
 び……美形に見えます……お、おかしいでしょうか……?

 どきどきどきどき。

 うまいことは、わかりきってたし。出来ることも、わかりきってたし。
 だから、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
 それだけなの。

 なのに何故だ、わくわくする、どきどきする。

 和希そらがかっこよく見える……っ。

 ルキーニ効果なのかしら?
 ルキーニやると大抵男ぶりが上がって見えるよね? だから本公演では超トップ路線のスターにしかやらせないし。


 実を言うとわたし、前回の花組『エリザベート』から、「ルキーニって存外つまんない役だな」と思うようになっていて、役自体には気持ちが動かないのね。
 だからこれは、演じる役者への飢餓感度合いで変化する感覚なのだと思う。
 ルキーニの持つ「おいしさ」は、観ているわたしが、演じている人に対し「こんなにいい役をやってる! こんなに出番がある!」ことに感嘆の思いがないと、いまいち盛り上がらないもんなんだなあ、と。

 ルキーニ自身は愛に苦悩したり、人生に悩んだり、しないものね。最初から最後まで同じところにいて、変化も成長もない。
 ルキーニの変化って、ラストのシシィ暗殺場面だけだもんなあ。それ以外は時間経過すら彼にはない、物語を俯瞰しているだけの傍観者。
 カタルシスは、変化にある。同じリズムを刻むだけでは、華々しい主旋律に意識を持って行かれてしまう。

 だからわたしは、カズキソラに飢餓感を持っているのだと思った。メロディを放っておいて、ベースラインに注目しているもの。
 もっとそらくんを見たい。
 舞台上にいる彼を、声を出し、歌っている彼を見たい。
 「ルキーニ」という役は、それを満たしてくれる役だ。

 出番がある、台詞がある、歌がある。
 それだけでうれしい。ありがたい。

 カズキソラの変わり続ける表情を観ているだけで楽しい。
 シニカルな笑い、不意に冷徹になる面、内側から圧力を破裂させる、笑い。

 ……カズキソラの本役にちょっと不満があることもあり、余計にルキーニ役に食いついちゃうんだわ……。

 そしてわたし、かずきそらくんのビジュアルに夢を持っていない。どっちかっつーと、ビジュアルは難アリだと思っている。彼が美形だったら、いくら小柄でももっと路線スターとして扱われていたと思う、他組の小柄美形さんたちの扱いから鑑みて。
 これだけ実力があっても路線として弱いと判断されるのは、ひとえにビジュアルが原因なんだろうなと。
 そう思っていてなお。

 そらくんが、かっこいい。

 と、瞠目してしまう。
 今までの自分の認識に、揺らぎを感じる。
 ビジュ難だと思っていたのはわたしだけで、実はかずきそら、美形なんじゃ……?

 どきどきどきどき。

 ルキーニは出番が多くてオイシイ役。
 いやいやいや、ぜんぜん足りないよ、あっちゅー間に終わっちゃうじゃん、まだ足りてない、わたしにもっとかずきそらを見せろ~~!

 そう思いました。

 観る前からわかっていた、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
 ……ん? 観る前からわかってた?
 かっこいい、美形だ、てのは、新しい発見? 感動? え、そうなの?
 いやそのもっと、「彼のこの芝居はどーたら」とか語れることが発見とか感動とかかと……語る言葉がないのでなにもないのかと……。
 たんなるわたしの語彙力の問題?

 かずきそらは、新しい発見と感動に満ちている?

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