水しぇんの作り込まれた美しさに感動する日々。

 毎日スカステで流れる「……君を、愛してる」攻撃に、息も絶え絶えですよ。
 いやあ、いいなあ、すげえなあ。水くんを好きでよかったなあ。こんなこっ恥ずかしいキモチを味わえるなんて。

 や、あの恥ずかしさがいいんですよ、「きゃ〜〜っっ!!」って顔を覆って悲鳴上げながら、指の間からしっかり見ている状態、そーゆー恥ずかしさ(笑)。
 水くんくらい美しくて、リアルに男キャラとして萌えられる人だからこそのドリームですわ。……あああ、やっぱ初日から行くべきなのか、雪組公演。

 各組男役もアレ、やってくんないかなあ。
 TCAがDVD発売すればいいんじゃん。各組男役全員(笑)がひとり15秒ずつ「……愛してる」とキメるヤツ。
 トップから3番手くらいまでのスター様は何バージョンか収録してあって、番手外はみんな一律15秒のみ
 贔屓の出番が15秒であったとしても、みんな買うと思うけどな。や、わたしは買う。贔屓以外にも「……愛してる」を見たい人が山ほどいるし!
 はっち組長の「愛してる」とか、まりえったの「愛してる」とか、腰リュウ様の「愛してる」とか、見たいじゃんか、なあみんな?!
 そしてなにより、マチオ先輩の「愛してる」に、興味ないか? あるだろ?

 らんとむの「愛してる」攻撃に身悶えたいし、しいちゃんにヲトメ心を鷲掴みにされたい。
 花男たちは下級生の「アンタ誰?」な男の子まで本気で勝負かけてキザってくるだろうし(らいとネコちゃんがたのしみだ・笑)、マメとかお笑い系をキメつつもグッと来る告白をしそうだし、めぐむは盛大にスベりそうだし(ここぞというときにカマすイメージ有り)、想像するだけでたのしいよー。

 ゆーひくんとか、さぞや美しいだろう……。あのクール・ビューティにカメラ目線でんなこと言われた日にゃあ……。

 今収録すれば、オサ様の「愛してる」も見られるわけだし。絶対売れるよおぉぉおお。
 TCA様、劇団様、どーかどーか出してくださいませぇぇええ。

 
 ……はい。
 いろいろゆーてますが、とどのつまり、まっつの「愛してる」が見たいだけです。
 まっつのそんな映像作ってもらえるわけないし、よしんばあったとして、まっつ単体ぢゃ、売れるわけないし、それなら生徒全員、つーことにすれば、まっつも混ぜてもらえるかな、という姑息な考えでゆーてます……。や、他の人も見たい、つーのも本心だけどな。

 宝塚歌劇団では、スター様でないと「愛を語ることが出来ない」のですよ。
 主要人物しか恋愛しないんだもん。役者の数が多すぎるから、脇まで描いてるヒマないもん。
 だもんでわたし、愛を語るまっつを、ファンになってから一度も見たことないんだってば。
 あ、「海馬帝国のファーストレディに迎えよう」は、「愛の言葉」として却下です(笑)。あーゆーイロモノではなく、まともに恋愛して、愛を語るまっつが見たいのよ〜〜。

 まっつの「愛してる」映像があったら……き、きっと直視できないけどな。
 見るまでにひとりで大騒ぎして、音を消して画像だけ見たりスローモーションにしたり、意味のないことをいろいろやって、で、1回だけ勇気を振り絞って見たら……そのまま封印、2度と見ない気がする……や、「見られない」が正しいかな……。
 ヘタレなんだよ、ヲレ……。

 
 なんにせよ、水しぇんの「愛してる」攻撃は心臓に悪いですよ。番組の合間に、不意打ちしてくるからなー(笑)。
 つくづく、「男役」として美しい人だ。

 いったい何パターンあるんだろー。全種類コンプできるかなー。


 その昔。
 バウホールで『花吹雪恋吹雪』という作品を観た。

 はっきり言ってめちゃくちゃだった。ストーリーも時代考証もキャラ設定も。
 時の流れとか場面のつなぎ方とかも変だし、ストーリーをいちいちぶった切ってアニメのオープニングみたいなキメ・シーンが長々と入るし、わけわかんねー。

 まともなことなんか、ぜんぜんないのに。

 おもしろくて、仕方なかった。

 血が全身を駆けめぐる感じ。
 「おもしろい!!」と拳を握り、頭上に突き上げたり、リズムを取って振り回したくなる、そんなじっとしていられない高揚感。

 アタマの半分は冷静に「ありえねー、コワレてる」と思っているのに、もう半分は「ありえねー、おもしれー」と、興奮している。

 右脳だっけ、左脳だっけ、理屈ではなく感覚を司る部分。直感がすべてな動きをするの。
 『花恋吹雪』は、アタマの半分だけで愉しむ作品だった。
 理屈で考えちゃダメ。本能で感じろ、五感全部で愉しめ。

 当時のわたしは、『花恋吹雪』主演の安蘭けいのファンではなかった。
 好きかキライかと聞かれれば「好き」だと答えるが、ファンなのかと聞かれれば「別に」と答える。そのあたりの温度。
 贔屓組である雪組の御曹司だったから愛着はすげーあったし、『凱旋門』のハイメ役がすごくよくてヲトメ心がきゅんきゅん(笑)していたので大分株は上がっていたが、まだ「ファン」と呼べるほどのものではなかった。

 それでも、『花恋吹雪』には夢中になった。

 おもしろさに、理屈は不要だと、痛感した。

 いつもわたしは、「コワレてる」だの「物語の方程式からはずれている。これじゃ途中で論理崩壊して答えが出ない」とか、てきとーなこと言って文句垂れてるけど、そーゆー細かいことを全部まるっと「どーでもいいや」と思わせる力があったんだ。

 やーもー、うっかり五右衛門サマ@トウコちゃんに、恋してしまうし。

 あれほど華々しいFall in Loveは他にない(笑)。音がしそうなほど、一気にオチた。
 以来、五右衛門サマの写真とかを不意に目にすると「うッ」とうめいてのけぞったり、そのあとフニャフニャに熔解したりして、友人たちから「バカだこいつ」とバッサリやられたりしたもんだ。

 わたしが恋したのは五右衛門サマで、どうやらトウコちゃんではなかったらしい(最初は混同していたが、あとからチガウとわかった)が、それでもこのことにより、「安蘭けい」という人はわたしのなかで「トクベツ」になった。
 ファンなのかと聞かれ「好きだけど別にファンじゃない」と答えていたのに、このときから「ファンです、トウコちゃん大好き」と言えるようになった。

 あああ、なつかしいなあ、『花恋吹雪』。当時、石田三成@まとぶんのへたっぴさ(特に歌!!)に眩暈がしていたっけ……(笑)。
 まとぶさんのわたしの最初の印象って、『エピファニー』と『花恋吹雪』だから、いい印象なかったんだよなあ、あまりになにもかもへたっぴで。まさか今、こんなにいい男になり、好きになろうとは……(笑)。

 そのなつかしい……つまり昔の作品、『花恋吹雪』。

 未だにわたしは、『花恋吹雪』を齋藤吉正の最高傑作だと思っている(笑)。

 コレを超える魅力的なトンデモ作を、彼自身まだ作れずにいる。

 そのあとのサイトーくんの劣化は凄まじく、去年の『Young Bloods!! 』のときなんぞ、「もう見捨てようか」と思ったほどだ。

 だけど今。

 『花恋吹雪』から、なんと7年もの時を経て。

 『花恋吹雪』を彷彿とさせる作品が登場した。

 や、彷彿とさせる、つーことで、超えてはいないんだが、当時のテイストにここまで近いモノを、今さら作れるなんて。

 サイトーくんは、大人になっていないんだ。

 そのことに、驚く。

 『花恋吹雪』のおもしろさは、「めちゃくちゃさ」にあった。
 良識とか羞恥心とか理性とかを持ち合わせた、ふつーの大人は作れない。

「お月様にはウサギさんが住んでいるんだよ。さあ、そのウサギさんのお話をしようね」
 と言われても、「んなもんいねーよ」と知っている人と、本気で「月にいるウサギさんに会いたいなあ」と思っている人とでは、作る物語がチガウでしょう。

 『花恋吹雪』とその焼き直し作品『血と砂』以後、サイトーくんは迷走を続けた。

 誰だよ、齋藤吉正に「月にウサギはいない」って教えたの。たとえ真実でも現実でも、彼にはそんなもん、教える必要なかったのに。
 「月のウサギさん」を信じているからこそ、ふつーの大人には想像も付かない奇天烈な世界を展開していた斉藤作品は、「大人の目を意識した」余計な部分が見えるようになった。
 いらん知恵がついたために、作品がコワレているのはそのままなのに、小さく、つまらなくなっていった。

 もうあの、子どもゆえの、常識を知らないゆえのめちゃくちゃさは、なくなってしまったんだ……。

 そう思っていたのに。

 あの安蘭けいを主演に迎えての齋藤吉正最新作、『エル・アルコン−鷹−』

 齋藤吉正が、帰ってきた。

 ふつーの大人には作れないめちゃくちゃさで、『エル・アルコン−鷹−』を作ってきましたよ!!(笑)

 や、『花恋吹雪』のころに比べれば十分、「大人の分別」をわきまえた上で、それでもあのころのバカッパワーを持って。

 だからおもしろかった、『エル・アルコン』。
 サイトーくんのリビドーまんま、過去作品使い回し! どこを切ってもサイトーヨシマサ!!

 恥ずかしいほどのサイトー節に、おかしいやら泣けてくるやら。

 初日に観たとき、いろんなとこで眩暈を感じつつも、にやけてしょーがなかった。

 「好きだ!!」と叫んでいる、この作風。
 大人は叫ばないよ、理性とか羞恥心とか持ってるからね。

「原作が好きだ、安蘭けいが好きだ、タカラヅカが好きで、それから自分も好きだ〜〜!!」
 と、ハダカで叫んでいるよーな、作品。背中には「バカで悪いか」と油性マジックで殴り書き、「LOVE」と書いた長ハチマキ。
 そんなイメージだ、サイトーくん(笑)。

 好きなモノを「好きだ」とおそれずひるまず取り繕わず叫び、叫ぶことにさえよろこびを感じている子どものよう。

 恥ずかしいけれど、大好きだ。そーゆー作品。
 世界を動かすのは、愛ですよ。愛であるべきですよ。だから、「愛」が動機でできあがっている作品には、愛情を感じるのですよ。

 
 見終わったあと、「♪エル・アルコン〜〜」と歌が脳裏を回って仕方がなかった。

「♪マドリッド マドリッド 我ら夜の鷹 エル・アルコン♪」
「♪帰るあてのない エル・アルコン♪」

 男と女がベッド(長椅子)で重なり合って暗転、その部屋のセットの上には、その男を仇と狙う青年がスタンバっていて、暗転のあと降りてくる。
 
 男と彼を憎む青年、男と愛憎関係にあるヒロインの唐突な三重唱で、トライアングルを描く動きをする。

 復讐を誓う青年には若い仲間たちがいて、クライマックスの乱戦前に「道は俺たちがつくる!」と言う。

 ♪エル・アルコン エル・アルコン♪

 ……ええもちろん、『血と砂』(齋藤吉正作)の方ですよ。『血と砂』は、『花恋吹雪』のエロ+シリアス度アップした焼き直しだしね。
 あまりに似すぎていて、ウケてしまった。サイトーくんのリビドーまんま、恥ずかしいなあ(笑)。


 『エル・アルコン−鷹−』で心配なのは、原作を読んでいない人が、登場人物の多さについてゆけるだろうか? ということだ。
 なにかと衣装を替えて出てくるたーーっくさんの人たちの、名前と立ち位置と目的を、理解できるのかということ。

 あまりにたくさんキャラが出過ぎる。しかもみんな国と立場と目的がバラバラで、国が同じでも目的はちがったり、係累が複数いたり、時代によって立場が変わったり、ややこしいことこの上ない。
 わたしは原作ファンなのでそのへんの混乱が存在しないところからスタートしているので、原作未読の人がどう思い、どこまで理解できるのかはわからない。

 ただ、わたし的に問題なのは、「多すぎるキャラクタの区別が付くか、理解できるか」だけだと思っている。
 ここさえクリアでききるなら、あとは、どーでもヨシ。

 キャラさえわかればいい。
 ストーリーなんか、わからなくても無問題。

 キャラ萌え作品なんて、そんなもん。
 萌え系アニメとなった『ガンダム』がいい例よ、ストーリーなんか関係ない、どことどこがどんな理由で戦っていて、このミッションにどんな意味や政治的背景があり、具体的になにが行われているのか、知らなくても平気だもん。
 要は、萌えなキャラクタたちが萌えなことをしている、やりとりをしている、会話をしている、なにかしら派手でドラマティックな場面がある、関係がある、それだけの連続で、たのしめるもの。
 細かい理屈なんかどーでもいいのよ。

 波に乗れ。大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!

 ちまちま砂の上になにを作っていたって、波にはかなわない。
 波をたのしめばいい。

 だから最低限、キャラだけは理解・区別できないとねえぇ。
 原作知らなかったり、星組生徒を半分以下しか区別つかない人は、ついて来れているのかしら?

 サイトー作品のいいところは、こういう潔いまでのバカ作品、「大きな波だ、ざっぱ〜〜ん!!」を作れることにあると思うのよ。
 コワレた作品はヅカにいくらでもあるけれど、みんな「小さい」のよ。せせこましいのよ。どーせ壊すなら、大波の上でサーフィンできるような愉快なバカッパワーが欲しいのよ。

 前後のつながりも、意味もなくても、セリがんがん使って派手な音楽と派手な衣装で、盆回してスクリーンに映像流して、舞台装置使えるモノ全部使って、ここはテーマパークだ! たのしんでなんぼ! と宣言する。

 ストーリーぶった切ってかっこいいダンスと歌の場面入れて、いちいちキメポーズ。何回クライマックス、何回「ここで幕が下りる?」と思わせるか。
 気分はジェットコースター、絶叫系アトラクション、退屈されるくらいならあきれられた方がマシだぞホイ!

 やー、バカでいいですなぁ。
 気持ちいいですよ。

 ストーリーがどうとか、コワレてるとかは、言いっこなし。そこを突っ込むような作品ではない。「コワレてる」を前提にして、「ありえない」を前提にして、それでヨシ。

 もちろんソレでも不満はあるけれど。
 とりあえず今すぐ、心の声@録音テープ流すのやめろとかな(笑)。

 ニコラス@ゆかりが何故ティリアン@トウコにとって特別なのかを描け、とか、シグリット@みなみの出番、アレだけかよ、とか、てゆーかティリアン口説かせろ、エロ入れろエロ(ハァハァ・笑)とか、レッド@れおんの女装はどーした、とか、ジェラード@しいちゃんが死んだあと「自分で歩いて移動している」ことが客席から丸見えなのをなんとかしろ、とか、些細なことを言い出すとキリがないんだが(笑)。

 サイトーくんの言語感覚が変なのは今にはじまったことではないし、むしろソレをたのしんでいるので、「ラジャー」「ミッション」「リベンジ」等のバカっぽい単語の大安売りも、笑いながら受け入れた。
 なにしろ「グラン・ブルー グラン・メール グラン・スカイ」だもんなあ。

 唐突なスペイン語の応酬とかも、「キタ来たキタ(笑)!」って感じだー。『血と砂』でもやってたなー(笑)。
 『キル・ビル』という、これまた潔いバカ映画があるんだけど、ハリウッド女優たちがわざわざ日本でチャンバラやって、普段は英語喋ってるのに、キメ台詞だけわざわざ日本語なのよ。もちろんチョーへたっぴで、日本語なのに字幕必至なのよ。なんでキメ台詞だけ無意味に日本語?!(しかも超絶へたっぴ)と、爆笑させてくれる、愉快な映画。や、アメリカ人的には、キメ台詞が日本語だと「COOL!」てなもんなんでしょうよ。
 それと同じだよね、サイトーくん。キメ台詞が「よくわからない言語」だと、「かっこいい」んだよね(笑)。

 ジュリエット@キトリちゃんの思いきったバカぶりとか、オカマもまじった愛人ズのダンスとか、エリザベス女王@エレナと取り巻きたちの場面とか、星組ファンへの、サービスだよね?(笑) てな、生徒の使い方もマニアックでヨシ。

 基本「なんでも来〜い」、おもしろいからコワレてても許すぞ〜〜、なんだけど、心から「いらない」と思うのは、ティリアンとギルダの、幼なじみ設定。

 安い。
 安すぎるよ、このサイトー・オリジナル設定。ほんとに安い想像力つっーか情緒に欠ける男だな。まあ、そんな人だからこれだけ大雑把にぶっ壊れられるんだろうけど。

 幼なじみ設定にしたために、ティリアンとギルダ@あすかの結びつきが、安っぽく簡単プーに「子どものころ、やさしくしてもらったから特別な人」という展開に結びついちゃうでしょー。
 せっかく「七つの海七つの空」という魂の共鳴を描いているのに、台無しだ。

 まあなあ、サイトーくんの主人公は、泣き崩れて女の子に「あたしがアナタを守ってあげる」と言われないといけないので、孤独な少年ティリアンが、少女ギルダにやさしくしてもらわないといけないのかもしれないが。
 『花恋吹雪』でも『血と砂』でも、主人公とその恋人は「幼なじみ」設定だから、サイトーくんのリビドーとして、「幼なじみ」というのはハズせないのかもしれないが。

 幼なじみと心の声放送をなくしてくれりゃー、言うことないのになー。残念。

 たのしいですよ、『エル・アルコン』。


 初日に観たときは、ツボ突かれて笑ったり、あまりものサイトーくんぶりになまぬるく笑ったり、演出上のポカに失笑したり、ある意味意識散漫だったのかもしれないが。
 それでも「愉快」だから、きっとこの作品を愛せるだろうと思った。星組公演『エル・アルコン−鷹−』

 が。
 どーゆーことだ。

 2回目に観たとき、プロローグから泣きっぱなしだった。

 若さゆえの野心を感じさせるジェラード@しいちゃんと、駆け込んでくる小ティリアン@天寿。ふたりのやりとりはほんの一瞬なのに、心の交流が見える。
 「失われること」を前提とした美しさ。あたたかさ。

 しいちゃんという人。
 演技力があるとはまったく思ってないし、なにをやっても「しいちゃん」である彼は、だからこそ光を放つ。
 若く美しく力強くやさしく、そしていくばくかの愚鈍さと無神経さを持つ青年。
 彼は飛び込んできた少年に対し、慈愛の瞳と言葉を与える。

 ふわりと空気が動く。
 あたたかい。
 彼がどんな役で誰なのか、このあわただしいプロローグでは大して語られないが、ただ彼が「あたたかい」ことがわかる。
 世界を包む夕陽にも似た、あたたかなオレンジ色の光。

 少年が、彼を慕っていることがわかる。
 あたたかいから。
 そのあたたかさで、やさしい光で、すとんと納得できる。

 失われることがわかっている、あたたかさ。やさしい光。

 プロローグから、ジェラードの姿を見たときから、切なくて切なくて。
 幕が開くなり涙腺決壊ってどうなのよ。

 スパイであるジェラードを逃がした少年に、父親の怒りと不信が爆発し、身を守るために少年は父を刺す。
 いやあ、展開早すぎ、原作知らない人はついてこられるのか? せめておっさん登場時に小ティリアンに「父上」と呼ばせようよ、突然出てきて「そんなにあの男が好きか!」と怒り狂うおっさんは「ホモ?」「お稚児さんをめぐっての三角関係?」とか、見えないでもないぞっと。(え? そんなこと誰も考えない?)

 父を刃にかけた少年が、己れの魂のありかたを宣言する。
「私を殺そうとするモノは父上でも許さない」だっけ。
 強い自我。だからこそ輝く孤独。

「野心のままに生きてごらん。君にはそれが出来るはずだ」
 愛し、あこがれていた相手から与えられた言葉は、少年の道しるべとなる。

 肯定。
 それは、肯定の言葉。

 子どもっちゅーのは、ただもぉ第一に「愛されなくてはならない」。
 しつけとか教育とかとは、別の次元で。

「生まれてきてよかったんだよ」
「ここが君の居場所だよ」
 と、周りの大人はまず子どもに教えなければならない。
 ただ、愛することによって。

 ティリアン少年は、それを与えられていなかった。怒濤のプロローグからわかること。
 父に疎まれていたことから察せられる。

 彼が彼として生まれてきた、彼が彼であること、を、否定されてきた。
 父親に。あるいは、イギリス人らしくない容貌ゆえ周囲に。

 ただ愛されなければいけない時期に、彼は満足な愛を得られなかった。
 彼が彼であることを否定されていた。

 だからこそ。
 そのままのティリアン少年を「肯定」したジェラードの言葉が「呪文」になる。

 肯定。
 君は正しい。
 君は君のままでいい。

 父を刺した少年は知っている。それが「罪」であると。
 それでも彼は、「自分」を貫くことを選ぶ。
 世間の常識や倫理でどれほどまちがっていようと、関係ない。
 他人の決めた価値観より、己れの意志を肯定する。
 「罪」に手を汚してなお、信じる道を進む。欲望のままに。

 そこからはじまる物語。
 少年は野心に濡れる美しい青年となり、怒濤のオープニングがはじまる。

 サイトー☆サーカス極まれり(板/野/サーカス的イメージで言ってみる・笑)。
 アニメソング系のこっ恥ずかしくもノリのいい主題歌にのって、これでもかと派手な演出が続く。盆は回るわセリは上下するわ映像は流れるわ。や、正直「舞台」なんで映像はどーでもいいんだけど。にぎやかしとしてはアリだろう。

 このオープニングで、だだ泣きする。

 これでもか、これでもか。
 他のどのジャンルでもありえない豪華さととんでもなさで。ドラマティックに「物語」が開幕する期待感。
 わたしがタカラヅカに求めるもののひとつが、このオープニングに集約されている。

 「物語」の「真ん中」に立つティリアン@トウコ。
 その美しさと、眼の力。
 これは、彼の物語。
 大きな強い翼で生きた彼の物語。

 「肯定」の物語。
 他人の価値観ではなく、自分の信念を貫く物語。

 次々登場してくる人々は、ティリアンの人生を彩る人々。モブのダンサーやコーラス隊じゃない。ひとりひとりがこの世界に生きる人々。
 交差する人生。歌声。

 キャラクタが多すぎて、どこを見ていいかわからない。
 2回目観劇時はいつもの下手端にいたんだけど、真横の下手セリから誰かせり上がってきて、それがまひろで、びっくらこいた。
 あわてて上手を見れば、同じようにあかしがせり上がってるし!
 ちょお待て、マスターズ@あかしとスコット@しゅんって、原作では大した描かれ方してない脇役がせり上がりってなにごと?!(白目)
 や、初日もせり上がりがあったことは知ってるけど、なにしろ出演者多すぎにぎやか過ぎで「誰か出てきたけど、誰だろ」くらいで見ていられなかった、認識できなかった。
 あかしとしゅんだったのか! てか、んな脇役までなんでわざわざせり上がり?! 原作ファンならわかってるだろーけど、作者による思い入れor主と脇の区別で絵も主線の太さもまったくちがい、ティリアンの部下であるこのふたりは大した比重のないキャラなんだってば。
 その無意味っぷり、その大仰さにウケまくる。いいなあ、この無駄さ。や、派手になるんだから、いくらやってもいいんだよ。

 演出が派手であればあるほど、ティリアンの「物語」が大きくなる。
 彼が偉大になる。

 原作を好きで、トウコを好きなわたしは、このてんこ盛りさに胸が熱くなる。余力を残すことない、なりふりかまわない全力ぶりに、サイトーよくやった!!と叫びたい。

 女海賊ギルダ@あすかの美しさ、華やかさ。
 登場するなり、「彼女の物語」がそこに見える。

 白い大仰なドレスに細身の剣。
 海にも戦艦にも海賊にも、まったくそぐわない貴婦人姿で、剣を握るその存在感。
 男装の女海賊たちの中に立つ、ドレス姿の船長っつーのは、アニメ的「記号」としてもすばらしい。

 加えて登場する「第三勢力」、レッド@れおん。
 ギルダにしろレッドにしろ、彼らがナニモノでティリアンとどう関わるのかは説明されていないけれど、とにかくとびきりのドラマを予感させてティリアンへの敵愾心を歌う。

 ティリアンは「黒き翼」と歌い、ギルダは「翼をわたしの海に落とす」と歌い、レッドは「憎い黒い翼」と歌う。

 ティリアンを中心に、世界が隆起し、回りはじめる。

 「罪」とその自覚、それを超えてなお「肯定」を貫くところからはじまる、力強い物語。

 わくわく。
 わくわくわくっ。

 興奮して、体温が上がって、うれしくてうれしくてたまらなくなる。
 心臓がばくばく脈打つから、涙が出る。

 「ドラマティック」……それが今、ここにすべてある。

 つーことで、ジェラードのプロローグに引き続いて、オープニングでも泣けてしょーがないんだってぱ。

 
「ひどい主人公でどうなるかと思ったけれど、最後に改心してくれてよかったわ(笑)」

 とゆー会話が耳に入り、気が遠くなったりもした、『エル・アルコン−鷹−』

 してないからっ。改心なんてこれっぽちもしてない……つーか、そもそもそーゆー次元の話ぢゃないから。

 あー、うー、最後に白い衣装で現れたからかなあ、「改心した」とかいう誤解を生んでいるのって。
 悪人が死んで改心する話、だと受け取る人がいることへの衝撃。
 いやあ、人間って人間の数だけ感じ方があるんだよなあ。すげえなあ。

 
 アクロバティックなサーカス的ド派手オープニングの直後、野望の人ティリアン@トウコと彼を慕う少年ニコラス@ゆかりとのふたりきり場面になる。

 「罪」と「野心」を載せた黒い翼……しかしここで歌うのは一転して「七つの海七つの空」……だ。

 ええ、2回目は幕開きから泣いてますが、ここでもガーガー泣けます。

 ひたすら「強い」オープニングのあと、「純粋な夢」を歌う美しいシーンになるわけですよ。

 彼は、鷹なんだ。
 大きな翼で空を飛ぶ。
 小動物を捕らえて喰らう。

 何故、飛ぶのか。
 何故、弱者を喰らうのか。

 鷹にそんなことを問うても無意味だ。
 だって、鷹だから。
 そうすることが本能であり、それが「彼が彼で在ること」なんだ。

 ティリアンを「悪」と感じるのは、人間の勝手な尺度でしかない。
 巣に掛かった蝶を喰べる蜘蛛を「悪」、喰べられる蝶を「可哀想」と感じるのと同じ。

 わたしは人間だからもちろん彼を「悪」だと思うが、それとは別に彼の生き方を認めている。

 彼が彼で在ること。
 ただそれだけの物語のせつなさを、噛みしめている。

 そんなふうにしか生きられない……その、「業」のようなものを感じ、泣けて仕方がない。

 この物語は、「七つの海七つの空」に憑かれた者たちの物語でもある。
 ティリアンも、ギルダ@あすかも、そしてレッド@れおんも、みな「海」と「自由」に憑かれ、焦がれている。

 何故彼らが「海」に魅せられるのか、理由はない。
 彼らの魂のカタチである、としか言いようがない。

 鷹がその翼で空を飛ぶのと同じ。

 彼らは、他の誰でもない彼らだから、海に生き、海に死んでいくんだ。

 それは善悪という次元の話ではない。
 ミミズがミミズに生まれミミズとして生き、オケラがオケラに生まれオケラとして生き、アメンボがアメンボとして生まれ死ぬ、そーゆー次元の話だ。

 7年間土の中にいて、ひと夏だけ精一杯鳴いて死んでいく蝉に、善悪を解いても仕方がない。
 そーゆー次元の話ではないが、蝉の一生を思うとなにかしらせつないものを感じる、てゆーのが人間で。

 『エル・アルコン−鷹−』全体に感じるせつなさは、「彼が彼で在ること」に対するせつなさだ。

 ティリアンを悪だと思い、それでも美しいと思い、それでもそんなふうにしか生きられない彼に涙する。
 志半ばで散っていく最期を知っているから「可哀想」で泣けるのではない。ティリアンは別に「可哀想」な人ではない。

 「自分」がなんであるかを知り、そのためにまっすぐに生きた、ただ今回は力足りずに倒れた……それはちっとも哀れではない。
 無念だろうと思うけれど、憐憫ではない。

 鷹は自由に己れの翼で飛んだのだから。
 「自分」がなんなのか、自分の居場所は、行きたい場所はどこなのか、わからずにただなんとなく漂っている多くの人間たちに比べ、目的を持って飛び、前のめりに倒れた夢追い人の、どこが哀れだというのか。

 彼は幸福だ。
 幸福で、そして、孤独な人だ。

 自分がなんであるかもわからず、わからなくてもなにも感じず漂っている者たちとちがい、明確なビジョンが見えている彼は、ひとりちがう世界にいる。
 他の人間たちが知らない美しい光景を知っているかわり、他の人間たちが受けることのない痛みを背負い、血を流しながらも前へ進もうとしている。

 彼が彼で在ること。
 ただそれだけの、せつなさ。

 ニコラスとの関係を描くエピソードが欲しいのはほんとうだが、この最初の「夢」を語る場面があるのだから、それだけで十分っちゃ十分なのかもしれない、と思う。
 ティリアンが他人に「七つの海七つの空」を語るのは、ニコラスとギルダにのみだからだ。
 それだけで、彼らが「特別」であることはわかる。
 描く必要があるのは「ニコラスが誰か」であって、彼との個人的なエピソードではないな、と観劇2回目以降思った。

 台詞の応酬でいいから、ニコラスが子どもの頃にティリアンに助けられ、以後恩人として敬愛し、成長した今ティリアンの片腕を務めるよーになったんだ、つーことを入れるべきだ。
 説明台詞になっちゃうけどさー。エピソードを描くヒマがないなら、キャラ説明だけでもしよーよー。「アンタ誰??」状態だよ、いきなり出てこられても。
 ある意味光源氏と紫の上だっつーことを、観客に示そうよ。

 冒頭のこの場面だけでも、ニコラス役に演技力があれば、もっとなんとかなったと思う。
 だが如何せん、演じているのはゆかりくんだ。美貌は七難隠す、つーことでゆかりくんはゆかりくんだからいいんだが、「脚本に書いてある」以上のモノを出す力はない。
 ゆかりくんに合わせて、もっとわかりやすくするべきなんぢゃないかなぁ、ニコラス役。
 
 まあ、脚本の足りない部分、ゆかりくんの足りない部分を全部背負って、トウコがガンガンいってるから、それはソレでいいのかな。

 
 幕開きからここまでダダ泣きなのに、次の「♪プリマス プリマス♪」のシーンで涙は引っ込む。

 いやその、星組、アンサンブルすごすぎ。

 ええっと、コーラスもすごいけど、ソロもそれぞれ、けっこーすごくないか……?
 どういう基準で選んでいるんだろう。
 ふつーアンサンブルにしろソロ歌手にしろ、歌がうまい人がやるもんだけど、星組は、キャラ(個性)で選んでる?

 いやあ、いいなあ。一気に正気に返るっていうか、みんな小芝居やりすぎてて、メロディは奔放(笑)で。
 水輝涼ひとりぢゃどーにもなんねーなー、ここのものすごさは(笑)。

 や、誉めてます。
 そりゃ歌はうまいにこしたことないが、多少アレでも芝居の中として雰囲気出てるから。
 たのしいから好き。
 どこ見ていいか迷う。

 こっから先は、「キャラもの」として、それぞれのキャラクタのハマりっぷりを堪能。

 エドウィン@すずみんのお貴族サマぶりとか!
 あーもー、すずみんステキ〜〜、なんなのあのキラキラ。さすがジェローデル役者、お貴族サマ似合い過ぎ。

 ペネロープ@コトコトのお人形さんぶりとか。
 まさしく貴族の令嬢、気位の高いお姫様。世間知らずの壊れ物っぽいところがたまりません。

 てゆーかマスターズ@あかしの美貌は、なんなんですか。
 やばい、やばいっすよ彼!! かっこよすぎ。原作まんまの髪型、すげえ。

 てなふーに。

 次にせつなさに胸を焦がすのは、ティリアンとギルダの心が近づいてからだ。

 つーことで、続く。


 さて、トウコだからエロ話いきます。

 トウコだから。
 ええ、ティリアンを演じているのがトウコちゃんだから、です。星組公演『エル・アルコン−鷹−』

 そもそも『エル・アルコン』にはベッドシーンが2回ある。
 大劇場で通常の2本立て公演で、たった1時間半に2回のベッドシーン、つーのは前代未聞ぢゃないのかヲイ。

 もちろん原作がそーゆーもんで、原作はもっとベッドシーンあるし、みんな露出度高いしティリアンなんか何回ケツ見せたよ?てなもんであることは、わかっている。(原作は中高生時代に読んだ。手元には何故かない。……どこへやってしまったんだろー。『七海空』はあるのになー)
 サイトー演出のこの公演も、原作の台詞まんまで「必要だから」2回もそーゆーシーンがあることも、わかっている。

 そうじゃなくて。

 ベッドシーンがあるから、そーゆー話だから、エロ、というわけではない。

 トウコだから、エロい。
 とゆーことを話したいんだ。

 
 トウコと他のジェンヌとをもっとも別モノたらしめている要因はなんじゃろ? と考えたときに、浮かぶ答えは「生々しさ」にある。
 トウコには「妖精らしさ」がない。
 女の子が男役を演じるタカラヅカでは、舞台の上全部が作り物というか、「架空」であることをたのしむ、ファンタジーとしての世界観に貫かれている。
 ベッドシーンやきわどいラヴシーンがあっても、そこに「性」はなく、「愛のカタチ」のひとつの表現として受け止める。
 そこで語られるのは美しさやロマンティックさであり、ほんとーにぬめぬめした肉感的な話ではない。

 それが、トウコがそのテのシーンを演じると、そこに「肉」を感じさせてしまう。
 
 男役のときはそれでも「創って」いるからそこまで露骨にはならないが、彼女が女役をするとそのへんが赤裸々になっていた。
 『王家に捧ぐ歌』のアイーダのエロさ。そこまでエロくする必要はないだろうし、本人もエロさに主眼を置いた役作りなんかしてないだろうに、妙にエロい。
 ラダメス@ワタルに抱きしめられたときの吐息とか、男を愛撫する指使いとか、妙にリアルな「女」だった。
 『ベルサイユのばら』のオスカルの生々しさ。大昔の人が演出した謎のエビ反りラブシーンで、形骸化した「型」を眺めるだけのはずが、そこに「性」を感じさせてくれた。
 ふたりの男と女がこれから結ばれる……実際にあれやこれやするんだ、ということをはじめて思い知らせられ、見ていてうろたえた。や、『ベルばら』は何十回と見てきたけど、「今宵一夜」の意味なんか考えなかったもん。

 『王家』のときはあくまでもラヴシーン止まりだったせいかそこまで思わなかったが、『ベルばら』では、何故トウコを嫌う人たちが一定数いるのかを思い知った。
 これほど「生々しい」持ち味のあるスターは、たしかに両刃の剣だな、と。
 タカラヅカは夢の世界。現実を持ち込んではいけないところだ。
 なのにトウコには「ナマ」の部分がある。そこは夢の世界なのに、ひどく現実的な、猥雑なものがあるんだ。
 これは、拒絶反応が出る人たちがいても、おかしくない。
 ただ苦手とかキライ、とかじゃなくて、生理的に受け付けない、という類いの反応。

 だが、トウコの抗いがたい魅力を形成しているのも、その「生々しさ」所以だと思う。

 他の「妖精」たちと一線を画する「生々しさ」。夢の世界に現実を匂わせるイヤラしさ。
 これは、拒絶反応が出るのと同じように、熱狂的に支持される独特の部分だろう。

 『エル・アルコン』は男役だが、ティリアンはもともと「そーゆーキャラ」、もともとベッドシーン多し、ということで、トウコの生々しさが女役のときのように解禁になっている。

 ペネロープ@コトコトに対しては利害意図によってだからそれほどでもないんだが、ギルダ@あすかに対して、エロさが高まっている。

 「いやよいやよ」と言っていた女が、抱かれた翌朝から男にめろめろ、というのは、あまりに安っぽく馬鹿っぽいので、ヅカでは見たくない展開のひとつである。
 それでも、なお。

 トウコだと、ソレもアリだと思える。

 敗北した陣営の女が勝者に陵辱されるのは、現代を除いたほとんどの時代に、ふつーにあったこと。
 女は、殺されるだけでは済まない。死ぬより辛い目に遭うかもしれない。また、男と違って即殺されない分、生き残るチャンスがあるかもしれない。それだけの覚悟があって、ギルダは男と同じように海に出ていただろう。
 男と同じように、たくさんの傷を躯に刻みながら、戦い続けてきた。

 その傷はたしかに勲章である。
 ギルダの、故郷と海への愛情の証であり、彼女の強さを示すものである。
 だとしても。
 彼女が「女」である以上、カラダの醜い傷痕は「女」としての彼女を損なうモノ、彼女の「傷み」であるはずだ。

 男なら誇りとして見せびらかしてもいいモノが、女には恥になる。
 理不尽だと思うけれど、事実として「そう」なんだから仕方ない。

 誇りと、傷みと。海の戦士であり、女であるギルダの持つ矛盾。

 その矛盾を、ティリアンが射抜いたのだと思う。

 つーことで、翌日欄に続く。


 ティリアンとギルダが愛し合うこの物語は、原作とは別物だ。原作のティリアンは置いておいて、宝塚歌劇『エル・アルコン−鷹−』の、トウコ・ティリアンの話。

 ティリアン@トウコは、捕らえたギルダ@あすかに対して言う。「服を脱いでください」と。

 サイトーくんは原作の台詞をTPO無視して使い回しているので、他はともかくラヴシーンではサムいことになっている。
 サイトーくんは原作ファンなので、たぶん「この台詞かっくいーっ。絶対トウコに言わせたい〜〜! 萌え〜〜」とか思ってまんま使い回しているんだと思う。植爺のように意味もわからずパッチワークしているのではないのがわかるため、微笑ましいっちゃー微笑ましいんだが。
 マンガと舞台では表現方法がチガウため、マンガまんまをやってしまったために、ペネロープとの場面では初日に観客から爆笑されたりとえーらいこっちゃなことになっていた。

 それでも、エロパワー炸裂で演じきってしまうトウコ様に拍手。

 ペネロープとの場面はティリアン自身が「手段」と割り切っているのである意味義務的(笑)だが、ティリアン自身が求めているギルダとの場面はさらにエロ度がアップしている。

 「生々しさ」「妖精ではない、猥雑さ」という魅力を持つトウコの、本領発揮。
 嫌がる女を力尽くではなく(ポイント)、強引に抱いてしまう様が、トウコならでは。
 
  
 ギルダに対し、「最大の敬意と愛情を持つ」、「海の勇者への讃美の気持ち」と、まるで皮肉のように言いながら。
 強引に服を脱がせ、のしかかっていく。

 言葉では、彼の性格、生き方通りの刃をきらめかせながら……それでも、カラダでは……ギルダとの一夜では、ほんとうに、彼女への「最大の敬意と愛情」「海の勇者への讃美」を示したんじゃないだろうか。

 ヅカでベッドシーンがあったって、それは「愛のカタチ」、美しいキスシーンと変わらないただの記号のようなモノだと思っている。それ以上の生々しいことなんか考えない。
 だが、トウコだと、ほんとーに「それ以上」を考えてしまう。

 『エル・アルコン』でいうと、ティリアンが、どんなふうにギルダを抱いたのか、想像してしまう。

 今の少女マンガは性描写もえげつないが、昔の少女マンガは直接シーンは描かず、抱き合ってキスのあとは暗転、翌朝「チチチ…」と鳥の声がするところからはじまったもんだ。
 ヅカのベッドシーンも昔の少女マンガと同じく「朝チュン」(暗転のあとは翌朝、鳥が鳴く)と同じだし、それでいいと思っているんだが。
 星組公演『エル・アルコン』は、「朝チュン」にあらず。
 暗転せず、今の少女マンガのよーに行為がある、と思えてしまう。むしろそこにいちばんわかりやい「愛の在処」があると思う。

 ティリアンはほんとうに「最大の敬意と愛情」を持って、ギルダを抱いたのだろう。
 醜い傷に口づけ、愛撫したのだろう。

 ただの「愛」や「恋」ゆえのやさしさではなく。

 勝者が敗者を貶めるためではなく、その価値を知り、敬うための行為。

 ややこしい男だ、ティリアン。言葉だけ台詞にして書き出せばやさしい色男的なことを言っているけど、態度も口調も冷淡。おかげでやさしげな言葉は全部皮肉に聞こえる。でも実際抱かれてみれば、その言葉が嘘でないことがわかる。

 手法としては「朝チュン」なのに、実際にナニがどうあったかは描かれていないのに、暗転のあとを、想像してしまう。させてしまう。
 トウコのもつ生々しさが、せつなさを加速させる。

 ギルダに感情移入できるから。
 ただ「悪」としてしか、「敵」としてしか見てこなかった男に、恋をする。
 冷酷な言動の野心家。言葉ではない、表面には決して現れない部分で彼の「真実」に、文字通り、触れる。
 肌でしかわからないことがある。言葉を持たない獣のように。本能でしか、魂でしか、伝えるすべを持たない男と女が在る。

 やー、サイトー版『エル・アルコン』をノベライズしていいなら、「朝チュン」でなく、ちゃんとふつーの恋愛小説みたく愛の行為のあれこれも全部書き込みたいですな。そしてそこが、ヲトメ心を刺激する、せつない、泣ける場面になるはず。

 世間知らずの小娘ではないギルダが、「抱かれたから」ティリアンになびいたはずがない。
 次の場面で少女時代の思い出を歌う彼女は、ティリアンの真実に触れたから、記憶の底に眠っていた「孤独な少年」のことを思い出しちゃったりしてるわけだ。
 や、この「幼なじみ」設定は心から「いらん」と思っているけどね。「人を信じることのない瞳が自分を見るようだった」とかギルダは言うけど、ティリアンはともかく、ギルダはチガウやろ。領主の娘として、島民たちに慕われて育ったんぢゃねーの? だからこそ、故郷を守るために自ら傷だらけになっても戦うんでしょ?

 ギルダとティリアンは、「七つの海七つの空」に憑かれた男と女、つーことで十分愛し合う理由になる。
 同じカタチの魂を、互いの中に見つけることができる。
 愛し愛され、それゆえの誇りを持って育ったギルダ。心を閉ざし、それゆえに強く育ったティリアン。環境はちがっても、磨かれ方はちがっても、今、光を放つふたつの宝石はたしかに同じものだった。
 ……て、そーゆーことっしょ?

 だからふたりは、決して愛を語らない。

 彼らが口にするのは、「七つの海七つの空」。
 同じ魂が、同じ方角を見据えている。

 ふつーの男と女のように、ふつーの恋愛のように、互いの欠けた部分を埋め合うことなく。癒やし合うこともなく。
 同じところが欠けたまま、いびつなまま、かなしいまま、それでも光を放つ。同じ夢を見る。

 原作のティリアンとも『エル・アルコン』とも別物だけれど。
 でもこれもまた、たしかにティリアンであり『エル・アルコン』である。

 ギルダと出会うことで、ギルダを知ることで、ティリアン自身の輪郭が浮き彫りにされていく。

 だから。

 ギルダになって、ティリアンに恋をする。
 「愛している」とは、死んでも言わない恋だけど。言われることのない恋だけど。
 抱き合うことより、守られることより、癒すことより、背を合わせて闘う、肩を並べて走る、そんな関係だけど。

 それでも、黒い翼は七つの海と空を目指す。翼の向かう方角に、その彼方に思いを馳せる。

 
 ヘタに「これみよがしに恋愛を匂わせる」ことをしなくても、トウコとあすかなら、大人の愛憎をエロく見せてくれるよ、サイトーくん。
 トウコは放っておいてもイヤラシイし、あすかもそれを真正面から受けて立ってくれる。

 ああ、よくぞこのふたりがティリアンとギルダを演じてくれた。
 ベッドなだれ込みシーンで、演出以上のエロさを見せてくれることが、うれしくてならない。

 プラトニックよりはるかに、せつなくて愛しいから。
 傷痕を介する男と女の愛欲が。


 ティリアンとギルダの恋愛がメインになってしまったために、割を食ったのがティリアンを愛する男たち。

 すなわち、レッド@れおんと、ニコラス@ゆかり。

 星組公演『エル・アルコン−鷹−』の話。や、ヅカですから、大劇場ですから、ホモ話はあきまへん。恋愛は男と女でなきゃ。
 これがバウなら、ホモもぜんぜんアリですが。……なにしろサイトーくん、『エル・アルコン』とほとんど同じ枠組みの話『血と砂』で、兄弟心中話描いてるからな(笑)。女キャラはただの言い訳、兄と弟が愛し合い、憎み合い、最後は手を取り合って死んでいく話。

 原作ではティリアンに女(恋愛)の影はなく、ヒロイン・ポジションはニコラスか、あるいはレッドであるはずだった。

 ニコラスは「七つの海七つの空」という「夢」を語る相手としての部分を、まるっとギルダ@あすかに取られてしまったので、出番的にも扱い的にもどーにも分が悪い、というのはある。
 それでも演技巧者なら実力でなんとかするだろーが、まあ、今回は出番がアレだけだったせい(ムニャムニャ)、ということにしておいて。

 レッドに関しては、「改善の余地アリだろーがヲイ」と、笑顔で思うよ?
 
 どーしてレッドくんは、ああも無惨に色気がないですか?(笑)
 ブラック@和くんとふたりして、さわやか体育会系学生なのは何故ですか?(笑)

 レッドは「正義と良心」なんてしゃらくせぇことを本気で言うおにーちゃんで、そーゆー意味では正統派過ぎて美味しくないキャラだ。
 彼の「美味しさ」は、宿敵ティリアンへの愛憎でしょう。

 行き過ぎた憎悪は、激しい恋情と同じ。
 紙一重。
 裏返ってしまった感情。

 他のすべてを捨てて、ティリアンだけを追い求める。ティリアンだけを想う。
 恋するヲトメのよーに、ナニを見てもダレを見てもティリアンにしか見えない。

 そうすることで、「美味しく」なる役。
 『血と砂』のプルミタス@ゆーひが背徳の色気ダダ漏れでエロエロ復讐鬼を演じていたよーに。

 主人公を憎むがゆえに手を汚し、復讐の鬼となる美青年、つーのはそれだけでオイシイはず。

 たしかにレッドは「健全」さがウリの清廉潔白好男子だけど、そんな彼が憎しみに我を忘れ、人が変わったようにティリアンだけに固執する様、そしてティリアンの死に涙する様が、重要なはず。
 てゆーか、そうする方が単純に「オイシイ」のに、何故色気のカケラもなく体育会系一直線?

 サワヤカさんなのはいいから、ティリアンとの対峙場面だけにょろっとエロ気を出して、メリハリをプリーズ!

 そしてサイトーくん、れおんは放っておくと健全一直線無神経風味になるから、脚本でそれらしくフォローしてやってくれ。
 ラストシーンは、レッドを泣かせてくれよ、原作みたいに。

 周囲のいい男、いい女たちがこぞって惚れるからこそ、主役の格が更に上がるんだ。
 もともとアニメ的なのがサイトー作品の味なんだから、とことんまでアニメ的に盛り上げて、「主人公の愛♪争奪戦」をやってくれよ。
 登場人物全員が、主人公の愛をめぐって争うの。彼に無関心でいられるモノなんかひとりもない。愛(あるいは憎悪)を向けられるのよ。

 そんななかだからこそ、ただひとり主人公に愛を向けず、彼を愛する男のひとりを愛し続ける脇役が「脇スキー」のハートを射止めたりするのよ。

 つまり、ティリアンを愛(憎悪)するレッドに惚れて、献身的に尽くすブラックの存在が光るっちゅーわけだ。
 他の主な登場人物はもれなく「ティリアン、ティリアン」言ってるなか、ブラックひとりが「レッド、レッド」なのよ。そりゃ目立つわよ(笑)。

 スピンオフ、とゆー言葉が市民権を得る前から、BLでは脇キャラが別シリーズの主役になるのがお約束だった。主役カップルの攻に片想いしている脇キャラ(受)に横からちょっかい出したり支えたりしているいい男(攻)、このふたりを主人公に別シリーズスタート、てのは定番中の定番、5万回は見た。

 お約束キャラと設定なのに、レッドとブラックに色気がないのがもったいなさすぎて。
 なんかこいつら、ほのぼのを通り越してお笑いキャラに到達しそうだ……お笑いはジュリエット@キトリだけでいいのよぅ、君たちは踏み止まってくれぇ。

 『仮面ライダー』シリーズ(大人も鑑賞可)ならまだいいんだけど、その前の『戦隊モノ』(ターゲットは幼児)にまで視聴対象精神年齢オトされると、つらいなあ。

 や、ティリアンとギルダがアダルトだから、レッドたちでバランスを取っているんだ、すべてわざとだ、と言われればそれまでですが。

 原作と舞台は別物だと思っているけれど、精神ベクトルだけは変えて欲しくないと思う。
 ティリアンとギルダの恋愛も、別物だけどベクトルは変わっていない。
 ニコラスも、薄くて弱いけれど変わっていない。
 レッドだけが、原作からかけ離れているのが気になる。

 ティリアンを愛してくれ。

 誰よりも強く。「あの男は誰にも渡さない」と、全世界に向けて叫んでくれ。

 ……たんにわたしが、健康優良児なれおんより、まっすぐすぎて歪んだれおんが好みなのですわ(笑)。いやあ、プリンス@『Kean』はサイコーでした。


 『エル・アルコン−鷹−』を観て、思う。
 わたしがサイトーくんを好きなのは、とんでもないドラマティックさにあるのだと。
 その昔『花吹雪恋吹雪』に心ときめいたように。

 わたしは「そのジャンルでしか表現できないモノ」が好きだ。
 いろんなモノがあふれかえったこの現代で、何故ミュージカルで、何故タカラヅカなのか。「ここでしかできない」ことをやってくれるモノが好き。
 他で代用がきくモノには、興味ない。

 サイトーくんの「とんでもないドラマティックさ」は、他では表現しえないから、こんなにわくわくするんだ。

 ティリアン@トウコ側の物語を進めつつ、話題が女海賊ギルダ@あすかのことになる。
 すると盆が回り、女海賊たちを従えてギルダがせり上がってくる。ドレス姿で剣を握り、彼女のテーマソングを高らかに歌い上げる。

 たとえば小説ではありえないよね。ふつーに情景描写と台詞のやりとりになるだけ。
 じゃあ映画やアニメというなんでもありーのの映像作品なら歌とダンスを使って同じことはできるけれど、そこでの表現方法は異なってくるだろう。「ブランシュ・フルール♪」というテーマソングはBGMとして背景に流れるのみで、本人たちが歌い踊る必要はない。船の華麗さや女海賊たちであるという驚きの事実をいろんなカメラアングルで見せ、海賊たちのそれらしい会話から彼らの立ち位置を教えながら、それらを束ねる美女ギルダをアップで映すとか、そーゆー演出になるだろう。

 ミュージカルだからこその演出。ミュージカルであっても、「ここまでやらなくても……」まで突き抜けた、場の流れを一気に逆流させる勢いのとんでもなさ。徹底的にエンタメ。

 ミュージカルって、ダメな人はダメだよね。
「なんで歌うの? ふつーに喋れば済むことなのに」って。
 そりゃそーなんだが。
 でも、「感情」を盛り上げる上で、「音楽」は有効な手段なんだ。

 その「有効手段」を、サイトーくんは、わたしのバイオリズムに合うカタチで表現してくれる。
 わたしが「サイトー☆サーカス」を好きでしょうがないのは、そのためだと思う。

 とんでもない派手派手オープニング。女海賊ギルダ登場シーン。や、「プリマス・プリマス♪」に続いてこの「ブランシュ・フルール♪」の歌声には、ちと眩暈を感じたりもしますが……あああ星組ってどーしてこうアンサンブルがアレなのかなぁ……コーラスだけでなく、ソロもえーらいこっちゃ、だし。
 で、でもいいのっ、耳にやさしくなくても好きよ!!

 海戦場面はどれも好き。
 最初のティリアンVSギルダ。
 舞台の上で大仰な船も海もナニもないのに、それでも状況がわかる。
 壮大な闘いが、ギルダの戦上手さと統率力が、そして地の利を取られてなおそこから態勢をひっくり返すティリアンの優秀さと決断力が、ありありと見せつけられる。

 かっこいい。

 どちらかがおバカさんではダメなんだ。
 相手を敬服させるだけの力を持つからこそ、認め合うことで主人公たちはなお魅力的になっていく。

 「戦闘」をただなんとなーくどたばたしてみせたりダンスだけでお茶を濁すのではなく、ちゃんと真正面から描き、画面を派手に、主人公をさらにかっこよく、とんでもなくドラマティックに盛り上げたサイトーくんすげえ。

 わくわくわくっ。

 ティリアンVSギルダ、再戦の方もたのしいけれど、こちらはちょい控えめ。つーか、ここではふたりの一騎打ちがメインだから艦隊戦はあまり描かれていないしな。

 それよりも、ティリアンVSレッド。
 ティリアンに剣を突きつけながらも止めを刺さないレッド、あくまでも「正義と良心」、「法」によってティリアンを裁こうとするレッドを尻目にティリアンが勝利を宣言する。

 スペイン海軍登場シーン。

 ここがもう、心がざわざわするくらい好き。

 個人レベルのことしか考えていないレッドと、彼が想像もつかない野望を抱くティリアン。
 ふたりの男の差が、強大な艦隊の姿となって影を落とす。

 ティリアンがひたすらいい男で。悪であろーがなんだろーが、その姿はひたすらかっこよくて。
 正義を振りかざすレッドはただ無力で幼いばかり。ここから這い上がり、いい男になっていく、そのどん底具合。

 これが、「舞台」であること。「ミュージカル」であること。「タカラヅカ」であること。
 それらすべてを「代用のきかない」方法で盛り上げてくれる。

 たのしい。
 たのしいよー。
 このスペクタクルさ。
 ここまでやんなきゃ〜〜、せっかくのタカラヅカ、せっかくのミュージカル。

 
 細かいことは、全部吹っ飛ばして、ただ「わくわくわくっ」としていられる。

 今回のサイトーくんのサイトーくんらしいむちゃくちゃさ、大味さは大好きさ。

 ただ。

 
 ひとつだけ。

 たのむっ、旗艦エル・アルコンに見せ場を!!

 切実だ。

 念願のスペインに渡り、スペイン海将たちに嫌味を言われながらも「最高の戦艦」を建造するティリアン。
 これぞ彼の夢の結晶。
 その名も「エル・アルコン」! タイトルにもなっているキーワード。

 高まる音楽、登場人物総出で意思表明、これぞクライマックス!!の盛り上がり!!

 なのに。

「出航だ!!」
「火のついた海賊船が突進してきます!」
 どっかーーん。

 エル・アルコン、ぼろぼろ。

 早っ。

 どこのコントですか?!!
 大仰に登場した、次の瞬間敗北って。

 まずいっしょコレ。
 書き直してよ、少しも早く!

 エル・アルコンがどれほどすごい船かを、まず見せつけるんだ。
 海戦一発、あまりの力の差にイギリス軍も海賊たちも、またティリアンに反感を持っていたスペイン軍たちも、みんなあぜん。
 ティリアンが実力で、すべての波をねじ伏せる様を描いてくれ。

 で、一旦引いたのち、レッドたち海賊たちががんばって、エル・アルコンをやっつける。
 それならいいんだ。

 とにかく、エル・アルコンに見せ場を。

 1回くらいは勝たせてやってくれ。小うるさいじじい提督たちを唸らせてくれ。
「新しい歴史をつくるのは老人ではないっ!」by某赤い軍服の人@仮面無しバージョン……てなもんでな。

 エル・アルコンのダメさ加減で、ティリアンの株も暴落だよ……。あれじゃただの空気読めないアホな人だよ……。
 たのむよサイトーくん。エリザベス@エレナの歌を短くするなりなんなりして、改稿してくれぇ。や、エレナに含むところはなんにもないが、ここしかないし削れるところ。

 や、わたし的には草野ショーいらないから、1本立てにして、海戦を描いてくれ、と、素直に思いますがね(いい笑顔)。

 草野作品苦手っす。理解できないっす(笑)。


 草野に「生徒への愛」とか、「気配り」とかを求めたわたしがバカだった。

 わたしが草野旦作品を「ダメだ、わたしには合わない」と絶望したのは、のんちゃんお披露目の『マンハッタン不夜城』だった。
 渋い大人の魅力、言葉を返せば夢夢した王子様が似合わない実力派スター久世星佳に、メルヘ〜〜ンなくるくる巻き毛の王様を演じさせた。
 スターの持ち味無視。
 ひたすら気味悪い色遣い満載で、とくに大階段が出てからのフラフラした持ち物は気味悪かったなあ。
 誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやっていた。

 同時上演のミュージカル『CAN-CAN』はすごーくたのしくて大好きで、観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『マンハッタン不夜城』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
 どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。

 そして、デジャヴ。
 前にコレと同じことがあった。
 ミュージカル『ブラック・ジャック』を観終わったあと「もう一度観たい!!」と心から思ったが、そのあとショー『火の鳥』を観終わったあと「もう二度と観たくないっ」と力強く思った。
 どんなに芝居が好きでも、このショーのために劇場に足を運ぶことは出来ない。そう思わせた。

 ああ、そうだ。『火の鳥』の作者じゃん、この「くさの・たん」って人!!

 ……や、当時は演出家の名前までチェックしてなかったし、読み方なんか知らなかったから(笑)。

 
 そーだよなあ、のんちゃんにくるくる巻き毛の王ちゃまを演じさせた人だもんな。
 1作きりで退団するかしちゃんるいちゃんに、あんな悪趣味なショーを作った人だもんな。

 「生徒への愛」とか、「気配り」とか、あるわけないよな。
 ただ彼は、「自分がやりたいこと」をやるのみだ。

 
 はい、初日からつらかったです、『レビュー・オルキス―蘭の星―』

 もちろん、幕が開くなりおじーさんとおばーさんが登場したことで、盛大に萎えたことは言うまでもありません。

 またじじばばかよ、草野!!
 何回目だ? 笑いを取るために老人を使うその神経が信じられない。しかも、トップコンビがいきなり老人役?

 それでも、トウあすは本気で「演技」し、草野のワンパターンを「芸」として成り立たせていたけれど。
 ふたりがかわいいのは事実だけど。

 や、べつにいいんだ。じじばばでも。他がいいなら。

 さて、プロローグはじじばば大安売りに、がきんちょ大安売りだ。わざとらしい子役たちに、わざとらしい幼児喋りをさせ、老人が孫に語るカタチで物語がはじまる。

 若く美しい姿で登場する、トウコ。そしてあすか。
 みなさん派手に、にぎやかに。
 蘭をくわえて踊るのは、見た目も当人たちのつらさも考えると「やめてもいいんぢゃ?」て気がするけど、まあ草野的にはいいんだろう。

 オープニングから、「あれ?」と思った。

 それでも最初だから「そんなもんか」と思ってスルーした。

 だが。
 場面が進むにつれ、「あれ?」がどんどん加速し、「冗談じゃねえぞ」になった。

 場面が変わり、登場人物が変わっても。
 なにがどーなっても。

 トウコとあすかが、絡まないんだ。

 ふたりで踊る場面がない。
 ふたりが目を合わせ、ふたりで物語を作る場面がない。

 中詰めを過ぎてなお、ふたりは絡まない。
 どちらかが出て来ると、どちらかはいなくなる。

 なんだコレ??

 わざとやってんのか、ヲイ。

 プログラムも買ってないし、いつものよーに予備知識ナシだ。だからトウコとあすかが通し役で、ふたりが出会うまでえんえんすれ違うことなんか知っちゃいない。
 もちろん知らなくてもわかる。これだけ露骨にされれば。あー、最初のじじばばから話がつながっているんだな、と。

 にしても、出会わない時間が長過ぎるだろう、とじれじれしていると。
 よーやくふたりは出会い、せっかく出会ったのにタカラヅカ的ダンスではなく、高名な振付家によるタンゴを踊る。

 で、さんざん待たされ、よーやく出会った途端。

 ふたりは、じじばばになる。

 ええっ?!!
 コレで終わり?!!

 タカラヅカ的シーンは? 美しくロマンティックな、コテコテでワンパターンの、「伝統っていいよなバッキャロー」な世界は?

 ぼーぜん。

 
 いや、その。

 これが、「トウあすコンビ、トップ5作目」とかなら、ぜんぜんいいよ?
 せめて、コンビでのショー2作目なら。

 でもね。
 トウコとあすかは、組んでからはぢめての、洋物ショー(オリジナル)なのよ? そして、本拠地では洋物ショーはぢめてなのよ?

 でもって、次は大作一本物ミュージカルだって、わかってるのよ?

 トウコが5作や6作、4年5年とトップを張ることが確定しているなら、どんな個性的なショーがその任期の中に挟まっていても「コントラスト」だの「インパクト」だのになっていいよ?
 でもね。
 トウコちゃんの学年的に、それほど長い任期も作品数も考えられないわけで。

 ひょっとしたら、コレが最初で最後、1本きりのショー作品なのかもしれないんだよ?

 なのに、「タカラヅカ的」なことをなにもしない。
 トウコとあすかは、ふたりで同じ舞台に立つことがない。

 あんまりだ。
 あんまりだよ、草野。

 限られた作品数、トップコンビのいろんな「恋愛パターン」は芝居だけでは見せられない。
 たけどショーでは、場面ごとにいろんな愛のカタチを見せられる。
 貴族姫君と彼女に恋した騎士だとか、マフィアのボスの女に恋をして殺される男だとか、三角関係に揺れる男女だとか。さまざまな「夢の世界」を、見せてくれるもんでしょう。

 ワンパターンだけど。どこかて観たようなものに、どーしてもなってしまうけれど。
 モチーフは同じでも、それをどう見せるか。スターの個性を生かし、時代に合わせて。
 それが、座付き作家の仕事でしょう。

 トウコとあすかの、はじめての洋物ショー。
 ひょっとしたら、最後の洋物ショー。

 なのに、タカラヅカらしいシーンは皆無、そればかりか、同じ舞台にすら、立たない。

 なんなのコレ。

 草野が「空気を読める」人ならば、「生徒への愛」とか、「気配り」がある人ならば、こんな構成・演出にはならなかったはずだ。

 高名な外部振付家とやらを連れてきてもいいよ。でも、使い方を考えて。
 タカラヅカに合うかどうか、タカラヅカとしてよいものになるのかを考えて。

 誰のためでもなく、「自分がやりたいこと」だけをやったんだね。
 自分が気持ちいいことが最優先なんだね。

 さすが短期トップだったのんちゃんの貴重な1作をあんな作品に、かしるいのたった1作きりのショーをあんな作品に、した人だ。

 作品のクオリティ云々もだが、「生徒への愛」のなさは、他のなにより痛い。
 作品が多少アレでも、「愛」があふれていたら点数甘くなるもんな。世の中大切なのは愛、愛が世界を回しているのだから。

 や、たとえトウあすでなくても、単調でつまんないショーだと思っただろうけどな。
 初見から眠くなったもんよ。
 星っこたちがどこでなにをしているか見るのに必死だったから寝ているヒマはなかったが。

 ……それでも見どころや、ツボを探して観ているけどさ。
 よーやく出会ったトウあすの白いデュエットダンスは美しいしさ。

 『ザ・クラシック』を、『あさきゆめみしII』を観たときと同じ感想だ。

 草野、許すまじ。

 

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