さようなら宝塚ファミリーランド。
2003年4月8日 オタク話いろいろ。 1日ズレてるので、7日の日記ナリ。
2003年4月7日。
宝塚ファミリーランド最後の日。
ファミリーランドは、わたしにとって特別な場所だった。
思い出が詰まっていた。
それに浸るために、ひとりででかけた。
昔、遊園地が夢の空間だったころ。
わたしにいちばん夢を見せてくれたのは、ファミリーランドだったんだ。
何故緑野家は、なにかっちゃーファミリーランドに行っていたのだろう。
いちばん近い遊園地ではなかったのに。
冷静に分析すれば、かつてのファミリーランドは3世代家族が一度にたのしめる場所だったということだ。
我が家は3世代がひとつの船に乗る家庭だった。
明治生まれの祖父、大正生まれの祖母、昭和ヒト桁生まれの父、満州育ちの母、そして千里万博の記憶のあるわたし、万博の年に生まれた弟。
この「日本の現代史を語る」って感じの顔ぶれが、一度にたのしめる場所なんて、そうそうないよ。
宝塚ファミリーランドには、それがあった。
緑野家のばらばらな世代の人間がすべて、たのしめたんだ。
まず、温泉があった。
おしゃれなスパではなく、大衆温泉。畳敷きの大広間があり、誰でも自由に過ごすことができた。
父と祖父はよく、温泉に入ったあと大広間でビールを飲み、そのまま昼寝をしていた。
その間女子どもたちは動物園へ。決して広くない動物エリアは、老人と子連れの母親にはちょうどいい。
子どもが少し大きくなれば、遊園地に行くことができた。わたしは動物園より遊園地が好きで、弟と祖母を動物エリアに残し、母とふたりで遊園地で遊んだ。
帰りは花の道の脇にある商店で、おみやげを買ってもらう。たいてい炭酸せんべいだ。宝塚歌劇のスターの写真が缶に印刷されていた。
わたしが宝塚歌劇に出会ったのは、小学校も高学年になってからだ。それ以前は興味もなかった。
家族全員で遊びに行ける場所。
だからファミリーランドは、特別な場所だった。
幼かったころ。
まだわたしが、心の底から怒ることも、憎むことも、泣くことも知らなかったころ。
ただしあわせで、たのしくて、わらっていたころ。
現実も知らず、失望することも知らず、世界が夢と希望に満ちあふれていたころ。
そーゆー幼い記憶が残っている場所。
そして、ハタチを過ぎてからわたしは、宝塚歌劇にハマった。
当時の親友がハマったために、引きずられたんだ。……いちばんの仲良しが、ヅカの話しかしなくなるんだよ? ハマるしかないじゃない。彼女との共通言語欲しさに。
歌劇にハマったがゆえに、さらにファミリーランドは特別な場所になる。なにかっちゃー出掛けていく、とても近しい場所になる。
20代前半という、いちばんたのしく美しい時期を過ごした場所。
今はもう、会うこともなくなってしまった人たちと、過ごした場所。
幼くて、カンチガイしていて、ひたすらイタかったあのころだ。
10代のころのイタさとは、またチガウんだよな。20代のイタさってのは。なまじ社会に出て給料もらってたりするしな。時間と金と若さと体力、すべて持ち合わせているイタさだ。それゆえの暴走だ。……ああ、こわい。
ひたすら恥ずかしいばかりの時期だが……それゆえ余計に、なつかしい記憶であったりもする。
みんなそれぞれ大人になって、別の人生を歩んでいる。
失ったわけではないから、会おうと思えばいつでも会えるし、会えばたのしく過ごせるけれど、もうたぶんそうそう会うことはない。
歩く道が重なり合わなくなってしまったから。
時間が流れる、大人になる、とはそういうことだ。
モラトリアムだからこそ許されていた、ただ無邪気に若さを満喫できた日々。
本来は別の道にいるはずの人たちが、まだみんな同じトコロにいた。分岐点の手前。
と。
幼いころと、青春期という2大せつない記憶を抱いて、わたしはファミリーランド最後の日にそこにいた。
DJが当時の流行歌を流しながらカウントダウンするんだよ。
最初は60年代で、坂本九の『上を向いて歩こう』とかがかかっていた。さすがにこのあたりはわからない。
70年代に入り、ピンクレディーや山口百恵がかかるようになってはじめて「なつかしい」と思えた。
流行歌をBGMに、DJが当時の世の中の出来事と、ファミリーランドの出来事を語る。
「大人形館」は祖母が大好きだった。いつも身を乗り出すようにして見ていた。
わたしは正直なとこ、あまり好きじゃなかった。人形が不気味だったから。……今見ても、かなりセンス悪いと思うんだけど……なんであのデザイン?
人形は不気味だし、退屈でおもしろくない。なのに人気アトラクションで、いつも並ばないと入れなかった。並ぶのがウザかった。でも、スポンサーには逆らえない。わたしはおとなしく祖母に連れられて並んで入っていた。
いちばん好きだったのは、「スペースコースター」だ。
暗闇の中を走る、屋内型ジェットコースター。
ただの暗闇ではなく、宇宙空間に見立てた星々が瞬いている。
できた当初はものすごい人気。何時間並んだかな。入口のエスカレータのところでかかっていた電子音楽がお気に入りだった。
「妖精の館」には、どれほど感動しただろう。当時マンガを描いていたわたしは、わざわざ内部の様子をマンガにしていた。主人公たちがファミリーランドに行くという設定で。
美しい妖精の人形に見送られ、地下5000メートルにある妖精の国へ。5000メートルを一瞬で降りるエレベータから出たあとは、動く椅子に乗り、妖精たちの世界へ入る。
喋る石像、踊る妖精たち。そして最後には、鏡に映った自分たちの背後に、妖精がいるのを見ることができる。妖精と一緒に館を出ることになるわけだ。あの一体感。
18歳のときにはじめて東京ディズニーランドへ行き、真実を知ったよ。
「大人形館」は「イッツ・ア・スモール・ワールド」、「スペースコースター」は「スペース・マウンテン」、「妖精の館」は「ホーンテッド・マンション」のパクリだって。
コンセプトは全部同じ、だけど当然本家よりもファミリーランドはちゃちでダサかった。
ディズニーランドがまだアメリカにしかなかったころに、人気アトラクションをパクってたんだね。あのころはまさか、ディズニーランドが日本にもできるとは思ってなかったんだろうなあ。
本物を知ったあとでは、とてもまがい物に足を運ぶ気にはなれなかった。
それでも。
たとえまがい物であろうとも、それらで受けた感動は本物だ。
どんなにちゃちでダサくて恥ずかしくても、ファミリーランドは大切な場所だ。
立体動物園が好きだった。
迷路になったお城のよう。
夜行動物エリアに入るときは、いつも足がすくんだ。本能的に、闇がこわかった。
その向こうにある、緑のドーム、亜熱帯の温室と鳥の楽園。空気の重さ、臭い、奇妙な鳴き声、濃密な空間。異世界がそこにあった。
改めてファミリーランドを歩き、痛切に感じた。
愛しいのは記憶であって、場所ではないのだということ。
ファミリーランドはもう、わたしの愛したファミリーランドではなかった。
ここ10年、わたしは取材以外でまともにファミリーランドを歩いていない。
何故ならば、ファミリーランドは変わってしまったからだ。
DJのおかげでよくわかった。94年の「改悪」。あれですっかり変わってしまったんだ。
異世界感覚が際立っていた立体動物園の緑のドームが、あのときになくなったんだ。
動物園は縮小、動物たちは信じられないような小さな檻に入れられた。
ガラスケースだ。水族館のようなガラスの檻に入れられたんだ。空も見えない、外の空気も吸えない。
ガラスの檻の中に閉じこめられたわずかな動物たちと、エサにたかったたくさんのゴキプリ。……動物よりゴキブリの数の方が多かったな。
あれは、ショックな光景だった。
えんえん工事して、なにをやってるのかと思えば、こんなかなしいことに……。
見るに忍びなくて、そして実際たのしいとも思えない場所に成り果てていたので、それ以来二度と行かなくなった。
実際にファミリーランドを歩きながら、わたしはもうここにはないファミリーランドを懐かしんでいた。
なくなるのも仕方ない。
てゆーか、すでになくなっていたんだ。
記憶とかなしみと、失ってしまったもの。
年を取った自分。
せつなくて、懐メロを聴きながら涙が浮かんでくる。
それにしても、いい天気だ。
快晴、空は青。
桜は満開。
今日でよかった。
たくさんの人。
家族連れ、カップル、グループ。
小さな小さな子どもたち、ここでの記憶はいつか、大人になった君たちの胸を熱くするのかな?
得たモノを大切にするように、失ったモノを抱きしめて生きていきたい。
ウエットなのはわたしの芸風なのよ。
たくさん泣いて、わたしはわたしになるの。
とゆー、特別な日。特別な場所。
わたしは宝塚ファミリーランドが大好きだった。
2003年4月7日。
宝塚ファミリーランド最後の日。
ファミリーランドは、わたしにとって特別な場所だった。
思い出が詰まっていた。
それに浸るために、ひとりででかけた。
昔、遊園地が夢の空間だったころ。
わたしにいちばん夢を見せてくれたのは、ファミリーランドだったんだ。
何故緑野家は、なにかっちゃーファミリーランドに行っていたのだろう。
いちばん近い遊園地ではなかったのに。
冷静に分析すれば、かつてのファミリーランドは3世代家族が一度にたのしめる場所だったということだ。
我が家は3世代がひとつの船に乗る家庭だった。
明治生まれの祖父、大正生まれの祖母、昭和ヒト桁生まれの父、満州育ちの母、そして千里万博の記憶のあるわたし、万博の年に生まれた弟。
この「日本の現代史を語る」って感じの顔ぶれが、一度にたのしめる場所なんて、そうそうないよ。
宝塚ファミリーランドには、それがあった。
緑野家のばらばらな世代の人間がすべて、たのしめたんだ。
まず、温泉があった。
おしゃれなスパではなく、大衆温泉。畳敷きの大広間があり、誰でも自由に過ごすことができた。
父と祖父はよく、温泉に入ったあと大広間でビールを飲み、そのまま昼寝をしていた。
その間女子どもたちは動物園へ。決して広くない動物エリアは、老人と子連れの母親にはちょうどいい。
子どもが少し大きくなれば、遊園地に行くことができた。わたしは動物園より遊園地が好きで、弟と祖母を動物エリアに残し、母とふたりで遊園地で遊んだ。
帰りは花の道の脇にある商店で、おみやげを買ってもらう。たいてい炭酸せんべいだ。宝塚歌劇のスターの写真が缶に印刷されていた。
わたしが宝塚歌劇に出会ったのは、小学校も高学年になってからだ。それ以前は興味もなかった。
家族全員で遊びに行ける場所。
だからファミリーランドは、特別な場所だった。
幼かったころ。
まだわたしが、心の底から怒ることも、憎むことも、泣くことも知らなかったころ。
ただしあわせで、たのしくて、わらっていたころ。
現実も知らず、失望することも知らず、世界が夢と希望に満ちあふれていたころ。
そーゆー幼い記憶が残っている場所。
そして、ハタチを過ぎてからわたしは、宝塚歌劇にハマった。
当時の親友がハマったために、引きずられたんだ。……いちばんの仲良しが、ヅカの話しかしなくなるんだよ? ハマるしかないじゃない。彼女との共通言語欲しさに。
歌劇にハマったがゆえに、さらにファミリーランドは特別な場所になる。なにかっちゃー出掛けていく、とても近しい場所になる。
20代前半という、いちばんたのしく美しい時期を過ごした場所。
今はもう、会うこともなくなってしまった人たちと、過ごした場所。
幼くて、カンチガイしていて、ひたすらイタかったあのころだ。
10代のころのイタさとは、またチガウんだよな。20代のイタさってのは。なまじ社会に出て給料もらってたりするしな。時間と金と若さと体力、すべて持ち合わせているイタさだ。それゆえの暴走だ。……ああ、こわい。
ひたすら恥ずかしいばかりの時期だが……それゆえ余計に、なつかしい記憶であったりもする。
みんなそれぞれ大人になって、別の人生を歩んでいる。
失ったわけではないから、会おうと思えばいつでも会えるし、会えばたのしく過ごせるけれど、もうたぶんそうそう会うことはない。
歩く道が重なり合わなくなってしまったから。
時間が流れる、大人になる、とはそういうことだ。
モラトリアムだからこそ許されていた、ただ無邪気に若さを満喫できた日々。
本来は別の道にいるはずの人たちが、まだみんな同じトコロにいた。分岐点の手前。
と。
幼いころと、青春期という2大せつない記憶を抱いて、わたしはファミリーランド最後の日にそこにいた。
DJが当時の流行歌を流しながらカウントダウンするんだよ。
最初は60年代で、坂本九の『上を向いて歩こう』とかがかかっていた。さすがにこのあたりはわからない。
70年代に入り、ピンクレディーや山口百恵がかかるようになってはじめて「なつかしい」と思えた。
流行歌をBGMに、DJが当時の世の中の出来事と、ファミリーランドの出来事を語る。
「大人形館」は祖母が大好きだった。いつも身を乗り出すようにして見ていた。
わたしは正直なとこ、あまり好きじゃなかった。人形が不気味だったから。……今見ても、かなりセンス悪いと思うんだけど……なんであのデザイン?
人形は不気味だし、退屈でおもしろくない。なのに人気アトラクションで、いつも並ばないと入れなかった。並ぶのがウザかった。でも、スポンサーには逆らえない。わたしはおとなしく祖母に連れられて並んで入っていた。
いちばん好きだったのは、「スペースコースター」だ。
暗闇の中を走る、屋内型ジェットコースター。
ただの暗闇ではなく、宇宙空間に見立てた星々が瞬いている。
できた当初はものすごい人気。何時間並んだかな。入口のエスカレータのところでかかっていた電子音楽がお気に入りだった。
「妖精の館」には、どれほど感動しただろう。当時マンガを描いていたわたしは、わざわざ内部の様子をマンガにしていた。主人公たちがファミリーランドに行くという設定で。
美しい妖精の人形に見送られ、地下5000メートルにある妖精の国へ。5000メートルを一瞬で降りるエレベータから出たあとは、動く椅子に乗り、妖精たちの世界へ入る。
喋る石像、踊る妖精たち。そして最後には、鏡に映った自分たちの背後に、妖精がいるのを見ることができる。妖精と一緒に館を出ることになるわけだ。あの一体感。
18歳のときにはじめて東京ディズニーランドへ行き、真実を知ったよ。
「大人形館」は「イッツ・ア・スモール・ワールド」、「スペースコースター」は「スペース・マウンテン」、「妖精の館」は「ホーンテッド・マンション」のパクリだって。
コンセプトは全部同じ、だけど当然本家よりもファミリーランドはちゃちでダサかった。
ディズニーランドがまだアメリカにしかなかったころに、人気アトラクションをパクってたんだね。あのころはまさか、ディズニーランドが日本にもできるとは思ってなかったんだろうなあ。
本物を知ったあとでは、とてもまがい物に足を運ぶ気にはなれなかった。
それでも。
たとえまがい物であろうとも、それらで受けた感動は本物だ。
どんなにちゃちでダサくて恥ずかしくても、ファミリーランドは大切な場所だ。
立体動物園が好きだった。
迷路になったお城のよう。
夜行動物エリアに入るときは、いつも足がすくんだ。本能的に、闇がこわかった。
その向こうにある、緑のドーム、亜熱帯の温室と鳥の楽園。空気の重さ、臭い、奇妙な鳴き声、濃密な空間。異世界がそこにあった。
改めてファミリーランドを歩き、痛切に感じた。
愛しいのは記憶であって、場所ではないのだということ。
ファミリーランドはもう、わたしの愛したファミリーランドではなかった。
ここ10年、わたしは取材以外でまともにファミリーランドを歩いていない。
何故ならば、ファミリーランドは変わってしまったからだ。
DJのおかげでよくわかった。94年の「改悪」。あれですっかり変わってしまったんだ。
異世界感覚が際立っていた立体動物園の緑のドームが、あのときになくなったんだ。
動物園は縮小、動物たちは信じられないような小さな檻に入れられた。
ガラスケースだ。水族館のようなガラスの檻に入れられたんだ。空も見えない、外の空気も吸えない。
ガラスの檻の中に閉じこめられたわずかな動物たちと、エサにたかったたくさんのゴキプリ。……動物よりゴキブリの数の方が多かったな。
あれは、ショックな光景だった。
えんえん工事して、なにをやってるのかと思えば、こんなかなしいことに……。
見るに忍びなくて、そして実際たのしいとも思えない場所に成り果てていたので、それ以来二度と行かなくなった。
実際にファミリーランドを歩きながら、わたしはもうここにはないファミリーランドを懐かしんでいた。
なくなるのも仕方ない。
てゆーか、すでになくなっていたんだ。
記憶とかなしみと、失ってしまったもの。
年を取った自分。
せつなくて、懐メロを聴きながら涙が浮かんでくる。
それにしても、いい天気だ。
快晴、空は青。
桜は満開。
今日でよかった。
たくさんの人。
家族連れ、カップル、グループ。
小さな小さな子どもたち、ここでの記憶はいつか、大人になった君たちの胸を熱くするのかな?
得たモノを大切にするように、失ったモノを抱きしめて生きていきたい。
ウエットなのはわたしの芸風なのよ。
たくさん泣いて、わたしはわたしになるの。
とゆー、特別な日。特別な場所。
わたしは宝塚ファミリーランドが大好きだった。