1日ズレてるので、7日の日記ナリ。

 2003年4月7日。
 宝塚ファミリーランド最後の日。

 ファミリーランドは、わたしにとって特別な場所だった。
 思い出が詰まっていた。

 それに浸るために、ひとりででかけた。

 昔、遊園地が夢の空間だったころ。
 わたしにいちばん夢を見せてくれたのは、ファミリーランドだったんだ。

 何故緑野家は、なにかっちゃーファミリーランドに行っていたのだろう。
 いちばん近い遊園地ではなかったのに。
 冷静に分析すれば、かつてのファミリーランドは3世代家族が一度にたのしめる場所だったということだ。

 我が家は3世代がひとつの船に乗る家庭だった。
 明治生まれの祖父、大正生まれの祖母、昭和ヒト桁生まれの父、満州育ちの母、そして千里万博の記憶のあるわたし、万博の年に生まれた弟。
 この「日本の現代史を語る」って感じの顔ぶれが、一度にたのしめる場所なんて、そうそうないよ。

 宝塚ファミリーランドには、それがあった。
 緑野家のばらばらな世代の人間がすべて、たのしめたんだ。

 まず、温泉があった。
 おしゃれなスパではなく、大衆温泉。畳敷きの大広間があり、誰でも自由に過ごすことができた。
 父と祖父はよく、温泉に入ったあと大広間でビールを飲み、そのまま昼寝をしていた。
 その間女子どもたちは動物園へ。決して広くない動物エリアは、老人と子連れの母親にはちょうどいい。
 子どもが少し大きくなれば、遊園地に行くことができた。わたしは動物園より遊園地が好きで、弟と祖母を動物エリアに残し、母とふたりで遊園地で遊んだ。
 帰りは花の道の脇にある商店で、おみやげを買ってもらう。たいてい炭酸せんべいだ。宝塚歌劇のスターの写真が缶に印刷されていた。
 わたしが宝塚歌劇に出会ったのは、小学校も高学年になってからだ。それ以前は興味もなかった。

 家族全員で遊びに行ける場所。
 だからファミリーランドは、特別な場所だった。

 幼かったころ。
 まだわたしが、心の底から怒ることも、憎むことも、泣くことも知らなかったころ。
 ただしあわせで、たのしくて、わらっていたころ。
 現実も知らず、失望することも知らず、世界が夢と希望に満ちあふれていたころ。
 そーゆー幼い記憶が残っている場所。

 
 そして、ハタチを過ぎてからわたしは、宝塚歌劇にハマった。
 当時の親友がハマったために、引きずられたんだ。……いちばんの仲良しが、ヅカの話しかしなくなるんだよ? ハマるしかないじゃない。彼女との共通言語欲しさに。

 歌劇にハマったがゆえに、さらにファミリーランドは特別な場所になる。なにかっちゃー出掛けていく、とても近しい場所になる。

 20代前半という、いちばんたのしく美しい時期を過ごした場所。
 今はもう、会うこともなくなってしまった人たちと、過ごした場所。
 幼くて、カンチガイしていて、ひたすらイタかったあのころだ。
 10代のころのイタさとは、またチガウんだよな。20代のイタさってのは。なまじ社会に出て給料もらってたりするしな。時間と金と若さと体力、すべて持ち合わせているイタさだ。それゆえの暴走だ。……ああ、こわい。

 ひたすら恥ずかしいばかりの時期だが……それゆえ余計に、なつかしい記憶であったりもする。

 みんなそれぞれ大人になって、別の人生を歩んでいる。
 失ったわけではないから、会おうと思えばいつでも会えるし、会えばたのしく過ごせるけれど、もうたぶんそうそう会うことはない。
 歩く道が重なり合わなくなってしまったから。

 時間が流れる、大人になる、とはそういうことだ。
 モラトリアムだからこそ許されていた、ただ無邪気に若さを満喫できた日々。
 本来は別の道にいるはずの人たちが、まだみんな同じトコロにいた。分岐点の手前。

 
 と。
 幼いころと、青春期という2大せつない記憶を抱いて、わたしはファミリーランド最後の日にそこにいた。

 DJが当時の流行歌を流しながらカウントダウンするんだよ。
 最初は60年代で、坂本九の『上を向いて歩こう』とかがかかっていた。さすがにこのあたりはわからない。
 70年代に入り、ピンクレディーや山口百恵がかかるようになってはじめて「なつかしい」と思えた。
 流行歌をBGMに、DJが当時の世の中の出来事と、ファミリーランドの出来事を語る。

 「大人形館」は祖母が大好きだった。いつも身を乗り出すようにして見ていた。
 わたしは正直なとこ、あまり好きじゃなかった。人形が不気味だったから。……今見ても、かなりセンス悪いと思うんだけど……なんであのデザイン?
 人形は不気味だし、退屈でおもしろくない。なのに人気アトラクションで、いつも並ばないと入れなかった。並ぶのがウザかった。でも、スポンサーには逆らえない。わたしはおとなしく祖母に連れられて並んで入っていた。

 いちばん好きだったのは、「スペースコースター」だ。
 暗闇の中を走る、屋内型ジェットコースター。
 ただの暗闇ではなく、宇宙空間に見立てた星々が瞬いている。
 できた当初はものすごい人気。何時間並んだかな。入口のエスカレータのところでかかっていた電子音楽がお気に入りだった。

 「妖精の館」には、どれほど感動しただろう。当時マンガを描いていたわたしは、わざわざ内部の様子をマンガにしていた。主人公たちがファミリーランドに行くという設定で。
 美しい妖精の人形に見送られ、地下5000メートルにある妖精の国へ。5000メートルを一瞬で降りるエレベータから出たあとは、動く椅子に乗り、妖精たちの世界へ入る。
 喋る石像、踊る妖精たち。そして最後には、鏡に映った自分たちの背後に、妖精がいるのを見ることができる。妖精と一緒に館を出ることになるわけだ。あの一体感。

 18歳のときにはじめて東京ディズニーランドへ行き、真実を知ったよ。
 「大人形館」は「イッツ・ア・スモール・ワールド」、「スペースコースター」は「スペース・マウンテン」、「妖精の館」は「ホーンテッド・マンション」のパクリだって。
 コンセプトは全部同じ、だけど当然本家よりもファミリーランドはちゃちでダサかった。
 ディズニーランドがまだアメリカにしかなかったころに、人気アトラクションをパクってたんだね。あのころはまさか、ディズニーランドが日本にもできるとは思ってなかったんだろうなあ。
 本物を知ったあとでは、とてもまがい物に足を運ぶ気にはなれなかった。

 それでも。
 たとえまがい物であろうとも、それらで受けた感動は本物だ。
 どんなにちゃちでダサくて恥ずかしくても、ファミリーランドは大切な場所だ。

 立体動物園が好きだった。
 迷路になったお城のよう。
 夜行動物エリアに入るときは、いつも足がすくんだ。本能的に、闇がこわかった。
 その向こうにある、緑のドーム、亜熱帯の温室と鳥の楽園。空気の重さ、臭い、奇妙な鳴き声、濃密な空間。異世界がそこにあった。

 
 改めてファミリーランドを歩き、痛切に感じた。
 愛しいのは記憶であって、場所ではないのだということ。

 ファミリーランドはもう、わたしの愛したファミリーランドではなかった。

 ここ10年、わたしは取材以外でまともにファミリーランドを歩いていない。
 何故ならば、ファミリーランドは変わってしまったからだ。
 DJのおかげでよくわかった。94年の「改悪」。あれですっかり変わってしまったんだ。
 異世界感覚が際立っていた立体動物園の緑のドームが、あのときになくなったんだ。
 動物園は縮小、動物たちは信じられないような小さな檻に入れられた。
 ガラスケースだ。水族館のようなガラスの檻に入れられたんだ。空も見えない、外の空気も吸えない。
 ガラスの檻の中に閉じこめられたわずかな動物たちと、エサにたかったたくさんのゴキプリ。……動物よりゴキブリの数の方が多かったな。
 あれは、ショックな光景だった。

 えんえん工事して、なにをやってるのかと思えば、こんなかなしいことに……。

 見るに忍びなくて、そして実際たのしいとも思えない場所に成り果てていたので、それ以来二度と行かなくなった。
 

 実際にファミリーランドを歩きながら、わたしはもうここにはないファミリーランドを懐かしんでいた。

 なくなるのも仕方ない。
 てゆーか、すでになくなっていたんだ。

 記憶とかなしみと、失ってしまったもの。
 年を取った自分。

 せつなくて、懐メロを聴きながら涙が浮かんでくる。

 
 それにしても、いい天気だ。
 快晴、空は青。
 桜は満開。

 今日でよかった。

 たくさんの人。
 家族連れ、カップル、グループ。

 小さな小さな子どもたち、ここでの記憶はいつか、大人になった君たちの胸を熱くするのかな?

 
 得たモノを大切にするように、失ったモノを抱きしめて生きていきたい。
 ウエットなのはわたしの芸風なのよ。
 たくさん泣いて、わたしはわたしになるの。

 とゆー、特別な日。特別な場所。
 わたしは宝塚ファミリーランドが大好きだった。


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