子分を見れば、そのオトコの価値が知れる。@華やかなりし日々
2012年6月28日 タカラヅカ おかしい……宙組関連のテキストが見つからない……。特に新公、どこへやっちゃったんだ……。
思いついたときに書き散らし、てきとーに保存しているから、わけがわからなくなるんだよなあ。
もういっぺん、1から書くのか……。しょぼん。
『華やかなりし日々』は、ストーリー自体疑問だらけだった。
ただ、ゆーひさんがかっこいいことと、レビューシーンが華やかで眼福だったので、ゆーひさん眺めるためだけならいろんなことを横へ置いておくことができた。
初日に観たとき、???と思っていたこと全部、ゆーひさんの格好良さで忘れられたもの!
いいもん観たー、ってキモチだった。ゆーひくんに関しては。
帰宅してから改めて思い出すと、納得できないことが多すぎてアタマ抱えたけど。
で、2回目観たときはさらに作品の粗が見えて、3回目はさらにいろいろアレなことばかり気になったけど。
テキストも紛失したことだし、作品についてはもういい。
公演は終わったのだし、ゆーひくんもすみ花ちゃんも今この文章を書いている時点では卒業済みだ。
過去は美しく置いておこう。
ただどうしても触れておきたいこと。
それは過去ではなく、現在と、未来のあるスターさんについて。
『華やかなりし日々』でいちばんわたしがダメだったのって、ニック@みっちゃんだ。
ニックというキャラクタは、あれでいいのか?
作品自体壊れてるし、出てくるキャラクタもみんな大同小異壊れている。だからことさらニックだけを挙げるのはおかしいかもしれない。
しかし、ニックが壊れている、キモチ悪いのは、作者の責任だけでなく、演じている人にも問題があると思った。
ニックは、主人公ロナウド@ゆーひの子分。ロナウドを「兄貴」と慕っている。
だがロナウドは、ニックのことを利用しているだけで、心を開いてはいない。自分の過去や心の傷をニックには一切話さず、出会ったばかりのジュディ@ののすみに「はじめてだ」と打ち明けたりしている。
ニックはその程度の存在だし、我が身が危なくなれば見捨てて逃げてヨシ、どーでもいい相手だ。
作品的にロナウドは「いい人」とされている。詐欺師という犯罪者ではあるが、それも彼の器用さや聡明さの証であり、人間的にも魅力的なヒーローであると。
だが飼っている子分への態度・仕打ちにより、ロナウドが非人間的で惨い男に見えてしまう。
本来ならば、ロナウドを大好きなニックの存在は、ロナウドの人間性を上げるために配置されるキャラだ。
男が惚れるほどの男。主人公のそばで「主人公すごい、主人公カッコイイ」と台詞で言うことによって、主人公の魅力をわかりやすく観客に説明する。
なのに何故ニックは、本来の役割と反対の存在になっているか。
ニックの幼児性と依存心の強さが原因だと思う。
男が惚れるほどの男、は確かに魅力的だ。
だがしかし、この惚れてくる側の男に魅力がないと、なんの意味もない。
ひとりの人間として尊敬できる、カッコイイ男が、命がけで惚れるからこそ主人公の価値が上がるんだ。
バカなやくざにバカな子分がくっついて失笑を買うという図式がフィクションには簡単に取り入れられているが、アレも同じ方程式ですよ。どんな子分を飼っているかで、その男の価値が想像できる。
ロナウドを「いい男」にするためには、ニックもまた単体で「いい男」でなくてはならない。
たとえロナウドが利用しているだけだとしても、それに対するリアクションが「オトコマエ」でないと。
なのにニックは、キモチ悪い幼稚な男だった。
甘えた声で「兄貴ィ」を連発し、べたべたすることでのみ親密性を計る。
依存心が強く、個を持たない。
カラダは大人だが、精神は中学生以下で止まっているかのようだ。
こんな男を利用して捨てるなんて、ロナウドひどい!!
こんな男しか子分に出来ない、ロナウドってつまんない男!!
……なんでこんな役作りなの?
そこに二重写しに見えるのは、銀ちゃんとヤスの関係性@『銀ちゃんの恋』だ。
だが、ロナウドは銀ちゃんではないし、ゆーひくんは別人として演じている。
なのにみっちゃんひとりが、ヤスのままだ。
や、同じ演技だとは思っていないよ。別の役だとわかるよ。
だけど、対ロナウドへの姿勢がニック自体を変化させている。ニックの持つ役割と、みっちゃんの演技が噛み合っていない。
短絡思考と視界しか持たないわたしには、ヤスと同種の芝居に見える。
ヤスの歪みや依存性は、『銀ちゃんの恋』だから正しかったのであって、ロナウドとニックの関係とは無関係だ。つか、間違ってる。
違う演技をしているんだろうけど、ヤスを彷彿とさせる段階で間違ってる。
ボスと子分という関係性は似ているけど、まったく別モノだ、と一目でわかって当然、ヤスのことなどそもそも思い出させもしないのが当たり前……ってくらい、別の役なのになあ。
ゆーひくんの退団公演であるがゆえに、役としてのキャラクタよりも、素のみっちゃんとみっちゃんとゆーひくんの関係性が強く出たのかもしれない。
タカラヅカは舞台上の物語やキャラや台詞にナマのジェンヌ自身を重ねて楽しむところでもあるから。
ファンにとっては、それでよかったんだろうか。
だけどわたしは、楽屋裏のことはどーでもいいから、舞台上を大切にしてくれ!と思った。
わたしがみっちゃんを最初に認識したのは、ゆーひくんのお茶会だったよ。
ゲストでやってきた下級生だった。
恒例ゲストなんだろう、ゆーひくんはわざわざみっちゃんの名前や自分との関係を説明しなかったし、みっちゃんも自己紹介をしなかった。「知っていて当たり前」という雰囲気だった。みっちゃんの服装も……なんというかその、長期休暇中の学生か、出かける予定のない主婦みたいな感じだったけど……。つまりそれくらい、気取りのいらない関係なんだろう。
みっちゃんとゆーひくんに、昔からの絆があることはわかるよ。
でもそれを舞台上で必要以上に出す……というか、依存するのは、やめてほしかった。
素の関係とかまったく無関係に、あのニックを作っているとしたら、それは役者としてのセンスを疑う。
てことで、タカラヅカゆえの、ゆーひくんを慕うゆえの勇み足だと受け止めたんだ。
ニックという役は、二枚目に作ってもいいはずだ。
ニックが三枚目になることで、ロナウドを引き立てる必要なんかない。そんなことをしなくても、ゆーひくんは十分カッコイイ。
だからこそ、みっちゃんにはとびきりカッコイイ芝居をしてもらって、すごく二枚目のニックになってもらって、かっこいいオトコふたりの友情を見たかった。
でも、演出家も周囲の人たちも、あのニックをヨシとしていたんだから、ニックは正しくて、良くて、すばらしかったのかもしれない。わたしに理解できなかっただけで。
だとしたらすまんです。
ショー『クライマックス』ではみっちゃんの美声をいっぱい聴けたのでヨシ。
思いついたときに書き散らし、てきとーに保存しているから、わけがわからなくなるんだよなあ。
もういっぺん、1から書くのか……。しょぼん。
『華やかなりし日々』は、ストーリー自体疑問だらけだった。
ただ、ゆーひさんがかっこいいことと、レビューシーンが華やかで眼福だったので、ゆーひさん眺めるためだけならいろんなことを横へ置いておくことができた。
初日に観たとき、???と思っていたこと全部、ゆーひさんの格好良さで忘れられたもの!
いいもん観たー、ってキモチだった。ゆーひくんに関しては。
帰宅してから改めて思い出すと、納得できないことが多すぎてアタマ抱えたけど。
で、2回目観たときはさらに作品の粗が見えて、3回目はさらにいろいろアレなことばかり気になったけど。
テキストも紛失したことだし、作品についてはもういい。
公演は終わったのだし、ゆーひくんもすみ花ちゃんも今この文章を書いている時点では卒業済みだ。
過去は美しく置いておこう。
ただどうしても触れておきたいこと。
それは過去ではなく、現在と、未来のあるスターさんについて。
『華やかなりし日々』でいちばんわたしがダメだったのって、ニック@みっちゃんだ。
ニックというキャラクタは、あれでいいのか?
作品自体壊れてるし、出てくるキャラクタもみんな大同小異壊れている。だからことさらニックだけを挙げるのはおかしいかもしれない。
しかし、ニックが壊れている、キモチ悪いのは、作者の責任だけでなく、演じている人にも問題があると思った。
ニックは、主人公ロナウド@ゆーひの子分。ロナウドを「兄貴」と慕っている。
だがロナウドは、ニックのことを利用しているだけで、心を開いてはいない。自分の過去や心の傷をニックには一切話さず、出会ったばかりのジュディ@ののすみに「はじめてだ」と打ち明けたりしている。
ニックはその程度の存在だし、我が身が危なくなれば見捨てて逃げてヨシ、どーでもいい相手だ。
作品的にロナウドは「いい人」とされている。詐欺師という犯罪者ではあるが、それも彼の器用さや聡明さの証であり、人間的にも魅力的なヒーローであると。
だが飼っている子分への態度・仕打ちにより、ロナウドが非人間的で惨い男に見えてしまう。
本来ならば、ロナウドを大好きなニックの存在は、ロナウドの人間性を上げるために配置されるキャラだ。
男が惚れるほどの男。主人公のそばで「主人公すごい、主人公カッコイイ」と台詞で言うことによって、主人公の魅力をわかりやすく観客に説明する。
なのに何故ニックは、本来の役割と反対の存在になっているか。
ニックの幼児性と依存心の強さが原因だと思う。
男が惚れるほどの男、は確かに魅力的だ。
だがしかし、この惚れてくる側の男に魅力がないと、なんの意味もない。
ひとりの人間として尊敬できる、カッコイイ男が、命がけで惚れるからこそ主人公の価値が上がるんだ。
バカなやくざにバカな子分がくっついて失笑を買うという図式がフィクションには簡単に取り入れられているが、アレも同じ方程式ですよ。どんな子分を飼っているかで、その男の価値が想像できる。
ロナウドを「いい男」にするためには、ニックもまた単体で「いい男」でなくてはならない。
たとえロナウドが利用しているだけだとしても、それに対するリアクションが「オトコマエ」でないと。
なのにニックは、キモチ悪い幼稚な男だった。
甘えた声で「兄貴ィ」を連発し、べたべたすることでのみ親密性を計る。
依存心が強く、個を持たない。
カラダは大人だが、精神は中学生以下で止まっているかのようだ。
こんな男を利用して捨てるなんて、ロナウドひどい!!
こんな男しか子分に出来ない、ロナウドってつまんない男!!
……なんでこんな役作りなの?
そこに二重写しに見えるのは、銀ちゃんとヤスの関係性@『銀ちゃんの恋』だ。
だが、ロナウドは銀ちゃんではないし、ゆーひくんは別人として演じている。
なのにみっちゃんひとりが、ヤスのままだ。
や、同じ演技だとは思っていないよ。別の役だとわかるよ。
だけど、対ロナウドへの姿勢がニック自体を変化させている。ニックの持つ役割と、みっちゃんの演技が噛み合っていない。
短絡思考と視界しか持たないわたしには、ヤスと同種の芝居に見える。
ヤスの歪みや依存性は、『銀ちゃんの恋』だから正しかったのであって、ロナウドとニックの関係とは無関係だ。つか、間違ってる。
違う演技をしているんだろうけど、ヤスを彷彿とさせる段階で間違ってる。
ボスと子分という関係性は似ているけど、まったく別モノだ、と一目でわかって当然、ヤスのことなどそもそも思い出させもしないのが当たり前……ってくらい、別の役なのになあ。
ゆーひくんの退団公演であるがゆえに、役としてのキャラクタよりも、素のみっちゃんとみっちゃんとゆーひくんの関係性が強く出たのかもしれない。
タカラヅカは舞台上の物語やキャラや台詞にナマのジェンヌ自身を重ねて楽しむところでもあるから。
ファンにとっては、それでよかったんだろうか。
だけどわたしは、楽屋裏のことはどーでもいいから、舞台上を大切にしてくれ!と思った。
わたしがみっちゃんを最初に認識したのは、ゆーひくんのお茶会だったよ。
ゲストでやってきた下級生だった。
恒例ゲストなんだろう、ゆーひくんはわざわざみっちゃんの名前や自分との関係を説明しなかったし、みっちゃんも自己紹介をしなかった。「知っていて当たり前」という雰囲気だった。みっちゃんの服装も……なんというかその、長期休暇中の学生か、出かける予定のない主婦みたいな感じだったけど……。つまりそれくらい、気取りのいらない関係なんだろう。
みっちゃんとゆーひくんに、昔からの絆があることはわかるよ。
でもそれを舞台上で必要以上に出す……というか、依存するのは、やめてほしかった。
素の関係とかまったく無関係に、あのニックを作っているとしたら、それは役者としてのセンスを疑う。
てことで、タカラヅカゆえの、ゆーひくんを慕うゆえの勇み足だと受け止めたんだ。
ニックという役は、二枚目に作ってもいいはずだ。
ニックが三枚目になることで、ロナウドを引き立てる必要なんかない。そんなことをしなくても、ゆーひくんは十分カッコイイ。
だからこそ、みっちゃんにはとびきりカッコイイ芝居をしてもらって、すごく二枚目のニックになってもらって、かっこいいオトコふたりの友情を見たかった。
でも、演出家も周囲の人たちも、あのニックをヨシとしていたんだから、ニックは正しくて、良くて、すばらしかったのかもしれない。わたしに理解できなかっただけで。
だとしたらすまんです。
ショー『クライマックス』ではみっちゃんの美声をいっぱい聴けたのでヨシ。