「こちら側」と「あちら側」。@TUXEDO JAZZ
2007年3月19日 タカラヅカ 「オギー作品」だから、すべてのシーンが意味を持ってつながっていなくてはならないとか、ストーリーがあるべきだとか思っているわけではなくて。メインキャラは通し役に違いないと思っているわけでもなくて。
ただわたしは、わたしが観たいように観て、感じて、たのしんでいる。(前提なので、再度掲載)
『TUXEDO JAZZ』はいつものオギーショーと同じように、「ふたつの世界」が描かれている。
「こちら側」と「あちら側」。
わたしたちのいる世界と、そうではない世界。
もちろん、わたしたちがいる側であっても、そこはあくまでも舞台の上だけど。
大きくふたつに割ると、「人間」と「人外」とに分けられるよね、ってこと。
今回オギーは、あえてオサに「人間」をやらせた。
オサ様に「人外」をやらせるのは簡単だと思う。その方が持ち味に合っているのだから。トップスターは白い役でなければならないから「人外」はやらせられない、というのは、コム姫にタランテラをやらせたことで詭弁だとわかる。
他の演出家はともかく、オギーなら、ありえる。
なのに、オサ様を「こちら側」に置く作品にした。
作品の作り方としては、『ドルチェ・ヴィータ!』に近い。
翻弄される「人間」の主人公をトップスターが演じ、彼を弄ぶ「人でないもの」を2番手が演じる。
オサに「人間」を演じさせることで、彼の持つ「やわらかさ」を描きたかったのではないかと思う。
春野寿美礼の持ち味は、「やわらかい」ことだと思う。ワタさんなら「大きい」、コム姫なら「クール」、トウコちゃんなら「熱い」。
オサ様は、やわらかい。軽妙さもあるし、柔軟さもある。そーゆー陽の意味の他に、毛皮とか肉とか、なまなましい陰のやわらかさも持つ。
オサが「白い役」「人間」として、軽快なジャズの世界で遊ぶ。惑う。「音」を愉しむ、「音」で遊ぶことの出来る人。
矢代鴻という稀代の歌手を相手役に、自在に声を広げられる春野寿美礼が「音」の世界で自由に泳ぐ作品。
……だったんだけど。
繰り返し観、世界にどんどんどんどんハマればハマるほど、真飛聖のダメっぷりに、頭を抱えたくなる。
オサが「こちら側」の人間である以上、まとぶは「あちら側」の存在として立ってくれなきゃいけないんだよ。
『ドルチェ・ヴィータ!』でいうところのディアボロなんだよ彼は。
なのになんなんだ、あの薄さ。
あれほど登場場面を、役をもらっておきながら、責任をまったく果たせていない。
ただの「その場面のライバル」「女をめぐって争う相手」で停まっている。
おかげで目に入らなくて困る。
役割を果たせないと、混沌の渦にまぎれてしまうんだよ。
まとぶがオギー的にかなりヤヴァイ役者であることは、わかっている。
彼はオギー世界に合わない。オギー作品を演じることが出来ない舞台人のひとりだ。過去の彼の出演作『バビロン』『ドルチェ・ヴィータ!』を見てもわかる。
オギーもまとぶには、分にあった役割しか与えてこなかった。
オギーに興味を持たれていないといえば、『タランテラ!』の水くんもそうだったが、彼の場合は「いてもいなくてもいい役」を与えられることで、作品の質に関わることはなかった。
しかし今回のまとぶは、「主演が白い役」であった場合の「単独2番手」という役割を求められている。
2番手が2番手としての「役割」を果たしてくれないと、作品の出来に関わってくるんだよ。
あああ。
まとぶがまとぶでなければ、『TUXEDO JAZZ』はどんな作品になっていたのだろう……。
とゆー嘆きに陥りつつ。
や、まとぶ単体はダイスキなんだけど(そのうち語る予定)。『タランテラ!』ファンでありながら水ファンであったよーに、個人への愛情と作品へのこだわりは別のところにあるんだ。
まとぶのダメっぷりに毎回肩を落とし、歯がみし。
そして、春野寿美礼の困ったちゃんぶりに、ツボる。
だからオサ様。
あなた、「人間」なんだってば今回。
ディアボロ@まとぶに翻弄される、かよわいアリスなんだってば。
まとぶが「人外」としての役目を果たせていないもんだから。
オサ様が、ひとりで勝手に「あちら側」へ行ってしまう。
『ドルチェ・ヴィータ!』でいうと、トウコちゃんがなにかのアクシデントで舞台にずーーっと出てこなくなった隙に、ワタさんがディアボロになっていた、みたいな感じ。
や、ソレ、おかしいから! ありえないから!!
春野寿美礼、暴走中。
クライマックスの、カオスシーンにて。
まとぶに翻弄される無力なアリスであるはずの場面で、絶望のうちに奈落に落ちていく場面で。
オサ様、誰よりも「あちら側」に馴染み、ノリノリで愉しんでらっさいます。
誰かこの人の手綱取って!(笑)
放っておくと、好きに暴れ出す。
役目もなにもあったもんぢゃねー。
ディアボロ@まとぶ? どこにいるのよ、悪魔は寿美礼サマでしょ?
2番手に、トップに対抗するだけの力がないと、こーゆー事態になってしまうのか。
まとぶに特別力がないというより、今回は相手が悪かっただけのことだとは思うけれど。
それにしたって、ここまでしっちゃかめっちゃかになるなんて。
オサ様に悪気はない。
てゆーか、ジェンヌはみんな天然で、本能で舞台の上にいるから、役割とか裏の意味とか抽象的なことは考えていないだろう。
彼らがなにを考えて演じているかなんて、興味ない。彼らの考えと、彼らが「結果として表現していること」はまったく別物だ。
だからオサ様は、自分が「あちら側」に行ってしまっていることも、まとぶの役を喰ってしまっていることも、なーんにも気づいていない。
ただ、自分が「心地いい」ことをやっている。
まとぶ自身には、あせりが見えるんだけどなあ。すっげー「がんばっている」のも見える。
……ただ、ぜんぜん足りていないだけで。
ミス・キャスト。それだけのこと。
『TUXEDO JAZZ』の「2番手」としては、力不足だった。
えーと、「オギー作品」として見ずに、「タカラヅカ」として見れば、まとぶさん、ちゃんと仕事してるんじゃないですか?
出番も歌もたくさん、彼が目立つように演出されているらしいし。「オギー作品」として見てしまうわたしには、「まとぶ、あのシーン出てた? 知らなかった」とかゆー事態が起こってしまうだけで。
オサがあそこまでナチュラル・ボーンでなければなあ。
もう少し、手加減してもらえただろうに。まとぶさん、オサ様の下は大変(笑)。
でも、天才に振り回される、努力型の凡人ってゆー図は、大変好みでございます、うまうま。
そう、オサ様は「天才」であり、「アーティスト」であると思う。
無から有を創る人。瞬時に別世界を構築できる人。
オサ様が簡単に「あちら側」へ行ってしまい、誰よりも「あちら側」に馴染んで、活き活きとしているのを見ると、トホホな気持ちを感じつつも、うれしくて、愛しくてなりません。
人間の会話ができそうにない、だけどやたらと人間から愛される、無邪気な魔性のイキモノ。
魔性の人外キャラといえばコム姫だけど、コム姫よりかなりトホホな手触り。だってオサ様、「やわらかい」から。クネクネしてるから。
コム姫も「あちら側」の人だけど、コム姫はオサ様みたいに陽気に狂気に周囲巻き込んで爆発しないから。クールで硬質で孤高だから。
なんか、すごく「手放し」なの。
トホホなのに愛しい。トホホなのに天才。
わたしが行くことの出来ない、超えることの出来ない「あちら側」で、あたりまえに呼吸している「ヒトでないモノ」。
手放し。
だって、手が届かない。手がつけられない。
彼はあまりにも自由で、次元が違いすぎる。
本日、『TUXEDO JAZZ』は宝塚での千秋楽。
前楽の方が、イッちゃってたと思う。いろんな意味で。
舞台はイキモノであり、なによりも春野寿美礼があまりにもイキモノだ。ナマモノだ。
本日でムラを卒業するわかなちゃんが、カーテンコールでオサ様に「最後に一言」と促され、退団にあたっての最後の言葉だから、「ありがとう」とか「しあわせです」とか、あるいは「宝塚万歳」的なことかなと思いきや。
「オサさん、ダイスキです」
って。……いやあーたソレ、今ここで言うことぢゃないだろう(笑)。
オサ様、愛されてるなあ。
こまったヒトなのに、どーにもこーにも魅力的なんだよなあ。
愛されることが「あたりまえ」の、いつでも簡単に「あちら側」へ行ってしまえる人。
春野寿美礼は、おもしろい。
『TUXEDO JAZZ』も、オサ様が好き放題やって、壊してるよ。
どーなるんだコレ?(笑)
まあ、ソレも「味」かなあ。
ディアボロがちゃんとディアボロとして機能する、正しい『TUXEDO JAZZ』も、観てみたいんだがなぁ。
ただわたしは、わたしが観たいように観て、感じて、たのしんでいる。(前提なので、再度掲載)
『TUXEDO JAZZ』はいつものオギーショーと同じように、「ふたつの世界」が描かれている。
「こちら側」と「あちら側」。
わたしたちのいる世界と、そうではない世界。
もちろん、わたしたちがいる側であっても、そこはあくまでも舞台の上だけど。
大きくふたつに割ると、「人間」と「人外」とに分けられるよね、ってこと。
今回オギーは、あえてオサに「人間」をやらせた。
オサ様に「人外」をやらせるのは簡単だと思う。その方が持ち味に合っているのだから。トップスターは白い役でなければならないから「人外」はやらせられない、というのは、コム姫にタランテラをやらせたことで詭弁だとわかる。
他の演出家はともかく、オギーなら、ありえる。
なのに、オサ様を「こちら側」に置く作品にした。
作品の作り方としては、『ドルチェ・ヴィータ!』に近い。
翻弄される「人間」の主人公をトップスターが演じ、彼を弄ぶ「人でないもの」を2番手が演じる。
オサに「人間」を演じさせることで、彼の持つ「やわらかさ」を描きたかったのではないかと思う。
春野寿美礼の持ち味は、「やわらかい」ことだと思う。ワタさんなら「大きい」、コム姫なら「クール」、トウコちゃんなら「熱い」。
オサ様は、やわらかい。軽妙さもあるし、柔軟さもある。そーゆー陽の意味の他に、毛皮とか肉とか、なまなましい陰のやわらかさも持つ。
オサが「白い役」「人間」として、軽快なジャズの世界で遊ぶ。惑う。「音」を愉しむ、「音」で遊ぶことの出来る人。
矢代鴻という稀代の歌手を相手役に、自在に声を広げられる春野寿美礼が「音」の世界で自由に泳ぐ作品。
……だったんだけど。
繰り返し観、世界にどんどんどんどんハマればハマるほど、真飛聖のダメっぷりに、頭を抱えたくなる。
オサが「こちら側」の人間である以上、まとぶは「あちら側」の存在として立ってくれなきゃいけないんだよ。
『ドルチェ・ヴィータ!』でいうところのディアボロなんだよ彼は。
なのになんなんだ、あの薄さ。
あれほど登場場面を、役をもらっておきながら、責任をまったく果たせていない。
ただの「その場面のライバル」「女をめぐって争う相手」で停まっている。
おかげで目に入らなくて困る。
役割を果たせないと、混沌の渦にまぎれてしまうんだよ。
まとぶがオギー的にかなりヤヴァイ役者であることは、わかっている。
彼はオギー世界に合わない。オギー作品を演じることが出来ない舞台人のひとりだ。過去の彼の出演作『バビロン』『ドルチェ・ヴィータ!』を見てもわかる。
オギーもまとぶには、分にあった役割しか与えてこなかった。
オギーに興味を持たれていないといえば、『タランテラ!』の水くんもそうだったが、彼の場合は「いてもいなくてもいい役」を与えられることで、作品の質に関わることはなかった。
しかし今回のまとぶは、「主演が白い役」であった場合の「単独2番手」という役割を求められている。
2番手が2番手としての「役割」を果たしてくれないと、作品の出来に関わってくるんだよ。
あああ。
まとぶがまとぶでなければ、『TUXEDO JAZZ』はどんな作品になっていたのだろう……。
とゆー嘆きに陥りつつ。
や、まとぶ単体はダイスキなんだけど(そのうち語る予定)。『タランテラ!』ファンでありながら水ファンであったよーに、個人への愛情と作品へのこだわりは別のところにあるんだ。
まとぶのダメっぷりに毎回肩を落とし、歯がみし。
そして、春野寿美礼の困ったちゃんぶりに、ツボる。
だからオサ様。
あなた、「人間」なんだってば今回。
ディアボロ@まとぶに翻弄される、かよわいアリスなんだってば。
まとぶが「人外」としての役目を果たせていないもんだから。
オサ様が、ひとりで勝手に「あちら側」へ行ってしまう。
『ドルチェ・ヴィータ!』でいうと、トウコちゃんがなにかのアクシデントで舞台にずーーっと出てこなくなった隙に、ワタさんがディアボロになっていた、みたいな感じ。
や、ソレ、おかしいから! ありえないから!!
春野寿美礼、暴走中。
クライマックスの、カオスシーンにて。
まとぶに翻弄される無力なアリスであるはずの場面で、絶望のうちに奈落に落ちていく場面で。
オサ様、誰よりも「あちら側」に馴染み、ノリノリで愉しんでらっさいます。
誰かこの人の手綱取って!(笑)
放っておくと、好きに暴れ出す。
役目もなにもあったもんぢゃねー。
ディアボロ@まとぶ? どこにいるのよ、悪魔は寿美礼サマでしょ?
2番手に、トップに対抗するだけの力がないと、こーゆー事態になってしまうのか。
まとぶに特別力がないというより、今回は相手が悪かっただけのことだとは思うけれど。
それにしたって、ここまでしっちゃかめっちゃかになるなんて。
オサ様に悪気はない。
てゆーか、ジェンヌはみんな天然で、本能で舞台の上にいるから、役割とか裏の意味とか抽象的なことは考えていないだろう。
彼らがなにを考えて演じているかなんて、興味ない。彼らの考えと、彼らが「結果として表現していること」はまったく別物だ。
だからオサ様は、自分が「あちら側」に行ってしまっていることも、まとぶの役を喰ってしまっていることも、なーんにも気づいていない。
ただ、自分が「心地いい」ことをやっている。
まとぶ自身には、あせりが見えるんだけどなあ。すっげー「がんばっている」のも見える。
……ただ、ぜんぜん足りていないだけで。
ミス・キャスト。それだけのこと。
『TUXEDO JAZZ』の「2番手」としては、力不足だった。
えーと、「オギー作品」として見ずに、「タカラヅカ」として見れば、まとぶさん、ちゃんと仕事してるんじゃないですか?
出番も歌もたくさん、彼が目立つように演出されているらしいし。「オギー作品」として見てしまうわたしには、「まとぶ、あのシーン出てた? 知らなかった」とかゆー事態が起こってしまうだけで。
オサがあそこまでナチュラル・ボーンでなければなあ。
もう少し、手加減してもらえただろうに。まとぶさん、オサ様の下は大変(笑)。
でも、天才に振り回される、努力型の凡人ってゆー図は、大変好みでございます、うまうま。
そう、オサ様は「天才」であり、「アーティスト」であると思う。
無から有を創る人。瞬時に別世界を構築できる人。
オサ様が簡単に「あちら側」へ行ってしまい、誰よりも「あちら側」に馴染んで、活き活きとしているのを見ると、トホホな気持ちを感じつつも、うれしくて、愛しくてなりません。
人間の会話ができそうにない、だけどやたらと人間から愛される、無邪気な魔性のイキモノ。
魔性の人外キャラといえばコム姫だけど、コム姫よりかなりトホホな手触り。だってオサ様、「やわらかい」から。クネクネしてるから。
コム姫も「あちら側」の人だけど、コム姫はオサ様みたいに陽気に狂気に周囲巻き込んで爆発しないから。クールで硬質で孤高だから。
なんか、すごく「手放し」なの。
トホホなのに愛しい。トホホなのに天才。
わたしが行くことの出来ない、超えることの出来ない「あちら側」で、あたりまえに呼吸している「ヒトでないモノ」。
手放し。
だって、手が届かない。手がつけられない。
彼はあまりにも自由で、次元が違いすぎる。
本日、『TUXEDO JAZZ』は宝塚での千秋楽。
前楽の方が、イッちゃってたと思う。いろんな意味で。
舞台はイキモノであり、なによりも春野寿美礼があまりにもイキモノだ。ナマモノだ。
本日でムラを卒業するわかなちゃんが、カーテンコールでオサ様に「最後に一言」と促され、退団にあたっての最後の言葉だから、「ありがとう」とか「しあわせです」とか、あるいは「宝塚万歳」的なことかなと思いきや。
「オサさん、ダイスキです」
って。……いやあーたソレ、今ここで言うことぢゃないだろう(笑)。
オサ様、愛されてるなあ。
こまったヒトなのに、どーにもこーにも魅力的なんだよなあ。
愛されることが「あたりまえ」の、いつでも簡単に「あちら側」へ行ってしまえる人。
春野寿美礼は、おもしろい。
『TUXEDO JAZZ』も、オサ様が好き放題やって、壊してるよ。
どーなるんだコレ?(笑)
まあ、ソレも「味」かなあ。
ディアボロがちゃんとディアボロとして機能する、正しい『TUXEDO JAZZ』も、観てみたいんだがなぁ。