まっつまっつの『TUXEDO JAZZ』。
2007年3月21日 タカラヅカ 『TUXEDO JAZZ』の、まっつについて。
今までからはとても想像が付かないほど、いろいろとありがたい扱いをしてもらい、まっつファンとしては感涙ものなんだけど。
それとは別に、ヘコんでいることもある。
下級生だったころや、扱いがその他大勢見せ場ナシのときは、わからなかったけど。
学年が上がり、DCで2番手役させてもらったり、今回の『TUXEDO JAZZ』のよーに大劇場でまともに役がついていたりすると、見えてくるものがある。
まっつってさぁ、器が小さいよね。
小柄だとか華奢だとかゆー、外見的な意味ではなくて。
性格だとか言動だとかゆー、人間としての意味でも、もちろんなくて。(そんなもん、会ったこともないんだから知らん)
「タカラヅカスター」として。
『MIND TRAVELLER』でアタマを抱えた欠点が、「足りない」ものが、『TUXEDO JAZZ』でクローズアップされて突きつけられて、もー、どーしよーかと。
『マラケシュ』博多版で、まっつクリフォードは、オサリュドヴィークのもうひとつの姿だった。
ラストシーン、向かい合うふたりが「同じモノ」に見えた。リュドの選ばなかった(選べなかった)もうひとつの可能性、もうひとつの人生がクリフォードであると、痛感できて、せつないラストだった。
『マラケシュ』ムラ・東宝版で、まっつウラジミールは、オサリュドヴィークのイミテーションだった。
彩音ソフィアはリュドヴィークを愛していたけれど叶わず、ウラジミールを選んだ。女をしあわせには出来ないリュドと、よく似ているけれど確実に平凡に、しあわせを与えられるだろうウラジミール。
過去作品での、オギーによる「未涼亜希」の使い方が印象的過ぎて。
どうしても、その目線で見てしまう。
オギーって他の作品を見ても、キャラクタに対するイメージはずーっと共通しているし。
オムニバス形式の長編小説みたいに。
別の舞台の別の短編なんだけど、それらを続けて読むと「あ、これってシリーズなんだ」とわかるような。
オサ様とゆー「強い個性と輝きを持つキャラ」の相似形としてまっつを使いながら、いつも必ず「平凡なモノ」として描く。
非凡な春野寿美礼に対し、外見は似ているかもしれないけれど所詮凡庸なモノ、まったく別のモノとして未涼亜希を配置する。
……イタイよ、ソレ。
かといって、その凡庸さを否定しているわけでもなさそう(ex.クリフォード)なあたり、さらにキツい(笑)。
『TUXEDO JAZZ』のまっつは、やはりオサ様の「もうひとつの姿」として、なんかうろちょろしている。
オサ様が出てきた窓から、遅れて出てくる、タキシードの男。
オサ様と彩音ちゃんが出会い、とまどいがちに踊る舞台の隅で、女の子とラヴラヴに踊っている男。
オサ様が歌う「夢」の歌を唯一ソロで歌い継ぐ男。
オサ様が消えてしまったあと、彼を探す彩音ちゃんに急き立てられ、オサ様が歩いた道を歩けず逆戻りしていく男。
オサ様を探す彩音ちゃんのドタバタに巻き込まれ、街の住人として一緒に走り回る男。
マフィア・オサと同じ組織の人間として、彼を見つめる男。
服を買いに来たオサ様に、服を勧める店員。彼と共に一喜一憂する男。
タキシードを着て踊るオサを見つめる男。
踊り終わったオサに、女を通し、幻想へ誘う酒を渡す男。
幻想の夜にオサと共に存在し、別れと祈り、別世界に生きる愛する人への想いを歌う男。
ジャズバーではお揃いの白スーツ。仲間らしい。
その後のカオスではあっさり「あちら側」に行って、いちかといちゃくらしているし。
基本その他大勢の中に存在、要所要所でちょろっと、オサの心情を代弁。
『タランテラ!』のキムほどの、明確な存在ではなくて。
歌の人・春野寿美礼について回るエコーのように、もっと薄い、軽い意味でつかず離れず存在する。
……そんな、いかにもまっつアテ書きな役。
オギー作品はいつも、そのキャストの特性が残酷なほど浮かび上がってくるから。
アテ書きゆえの容赦なさというか、まっつの「スター」としてのダメっぷり、足りなさぶりを突きつけられて、目眩がする。
いやその。
立場が人を作る、とゆーことがある以上、これからまっつが変わっていく可能性だってあるんだけど。
今のところは、なかなか現実はキビシイなと。
わたしのうがちすぎ、だといいなあ。
他の人には、まっつがちゃんと「スター」に見えている、といいな。
『TUXEDO JAZZ』で求められている「仕事」を、タカラヅカスターとしての「仕事」を、ちゃんと果たせている、といいな。
トップスターだけが「スター」ぢゃない。
立場に相応しい「華」と「技術」を持ち、「仕事」をするスター……まっつが現在の学年や立場に対しての責任を果たせる人であることを、心からのぞむ。
つってもね。
できていよーがいまいが関係なく、ダイスキなんだけど。
ダメだろーと足りなかろうと、器が小さかろーと、ぜんっぜんかまわないんだってば。
んなもん、好きになってしまったあとでは、多少の欠点なんか無問題だ。
トホホとは思うし、ヘコみもするけれど、かえって愛しさが加熱するつーもんだよ。ははは。(ちょっと自棄)
そうそう、最近、山本耕史@『華麗なる一族』が、まっつに見えてさー。
今までそんなふーに思ったことなかったし、山本くん単体で見てもとくに思わないんだけど、『華麗なる一族』限定で、なんか似てるー。銀平役の地味さと助演体質、兄への憧憬とコンプレックス、クラシカルな佇まいとスーツ姿、そして鼻が、まっつっぽいのー。
小雪を見るたびにまっつを思い出すのはデフォルトだけど、山本くんもになるとはねー。
なんか、まっつに見える人が、どんどん増えてる感じ?(語尾上がる)
「『Ernest in Love』かよっ?!」
と、ツッコミ担当ドリーさんには即ツッコミされました。
ほほほ、今になにを見ても、誰を見てもまっつに見える日が来るかもよ。ソレはソレでしあわせよねっ。(落ち着け)
まっつまっつまっつ。
今までからはとても想像が付かないほど、いろいろとありがたい扱いをしてもらい、まっつファンとしては感涙ものなんだけど。
それとは別に、ヘコんでいることもある。
下級生だったころや、扱いがその他大勢見せ場ナシのときは、わからなかったけど。
学年が上がり、DCで2番手役させてもらったり、今回の『TUXEDO JAZZ』のよーに大劇場でまともに役がついていたりすると、見えてくるものがある。
まっつってさぁ、器が小さいよね。
小柄だとか華奢だとかゆー、外見的な意味ではなくて。
性格だとか言動だとかゆー、人間としての意味でも、もちろんなくて。(そんなもん、会ったこともないんだから知らん)
「タカラヅカスター」として。
『MIND TRAVELLER』でアタマを抱えた欠点が、「足りない」ものが、『TUXEDO JAZZ』でクローズアップされて突きつけられて、もー、どーしよーかと。
『マラケシュ』博多版で、まっつクリフォードは、オサリュドヴィークのもうひとつの姿だった。
ラストシーン、向かい合うふたりが「同じモノ」に見えた。リュドの選ばなかった(選べなかった)もうひとつの可能性、もうひとつの人生がクリフォードであると、痛感できて、せつないラストだった。
『マラケシュ』ムラ・東宝版で、まっつウラジミールは、オサリュドヴィークのイミテーションだった。
彩音ソフィアはリュドヴィークを愛していたけれど叶わず、ウラジミールを選んだ。女をしあわせには出来ないリュドと、よく似ているけれど確実に平凡に、しあわせを与えられるだろうウラジミール。
過去作品での、オギーによる「未涼亜希」の使い方が印象的過ぎて。
どうしても、その目線で見てしまう。
オギーって他の作品を見ても、キャラクタに対するイメージはずーっと共通しているし。
オムニバス形式の長編小説みたいに。
別の舞台の別の短編なんだけど、それらを続けて読むと「あ、これってシリーズなんだ」とわかるような。
オサ様とゆー「強い個性と輝きを持つキャラ」の相似形としてまっつを使いながら、いつも必ず「平凡なモノ」として描く。
非凡な春野寿美礼に対し、外見は似ているかもしれないけれど所詮凡庸なモノ、まったく別のモノとして未涼亜希を配置する。
……イタイよ、ソレ。
かといって、その凡庸さを否定しているわけでもなさそう(ex.クリフォード)なあたり、さらにキツい(笑)。
『TUXEDO JAZZ』のまっつは、やはりオサ様の「もうひとつの姿」として、なんかうろちょろしている。
オサ様が出てきた窓から、遅れて出てくる、タキシードの男。
オサ様と彩音ちゃんが出会い、とまどいがちに踊る舞台の隅で、女の子とラヴラヴに踊っている男。
オサ様が歌う「夢」の歌を唯一ソロで歌い継ぐ男。
オサ様が消えてしまったあと、彼を探す彩音ちゃんに急き立てられ、オサ様が歩いた道を歩けず逆戻りしていく男。
オサ様を探す彩音ちゃんのドタバタに巻き込まれ、街の住人として一緒に走り回る男。
マフィア・オサと同じ組織の人間として、彼を見つめる男。
服を買いに来たオサ様に、服を勧める店員。彼と共に一喜一憂する男。
タキシードを着て踊るオサを見つめる男。
踊り終わったオサに、女を通し、幻想へ誘う酒を渡す男。
幻想の夜にオサと共に存在し、別れと祈り、別世界に生きる愛する人への想いを歌う男。
ジャズバーではお揃いの白スーツ。仲間らしい。
その後のカオスではあっさり「あちら側」に行って、いちかといちゃくらしているし。
基本その他大勢の中に存在、要所要所でちょろっと、オサの心情を代弁。
『タランテラ!』のキムほどの、明確な存在ではなくて。
歌の人・春野寿美礼について回るエコーのように、もっと薄い、軽い意味でつかず離れず存在する。
……そんな、いかにもまっつアテ書きな役。
オギー作品はいつも、そのキャストの特性が残酷なほど浮かび上がってくるから。
アテ書きゆえの容赦なさというか、まっつの「スター」としてのダメっぷり、足りなさぶりを突きつけられて、目眩がする。
いやその。
立場が人を作る、とゆーことがある以上、これからまっつが変わっていく可能性だってあるんだけど。
今のところは、なかなか現実はキビシイなと。
わたしのうがちすぎ、だといいなあ。
他の人には、まっつがちゃんと「スター」に見えている、といいな。
『TUXEDO JAZZ』で求められている「仕事」を、タカラヅカスターとしての「仕事」を、ちゃんと果たせている、といいな。
トップスターだけが「スター」ぢゃない。
立場に相応しい「華」と「技術」を持ち、「仕事」をするスター……まっつが現在の学年や立場に対しての責任を果たせる人であることを、心からのぞむ。
つってもね。
できていよーがいまいが関係なく、ダイスキなんだけど。
ダメだろーと足りなかろうと、器が小さかろーと、ぜんっぜんかまわないんだってば。
んなもん、好きになってしまったあとでは、多少の欠点なんか無問題だ。
トホホとは思うし、ヘコみもするけれど、かえって愛しさが加熱するつーもんだよ。ははは。(ちょっと自棄)
そうそう、最近、山本耕史@『華麗なる一族』が、まっつに見えてさー。
今までそんなふーに思ったことなかったし、山本くん単体で見てもとくに思わないんだけど、『華麗なる一族』限定で、なんか似てるー。銀平役の地味さと助演体質、兄への憧憬とコンプレックス、クラシカルな佇まいとスーツ姿、そして鼻が、まっつっぽいのー。
小雪を見るたびにまっつを思い出すのはデフォルトだけど、山本くんもになるとはねー。
なんか、まっつに見える人が、どんどん増えてる感じ?(語尾上がる)
「『Ernest in Love』かよっ?!」
と、ツッコミ担当ドリーさんには即ツッコミされました。
ほほほ、今になにを見ても、誰を見てもまっつに見える日が来るかもよ。ソレはソレでしあわせよねっ。(落ち着け)
まっつまっつまっつ。