はじめての「再演」。@ANNA KARENINA
2008年4月20日 タカラヅカ 『ANNA KARENINA(アンナ・カレーニナ)』再演WSを観て、思ったこと。
わたし、役名なにもおぼえてない。
出てくるのは、「**のやった役」。
圭子ねーさまの役、まりえったの役、しいゃんの役、ヒメの役……すべて、初演時の役者名でおぼえている。役自体の名前はおぼえていない。
だって、難しすぎるんだもの、ロシア固有名詞! わたしみたいなアタマ悪い人間にはわかんないよーっ。
おぼえていた名前が、アンナとカレーニンとキティだけだという事実。……し、主役はっ?!
すみません……再演観るまで、主役の名前も忘れてました……そうそう、アレクセイ・ヴィロンスキーね。
その初演すら、1回しか観てません。しかも、コンタクトレンズが行方不明で、メガネで観劇したはず(コンタクトより視界が悪く、また、オペラグラスを使えない)。
複数回観たかったんだけどね、チケット取れなかったの。
あのときのコム姫の人気はそりゃーすごいことになっていてだね……。2001年の文豪作品バウシリーズ、実際に全公演同じプレイガイドに並んだ(あ、星組だけ並んでないか)けど、コム姫の『アンカレ』がもっとも白熱していたと記憶している。
次が水くんの『フィガロ!』とまさかのケロゆひ『血と砂』で両作品とも完売チケ難、あさこちゃんの『マノン』は取れなくて困るほどじゃないが完売したはず。(ねったんの『イーハトーブ』のみ売り切れなくてずーーっと発売中だったが)
当時のバウは売り切れて当然、努力しないと観劇できないものだった。出演者の会に入っていればいくらでも手に入ったとか、完売でもサバキはあったとか、そーゆー話ではなく、純粋に一般ファンの立場では。……だから『アンカレ』も1回しか入手できず。
映像は持っていたよーな気もするが、一度も見ていないので、ほんっとーに初演を1回観たっきりのあやしい記憶しかない。
今年の再演バウWS、月組、花組と初演を知らない作品だったので、わたしにとっての「再演バウWS」はこの『ANNA KARENINA』がはじめてなんだ。
てゆーかなんでタイトル表記、アルファベットに変えるかなー。カタカナでいいじゃん。
わたしは基本的に日本語以外のタイトルは好きじゃない。「商売」なんだから、わかりやすいキャッチーなタイトルが必要だと思っているから。
「『ANNA KARENINA』ぐらい、誰でも読めるじゃん」というのとは、別の意味で。誰でも読めるから、あるいはこんな文字も読めない人は来なくていい、というのは作り手の傲慢さだろう、と思う。
日本語だと意味がそのまま出てしまって、英語にすることで意味に幅を持たせることができる、というのであえて英語なのは仕方ないかとも思うけれど……人名をわさわざ英語(? 少なくともロシア表記ではないわな)にする意味は? アルファベットの方が見た目かっこいいからとか? プログラムとかに変更の意義が書いてあるのかしら。なにか深淵な思いがあるのかしら。
まあなんにせよ、やなタイトルになったなー。
と、こんなとこで「再演ゆえの変更」にとまどいつつ。
なによりも、自分の記憶の再確認に気が行ってしまう。
わたしにとっての『アンナ・カレーニナ』とは。
かしちゃんとしいちゃん。
競馬のシーンでかしちゃんの記憶に直結して涙が出、あとはしいちゃんの役に癒されていた記憶が、ぐるぐる回るよ。
かしちゃんカレーニン好きだった。
コムちゃんコムちゃん、軍服軍服、と浮かれて出かけていったのに、すっかりかっしーにヤラれて帰ることになったんだ。
かっしーのことは「いい人」認識で、「がんばれかっしー」と言い続けて早幾年、クラスメイトの便利屋クラス委員的ポジション(「かしげくん? いい人よねー」「うん、いい人だから好きよー、恋愛する気になんないけど」「ありえないよねー、いい人だけど(笑)」みたいな)だったのに。
かっしーをかっこいいと思うなんて!!
自分でも盛大にとまどった(笑)。
そして、コスチャ@しいちゃん。
ああまさに、わたしの愛するしいちゃんがそこにいる!
純朴でヘタレで、かっこいいのに美形なのに、しっぽの垂れたヘタレワンコ(ただし大型犬)っぷりにくるくる回りたくなるくらい萌えた。
相手役のキティお嬢様@ヒメちゃんも美しく、なんともステキな並びだったさ……ヒメちゃんがその後あーゆーキャラになるとは、このときはまだ夢にも思ってなくてな……遠い目。
しいちゃんはこのあとのぐんちゃんバウ『Over The Moon』でもめちゃくちゃステキでさ……拳握って振り上げて、きゃーきゃーよろこんでたころだなあ……遠い目。
あまりに彼らの記憶が鮮明で、7年も前に1回観ただけだっつーに、「どれだけ好きだったか」ばかりが胸にこみあげてくる。
今現在を演じている彼ら、とは別に。
WSだということは、救いなのかもしれない。
はっきりいって、とてもつたない。初演に比べれば。
2001年当時、コム研11、かしげ研10、しいちゃん研9、キム研4。
それに比べて、ともみん研8、ベニー研7、しーらん研6、真風研3。みんなほぼ3年若いのだから。
真ん中の人たちはなんとかなっていたとしても、それ以外の人たちが若い分モロに「うわ、新人公演」感を上げているし。
最初から「若手のお勉強の場、つたなくて当然」だとわかっている分、心穏やかに観ていられる。
これがちゃんとした学年のスタークラスの人々で上演された、通常バウならささやかな違いにもっと心かき乱されただろう。
もちろん、再演に耐えられるクオリティの作品だからこそ、ちゃんとしたキャストで観てみたい気持ちもあるが。
二重写しになる記憶、そして感情。
過去は美しく彩られがちだから、郷愁と現在の出来を混同しないよう切り離しながらの観劇。
それでも、再演を「たのしい」と思う。
過去の記憶を愛しみながら、現在を受け入れ、書き換えるのではなく別のところへ入れる感覚。
や、複雑な感じですが。
『アンカレ』は良い作品だし、好きだったけれど、魂傾くくらい耽溺した作品ってわけじゃないからな。その分冷静なのかもしれない。
『舞姫』を愛しながらも「いつかきっと再演される」と自分を律しながら観ていたように、「演劇」というものである以上、「消えてなくなる文化」を愛した以上、覚悟しているところがあるんだな。
どんなに「この作品」を愛しても、終演すれば消えてなくなってしまうし、映像は映像でしかなく、その作品自身ではない。
どんなに愛し、大切にしていても、幕が下りた途端、物理的には「消失」するんだ。
消えてしまったのだから、そのあと「どんな扱い」をされても仕方がない。
そう、「再演」されても仕方がないんだ。……と、覚悟をしている。
だから今のところどの作品にしても、『エリザベート』の再演(雪組初演のあと、星組での上演)のときほどの拒絶反応はない。つか、あのときに「胸の奥にしまっていたどんなに大切な宝物でも、他人に引きずり出されめちゃくちゃに引き裂かれるものなのだ」という免疫がついたらしい(笑)。
うーん、『血と砂』が再演されたらまた、ものすごーく混乱するのかしら。や、再演していいようなまともな作品ぢゃないけどなアレは。
覚悟をしている。
だから、今は「再演」をたのしんでいる。
胸の痛みごと。
わたし、役名なにもおぼえてない。
出てくるのは、「**のやった役」。
圭子ねーさまの役、まりえったの役、しいゃんの役、ヒメの役……すべて、初演時の役者名でおぼえている。役自体の名前はおぼえていない。
だって、難しすぎるんだもの、ロシア固有名詞! わたしみたいなアタマ悪い人間にはわかんないよーっ。
おぼえていた名前が、アンナとカレーニンとキティだけだという事実。……し、主役はっ?!
すみません……再演観るまで、主役の名前も忘れてました……そうそう、アレクセイ・ヴィロンスキーね。
その初演すら、1回しか観てません。しかも、コンタクトレンズが行方不明で、メガネで観劇したはず(コンタクトより視界が悪く、また、オペラグラスを使えない)。
複数回観たかったんだけどね、チケット取れなかったの。
あのときのコム姫の人気はそりゃーすごいことになっていてだね……。2001年の文豪作品バウシリーズ、実際に全公演同じプレイガイドに並んだ(あ、星組だけ並んでないか)けど、コム姫の『アンカレ』がもっとも白熱していたと記憶している。
次が水くんの『フィガロ!』とまさかのケロゆひ『血と砂』で両作品とも完売チケ難、あさこちゃんの『マノン』は取れなくて困るほどじゃないが完売したはず。(ねったんの『イーハトーブ』のみ売り切れなくてずーーっと発売中だったが)
当時のバウは売り切れて当然、努力しないと観劇できないものだった。出演者の会に入っていればいくらでも手に入ったとか、完売でもサバキはあったとか、そーゆー話ではなく、純粋に一般ファンの立場では。……だから『アンカレ』も1回しか入手できず。
映像は持っていたよーな気もするが、一度も見ていないので、ほんっとーに初演を1回観たっきりのあやしい記憶しかない。
今年の再演バウWS、月組、花組と初演を知らない作品だったので、わたしにとっての「再演バウWS」はこの『ANNA KARENINA』がはじめてなんだ。
てゆーかなんでタイトル表記、アルファベットに変えるかなー。カタカナでいいじゃん。
わたしは基本的に日本語以外のタイトルは好きじゃない。「商売」なんだから、わかりやすいキャッチーなタイトルが必要だと思っているから。
「『ANNA KARENINA』ぐらい、誰でも読めるじゃん」というのとは、別の意味で。誰でも読めるから、あるいはこんな文字も読めない人は来なくていい、というのは作り手の傲慢さだろう、と思う。
日本語だと意味がそのまま出てしまって、英語にすることで意味に幅を持たせることができる、というのであえて英語なのは仕方ないかとも思うけれど……人名をわさわざ英語(? 少なくともロシア表記ではないわな)にする意味は? アルファベットの方が見た目かっこいいからとか? プログラムとかに変更の意義が書いてあるのかしら。なにか深淵な思いがあるのかしら。
まあなんにせよ、やなタイトルになったなー。
と、こんなとこで「再演ゆえの変更」にとまどいつつ。
なによりも、自分の記憶の再確認に気が行ってしまう。
わたしにとっての『アンナ・カレーニナ』とは。
かしちゃんとしいちゃん。
競馬のシーンでかしちゃんの記憶に直結して涙が出、あとはしいちゃんの役に癒されていた記憶が、ぐるぐる回るよ。
かしちゃんカレーニン好きだった。
コムちゃんコムちゃん、軍服軍服、と浮かれて出かけていったのに、すっかりかっしーにヤラれて帰ることになったんだ。
かっしーのことは「いい人」認識で、「がんばれかっしー」と言い続けて早幾年、クラスメイトの便利屋クラス委員的ポジション(「かしげくん? いい人よねー」「うん、いい人だから好きよー、恋愛する気になんないけど」「ありえないよねー、いい人だけど(笑)」みたいな)だったのに。
かっしーをかっこいいと思うなんて!!
自分でも盛大にとまどった(笑)。
そして、コスチャ@しいちゃん。
ああまさに、わたしの愛するしいちゃんがそこにいる!
純朴でヘタレで、かっこいいのに美形なのに、しっぽの垂れたヘタレワンコ(ただし大型犬)っぷりにくるくる回りたくなるくらい萌えた。
相手役のキティお嬢様@ヒメちゃんも美しく、なんともステキな並びだったさ……ヒメちゃんがその後あーゆーキャラになるとは、このときはまだ夢にも思ってなくてな……遠い目。
しいちゃんはこのあとのぐんちゃんバウ『Over The Moon』でもめちゃくちゃステキでさ……拳握って振り上げて、きゃーきゃーよろこんでたころだなあ……遠い目。
あまりに彼らの記憶が鮮明で、7年も前に1回観ただけだっつーに、「どれだけ好きだったか」ばかりが胸にこみあげてくる。
今現在を演じている彼ら、とは別に。
WSだということは、救いなのかもしれない。
はっきりいって、とてもつたない。初演に比べれば。
2001年当時、コム研11、かしげ研10、しいちゃん研9、キム研4。
それに比べて、ともみん研8、ベニー研7、しーらん研6、真風研3。みんなほぼ3年若いのだから。
真ん中の人たちはなんとかなっていたとしても、それ以外の人たちが若い分モロに「うわ、新人公演」感を上げているし。
最初から「若手のお勉強の場、つたなくて当然」だとわかっている分、心穏やかに観ていられる。
これがちゃんとした学年のスタークラスの人々で上演された、通常バウならささやかな違いにもっと心かき乱されただろう。
もちろん、再演に耐えられるクオリティの作品だからこそ、ちゃんとしたキャストで観てみたい気持ちもあるが。
二重写しになる記憶、そして感情。
過去は美しく彩られがちだから、郷愁と現在の出来を混同しないよう切り離しながらの観劇。
それでも、再演を「たのしい」と思う。
過去の記憶を愛しみながら、現在を受け入れ、書き換えるのではなく別のところへ入れる感覚。
や、複雑な感じですが。
『アンカレ』は良い作品だし、好きだったけれど、魂傾くくらい耽溺した作品ってわけじゃないからな。その分冷静なのかもしれない。
『舞姫』を愛しながらも「いつかきっと再演される」と自分を律しながら観ていたように、「演劇」というものである以上、「消えてなくなる文化」を愛した以上、覚悟しているところがあるんだな。
どんなに「この作品」を愛しても、終演すれば消えてなくなってしまうし、映像は映像でしかなく、その作品自身ではない。
どんなに愛し、大切にしていても、幕が下りた途端、物理的には「消失」するんだ。
消えてしまったのだから、そのあと「どんな扱い」をされても仕方がない。
そう、「再演」されても仕方がないんだ。……と、覚悟をしている。
だから今のところどの作品にしても、『エリザベート』の再演(雪組初演のあと、星組での上演)のときほどの拒絶反応はない。つか、あのときに「胸の奥にしまっていたどんなに大切な宝物でも、他人に引きずり出されめちゃくちゃに引き裂かれるものなのだ」という免疫がついたらしい(笑)。
うーん、『血と砂』が再演されたらまた、ものすごーく混乱するのかしら。や、再演していいようなまともな作品ぢゃないけどなアレは。
覚悟をしている。
だから、今は「再演」をたのしんでいる。
胸の痛みごと。