ヒーローを求めている。@フットルース
2012年8月10日 タカラヅカ キムくん、辞めるのやめないかな。
今さらだとわかっているけど、それでも言う。言わずに、いられない。
博多行ってきました。
いろいろあっていろいろ抱えて、いろいろ大変だけど、いや、そんなときだからこそわたしにはタカラヅカが必要だ。
で、改めて『フットルース』という作品に再会し……。
音月桂のすごさを、再確認した。
彼がすごいことなんか、わかってるんだけどさ。
それでもやっぱ、出会うたびに思うんだ。この子、すごい!って。
自由自在の歌声。
饒舌な表現力。
魂の熱さと役に対する誠実さ。
美貌と華。
よくぞこれだけ、持ち合わせた。
これほど神様からのギフトを持った男役を、宝塚歌劇団は失っていいの?
そりゃあ八等身のスタイルや、細長い首は持ってないけど、「男役」としてのバランスは取れている。
身長170cmそこそこの等身大の男の子として、こんなにも胸をときめかせる。
もちろんタカラヅカだから、ひらひらフリルの王子様も必要だけど、なんのために5組あるのさ。夢の国の王子様ではなく、わたしたちの世界と地続きの、だけどまぎれもなく「タカラヅカ」である「ヒーロー」がいたっていい。
「ヒーロー」が必要だ。
キムくんの重さのあるリアルな芸風は、わたしが「タカラヅカ」に求めるもののひとつだ。
フィクションに感情移入できるのは、そこに真実があるから。
すべてつくりごと、嘘だけの世界。だからこそ、リアルな部分はとことんリアルでなくてはならない。全部が嘘なら、誰がそこに夢を見るだろう。エイリアンには感情移入できない。
キムくんの表現するものが好きだ。
それは強く、痛く、ときに正視に耐えず目をそらしたくなり、だからこそさらに惹きつけられる。
そしてわたしは、歌ウマが好きなんだ。
歌で表現する人が好きなんだ。
しばらくそんなこと、忘れてたよ。オサ様を失って以来、そんな意識手放してた。タカラヅカで歌唱力を求めることの無意味さを知っているし。
わたしが重要視するのは、芝居>歌>ダンス。芝居ができなきゃ話にならない。
タカラヅカは歌劇団だけど、ほんとのとこ「歌」で芝居することなんてほとんどない。
芝居と歌は隔絶していて、芝居は芝居だけして、スイッチを切り替えて「さあ、スター様のソロですよ」となる。
だから歌がうまくないスターがいても、てゆーかそっちの方が圧倒的に多くても、気にならなかった。
だけど、本当に「ミュージカル」だと、そうはいかない。
歌と芝居は同一のもので、歌を自在に歌えないということは、芝居ができないと同じ意味だ。台詞に感情を込められない、のと同じだよ、正しいメロディで歌えないのは。
音がはずれていてもそこに心あればセーフだとは思っているけど、「表現」はそこでストップしている。
「芝居」でならもっともっと表現できる役者なのに、「歌」というツールを使っては何分の一しか芝居ができない、技術が足りなくて演じられない。
それがタカラヅカの当たり前だから、忘れてた。
「歌」という武器のある人の「芝居」が、これほど心に響くことを。
素直に、キムの芝居に酔える。
その歌声にすべてを預けられる。
客席にいる間、夢の世界に浸っていられる。
なんて幸福なんだろう。
「歌」を自在に操るトップスターの存在。
この人の「芝居」を、ずっとずっと見ていたい。この幸福な空間を漂っていたい。
心から、そう思った。
誰か他のスターさんをdisる意味ではなくて。
ただもお、今、音月桂というスターの得がたさに胸が熱くなる。
5年間トップスターとして君臨したオサ様とだって、別れるときはつらかった。悲しくて寂しくてたまらなかった。
でもキムくんは、たった2年だよ?
足りない。
ぜんぜん、足りてない。
悲しいとか寂しいとかより、そんなの、おかしいと思う。
これほどの実力のあるスターを、みすみす手放していいの?
まだまだ、彼の歌を聴きたい、芝居を見たい。
ただ歌ウマなだけじゃないよ?
タカラヅカのトップスターは長期間、同じクオリティで歌い続けなければならない。
どんだけすばらしい歌声を披露できても、わずかに期間だけじゃダメなんだ。
キムくんは公演期間中、ものすげー声量でハイクオリティな歌声を安定してぶっとばし続ける。
彼の高出力さは半端ナイ。
何故このクオリティをキープしたままいられるのか、不思議になるくらい。
博多でも彼の歌声は、さらに轟きわたっていた。
誰よりも歌い、誰よりも踊り、誰よりもテンション高く芝居に入り込み、涙を流し「存在」している。
なんかもお、「すごいものを見ている」という感覚にうろたえる。
わたし、すごいスターの時代をリアルタイムに体験しているんだ。
もともと歌ウマだったオサ様が、トップになってさらにうまくなっていったように、キムくんもトップになってさらにうまくなっている。
だってトップスターというのは、そういうものだもの。他の誰より歌の場面を、歌で表現することを求められる。
場数を踏み、責任を負い、さらにさらに成長する。
そして、歌えるスターの周りには、歌える者たちが集う。
歌ウマトップは、周囲の歌レベルも上げる。彼とハモることで、ある程度の歌唱力の人は、もう一段階上へ跳ぶ。さすがに音痴レベルの人は誰と歌ってもダメかもしんないが、少なくとも『フットルース』に出演している人々に音痴はいない。
心地いい。
歌える人が歌い、踊れる人が踊る、ハイクオリティな舞台。
見るたびに、レン@キムを好きになる。
最初は見た目。
キムに必要だったのは、前髪だ。と思った……だってその、彼、いわゆる「タカラヅカ」なオールバックやリーゼントはえっと、それほど抜群に似合う顔立ちやスタイルではなかったっちゅーかゲフンゲフン。
地髪のさらさら前髪ありショートの似合いっぷりハンパねえ。今まで見てきた中で、いちばんのイケメンぶり。そうだよ、もともとジャニ系なんだから、この路線で貫けば良かったのに。いやそのここはタカラヅカだからオールバックもリーゼントも必要だけど、そこに固執しすぎないで臨機応変に……。
見た目の美形さ、かっこよさにときめいて、次にその明るさと強さに心酔する。「I’m Free!」と叫べる強さ。魂のすこやかさ。
そして。
彼が持つ光は、大きな傷や闇を抱えながら、それを超えてなお光っているのだということに気づく。
彼の強さの本質を知る。
無神経だから強いわけじゃない、無傷だからきれいなわけじゃない。
誰よりも繊細で誰よりも傷だらけで、だからこそ、強く美しく輝くんだ。
観劇するたびに、新しくレンを知る。気づく。
レンだけじゃなかったよな。ニコライだってフィリップだって、カルロスだって、そうだった。
キムが創り上げるキャラクタたちの、質感のある魅力。
これだけのものを見せてくれるトップスターなのに、もうあと1公演しかないとか、ありえない。
しかも次は原作物だし彼のためのオリジナルアテ書きでもないし音楽だっていつものタカラヅカレベルになるわけだし。
キムくんの能力をフルに使う作品じゃない。
それで卒業なんて、もったいなさ過ぎる。
キムくん、辞めるのやめないかな。
みみちゃんとふたりで、もっともっと「タカラヅカ」を創って欲しい。
今さらだとわかっているけど、それでも言う。言わずに、いられない。
博多行ってきました。
いろいろあっていろいろ抱えて、いろいろ大変だけど、いや、そんなときだからこそわたしにはタカラヅカが必要だ。
で、改めて『フットルース』という作品に再会し……。
音月桂のすごさを、再確認した。
彼がすごいことなんか、わかってるんだけどさ。
それでもやっぱ、出会うたびに思うんだ。この子、すごい!って。
自由自在の歌声。
饒舌な表現力。
魂の熱さと役に対する誠実さ。
美貌と華。
よくぞこれだけ、持ち合わせた。
これほど神様からのギフトを持った男役を、宝塚歌劇団は失っていいの?
そりゃあ八等身のスタイルや、細長い首は持ってないけど、「男役」としてのバランスは取れている。
身長170cmそこそこの等身大の男の子として、こんなにも胸をときめかせる。
もちろんタカラヅカだから、ひらひらフリルの王子様も必要だけど、なんのために5組あるのさ。夢の国の王子様ではなく、わたしたちの世界と地続きの、だけどまぎれもなく「タカラヅカ」である「ヒーロー」がいたっていい。
「ヒーロー」が必要だ。
キムくんの重さのあるリアルな芸風は、わたしが「タカラヅカ」に求めるもののひとつだ。
フィクションに感情移入できるのは、そこに真実があるから。
すべてつくりごと、嘘だけの世界。だからこそ、リアルな部分はとことんリアルでなくてはならない。全部が嘘なら、誰がそこに夢を見るだろう。エイリアンには感情移入できない。
キムくんの表現するものが好きだ。
それは強く、痛く、ときに正視に耐えず目をそらしたくなり、だからこそさらに惹きつけられる。
そしてわたしは、歌ウマが好きなんだ。
歌で表現する人が好きなんだ。
しばらくそんなこと、忘れてたよ。オサ様を失って以来、そんな意識手放してた。タカラヅカで歌唱力を求めることの無意味さを知っているし。
わたしが重要視するのは、芝居>歌>ダンス。芝居ができなきゃ話にならない。
タカラヅカは歌劇団だけど、ほんとのとこ「歌」で芝居することなんてほとんどない。
芝居と歌は隔絶していて、芝居は芝居だけして、スイッチを切り替えて「さあ、スター様のソロですよ」となる。
だから歌がうまくないスターがいても、てゆーかそっちの方が圧倒的に多くても、気にならなかった。
だけど、本当に「ミュージカル」だと、そうはいかない。
歌と芝居は同一のもので、歌を自在に歌えないということは、芝居ができないと同じ意味だ。台詞に感情を込められない、のと同じだよ、正しいメロディで歌えないのは。
音がはずれていてもそこに心あればセーフだとは思っているけど、「表現」はそこでストップしている。
「芝居」でならもっともっと表現できる役者なのに、「歌」というツールを使っては何分の一しか芝居ができない、技術が足りなくて演じられない。
それがタカラヅカの当たり前だから、忘れてた。
「歌」という武器のある人の「芝居」が、これほど心に響くことを。
素直に、キムの芝居に酔える。
その歌声にすべてを預けられる。
客席にいる間、夢の世界に浸っていられる。
なんて幸福なんだろう。
「歌」を自在に操るトップスターの存在。
この人の「芝居」を、ずっとずっと見ていたい。この幸福な空間を漂っていたい。
心から、そう思った。
誰か他のスターさんをdisる意味ではなくて。
ただもお、今、音月桂というスターの得がたさに胸が熱くなる。
5年間トップスターとして君臨したオサ様とだって、別れるときはつらかった。悲しくて寂しくてたまらなかった。
でもキムくんは、たった2年だよ?
足りない。
ぜんぜん、足りてない。
悲しいとか寂しいとかより、そんなの、おかしいと思う。
これほどの実力のあるスターを、みすみす手放していいの?
まだまだ、彼の歌を聴きたい、芝居を見たい。
ただ歌ウマなだけじゃないよ?
タカラヅカのトップスターは長期間、同じクオリティで歌い続けなければならない。
どんだけすばらしい歌声を披露できても、わずかに期間だけじゃダメなんだ。
キムくんは公演期間中、ものすげー声量でハイクオリティな歌声を安定してぶっとばし続ける。
彼の高出力さは半端ナイ。
何故このクオリティをキープしたままいられるのか、不思議になるくらい。
博多でも彼の歌声は、さらに轟きわたっていた。
誰よりも歌い、誰よりも踊り、誰よりもテンション高く芝居に入り込み、涙を流し「存在」している。
なんかもお、「すごいものを見ている」という感覚にうろたえる。
わたし、すごいスターの時代をリアルタイムに体験しているんだ。
もともと歌ウマだったオサ様が、トップになってさらにうまくなっていったように、キムくんもトップになってさらにうまくなっている。
だってトップスターというのは、そういうものだもの。他の誰より歌の場面を、歌で表現することを求められる。
場数を踏み、責任を負い、さらにさらに成長する。
そして、歌えるスターの周りには、歌える者たちが集う。
歌ウマトップは、周囲の歌レベルも上げる。彼とハモることで、ある程度の歌唱力の人は、もう一段階上へ跳ぶ。さすがに音痴レベルの人は誰と歌ってもダメかもしんないが、少なくとも『フットルース』に出演している人々に音痴はいない。
心地いい。
歌える人が歌い、踊れる人が踊る、ハイクオリティな舞台。
見るたびに、レン@キムを好きになる。
最初は見た目。
キムに必要だったのは、前髪だ。と思った……だってその、彼、いわゆる「タカラヅカ」なオールバックやリーゼントはえっと、それほど抜群に似合う顔立ちやスタイルではなかったっちゅーかゲフンゲフン。
地髪のさらさら前髪ありショートの似合いっぷりハンパねえ。今まで見てきた中で、いちばんのイケメンぶり。そうだよ、もともとジャニ系なんだから、この路線で貫けば良かったのに。いやそのここはタカラヅカだからオールバックもリーゼントも必要だけど、そこに固執しすぎないで臨機応変に……。
見た目の美形さ、かっこよさにときめいて、次にその明るさと強さに心酔する。「I’m Free!」と叫べる強さ。魂のすこやかさ。
そして。
彼が持つ光は、大きな傷や闇を抱えながら、それを超えてなお光っているのだということに気づく。
彼の強さの本質を知る。
無神経だから強いわけじゃない、無傷だからきれいなわけじゃない。
誰よりも繊細で誰よりも傷だらけで、だからこそ、強く美しく輝くんだ。
観劇するたびに、新しくレンを知る。気づく。
レンだけじゃなかったよな。ニコライだってフィリップだって、カルロスだって、そうだった。
キムが創り上げるキャラクタたちの、質感のある魅力。
これだけのものを見せてくれるトップスターなのに、もうあと1公演しかないとか、ありえない。
しかも次は原作物だし彼のためのオリジナルアテ書きでもないし音楽だっていつものタカラヅカレベルになるわけだし。
キムくんの能力をフルに使う作品じゃない。
それで卒業なんて、もったいなさ過ぎる。
キムくん、辞めるのやめないかな。
みみちゃんとふたりで、もっともっと「タカラヅカ」を創って欲しい。