極端な話をする。
 ある日、観劇しながら思ったんだ。
 そもそもミュージカルってなんなの? と。
 台詞が歌になる意味ってナニ? そんなんおかしいやん、ありえないやん。
 無理に歌わなくていいじゃん、もともとありえない、おかしなことをやってるんだから。
 舞台から、おかしなことをやってる、ということが、ひしひしと感じられた。無理なことをしている、ということが、ひしひしと感じられた。
 歌になるたびに、無意味だ、無理だ、これは無理に作った絵空事で、作り物を、役者ががんばって演じているのだ、と思った。物語からアタマが切り替わり、無意味だ、と思った。

 ミュージカル否定論。台詞を歌にするなんて不自然、不要。


 ……わたしは、ミュージカルが好きだ。
 台詞が歌になるのも好き。歌と台詞が乖離しているモノ(例・植爺作品)より、物語の中にふつーに融合している作品の方が好き。
 心が動き、気持ちが歌になる。
 ただ言葉で発音するだけよりも、メロディにのせることで、何乗にも感情が豊かになる。多くの情報が伝わる。
 わたしは、ミュージカルが好き。

 だから。

 ごめん、『王家に捧ぐ歌』のうらら様は、ダメだ。わたしには。

 許容できない。

 たかが歌じゃないか。
 そう思おうとした。
 うらら様の美貌が素晴らしいことはわかる。彼女の顔は大好きだ。
 美貌はアムネリス様に相応しいと思う。あの豪華衣装を、ばーーん!と着こなしてしまうことには感服する。だから極力、美貌を愛で、足りないモノには目をつぶろうとした。歌以外を楽しむのよ。歌だってがんばってるし、うらら様比でよくなってるんだし。きっとものすごくがんばったんだわ。その努力を想像しなきゃ。
 初日はそうして乗り切った。2回目も、出来るだけ心を閉ざし、開いた部分で良いところだけ見るようにと努力した。
 だけど、3回目の観劇で。
 思った。

 たかが歌、とは思えない。
 だって、歌、は、在るんだもの。
 台詞が歌、になっているこの作品で、大切な部分、盛り上がる部分は、歌、になってるんだもの。

 たかが歌……。それ以外を……美貌とか、芝居とか……。
 芝居もいいのかもしれない。『翼ある人びと』は良かった。
 でも今回は、芝居も無理だ。わたしには。
 だって芝居と歌が、密接な関係にあるんだもの。

 なまじわたしは初演厨だ。「初演は神、再演は『初演ではない』というだけで糞」という思考に陥る危険性を持っている。わたしがこんなに反応するのは、初演厨だからじゃないのか? 生まれてはじめて見る『王家』が宙組で、生まれてはじめて出会うアムネリスがうらら様なら、こうは感じないのではないか?
 そうかもしれない。すべては、わたしが初演厨で、無意識に、初演以外、檀ちゃん以外認めないっっっ、と思い込んでいるためかもしれない。だから、偏った見方をしているのかもしれない。

 だが。

 そうだとして、なんだっつーんだ。
 「ミュージカルなんていらない」……わたしにそう思わせるような歌唱をするアムネリスを、「初演厨にならないために」許容する方が、おかしくないか?

 うらら様のタカラジェンヌとしての才能を、女優としての可能性を、否定するわけじゃない。したいわけじゃない。
 ただ、今回に限って言うと、「勘弁してくれ」と、思った。

 物語に没入する、観劇する、異世界に酔う、この世を離れ、ドラマティックな世界を堪能する……その感動を、いちいち、ぶった切られるのだ。
 ザッと冷水を浴びせられる。
 ここから盛り上がる、感情が高まる……、という、まさにその瞬間、あるはずの音は消え、不自然な、不快な音がする。
 感情が高まり歌になる……のなら、人はこんな「出ない音を無理に出す」ことはしない。ない音を絞り出したり、無理をして誤魔化したり、しない。
 そうだ、これは「作り事」だ、嘘だ。
 今わたしが心を動かしたモノは、全部全部、真っ赤な嘘、ニセモノだ。

 喉を潰したときのえりたんを思い出した。
 声が出なくなったえりたんは、「出る音」だけで歌おうとした。が、途中で音が消え、出るはずだった声はおかしな音だけ残し、聞こえるはずだった歌詞は消えてなくなった。
 観ているわたしは、はらはらした。手に汗握って見守った。応援した。がんばれ、えりたん。もう少し、あと少しで曲が終わる。ああ、音がはずれた、ああ、音が消えた……がんばれ、がんばれ、なんとか歌いきって!!
 可哀想だから、もう歌わないで、とは思わない。彼はプロで、自分の意志でここにいる。だから、どんな姿であろうと、歌いきることが使命。そしてわたしは、彼が彼の選んだ使命を全う出来るよう、応援する。がんばれ。

 同じく喉を潰したときのまっつは、少し違っていた。出ない音を出そうと苦闘したのはわずかな間で、あとはすぱっと切り替えて、歌を台詞に変えて乗り切った。どうしても歌わなければならないところも、声をコントロールすることでねじ伏せた。……普段から声のコントロールを得意とする人は、アクシデントに対しても強かった。
 それでももちろんわたしは、客席で手に汗握っていたけれど。

 喉を潰した人の舞台を、思い出した。
 出るはずの音が出ずに、ヒッとかウッとか、おかしな音がして、無音になる。
 がんばっていることがわかるから、客席で応援した。
 プロなのに喉を潰すなんて、とんでもない。プロ失格だ!! とかゆー議論は置いておいて。

 今、目の前で、「喉を潰した人が、必死に出ない音を出そうとして、結局出せずに終わっている」のと、同じことが展開されている。
 喉を潰した人がプロ失格、舞台人として最低、と言われたりする世の中で……今、わたしが見ているモノは、なんなんだろう?

 もともと歌える人が、故障で歌えなくなるのは最低、どんなに努力しても歌えない人が歌えないのは仕方ない、それを責めるのは人として間違ってる?
 いやソレ、そもそもそういう人は、「歌わなくてイイ」のでは?

 じゃあなんで歌うの? そうか、歌があるから悪いんだ。なんで歌なんかあるの。台詞を歌にするなんてナンセンス、ミュージカルなんてものがおかしい。
 てことで、やっぱり「ミュージカル否定論」にたどり着いてしまう。

 ぐるぐるぐるぐる。

 こんなことを思うのは、はじめてだ。

 タカラヅカに音痴は付きもの。音痴が嫌ならタカラヅカを観るな。……よくある台詞。
 わたしは歌ウマさんが好きだが、なにしろヅカヲタ長いので、音痴スターさんにも免疫がしっかり出来ている。
 どんな音痴スターさんにも、こんなことは思ったことがない。
 音痴だな、とか、歌ひでえな、とは思う。ふつーに耳があるから。
 が、音痴さんが歌っているからって、「この世にミュージカルは不要だ」と飛躍したことはない。
 だって音痴さんの歌って、「声はある」んだもの。ただ、音がはずれているだけで、音自体はある。
 そしてミュージカルってのは、「表現方法として、歌う」ものでしょ? 音を使って表現する、その音が迷っていても彼方へ飛んでいって元がわからなくなっていたとしても、「音」はある。そのはずれた音も、「表現」だと思える。心の動きがその「音」になったのだと思える。
 また、物語に没入していたら、音程のやばさや歌詞の不明瞭さごときに水は差されない。それすらも物語の一部だからだ。

 が。
 「音」自体が「なくなる」のは、ソレもう、歌がうまいとかヘタとかの次元じゃない。

 喉を潰している人をはらはら見守ったように、「次の歌、歌えるのかしら」「ここから音上がる、出るのか? ……(息を詰める)……な、なんとか乗り切った、でも次は……っ?!」て、はらはらしながら、「それが通常」の人を、なんで見守らなきゃならないの?

 それは趣味の問題? 世の中には、音が外れることの方が、音がなくなることより不快な人もいる。世の中には、美貌がすべてで、美人が出す音なんて、途中でなくなっていても気にならない人もいる。
 もちろん、そういう人もいるでしょう。
 でもそれならそもそも、歌いらなくね? 歌劇である意味なくね? なくてもいい音なら、最初からなければいいんだもの。

 ヅカヲタ長いから、「音痴」「歌が致命的にヘタ」なスターさんは数多く(多いのよ……)見てきたけど、「声が存在しない」スターさんは、うらら様がはじめだ。
 だからこれは、はじめて感じたこと。はじめて知った感情。

 うらら様のアムネリスは、芝居以前の問題。
 ミスキャスト。

 彼女がどんなに素晴らしい演技をしていたとしても、「歌が台詞」のこの作品で、出ない音を無理に絞り出したり、不自然に消音したりしている段階で、わたしには伝わらない。
 アムネリスのうらら様がアリだというなら、ミュージカルなんて不要だ。


 だからどうして、うらら様にアムネリスをさせたのか。
 ここまで作品を破壊しない、彼女のために書き下ろした作品と役をやらせればいいのに。
 故障した役者をはらはら見守る、ようなことを観客に強いることなく、彼女の魅力や才能を発揮させる方法はあるはずだ。

 ただもう、残念だ。
 本当に、かなしい。むなしい。

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