三日月藩の人々とか。@星逢一夜
2015年8月1日 タカラヅカ 『星逢一夜』、ここいらでちょっくらキャスト感想。
何回目に観たときだったかな、専門学校かなんかの学生団体が入ってて。
終演後、男の子のグループが「泉やばい」と話しているのを見かけた。「泉やばいわー、俺、ああいあタイプやばい」……そ、そうか、やばいのか……。櫓の上の泉と晴興の別れの場面の話をしていた。あんな風に言われたらたまらん、てなことを冗談めかしつつ。
お泉ちゃん、かわいいもんなー。男子としてはそりゃたまらんじゃろうて……。
いつも精一杯背伸びして強がって生きている女の子が、時折ぶわっとくずれるの、男子的にも萌えポイントなんだろうなあ。
大ちゃんはいつも大ちゃん、子役であるとかおっさんであるとか、そんな次元にはナイ。
大ちゃんの資質をうまく使ってるなあと思う。
きんぐには、子役は出来ないらしい。
この人も芸幅せまいなー(笑)。おっさんをやっても美形なのは、本気の老け役が出来ないだけかも、と思ってはいる。が、きんぐはそれでいいと思っている。それがいいと思っている。わたしはきんぐに甘い(笑)。
冒頭の子役場面、もっとも子役が出来ていない。大ちゃんみたいに「キャラクタとして突き抜けた存在」でもなく、本人は真っ当に子役をやっているつもりらしいのに、子役になっていない、というあたりがもお、情けなくもあり、愛しくもあり。
祭りの青年が、得意分野。二枚目でチャラくて。あんりちゃんといちゃいちゃしてて。
きんぐもすごくきんぐらしい役回りかな。
咲ちゃんがいい感じだなーー。
子役場面が「大人の男役になれない若者が、結果的に子どもに見えている」のではなく、ちゃんと「子どもの演技」をしていた。
ああ、芝居で子どもやってるんだ、とわかる。
ちょび康は儲け役だけど、その「目立つ」役割を、きちんとモノにしてるんだなと思うのは、大人になってからの芝居について。
一揆について話し合う人々の中、ずっと黙って聞いているちょび康がいい。今朝息子を亡くしたばかりの男が、自失の体から徐々に現実に……怒りと憎しみのある世界へ戻って来て、「俺はやりたい」と気持ちを吐き出すに至る……その悲しい歪みに胸を突かれる。
咲ちゃんを注視していると、この男の中でなにが起こっているのかがわかる。
咲ちゃんを見てなくても、これまであんだけ「紀之介大好き」だった優しい男が、一揆に決意を固めている、という外側の情報だけで彼らの状況がわかるわけだし。
「息子を殺された」と声高に台詞で説明しないのがいいよなあ。植爺や谷ならどんだけ重複台詞たたみ掛けて「1から説明し直し、どころか、-10くらいまで戻って全解説」させて、それを聞いた全員が泣き崩れる芝居させるだろう、と思うだけに、解説台詞一切なし、が気持ちいい。
あ、そだ、初日の翌日観たときの残念ポイント。
冒頭の子ども時代、ヒメがまた暴走をはじめていること。
初日はふつーだった「子どもたちを怒鳴りつけて連れ帰る」芝居が、翌日から「ヒメお得意のスタンドプレイ」になっていた。
ドスきかせて、わざと滑稽にデフォルメした言い方にして、笑いを取る。
ヒメのヒメらしい見せ場はそこだけかもしれんし、だからこそそこで個性を出したいのはわかるが、お笑いのためのお笑いはやめてくれええ。
そこで「うわ、ヒメがまたはじめた」と思ってたら、3回目に観たときはさらにエスカレートしていて震撼。
序盤でコレだと、今後どんだけひどいことになるのか、考えるとこわい。
滑稽な声を出せば観客は笑うけど、その笑いって正当? 必要?
演出家意図なのかな? ここは、世界観から浮き上がるくらいおかしな声を出して、笑いを取れと。悲劇とのコントラストに必要なのだと。
わたしはここでコントは不要だと思った。初日くらい、ふつーにやるだけで、十分ほっこりすると思った。
ヒメの役が、今後もなにかと登場し、「おばちゃんやない、おねーちゃん!」とやるなら、キャラ立てとして必要かなと思うけど、ほぼモブみたいな役だから、ここで無理に観客の意識を奪う必要はないんじゃないかと思う。
ヒメの真骨頂はスタンドプレイのわざとらしいお笑い芝居ではなく、包容力のある大人芝居だと思うの。
一揆の最中、みゆちゃんを抱き留める姿にきゅんとした。ただ力尽くで押さえ込むのではなく、抱いて、あやしている。
つらいね、つらいね……、自分たちではどうすることもできない奔流の中、せめて抱きしめ、いたわる年長者。
『フットルース』のときも、奇声を上げる場面より、「母親」らしい芝居がステキだったよなあ。
翔くんはこれまた、ヘタさが浮き上がってるなー(笑)。
他のキャストとの実力差がはっきり見えるだけに、存在感すごい。あの、やたらきれいな顔で、頓狂な台詞回しの人はなんなの? と、観客の記憶に残るはず。
後半、そこにいるだけで台詞もない役だから、翔くんぐらい目立つひとがやるのは意味があるかなと。晴興@ちぎくんのそばに、親友が付き従っていること、は重要なポイント。
……今回の翔くん、その芝居の微妙さも含めて、なんか好きだ。ツボに入る。
翔くんは翔くんだというだけで目立つから解説なくていいけど、がおりさんは解説必要ですよ、前半後半で「誰?!」ってくらい、老けすぎてる。
がおちゃんの役名が「鈴虫」なのはうまいなあと思う。これがふつーに時代劇にいくらでもありそうな名字だったら、キャラクタを見失う観客が続出するだろう。
鈴虫、という、「え、今ここで聞くとは思わない音を聞いた?」と注目する固有名詞だから、意識に残る。そのあとどんだけ姿を変えて立ち姿や話し方を変えても、「鈴虫」と名乗るだけで「ああ、あの人か」とわかる。
……にしても、老けすぎやろ……(笑)。
そして、江戸の橋の下の場面は意味不明。遊女たちが客と世相を語るなら場面としてアリだと思うけど、そこに鈴虫さん出すのは不自然すぎる。
きゃびいがかっこいい。
遊女もだが、晴興母が毅然として、「武士の妻」らしくて素晴らしい。
これだけ端正な佇まいの女性を前にして「血筋が悪い」と言ってしまう藩の重鎮方の態度に、「側室」が日常的に蔑まれているのかわかる。
晴興が泉を側室にしなかったわけだよなあ。下級武家出身の晴興母でコレなら、農家の娘の泉では絶対ムリじゃろ……。
で、きゃびいがかっこいいだけに、あの情けない晴興父@あすと、どんな経緯で側室におさまったのか、またその夫婦生活を見てみたいっす(笑)。
レオ様がカッコよすぎてたまらん……。
青年期以降、モブとして村人にまざってるんだけど、とにかくかっこいい……美しい……なにあの神ビジュアル。
ひとこは3回目にしてようやく見つけた……。子役時代が別役者だと、モブと変わらんな、この役。
完全モブのレオ様や真地くんの方が目立つ。
翼くんは髪型似合ってない……(笑)。
何回目に観たときだったかな、専門学校かなんかの学生団体が入ってて。
終演後、男の子のグループが「泉やばい」と話しているのを見かけた。「泉やばいわー、俺、ああいあタイプやばい」……そ、そうか、やばいのか……。櫓の上の泉と晴興の別れの場面の話をしていた。あんな風に言われたらたまらん、てなことを冗談めかしつつ。
お泉ちゃん、かわいいもんなー。男子としてはそりゃたまらんじゃろうて……。
いつも精一杯背伸びして強がって生きている女の子が、時折ぶわっとくずれるの、男子的にも萌えポイントなんだろうなあ。
大ちゃんはいつも大ちゃん、子役であるとかおっさんであるとか、そんな次元にはナイ。
大ちゃんの資質をうまく使ってるなあと思う。
きんぐには、子役は出来ないらしい。
この人も芸幅せまいなー(笑)。おっさんをやっても美形なのは、本気の老け役が出来ないだけかも、と思ってはいる。が、きんぐはそれでいいと思っている。それがいいと思っている。わたしはきんぐに甘い(笑)。
冒頭の子役場面、もっとも子役が出来ていない。大ちゃんみたいに「キャラクタとして突き抜けた存在」でもなく、本人は真っ当に子役をやっているつもりらしいのに、子役になっていない、というあたりがもお、情けなくもあり、愛しくもあり。
祭りの青年が、得意分野。二枚目でチャラくて。あんりちゃんといちゃいちゃしてて。
きんぐもすごくきんぐらしい役回りかな。
咲ちゃんがいい感じだなーー。
子役場面が「大人の男役になれない若者が、結果的に子どもに見えている」のではなく、ちゃんと「子どもの演技」をしていた。
ああ、芝居で子どもやってるんだ、とわかる。
ちょび康は儲け役だけど、その「目立つ」役割を、きちんとモノにしてるんだなと思うのは、大人になってからの芝居について。
一揆について話し合う人々の中、ずっと黙って聞いているちょび康がいい。今朝息子を亡くしたばかりの男が、自失の体から徐々に現実に……怒りと憎しみのある世界へ戻って来て、「俺はやりたい」と気持ちを吐き出すに至る……その悲しい歪みに胸を突かれる。
咲ちゃんを注視していると、この男の中でなにが起こっているのかがわかる。
咲ちゃんを見てなくても、これまであんだけ「紀之介大好き」だった優しい男が、一揆に決意を固めている、という外側の情報だけで彼らの状況がわかるわけだし。
「息子を殺された」と声高に台詞で説明しないのがいいよなあ。植爺や谷ならどんだけ重複台詞たたみ掛けて「1から説明し直し、どころか、-10くらいまで戻って全解説」させて、それを聞いた全員が泣き崩れる芝居させるだろう、と思うだけに、解説台詞一切なし、が気持ちいい。
あ、そだ、初日の翌日観たときの残念ポイント。
冒頭の子ども時代、ヒメがまた暴走をはじめていること。
初日はふつーだった「子どもたちを怒鳴りつけて連れ帰る」芝居が、翌日から「ヒメお得意のスタンドプレイ」になっていた。
ドスきかせて、わざと滑稽にデフォルメした言い方にして、笑いを取る。
ヒメのヒメらしい見せ場はそこだけかもしれんし、だからこそそこで個性を出したいのはわかるが、お笑いのためのお笑いはやめてくれええ。
そこで「うわ、ヒメがまたはじめた」と思ってたら、3回目に観たときはさらにエスカレートしていて震撼。
序盤でコレだと、今後どんだけひどいことになるのか、考えるとこわい。
滑稽な声を出せば観客は笑うけど、その笑いって正当? 必要?
演出家意図なのかな? ここは、世界観から浮き上がるくらいおかしな声を出して、笑いを取れと。悲劇とのコントラストに必要なのだと。
わたしはここでコントは不要だと思った。初日くらい、ふつーにやるだけで、十分ほっこりすると思った。
ヒメの役が、今後もなにかと登場し、「おばちゃんやない、おねーちゃん!」とやるなら、キャラ立てとして必要かなと思うけど、ほぼモブみたいな役だから、ここで無理に観客の意識を奪う必要はないんじゃないかと思う。
ヒメの真骨頂はスタンドプレイのわざとらしいお笑い芝居ではなく、包容力のある大人芝居だと思うの。
一揆の最中、みゆちゃんを抱き留める姿にきゅんとした。ただ力尽くで押さえ込むのではなく、抱いて、あやしている。
つらいね、つらいね……、自分たちではどうすることもできない奔流の中、せめて抱きしめ、いたわる年長者。
『フットルース』のときも、奇声を上げる場面より、「母親」らしい芝居がステキだったよなあ。
翔くんはこれまた、ヘタさが浮き上がってるなー(笑)。
他のキャストとの実力差がはっきり見えるだけに、存在感すごい。あの、やたらきれいな顔で、頓狂な台詞回しの人はなんなの? と、観客の記憶に残るはず。
後半、そこにいるだけで台詞もない役だから、翔くんぐらい目立つひとがやるのは意味があるかなと。晴興@ちぎくんのそばに、親友が付き従っていること、は重要なポイント。
……今回の翔くん、その芝居の微妙さも含めて、なんか好きだ。ツボに入る。
翔くんは翔くんだというだけで目立つから解説なくていいけど、がおりさんは解説必要ですよ、前半後半で「誰?!」ってくらい、老けすぎてる。
がおちゃんの役名が「鈴虫」なのはうまいなあと思う。これがふつーに時代劇にいくらでもありそうな名字だったら、キャラクタを見失う観客が続出するだろう。
鈴虫、という、「え、今ここで聞くとは思わない音を聞いた?」と注目する固有名詞だから、意識に残る。そのあとどんだけ姿を変えて立ち姿や話し方を変えても、「鈴虫」と名乗るだけで「ああ、あの人か」とわかる。
……にしても、老けすぎやろ……(笑)。
そして、江戸の橋の下の場面は意味不明。遊女たちが客と世相を語るなら場面としてアリだと思うけど、そこに鈴虫さん出すのは不自然すぎる。
きゃびいがかっこいい。
遊女もだが、晴興母が毅然として、「武士の妻」らしくて素晴らしい。
これだけ端正な佇まいの女性を前にして「血筋が悪い」と言ってしまう藩の重鎮方の態度に、「側室」が日常的に蔑まれているのかわかる。
晴興が泉を側室にしなかったわけだよなあ。下級武家出身の晴興母でコレなら、農家の娘の泉では絶対ムリじゃろ……。
で、きゃびいがかっこいいだけに、あの情けない晴興父@あすと、どんな経緯で側室におさまったのか、またその夫婦生活を見てみたいっす(笑)。
レオ様がカッコよすぎてたまらん……。
青年期以降、モブとして村人にまざってるんだけど、とにかくかっこいい……美しい……なにあの神ビジュアル。
ひとこは3回目にしてようやく見つけた……。子役時代が別役者だと、モブと変わらんな、この役。
完全モブのレオ様や真地くんの方が目立つ。
翼くんは髪型似合ってない……(笑)。