本筋も場面構成も月組版と同じ。
なのにあちこち修正されて、良くなっている、雪組全国ツアー『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』。
オスカルの二人称、喋り方。
無神経発言のカット。
パリ進駐の心の在り方。
この3つの変化は、とても大きい。
でも、ここ以外もいろいろと修正されてたの。
大きく変わっているわけではなく、「明らかにおかしい」台詞ややりとりを、「さらりと流す」「短めにする」という技を使っているような気がした。
明らかにおかしくても、変えられない。だって植爺だから。『フェルゼン編』にメルシー伯爵のお説教場面が絶対あるように、百害あって一利なしでも、それを削ることが出来ない。
削れないならせめて、できるだけその場面や台詞には力を入れず、さらりと流す、短めにして「あるけど、目立たせない、気づかせない」方向で。そりゃあもお、全力で。
『オスカルとアンドレ編』でのメルシー伯爵ポジションは、ブイエ将軍。言ってることめちゃくちゃ。この人が出てくるだけで辟易する。
もともとひどい役なんだが、月組版は過去例がないほどひどいことになっていた。演じている人は大好きだったのに、役がひどすぎて正視に耐えなかった。
言葉のキャッチボールが出来ず、理屈も整合性もなくただ「女」を連呼してオスカルを罵る「道具」。
脚本を書いている人が、「オスカルを罵る役」が必要だと考えて「ブイエ将軍」を出したんだけど、オスカルというキャラクタの意義も人格も理解していないので、「罵り方が、わからない」。
キャラクタを理解してないと、それを的確に攻撃することもできないのよー。だからブイエ将軍の「言葉」には意味も脈絡もなにもない。
「オスカルを罵る」という事実を作るためだけに、原作の単語を拾って台詞を自動生成するbot、それが植爺作のブイエ将軍。
月組版のブイエbotの出来は過去最悪。
今回もアレと同じことをやるのか……と身がまえていたら、「やっていることは同じ」なのに、破壊力が少ない。
明らかに間違っている部分を、これでもかと熱演して傷を広げていた月組版と違い、間違ったところはさらーっと流してる!!
1幕の最後とか、ブイエ将軍のめちゃくちゃ理屈にポイントを置かず、それを華麗にかわすオスカルたちの方に目線を誘導してる??
そんな風に、あちこちある「おかしいところ」が目立たなくなっている。
細かいことだし、ささやかなことなんだけど、ストレス度合いが違ってくる。
なんだろ、いつもなら植爺が「これでもか!」と情熱をかけて大げさに芝居をさせる部分が、さらっと短く終わらされているの。
んで、植爺が張り切って描く部分って大抵間違っているから、そこを熱演されると作品もキャラの人格も破壊され、観ていて気分が悪くなるのね。
衛兵隊にひとりで乗り込み、隊士たちに反抗されたあと。心配して駆けつけたアンドレに対するオスカルの態度とか。
ここで「アンドレがいないと心細かった」とぐだぐだ語るオスカルって最低だったんだけど、「せっかく来てくれたことへの礼」レベルの受け止め方で先に進めてくれると、オスカルがキモチ悪くない!
アンドレの目が見えないとアランにばれる場面とかも、危惧したほどねっとりしてない。さらっと流すから、キモチ悪くない。
オスカルに心酔しているロザリーの描き方も、そのロザリーがオスカルのパリ進駐をやめさせたくてかけつけるところも、ロザリーがキモチ悪くない!
万事この調子っすよ。
「おかしい」のは確か。だって、月組版と同じ場面なんだもの。
「おかしい」モノなんか見せるな、まともなモノを見せろ……てのは、言っちゃいけない。植爺『ベルばら』は「おかしい」の。それは前提なの。尊師様のありがたい作品はそのまま上演しなくちゃいけないの。
おかしいところをなくすことは出来ない……だけど、それ以外の部分で全力のフォロー。少しでも「おかしくない、ように見える」ように。
全ツだから出来ることかも。
大劇場本公演は植爺の目が光っていて、「フォロー」すら許されないのかも。
過去に『ベルばら』全ツでは『ベルナール編』という奇跡の公演があった。外伝シリーズのラスト(最初の予定では)で、植爺が面倒になって手を離したのか、体調不良で製作にあまりタッチしなかったという噂通りなのか、まったくの別モノになっていた。
いやあ、いいっすねえ、全ツ。
植爺の目を盗んで、修正しまくり。
……そういうことなんじゃないの、今回も?
今回、演出家は谷先生だけど、谷先生は同時に『心中・恋の大和路』の演出もしているので、仕事量とお年を考えると、誰か別の人の力かと思っちゃいますわ。
だって明らかに、今までと違うんだもの。
もっとあとになれば、『ベルナール編』のときみたいに、「あれは演出助手のスズキくんが全部やったらしいよ」とか、噂が流れてこないかしら。
若手にまともな人がいるんだ!と、劇団に対して希望を持ちたい(笑)。
なのにあちこち修正されて、良くなっている、雪組全国ツアー『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』。
オスカルの二人称、喋り方。
無神経発言のカット。
パリ進駐の心の在り方。
この3つの変化は、とても大きい。
でも、ここ以外もいろいろと修正されてたの。
大きく変わっているわけではなく、「明らかにおかしい」台詞ややりとりを、「さらりと流す」「短めにする」という技を使っているような気がした。
明らかにおかしくても、変えられない。だって植爺だから。『フェルゼン編』にメルシー伯爵のお説教場面が絶対あるように、百害あって一利なしでも、それを削ることが出来ない。
削れないならせめて、できるだけその場面や台詞には力を入れず、さらりと流す、短めにして「あるけど、目立たせない、気づかせない」方向で。そりゃあもお、全力で。
『オスカルとアンドレ編』でのメルシー伯爵ポジションは、ブイエ将軍。言ってることめちゃくちゃ。この人が出てくるだけで辟易する。
もともとひどい役なんだが、月組版は過去例がないほどひどいことになっていた。演じている人は大好きだったのに、役がひどすぎて正視に耐えなかった。
言葉のキャッチボールが出来ず、理屈も整合性もなくただ「女」を連呼してオスカルを罵る「道具」。
脚本を書いている人が、「オスカルを罵る役」が必要だと考えて「ブイエ将軍」を出したんだけど、オスカルというキャラクタの意義も人格も理解していないので、「罵り方が、わからない」。
キャラクタを理解してないと、それを的確に攻撃することもできないのよー。だからブイエ将軍の「言葉」には意味も脈絡もなにもない。
「オスカルを罵る」という事実を作るためだけに、原作の単語を拾って台詞を自動生成するbot、それが植爺作のブイエ将軍。
月組版のブイエbotの出来は過去最悪。
今回もアレと同じことをやるのか……と身がまえていたら、「やっていることは同じ」なのに、破壊力が少ない。
明らかに間違っている部分を、これでもかと熱演して傷を広げていた月組版と違い、間違ったところはさらーっと流してる!!
1幕の最後とか、ブイエ将軍のめちゃくちゃ理屈にポイントを置かず、それを華麗にかわすオスカルたちの方に目線を誘導してる??
そんな風に、あちこちある「おかしいところ」が目立たなくなっている。
細かいことだし、ささやかなことなんだけど、ストレス度合いが違ってくる。
なんだろ、いつもなら植爺が「これでもか!」と情熱をかけて大げさに芝居をさせる部分が、さらっと短く終わらされているの。
んで、植爺が張り切って描く部分って大抵間違っているから、そこを熱演されると作品もキャラの人格も破壊され、観ていて気分が悪くなるのね。
衛兵隊にひとりで乗り込み、隊士たちに反抗されたあと。心配して駆けつけたアンドレに対するオスカルの態度とか。
ここで「アンドレがいないと心細かった」とぐだぐだ語るオスカルって最低だったんだけど、「せっかく来てくれたことへの礼」レベルの受け止め方で先に進めてくれると、オスカルがキモチ悪くない!
アンドレの目が見えないとアランにばれる場面とかも、危惧したほどねっとりしてない。さらっと流すから、キモチ悪くない。
オスカルに心酔しているロザリーの描き方も、そのロザリーがオスカルのパリ進駐をやめさせたくてかけつけるところも、ロザリーがキモチ悪くない!
万事この調子っすよ。
「おかしい」のは確か。だって、月組版と同じ場面なんだもの。
「おかしい」モノなんか見せるな、まともなモノを見せろ……てのは、言っちゃいけない。植爺『ベルばら』は「おかしい」の。それは前提なの。尊師様のありがたい作品はそのまま上演しなくちゃいけないの。
おかしいところをなくすことは出来ない……だけど、それ以外の部分で全力のフォロー。少しでも「おかしくない、ように見える」ように。
全ツだから出来ることかも。
大劇場本公演は植爺の目が光っていて、「フォロー」すら許されないのかも。
過去に『ベルばら』全ツでは『ベルナール編』という奇跡の公演があった。外伝シリーズのラスト(最初の予定では)で、植爺が面倒になって手を離したのか、体調不良で製作にあまりタッチしなかったという噂通りなのか、まったくの別モノになっていた。
いやあ、いいっすねえ、全ツ。
植爺の目を盗んで、修正しまくり。
……そういうことなんじゃないの、今回も?
今回、演出家は谷先生だけど、谷先生は同時に『心中・恋の大和路』の演出もしているので、仕事量とお年を考えると、誰か別の人の力かと思っちゃいますわ。
だって明らかに、今までと違うんだもの。
もっとあとになれば、『ベルナール編』のときみたいに、「あれは演出助手のスズキくんが全部やったらしいよ」とか、噂が流れてこないかしら。
若手にまともな人がいるんだ!と、劇団に対して希望を持ちたい(笑)。